詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

モルテン・ティルドゥム監督「イミテーション・ゲーム」(★★★★)

2015-03-18 22:06:23 | 映画
監督 モルテン・ティルドゥム 出演 ベネディクト・カンバーバッチ、キーラ・ナイトレイ、マシュー・グード

 イギリスは「個人主義」の国だ。「秘密」があるからこそ「個人」なのだ、という考えが徹底している。「秘密」は、それをその人が語らないかぎり、わかっていても「事実」にはならない。
 わかりやすい例でいうと、この映画の主人公はホモセクシュアルである。そして、それはだれもが感じているを通り越して、知っている。知っているけれど、それを主人公が自分で言わないかぎり、それは「事実」にならない。主人公の「秘密」のままである。そういう意味から言えば、イギリスはまた「言語」の国である。ことばにしないかぎり、どんなことも存在しない。主人公が「私はホモセクシュアルである」と言わないかぎり、彼はホモセクシュアルではない。ことばを通して「事実」が生まれる。
 逆の例は、主人公の少年時代のできごととして描かれている。彼には親しい友人がいた。唯一の友人といっていい。だれもが二人が親しいことを知っている。二人がいっしょに行動しているのを見ている。けれど、その友人が死んだとき、主人公は「彼は友人ではない」と言う。そうすると、それを聞いたひと(校長)は、それを「事実」として受け入れる。死んだ少年と主人公は「友人ではない」を受け入れ、主人公がそういうことで隠した「秘密(心情)」をなかったものとする。「ことば」が「事実」をつくっていく。
 こういう「ことば」の国だからこそ、この映画は「真実味」が深くなる。「実話」に基づく映画なのだが、アメリカやフランスが舞台では、同じことを描いても、こんな緊迫感は出て来ない。アメリカもフランスも「秘密」を認めないし、「ことば」と「事実」の関係も、該当者個人が自分のことばで語るかどうかとは直接結びつかない。
 ちょっと、前置きが長くなったかもしれないが……。
 この「秘密」をもった主人公が、ナチスの暗号解読に取り組む。「暗号」は「秘密」を隠した「言語」である。表面的な表現の裏に、別の「言語」が隠されている。その「秘密」はナチスによって共有され、ナチスにとって「事実」である。けれども、それを解読できない連合国軍(イギリス)にとっては「事実」ではなく、「なぞ」。「事実」は存在しない。
 どうやって「秘密」を暴くか。「秘密」を手に入れるか。いちばん簡単なのは、その「秘密」を知っているひとと個人的に接触し、親しくなり「秘密」を聞き出すことである。「秘密」を共有することである。--これは、もちろん、できない。できないことはないかもしれないが、主人公は、そういう方法をとらない。
 「暗号」を受信し、解読している機械(暗号で結ばれた機械)と接触するための機械をつくる。人間を相手にしない。機械には機械の「言語」がある。その「言語」を手に入れ、機械に接触する。これは、いわば、機械に「恋愛」をさせ、恋人になった「機械」から「秘密」を聞き出すという方法なのだ。スパイが「色仕掛け」で情報を収集するように、「機械」に「色仕掛け」で迫る。--そんなふうには、映画は説明していないけれど、まあ、そんな感じだ。
 それが証拠に、というと変だが、暗号伝達/解読機(エニグマ)の「論理」を解く手がかりとなったのは、ドイツ人の「恋人」への呼びかけだった。暗号の前に、不必要な恋人の名前をつけるドイツ人がいる。それを傍受している女性が、「彼には恋人がいる」と直観する。その「ことば」を手がかりに、主人公たちは「暗号」とは別の「意味」のあることばを探す。「ハイル・ヒットラー」。どの暗号文にもくりかえし出てくるそのことばこそが、機械と機械を結び「鍵」だったのだ。
 「ハイル・ヒットラー」という「ことば」を通じて、エニグマと主人公がつくり出した「機械」は「一心同体」になる。「恋愛関係」を通り越して、もう「夫婦」のようなものになる。「秘密」がなくなる。
 いやあ、これはぞくぞくするなあ。うっとりするなあ。「2001年宇宙の旅」で「ハル」がメモリーを一個ずつ抜き取られていくとき、「デイジー」の歌を歌う。だんだんテンポが遅くなり、音が低くなる。あれは、いわばコンピューターと人間の「恋愛関係」が破綻する状況を描いていて、私は思わず「ハル」に対して、がんばれ、もっとがんばれと応援してしまう方なのだが、あのシーンを見たときのように、どきどきしてしまった。機械が「ことば」を通してセックスしている。セックスしながら、絶頂の寸前に「それで、あのことは?」と聞きたい「秘密」を聞き出すような感じ。「秘密」がどんどんなくなり、相手の言うがままになっていく、そんな感じ。
 クライマックスがあくまで「人間的」なのだ。
 さらに、その解読した「暗号」をどうやって「実践(戦争)」に生かしていくか。ここにも「秘密」がある。「暗号」を解読している(してしまっている)とナチスにわかってしまっては、解読した意味がない。解読できていないふりをして、解読した一部だけを活用する。つまり、救えたはずの命をときには見殺しにして、戦争終結のために何が重要かを判断しながら行動する。こんな「秘密」は、見殺しになったひとからすれば許されないことかもしれないが、そういう「秘密」を貫かないことには戦争に勝てない。勝てたかもしれないが、長い時間がかかる。「秘密」があることがイギリスの力であり、その「秘密の力」ゆえにイギリスはナチスに勝てた。イギリスの「秘密主義(個人主義)」が勝利のポイントなのだ。(この「事実」さえ、長い間「秘密」だった。)
 こういう大きなストーリーの一方で、主人公の「秘密(ホモセクシュアル)」、それを知りながら恋愛をつらぬこうとする女(同時に暗号解読の協力者)、さらに秘密を知っているソ連のスパイ、同性愛を違法行為としてしている法律を絡めて描き出す。「暗号解読」という「事実」だけではなく、それにかかわった「人間」の「事実」として描き出す。主人公を、少年時代、暗号解読時代、戦後とつないで描くことで、そこに「人間」を浮かび上がらせる。孤独のなかで、機械と交流し、機械と機械の「恋愛」を成功させた人間を浮かび上がらせる。悲しみと、愉悦と、苦悩を浮かび上がらせる。「語られなかった」物語を語る「ことば」として浮かび上がらせ、それを「事実」にする。
 「思いがけない人間が、思いがけないことをする」というようなことばが何回か繰り返され、それがこの映画のキーワードにもなっているが、思いがけない人間である主人公は、「数学者」なのか、「暗号解読の天才」なのか、「犯罪者」なのか。どの「ことば」を選ぶかによって主人公の「事実」は違ってくる。何を「事実」にするかは、観客に任されている。そういう映画だ。イギリスならでは、という印象が残る映画だ。
 映像に触れなかったが、映像もきわめてイギリス的な美しい色調。主人公のつくる機械(一種のコンピューター)さえ、イギリスにしかないような堅牢な、時間を感じさせる。新しいものなのに、そこに過去からの情報を蓄えているような色合い。機械自体が「秘密」によって動いているという、何か動物のような印象を呼び覚ます色で、とてもおもしろかった。
 すべてを「秘密」にしてしまうベネディクト・カンバーバッチの演技もすばらしかった。「秘密」が最初から最後まで、つまり「秘密」が公にされたあとまで、「秘密」だったのだということを主張する強い演技だった。主人公は「秘密」を生きたのだ。その「秘密」は彼といっしょに生きた人間だけが知っている「事実」なのだ。そういうことを納得させる強さで貫かれていた。
                        (天神東宝6、2015年03月18日)







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草野早苗「星降る」、江夏名枝「赤城神社マルシェ」

2015-03-18 10:46:59 | 詩(雑誌・同人誌)
草野早苗「星降る」、江夏名枝「赤城神社マルシェ」(「交野が原」78、2015年04月01日発行)

 草野早苗「星降る」はインドを旅行したときのことが書いてあるのだろう。ラクダが出てくる。書かれていないが砂も出てくる(と思って読んでいる)。ホテルに帰って、

首筋や髪やひかがみにくっついてきた
父や母や祖父や祖母を
わずかな水でていねいに洗濯し
遠くまでロープを渡して
木製の洗濯ばさみで留めてゆく
(金属は錆びるし、プラスチックはすぐに劣化する)

 首筋や髪についてきたのは、砂ぼこりかもしれないし、インドで見た風景そのものかもしれない。それは「父や母や祖父や祖母を」を思い出させる。つまり「いのち」の連続を思い出させる。「いのち」がどこまでもつながっていく土地がインド。そういう「哲学/思想(?)」と、洗濯をするという「日常(旅のなかの日常)」が重なり、さらに洗濯ものを干すロープは浴室を越えて、日本での洗濯の日常にまでつながっていく。「日常」がずるずるとつながり、「いま/ここ」がインドでありながら「日本」にもなってしまう。それが、とてもおもしろい。
 洗濯ばさみは「金属は錆びるし、プラスチックはすぐに劣化する」。日本にいて、洗濯が毎日の仕事ならそういうことは重要だが、旅先では洗濯ばさみの材質なんて問題ではない。ホテルにあるものをつかうだけだ。毎日、それをつかうわけではないのだから。でも、日本での「日常」を思い出し、旅先でも洗濯ばさみの材質を気にかけてしまう。そして、たぶん、母か祖母から聴いた洗濯ばさみへのぐち(?)を思い出して、それをくりかえしてしまう。そのとき草野は草野なのか、母なのか、祖母なのか。だれでもない「日本の女性/洗濯をする人間」の「いのち」になっている。
 洗濯をしたから、そうなったのか。それだけではないだろう。どこかにインドへ来て、インドで体験したことが、いま思い出す必要のないことを思い出させているのだと思う。「いのち」がどこまでもつながっていくインドだから、草野は草野自身のなかにある「いのちのつながり」に揺さぶられているのだ。
 そのあと駱駝を思い出し、駱駝を句(?)を書いて……、

急に立ち上がった駱駝が
右前脚と右後ろ脚を同時に
左前脚と左後ろ脚を同時に出す歩き方をするものだから
ひとこぶがフニフニと揺れ

 あ、ここがいいなあ。
 「いのちのつながり」などというちょっと面倒くさいことを書いてしまったが、そういう面倒を吹っ飛ばしてしまう「現実」。ふつう動物は(人間は)歩くとき、前右足(人間なら右手)と左前足が同時に出る。そうやってバランスをとっている。緊張すると(人間の場合)、右手と右足がいっしょに出たりする。(子どもの行進だね。)そうすると、からだのバランスがおかしくなって、揺れる。駱駝もそうなのだ。私は駱駝に乗ったことはないが、乗っていればとても揺れるだろう。「ひとこぶがフニフニと揺れ」は「事実」なのである。その「事実」を「肉体」で直接感じている。
 そして、そういう「事実」、草野にはどうすることもできない「他者(駱駝)」の事実が、草野の考えていたことを揺さぶる。「いのちのつながり」と私が仮に呼んだ「哲学」が揺さぶられる。そんなものを考えるよりも、駱駝の歩き方とこぶの揺れ方の方が大事である。うっかりすると落ちてしまうから。
 で、懸命に駱駝にしがみつく。

ロープで止められた父や母や祖父や祖母が
ソヨソヨとそよぐ
私もさびしくなって
ロープで懸垂しながら
ソヨソヨソヨとそよぐ
星降る

 あるいは洗濯物を干していて、それが風にそよぐのを見たとき、駱駝の背で揺られたことを思い出したのかもしれない。現実の、生きている「いのち」にからだごと揺すられ、観念ではなく肉体そのものが、そこに「ある」という事実に揺さぶられたということなのかもしれない。
 草野にはどうすることもできない(草野の意思では制御できない)何か、たとえば駱駝の歩き方のようなものが、「絶対」的存在として草野の「思考」をたたきこわす。つるされた洗濯物のように、揺すられてしまう。「揺れる」その肉体、「揺れる(明確に思想として言語かできない)」その思い。
 そういう「何か」があるとき、そういう草野の「何か」とは無関係に、空には星。星が降っている。非情だなあ。非情だから、美しい、としか言いようがない。それを発見する。
 「それを」と書いたが……。「それ」とは何か。星か。違うなあ。「駱駝の揺れ」か。両親や祖父母との「つながり」のことか。言い換えると「いのち」のことか。違うなあ。違うけれど、それだなあ。あるときは両親や、祖父母。あるときは洗濯物/洗濯ばさみ。あるときは駱駝(の歩き方と、こぶの揺れの関係)。それが、瞬間瞬間にあらわれてくることが、この「世界」なのだ。ひとつに「固定できない」。
 駱駝の歩き方とこぶの揺れがいちばんていねいに書かれている。脚の動きとこぶの揺れが連動している。「関係している」。たぶん、その「関係」のようなものが、すべての「事実」の出発点なのだろうなあ。そこにあるのは「もの/こと」ではなく「関係」。それは草野と駱駝、草野と両親・祖父母、草野とインドという具合に「二者」のあいだの「関係」だけではなく、「駱駝」という「ひとつの肉体」のなかにもある「関係」なのだ。世界は、きっと駱駝の歩き方と揺れのように「ひとつの肉体」のなかの「関係」なのだ。その「ひとつの肉体」のなかにある「関係」が、遠い空の星を見た瞬間、強烈な「孤独(さびしさ)」となって、そこに出現する。「星降る」という短いことばで。ほかに補うことのできない「真実」として。

 私は私のことばがうまく動かないので、長々と書いてしまうが、これでは草野の詩を壊してしまうことになる。ただ草野の詩の全行を引用し、駱駝の三行と「星降る」の一行が強くつながっている。その強さが詩だ、と言えばよかったのかもしれない。
 (書いてしまったことは、私は書き直さない。書くことで、そういうことばにたどりついたのだから。)



 江夏名枝「赤城神社マルシェ」はタイトルの「マルシェ」が気に入らない。市場? 蚤の市? 露店? まあ、そういう「日本語」がごっちゃになった「場」を指しているのだろうけれど、外国語(フランス語?)を持ち出すなんて、めんどうくさいなあ、と思う。日本語で書いてよ、日本語の詩なのだから、と思いながら読む。

鳥居をくぐる 晴れた休日のマルシェ
生姜のシロップ漬 チョークで手書きの看板
真冬の肌荒れには枇杷葉のオイル
足の向くまま もとめるひと

ビスケットがひとの手に渡るのを見ていると
わたしは何をはぐらかせてきたのか、
コートのボタンを指でつまんだ

なにも欲しくなくなった もう欲しくない
もうずっと ここへ来る前から
なにも欲しくない

 一連目はことばが多くて、うるさい。めんどうくさい。けれど、二連目がいい。「ビスケット」が簡単だし、「手に渡る」という動きが簡単だ。ビスケットがひとの手に渡るとき、何かが江夏の「肉体」にも手渡され、それを受け止めたのだ。それは「わたしは何をはぐらかせてきたのか、」というあいまいな表現でしか書かれていないが、あいまいだから、それを知りたいという気持ちになり、そういう気持ちになったとき、それが何かわからないまま、私もやはり「何か」を手渡されたのだと気づく。「手に渡る/手渡す」という「動詞」が「何か」を私の「肉体」のなかにつくりだす。
 それは「わたしは何をはぐらかせてきたのか、」の最後の読点「、」のような呼吸かもしれない。この詩のなかで、読点「、」は一回だけ書かれるのだが、その「、」の呼吸のようなものが、「肉体」を強く刺戟する。江夏の「肉体」を直接見ている、あるいは江夏の「肉体」になってしまって、その「、」の呼吸、その断絶をはさんだあと「コートのボタンを指でつまんだ」と肉体が動くとの持続(連続)が、あ、こういう瞬間は「肉体」にあるぞ、そういうことおぼえているぞ、と感じさせる。自分で自分をごまかして(はぐらかせて)いたとたに気がつき、はっと、別なことをしはじめる。そういうことが、「肉体」そのものの記憶として、からだの奥からあらわれてくる。
 何かわからないが、たしかに、ある。
 その「肉体」が、三連目「なにも欲しくなくなった」とという気持ちの変化にかわるのも、とてもおもしろい。「肉体」で感じた何かが、欲望(気持ち)を変えていく。何かが欲しくてきたわけではない。欲しいものがないことは知っていた。その知っていたことを、思い出し、それが「なにも欲しくなくなった」に変わる。
 「肉体」が動いている、「肉体」のなかで感情が動いているのが、映画のアップを見るようにつたわってくる。

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破棄された詩のための注釈(13)

2015-03-18 01:37:37 | 
破棄された詩のための注釈(13)

「唇」ということばがあった。「少し歪んだ」ということばがあった。「唇は少し歪んだ」と書くことも、「少し歪んだ唇」と書くこともできた。その通りのウィンドウをちらりと見たとき、その「ことばになりきれない唇」をみつけたのだった。詩人よりも前にそこを通りすぎただれかがウィンドウのなかに隠したものなのだが、それをウィンドウのなかから取り出してきて顔の上におけば、きっと「きょう」こそ「欲望」が実現するだろうと思った。「舌が動き、そこから欲望が誘い出される。」

「欲望は彼にとっては抽象的だった。」空白を三行挟んだあとの、二連目の書き出しの一行は、もし詩が発表されていたならば誹謗、侮蔑の対象になったかもしれない。安易な読者は、ことばと事実を取り違える。自分の知っている事実をことばに押しつける。けれど、その一行は違う「意味」なのである。
「欲望」ということばは一般的に「死」とは同義ではないが、彼にとっては「同じ関係」からあらわれてくることばである。つまり、この一行は「死は彼にとっては抽象的だった。」と書き換えることができる「比喩」なのだ。「一度も経験していない」。だから「死」と同じように抽象的。それがあることは知っている。知っているけれど、一度も経験していない。だから「抽象」と呼ばれる。
このわかりにくい注釈は、その詩が破棄された時に書かれていたメモからの引用したものである。

「過去」とは思い出すたびに変わってしまうものであり、それは「未来」よりも不確定な時間である。詩人はウィンドウを通りすぎなかった。あの界隈へは行かなかった。かわりにウィンドウのなかで、長い間、「唇」に「唇」を重ね合わせていた。あまりに長い時間、重ね合わせていたので、二つの影はまったく別なものになってしまった。似通ったところを互いに消しあい、それから忘れようとした。




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