詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ルーシー・ウォーカー監督「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(★★)

2018-08-08 21:09:51 | 映画
ルーシー・ウォーカー監督「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(★★)

監督 ルーシー・ウォーカー 出演 キューバの音楽家たち

 映画はむずかしいなあ。映画で「見る」のは何なのだろうか。前作は、キューバで生きつづけた音楽の力をなまなましく伝えていた。私は音楽には疎いので、キューバの音楽のことは何も知らなかった。だから、とてもおもしろかった。年をとっても音楽を生きている姿がかっこよかった。
 今回は、続編。もう死んでしまった人もいる。もちろん、その人たちの映像もある。でも、最後まで音楽といっしょに生きようとしている。
 それはそれで感動的なのだが。
 実は、いちばん興味深かったのは、音楽のシーンではない。オバマ大統領の発言だ。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」がホワイトハウスに招かれて、演奏をする。そのときオバマは20年前に彼らのCDを買った、というようなことを言う。そのとき「いまの若い人は知らないかもしれないけれどCDというのは丸い盤で……」。
 あ、そうなんだ。いまは音楽の媒体はもうCDではないのだ。(もちろんレコードでもない。)ネットでダウンロードする音源が主流なのだ。「もの」はどこにもなく、情報だけがある。
 これは、考えれば恐ろしい。
 それよりも、このオバマのことばを聞いた瞬間、私がなぜこの映画にのめりこめないかがわかった。
 音楽は、その音楽が実際に演奏されている「場」で体験しないと音楽にならないのだ。映画はさまざまなライブを再現してくれる。でも、それは、どうもスクリーンの外にまではみ出してこない。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のメンバーが音楽を生きているということは「頭」ではわかるが、どうも「実感」として感じることができない。遠いのだ。音楽というよりも、「情報」として見てしまう。こういう老人がいる。まだツアーをやっている……。
 うーむ。
 私は最近は音楽をまったくといっていいくらいに聞かない。街では若者が(そしてかなりの年配の人も)イヤホンで音楽を聞いている。私もiPodを持っていたが、あれで音楽を聞いて以来、どうも音楽になじめなくなった。音の善し悪しを聞き比べる耳をもっていないので、音質が気に食わないとかそういうことをいうつもりはない。ただ、耳をふさいで、音楽だけを聞くという感じが「肉体」にあわない。どうも楽しめない。聞いて何をしてるんだろう、と感じてしまう。何のために聞いているのか。こういう曲があるという「情報」のために聞いている気がしてきたのだ。
 あらゆるものが「情報」といえば「情報」になるのだが、それが気に食わない。「情報」以外のものがほしいなあと思う。
 思えばCDができたころから、妙だったなあ。レコード(LP)は針を落とすときぽつんとノイズが入る。LPの途中の曲を聞くときは、針を正確に落とすのに気をつかう。そこには何か「肉体」がかかわるものがあった。CDはスイッチ、リモコンを押す指くらいしか「音楽」に参加しない。便利といえば便利なのだが、あのころから私は違和感を感じ始めていたのかもしれない。
 あ、話がずれてしまったかなあ。
 この映画も、何と言うのか、その後の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」はどうなった?という「情報」を伝えることに終始している感じがする。
 「情報」をおもしろく感じないのは、「情報」は操作されている、という思いが強いせいなのか。
 (2018年08月08日、KBCシネマ2)



 *

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(31)

2018-08-08 09:42:33 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
31 光と闇

 「考える人(考えつつ語る人)」が主役。彼は「夏の光の中で」考え、語り続けているのだが。

語り疲れると 屋内の闇に帰っていくが そこは
考える空間ではない 子供が泣き 女が喚く場所
考える人が考えることを止め 汗まみれで眠りこけ
目覚めて ふたたび 考える人に戻るための

 この詩も理屈っぽいと私は感じる。「子供が泣き 女が喚く」は現実だが、ほかのことばには現実の実感がない。
 高橋が「考える人」と一体になっていない。
 客観的描写ということになるのかもしれないが、「傍観」とも見える。「考える人が考えることを止め 汗まみれで眠りこけ」には、肉体が感じられない。
 西脇順三郎は「旅人かへらず」の冒頭の詩で「考へよ人生の旅人」と書いた後、突然、

ああかけすが鳴いてやかましい

 という一行を書く。これは「かけす」の描写ではない。「状況」の説明でもない。「やかましい」と感じている「肉体」そのものの「実感」である。「肉体」という「事実」がことばになっている。
 思考を破って、肉体(聴覚)が叫んでいる。
 こういう対比(ぶつかりあい)がないと、思考は抽象に終わってしまう。



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