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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川越宗一『熱源』

2020-02-16 00:03:42 | その他(音楽、小説etc)


川越宗一『熱源』(文藝春秋社、2019年08月30日発行、2020年01月25日第5刷)

 川越宗一『熱源』は第百六十二回直木賞受賞作。芥川賞の古川真人「背高泡立草」にがっかりしたので、こちらはどうかと読んでみた。新聞などで読んだ「選評」は好意的だったし、少数民族 (マイノリティー) と「ことば」を題材にしていることにも引きつけられた。テーマが「現代的」である。
 しかし読み進むうちに、テーマの「現代性」よりも、いま、「文学」はすべて「村上春樹化」しているのかという印象だけが強くなってくるのだった。読みやすいが、その読みやすさゆえに、なんだかがっかりしてしまう。「現代性」(現実)って、こんなにわかりやすくっていいのか。(現実といっても「舞台」は2020年ではないが。)
 古川真人「背高泡立草」の文体が「昭和の文体」なら、川越は「村上春樹以降の文体」とでも言えばいいのだろうか。

  240ページ、小説のなかほどに、こういう文章がある。唇の周囲に入れ墨を入れた妻(チュフサンマ)に対して、夫のブロニスワフが驚く。妻はアイヌの習慣に従ったのだ。その習慣を夫は好きになれない。しかし、こう思う。

自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。

 「自分がだれであるかを、自分自身で決定する」というのが、この小説のテーマであり、「自分がだれであるかを決定する」もののひとつが「ことば」である。妻は、「ことば」ではなく「肉体」そのもので「自分がだれであるかを決定した」という点では、同じテーマを支えていることになる。伏線というと少し違うが、「本流」を決定づける「支流」のひとつといえる。
 こういう「わかりやすい支流」がつぎつぎにあらわれて、作品全体を「本流」へむけて動かしていく。小説には複数の登場人物があらわれ、そのひとりひとりの動きが「支流」のように集まってくる。「本流」が見えたとき、では、それは「だれの流れ」なのかということが、実は特定できない。それは自然の川の流れと同じである。どの「支流」が欠けても「本流」の形は変わってしまう。
 そういう点から見ると、文句のつけようがない。「完璧」に構成された作品である。

 それはそれで、よくわかるのだが。私には、とても物足りない。
 
自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。

 ここに書かれている「何よりも」とは「何」? それがわからない。「何」は特定できないと言われればそうなのだろうが、その「ことば」にならない「何」をことばにしないかぎり「文学」とは言えないのではないだろうか。
 その前の部部から引用し直そう。

「入墨、入れたのか」
「わたしは、アイヌだから」
 チュフサンマの言葉は言い訳ではなく、決意に思えた。
「やっぱり、嫌?」
「いや」と答えた震えているのは、自分でもわかった。
「きれいだ。きみは、美しい」
 正直なところは、好きになれない。嫌悪はまったくないが、慣れない料理のような感覚がある。だが、自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。

 「好きになれない」「慣れない料理のような感覚」であるけれど、それを否定していくだけの「美しさ」がある。「決意」の美しさである。そういう「意味」はわかるが、それはあくまでも「意味」である。「頭」で理解する「美しさ」である。
 ひとが「何よりも」というときは、もっと「生理的」なのものであると、私は思う。「頭」ではなく「肉体」の反応だと思う。その、「肉体」の反応が欠けていると思う。
 「慣れていない料理」ということばがあるが、「慣れていない」けれど、口にした瞬間に吐き出したいと思ったけれど、吐き出せない。舌にひろがり、のどに流れ込んだ何かが意識を裏切るように「料理」をむさぼる。そういう感覚があるとき、それを「おいしい(美しい)」と言うのだと思う。自分の信じていたものが叩き壊され、自分が自分でなくなってしまう。そういうときが「何よりも」というときではないのか。
 別なことばでいうと「敗北感」がない。あ、私は妻に負けてしまったというような敗北感(妻は自分が自分であるということを決定することができるのに、自分はできない。自分にできないことを妻がやってしまったという敗北感)が具体的に書かれないかぎり「何より」という「感覚」は生まれない。そういうものを書かずに「何より」ということばで処理してしまっている。そこが、つまらない。

 たいへんな情報量があり、それがとても巧みに処理されている。それは理解できるが、どこまで読んでも「わくわく」しない。登場人物の「肉体」に出会った感じがしない。ストーリーを読んでいるという気持ちにしかなれない。手応えがない。つまずかない。ことばが「ストーリー」に従事しすぎている。
 私は欲張りな読者なのかもしれないが、この登場人物はどうしてこんなことを考え、こんな行動をするのか、わからない。わからないけれど、あ、それをやってみたいと思うことを読みたい。「わからない」が噴出して来ない文章はおもしろくない。
 こう書くと「何より」がわからないと書いているじゃないかと言われるかもしれないが、川越の書いている「何より」は「存在しない何より」である。つまり、

自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、美しいと思った。

 に過ぎないのに、それをむりやり強調して、価値のあるもののようにみせかけている。いま書き直したように「何より」がなくても「意味」が通じる文章なのだ。言い換えると「何より」は「頭」でつくりだした「強調」であって、具体的な「何か」(言葉にならない何か)ではないということだ。
 これでは文学ではない。巧みな「粗筋(ストーリー)」なのだ。下書きなのだ。この下書きを破壊して噴出する「だれも書かなかった肉体としてのことば(詩)」が暴れ回るとき、それは文学が生まれるのだ。



(補足)
 なぜ「自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。」の一行にこだわるか。それは、「自分がだれであるかを決定する」というのが、この作品のテーマであるからだ。「自分のことば」「自分の文化」を自分で選び取る。引き継ぐ。そういう一番大事なことを象徴的に語る部分に「何より」という「強調の慣用句」が無意識につかわれている。この小説が非常に読みやすいのは「文体」が鍛えられているというよりも、「文体」が「慣用句」によって推進力を得ているからである。
 「慣用句」が悪いというわけではないが、文学の「文体」は、読者をつまずかせるものでないといけない。立ち止まり、考える。考えることで登場人物と一体になることが文学の醍醐味なのだ。あるいは逆に、登場人物の「ことば」のスピードにひっぱられて予想外のところまではみだしてしまう。予想外の所へ行ってしまう、という一体感が文学なのだ。つまり、完全な「孤」になる一瞬にこそ、文学がある。
 その完全な「弧」を、しかもテーマに重なる大事な部分の「孤」を、「慣用句」で処理してしまっては「味気ない」としか言えない。












*

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古川真人「背高泡立草」

2020-02-11 17:11:36 | その他(音楽、小説etc)


古川真人「背高泡立草」(「文藝春秋」2020年03月号)

 古川真人「背高泡立草」は、第百六十二回芥川賞受賞作。「受賞作なし」になりそうなところを、逆転(?)勝ちして受賞作に、というような記事を新聞で読んだ記憶がある。不況は出版界にもおよんでいる。なんとしても本を売って稼がなければ、という気持ちはよく分かる。
 あまり期待して読み始めたわけではないのだが。

 「船着場」という章(?)の書き出し。

 一体どうして二十年以上も前に打ち棄てられてからというもの、誰も使う者もないまま荒れるに任せていた納屋のまわりに生える草を刈らねばならないのか、大村奈美には皆目分からなかった。                      (332ページ)

 うーん、私は、ちょっと感動した。最近は読んだこともない、古くさくて、いかにも「小説」という文体だ。「皆目」なんて、耳で聴いて、理解できるかなあ。村上春樹の磨き上げた氷の上に、さらに油を引いたような、絶対にスピードが落ちない文体の対極にある。これは、しかし、長編小説の文体ではないか。どうなるのかな?

また彼女は、草刈りに自分が加勢しなければならない理由も分からなければ、いや、きっとこちらから頼まなくても喜んで来るにちがいないと母の美穂が独り決めに決めているらしい口調で、二週間前に電話口で言ってきたことも分からずにいた。(332ページ)

 「独り決めに決めている」は舌を噛みそうだ。「分からなければ/分からずにいた」というのもしつこい。「口調で」「電話口で言ってきた」は「意味」はわかるが、こんなしつこくて古くさい言い方をいまだれがするのだろう。
 「意味」をつたえるのではなく、「意味」以外のものを書く。私は確かにそういうものを読みたいと思うが、驚いてしまう。
 これを、どこまでつづけるのか。
 ずーっとつづけるならば、それはそれでおもしろいと思う。それこそ村上春樹の「対抗馬」になってもらいたいとも思う。
 ところが。

まるで疲れを知らない馬の忙しく交互に踏み出される脚でも眺めているような気持ちになりながら感じていた。                    (338ページ)

 ここに書かれている「馬」は、どんな馬? 馬を古川はどこで見たんだろうか。競馬場? 競走馬は「疲れを知らない」という走り方はしないだろうなあ。ゴールがきまっている。そこへ向けて必死に走るだけである。
 たぶん古川は「疲れを知らない馬」を見ないままに書いている。「比喩」を自分の「肉体」から引き出しているのではなく、「古い小説」で読んだことばのなかから引き出している。
 古川の「文体」が古いのは、古川が「古い時間」を生きているからではなく、たんに読んでいる本が「古い」だけなのだ。「ことば」が「肉体」を通っていない。「頭」を通り抜けているだけなのだ。
 この「馬」のあと、「母と伯母はどちらも、せっかちかと思えばだらしなく、またそうかと思えば」から「少しも躊躇わなかった」までの、十二行もつづく長い文章(338ページ)も、どこかの「古い」小説をのことばを「引用」し、つなぎ合わせている感じがしてしまう。
 村上春樹の文章は、翻訳しやすいように「整理」されすぎているが、古川の文章は、逆に「整理」ということが一切されていないだけなのだ。
 小説は「現代」と「過去」を行ったり来たりする。それも単に「整理」ができていないだけなのだろう。「だろう」と推量で書くのは、「雄飛熱」「昼」と350ページまで読んで、それから先をやめてしまったからだ。それにつづく「芋粥」をちょっと眺めてみたが「過去(戦争)」が書かれている。どうしたって、体験ではないね。
 小説が「体験」にもとづかなければいけないというわけではない。「体験」しか書けないのだったら、小説の意味がない。でも、そのことばは、作者自身が「肉体」で知っているものでないとつまらない。どこかに「生々しい」ことばがあるかもしれないけれど、先に引用した「馬」のような古川のことばを支えているのだとしたら、読んでもぞっとするだけだなあと思ったのである。
 「頭」で知っていることばで「肉体」のなかでうごめくものを整理しても、それは文学にはならない。ことばの整理の手順というか、方向性が完全に間違っていると思う。










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DIVA「よしなしうた」

2020-02-08 21:54:19 | その他(音楽、小説etc)


DIVA「よしなしうた」(troubadour cafe)

 DIVA「よしなしうた」は谷川俊太郎の詩に谷川賢作が曲をつけた作品。CDである。21曲収録されている。歌・高瀬"makoring"麻里子、ピアノ・谷川賢作、ベース・大坪寛彦(ゲスト=フルート・坂上領、バイオリン、ビオラ・帆足彩)。
 聴きながら、そうか、DIVAには(あるいは谷川賢作には、というべきなのか)谷川俊太郎の「ことば」はこんな音楽に聴こえるのかと思い、すぐに、いや、ここには谷川賢作が聴いた音楽そのものではなく、聴いた音楽に向き合っている「和音」のようなものが奏でられているのか、と思いなおす。
 つまり、谷川の詩から聴き取った音楽をそのまま再現しているのではなく、谷川の「楽譜」になっていない音楽そのものに向き合う形で、「楽譜」に再現できる音楽を演奏している。
 だから、この音楽に向き合うには、単にDIVAの演奏に耳を傾けるだけではなく、「音」としては表現されていない谷川のことばの音楽を聴き取ることも必要なのだ。
 と書くと。
 なんだかややこしいが、これは、私が「頭」で考えたことをことばにしたからだ。
 実際は、もっと簡単。

 谷川の詩を読むと、「音楽」が聴こえる。音楽の才能がある人ならそれを「楽譜」として再現できるかもしれないが、私にはそういうことはできない。ただ、「楽譜」にはなっていないが、私の「肉体」のなかで「響く」ものがある。あるときは「肉体」になじむし、あるときは「肉体」になじまない。違和感のある「音」もある。しかし、どんな形であれ、なんとなく「音楽」が聴こえる。
 私はどうしても、その谷川の詩の音楽を先に思い浮かべてしまう。私の「肉体」が覚えている谷川の音楽を抱え込んで、DIVAの音楽を聴く。そうすると、

 えっ、谷川の詩って、こんな音楽? こんなふうにDIVAには聴こえるのか。

 驚いてしまう。私の「肉体」が知っている谷川の詩の音楽とは違うからだ。
 でも、これは、あたりまえのことだと思う。
 詩ではなく(ことばではなく)、たとえばモーツァルトを聴いたとしても、私が聴いているモーツァルトの音楽と、他人が聴いているモーツァルトの音楽は同じであるはずはない。「楽譜」に再現すれば同じかもしれないが、響きあう「音(旋律、リズム、響き)」から何を聴きとっているかは、わからない。同じ音に感動しているかどうかは、わからない。きっと、聴いた人の数だけ違っている。
 「楽譜」があったとしてもそうなのだから、「楽譜」のない谷川の詩のなかの音楽なら、そこから聴き取るものは、もっと違っているに違いない。(あるいは、逆に、「楽譜」がないから「同じ」になるはずだということも考えられるかもしれないけれど、こういうことはあまり複雑に考えるのはやめておこう。)

 で。

 谷川の詩を読んだとき、私は「ことば」で感想を書く。それは私の勝手な感想だけれど、「対話」であるという意識もある。少なくとも、私は「こんなふうに読みました」と谷川に向けて「ことば」を動かしている。
 DIVAもきっと、「こんなふうに読み(聴き)ました」ということを「音楽」をつかって語っているのだと思う。声で、ピアノで、ベースで。

 私は歌わないし、ピアノも弾かない、ベースも弾かない。だから、DIVAの人たちが具体化している「音楽」が、彼らの「肉体」のなかでどう動いているのか見当もつかないのだが、聴いたときに「そうか、こんなふうに向き合うのか」と思う。
 私が谷川の詩を読んでいるときに聴こえるものとは違うと感じる。あたりまえのことだが、そのあたりまえに気づかされる。そして、これは谷川の詩を再現したものではなく、谷川の詩と向き合っている音楽なのだと思うのだ。
 すると、DIVAの音楽を聴いているのだという気持ちになり、落ち着く。

 最初に聴いたとき「かがやく ものさし」「けいとの たま」「たんぽぽのはなの さくたびに」「かえる」「おおい」「ここ」が、おもしろいと思った。二回目に聴いたときは「かがやく ものさし」「けいとの たま」「かえってきた バイオリン」「ふしぎ」「せなか」「おおい」「はくしゃくふじん」がおもしろかった。重なるものと、重ならないものがある。三回目を聴けば、また、印象が変わるかもしれない。でも、印象が変わりすぎると、感想が書けなくなるので、二回聴いたいまの感想を書いておく。
 一番好きなのは「おおい」、次が「かがやく ものさし」である。「かがやくものさし」は一曲目に収録されているので、印象が強くなるのかもしれない。でも、どこが好きか、なぜ好きか、ということは、「ことば」にならない。音楽について語ることばを私は持っていないのだろう。あえて言えば、詩と音楽が「ぴったり」あっているという感じがする。変な言い方だが、私が谷川の詩から聴き取っている音楽とDIVAが聴き取っている音楽が近いのかもしれない。
 「かえってきた バイオリン」と「はくしゃくふじん」は谷川のことばを離れて、ただ音楽としておもしろかった。二回目に聴くときは、詩がある程度、私の「肉体」のなかに入っているので、「ことば」を聴く(意味をたどる)という感じが軽くなっているのかもしれない。
 ただ「せなか」はちょっと不思議で、一回目に聴いたときは「かゆさがきえたら かゆみはどこへいくのか」という「ことば」がとてもおもしろく、その印象が強すぎると感じたのに、二回目は、その「ことば」の強さが妙に落ち着くのである。「音楽」というよりも、「ことばが指し示す意味」を、「あ、ここがおもしろい」と思って聴いているのである。
 「ことば」と「音楽」の関係が、いつでも同じように響いてくるわけではない。あたりまえのことなのかもしれないが、それがおもしろいなあ、と感じた。
 さらに、ぽつりぽつり、というか、ときどき感じたことなのだが、高瀬の「声」が描き出す旋律をピアノや他の楽器でたどりなおすということがいくつかの曲で繰り返されている。「音」から「ことば」が消えて、「旋律」に純化されていく。「純化」といっていいかどうか、わからないけれど、「あ、意味がなくなると、音が透明になる」と感じる。音が透明になるだけれど、しかし、肉体のなかには直前に聴いた「意味としてのことば」も残っているので、完全に透明ではない。だからこそ、また「透明」と感じるのだともいえるのだが。
 この不思議な「意味としてのことば」「意味を消し去った音」の向き合い方に、強く惹かれていることに気づく。
 「意味」と「無意味(意味を消し去ったもの)」はいつでも向き合い、追いかけっこをしている。そういうことが「音楽」なのかもしれない。「意味」を語ろうとすれば、「無意味」からも「意味」を語れるし、「無意味」を語ろうとすれば「意味」を土台にしても語ることができる。その間で、「音楽」は自由に動いている。そういうことを感じた。
 「よしなしうた」は、谷川の詩を中心に語れば、最後の「歌われて」をのぞけば、ナンセンスな詩である。「意味」をつたえることよりも「意味」を捨てて(消して、というよりも)、「もの」そのものを存在させる、という感じが強い。そういう詩に対して、DIVAの音楽は、「音」そのものを向き合わせ、「和音」になろうとしているように感じられる。


 



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詩はどこにあるか2020年1月号

2020-02-02 21:07:30 | その他(音楽、小説etc)
詩はどこにあるか2020年1月号発売中。
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目次
谷川俊太郎「ことばを覚えたせいで」2  天沢退二郎「決して奇跡などとはよべない奇述の試み」8
池井昌樹「ひらいて」11  三角みづ紀「パプリカミュージアム」15
夏目美知子『ぎゅっとでなく、ふわっと』18  沢木遥香『わたしの骨格』22
小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』25  水根たみ『幻影の時刻』29
朝吹亮二「雪 降りつづけ」33  野沢啓「暗喩の発生――言語暗喩論」39
新井高子「デクルボー」44  朽木祐『鴉と戦争』47
青柳俊哉「未来の朝」、池田清子「何罪」、谷川俊太郎「あなたの私」50
山本育夫書下し詩集「しはしは」十八編58  竹内健二郎『四角いまま』68
西川詩選70  山下修子『空席の片隅で』77
細野豊「地の上へ散るだけの」81  森永かず子「いつか夢になるまで」、井上瑞貴「森林区」85
柴田基典「夏の原理」90  中上哲夫「ニューヨークの地図」95
中村不二夫「川の名前」99  青柳俊哉「形のない風見」、池田清子「見えますか」101 

1月の映画 108
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小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』

2020-01-08 21:54:26 | その他(音楽、小説etc)


小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』(岩波現代文庫、2019年12月13日発行)

 小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』には、単行本に追加した三篇がある。そのうちの「きみとしろみ」はゆで卵の「黄身と白身」なのだが「きみ」は同時に「君」をも含んでいる。岩本正恵が訳したクレア・キーガンの「別れの贈り物」(『青い野を歩く』の一篇)を読むという体裁をとっている。
 そのなかにこんな文章が出てくる。

読み進めるうちに、わたしのなかに、一人の女が生々しく形作られていった。
                               (166ページ)

 このことばは小池の「本質」のようなものをあらわしている。「他人」なのに、それが「わたし」の内部で「女」を生み出していく。主人公を自分のことのように感じる、と言い直してしまえば、誰もが感じることなのかもしれないが、それを「女」と対象化し、しかも「生々しく」とつかむのが小池の特徴だと思う。
 「生々しさ」については、小池は、こう言い直している。
 ゆで卵をつくるとき、殻が割れて白身がはみだすときがある。このはみだした白身を岩本は「リボン」ととらえている。小池は、

それを「脱腸」のようだと思いながら、いつだってその様子をじっと見ていた。その無為の時間の肌触りが、こんな箇所を読むと、蘇る。そうして読む時間をふくらませる。
                               (176ページ)

 「時間をふくらませる」(時間がふくらむ)。時間が、それまでと「異質」なのものになる。異質といっても、それはむしろ「ほんとう」になる、ということだ。あ、この時間こそが「ほんとう」だと感じる。
 それを「生々しい」と読んでいる。
 「生々しくない」時間は、客観的に描写できる「物理」の時間ということになるかもしれない。けれど人間は、時計で測れる物理の時間を生きているのではない。時計では測れない時間を生きている。「ふくれた」は、つまり、時計の時間から「はみだした時間」ということになるだろう。
 問題は、と書くと、語弊があるかもしれないが。
 問題は、そういう時計の時間からはみだした「ほんとう」の時間は、ゆで卵からはみだす白身のような形をとるとは限らないということだ。
 「別離」には、そのことが書かれている。梅酒をつくっている。梅酒の梅はもいでつくる。しかし、なかには自然に落下する梅もある。その梅は青梅ではなく、むしろ成熟している。それが枝から落ちる瞬間を、梅が木から「別離」する瞬間を見たことがないなあ、と「わたし」は思う。
 この見たこのない完全な別れ(ほんとうの別れ)について考えているうちに、「わたし」は「将来を約束した」男と別れたときのことを思い出す。「わたし」は「約束」を信じていたが、男は「黙って」去った。

あの時、はっきりとした破棄の言葉があれば、別れの言葉があれば、わたしは前に進めただろう。長く、この衝撃を引きずったけれど、歳月は流れ、わたしはその後を生き、今も生きていて、この顛末も忘れた。けれど落下した梅について書くうちに、なぜかあの時の記憶が蘇ってきた。
                               (226ページ)

 ここにもまた「ほんとう」がある。そしてこの「時間」もまた、過去から「ふくれあがって」、いまを突き破ってあらわれたものだといえるだろう。
 「蘇る」は「生き返る」であり、それは常に「生々しい」。小池の書いている「蘇る」の前に「生々しい」ということばを補うと、小池が書こうとしているものがよりはっきりと見えてくると思う。実際、いま引用した文章の二つの「蘇る」の前に「生々しく」を補って、「生々しく蘇る」という形にして読んでみるといい。小池が直面しているのは「生々しさ」だということがわかる。
 また最初に引用した文章から「生々しく」を省略してみればいい。省略しても「意味」は通じる。

読み進めるうちに、わたしのなかに、一人の女が形作られていった。

 しかし、何かが物足りない。逆に「形作られていった」を「蘇った」にしてみるとどうなるか。

読み進めるうちに、わたしのなかに、一人の女が生々しく蘇った。

 小池が、主人公を自分自身と感じていることが実感できる。一人の女の「時間」が「ふくれて」、生々しく「蘇った」のである。つまり、小池は、そうやって自分自身になるのである。「ほんとう(ほんもの)」になるのである。
 「生々しく」は小池のことばの運動の「キーワード」である。






*

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閻連科『愉楽』

2019-11-23 09:55:53 | その他(音楽、小説etc)
愉楽
谷川 毅
河出書房新社


閻連科『愉楽』(河出書房新社、2015年03月30日3刷発行)

 村上春樹がノーベル賞を逃した日、私は「閻連科が、いまいちばんおもしろい」というような話を知人とした。何冊かの本の感想はすでに書いているので、まだ書いていない『愉楽』の感想を書いておく。(すでにいろんな人がいろんな批評を書いていると思うけれど。)
 帯にこんな紹介文がある。

真夏に大雪が降った年、障害者ばかりの僻村・受活村では、レーニンの遺体を購入して記念館を建設し、観光産業の目玉にするという計画が始動する。

 これだけで、もう「デタラメ」(荒唐無稽)なことがわかる。いわゆる「現実」を描いていないということが、わかる。でも、「小説」だから人間が出てくる。人間は「肉体」をもっている。人間が動けば、どうしたって読者の「肉体」も動く。「動き」が共有される。その「共有」されるということは「デタラメ」ではない。
 もちろん、ふつうの人間にはできない「動き」というのは、ある。しかし、それを「ことば」でできるかのように書くことができる。ことばは「肉体」の限界を知らない。書かれている「肉体」の動きに刺戟され、読者の「肉体」も自然に動いてしまい、それがなんとも楽しい。
 究極の「リアリズム」がそこにある。
 「ことば」で考えることができる。それは、「肉体」でできることでもある。少なくとも、「肉体」は、それをしたい「欲望」をもつ。そして、欲望が生まれた瞬間、「肉体」は無意識に動くのである。そこに人間の避けて通れない「リアル」がある。裸の女を見て勃起するようなものである。勃起を引き起こすのは裸の男であるかもしれないし、死にそうな老婆かもしれない。動物、ということもあるだろう。えっ、そんなことが、と誰かが思ったとしても、それは単にそのひとの「欲望」が貧弱だっただけ。人間は、どんなことでも「欲望」できる。「欲望できる」ということが、「本能(生きる力)」なのだ。
 「レーニンの遺体を購入して記念館を建設し、観光産業の目玉にする」というのも、「頭」のなかの「空想」ではない。どうしたって、「肉体」が動く。遺体を購入するには金を稼ぐというところから始めないといけない。「肉体」を動かして働かないかぎりは何も始まらない。
 で、つぎつぎに、私が(そして、たぶん多くの読者が)想像したことのない「肉体」の動きが展開される。そんなことができるはずがない、というのは簡単だが、動かせる「肉体」があるのだから、そういうことができたってかまわない。そうしたいかどうかだけである。セックスと同じ。自分のしたいことがあれば、そうするだけだ。

 ということは、これ以上書いてもしようがない。すでに「奇想天外」については多くの人が書いているに違いないと思う。
 たとえば、谷川俊太郎は「帯」に、こう書いている。

読んでいるとどんどん面白くなってくる、だんだん怖くなってくる、その奥深い魅力。アタマでは分からない中国を、カラダが知った。

 谷川は「カラダ」と書いている。私は「肉体」というこばをつかう。つかっていることばは違うが、たぶん、同じことを指している。
 だから、もうこのことは書かないで、別なことを書く。

 この小説を読み始めて、途中で、あれっ、と思う。
 「第一巻(第一章、第三章、第五章)」「第三巻(第一章、第三章、第五章……)」。 「第二巻(第二章)」というような「偶数」のくくりがないのだ。ストーリーがめちゃくちゃなので、最初は気がつかない。ふと、「あれ、さっき読んだのは第一章じゃなかった? 今第三章だけれど、第二章は? 乱丁本?」と気がつき、目次で確かめると、偶数がないのだ。最初から「奇数」だけで構成されている。
 わざとしている、といえば、それだけなのだが。
 私は、非常に、非常に、非常に、つまずいた。私の「アタマ」のなかにある「中国人」とはまったく違う「思想(肉体)」の人間が動いている。
 私にとって中国とは「対(二つ、偶数)」の国である。なんでも「対」でなっている。対というのは「一つ」と「一つ」であり、「対」とはその「一つ」と「一つ」がいっしょになって「別の一つ(完成された一つ)」になる。「陰陽」思想というもの、それをあらわしていると思う。
 中国には「二つ」以上の数はない。「三つ」からは「無限」である。つまり数えられない。
 そして、この「数えられない」(無限)こそが、閻連科の「思想(肉体)」なのである。もし「対」が生まれてしまったら、それを破壊して「奇数」にしてしまう。「奇数」にすることで、世界を破ってしまう。開いてしまう。言い直すと、完結させない。
 その「証拠(?)」のようなものを小説のなかから探してみると。
 中心的な人物のおばあさんには四つ子の姉妹がいる。ひとりが対をみつけて双子になる。双子が対をみつけて四つ子になる。ここまでは「偶数」の中国思想。でも、その四つ子のなかにひとり、とても小さい女の子がいる。「蛾」のように小さい。(もともと四人とも小さいのだが。)四つ子(偶数、対)だけれど、どこか「破綻」している。このなかから、ひとりが男とセックスをすることで、ふつうの女にかわっていく。身長ものびるし、美人になっていく。またまた、それまでの世界が破られていく。
 それよりもっと明確な「証拠」は、金稼ぎの見世物興行が成功し始めると、急いでもうひとつ見世物興行集団をつくる。「一つ」ではなく「二つ」になることで、金がますます入ってくる。つまり「対」が世界をよりよくする……はずなのだが、それは「円満解決(ハッピーエンド)」にはつながらない。大もうけしたはずが、とんでもない事件が起きる。破綻する。「一つ(孤)」にもどってしまう。「一つ(孤)」といっても「集団」ではあるのだけれど。
 閻練科は、その「孤」を肯定している。「対」による「完成」ではなく、「対」を破る運動を、「孤」に託している。
 私は、そう読むのである。「孤」こそが、想像力を解放し、あらゆる「リアル」を可能にする。「対」は「リアル」を抑制する。「対」はニセモノの「リアリズム」である。そう宣言している。つまり、「中国の古典(漢詩の世界など)」は「理想」が描かれているかもしれないが、それは「リアル」ではない。閻連科は、「文学」に対して異議を唱えている。
 だから、読みにくい。だから、楽しい。新しいから。
 ノーベル賞は、こういう冒険(開拓)にこそ与えられるべきものだと思う。






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詩はどこにあるか2019年10月号

2019-11-01 10:56:21 | その他(音楽、小説etc)
詩はどこにあるか2019年10月号の発売をはじめました。
「製本し注文する」のボタンを押すと手続きが始まります。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138

目次。
加藤治郎『混乱のひかり』2  阿部日奈子『素晴らしい低空飛行』7
河野妙子『クロノスとカイロス』13  谷川俊太郎「ヨンダルビナ」15
新保啓『朝の行方』19  朝日カルチャーセンター福岡「谷川俊太郎の世界」・10月07日 24
高塚謙太郎『量』32  井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」35
吉田文憲「残身の声」38  八重洋一郎「白梅」46
今野和代『悪い兄さん』51  宮せつ湖『雨がふりそう』56
山本育夫「抒情病」十八編 59  江代充『切抜帳』67
山本育夫「抒情病」十八編(2)71  白井知子『旅を編む』79
生田亜々子『戻れない旅』86  江代充『切抜帳』(2)91
高橋順子『さくら さくらん』95  作田教子『胞衣』100
江代充『切抜帳』(3)106  宮尾節子『女に聞け』110
星野元一「家族」117  鷹森由香『傍らのひと』124
王秀英『よその河』127
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今村夏子「むらさきスカートの女」

2019-08-18 20:28:28 | その他(音楽、小説etc)
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女
今村夏子
朝日新聞出版


今村夏子「むらさきスカートの女」(「文藝春秋」2019年9月号)

 今村夏子「むらさきスカートの女」は第百六十一回芥川賞受賞作。その書き出し。

 うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。いつもむらさき色のスカートを穿いているのでそう呼ばれている。

 「呼ばれている」が二度繰り返されている。「受け身」である。では、だれが呼んでいるのか。「うちの近所」のひとということになるが、この小説の「うち」はかなり広く、そこに暮らす人(登場人物)もわりと幅広い。「あひる」と同様、「大人」と「こども」、その中間に「わたし」がいる感じだが。「うち」が「わたし」だけの主張であるために、「大人」「わたし」「こども」の交渉が明確にならず、「呼ばれている」が「浮いている」。
 この「呼ばれている」は「受け身」というよりも、一種の「逃げ」である。
 ほんとうは「わたし」が「呼んでいる」だけなのに、「呼ばれている」と書くことで「客観」のように書く。他者に「共有」されているように書く。「うち」という書き出しがそういうところへ読者をひっぱって行く。
 これは非常に「ずるい」書き方である。
 これから始まる小説は一風変わっているが、「主観(うち)」的なもの、あるいはファンタジーではなく「客観」的なものである、つまり「共有」されたものであると作者は主張するのだ。もし、このストーリーが「共有」されないとしたら、それは読者が悪いのだ、と先に言ってしまっている。あるいは、これから始まるのは「客観」なのだから、「共有して」と哀願から始まっているというべきか。「呼ばれている」の繰り返しの中に、私は、そういう「作者の地声(こころの声)」を聞く。
 この書き出しで、私は読む気力をそがれたのだが、少しがんばって読んでみた。
 すぐに「むらさきのスカートの女」とは別に「黄色いカーディガンの女」が登場する。彼女は「呼ばれていない」、つまり共有された呼称にはなっていない。「わたし」が勝手に呼んでいるだけだ。黄色いカーディガンの女は「そと」の人間であり、しかも「うち/そと」を決めたのは「わたし」なのである。
 この「微妙なずれ」を作品のなかで深めていけばいいのだが。
 これもあけすけな「手法(ずるさ)」にすぎない。
 「呼ばれている」と「まだ呼ばれていない」(わたしが呼んでいるだけ)をすれ違わせることで、「わたし」が「むらさきのスカートの女」と「呼ばれている」人間であり、その「呼ばれている」から「呼んでいる」人間になるために「黄色いカーディガンの女」を登場させたことがわかる。
 どっちにしろ、「わたし」ひとりなのだ。「共有されたわたし」が「むらさきのスカートの女」であり、「共有されていないわたし」が「黄色いカーディガンの女」なのだ。「わたし」は「わたし」を「分裂」させながら、ストーリーにしている。「客観」と「主観」を交錯させる。
 これは「あひる」の、「このあひるは、いままでのあひる?」「それとも別のあひる?」という交錯のさせ方に似ている。「事実」を知っている人と、知らない人がいる。知らない人も、実は知っていて知らないふりをしているだけ、とか。もう、細部は忘れてしまったが、「新しいあひる」は「いままでのあひる」と「呼ばれていた」のだったか。呼んだのは両親であり、こどもは知っているのに知らないふりをしてだまされ、「わたし」は疑問に思いながら「共有」を受け入れたのだったか。
 まあ、いいか。
 こういう「交錯」は「あひる」のように短い作品か、もっと長い作品でないと「交錯」が「作為」としてしか見えてこない。この小説も五十枚くらいの長さなら楽しいかもしれないが、長すぎる。
 舞台が「うちの近所」から「わたしの職場」(うちのホテル)に移ってからは、もう「呼ばれている」は消え。「うちの職場」なのに、ひとりひとりが固有名詞を持ち「うち」が「そと」になってしまう。むらさきのスカートの女は「日野」という名前がつけられ、「そと」の世界では「風貌」のかわりに「人間性」が「噂される」。「風貌」よりも「行為」そのものが「共有」される。「噂」は「呼ばれる」の別の言い方である。ストーリーがここからは別なものになってしまうのだ。
 それをもとにもどすために、作者は「ファンタジー」を持ち込む。不倫の上司が会談から落ちて死んでしまう。ほんとうは気絶だった、と言いなおす。
 「呼ばれる」「呼んでいる」を強引に「気絶を死んだと呼んだ(呼ばれた)」という形に転換できないこともない。「わたし」が「所長が死んだ」と「呼び」、それが「むらさきのスカートの女」には「所長が死んだと呼ばれた」と。
 ばかばかしくて、やめようと思ったが、最後まで読んだ。
 すると「予定調和」そのままに「わたし」が「むらさきのスカートの女」としてこどもたちに「共有」される。

 最近おもしろかったのは「コンビニ人間」だけだなあ、と思う。あの小説には「音の発見」があり、それが小説の「文体」をつくっていた。
 この小説では「呼ばれる(暗黙の、うちの世界)」が「飾り」で終わっている。「ホテル」からは通俗小説になってしまっている。



 


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2019-08-16 07:32:07 | その他(音楽、小説etc)
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閻連科『黒い豚の毛、白い豚の毛』

2019-08-01 09:52:32 | その他(音楽、小説etc)
黒い豚の毛、白い豚の毛: 自選短篇集
谷川毅
河出書房新社



閻連科『黒い豚の毛、白い豚の毛』(谷川毅=訳)(河出書房新社、2019年07月30日発行)

 閻連科の文体は強烈だ。『年月日』では音の描写に驚いた。今回の『黒い豚の毛、白い豚の毛』にも、ことばによってはじめて生み出された音(詩)がある。

その一時の静寂は、視線を地面に落としただけでもカランと音がしそうなほどで、秋の収穫の香りが駅に流れ込んできただけでも、まるで台風の風が吹き込んできたかのようだった。(「革命浪漫主義」184ページ)

 視線が地面に落ちて音をたてる! 聞いたことがありますか? ことばにしなければ存在しない音。しかしことばになってしまうと、その瞬間から、世界を変えてしまう。「音がしそう」と書いているのだから、実際は「音」はしなかったのかもしれないが、その「しなかった音」が私の「肉体」のなかに残る。そのために世界が違って見えてくる。はじめて見る世界が(小説に書かれているのは私の知らない世界なので、それはもちろん初めてには違いないが、そういう「理屈」ではない、完全に知らなかった世界が)、まるで私自身が見ている世界としてあらわれてくる。
 しかし今回の「短篇集」では、そういう「音」よりも、「匂い」(嗅覚)の方が印象的だ。いま引用した部分にも「秋の収穫の香り」ということばがある。ただし「秋の収穫の香り」というのはあまりにも整えられていて、「肉体」を強くは刺戟しない。(これは、私が「読み慣れてきた」ということの影響かもしれないが。)強烈なのは、たとえば「黒い豚の毛、白い豚の毛」の書き出しである。(7ページ)

 春には春の匂いがあるべきだ。花や草の、青々とうっすらしたのがゆらゆら漂うように。あるいは緑で、濃い馥郁とした香りが鼻を突く。奥まった路地裏のお酒のような。しかし日の入りのこの時刻、呉家坡の人たちは、赤く血だらけの、生臭く濃い血の臭いが尾根の道の方から、紫がかった褐色となって、一団一団まとまって漂ってくるのを嗅いでいた。

 匂い(この場合は、臭いか)は嗅覚を刺戟するだけではない。嗅覚は視覚にも連動し、臭いに色がまじる。肉体を覚醒させる異様な匂いは、色までも異様にさせる。
 一方、「奴児」にはこんな視覚と嗅覚の連携もある。(73ページ)

奴児は木や草を目で見るのと同じように、草の匂いを鼻で見ることができた。草の臭いが見えると、彼女の鼻はヒクヒク動いた。それは他の人には見えず、彼女にしか感じ取ることができないもので、冬に手を握りしめると、手のひらの湿り気が、曇りのときの湿り気なのか、晴れる前の霧の湿り気なのか彼女にはわかるのと同じだった。

 肉体のなかの「感覚」は次々に広がっていく。肉体そのものが覚醒し、世界が新しく生まれてくる。
 ああ、ここに書かれている「世界」へ行って、私自身の「肉体」と「感覚」をもう一度生き直してみたい、という欲望に誘われる。
 閻のことばは、生きる欲望を刺戟する。そういう欲望、あるいは本能を私が生きてこなかったことを教え、私を悔しがらせる。小説なのだから、そこにはストーリーがあり、登場人物の動き(変化)が描かれているのだが、私はストーリーよりも、激烈な感覚の方にひっぱられてしまう。
 しかし、ここに書かれているのは、だれの「肉体」、あるいは「感覚」なのだろうか。主人公のものか。作者のものか。そういう「分析」は必要かもしれないが、私はそういうことを忘れてしまう。ただ生々しい「肉体」に揺さぶられる。
 で、この日本の作家からは感じることのできない強烈な「肉体感覚(感覚器官の覚醒)」に触れ続けていると、ふと違ったことを考えるのである。

 ストーリーは、ある意味では登場人物(主人公)の「意味」である。ひとはだれでも自分なりの「意味」を生きている。
 一方、ことばを考えると、(ことばを見つめなおすと)、そこには「意味」があるのはもちろんだが「意味」でないものもある。簡単に言えば「音」がある。
 でも。
 中国語の場合(私は中国人ではないので、あくまで私からみた印象を書くのだが)、ことばを書き残すときの「文字」(漢字)は「音」であるのはもちろんだが、何よりも「意味」である。一文字一文字が「意味」を持っている。日本語の場合、「ひらがな」は「意味」を持っていない。意味はことば(音)を重ねてつくっていかなければいけない。けれど中国語(漢字)は、「意味」をつくる前に「意味」が存在してしまっている。
 これはとても「苦しい」ことではないだろうか。「肉体」がつねに「意味」に縛られていることにならないだろうか。もちろん「文字/漢字」を覚える前に、ことばは耳から入ってくるから、「音」の方が優先するのだと思うが、その「音」はすでにそれを発する大人の知っている「意味」を強く含んでいる。「音」は単独では存在しない。
 閻は、こうした「意味」の束縛をたたきこわしながらことばを動かしている。中国語を作り替えている。小説を書くというよりも、中国語そのものを「意味」から開放し、「肉体」としてつくりなおす。そういうことをしていると思う。
 「意味」はまた「抽象」と言いなおすこともできる。中国語(漢字)は、それに触れたときから人間を「抽象」にしてしまう。ととのえる、と言いなおせばいいだろうか。鍛えるというよりも、ある「形」のなかに閉じ込める。このことは「日本語の文学」のことを考えるとわかりやすい。(私が日本人だから、勝手にそう思うのかもしれない。)日本語は表記の際、「漢字」を利用した。「漢字」と「ひらがな」を組み合わせることで「文学」が広がっていった。「ひらがな」の「音」だけの世界を、「漢字」のもっている「意味」がととのえる。感情を「意味」に整理していく。「知性」にかえていく。万葉から古今(新古今)への大きな変化には、「漢字」と「ひらがな」の「融合」が影響しているのではないか。漠然と(つまり、いきあたりばったりに)、私はそんなことも思う。
 で、閻のやっているのは、「抽象」によって「美を完成させる(ととのえる)」ということとは逆のことだと思う。「具体」(たとえば、嗅覚、聴覚)を覚醒させることで、いままで存在しなかった「美」を出現させる。「抽象」によって抑え込まれていた「リアリティー」を復活させる、ということではないだろうか。
 だから、と私は、私に引きつけていうのだ。閻の小説は「ストーリー」があってもストーリーなんかに「意味」を求めてはいけない。「ストーリー」はことばを動かすための「方便」。閻のことばはストーリーから逸脱した部分にこそパワーがある、と。



 ちょっと余談。以前、楊克『楊克詩選』(竹内新編訳)(思潮社、2017年04月30日発行)を読んだ。そのことをブログに書いた。
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/598535ebfffe3c5e520fad1d5b49b7f8
 そのとき、「対句」がとても印象的だったので、そこから中国人は「対句」が好きだ。偶数が好きだ。そして「1+1=2」が最大の数で、2を越えると無限になる、ということを感じとった。
 「道士」という作品に、少しこれと似ていることばが出てくる。(212ページ)

道教の言葉の対聯には「一が二を生み二が三を生み三が万物を生む。有は無のため無は有のため無が有ることで有が無い」とあった

 私はこのことばを知らなかったが、私が楊克『楊克詩選』で書いたことは、ある意味で「当たっていた」と感じた。私は「三」にまで思いが及ばなかったが、中国人が数を数えるのは「1+1=2」までなのだと確信した。(あとは無意識=肉体の処理ではなく、あくまで計算、数学の理性的処理だ。)

 で、このことを書いたのは。
 漢詩というのは、私の印象では、非常に洗練された世界、知性がことばを支配している世界だと思う。感覚も描かれているが、まず「意味」が完成されている。「意味」にあわせて感覚が動いている。「意味」だけでなく感覚を刺戟する詩が印象的なのは、中国人はそれだけ「漢字の意味」に縛られ、そこから逃れたがっているということかもしれない。そういう点から見れば、閻の小説のことばは、「新しい漢詩」の出現だとも言える。



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三木清『三木清全集』16

2019-06-22 22:43:29 | その他(音楽、小説etc)
三木清『三木清全集』16(岩波書店、1985年11月06日、第2刷発行)

 少し気になることがあって『三木清全集』16を開いてみた。『時代と道徳』が収録されている。1935年03月19日から翌年11月24日まで、読売新聞夕刊に週一回書かれた時評である。
 しばしば現代の状況が「戦前の状況」に似ていると言われる。「政治状況」を指していうことが多いのだが、そうではなくて「全体の状況」が似ていると思う。私は「戦前の状況」を具体的には知らないが、現代の状況について考えるとき、ああ、これはどこかで読んだことがあるような、と思うのである。どこで、だろう。私の持っている本のなかでは、三木清くらいしか思いつかなくて、ふと開いてみたる。
 「東洋人に還る」(12月22日)には、こんな文章がある。(旧字は現在の字体で代用。一部、表記を変えたものもある。他の文章も同じ)

 現在、大多数の学生の脳裡に去来するのは何よりも就職問題である。しかも野心的な成功の望みを絶たれた彼等は、むしろただ、無意識的にせよ、伝来の明哲保身イデオロギーに助けられて、思想問題や社会問題の如きに深入りする危険を避け、先づ就職だと考へるのである。

 これは「東洋人に還る」というテーマからは少し脇道にずれた部分なのだが、だからこそ、何やら恐ろしい感じがする。
 現代の若者は、正規社員になろうと必死である。非正規雇用では将来がどうなるかわからない。もちろん野心的な若者もいるだろうが、野心よりも先ず保身。
 年金問題(年金だけでは2000万円不足する)などに、なぜ若者が怒らないのかという意見がネットに書き込まれている。書き込んでいるのは、若者ではなく中高年、老人である。理由は、簡単なのだ。そういうことを書き込んで、安倍批判(権力批判)をしていると安倍に知られたら、正規雇用の道は閉ざされるのではないか、と心配している。そういう「危険」を犯したくない、と判断している。

 「暗示の影響」(01月14日)は、「人心が不安焦燥の状態にある場合、暗示の力は特に大きい」と書いたあと、こんなことを書いている。

 暗示の行過ぎや穿違ひは、暗示が権力者から与へられる場合に特に多いであらう。とりわけ平生あまり独立の判断力を働かせることができないやうな状態におかれてゐる者においてはそれが多いのである。例へば俗吏根性といふのがそれで、権力者の一言によつて種々の暗示にかかり、その心をいろいろ忖度して行過ぎたもしくは穿違へたことをして大衆に迷惑を及ぼすことが少くない。

 まるで「森友学園」事件の佐川のことを言っているみたいではないか。「忖度」ということばまで出てくる。

 「公衆の解消」(03月31日)は、「公衆は解消した、もしくは解消しつつある」という不気味なことばではじまる。

 公衆とは与論といふ知的表現をもつたものである。与論論と公衆との関係は精神と身体の関係である。近代においては与論を作り、与論を代表し、与論を再生産するものは主としてジャーナリズムである。だが与論形成の根底にはつねに談話がある。いかに新聞雑誌が発行されても、ひとが談話しないならば、それは精神に持続的な浸透的な作用を及ぼすことがないであらう。

 報道や言論の自由が甚だしく制限され、公共性をもたぬ流言蜚語が蔓延し、民衆の政治的関心といふものがそのやうな流言蜚語によつて刺戟されてをり、そして彼等の意見が与論として表現される公共の場所をもたないとき、公衆は解消する。

 談話の公共性が存しないとき、ジャーナリズムが本来の機能を発揮し得ないとき、公衆或ひは大衆の公衆性は失はれる。それは何を結果するであらうか。深く考ふべき問題である。

 「談話」の定義がむずかしいが、私は簡単に「直接的な対話(おしゃべり)/ことばのやりとり」と読んでおく。いま、ネットではさまざまな意見が書かれている。しかし、それは「口語体」で書かれていても、おしゃべりでも、対話でもない。単なる言いっぱなしだ。しかも、同じ意見の持ち主が寄り集まっているので、反対意見がない。つまり、おしゃべりを通して、それぞれの意見が変化していくということがない。対話(おしゃべり)を通しての意見の変化を「与論をつくる」「与論を再生産する」と三木はとらえていると思うが、そういう動きは現代の日本、現代のジャーナリズムにはない。
 政権と記者クラブの「記者会見」を見ていても、そこには「質問」(政権から、言いたくないことを聞き出す)の工夫がなく、単に政権の言ったことをそのまま聞くだけである。「大衆のことば」を代弁し、「大衆」として「談話」することがない。

 読んでいると、一冊丸ごと転写したくなる。そういう本である。ぜひ、読んでみてください。そして、現代がいかに「戦前」と似ているかを、社会全体の動きとしてとらえる手がかりにしてみてください。




*

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千住博展

2019-05-03 20:33:02 | その他(音楽、小説etc)
千住博展(北九州市立美術館別館、2019年05月01日)

 千住博の作品を初めて見たのは、瀬戸内海の直島。「石橋家」の庭と、襖絵。蔵に描かれた瀧の絵。
 襖絵の山は、裏側の廊下(?)にもつづいていて、山の裏側が見える。さらに進んで行くと蔵の中に瀧がある。山の中に踏み込んで、瀧にであった感じになる。明かり取りの窓からの光で表情を変える。私が行ったときは雨が降っていた。午後から少し晴れ間が出たので、雨の光の中と、午後の光の中と、二回見た。漆をぬった床に滝が逆さにうつり、まるで瀧壺の中にいるような感じがした。



 今回の展覧会は、高野山金剛峯寺の襖絵完成を記念して開かれたもの。奉納される前に展示された。会場は、そっくりそのまま高野山金剛峯寺をかたどっているわけではないだろうが、まず「断崖図」が広がる。それからその崖(山)を回り込むようにして進むと「瀧図」があらわれる。会場に高野山金剛峯寺の模型があって、展示(?)の仕方も紹介されているが、それに準じている。高野山金剛峯寺を体験できるようになっている。
 「断崖図」の崖(岩肌)の表情に引きつけられた。岩に亀裂が入り、その傷跡がむき出しになっている。亀裂の複雑な表情に圧倒された。傷跡と書いたが、それはほんとうに傷跡なのか。つまり、山が崩れ、山の内部がむき出しになったものなのか。逆に、山が表面を突き破って内部をさらけだしたものなのか。結果は同じだが、運動のあり方は逆だ。私は、山が内部からせりだしてきて、山肌を破ったのだと感じた。人間の顔の皺のように、「内部」が存在しなければ形になり得ない深さと強さがある。それはもしかすると、これから先も内部をさらけだすように表情を変えてしまうものかもしれない。展覧会で見た絵は、高野山金剛峯寺の中におさまったとき、もう一度脱皮(?)して、さらに深い表情を見せるかもしれない。機会があるなら、高野山金剛峯寺でもう一度見てみたい、と思った。
 なぜ、こんなに強い「顔」になるのか。千住博が「制作ビデオ」の中で語っている。岩肌の亀裂は和紙の皺に絵の具を流してつくったものである。和紙の中から出てきた「顔」なのである。もちろん、いくつもの表情があるから、千住は単に顔が生まれてくるのを待っているだけではなく、生まれてくる瞬間をとらえて、それを定着させている。それは、定着させるというよりも、一緒に生まれるという感じかもしれない。千住が絵を描くことを通して、崖になって生まれる。もう一度「断崖図」を見直す。それはやっぱり動いている。内部の強い力が表に出てこようとして動いている。そういうエネルギーを感じた。
 崖と一緒に生きている木。その濃淡。湿気を含んだ空気の変化も美しいが、その木々、さらにはこまかな雨、空間の広がりを、崖の「顔」がつくりだしている。
 静かなのに、とても強い声が聞こえてくる。一つの声ではなく、複数の声が崖の響き、引き込まれるような感じすらする。





 「瀧図」はまったく逆だ。いくつもの滝が落ちている。落ちる途中で水が砕け、激しい音がするはずなのに、まるで音が聞こえない。音と音がぶつかり、その激しさの中で音が沈黙してしまったかのような感じ。時間が止まる、という表現があるが、時間が止まるのではなく、時間が時間として生まれる前のような「絶対的瞬間」のようなもの。
 そのせいだと思うが、この瀧の背後というものが、瀧と同じ力であらわれてくる。瀧の背後は、単純に考えれば断崖である。しかし、岩とか山とか、そういう存在を感じない。瀧の背後には何もない。したがって、水は山の上から落ちてくるのではない。天から垂直に落ちてくる。無から落ちてくる。瀧の背後は無である。無といっても何もないのではない。逆に、そこにはすべてがある。あらゆるものなりうるエネルギー。それがたまたまここでは瀧として姿をあらわしている。だから、こう言いなおした方がいいかもしれない。瀧(水)は天から落ちてくるのでもない。ただそこに落下というの運動そのものとして存在している。目を凝らすとわかる。普通、水は落ちたら砕け、水面を乱す。だが千住の絵では、滝壺はまっ平らである。どこにも乱れはない。深い滝壺がすべての衝撃を受け入れているとも考えられるが、水は落下という運動の中で同時に上昇している、天へと立ち上がっているのだ。二つの運動は拮抗している。ぶつかりあって静止している。動いているけれど、絶対的不動でもある。
 「断崖図」と同じように、ここでもとてつもない「緊張」が「解放」となって、場をつくっている。この「瀧図」も高野山金剛峯寺に住むときは、また表情を変え、まったく違ったものを見せてくれるかもしれない。
 この「滝」も千住が描いたものであると同時に、素材が生み出したものである。ブルーグレイをぬった和紙の上に水を流す。その水の上に白い絵の具を流す。その流れをそのまま生かしている。素材の力に寄り添って、いっしょに生きている。





 展覧会では、初期の作品や「龍神」も展示されている。「龍神」は写真撮影が許可されていた。「断崖図」と「瀧図」は絵はがきを写真に撮ってみたが、うまく撮れない。まあ、どんな美術(芸術)でも写真ではなく、本物を肉眼で見ないと何もわからないものだとは思うから、きちんとした(?)写真ではない方がいいかもしれない。
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「詩はどこにあるか」12月号

2019-01-15 11:51:51 | その他(音楽、小説etc)
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和辻哲郎「桂離宮」

2019-01-14 23:00:46 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎「桂離宮」(和辻哲郎全集 第二巻)(岩波書店、1989年06月09日第三刷発行)

 私は桂離宮を実際には見たことがない。和辻哲郎の書いている「印象」が正しいものかどうか判断するものを持っていない。
 私は、次のような部分に親近感を覚える。桂離宮の場所について触れた導入部。

西から京都盆地へ入ってくる場合に、山崎を超えたあたりで急に景色の調子が変わってくるという経験には、もっといろいろな契機が含まれていると思う。その中では、京都盆地の山々が示している緑の色調などが、最も有力に働いているかも知れない。(208ページ)

 和辻は山の緑が土地によって違うことを知っている。この感覚は、私にはとてもうれしい。映画「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」(吉田大八監督)を見たときのことである。山の緑が映し出される。その緑が、とてもなつかしく見えた。見たことがある、と感じた。石川県が舞台だった。私のふるさとに近い。その緑だったのだ。
 和辻は緑の理由を京都盆地の湿気の具合と結びつけて説明している。この説明が、「肉体」にすっとしみ込んでくる。
 緑について書いたあとで、こう書いている。

京都盆地の西南の隅に立って東側の山並みをながめるということは、京都盆地の最も優れた美しさを賞賛すると言うことにもなるのである。(209ページ)

 うつくしい緑の変化を見ている気持ちになる。
 和辻は自分の「感覚」を正直に書く。それから、その「感覚」が受け止めたものを、知っているものをとおして分析し、語り直す。このことばの動きが、私はとても好きだ。
 そして、その分析にふつうに日本語を話していればつかうことばがつかわれ、それが哲学に変わって瞬間がある。

自然のむだを適当に切り捨てれば、自然は美しく輝き出してくる。そういう否定の仕事は、自然から出るのではなく、精神の働きによってのみ可能である。芸術的形成としての庭園は、素材としての自然にこの精神の否定的な働きの加わったものにほかならない。(259ページ)

 「精神」も「否定」も、誰もが知っていることばである。けれど「精神の否定的な働き」とつないで、自然と向き合わせる。そして、そこから「自然は美しく輝き出してくる」と言う。この、ことばの奥へグイッと入っていて、根底から突き動かすような運動が魅力的だ。
 和辻に対して言うことではないかもしれないが、「自分のことば」で哲学している。これが、とても魅力的だ。はやりの外国の誰かの「用語」をつかっているわけではない。
 いちばん感動的なのは、次の部分。

これらの形がシンメトリーになることは非常に注意深く避けているようである。しかしそのためにここに使われている直線はかえって生きた感じを持つようになっている。(321ページ)

 「生きた感じ」にどきりとする。
 和辻の文体の魅力は「生きた感じ(生きている感じ)」にある。「緑」について触れた部分では、和辻の肉眼がそのまま生きている。「精神の否定的な働き」では知性(頭)が生きて動いている。しかも、その頭は奇妙な言い方になるが「肉眼」ならぬ「肉頭」という感じ。「肉体」そのものの感じがする。
 和辻を読むと「生きている人間」を感じる。








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桂離宮―様式の背後を探る (中公文庫 わ 11-3)
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和辻哲郎『自叙伝の試み』

2019-01-03 17:00:27 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎『自叙伝の試み』(和辻哲郎全集第18巻)(岩波書店、1990年10月08日、第3刷発行)

 私は和辻哲郎の文章が好きだ。なぜ好きなんだろう、といろいろ考えていたが、「一校生活の思い出」の文章にであったとき、理由がわかった気がした。
 和辻はドイツ語の授業、試験の採点について書いている。和辻は55点だった。和辻自身は一か所しか間違いに気づいていなかった。その点数に驚いた。

Ergänzungという言葉が補遺とか補足とか訳されているのを忘れていて、完全にすること、全体的なものに仕上げることというような語義の上から、自分勝手な訳をつけたのであった。それ以外にはどこをどう間違えたか自分ではわからないので、いろいろ友人たちに聞いてみると、岩元先生は自分のつけた訳語と違った訳語をつかえば、一箇所ごとに五点ずつ引くのだそうだという話であった。

 「語義の上から、自分勝手な訳をつけた」という部分に、私は共感した。「勝手な訳」と書いているが、これは和辻流の訳、和辻が理解していることばでの訳ということだろう。つまり、和辻は、それが何語であれ、自分流に理解するということをこころがけているということを意味すると思う。
 流通している訳語(教えられた訳語)をつかえば、「訳文」の意味はとおりやすい。しかし、それは自分の理解した通りかどうかわからない。岩元先生は「補遺」「補足」と言ったのかもしれないが、和辻は「補遺」「補足」とは聞かなかった。和辻は「完全にすること」「全体的なものに仕上げること」と聞いた。そして、その「聞いた」ことを答えに反映させた。
 私はこの「先生が言ったこと」ではなく、「和辻が聞いたこと」を語る(解答する)という姿勢が好きなのだ。

 和辻の文章は、和辻の知っていることを積み上げていく形で動く。この自叙伝では、村の地理や家系のことから書き始められている。私は和辻の生まれ育った場所については何も知らない。家系にもまったく関心がない。だから、最初の部分は何が書いてあるのか、さっぱりわからない。かなり退屈だ。和辻がそういうことを一生懸命書いているということしかわからない。
 他の部分も、わからないことが書いてあるのだけれど。
 読み終わると、そのわからないもの、知らないものが、「美しい形」になって目の前にあらわれてくる。
 この感じは、私が昔見た、田んぼづくりの風景に似ている。五十年ほど前のことである。家の前に段違いの田んぼが二枚あった。段違いである。これを近所の人が、ひとりで一枚に造り直している。耕運機で高いところの田んぼを掘り返して崩していく。平らになるまで何度も何度も掘り返す。だんだん平らにしていく。たいへんな苦労だ。うーん、こんなめんどうなことをよくやるなあ。そのうち田んぼができて、水を張って、苗を植える。そのときはまだなんとも思っていなかったが、秋になって稲が実る。その黄金の色が美しい。ああ、こんな美しい田んぼになったのか、と驚く。
 あの驚きとそっくりなのだ。
 和辻の文章というのは、和辻の知っていることだけを積み重ねていく。もちろん他の人の書いたものも知識として吸収し、踏まえているが、借りている感じがない。自分のものにして、その自分のものにしたものだけをつかっていく。他人の説を利用して自分の説を補強するのとは違った味がある。
 これがとてもいい。

 こんなことを書くと和辻から叱られるかもしれないが(もう死んでいないから直接叱られるということはないのだが)、その書き方は「普遍的な正しさ(真理)」を求めているという感じがしない。和辻の「肉体」のなかで生まれてくる一回限りの正しさ真剣に探しているという感じがする。
 この一回限りの正しさというのが、私の求めているものだから、そう感じるのかもしれない。

 私はいつも、そう思って書いている。私の書いたことが、他の人に共有される「正しさ」を含んでいるかどうかは、私にはどうでもいい。私にとって大切なのは、考えること、ことばを動かすことである。それが「真理」かどうか、気にしない。「誤読」と批判されても、それでいい。
 思ったことを少しずつ書いていく。すると、何かが、我慢しきれなくなったように、ぱっと動いて、あふれてくる。それは、書き始めたとき考えていたこととはたいてい違っている。でも、その瞬間が、とても楽しい。そして、そのあふれてきたものを書いてしまうと、ことばが動かなくなる。そこでおしまいにする。
 つづきは、ある日突然、まったく違うところで動き始めるかもしれない。このままおわるかもしれない。それでいいと思っている。

 上野で初めて見た染井吉野と山桜の比較のことや、いろいろこころを動かされる文章が多いのだが、次の部分を最後に引いておく。和辻の村では、蚕を飼い、生糸をつくり、機を織り、和服をつくっていた。自分たちが着るためである。

母たちは、好きな色に染めて、機にかけて、手織りで織ったのである。織物としての感じは非常におもしろいものであったように思う。今ああいうものを作れば、たぶん非常に高価につくであろう。しかし母たちの時代の人にとっては、自分たちの労力を勘定にいれないので、呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである。

 「自分たちの労力を勘定にいれない」ということばが「肉体」に響く。胸が熱くなり、涙がこぼれる。






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