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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(27)

2009-07-14 07:02:05 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

二三
三寸程の土のパイプをくはえた
どら声の抒情詩人
「夕暮のやうな宝石」
と云つてラムネの玉を女にくれた

 どんな音が好きか--というのは難しい問題かもしれない。たとえば、この「二三」。私は「どら声」という音が好きである。けれども、次の行の「夕暮のやうな宝石」という音はどうにもなじめない。
 この4行は、私には、好きになれない4行である。

二五
「通つて来た田舎道は大分
初秋の美で染まりかけ
非常に美しかった
フォンテンブローで昼飯をたべたので
巴里に着いたのは午後になつた」
とある小説に出てゐるが、
死んだ友人にきかしたら
うれしがつて
何かうにやうにや云つたことだらうが

 書き出しの3行の音と、最後の行の音がずいぶん違っている。そして、そこに違いがあることが楽しい。
 6行目の読点「、」で音が転調している。この一瞬の呼吸、読点「、」の無音は、この部分では一番美しい「音」になるのかもしれない。この無音があってはじめて最終行のやわらかな音が崩れつづける感じがおもしろくなる。「が」で中途半端に終わる感じが、無音の呼吸を求めているようで、不思議に楽しい。





西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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宮田浩介『Current 』

2009-07-14 02:46:40 | 詩集
宮田浩介『Current 』(思潮社、2009年06月10日発行)

 宮田浩介『Current 』は音が美しい。英語の詩と日本語の詩(対訳)が載っている。私は英語が読めないので、日本語の部分だけを読んだ。
 「Current 」のⅠ、途中ロシアの文字が出てくるが私のワープロでは文字が入力できないので、その部分は「ルビ」にしたがってカタカナで引用しておく。

夜の内陸はまるで海のように継ぎ目なく
その広がりにどの地名も思うだけ大きく浮かびあがる--
音の確かさとともに道路と森は流れる。

この半球に新たな夏がきて、知らず知らず
俺は呟いている、ア スコーリカ チェベー リェート?--だがこの場所に
答えは無く、ギアを変えてその問いをやり過ごす。

ふと延びる草原は不思議に明るく、ふたたび
松林になればあたりの夜は暗い。「鹿道、」俺は言い、
だが彼らの身投げにどう向き合うかわからない。

この半島には馴染みがない。ずっとそうだろう。
けれど見覚えのある場面に身体は震えるだろう、いつか二度目の
来る日には。ライトの先、星ひとつない夜空の

青が広がる。その下にはまたほかの道がある。
そしてほら、エンジンはおれのかまどの髪(ヘスティア)、連れ出されて燃え続ける。
ダイオードの呼吸--向こうで蛍が光っている。
  (谷内注・ 5行目「ア スコーリカ チェベー リェート?」がロシア文字)

 3行目の「音の確かさ」は地名のもっている「音」のことだろうと思う。「地名」は「土地」(空間)に属さず、音に属している。この感覚が夜の内陸を、くぎりのない「海」にする。そこには、空間の区切りがなく、ただ音が存在している--いや、この私のとらえかたは、宮田のことばの動きの順序からいうと逆になるから正しくはないのだろうけれど、一方で、そういう順序を超越して存在するのが「音」なのかもしれない。
 「音」の占めている空間の「領域」を国境線のように描くことはできない。それは、海のようにつづいていて、気がつくと、陸にに接している--という具合なのだ。

 広い広い空間、区切りのない空間に「音」が孤立して存在している。--それを感じながら、宮田は車で(?、ギアでから連想するのだが)走っている。それは、きっと窓のない車というか、オープンな車である。空間を直に感じる車であるに違いない。そして、その空間の直接性が、「音」の孤立をくっきりと浮かび上がらせる。
 その「音」の孤立を感じながら疾走するとき、宮田もまた孤立しているかもしれない。だれともつながっていない。けれども、そのときの絶対空間といえばいいのだろうか、音以外のものを拒絶して、国境のような境界線を無視して存在する「空気」とだけ触れ合っている。この、空気とだけ接触している感じが、「音」を美しくしている要素かもしれない。

 孤立して、けれども、きっちり屹立している音。

 宮田は、そのとき「音」そのものになっている。詩は、音でできている、ことばは音でできている--そういうことを教えてくれる詩だ。

青が広がる。その下にまたほかの道がある。

 この1行の、音の美しさ。「ほかの道」とは「ほかの音」と、私には、おなじものに感じられる。「音」が宮田を誘っている。
 最終連は、音が、光にかわっていく。そのときの聴覚と視覚の融合--その融合のなかで人は「孤独」から解放されるのか、あるいは感覚の融合のなかでさらに孤独になるのか--たぶん、どんなふうに書いても、それは同じことなのだろう。融合した感覚のなかで、宮田は生まれ変わるのだから……。

青が広がる。その下にはまたほかの道がある。
そしてほら、エンジンはおれのかまどの髪(ヘスティア)、連れ出されて燃え続ける。
ダイオードの呼吸--向こうで蛍が光っている。

 「エンジン」の剥き出しの音。だれにも頼らず孤立した、そのエンジンの音の透明さ。強さ。それは炎になり、呼吸(息)になり、そのとき遠くで(向こうで)蛍が光る--ああ、美しいなあ。エンジンの音に包まれる。エンジンの吐き出す呼吸にエンジンの音が「声」となる。その「声」が、孤立した光「蛍」を見る。
 目が見るのではなく、声そのものが見る螢だ。



 ふと、帯を見ると、「そしてほら、……」からの2行が引用されていた。そして「バイクにまたがって」と書いてあった。あ、オープンカーではなくバイクか。どうりで空気につつまれるわけだ、と納得した。
 納得して、いっそう、宮田のことばの音の美しさに引き込まれた。



Current
宮田 浩介
思潮社

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