『旅人かへらず』のつづき。
九
十二月になつてしまつた
名越の山々の
麓を曲る小路に
はみ出た蒼白の岩かどに
海しだの墨色(すみいろ)のみどり
ふるへる
たんぽぽの蕾
あざみの蕾
書き出しの「なつてしまつた」の音が私はとても好きである。「なつた」ではなく「なつてしまつた」。促音「っ」が重なることで、何か距離ができる。「った」「った」と繰り返されることで、一回の「った」よりも遠くへ放り出された感じがする。
そして、その遠く離れた場所から、もと(?)の場所へ近づいて行くときの、そのリズムが好きである。「名越の山々の」で繰り返された「の」が、次々にくりかえされる。「の」を経由しながら、近づいて行く。そして、その「の」の小路(こみち、ではなく、しょうじ、と私は読みたい)の、繰り返される「曲る」という行為--それがおもしろい。
直線的に進むのではなく、ことばは「の」を経由しながら曲がりつづける。
そこには「墨色のみどり」というような、えっ、どっち?といいたくなるような「色」まで出てくる。それは、ことばが曲がった拍子に、曲がり切れずにカーブで逸脱した「色」である。
いったんことばが逸脱すると、それはさらに逸脱する。
たんぽぽの蕾
あざみの蕾
十二月に、なぜ、そんなものがある?
ここに書かれているのは「現実」ではない。ことばが動いていって、無意識につかみ取った「音楽」なのである。
「たんぽぽ」の「ぽ」という音、半濁音が、必要だったのだ。
なぜ、それが必要か。そんなことは、わからない。「ふるへる」の「は行」の動きから「たんぽぽ」の「ぽ」、「蕾」の「ぼ」へと動いていくとき、喉や唇が楽しい。「意味」ではなく、ただ音が楽しい。(その音の楽しさのなかに、何か「意味」があるかもしれないけれど、私は、それについては考えない。--考えてもわからないことは、私は考えないことにしている。)
このあと、詩は、さらに動いていく。「たんぽぽの蕾」「あざみの蕾」へと逸脱したことを忘れたかのように、「十二月」に戻っていく。
砂に埋もれ
小さい赤い実を僅かにつけた
やぶかうじの根
苔と落葉の中にふるへる
この山々の静けさ
早く暮れる日影を拝む
「やぶかうじ」という音が楽しい。この「やぶかうじ」にかぎらず、西脇はこのころ「旧仮名遣い」でことばを書いている。そこには「文字」と「音」の「ずれ」がある。「文字」は、「文字」それ自身の「音」ではなく、隠れている「音」をひきだしてくる。
そのとき、何か不思議な「音楽」がはじまる。--それが「ふるへる」。そして、それが「静けさ」(静か)なのだと思う。
「やかましい」ではなく、「静けさ」の「音楽」がそこにあると思う。
最終行の「日影」も「日の影」ではなく、「日の光」という意味での「影」だろう。「ひかり」ではなく「かげ」というときの音の静かさ・美しさ、そして濁音独特の落ち着き--そういうもののすべてが「音楽」である。
西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章太田 昌孝風媒社このアイテムの詳細を見る |