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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鶴亀算

2018-09-07 10:34:57 | その他(音楽、小説etc)

 鶴亀算。鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は24本。鶴は何羽? 亀は何匹?
 こういう問題を解くとき、小学校低学年では「鶴亀算」をやる。
 全部鶴だと仮定する。そうすると12羽になる。ここから7をひく。残りが5。5が亀の数。残り2が鶴。5×4+2×2=24。

XとYをつかう方法もある。Xが亀、Yが鶴なら。
X+Y=7と、4X+2Y=24、Y=7-X
4X+2Y=24 のYにY=7-Xをあてはめて、
4X+2(7-X)=24という式に変換する。
4X+14-2X=24
4X-2X=24-14・・・・2X=10・・・X=5 
いわゆる「連立一次方程式」だね。

 で、何がいいたいかというと。

 最近の多くのひとは、こういう計算を自分でしない。
 「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は24本。鶴は何羽? 亀は何匹?」という問題に出合ったら、それをそのままネットで検索する。答えは亀5匹、鶴2羽と出ている。それをそのまま自分の答えにしてしまう。途中を省略する。つまり、考えない。

 これからが問題。
 「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は23本。鶴は何羽? 亀は何匹?」そういう質問だったら、どうする? 
 いくつかの答えがあるだろうと思う。私は、とりあえず、二つくらいを考える。
(1)先生、この問題間違っています。ひとは誰でも間違えるからね。
(2)一匹の亀が足を一本なくしていた、ということも考えられる。現実は、すべてが知っている通りにはできていない。

 必要なのは「答え」を出すことではない。
 疑問を持つこと。考えること。
 きちんと用意された質問にはいつも「答え」がある。それは誰が解いても同じ答えになる。
 でも、現実は「用意された質問」ではできていない。
 そのとき、どうやって考えるか。
 ネットに「答え」なんか、載っていない。
 ほんとうの「問題」はいつでも個人的(個別的)で、「答え」も個別的だからだ。

 「完成された答え」を探してきても何の役にも立たない。それは「他人の答え」。いいかえると「他人にとって都合のいい考え」。現実では、いつも自分で「答え」を引き受けるしかない。
 
 こんなふうに考えてみよう。
 ペットに亀を飼っている。そのうちの1匹は事故で片足をなくしてしまった。そのとき、その亀は、あなたにとって亀ではないのか。もしかするといちばん大事な亀かもしれない。その1匹のことを「排除」して、「現実」を考えることができる?
 もしだれかが、「足が一本足りないから、それは亀じゃない」と言ったら、あなたはどう思う?
 どうやって「現実」を引き受ける?

 論理がずれている?

 いや、私は「ずらしている」のだ。「ずらした部分」に私の言いたいことがある。




追加すると、こういうこと。
先生、私は家で亀を飼っています。
一本足がないんです。
でもとても大切な亀なんです。
この亀のために、「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は23本。亀の一匹が事故で足をなくしました。でも、いっしょに遊びたいと言っています。鶴と亀は、何匹(何羽)かな」という質問をつくってもらえませんか?

この問題は「算数」を超えている?
でも「現実の算数」は、常に「頭の算数」を破っている。
破れ目に、どうやって「死文の算数」を組み込ませるか。
これが重要。

あらゆるところに「現実の問題」があふれている。
自分にとっての「事実」から「現実」を見つめないと、何も始まらない。



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高橋弘希「送り火」

2018-08-13 13:29:59 | その他(音楽、小説etc)
高橋弘希「送り火」(「文藝春秋」2018年09月号)

 高橋弘希「送り火」は第百五十九回芥川賞受賞作。
 父親の転勤にともない青森県に転校する中学生が主人公。最後に思わぬ暴力にまきこまれるまでを描いている。ウィリアム・ゴールディングの「蠅の王」が意識されているのかもしれない。でも、暴力(野蛮/野生)の持つ「魔力(愉悦)」のようなものが書かれていないので、最後の「暴力」が飛躍しすぎていて、納得できない。それまでの過程が長すぎる。時間経過が、まるで「日記」のように順序立っていて退屈である。
 どうして、こんな作品が芥川賞?
 選評を読んでみた。宮本輝が「描写力」ということばをつかっている。高樹のぶ子は「的確な文章力」という。奥泉光は「二十世紀零年代に成立した日本語のリアリズムの技法・文体をわがものとして、描写、説明のバランスを的確にとりながら奥行きある小説世界を構築できる力量」と評価している。
 でも、たとえば、どの文章が「描写力」をあらわしている? どの文章が「二十世紀零年代に成立した日本語のリアリズムの技法・文体」なのか。具体的に書かれていないので、さっぱりわからない。
 書き出しにこんな文章がある。

左手には山裾の森が続き、右手には乾いた畑が広がる。畑の畝には、掘り上げた馬鈴薯が一列に並んで野晒しになっていた。その馬鈴薯の表面の土も、もう白く乾いて砂になっている。瞼へ落ちかかる汗を手の甲で拭うが、次の汗が目に入り滲みる。瞼を擦りどうにか目を開けると、路傍の祠の銅板葺きの屋根が太陽を弾いて瞳を射た。(323ページ)

 ていねいに描かれている。しかし、わざわざ「描写力」と呼ぶようなものではないと思う。どこにも新しさがない。既成の作家の、山里(?)の夏の描写に出てきそうなことばばかりである。「写実」になっていないというのではない。「写実」でありすぎる。確立された既成の文体でしかない。
 それよりも、私には、読んだ瞬間いやな気持ちになることばづかいがあった。

歩も輪に交ざっていたゆえに、歩の手許にも札が配られていた。(330ページ)

歩は書記であったので、皆の考えを要約して黒板に板書していたゆえに、議論がどういう方向へ流れているのか把握しやすかった。(334ページ)

困惑している内に、手許には二枚の札が配られていた。故に歩は晃の薬指を見逃した。(352ページ)

 「ゆえに(故に)」ということば。意味はわかるが、こんなことばをいま、だれがつかうのだろう。主人公の中学三年生がつかうことばには思えない。(数学の証明問題を解くときはつかうかもしれないが。)
 高橋の文章にげんなりするのは、描写(文章)というよりも、「論理」の問題かもしれない。「文章の構造」が古くさい。「ゆえに」という論理展開が古くさい。たんに古いのではなく、「学んだ」古さである。誰かが、そういう文章を書いていた。あ、こういうときは「ゆえに(故に)」ということばをつかうのだ。理由を説明するのに便利だ、と思い、それに寄りかかっているということだろう。

 で、この既成の「論理」への「寄りかかり」を問題にすると。
 この小説の構造そのものへの疑問にも通じる。都会の少年が田舎(自然があふれる土地)の少年と交流することで、知らず知らずに田舎の少年のもっている暴力にのみこまれていくという「構造」自体が、私には既成のものに思える。
 いまなぜ「自然」なのか。少年の暴力を描くにしても、なぜ「都会」を舞台にしなかったのか。都会には「都会の野蛮(野生/自然)」はないのか。人間の創り出した野蛮(暴力)がはびこっていないのか。
 そんなことはない。人間がいるところ、どこにでも野蛮がある。人間がつくりだしたものも、「自然」となって、それ自体の力で自己拡張し、暴走する。なぜ、それを高橋は書かないのか。なぜ、「自然が豊か」な田舎を舞台にするのか。
 簡単に言えば、「都会」の内に潜む「自然」を描写する能力が高橋にはないからだろう。「都会」の、都市機能を内部から支え、突き動かしているものを描写した文章は少ない。高橋はまだそういう文章を多く読んでいない。だから、「学ぶ」ことができなかった。また、それを自分で発見し、書こうともしていないということだろう。
 自然を描写した文章なら、たくさんある。だれもが自然を描写してきた。人間の支配が及ばない何かに触れ、人間の隠されている「自然」が出てきてしまうという作品もたくさんある。「野生」の目覚め、その愉悦と陶酔。だから、そういうものに寄りかかっているのだと思う。寄りかかっているかぎり、「文体」は崩れない。乱れない。だからといって、それが「描写力」をもっているとは言えないだろう。だれも描かなかったものを捉える一行があれば別だが、どの選考委員も具体的な「一行」をあげていない。高橋の文章に「オリジナル」を発見していない。それなのに「描写力/文章力」と批評している。いいかげんすぎる。

 この小説は、書き出しの部分をのぞくと、あとは「1」「2」「*」「4」と時系列どおりに話が進んで行く。まるで中学生の「日記」のようである。時系列の変化を自然描写で補足している。その「補足」に濃淡がない、というもの、なんだか気持ちが悪い。季節の変化、自然の変化を「的確」に「描写」しながら、その描写した「自然」から何も受け取っていない。主人公の意識の変化につながっていない。これでは、なんのために自然を描写しているのかわからない。
 主人公を突き動かすのは、納屋で見つけた木槌の「豊かな沈黙」ということばである。(他にも、土地の「ことば」に反応するところがある。)「豊かな沈黙」ということばを農家の人が木槌に刻み込むとは思えないが、(少なくとも百姓であった私の両親は、そういうことばをつかわない)、こんな一度も会ったことがない他人が残した「ことば」に心境の変化を語らせるのも、非常にうさんくさい。もっとも、「借りたことば」に自分を代弁させるという意味では、他の自然描写とかわりがないかもしれない。高橋が自分で発見したことばがない。すでにあることばを借りてストーリーが動いていくだけなのだ。
 しかも、小説の最後の「暴力」と、この「豊かな沈黙」が重ならない。私は、最後の「暴力」に「豊かな沈黙」を感じることはできない。「豊かな沈黙」は思わせぶりな、お飾りである。何の批評でもいいが、ある批評を読むと、そこにときどき外国の流行概念(キーワード)のことばを借りてきて、そのことばをつかっているからその批評には意味があるという感じで書かれた文章を読むことがある。そのキーワードのつかい方に似ている。「豊かな沈黙」ということばをつかっている。「豊かな沈黙」の意味をつかみきれないのは、筆者ではなく、そのことばを他の文章で読んだことがない読者のせいだ。私(高橋)は正しい指摘をしている、それがわからないのは「豊かな沈黙」について考えたことがない読者が悪いのだ、と言っているみたいだ。
 こんな、ある意味では手垢のついたことばにだまされて(幻惑されて?)、芥川賞に選ぶなんて、ひどいなあ、と思う。「豊かな沈黙」に感動したのなら、その「豊かな沈黙」が他の部分でどう実現されているか、その実現と主人公の意識の変化とどう関係しているか、そういうことを語らないと批評(選評)にはならない。小川洋子、私が批判しているは、あなたのことです。



 都会の見えない論理を的確に描いた作品に、村田沙耶香の「コンビニ人間」がある。コンビニに入ると聞こえる「音」を的確に描き、コンビニを「自然」のように成長、発展させている。「音」がコンビニを不気味に育て上げている。その「音」によって主人公は「コンビニ人間」として無意識の内に育てられていく。「コンビニ人間」に育ってしまう。人間が作り上げたものの勝利と、人間の敗北が、くっきりと描かれている。それを基底で支えるのが、「音の発見」であり、「音を描写する文体」である。
 



*

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送り火
クリエーター情報なし
文藝春秋
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「詩はどこにあるか」7月号発売中

2018-08-12 19:44:22 | その他(音楽、小説etc)
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福岡県警で体験したこと

2018-07-21 12:25:32 | その他(音楽、小説etc)

 5月下旬、福岡市天神の歩車分離交差点(岩田屋、ビオレの対向二車線の交差点)を自転車に乗って渡った。そのとき福岡市中央警察署の交通指導課の職員(三人いたが、責任者はM)に停められ、反則キップを切られた。歩行者の前を横切って、歩行者の歩行を邪魔した。危険行為である、とのことである。まわりの歩行者から「危ない」とかの注意を受けたわけではない。私は自分自身の身の危険を心配するタイプだから、人が近いと止まる。でも、背後を見て運転しているわけではないし、横断歩道を自転車を引かずに渡ったのは事実なので、指導を受けながら、反則キップというものを切られた。
 氏名、年齢、住所、連絡先、職業を聞かれた。身分証明書の提示を求められた。私は目が悪いので運転免許証をもっていない。健康保険証でいいか、と確認して保険証を提示した。
 それから約五十日後。今週の火曜日の昼過ぎ。Mから自宅に電話があった。「健康保険証では身分証明にならないので、顔写真付きのものが必要。さらに住所確認のために公的機関が発行している郵便物も必要」という。
「パスポートならある。パスポートには住所も書いてある」
「手書きのものは、だめ。公的機関が発行している郵便物が必要。いつ中央署来れるか」「郵便物は探してみないとわからない。今週中に行くようにする」
「木曜日に来れないか」
「わからない」
「金曜日には行けると思う」
「金曜日は休みだ。木曜に来れないか」
「わからない。金曜の二時までには行く」
(最後のやりとり、「木曜日に来れないか」は何回かくりかえした。)

 水曜日に時間がとれたので、中央署に行った。そのとき、疑問に思っていたことがあったので、尋ねた。疑問は二点。
(1)なぜ、一か月半以上もたって、こういう連絡があるのか。ほんとうに必要なものなら、すぐに必要とわかるはずだ。
「仕事が多くて、時間がかかってしまった」
 どんな仕事の処理をしているか知らないが、反則キップが要件をそなえているかどうか、点検するのに一か月半かかるとは信じられない。これから先、仕事はどんどん蓄積して雪、処理できないものが出てくるのではないか。
(2)なぜ、写真付きの身分証明書が必要なのか。反則キップを切ったとき、保険証を提示し、警官はそのメモをとっていたし、写真も撮っている。印鑑がわりに指紋押捺もしている。
「顔写真がないと本人かどうか確認できない。住所を確認できない」
「写真は、反則キップを切ったときに撮っている。家に電話をしてきて、それに応じて警察署へやってきている。顔もおなじだろう。それで十分ではないか。もし、免許証と同じように、顔写真と住所が明記された証明書が必要というのであれば、それを明示している文書を見せてほしい」
「文書はない。常識だ。住所の確認ができない」
「住所の確認ができないというのであれば、自宅へ来たらどうですか? 私がほんとうに住んでいるかどうか、確認したらどうですか?」
 郵便物なら借りてくることもできるから、私はそう質問した。すると「約束は金曜日だ。きょうは水曜日で約束と違う。きょうは私(M)は休みだ。前もって、来ると電話連絡したか」という。たしかにMは、ブルーの制服ではなく、白いカッターシャツを着ていたが、休みであるかどうかは、確認していない。(中央署についてから、私がMと会うまでには十五分もかかっていない。Mがどこに住んでいるか、私はもちろん住所を知らないが、呼び出されて出てくるには、あまりにも短い時間である。)
 それで、金曜日に出直すことになった。ばかばかしいが、こういう対処の仕方が警察(お役所)ということなのだろう。
 (この間に、「私は横断歩道を自転車に乗って渡ったが、歩行者のじゃまをした意識はない。歩行者の誰からも抗議を受けてもいない。歩行者と私の距離はどれくらい離れていたのか」「一㍍くらいだ」というやりとりがあった。私は目がよくないので、他人の間をすりぬけるということはしない。一㍍では、自分自身に危険を感じ、すり抜けない。でも、そこで目が悪いというようなことを言うと、「目が悪いのに横断歩道を自転車で走るのか」と言われそうなので、それは言わなかった。)

 金曜日。もう一度、同じやりとりをした。
「なぜ顔写真付きの身分証明書が必要なのか。保険証ではだめなのか」
「保険証の住所は手書きだし、保険証が本人のものであるかどうか顔写真がないとわからない。他人のものかもしれない」
 つまり、私が他人の保険証を盗み、もっていると疑っているわけである。
「疑っているわけではないけれど、他人のものを盗んでもっているひともいる可能性はある」
 これって、ふうつの感覚では盗んだものをもっていると疑っていることになる。警察では「疑っているわけではないけれど」と前にことばをつければ、疑ったことにはならないらしい。
「保険証を提示したとき、メモを取っていた。保険証の発行先に確認したのか」
「確認していない」
 なにもせずに、一方的に保険証は窃盗した可能性がある。だから顔写真付きの身分証明書を提示しろ、ということである。
 それに関する「運用の決まり」については、あいかわらず説明がない。
 いったい「反則キップ」に何を書いたのか。私はキップを切られたとき、特に気にもしなかったが、気になったので、「あのとき作成した反則キップを確認したい。見ることができるか。見せてほしい」と言った。身分確認をどうやってしたか、それをどう記入しているか知りたかったからである。
 「もってくる」とMはその場を離れたが、もどってきたときは上司らしき人と一緒で、もちろん反則キップはない。何も書かれていない状態の反則キップの束をもっていた。

 (なんだ、これは。)

 それからのやりとりは、Mは状況の補足説明がもっぱらで、上司が相手。
「なぜ顔写真付きの身分証明書でないとだめなのか」
「人物が特定できない」
「もし、免許証もパスポートももっていないとどうするのか」
(返事がない。)
「マイナンバーカードか」
(返事がない。私の質問の意味がわからなかったみたいなので、つけくわえた。)
「写真付きのマイナンバーカードをもっていないひとは、それを発行してもらってから、身分証明書にするということか」
「そうだ」
「発行には時間がかかるが、それまで確認を松ということか」
 これには明確には答えで、
「顔写真と住所をその場で確認できればいい」
「公的機関の発行した住所のわかるもの、郵便物が必要というのはなぜか」
「パスポートがあればいい。」
「公的機関の発行した郵便物と二種類必要だ念を押された。役所の発行している郵便物をすぐに見つけ出せるかどうかわからない。だから、いつ行けるかすぐにはわからないと答えた」
「パスポートがあればいい。二種類と伝わったのは説明の仕方が悪かったのかもしれない役所ではなく、電気やガスの郵便物でもいい」
「電気、ガスは企業でしょ? 公的機関ではない」
「公的機関に準じる」

 これはしかし二重に奇妙な論理である。パスポートは外務省が発行している。しかし、発行段階では住所は無記名である。住所は自分で書く。私の保険証も、住所は私の手書きである。そして保険証は会社が発行しているものだが、保険の運用には国家財政も絡んでいるのではないか。それが認められないのはなぜなのか。どうやら、ほんとうの住所かどうかは問題にしていないように感じられる。
 しかも、反則キップを切られたとき、私はすでに自転車と一緒に写真を撮られている。何がほんとうに必要なのか。何を求めているのか。なんだか、ばからしくなった。で、以下は、警官がさらにどんな嘘をつくか、その「証拠」として書いておく。
 (パスポートの手書きの住所は、すでに「証明書」として認めていないところに、東京都がある。以前は戸籍抄本を取り寄せるときの身分証明としてパスポートもOKだったが、いまは受け付けていない。年金のための書類を揃えるときに、パスポートのコピーを送ったら、パスポートはだめ、ということだった。ただし、二度手間をかけるまではないと判断したらしく、「以後はだめ」ということわりつきで、そのときは受け付けてくれた。五年以上前の話である。)

「なぜ水曜日に来たら、約束と違うということになるのか」
「金曜日の二時までに来ると言った」
「公的機関の発行した郵便物はすぐにはわからない。遅くても金曜日の二時と言った。その前に何度も木曜日に来れないかと言ったのはなぜか。なぜ、せかしたのか」
「せかしていない」
「一度ではなく、三度、木曜日を指定された。そんなに急いでいるのならと、水曜日に来たら約束と違うと言われた」
「金曜日だと思っていた」
「金曜日は休みだから、木曜日にと言った。単なる事務手続きだろうと思ったから、担当者がだれであろうがかまわないと思い水曜日に来た」
「金曜日は休みではない。水曜日と事前にわかっていれば、別の人間に引き継ぎをした。木曜日と言ったのは、木曜日なら時間的に余裕があったからだ」
 なんだ、自分の都合か。
 上司がいるので、嘘がつけなくなったらしい。少しかわいそうになってしまった。Mとしては保険証で十分だと思い、対処した。ところが上司からだめだと言われ、顔写真付きの証明書、公的機関の発行した郵便物と言われるままに伝えたということだろう。
 顔写真付きの証明書で本人であるかどうか確認できればいいと言っていたはずなのに、「私は確認しましたが、上層部が納得しないので、パスポートをコピーさせてください」と頭まで下げる。
 約束は金曜日、水曜日に来ても受け付けない、と言ったときとは様変わりである。
 あまりにもかわいそうだ。

 しかし、なぜ、顔写真付きの証明書が必要なのか、いまだにわからない。
 というのも、私は以前車と接触したことがある。進行方向を右折したかった。歩道がふさがり、赤信号で車道の車も止まっていた。中央線よりを自転車で走り抜け、まだ青の横断歩道を渡り右折しようとした。ところが、突然車が動き、びっくりしてバランスをくずした。信号がかわるのを見越してエンジンをかけたのだ。
 このとき私は調書(?)をとられた。免許証はもっていない。会社の名刺もない。でも保険証はもっていた。それを警官は控えた。その後、顔写真付きの住所を証明するものを求められたことはない。示談で処理したとはいえ、実際に事故を起こしているに(保険会社は当然警察に事故内容を問い合わせている)、顔写真付きの身分証明書も要求されなければ、写真も撮られていない。保険が社も写真などは要求して来ない。電話で話しただけである。
 私は車を運転しないから知らないのだが、たとえば駐車違反をする。そのとき反則キップを切られる。免許証で本人かどうかを確認する。反則キップには免許証の番号は記入するだろうが、顔写真を同時にとって添付するということはないだろう。顔写真がなくても上司は納得するだろう。免許証の番号だけでは、ほんとうにその人間が違反したかどうかわからない。免許証が盗まれたものかもしれない、などとは疑わないだろう。(ときどき、免許不携帯のひとが他人の名前を語ることがあるね。)
 しかし、私は自転車と一緒に写真を撮られ、健康保険証を提示し、電話で呼び出しを受け、警察署へ行ったにもかかわらず、保険証が本人のものかどうかわからない、住所がほんとうかどうかわからない、顔写真付きの身分証明書が必要だと言われた。私はたまたまパスポートをもっていたが、もっていなければ「顔写真付きのマイナンバーカード」が必要だと言われた。そういう運用になったのかもしれないが、それならそれで「通達文書」くらいありそうである。「常識だ」というのは、とても変。
 上司が下っぱいじめをし、下っぱが市民にやつあたりしているということかも。やつあたりしているのが上司に発覚し、おどおどしている。
 こんなことで、ほんとうに市民の安全は守れる? 横断歩道を自転車で走り抜けるというとても危険な違反をした人間がいうことではないかもしれないけれど。私のために危険にさらされた人、大丈夫かなあ。あれから五十日、ショックが心臓発作をひきおかした、ということにでもなっていないだろうか。そのとき、損害賠償は、どうなるかなあ。 




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「詩はどこにあるか」5、6月合併号

2018-07-02 00:08:27 | その他(音楽、小説etc)

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イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』

2018-05-14 10:58:16 | その他(音楽、小説etc)
イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』(関口英子訳)(国書刊行会、2018年03月23日発行)

 イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』は、初期の短編集。初期のせいなのか、訳文のせいなのかわからないが、少しぎこちない。(「血とおなじもの」の118ページ。「彼らは衝羽根樫の下に座って話しこんだ。藁の上に寝ると脚にできる皮膚炎を治す方法だとか、地域一帯の孤立したパルチザン兵たちを正式に再編成し、盗賊のように森をうろつくことをやめさせる必要性だとかいったことについて。」この部分の「藁の上に寝ると脚にできる皮膚炎を治す方法」がわかりにくい。「寝ると」は「寝たとき」という意味になるのだと思うが、そう理解するまでに三回読み直してしまった。「動詞」が「寝る」「できる」「治す」と多すぎる。それにつづく、「パルチザン」の部分も、「孤立する」「再編成する」「うろつく」「やめさせる」と動詞が多い。そのために文体のスピードが落ちている。)
 でも、「最後に鴉がやってくる」はおもしろい。特に最後の部分、クライマックスがすばらしい。
 少年狙撃兵から逃げる兵。目の前に草地が広がる。飛び出せば撃たれる。けれどその向こうの藪に飛び込めば確実に逃げることができる。どうしよう。
 悩んでいると、空を鳥が飛んでくる。鳥の通り道なのか、何度も飛んでくる。その鳥を少年はすべて撃ち落とす。ところが、頭上で旋回する鴉は落ちない。かわりに近くの松から松ぽっくりが落ちてくる。

 銃声がするたびに兵士は鴉を見上げた。落ちるだろうか。いいや、落ちる気配はない。その黒い鳥の描く輪は、彼の頭上でしだいに低くなっていく。少年に鴉が見えていないということがあるだろうか。もしかすると、そもそも鴉なんて飛んでおらず、自分の幻影なのかもしれない。きっと死にゆく者はあらゆる種類の鳥が飛ぶのを見るものなのだろう。そしていよいよ最期というときに鴉がやってくる。いや、相変わらず松ぽっくりを撃っている少年に教えてやればいいだけの話だ。そこで兵士は立ち上がり、黒い鳥を指さしながら、「あそこに鴉がいるぞ!」と叫んだ。自分の国の言葉で。
 その瞬間、兵士の軍服に縫い取りされた両翼をひろげた鷲の紋章のど真ん中を、弾が撃ちぬいた。
 鴉が、ゆっくりと輪を描きながら舞いおりた。

 現実なのか、幻想なのか、わからないくらいに緊迫感がある。現実も身に迫りすぎると幻想のように明瞭になるのかもしれない。明瞭になりすぎた現実を幻覚と呼ぶのかもしれない。
 奇妙な言い方だが、いつ撃たれるんだろう、いつ死ぬんだろうと「期待」しながら読んでしまう。死ぬというのは決して「いいこと」ではないのに、わくわくしてしまう。そして、死んでしまうのに、なぜか、ああよかった、と思ってしまう。
 撃たれる兵士の気持ちだったのか、撃つ少年の気持ちだったのか。私は、いったいどちらに「感情移入」していたのか。
 「主人公」、あるいは「脇役」というような「人間関係」を忘れて、その「状況」そのものの緊迫感なのかにのみこまれてしまう。個人を超えて、「状況」そのものが「主人公」になってしまう瞬間がある。
 『真っ二つの子爵』では、「謎解き」のシーンがそれだ。悪人(?)の方の子爵が、ものを半分に切って、残していく。それを見て、「あ、これは、どこどこで待っている」という決闘の呼びかけだと「謎解き」をする。もし、その「謎解き」が解けなかったら、次はどうなる? というのは「現実」の世界のことであって、「小説」のなかでは「謎解き」は絶対に「解かれなければならない」。そういう「運命」のような「状況」の強さ。それをイタロ・カルヴィーノは軽快に、明るく書いてしまう。そのスピードに、私は私自身を忘れてしまってのみこまれる。私はいったいどっちの見方だった? それを忘れてしまうのである。
 こういう「文体」の力はどこから来ているのか。「文章のリズム(ことばのリズム)」には、個人がもっているリズムのほかに、その「国語」自身がもっているリズムがある。そして、不思議なことに「国語自身のもっているリズム」というのは、「国語」を超える力を持っている。「ことば」すべてに共通するものをもっている。「論理のリズム」だ。
 「鴉」にもどると、

そこで兵士は立ち上がり、

 この「そこで」が「論理のリズム」(論理を動かすことば)である。先の引用部分には「そこで」は一回しか書かれていないが、読み返すと随所に「そこで」を補うことができる。

その黒い鳥の描く輪は、彼の頭上でしだいに低くなっていく。「そこで」少年に鴉が見えていないということがあるだろうか「と、兵士は考えた」。「そこで」もしかすると、そもそも鴉なんて飛んでおらず、自分の幻影なのかもしれない「とも考えた」。

 ひとつの行動(文章)から次の文章へ動く。そのあいだには「そこで」というあいまいな「論理(理由)」が動いている。「そこで」によって人間は動いている。そういうものをつかみとり、それを省略することでことばを動かしている。
 だから、というとまた変な言い方になるのだが。
 なぜ、カルヴィーノは、ここだけ「そこで」を残したのか。
 これが、とても重要。
 ここから「世界」が変わるのだ。それまでは、兵士の「思い(考え)」が動いている。でも、「そこで」のあとは「考え」ではなく、「肉体」そのものが動いている。「立ち上がる」「指さす」「叫ぶ」。この転換、大きな転換のために「そこで」が必要だったのだ。「そこで」の力を借りる必要があったのだ。
 もちろん「そこで」はなくてもいい。消しても、全体の「意味」はかわらない。けれど、「ここがクライマックス」という強調構造が消えると、すこし弱い。
 「そこで」ということばで「違和感」を引き出して、それから「リアル」な動詞を並べる。「肉体」そのものを動かす。
 うーん、と私はうなる。
 そのあとの二行は、「現実」なのか、それとも兵士が死ぬときに見た「夢」なのか。
 「現実」と「夢」とのあいだに、「ことば」がある。


*

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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「詩はどこにあるか」4月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか4月号注文


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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最後に鴉がやってくる (短篇小説の快楽)
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シモーヌ・ド・ボーヴォワール『モスクワの誤解』

2018-05-07 09:37:27 | その他(音楽、小説etc)
シモーヌ・ド・ボーヴォワール『モスクワの誤解』(井上たか子訳)(人文書院、2018年03月25日発行)

 ボーヴォワールは、私の考えでは、二十世紀最大の思想家である。理由は簡単である。彼女のことばだけが「現実」になった。マルクスも毛沢東も世界に影響を与えたが、「現実」にはならなかった。ボーヴォワールの「男女は平等である」という主張は、世界で「現実」として動いている。もっとも、日本は例外かもしれない。安倍政権に近い人物は、強姦をしようが、セクハラをしようが、政権が擁護し、それが堂々とまかりとおっている。日本だけは「男尊女卑」を頑なに守り、さらにそれを強化しようとしている。

 この小説の主人公は、老いを迎えた夫婦(といっても、いまから見ると老いの入り口に近づいたという感じだが)。彼らはモスクワへ旅行する。そこで小さな行き違いが起きる。けれどもなんとか「若い」する。これがストーリーである。
 でも、ストーリーは、私の場合、結局忘れてしまう。
 いちばん印象に残っているのは、次のことば。

言葉は、いつも自分と一緒についてくる。

 これは月を見て、さらに月によりそう星を見て主人公(女)が思うことでである。月夜に歩くと、月はいつでもついてくるが、それと同じようにことばもついてくる。ことばは、いつでも「人間」から離れない。
 もっとも、これは「自分のことば」ではなく、かつて読んだことばのことを書いているのだが、私は、主人公自身のことばと思って読む。
 全体は、こうなっている。(44ページ)

空には月が、そしていつも忠実に寄り添っている小さな星とともに輝いていた。ニコルは『オーカッサンとニコレット』のなかの美しい詩句を口ずさんだ。「愛しい星よ、われは見る/月もそなたを引き寄する」これこそ、文学の美点だわと彼女は思った。言葉は、いつも自分と一緒についてくる。イメージは色あせ、形を変え、消えていく。でも言葉は、昔それが書かれた時のままに、彼女の喉元に甦ってくる。それらの言葉は、星がまさしく今夜と同じように輝いていた何世紀も昔へと彼女を結びつけた。そして、この再生、この恒久性は、彼女に永遠の印象を与えた。

 ことばは「喉元に甦ってくる」。考え(頭)を刺戟するだけではなく、「肉体」そのものを刺戟する。「言葉が(略)何世紀も昔へと彼女を結びつけた」は「言葉が(略)何世紀も昔へと彼女の肉体を結びつけた」である。それは「彼女の肉体が何世紀も昔へと彼女を結びついた」である。いま、ここにある「肉体」が、遠く離れたものと結びつき、それを自覚した瞬間に「再生」がはじまる。「再生」とは「永遠」のことである。
 これは『オーカッサンとニコレット』に書かれていることばではなく、そこに書かれていたことばの刺戟によって動いた「ニコルのことば」である。「ニコルのことば」がニコルを動かしていく。ことばが動くとき、ニコルの肉体(思想)そのものが動く。
 「言葉は、いつも自分と一緒についてくる。」は、そんな具合にして、「肉体化」されている。言い換えると、ボーヴォワールは、いつでも思想(肉体)をことばにしているということである。「肉体(思想)」は、ことばとなって、彼女を突き動かす。ことばは、いつでも彼女の「肉体」を突き破って、「思想」そのものになる。
 「老い」とは何か。こう書かれている。

活発で、陽気で、機転がきくこと、それが若いということだ。つまり老年の宿命は、惰性、不機嫌、耄碌ということになる。(略)マーシャは「あなたは若い」といったけれど、ニコルの腕を取ったではないか。実際のところ、モスクワに来て以来、ニコルがこんなに強く自分の歳を感じるのは、マーシャのせいだった。ニコルは自分自身のイメージを四十歳で止めていたことに気づかされた。(63ページ)

 「イメージ」とはあいまいなことばである。「ニコルは自分自身のイメージを四十歳で止めていた」とは「肉体」を「四十歳」と判断していたということである。その「肉体」をマーシャに重ねようとすると重ならない。反撃される。違うものが見えてくる。「自分自身」だけに重ねているときは気づかないのだ。
 この契機が、「ニコルの腕を取った」ということ。「腕を取られた(肉体を支えられた)」という実際の「肉体の動き」(動詞)そのものが、二つの「肉体」(マーシャとニコルの肉体)を分けてしまう。「腕を取る」とき、その「肉体」はつながるのだが、つながりながら(つながるということによって)、いっそう深い断絶(切断)が生まれる。
 ことばが生まれる瞬間、それが動いていく瞬間をボーヴォワールは、確実にことばにする。「言葉は、いつも自分と一緒についてくる」のである。この「瞬間」を確実にとらえ、それを拡大していく。ボーヴォワールのことばには、そういう力がある。
 「思想」には見えないかもしれないが、次の部分にも、私は思わず傍線を引いてしまった。

ニコルはほんとうは少しへとへとだった。けれども、通りすぎていく景色が疲れを忘れさせてくれた。工大で、穏やかな田園が、ゆっくり沈んでいく夕陽の光でやわらかな色合いに染まっていた。(40ページ)

 「ゆっくり沈んでいく」の「ゆっくり」が「思想」である。「夕陽が沈んでいく」そのスピードを「ゆっくり」とことばにする。するとニコルの「肉体」も「ゆっくり」動く。「愛しい星よ、われは見る/月もそなたを引き寄する」とことば言ってみるとき、ニコルの「肉体」は「月」と「星」の関係(そこで起きている運動)に引き寄せられるだけではなく、「月」になって「星」を引き寄せ、「星」になって「月」に引き寄せられる。ことばのなかで、月と星とニコルが見分けがつかなくなるように、いま「ニコルの肉体」は「夕陽」と見分けがつかない。
 こういう「融合」が美しい。
 この小説の「ニコル」がボーヴォワールなら、もうひとりの主人公「アンドレ」はサルトルだろう。彼の思想(ボーヴォワールから見た思想/肉体)も書かれている。端的なのが34ページのことば。

その日は来なかったし、来ないだろう。

 「過去」と「未来」が強く結びついて、「現在」を否定する。
 ボーヴォワールが「いま」を肯定し、そこから「肉体(思想/ことば)」を動かすのに対し、サルトルは「現在」を否定するために「過去」と「未来」を発見する。それはともに「現在」に潜んでいるのだが、それを「発見」し、「現在」を否定するために動かすという「矛盾(不機嫌)」を生きるのがサルトルである。ボーヴォワールの「再生」とはまったく違う。



 いま、自分の本棚を見渡して残念なのは、ボーヴォワール全集がないことだ。買いそびれた。本は、あとからは手に入らない。古本で全集(一揃い)をもっている書店をご存じの方は、教えてください。

モスクワの誤解
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詩はどこにあるか2018年4月号

2018-05-01 10:00:19 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」4月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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目次

ジェフリー・アングルス「騙る語り」2  白井知子「タブリーズの古い古いバザール」、吉本洋子「重力談義」9
高木敏次「幹」13  廿楽順治「亀戸落語」、高階杞一「サザエさんの日々」19
荒木時彦『NOTE 003』23  國峰照子「帽子屋」25
劉暁波『独り大海原に向かって』27  井崎外枝子『出会わなければならなかった、ただひとりの人』33
後藤光治『松山ん窪』36  劉霞『毒薬』39
三上寛「ぼうしをかぶる犬」44  神原芳之「石蕗の花」「泰山木」47
工藤正廣「すべての祝福の始まり」、吉田文憲「二つの声」50
斎藤恵子「うさぎ島」、宗田とも子「遠い水」、若尾儀武「答」54  白鳥信也「とぜん」58
林嗣夫「柿」、石川逸子「花桃咲く村で」63  季村敏夫「家庭生活」、阿部日奈子「八月十五日」68
近藤久也「暗くてみえない」73  松尾真由美「乾きという地理の密度」、三角みづ紀「けあらし」80
苗村吉昭「ふらんす日和」84  星野元一「髭がのびる」87
未知野道「旅行時計」91  未知野道「いまからおもふと」、池井昌樹「あたし」「金色」95
高階杞一「フタ」99  愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』104 
大橋政人「大きい女の人」、金井雄二「ぼくは、あったよ」115
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「ことばと沈黙、沈黙と音楽」発売中。

2018-04-13 00:08:29 | その他(音楽、小説etc)
谷川俊太郎詩集『聴くと聞こえる』への感想を一冊にまとめました。

オンデマンド出版。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
URLをクリックして、表示されるページの右側の「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
2000円(別途、送料250円)



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「詩はどこにあるか」2018年2月号

2018-02-28 21:20:46 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」2018年2月号を発売しています。
ブログに書いた文学に関する批評をまとめています。
B5版147ページ、1750円。(+送料250円)

目次は、
小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83


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石井遊佳「百年泥」

2018-02-22 08:51:04 | その他(音楽、小説etc)
石井遊佳「百年泥」(「文藝春秋」2018年03月号)

 石井遊佳「百年泥」は第百五十八回芥川賞受賞作。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」と同時に読んだのだが、「おらおらで……」があまりにひどくて、感想を書きながらがっかりした。その影響で「百年泥」の感想を書くのがいやになった。ほうっておいたのだが、でも、書いてみるか。
 この小説は書き出しの一行がすべてを語っている。それ以上のことは、書かれていない。(ページは「文藝春秋」)

 チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った私は果報者といえるかもしれない。                       (344ページ)

 「果報者」ということばが、すべてである。
 「百年に一度の洪水に遭った」なら、そこに住む人にはとって、それは「果報」ではありえない。洪水に生活を奪われることは「不幸」である。なぜ、「果報」といえるのか。「私」が「生活(財産)」を洪水で奪われなかったからではない。もちろん奪われなかったということもあるかもしれないが、それだけで「果報」とは言えない。「私」がそれを「果報」と言えるのは、「洪水」のおかげで「ことば」を発することができるからだ。
 これは「主人公」の「声」というよりも、作者の声である。「あ、これを題材に小説が書ける」という喜び、題材の発見を「果報」と呼んでいるのだ。言い換えると、この小説では「私」と「作者」が区別がつかなくなっている。「私小説」というのではない。それ以下だ。

 私は、チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った。

 と書いても、「事実」はかわらない。「私」がチェンナイに生活して三か月半になる。大洪水があった。大雨が降った。それは百年に一度の規模のものである。これで十分なはず。
 こういう「事実」に「果報者である」という「感想」をまぎれこませる。
 いや、「果報者」という感想を書いてもいいのかもしれないが、それならもっと「果報」を読者が驚くくらい書き込まないといけない。単に書くことがあっていい。でたらめを書いても許される、というのでは「果報」には感じられない。
 古い男とのやりとりなんか思い出して、それで幸せになれる? 日本語学校の生徒の過去だとかを知って、それで「果報」と言える? 日本語学校の、生徒の「間違った日本語」を聞いて、それを「正しくなおす」のに苦労する、というようなことが「果報」?
 鬱憤を晴らしているだけだ。怨み、つらみを書き綴っても、受け入れてもらえる。これは「果報だ」というのは、完全に個人的な感想である。
 「日本語学校」の体験、チェンナイ(インド)の体験を小説にできるという「果報」に酔っているだけだ。
 文体は、若竹千佐子ほどぐちゃぐちゃではないかもしれないが、非常に気になる「書き方」がある。何回も出てくる。てきとうにページを開いて、斜め読みするのだが、

 後年私がつねに獲得することになった定評について先に述べたが、実のところ、
「おまえさ、ほんと口ないのかよ。なんか言えば? ったく愛想のない女だね」
                            (387ページ)

 「先に述べた」って、なんだ?
 「論文」ならこういう書き方はあるだろうが、小説で「先に述べた」なんていう顔の出し方をされたら、ぞっとする。たとえ「私小説」であっても。だって、これは「感想」になっていないだろう。
 「果報者だ」という感想には、まあ、題材に困っている小説家は共感できるだろうが、「先に述べた」なんていわれても、感情は動かない。「記憶力をテストされているみたいだ。
 先に書いたかどうか、もう一度読者に思い出してもらわないと先に進めない小説なんて、小説ではないだろう。「あっ、これは先に書いたあったことが違う形でもう一度言いなおされたものだな」と読者がかってに判断すればいい。気づかなければ気づかないでいい。作者の書き方が悪い(印象に残らない書き方をしている)か、読者が読み落としているかだけのことである。
 だいたい「後年」と「先に述べた」の「枠構造」が「説明」としてつかわれるのは、小説ではないだろう。先に書いてあったこと(過去)が、時間が進むにつれて(小説が展開するにつれて)、ひとつの「カタルシス」というか「結論」に向かって動いていくのが小説というものであって、「この結果(後年獲得することになった結果)は、先に述べたとおりである」なんて、ばかばかしいにもほどがある。
 奇想天外なストーリー(空を飛ぶ人間が出てくる)、埋もれていた「過去」がよみがえるなど、「魔術的リアリズム」が売り物のようだが、タイトルもガルシア・マルケスの「百年の孤独」を意識してのものなのだろうが、「三十年泥」がせいぜいのところで、口の悪い人なら「三日泥」というだろうなあ。
 だいたい「過去」なんて、何年でも遡れる。「過去」ではなく「未来」へ向けての「百年」でなければ「小説」の意味がない。「いま」を出発点として、未来へつづいていくのが「小説のことば」。「過去」なんて「日記」だ。

 こんな「日記」にすぎないものが、なぜ芥川賞に選ばれたのか。やっぱり若竹千佐子がいきなり満票(過半数だっけ?)をあつめ、「当選」が決まったために、大慌てで選考をやりなおしたんだろうなあ。若竹の小説が受賞作なら、もっといいのがある。これを落とすのはどうか。ということで、いくらかましな石井の作品が選ばれたということだろう。受賞作の紹介も「百年泥」が先である。芥川賞で本を売らないと、本が売れる機会がないというのはわかるけれど、こんな小説を売っていたらますます本が売れなくなりはしないだろうか。






*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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百年泥 第158回芥川賞受賞
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若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」

2018-02-12 12:21:04 | その他(音楽、小説etc)
若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」(「文藝春秋」2018年03月号)

 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は第158回芥川賞受賞作。はっきり覚えていないが、選考会の一回目の投票で受賞が決まった、と報道されていたと思う。えっ、そんなにおもしろいのか。でも、そうならなぜ一作ではなく二作同時受賞になったのだろう。そういう疑問がなかったわけではなかったが。
 そして、「文藝春秋」を手に取って、若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」よりも先に、石井遊佳「百年泥」が紹介されているのはなぜだろう、とまた疑問に思ったのだが。
 まあ、読み始めてみる。(括弧内のページは「文藝春秋」のページ。ルビは省略)

 あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが
 どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如にすべがぁ     (408ページ)

 東北弁ではじまっている。
 これを、こう受けている。

 桃子さんはさっきから堰を切ったように身内から湧き上がる東北弁丸出しの声を聞きながらひとりお茶を啜っている。ズズ、ズズ。        (409ページ)

 お茶をすする音まで東北弁である。
 おもしろいかもしれない。
 だが、ひとりぐらしの、だらしない生活に鼠の出没を描いたあと、こういう文章がある。

 去年の秋、十六年一緒に住んだ老犬が身罷ってからというもの、屋根裏と言わず、床下と言わずけたたましい。ついに同一平面上に出没往来するところとなり、今日などはこうして明るいまっ昼間。先住民の桃子さんを気遣ってか遠慮がちではあるが、音を醸すことに確固たる信念がある、ように聞こえる。        (410ページ)

 読む気をなくしてしまった。
 小説を構成する「文体」は三つある。
 (1)最初に引用した東北弁
 (2)標準語(?)と東北弁がすっと融合する文体。二つ目のお茶をすする文章。
 (3)むりやり「文章語」にしたような気取った文体。三つ目の引用。
 
 (3)の文体がひどい。「老犬が身罷った」「音を醸す」。これは、何語だ? 「老犬が死んだ」「音を立てる」では、なぜいけないのだろう。
 東北弁では「死ぬ」ということばはあまりつかわず、「身罷る」というのがふつうなのか。「音を立てる」と言わすに「音を醸す」というのか。
 古いことばが生活に生きているということは、たしかにある。
 私の田舎では「歯茎」のことを「はじし」と言った。これは「歯+肉」である。「座る」は「ねまる」と、いまでも言う。「ねばる(動かない)」くらいが語源か。「ねまる」は九州では「腐る」になるが、これも「動かない、役に立たない」という感じでつながっているかもしれない。
 もし、東北の人が「死ぬ」よりも「みまかる」と言う方が「親身」に聞こえるのなら、それは「親身」な文体のなかで書かれないと、「実感」として伝わってこない。お茶をすする「ズズ、ズズ」のような感じで、何か「凝縮した肉体」といっしょに動いていないと、何を言っているかわからない。
 読めば、確かに「身罷る」か、「死んだのだ」とわかる。しかし、「耳」は一瞬、「音」を聞き逃す。「声」になっていないからだ。
 「屋根裏」「床下」はいいが、「同一平面上」というようなことを、東北のひとは暮らしの中で「言う」か。つまり「声」にするか。「先住民」も同じである。こんなことばを「声」にして「会話」が成り立っているとは、私には想像できない。
 こんな文章は「嘘」である。「嘘」が露骨に出ると小説はおもしろくない。
 同じ文章のつづきに、こうある。

人の気配の途絶えたこの家で、音は何であれ貴重である。最初は迷惑千万厭っていたが、今となればむしろ音が途絶え部屋中がしんと静まり返るのを恐れた。(410ページ)

 「厭って」は「いとって」と読ませる。ルビがついている。この「厭って」(厭う)は「いやに思う」と「声」として入ってくる。「いや」と「いとう」のなかに「音」が交錯し、それがそのまま「感情の意味」として「肉体」に響いてくる。
 「厭う」というのは「気取っている」が、それが「肉体の古い層」というか「肉体」の奥を揺さぶるように動くので、あ、東北ではこういうのか、と納得できる。
 でも「同一平面上」とか「先住民」とか、とても東北の人か言うとは思えないし、「身罷る」とか「醸す」とか、犬や猫を描写するのに使うとも思えない。
 いやあな感じがする。

 夫が死んだあと、ジャズを聴きながら踊る場面がある。

 おまけに頭の中では
 オラダバオメダ、オメダバオラダ、オラダバオメダ、オメダバオラダ、オラダバオメダ、
 際限なく内から外から、音というか声というか、重低音でせめぎあい重なり合って、まるでジャズのセッションのよう。     (411ページ)

 「音」と「声」。その区別がつかなくなる。「音」が「声」という「肉体」そのもの、「いのち」になる。「いのち」が「肉体」の奥から噴出してくる。それが桃子さんを動かす。
 これが、たぶん、この作品のテーマである。「東北弁」の「音/声」そのものが「肉体」として動く。それが「標準語」を突き破り、新しい「文体の可能性」を切り開いていく。
 で、そういうことが「わかる」からこそ、気取った「標準語文体」、東北弁と無関係な「ことば/音」が気になってしようがない。
 「ことば」が「声」になっていない。「意味」でしかない部分がある。

 亭主に死なれた当座は周造が視界から消えたということより、周造の声がどこを探してもどこからも聞こえないということの方がよほど応えたのだった。(457ページ)

 というような部分を読むと「声(音)」が重要なテーマだとわかる。「声(音)」こそが「肉体」だと感じていることもよくわかる。そういうことを書きたいのだと、わかる。わかるからこそ、「意味」が「標準語」でもつかわないような「気取った」音として動いている部分が、嘘っぽいのである。
 460ページから461ページにかけて出てくる「桃子さんはつくづく意味を探したい人なのだ。」「桃子さんは戦いたい人間であった。」「桃子さんという人は人一倍愛を乞う人間だった。」というような「説明(解説)」にもうんざりした。

 東京へ出てきて働く。「わたし」と言おうとすると「一呼吸」おいてしまう。そういう「声」に関するおもしろい部分もあるのだが、気取った標準語が邪魔しすぎている。全体がとても長くていらいらする。全体を三分の一、できれば四分の一に削り込めば、もっとすっきりとした強い作品になると思う。「嘘」をばっさり削除すれば、読みごたえのある作品になると思うが、いまのままではひどすぎる。



 一か所、疑問に思ったことがある。「食べらさる」という「東北弁」に対する「解釈」である。一膳目のごはんを食べて、さて次にどうしようかと思案し、「食べらさる」と言って二膳目を食べ始める。

食べらさるとは国語的に正しい言い方なのだろうかと考えてしまう。食べらさる、桃子さんが考える受け身使役自発、この三態微妙に混淆して使われていて、敢えて言えば、桃子さんをして自然に食べしめる、とでもいうような、どうしても背後に桃子さんならざる者の存在を感じてしまう言葉の使い方なのだ。(471ページ)

 「受け身/使役/自発」というよりも、これは「敬語」なのではないのか。自分ではないだれか、それこそ延々とつづいている「いのち」そのものが二膳目を「食べられる」。桃子さんが食べるように見えて、実際は「いのち」そのものが「食べる」。その「いのち」への畏怖が「敬語」として動いているのではないのだろうか。「食べらっしゃる」の「しゃ」が「さ」になったのではないのか。
 (だれかが話す(しゃべる)ことを、私の田舎では「しゃべらっしゃる」というときがある。「話される」「お話しされる」だね。「しゃ」が言いにくくて「さ」になることもあるような気がする。これは、私の「耳」の体験。)
 ことば(声)には、そういう遠くつづいている「いのち」へのつながりがある。「声」をとおして、ひとは「いのち」になる。
 そんなことを思いながら読んだので(随所に、そういう部分を感じたので)、気取った標準語には、ちょっとむかむかしてしまった。「声」と「いのち」のことを書きながら、作者が別のことば(気取った標準語)で、それをたたきこわしている。

 どうも、この一作が芥川賞では弱すぎる。だから、大急ぎで二作受賞になるように先行をやりなおしたんだろうなあ、とも思った。



 少し脱線して書いておけば、東北弁で書かれたものとしては、新井高子編著『東北おんば訳 石川啄木のうた』(未來社)がはるかにおもしろい。ことば(意味)を「声(東北弁)」にかえすとき、その奥から「肉体」そのものがぐいっとあらわれてくる。
 この小説を読むくらいなら『東北おんば訳』を読んだ方が楽しい。ことばと声、肉体の関係がよくわかる。
 またことばは生活というならば、東峰夫の『オキナワの少年』(芥川賞)の方が傑作である。オキナワ英語とでも言うべきものが「声」としてしっかり書かれていた。


*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞
クリエーター情報なし
河出書房新社
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詩はどこにあるか2018年1月号

2018-01-31 20:22:53 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」1月号、発売開始。
B5版136ページ、1750円(送料、別途250円)

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073097

URLをクリックして、ページ右側上辺の「製本のご注文はこちらから」の押してください。

1月号の目次は。

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129

なお、他の本(「誤読」「天皇の悲鳴」「詩はどこにあるか11月号」「12月号」)も発売中です。
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柄谷行人『意味という病』

2018-01-26 09:58:58 | その他(音楽、小説etc)
                         2018年01月26日(金曜日)

柄谷行人『意味という病』(講談社文芸文庫、2018年01月10日発行)

 柄谷行人『意味という病』の批評がフェスブックに載っていた。全然わからない、というのである。たしかにわからないのだが、同時に私は噴き出してしまった。「わからない」という感想にではなく、柄谷の文章に対してである。
 取り上げられていたのは、次の部分である。(括弧と番号は、あとで感想を書くために、私が便宜上つけたもの。本文にはない。)

(1)「ハムレット」の中に、「芝居の目指すところは、昔も今も自然に対して、いわば鏡を向けて、正しいものは正しい姿に、愚かなものは愚かな姿のままに映しだして、生きた時代の本質をありのままに示すことだ」という有名な台詞がある。
(2)これはシェークスピア自身の芸術論と目されているが、むろん今日のリアリズムという文芸思潮とは何の関係もない。だが、これを心を虚しくして自然を視ることだといって澄ましていていいわけではない。
(3)この素朴ないい方の中には、おそらくドストエフスキーのような作家だけが匹敵しうるような凄まじい明視力がひそんでいるからである。
                  (「マクベス論」--意味に憑かれた人間)

 (1)は、シェークスピア『ハムレット』の第三幕、第二場「城内の広間」の台詞である。この部分では、あたりまえかもしれないが、私は噴き出さなかった。シェークスピアのことばが引用されているだけなのだから。

 (2)で、私は、あれっと思った。柄谷は「心を虚しくして自然を視る」と書いているが、「自然」って何? 山や川や空? 「心を虚しくして」というのは、どういう意味だろう。
 柄谷が引用している訳と、私の持っている小田島雄志の訳は少し違っているが、「自然」ということばの説明のために必要になので、つづく部分を引用してみる。

 だから、自然を越えてやりすぎれば、およばない場合も同じだが、素人を喜ばせはしても、玄人を悲しませることになる。

 「自然」は、山や川や空のことではない。風景のことではない。「自然さ」と訳した方がわかりやすい。あるいは「本性」か。原文は知らないが「ナチュラル」ではないのか。柄谷が引用していることばで言いなおせば、それは「本質」である。
 ときどき、それは「度」というようなことばでも語られることがある。
 「度を越えて芝居をしすぎると」(演技しすぎると)「素人を喜ばせはしても、玄人を悲しませることになる」という具合だ。
 
 柄谷はシェークスピアの「自然」ということばを取り違えていないか。「自然」を「本質」と言いなおしているのを読み落としてはいないか。また、「鏡」という「比喩」を取り違えていないか。

 (3)は「この素朴ないい方」が指しているものが何なのか、よくわからない。ハムレットの台詞そのものを指しているのか、それとも直前の「心を虚しくして自然を視る」を指しているのか。
 それにつづく「ドストエフスキーのような作家だけが匹敵しうる」という「比較」をあらわす文章を読む限り、シェークスピアのことばを指しているのだろうと思う。誰のことばかわからない「心を虚しくして自然を視る」はドストエフスキーとは比較できないからである。
 で。
 シェークスピア(あるいはハムレット)とドストエフスキーを「比較」していると判断して、私は、ここで大笑いしてしまった。
 それって、比較対照するもの?
 たとえば第一作で芥川賞を受賞した作家とドストエフスキーを比較して、ドストエフスキーに匹敵する」とは言えても、シェークスピアをドストエフスキーの「凄まじい明視力」に匹敵するといわれてもねえ。
 シェークスピアはすでに古典。誰もが天才と認めている。方向性は違うかもしれないが、ドストエフスキーと並んで天才の一人である。どちらも「凄まじい明視力」を持っていて当然である。
 いったい、柄谷は何を書いている?
 わけがわからない。
 こういうとき、私は悩まない。笑いだしてしまう。

 さて。
 (1)にもどろう。シェークスピアは何を言いたかったのか。「鏡」とは何か。「比喩」なのだが、「比喩」というのは「抽象」であり、また「具象」でもある。だから、人は実際にどのように「鏡をつかう」か、というところから読み直してみる必要がある。「鏡」を「名詞」のままにしておくのではなく、「動詞化」する。
 「鏡を見る」。それはたいていの場合「自分を見る」、「自分を確かめる」のである。この服は自分に似合っているかな? 「正しく」見えるかな? 「愚か」に見えるかな? そう考える。
 ハムレット(シェークスピア)は、「芝居」を「鏡」と呼んでいる。つまり、「芝居」を見るということは、観客が「自分の姿」をそこに見て、それが「正しい」か「愚か」かを確認するものなのだと、「芝居論」を語っている。
 柄谷は「芸術論」と幅を広げて書いているが、「芸術論」ではなく「芝居論」。もっと具体的なのだ。
 実際、旅芸人たちが演じるのは、ハムレットの母ガートルードの「暗殺」である。その芝居はガートルードの「行動」を映し出しているのである。ガートルードが実際に「暗殺」を実行していたとき、彼女には自分の姿は見えない。けれど、芝居を見ることで、その見えなかった自分の行動、その行動の奥で動いている「こころ(本性=自然)」が見える。ガートルードの「本質」が見える。
 で、自分の姿がそんなふうに「見えた」とき、ガートルードは、その「姿(本質)」が他人にも見られてしまったと思い、あわてふためく。
 そういう「芝居論」をシェークスピアは『ハムレット』のなかで具体的に展開している。

 まあ、少し柄谷の「弁護」もしておこうか。柄谷は柄谷で「自然」を言いなおしている。
 先の引用につづく第二段落は、こうなっている。

(4)右のように書くとき、シェークスピアは何らかの覚悟を語ったのだといってよい。つまり、彼はこれまでとは違ったふうに書くのだといっているようにみえるのである。
(5)自然ということばにおいて彼がアクセントを置いているのは、明らかに人間の内部という自然である。すなわち彼は精神というものを自然としてみようとしたのである。
(6)当然ここには既成の「道徳劇」の枠組への反撥がふくまれているが、それ以上に彼自身が回避することのできなかった何らかの経験がふくまれている。おそらくそれは「自己」というのもがどんな分析をも超越してしまうばかりではなく、ほかならぬ自己自身をも拘束し破壊するという事態、存在しないはずのものが存在するばかりではなく、それほどに現実的なものもないという奇怪な事態の経験である。

 (5)で柄谷は「自然」を「人間の内部の自然」と言い直し、さらに「精神の自然」と言いなおしている。このとき柄谷にとって「人間の内部」とは「精神」のことである。そして「人間」は(6)では「自己」と言い換えられている。「自己の精神(内面)」を「自然」ととらえていることがわかる。
 まあ、それでもかまわないとは思うが。
 シェークスピアのことばにもどってみると、シェークスピアは「生きた時代の本質」というふうに「自然」を言い換えている。「人間/自己/個人」を越えて「時代」ということばを出してきている。「時代」のなかには「ひとりの個人=自己」だけが動いているわけではない。複数の人間が動いていて、それが絡み合っている。影響し合っている。
 「芝居」というのは、この「複数の人間」の「絡み合い(関係)」を再現し、その「関係」を「鏡」にして「個人の姿」をより鮮明に描くものである。「内面(精神)」ではなく、むしろ「外面(関係)」を再現することで、見えない「人間の本質(自然)」を明らかにする。
 これは、「これまでとは違ったふうに書く」ことではないね。
 こういう書き方はギリシャ悲劇からずーっとつづいている。柄谷の言い分とは逆に、シェークスピア自身、「芝居の目指すところは、昔も今も」と書いている。「昔も今もかわらない」。その「かわらないままに書こう、書きたい」というのがシェークスピアの主張だろう。
 芝居とは「昔も今も」、「複数の人間」の「関係」を再現することで、「人間の本質」を明らかにする。「本質」が「自然」に動くとどうなるか、あるいは「本質」の「自然」に動きを明らかにするものである。(一人芝居というものもあるが、まあ、例外だ。)
 その「自然」というのは「精神」というような「明確なことば」では指し示すことができない。単純化はできない。

 私のおぼろげな記憶では、柄谷は夏目漱石の「自然」ということばを分析したのではなかったか? 漱石の「自然」も「精神」というよりは、人間の「本質」というものだろうなあ、と私は感じている。人間はいろいろなものを「配慮」してしまうので、「本質」は「自然」に動けない。苦悩した挙げ句、「自然」を自覚し、それに身を任せる。そのとき、そこに「新しい人間」が生まれてくる。漱石が小説で描いたものは、そういう姿だと思っているが、柄谷が「自然=人間の内面=精神」と捉えているのなら、ああ、柄谷の漱石論を読まなくてよかったと思うのである。(私は幸い、読んでいない。)
 「自然」は「本質」であるが、漱石のそれは「名詞」ではなく、「自然に動く」というときの「副詞」と読み、「動く」といっしょにつかまえないと人間が浮かび上がってこない。漱石が描いたのは「人間の精神」ではなく、「人間の動き(運動)」である。
 柄谷のことばをもじって言えば、柄谷は「精神=意味」という「論理」につかまってしまった人間なのかもしれない。柄谷は「意味」という病気にかかっている。
 (5)のあと、「マクベス論」が展開するのだが、まあ、読むまい。『マクベス』を読み直した方がはるかに楽しそうだ。


*


「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか12月号注文
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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
意味という病 (講談社文芸文庫ワイド)
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「詩はどこにあるか」12月号

2018-01-10 17:20:09 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」12月号の発売を開始しました。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072997

URLをコピーして、ページを開いてください。
128ページ。1750円。(別途送料がかかります。)

取り上げている作品(目次)

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122




また、以下の本も発売中です。

「詩はどこにあるか」11月号
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072862


詩集『誤読』
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

『天皇の悲鳴』
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



いずれもオンデマンド出版なので、お手許に届くまでに1週間ほどかかります。





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