詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「詩はどこにあるか」7月号発売中

2018-08-12 19:44:22 | その他(音楽、小説etc)
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安藤元雄『「悪の華」を読む』

2018-08-12 19:34:16 | 詩集
安藤元雄『「悪の華」を読む』(水声社、2018年05月20日発行)

 安藤元雄『「悪の華」を読む』はタイトル通り、安藤がボードレールの『悪の華』をどう読んできたかを書いている。繊細な内容なので、私にはわからないことがたくさんある。
 第四章は「旅への《さそい》」。「旅へのさそい」をとりあげ、「微妙な異同」について書いている。「異同」はいくつかある。感嘆符が追加され、「ティレ(棒線)」が省かれる。それを取り上げて、安藤は、こう言う。

詩人自身が、一度は完成形として手放した作品を、制作当時とはいくぶん異なった角度から、あらたな相のもとに捉え直そうとする、微妙な意図の変化が感じられないだろうか。

 もちろん「意図の変化」があるから変えたのだろう。でもその「微妙」が、日本語でしか読むことのできない私には分からない。
 104ページには「文法用語」も出てくる。「条件法」「命令法」「直説法現在」などである。
 どんな国語でも、そのことばを離している人には「無意識」であっても、外国人には「意識」しないととらえることができないことばの動かし方がある。「意識化」するために文法用語があるのだと思うけれど、私はフランス語を知らないので、とても困ってしまった。
 安藤の書いていることは「正しい」のだろうと思うが、その「正しさ」を納得できない。
 音について書かれた部分も同じである。私はフランス語の音になじんでいない。ボードレールをフランス語で読んだこともない。そうすると、安藤の書いていることは「正しい」のだと思うけれど、「正しさ」を納得できない。
 これが、つらい。
 たぶんフランス語を知らない人にもわかるように、「正しい」分析をいくつも重ねる。「正しさ」が重なれば、それだけ論が「正しい」ものになっていく。
 しかし、これが「納得」に変わることはない。

 きっと「納得」というのは、違う反応なのだろう。「正しさ」にはこだわらないのだろう。もしかすると「間違っている」部分があるからこそ納得するということがあるのかもしれない。「正しさ」よりも、ぐいとひっぱっていく力が必要なのかもしれない。「正しさ」よりも、「ここが好き」という感情の動きの方が「納得」へと導くのだと思う。
 安藤もボードレールが好きなのだろうけれど、「好き」よりも「正しく」読んでいるという、その「正しい」が前面に出てくるので、フランス語を読めない私(フランス語でボードレールを読んだことのない私)は、なんとなく身を引いてしまう。
 安藤は学者なので、その「正しさ」は完結している。完結していて、矛盾がないということは、読んでいて「わかった」気になるが、だからこそ、困ってしまう。
 読んでいて、どきどきしない。
 この本を読みながら、どきどき、わくわくするためにはフランス語でボードレールを読めるようにならないといけないだろうなあ、と思う。
 「専門家」向きの一冊といえる。



*

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『悪の華』を読む (水声文庫)
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水声社
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(35)

2018-08-12 09:29:48 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
35 ドドナにて

おう ドードーナ ドードーナ
それは地名である以前に 烈しい風音

 「地名である以前に」の「以前」が重要だ。「名前以前」とは「名づけられる前」ということ。「名」として分節される前。未分節。つまり「無」の状態。そこではただ風が音を立てている。何かになろうとする動きが、そのまま風の激しさとして存在している。「名づけられる」前に、自ら「音」を発している。
 これは、こう言い換えられる。

風のみなもとはいつも おまえ自身の胸奥の 肉の鞴
肺胞の中の 湿った生臭い闇こそが ドードーナ

 「無」は「闇」と言い換えられている。それは「胸奥」にある。「肉体の奥」である。肉体は「形」だが、肉体という「形」の奥には、「形」にならずに動いているものがある。それは「動き」としか呼べない。「動き」とはエネルギーである。その「動き」を高橋は「鞴」と呼ぶ。その瞬間、「肉体」と「風」がひとつになる。「風」のような「動き」、見分けがつかない「動き」。「見分けがつかない」から「闇」なのだ。「見分けがつかない」けれど、それが「ある」ことはわかる。形にならない(無)が、見分けがつかないまま「ある」。
 この矛盾を、高橋は、真実と呼び、ことばをこう展開する。

その真実を あらためて識るために 旅人よ
海を渡り 幾つもの峠を越えて はるばると
この地の涯に おまえは来た

 「あらためて識る」というのは、「予感」として知っていたことを「ことば」にすること。ことばを確立し、「事実」にすること。
 この詩では「ドドナ」が「ドードーナ」と新たに言いなおされることで、「土地」と「人間」が一体になる。それは高橋の「肉体」がつかみ取った「事実」だ。
 「旅人」は、こうして「詩人」になる。


つい昨日のこと 私のギリシア
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