詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

犬飼愛生「ふつーのお母さん問題」

2015-03-26 10:56:13 | 詩(雑誌・同人誌)
犬飼愛生「ふつーのお母さん問題」(「別冊 詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 犬飼愛生「ふつーのお母さん問題」は子育ての悩み(?)のようなことを書いている。その真ん中あたり、3、4、5連。

子どもの精神的安定を母親にだけ求めるのはなぜですか?
お母さんにおっぱいが有るからというのが理由ならば、父親におっぱいを縫い付けられるようにしたいくらいです
人間の世界も、動物の世界も、いつも子どもらはお母さんが大好きということになっています
こういうことをいうのは男性ではなくて、むしろ女性のほうなのがまた苦しい
育児には正解がないから、みんな自分の育児を肯定したい。花丸をもらいたがるのはいつの時代も人間の性でしょうか

静かな夜で、まるで誰もいないみたいな夜
うちから、遠く電車の音が聞こえます

(お父さんという生き物はどんなことに悩んでいるのだろう)

 3連目は犬飼が思っていることを、思ったままに書いている。思ったままなのだけれど、「子どもらはお母さんが大好きということになっています」の「なっています」が微妙。そのことに対して「異議」をもっている。異議といっても、「なっているけれど、違う」というほどの異議でもない。「違う」とは積極的には言わないが、その意見にまるまる賛成というわけではない、というような感じ。それが「なっています」にこめられている。「なっている」というものの、それは「人間」がかってに「そうした」のである。何かが自発的に動いて「なった(能動)」のではなく、人間によって「された(受動)」の状態なのだ。それなのに、その「受動」(人間の使役)をあいまいに隠している。そのことに対して異議を言っているように感じられる。
 「こういうことをいうのは男性ではなくて、むしろ女性のほうなのがまた苦しい」。この行では、「ほうなのが」ということばのつかい方と「苦しい」が微妙でおもしろい。「ほう」というの漢字で書けば「方」であり、それは「方向」にも通じる「動き」なのだ。「比較」を表わしているのだが、その比較というのは「固定」されているというよりも動くことで見える何か。天秤ばかりでいうと、どこかの数字を指して傾いてしまうというよりも、揺れながら傾いている感じ。固定しているわけではなく、揺れているときも感じる「傾き」の、その「動き」のような感じ。どれだけ傾いているか、数字として表わせないけれど(調査した結果、そういう統計がでているという数字はないのだけれど)、どちらかへ傾こうとしていることが、その「動き」のなかでわかる。そういうあいまいな「実感」を含んでいる。こういう「実感」はしばしば「統計」の数字よりも納得できるものである。そして、これはあくまで「客観」ではなく「実感」なので、「実感」から出てくることばはどうしても「主観」になる。「苦しい」。
 そうか、「実感」と「主観」は、こういうふうな粘着力で結びつくのか、粘着力があるから手ごわいのか、とも思う。
 で、そのことをとてもおもしろいと私が感じてしまうのは。
 前の行「いつも子どもらはお母さんが大好きということになっています」では「なっている」という動詞のつかい方、働き方が客観的ではないのに「事実」のようにしてあつかわれることに対して「異議」を語っているのに、
 この行では「むしろ女性のほう」という「ほう」の非客観をもとにして「苦しい」という「主観」が動いていること。
 「子どもらはお母さんが大好き」というのは科学的/客観的な「事実」(統計学的な裏付けがあること)ではないのに、つまり、「主観」なのに、それを「事実」として肯定されてしまっていることに対して異議をとなえていたのに、今度は犬飼の側(方)、女性の側(方)という、これもまた「主観」にすぎないことを肯定して、主観「苦しい」という感情を主張している。

 いつでも、どこでも、人間の「主観」というものは動いてしまうものなのだ。「主観」は意思では動かせないもの、かってに動いてしまう「不随意筋」のようなものなのかもしれないなあ。

 そういう勝手な(?)「主観」のあと、

静かな夜で、まるで誰もいないみたいな夜
うちから、遠く電車の音が聞こえます

 という「描写」がやってくる。「描写」なので、「客観」のようにみえる。「静かな夜」は、たぶん「客観」。物音がしない。だから遠くの電車の音も聞こえる。この静寂と音の対比、音の伝達力は「客観」。「まるで……みたい」という「主観」を含むが、少なくとも、ここでは3連目の「主観」とは違った形でことばが動いている。「主観」を捨てて、ことばが動こうとしている。
 この「客観」を挟んで、

(お父さんという生き物はどんなことに悩んでいるのだろう)

 という疑問(主観の声)が書かれる。このときの、3、4、5連の変化のリズムがとてもおもしろい。3連目は「主観」がうごめいている。4連目は「客観」、そして5連目でふたたび「主観」に戻る。どうせ(?)主観に戻るなら、4連目の客観はなくても「意味/論理」は変わらないから、ない方がことばの経済学からいうと効率的だ。
 でも、そのことばの「経済学/効率」(むだなことは書かない)を貫くと、きっと

(お父さんという生き物はどんなことに悩んでいるのだろう)

 この一行の印象は弱くなる。あ、おもしろいという印象が弱くなる。
 ことばは、あちこちうろつきまわって、うろつくことで何かを探しているのかもしれない。うろつくことで刺戟を受けて、ことばは生まれ変わるのかもしれない。
 これは逆な見方をすると、ある「こと」を明確にするためには、余分なことを書かなければならないということかもしれない。ことばの不経済をくぐりぬけて、潜り抜けることで余分ものを捨ててしまって、その結果として、詩(印象的なことば)があらわれるということがあるのかもしれない。犬飼のことばはある意味で「だらだら」している。そのことばを定着させるというより、書くことで捨てる作業をしているのかもしれない。余剰を捨てることで核心にちかづくという方法なのかもしれない。

 このあとに、

あきらめたり、中断したりして、女たちは忍耐強く母親になっていく

 という行がある。その後、新しい展開もある。そのことや、「中断(する)」と母親に「なる」についてもいろいろ書きたいのだが、奇妙な繰り返しになりそうなので、きょうは保留。

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破棄された詩のための注釈(19)

2015-03-26 01:03:02 | 
破棄された詩のための注釈(19) 

「川」は何度もあらわれた。「水」を意味していたが、「流れ」を象徴することはなかった。むしろ「停滞」や「滞留」と同義であった。それは「深み」となる場合と、「嵩」となる場合があった。共通するのは「匂い」である。「川の匂い」。「匂い」とは、詩人にとって「厚み」をもった「層」のことでもある。そこから「断面」という展開が始まり、あるとき「水のはらわた」ということばとともに中断した、その詩。
                               もうひとつの
「川」は、それとは別のあらわれ方をする。
木々を逆さまに映していた川が、ビルの窓を逆さまに映す。
空の色を映している細長いビルの、四角い窓を。
昔書いた川の水は、やがてビルを逆さまに映すことを知っていたみたいだ。
そうでなければ、こんなに静かな夕暮れにならない。

「川」は何度もあらわれる。
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