詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

朴賢洙「カバンに手を突っ込むとき」(金貞仁訳)ほか

2015-03-13 12:14:44 | 詩(雑誌・同人誌)
朴賢洙「カバンに手を突っ込むとき」(金貞仁訳)ほか(「「孔雀船」85、2015年01月15日発行)

 朴賢洙「カバンに手を突っ込むとき」はことばの遠近感が自在でおもしろい。

カバンを開けると
沼のような青黒い深淵が揺らめく
あなたの手が
いくら深くかき乱しても
届かない闇がある

 2行目の「揺らめく」がおもしろい。「揺れる」だと重くなるが、「揺らめく」はどこかで軽い感じがする。私の印象では「きらめく」ということばと重なるものがあって、それが「青黒い」という色をつやっぽく感じさせる。その印象があるせいか、「届かない闇」ということばは、一種の「熱望の対象」のように響いてくる。わくわくするものがある。(後で引用する「子宮」につながる--と私は読むのだが……。)
 こういう感想は、私の思い違い(誤読)かもしれないが、この詩には、意味とは別の輝きがある。

渦巻きに呑まれて
時おり持ち物が消えてしまうそこ
一瞬手の甲が
ちがう虚空に浮いているようにひやりとするとき
ブラックホールの奥に
手を突っ込んで
宇宙の子宮を探っているあなた!

 「手の甲が」が「揺らめく」と同じように、とても印象に残る。「手が」だと、たぶん印象的ではない。「手」と「手の甲」は切り離せない。だから実際には「手」と書いても大差はないようだが、そうではない。「手の甲」という「部分」を明確に意識することが、感覚を鋭敏にする。「虚空」という抽象的なことばが「手の甲」と対等の「リアリティ」をもち、そのリアリティを「ひやり」という触覚が裏付ける。「手」だと、どうしても掌を思い出す。とくに、カバンをひっかきまわし何かを探しているのだから、それは掌の仕事であって、「手の甲」の仕事ではない。その「仕事」をしていない「手の甲」だからこそ、予想外の「ひやり」に驚く。
 ことばの細部が「真剣/正直」なのだ。
 「深淵」「ブラックホール」「子宮」がつながって、それが

届かない暗闇の中のどこかで
あなたの悲しみが
淡く光りそうだけれど

 と「悲しみ」ということばを引き寄せるのは抒情的だなあ。「淡く光りそう」の「光る」という動詞は、最初に指摘した「揺らめく/きらめく」とも、どこかで重なる。
 「わたし」ではなく「あなた」を主人公にして書いているのも、この詩では効果的だなあと思う。「抒情」がさっぱりする。「私」が主人公だとナルシズムになってしまう。

 「誕生」も「比喩」が「名詞」ではなく「動詞」として動いているので、誘い込まれてしまう。

遥かな道のりを歩み
赤ん坊が一人、我が家にやって来ました
渡すものがあるとでも言うように
両手をかたく握り締めて来ました
へそには
宇宙から落ちたばかりの
へその緒が
マクワウリノの帯のようについています
あの遥かな星よりも小さな
命だったものが
充満した水を渡って
いま、陸にあがりました

 2行目の「一人」が強い。赤ん坊なのに、もう独立している。この独立感が「渡すものがある」という「意思」を明確に伝える。「へその緒」と「宇宙」、「水(羊水)」と「陸」という明確な「距離」が「一人」の強さを引き立てる。「一人」、赤ん坊だけが、その両端を引き寄せ、つないでいる。見えないつながりの糸を、赤ちゃんが両手に握りしめている。その赤ん坊をとおって、私たちは宇宙へも海へももどることができる。もどって、もう一度「生まれる」ということを体験できる。
 赤ん坊がやってきたとき、朴もまた父親として「生まれる」のだ。



 尾世川正明「演技のためのエスキス」の「1 祈るための演技」におもしろい行が出てくる。

部屋のなかにガラスが割れて散らばっている
そこにはエミール・ガレやドーム・ナンシーの花瓶が
砕けて小さな破片となって混ざっているのかもしれない
寝台から降りてからだにシーツを巻いて歩き始める
痛みとともにはだしの足から流れる血はすこし音楽を含む

 2行目の固有名詞は気障な感じがするが、この気障を尾世川は詩と思っているかもしれない。4行目の「寝台」と「シーツ」ということばの遠近感(音の遠近感)もうるさい。私が気に入ったのは、5行目の「足から流れる血はすこし音楽を含む」。詩は、このあとも気障なことばをまきちらしながら動いていくので、そのなかで聞こえたはずの音楽がだんだん「雑音」のようになっていくのは残念だが、でも、それが尾世川にとっては「演技」というのものなのかもしれない。私は、芝居でも映画でも、着飾っていくのではなく、脱ぎ捨てていくのが演技だと思っているのだが……。

フラクタルな回転運動と彼の信念
尾世川正明
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之を読む(40)

2015-03-13 10:57:44 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
76 火喰鳥

 「火喰鳥」というのは、ダチョウのように飛べない鳥。ダチョウより小さい。嵯峨は、その鳥をどこで見たのだろう。直接見たことはなく、映像で見たのだろうか。日本にはいない鳥である。

中庭をぐるぐる廻つている火喰鳥を
羽根をすつかり毟りとられて裸になつている火喰鳥を
その薄桃いろの大きな火喰鳥を
ごむのように伸びあがり曲がりくねつて餌を拾う火喰鳥を
         (注・「毟りとられ」の「むしる」は原文では手ヘンがある。)

 何度も「火喰鳥を」を繰り返している。ひとことでは言い表せないほど、その姿に驚いたのだ。だから、これは形としては「繰り返し」になっているが、ほんとうはそうではない。そのつど、新しく「あらわれている」のである。描写するたびに、あたらしく「火喰鳥」は嵯峨の目の前にあらわれてくる。
 そうやって何度も何度もあらわれてくる「火喰鳥」を見ていると、嵯峨に変化が起きる。

ただうろうろと滑稽に生きている火喰鳥を
ああその火喰鳥を
その火喰鳥を笑いとばす小賢しき俺を消してくれ

 これは、どういうことなのだろう。
 「火喰鳥を笑いとばす小賢しき俺を消してくれ」の「消してくれ」は何を消してくれと言っているのか。文法的には「俺を」ということになるが、繰り返し「火喰鳥を」という行を読んできた後なので、「火喰鳥」を消してくれ、と書いているようにも思える。「火喰鳥」と「俺」が「一体」になっているように感じる。
 だから、次の行で

しかと俺の眼に触れるところで消してくれ

 と「消してくれ」の「目的語」が省略されたまま言いなおされるとき、それを「火喰鳥を」消してくれと読んでしまう。そう読むことで、さらに「俺」と「火喰鳥「が「一体」になる。だから、俺の眼に触れるところで、俺を、火喰鳥と一体になってしまった俺を消してくれ、と書いているようにも見える。
 うーん、何だか、「意味」が混乱するのだけれど、こういう混乱の体験が詩なのだ。たしかなものは何もない。何もないのだけれど、そこには何かがある。
 ここから、嵯峨は、強引にことばを動かしている。

それから始めてゆるやかに廻してくれ
俺の手のとどかない「時」の大きな重い軸を

 これは何だろう。わからない。嵯峨にもわからないことかもしれない。わからないまま、ことばをつかって、「思い/思考」をつくり出そうとしている。書くことで、それまで存在しなかった何かをあらわそうとしている。(最後の行の「時」は「詩」を感じさせるが、はっきりとはわからない。)
 この「強引さ」のなかに「現代詩」を感じる。
 私が、嵯峨の詩を読みきれていないというだけのことなのかもしれないが。

77 骨

なにもすることがないので
ぼくはぼくの頭蓋骨をとりはずしてみた
するとぼくはまつたく悲しくなつた

 これは「現実」を再現することばではない。現実には、こういうことはできない。
 そうすると、これは「でたらめ」なのか。
 そうとも簡単には言えない。
 ことばには、こういう「不可能」を「可能」にしてしまうことがある。ことばを動かして、ありえないものを考える。そのとき、それはことばといっしょに「生まれている」。ことばが「想像」をつくりだしている。「思念」をつくりだしている。
 こういうことばの運動が、「現代詩」ではよくある。
 ここに動いているのは、一種の「非常識」と言えるものだが、それを「悲しくなつた」ということばで、読者の知っている(知っているつもりになっている)感情へ引き寄せる。そこに嵯峨の詩の特徴があるかもしれない。
 「悲しみ」は、人間のだれもが知っている感情である。「悲しい」を説明しろといわれると、定義がむずかしいが、それは知りすぎているから逆に定義できないのだ。
 でも、嵯峨の感じている「悲しくなつた」は、私たちが感じている「悲しい」とはまったく違っている。だから、嵯峨は言いなおすことができる。

ぼくは慌ててまた頭蓋骨を嵌めてしまつた
かたりとにぶい音がして
もとのところに嵌まることは嵌まつたが
それからぼくはその異様な音を忘れることができない

 「かたりとにぶい音」。そして、その「音」とともにもとに戻ること。それは「悲しい」とどこかで通じている。頭蓋骨をもとにもどすことで「悲しくなつた」ぼくは「悲しくなくなる」とは言えない。その「音」を忘れられないように、あのときの「悲しい」も忘れることができなくなる。
 嵯峨は、ここでは、そういう「感情」をことばでつくりだしているのである。
 詩は感情を説明(描写)するのではなく、感情をつくりだしていくものなのだ。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破棄された詩のための注釈(9)

2015-03-13 01:34:29 | 
破棄された詩のための注釈(9)

ことばを書く人の役割について、彼はこう語ったことがある。「起きたこと、体験したことを報告するのではなく、言語によって紙の上にひとつの運動を描き出すのだ。」彼の傍には、黒い犬が「前脚を立てて座っていた。」橋の上だった。

「黒い犬」は「旅行鞄」の比喩だった。「言語」という厳しい音を教えてくれた人は、彼と同一人物だったか、本の中の別の人だったか、記憶が散らばってしまってよくわからない。「前脚を立てて座っていた」という一文には、「立つ」と「座る」という矛盾した動詞が共存しているから、「旅行鞄」には「出発」と「帰還」の二つの意味があると読むべきである。

「鞄」という古い文字の中には「包む」という動詞が隠れている。「旅」という文字は「放す」という文字と似ている。「包む」と「放す」は矛盾している。その矛盾の間を行き来するものは何か。

「どこにも行かない」ことこそ「旅」の本質である。「橋の上」に立って、左岸から来たのか、右岸から来たのか、左岸へ行くのか、右岸へ行くのか、考えるのは寂しい。その橋まで流れてくる間に、川は何度月に照らされ、何度月を映したか。「照らす」と「映す」は反対の運動ではないが「水面」の上で共存し、「去っていく」。そのようにして「行かない」と「去って行く」という矛盾と河の流れは交錯する。混乱し、思わず、目を閉じる。「逆さまに映った窓」を見ることもなく……。

男が目を閉じても風景は存在するか。同じように、本を閉じるように(窓を閉じるようにではなく)、目を閉じてその男を想像する。そのとき、読者のなかに男は存在するか。存在するとき、男と読者は「ひとり」に「なる」のか。どちらが、だれに近づくのか。「自分」を「失なう」のか。そんなつまらないことを、何本もの傍線を引いて「川」のなかに隠し(「川」という文字の中には三本の流れしかないが)、中断し、破棄された詩。

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする