監督・脚本 トム・マッカーシー 出演 リチャード・ジェンキンス、ヒアム・アッバス、ハーズ・スレイマン、ダナイ・グリラ
たいへん静かな映画である。9.11以後のアメリカ(国家)に対するアメリカ人(個人)の、静かな静かな抗議である。
主人公は大学教授。マンハッタンのアパートに帰ってみると、見知らぬ男女が住んでいる。彼はいったん彼らを追い出すが、住む家がないと知ると、再びアパートを提供する。見知らぬ人でも危害を加えないなら、そして困っているなら受け入れる。彼が、なぜそんな寛容な生き方ができたのか。そのバックボーンがきちんと描かれるわけではないが、彼がしめした態度は、アメリカ合衆国の基本的な姿勢ではなかったか。どのような国からのひとも受け入れる。そうやって成長してきたのがアメリカだったはずである。
それが9.11以後完全に変わった。異質の人間を受け入れない。悪意がないと分かっていても受け入れない。アメリカへ逃れてきた人の事情にはいっさい考慮せず、法にのっとっているかどうかだけを判断の基準にする。もちろん法にしたがって判断するのは重要なことだけれど、そこには釈然としないものが残る。
法にのっとっていない、だからテロリストの可能性がある。それが中東の人間ならなおさらである。――そういう判断が動くとき、そこに差別意識が侵入してくる恐れがある。不寛容が人間を偏狂にしてしまう恐れがある。
主人公の大学教授は音楽を、ジャンベを通して「不法侵入」の青年とこころを通わせる。青年は大学教授を、老いているからと見下したりしない。そんな年になって、ジャンベを勉強したって無意味――というような判断をしない。(大学教授がピアノのレッスンを受けていた時、教える女性は、彼を子供扱いする。「手の形は、トンネルのように。列車が手のひらのトンネルを通りぬけられるように」と子供が喜びそうな比喩で説明する。――大学教授は、この説明に傷つく。「年をとってから上達はしない」ということばよりも。)
大学教授は、次第にジャンベの楽しさにのめりこんでゆく。
そこへ、突然の青年の逮捕。地下鉄に無賃乗車しようとした――という理由で。ちゃんとパスを持っているのに。そして、そこから身分の追及が始まり、不法入国の事実が分かる。入管センターに拘置され、シリアに送還されてしまう。
大学教授は青年が音楽を愛する善良な人間であることを知っていながらなにもできない。
国家の不寛容に対して無力であることを知る。それは絶望といってもいい。
ジャンベをたたいているとき、教授は青年ととけあっている。いっしょに公園でジャンベをたたいているとき、教授は、まわりの人たちのことを何も知らない。青年以外の奏者の名前を知らない。何語を話すかも知らないだろう。けれどうちとけて、同じリズムを共有し、楽しんでいる。時間がたつのも忘れてしまう。(これが地下鉄の逮捕劇につながるのだが・・・。)そういう「音楽」のような融合、信頼の絆――それはアメリカの理想であったはずだ。
その理想を、いま、アメリカという国家が暴力的に破壊している。そして、その破壊を一般の市民は止める手段を持たない。その絶望と、絶望の中での、国家への抗議。
教授は、ラストシーンで、地下鉄の駅でひとりジャンベをたたく。青年が教えてくれた音楽の喜び。愛した妻とのピアノを手放しても平気なくらいのこころの安定を得た。そのこころを支えてくれた青年を国家が奪っていく。――それに対するかなしい抗議。
彼のジャンベに耳を傾ける人はいない。無関心な市民がホームにいるだけだ。国家への抗議であると同時に、無力な市民への抗議も、ここにはこめられている。
せめて、そのジャンベの音が、シリアへ送還されていく青年の記憶に、夢に届くようにと祈らずにはいられない。青年が、いつか、どこかで、教授がきっとホームでジャンベをたたいているに違いないと夢見るように祈らずにはいられない。
*
大学教授を演じたリチャード・ジェンキンスの静かな動きがとても気持ちがいい。ジャンベにのめりこんでゆくときの無邪気な表情、公園でのセッションに、ためらいながら、参加し、見知らぬひとと同じリズムを作り出していく楽しさ。それと対照的な、入管への怒り。青年の恋人や、青年の母親への思いやりの表情。どんなときも、暴走しない落ち着きがある。その静けさが、国家の暴走を、逆に静かにあぶり出す。
そして。
あ、音楽はいいな、としみじみ思う。私は音痴だし、楽器もなにもできない。しかしあの教授がやれるなら、何かやれるかもしれない、という「おまけ」の夢も、この映画からもらった。
たいへん静かな映画である。9.11以後のアメリカ(国家)に対するアメリカ人(個人)の、静かな静かな抗議である。
主人公は大学教授。マンハッタンのアパートに帰ってみると、見知らぬ男女が住んでいる。彼はいったん彼らを追い出すが、住む家がないと知ると、再びアパートを提供する。見知らぬ人でも危害を加えないなら、そして困っているなら受け入れる。彼が、なぜそんな寛容な生き方ができたのか。そのバックボーンがきちんと描かれるわけではないが、彼がしめした態度は、アメリカ合衆国の基本的な姿勢ではなかったか。どのような国からのひとも受け入れる。そうやって成長してきたのがアメリカだったはずである。
それが9.11以後完全に変わった。異質の人間を受け入れない。悪意がないと分かっていても受け入れない。アメリカへ逃れてきた人の事情にはいっさい考慮せず、法にのっとっているかどうかだけを判断の基準にする。もちろん法にしたがって判断するのは重要なことだけれど、そこには釈然としないものが残る。
法にのっとっていない、だからテロリストの可能性がある。それが中東の人間ならなおさらである。――そういう判断が動くとき、そこに差別意識が侵入してくる恐れがある。不寛容が人間を偏狂にしてしまう恐れがある。
主人公の大学教授は音楽を、ジャンベを通して「不法侵入」の青年とこころを通わせる。青年は大学教授を、老いているからと見下したりしない。そんな年になって、ジャンベを勉強したって無意味――というような判断をしない。(大学教授がピアノのレッスンを受けていた時、教える女性は、彼を子供扱いする。「手の形は、トンネルのように。列車が手のひらのトンネルを通りぬけられるように」と子供が喜びそうな比喩で説明する。――大学教授は、この説明に傷つく。「年をとってから上達はしない」ということばよりも。)
大学教授は、次第にジャンベの楽しさにのめりこんでゆく。
そこへ、突然の青年の逮捕。地下鉄に無賃乗車しようとした――という理由で。ちゃんとパスを持っているのに。そして、そこから身分の追及が始まり、不法入国の事実が分かる。入管センターに拘置され、シリアに送還されてしまう。
大学教授は青年が音楽を愛する善良な人間であることを知っていながらなにもできない。
国家の不寛容に対して無力であることを知る。それは絶望といってもいい。
ジャンベをたたいているとき、教授は青年ととけあっている。いっしょに公園でジャンベをたたいているとき、教授は、まわりの人たちのことを何も知らない。青年以外の奏者の名前を知らない。何語を話すかも知らないだろう。けれどうちとけて、同じリズムを共有し、楽しんでいる。時間がたつのも忘れてしまう。(これが地下鉄の逮捕劇につながるのだが・・・。)そういう「音楽」のような融合、信頼の絆――それはアメリカの理想であったはずだ。
その理想を、いま、アメリカという国家が暴力的に破壊している。そして、その破壊を一般の市民は止める手段を持たない。その絶望と、絶望の中での、国家への抗議。
教授は、ラストシーンで、地下鉄の駅でひとりジャンベをたたく。青年が教えてくれた音楽の喜び。愛した妻とのピアノを手放しても平気なくらいのこころの安定を得た。そのこころを支えてくれた青年を国家が奪っていく。――それに対するかなしい抗議。
彼のジャンベに耳を傾ける人はいない。無関心な市民がホームにいるだけだ。国家への抗議であると同時に、無力な市民への抗議も、ここにはこめられている。
せめて、そのジャンベの音が、シリアへ送還されていく青年の記憶に、夢に届くようにと祈らずにはいられない。青年が、いつか、どこかで、教授がきっとホームでジャンベをたたいているに違いないと夢見るように祈らずにはいられない。
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大学教授を演じたリチャード・ジェンキンスの静かな動きがとても気持ちがいい。ジャンベにのめりこんでゆくときの無邪気な表情、公園でのセッションに、ためらいながら、参加し、見知らぬひとと同じリズムを作り出していく楽しさ。それと対照的な、入管への怒り。青年の恋人や、青年の母親への思いやりの表情。どんなときも、暴走しない落ち着きがある。その静けさが、国家の暴走を、逆に静かにあぶり出す。
そして。
あ、音楽はいいな、としみじみ思う。私は音痴だし、楽器もなにもできない。しかしあの教授がやれるなら、何かやれるかもしれない、という「おまけ」の夢も、この映画からもらった。