朴賢洙「カバンに手を突っ込むとき」(金貞仁訳)ほか(「「孔雀船」85、2015年01月15日発行)
朴賢洙「カバンに手を突っ込むとき」はことばの遠近感が自在でおもしろい。
2行目の「揺らめく」がおもしろい。「揺れる」だと重くなるが、「揺らめく」はどこかで軽い感じがする。私の印象では「きらめく」ということばと重なるものがあって、それが「青黒い」という色をつやっぽく感じさせる。その印象があるせいか、「届かない闇」ということばは、一種の「熱望の対象」のように響いてくる。わくわくするものがある。(後で引用する「子宮」につながる--と私は読むのだが……。)
こういう感想は、私の思い違い(誤読)かもしれないが、この詩には、意味とは別の輝きがある。
「手の甲が」が「揺らめく」と同じように、とても印象に残る。「手が」だと、たぶん印象的ではない。「手」と「手の甲」は切り離せない。だから実際には「手」と書いても大差はないようだが、そうではない。「手の甲」という「部分」を明確に意識することが、感覚を鋭敏にする。「虚空」という抽象的なことばが「手の甲」と対等の「リアリティ」をもち、そのリアリティを「ひやり」という触覚が裏付ける。「手」だと、どうしても掌を思い出す。とくに、カバンをひっかきまわし何かを探しているのだから、それは掌の仕事であって、「手の甲」の仕事ではない。その「仕事」をしていない「手の甲」だからこそ、予想外の「ひやり」に驚く。
ことばの細部が「真剣/正直」なのだ。
「深淵」「ブラックホール」「子宮」がつながって、それが
と「悲しみ」ということばを引き寄せるのは抒情的だなあ。「淡く光りそう」の「光る」という動詞は、最初に指摘した「揺らめく/きらめく」とも、どこかで重なる。
「わたし」ではなく「あなた」を主人公にして書いているのも、この詩では効果的だなあと思う。「抒情」がさっぱりする。「私」が主人公だとナルシズムになってしまう。
「誕生」も「比喩」が「名詞」ではなく「動詞」として動いているので、誘い込まれてしまう。
2行目の「一人」が強い。赤ん坊なのに、もう独立している。この独立感が「渡すものがある」という「意思」を明確に伝える。「へその緒」と「宇宙」、「水(羊水)」と「陸」という明確な「距離」が「一人」の強さを引き立てる。「一人」、赤ん坊だけが、その両端を引き寄せ、つないでいる。見えないつながりの糸を、赤ちゃんが両手に握りしめている。その赤ん坊をとおって、私たちは宇宙へも海へももどることができる。もどって、もう一度「生まれる」ということを体験できる。
赤ん坊がやってきたとき、朴もまた父親として「生まれる」のだ。
*
尾世川正明「演技のためのエスキス」の「1 祈るための演技」におもしろい行が出てくる。
2行目の固有名詞は気障な感じがするが、この気障を尾世川は詩と思っているかもしれない。4行目の「寝台」と「シーツ」ということばの遠近感(音の遠近感)もうるさい。私が気に入ったのは、5行目の「足から流れる血はすこし音楽を含む」。詩は、このあとも気障なことばをまきちらしながら動いていくので、そのなかで聞こえたはずの音楽がだんだん「雑音」のようになっていくのは残念だが、でも、それが尾世川にとっては「演技」というのものなのかもしれない。私は、芝居でも映画でも、着飾っていくのではなく、脱ぎ捨てていくのが演技だと思っているのだが……。
朴賢洙「カバンに手を突っ込むとき」はことばの遠近感が自在でおもしろい。
カバンを開けると
沼のような青黒い深淵が揺らめく
あなたの手が
いくら深くかき乱しても
届かない闇がある
2行目の「揺らめく」がおもしろい。「揺れる」だと重くなるが、「揺らめく」はどこかで軽い感じがする。私の印象では「きらめく」ということばと重なるものがあって、それが「青黒い」という色をつやっぽく感じさせる。その印象があるせいか、「届かない闇」ということばは、一種の「熱望の対象」のように響いてくる。わくわくするものがある。(後で引用する「子宮」につながる--と私は読むのだが……。)
こういう感想は、私の思い違い(誤読)かもしれないが、この詩には、意味とは別の輝きがある。
渦巻きに呑まれて
時おり持ち物が消えてしまうそこ
一瞬手の甲が
ちがう虚空に浮いているようにひやりとするとき
ブラックホールの奥に
手を突っ込んで
宇宙の子宮を探っているあなた!
「手の甲が」が「揺らめく」と同じように、とても印象に残る。「手が」だと、たぶん印象的ではない。「手」と「手の甲」は切り離せない。だから実際には「手」と書いても大差はないようだが、そうではない。「手の甲」という「部分」を明確に意識することが、感覚を鋭敏にする。「虚空」という抽象的なことばが「手の甲」と対等の「リアリティ」をもち、そのリアリティを「ひやり」という触覚が裏付ける。「手」だと、どうしても掌を思い出す。とくに、カバンをひっかきまわし何かを探しているのだから、それは掌の仕事であって、「手の甲」の仕事ではない。その「仕事」をしていない「手の甲」だからこそ、予想外の「ひやり」に驚く。
ことばの細部が「真剣/正直」なのだ。
「深淵」「ブラックホール」「子宮」がつながって、それが
届かない暗闇の中のどこかで
あなたの悲しみが
淡く光りそうだけれど
と「悲しみ」ということばを引き寄せるのは抒情的だなあ。「淡く光りそう」の「光る」という動詞は、最初に指摘した「揺らめく/きらめく」とも、どこかで重なる。
「わたし」ではなく「あなた」を主人公にして書いているのも、この詩では効果的だなあと思う。「抒情」がさっぱりする。「私」が主人公だとナルシズムになってしまう。
「誕生」も「比喩」が「名詞」ではなく「動詞」として動いているので、誘い込まれてしまう。
遥かな道のりを歩み
赤ん坊が一人、我が家にやって来ました
渡すものがあるとでも言うように
両手をかたく握り締めて来ました
へそには
宇宙から落ちたばかりの
へその緒が
マクワウリノの帯のようについています
あの遥かな星よりも小さな
命だったものが
充満した水を渡って
いま、陸にあがりました
2行目の「一人」が強い。赤ん坊なのに、もう独立している。この独立感が「渡すものがある」という「意思」を明確に伝える。「へその緒」と「宇宙」、「水(羊水)」と「陸」という明確な「距離」が「一人」の強さを引き立てる。「一人」、赤ん坊だけが、その両端を引き寄せ、つないでいる。見えないつながりの糸を、赤ちゃんが両手に握りしめている。その赤ん坊をとおって、私たちは宇宙へも海へももどることができる。もどって、もう一度「生まれる」ということを体験できる。
赤ん坊がやってきたとき、朴もまた父親として「生まれる」のだ。
*
尾世川正明「演技のためのエスキス」の「1 祈るための演技」におもしろい行が出てくる。
部屋のなかにガラスが割れて散らばっている
そこにはエミール・ガレやドーム・ナンシーの花瓶が
砕けて小さな破片となって混ざっているのかもしれない
寝台から降りてからだにシーツを巻いて歩き始める
痛みとともにはだしの足から流れる血はすこし音楽を含む
2行目の固有名詞は気障な感じがするが、この気障を尾世川は詩と思っているかもしれない。4行目の「寝台」と「シーツ」ということばの遠近感(音の遠近感)もうるさい。私が気に入ったのは、5行目の「足から流れる血はすこし音楽を含む」。詩は、このあとも気障なことばをまきちらしながら動いていくので、そのなかで聞こえたはずの音楽がだんだん「雑音」のようになっていくのは残念だが、でも、それが尾世川にとっては「演技」というのものなのかもしれない。私は、芝居でも映画でも、着飾っていくのではなく、脱ぎ捨てていくのが演技だと思っているのだが……。
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