『旅人かへらず』のつづき。
「洋服に下駄をはいて黒いかうもりを/もつた印度の人が歩いてゐる」の「行わたり」がとても印象に残る。学校文法では「洋服に下駄をはいて黒いかうもりを/もつた印度の人が歩いてゐる」になる。どこが違うのか。「意味」は同じである。「音楽」が違う。
私が特に感じるのは「黒いかうもり」という「音」の美しさである。この音の美しさは「黒いかうもりをもつた」と続いてしまうと死んでしまう。「も」という音が近すぎるからである。
「も」が改行されて、行の冒頭にくるとき、そこに強いアクセントがくる。(これは、私の場合であって、ほかのひとは違うかもしれない。)そして、「もつた」の「も」に強いアクセントがくると、それに引きずられるようにして「黒いかうもり」の「も」の音が記憶のなかでよみがえり、ふつたの「も」が「和音」となって響く。
「白いかうもり」や「赤いかうもり」ではなく「黒いかうもり」であることも重要だ。「黒いかうもり」は、私にはとても美しい音に聞こえる。そして、その音は「もつた」と切り離されながら、同時に呼び掛け合うときに、さらに美しく響く。
この詩には、イメージ自体の美しさ、「バツト」(たばこだろう)を買う印度人、洋服に下駄という不釣り合いなものの出会いの驚き、その驚きのなかの詩もあるけれど、私には、そうした異質なものの出会いという要素は、「黒いかうもり」という音の美しさに比べると、とても小さな部分しか占めない。
四四
小平村を横ぎる街道
白く真すぐにたんたんと走つてゐる
天気のよい日ただひとり
洋服に下駄をはいて黒いかうもりを
もつた印度の人が歩いてゐる
路ばたの一軒家で時々
バツトを買つてゐる
「洋服に下駄をはいて黒いかうもりを/もつた印度の人が歩いてゐる」の「行わたり」がとても印象に残る。学校文法では「洋服に下駄をはいて黒いかうもりを/もつた印度の人が歩いてゐる」になる。どこが違うのか。「意味」は同じである。「音楽」が違う。
私が特に感じるのは「黒いかうもり」という「音」の美しさである。この音の美しさは「黒いかうもりをもつた」と続いてしまうと死んでしまう。「も」という音が近すぎるからである。
「も」が改行されて、行の冒頭にくるとき、そこに強いアクセントがくる。(これは、私の場合であって、ほかのひとは違うかもしれない。)そして、「もつた」の「も」に強いアクセントがくると、それに引きずられるようにして「黒いかうもり」の「も」の音が記憶のなかでよみがえり、ふつたの「も」が「和音」となって響く。
「白いかうもり」や「赤いかうもり」ではなく「黒いかうもり」であることも重要だ。「黒いかうもり」は、私にはとても美しい音に聞こえる。そして、その音は「もつた」と切り離されながら、同時に呼び掛け合うときに、さらに美しく響く。
この詩には、イメージ自体の美しさ、「バツト」(たばこだろう)を買う印度人、洋服に下駄という不釣り合いなものの出会いの驚き、その驚きのなかの詩もあるけれど、私には、そうした異質なものの出会いという要素は、「黒いかうもり」という音の美しさに比べると、とても小さな部分しか占めない。
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