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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松井久子監督「不思議のクニの憲法2018」(インタビューについて考える)

2018-01-08 08:24:22 | その他(音楽、小説etc)


 1月7日、松井久子監督「不思議のクニの憲法2018」のインタビュー撮影があった。「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」「憲法9条改正、これでいいのか」(以上、ポエムピース発行)「天皇の悲鳴」(オンデマンド出版)を読んで、取材してみようと思い立ったとのこと。

 取材を受けて感じたのは、語ることのむずかしさである。
 新聞の取材でも感じることだが、書くことと、聞かれて語ることは、まったく違う。取材されるときは「リハーサル」がない。そのために、とてもとまどう。
 「書く」ことにもリハーサルはないと言われるかもしれない。私は詩、小説、映画の感想を書くとき、「結論」を決めて、その結論に向けてことばを動かすわけではない。つまり「構想」もなしに書き始めるので、書くことにもリハーサルがないと考えていたのだが、実はそうではなかったということに気づいた。
 「読む」「見る」が実は「リハーサル」だったのだ。
 あ、このことばは印象的だなあ、このシーンはいいなあと思う。その「思う」瞬間がリハーサル。「思う」「考える」はことばをつかって「思う/考える」ということ。「思う/考える」瞬間、すでにことばは動いている。書くときは、その「思った」ことを思い出しながら、ことばにする。それは「リハーサルの復習」であり、「実演」なのだ。
 ところがインタビューを受けるときは、この「思った」ことを「思い出す」という感じになれない。いつも「思っている」ことを語るのだが、いつも思っていることとというのは、それが「いつも思っている」だけに、意識になっていない。無意識になっている。その「無意識」をいきなり語るように言われて、とまどってしまう。ことばを動かす「きっかけ(対象)」がない。
 詩の感想を書く、映画の感想を書くというときは、つねにことばを動かしていく「対象」がある。けれど、インタビューを受けるときは、その「対象」が自分の「無意識」なので、動かそうにも動かしようがないということが起きる。

 インタビューというのは、そこに誰かがいるわけだが、それは「対話」ではない、ということが、ことばを動かすときの「障碍」のようになっているということもわかった。
 私はプラトンの「対話篇」がとても好きだが、「対話篇」はあくまで「対話」だ。ソクラテスと誰かが「対話」する。ソクラテスのことばが「中心」にあるように思えるが、そのことばは相手のことばを「点検」するような形で動いている。ソクラテスがソクラテスだけで、自分のことばを動かしているわけではない。自分以外のことばと出会い、そのとき自分のことばはどう動くかを調べている。
 私はたぶん、その「対話篇」にとても影響を受けている。
 他人の話を聞く(作品を読む)というのは、自分のことばを動かすためのリハーサル。聞いた後、読んだ後で、自分のことばが誘い出されるようにして動く。ソクラテスは相手の話を聞きながら、肉体の中でことばが動いているのを感じている。そのときの「感じ」(違和感とか、同意とか)を思い出しながら、「声」の形でことばを動かしていく。
 私もたぶんそういうことをやっている。
 インタビューという形式では、「話し相手」はいるにはいるが、その「相手」は自分のことばを動かさない。「対話」ではなく、実は「独白」なのだ。それが「むずかしさ」の理由だ。
 完全な「独白」なら、何度でもおなじことばを繰り返していられる。でもインタビューはそういうこともできない。
 「質問」と「答え」という形式ではなく、「対話」のなかで「ふたり」でことばを動かしていくという形式なら、ことばは動くかなあということも思った。



 「不思議のクニの憲法2018」は2月3日公開。
  「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」「憲法9条改正、これでいいのか」(以上、ポエムピース発行)はアマゾンで発売中。
 「天皇の悲鳴」は下のURLから。(開いたページの右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072865


憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
クリエーター情報なし
ポエムピース
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詩はどこにあるか11月号

2017-12-14 12:34:01 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107




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しばらく休みます。(代筆)

2017-11-28 00:12:59 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。(代筆)
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狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」

2017-11-15 20:22:42 | その他(音楽、小説etc)


狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」(「新桃山展」、九州国立博物館、2017年11月15日)

 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」が同時に見られる、というので九州国立博物館の「新桃山展」を見てきた。
 「同時に」というのは、「同じ会場で」くらいの気持ちで行ったのだが、ほんとうに「同時に」見ることができる。直角に交差する壁の正面に「檜図」を見るとき、右手に「松林図」、正面に「松林図」を見るとき、左手に「檜図」という具合。その部屋に入った瞬間、自然に二点が見える。
 この展示方法に度肝を抜かれる。まさか、こういう展示になっているとは思わなかった。

 感想は、どう書き出そうか。
 永徳の「檜図屏風」は、登りたくなる木である。木に勢いがある。大木だから、老木でもある。だが力がみなぎっている。山で育った子どもなら、たぶん誰でも、こういう木を見ると登らずにはいられない。木に登ると木を征服した気持ちになる。木よりも強くなった気がするからだ。大将になった愉悦がある。そして永徳の檜は、木というよりも「龍」である。いまふうに言えば「ゴジラ」、それも「シン・ゴジラ」である。これを乗りこなければかっこいい。そういう気持ちがむらむらと沸き起こってくる。
 等伯の「松林図」の松は登る木ではない。眺める木である。いや、木を眺めるというよりも、木との「距離」を眺めると言った方がいい。それは自分自身を間接的に見つめるという感じかなあ。大将の愉悦ではなく、孤独にひたり、孤独をに酔う。でも、こういうのは思い過ごしで、松は人間を相手になどしてくれない。だからよけいにさびしさに閉じこもってしまうのだが、そういう「感情」を、等伯は松林にたちこめる霧に託して描いている。「空気」を描いている。松林を「背景」にして、霧を動かし、その動きを描いている。
 では、永徳は「空気」をどう描いている。永徳は霧ではなく雲を描いている。永徳の雲は等伯の半透明の霧とは違って、不透明で、雲の背後を完全に隠す。遮断する。その「目隠し」を強いる雲を突き破って躍動する檜を、永徳は描いている。雲を背景に、木の力を描いてる。雲はもちろん、あらゆるものを破壊してしまう力を描いている。
 描き方がまったく違う。
 永徳が檜を「主役」に雲(空気)を「脇役」として描いているとしたら、等伯は霧を「主」にして松を「脇役」にしている。そして、この「主役」と「脇役」は永徳の場合は固定化しているが、等伯の場合は固定化しない。松を見つめれば松が「主役」に、霧を見つめれば霧が「主役」にと流動化するという点でも、二人の描き方はまったく違う。
 さらに「遠近感(距離感)」の描き方も違う。
 永徳の檜は幹と枝の重なり具合をとおして「距離感(遠近感)」をつくりだしている。太い幹の手前に枝が右から左へ伸びる。幹はその枝の「背景」になっている。「前後」ができる。つまり「遠近感」が、一本の木の動きとして描かれている。木が成長すること、大きくなる(育つ)という時間の動きがそのまま「遠近感」になっている。
 等伯の「遠近感」は一本の松で産み出されるのではなく、複数の松の重なり合い、ふたつの松のあいだの「空間」として描かれている。そして、その「遠近感」(画家からの距離)は二本の松を比較するときはわりと明瞭だが、離れた松の距離感となるとかなりむずかしい。こうだろう、という具合に思うことはできるが、それが正確かどうかはわからない。ただよう霧の動きが遠近感を壊していく。そして、「遠近感」をつくりながら同時に壊すという動きで、霧は「霧こそが主役だ」と主張しているようにも見える。
 (この「新桃山展」での展示の仕方も、なかなかおもしろい。どちらも「屏風図」なのだが、永徳の檜は、平らに、襖絵のように展示されている。等伯の松は屏風の形、つまり折れ曲がった状態で展示してある。スペースの関係でそうなったのかもしれないが、この折れ曲がった屏風そのものがつくりだす遠近感が等伯の絵にさらに陰影を与えている。)
 等伯の松は、霧がつくりだす独自の遠近感(距離感)によって、孤立する。複数の松が描かれているのに「孤独」が感じられる。永徳の檜はエネルギーが有り余っているので、一本でも「孤立」という感じはない。右端にもう一本檜の幹があると私は見たが、そこに別の木があろうとなかろうと、完全に独立している。こういう印象も違う。

 さらに私は、こんなことも考える。私はピカソ、セザンヌ、マティスが好きである。永徳と等伯のなかに、ピカソ、セザンヌ、マティスはいないか。
 永徳の、「遠近感」をつくっている枝を見ると、私はピカソを思い出さずにはいられない。ピカソは素早く動く視線の力で、平面のなかに「時間」を同居させた。たとえば「泣く女」の顔には涙を流し、ハンカチを食いしばる女の「動き」そのものが一瞬として描かれてる。永徳の枝の動きにも、その枝がその形になるまでのいくつもの動きが瞬間として描かれている。だから、まるでゴジラの尻尾のように、いまにも右方向にも動いていきそうな力を感じる。しっぽをぶんぶん振り回し、戦車や戦闘機と戦うゴジラのように。ピカソが対象を「運動する生き物」として描いているように、永徳もまた「動く存在」として檜を描いている。そしてまた、その少ない色数の、色の拮抗のなかにマティスを感じる。色が動いている。色がリズムになっている。
 等伯に感じたのはセザンヌである。セザンヌは、私にとっては色が堅牢、堅牢な色の画家である。墨一色、墨の濃淡で描かれた絵のどこにセザンヌが生きているか。筆の動き、余白の力にセザンヌがいる。セザンヌの色はパレットの上で完成している。セザンヌはパレットの上でつくった色をさっとカンバスに塗る。カンバスのなかで色を重ねて色をつくるということはしない。(と、私は思っている。)等伯も、まるで墨を含ませた筆そのもののなかで濃淡をつくり、それをぱっと襖の上に走らせただけという感じだ。筆の勢いで墨がかすれる。そうやってできる「空白」さえ、筆のなか(墨のなか)でつくられたものであるかのような印象がある。書き直しのきかない速さのなかで絵をつくっている。(ほんとうに短時間で描いたかどうかではなく、そこに残されている筆の動きの時間が短いというのが、セザンヌに似ている。)

 等伯の「松林図屏風」については、以前にも書いたことがあるので、永徳についてだけ、もう少し追加して感想を書く。
 展覧会に入場したひとは、その道順にしたがって歩いていくと、「檜図屏風」を見る前に、永徳の「琴棋書画図」を見る。水墨画である。(それがちょうど「松林図」と向き合っている。)この右側部分に描かれた松(?)の枝振りが檜の枝振りに似ている。右から左へ伸びた枝が幹を手前で横切る形になっている。永徳は、この構図(?)が好きだったのだろうか。枝を幹と交錯させることで、強引に「遠近法」をつくりだし、全体を動かすということが好きだったのだろう。そういうことを感じる。
 またこの展覧会では、永徳の祖父の元信の「四季花鳥図屏風」も展示されている。狩野派なのだから当然なのだろうが、雲の描き方が共通しているのがおもしろい。「四季花鳥図屏風」では金色の雲が桜や何やらを、強引に、部分的に隠している。手前に鳥がいて、その後ろに雲がむくむくと動いていて、その雲の向こうに桜がところどころ姿を見せている。こういう「遠近法」は「絵」のなかだけにしかない。実際の風景としては見ることができない。けれど、「遠近」をつくりだす方法としてはとてもおもしろい。それを永徳は踏襲している。ただ踏襲するだけではなく、檜と雲を戦わせているというのがおもしろい。永徳は描きたいものだけを描く、描きたくない部分は雲で隠す。隠して、見る人に隠れされている木を初めとする風景を想像させる。
 等伯は、霧で隠れている松を想像させると同時に、松を隠す霧にも「主役」を割り振ってたのに……。
 あ、また等伯のことを書いてしまったか。

 絵を見ながら感想を書いているのではなく、思い出しながら書いているので、どうしてもことばがあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてしまうが、とても刺戟的な展覧会である。時間があれば、ぜひ、もう一度みたい。
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しばらく休みます。

2017-09-11 23:18:31 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。
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沼田真佑「影裏」

2017-08-11 10:27:15 | その他(音楽、小説etc)
沼田真佑「影裏」(「文藝春秋」2017年09月号)

 沼田真佑「影裏」は第百五十七回芥川賞受賞作。書き出しは、最近の芥川賞の受賞作とは印象がまるっきり違う。文章が美しい。(引用ページは「文芸春秋」)

 勢いよく夏草の茂る川沿いの小道。一歩踏み出すごとに尖った葉先がはね返してくる。かなり離れたところからでも、はっきりそれとわかるくらいに太く、明快な円網をむすんだ蜘蛛の巣が丈高い草花のあいだに燦めいている。( 398ページ)

 美しいを通り越して華麗。自然の描写なのだが、どこか人工的な感じがする。ことば数が多い。自然に触発されてことばが動いたというよりも、ことばの力で自然をつくりだしていく、という感じ。
 蜘蛛の巣の描写の「はっきり」を「わかる」という動詞で言いなおした後、さらに「太く」「明快な」と言い直している。それらの「修飾語」は、「はっきりしたものになる」「太くなる」「明快になる」という具合に「なる」という動きをともなって「わかる」を支える。「わかる」は、他のことばに支えられながら、「燦めいている」にかわっていく。「燦めいている」は蜘蛛の巣の描写なのだが、蜘蛛の巣を認識する主人公の感覚(認識力)そのものが「燦めいている」ように感じられる。「強さ」を含んでいる。これが、実に美しい。
 「かなり離れた」が「細部」の「はっきり」を強調している。さらに、その前の「踏み出す」とか「尖った」とか「はね返す」ということばが「強さ」を前もって引き出しているので、まるで夏の野原に肉体がひきだされたような感じになる。
 とても美しいが、うるさい感じもする。初期のカポーティのような文章である。
 この書き出しは、こうつづいていく。

 しばらく行くとその道がひらけた。行く手の藪の暗がりに、水楢の灰色がかった樹肌がみえる。( 398ページ)

 私は、ここで少し違和感を覚えた。文体が書き出しとは違っている。「小道」が「広い道(道がひらかれた)」にかわり、変わった瞬間に「暗がり」という閉塞感のあるものが対比される。歩いている「小道」の描写が「開かれた」感じのするものなのだから、わざわざ「道」を「ひらか」なくてもいような気がするのである。
 つまり、

 しばらく行くと、藪の暗がりに、水楢の灰色がかった樹肌がみえる。

 でも十分な気がする。「その道がひらけた。行く手の」が、どうも「説明」的すぎる。そして、「説明」の仕方が書き出しと大きく異なっている。「はっきり」「太く」「明快な」、「わかる」「燦めいている」というような、感覚をこじあけるような動きがない。「しばらく」ということばが、それまでのことばに比べて「間が抜けている」。文章の「勢い」「緊張感」がまるっきり違ってしまう。
 さらに、こうつづく。

 もっとも水楢といっても、この川筋の右岸一帯にひろがる雑木林から、土手道に対し斜めに倒れ込んでいる倒木である。それが悪いことにはなかなか立派な大木なのだ。( 398- 399ページ)

 「もっとも」からつづく「説明」がまた輪をかけて間が抜けている。「倒れ込んでいる倒木である」は「いにしえの昔、武士のさむらいが、馬から落ちて落馬して」の類である。「悪いことには」と書かれても、どうして「悪いこと」なのかわからない。
 「悪いことには」は、次の文章で、こう説明される。

ここから先は、この幹をまたいで乗り越えなければ目的の場所までたどり着けない。

 「悪いこと」は水楢に属するものではない。主人公にとって「不都合」ということである。ここにも「またいで乗り越える」という「馬から落ちて落馬して」が出てくる。ことばに酔っているのかもしれない。
 このあと、ようやく主人公が登場する。

 近ごろではわたしは、それこそ暇さえあればここ生田川に釣りをしに出かけることに決めている。( 399ページ)

 やはり描写になっていない。「説明」なので、非常にうるさい感じがする。引用は省略するが、「昨日」の説明がこのあとにつづき、非常にまだるっこしい。「昨日」は、そのあとストーリーになって動くというか、主人公の「履歴」を語っているのだが、どうもめんどくさい書き方である。
 そういうものを挟んで、

午後五時の時報が流れる時分には、わたしはすでにこの川端の草むらに立ち、餌箱から大ぶりのブドウ虫の繭を選り出し、引き裂いていた。( 399ページ)

対岸の沢胡桃の喬木の梢にコバルトブルーの小鳥がいたり、林の下草からは山楝蛇が、ほんとうに奸知が詰まっていそうに小さくすべっこい頭をもたげて水際を低徊に這い出そうとする姿を目の当たりにした。一種の雰囲気を感じて振り仰いだら、川づたいの往還に、立ち枯れたように直立している電信柱のいただきに、黒々と蹲まる猛禽の視線とわたしの視線がかち合ったりした。( 400ページ)

 釣りの描写がある。ここは美しいといえば美しいが、奇妙といえば奇妙である。梢のコバルトブルーの小鳥(上)、山楝蛇(下)と視線を動かした後、「自然」の中で敏感になる感覚が「気配」を察して振り返ると、電信柱(人工)に「猛禽」がいる(上)。視線の動きが忙しい。それはそれでいいけれど、「ブドウ虫」「山楝蛇」と餌や蛇が特定されているのに、小鳥は「コバルトブルー」、猛禽に至っては「猛禽」でしかない。名前がない。「馬から落ちて落馬して」とは逆に、ことばが不足している。こんなに視線(感覚)が鋭敏なら、とうぜん鳥の名前も知っていてよさそうな気がする。
 このあと、主人公の友人が登場する。釣りには二人できていることがわかる。その主人公の描写が、すごい。えっ、と思い、私は三回読み直してしまった。

ゆうべの酒がまだ皮膚の下に残っているのか、磨きたての銃身のように首もとが油光りに輝いている。( 400ページ)

 「銃身」という比喩がなぜここで突然出てくるのか。獣をつかう猟師ならわからないでもないが、釣りをしているふたりである。その身の回りに「銃」があるのか。そもそも主人公は「銃」を見たことがあるのか。
 これは「描写」ではなく、「借り物の」説明である。
 沼田のことばは、沼田の「肉体」から生まれてきているのではなく、読んだ「文学」から借りてきたものであると感じた。「油光り」「輝く」も「馬から落ちて落馬して」の類だ。「定型」というか「常套句」の「無意識」。これが、借り物の文章という印象を強くする。
 もっとも「銃身」は、次のように言いなおされている。友人が倒れた水楢を「樹木医」のように調べる場面である。

医者というより、仕留めた獲物の鼓動を調べるハンターだった。( 401ページ)

 ハンター(猟師)を引き出すための「伏線」として「銃身」がある、ということになるかもしれないが、これはどうみてもおかしいだろう。
 釣りのことをていねいに描ける(釣りの世界に没頭している)主人公が「銃身」の比喩を出してくることは不自然すぎる。銃もつかえば釣りもするという、まあ、外国の文学ならありそうな比喩ではあるが。たとえばヘミングウェーとか。
 変な比喩は、たとえば、こんなところにもある。

 雨の日に遊園地に出かけるような、心もとない気持ちを抱えて、わたしがこの川原に到着したのは六時過ぎだった。( 410ページ)

 わかるけれど、「雨の日に遊園地に出かける」ということを、ほんとうにしたことがあるのか。ひとりでしたのか、だれかとしたのか、そのだれかはだれなのか。そういうことが一緒に思い浮かんでこなければ、その比喩は嘘、借り物ということになるだろう。
 さらにぎょっとしたのは、主人公が友人の父親を訪問する場面である。

「息子さんが、釜石で被災した可能性があるのはご存じでしょう」こんどは日浅氏ははっきり首を振った。
「もう三か月になろうとしていますよ」
 うつむき加減で氏はコーヒーを啜っていた。( 429ページ)

 日浅氏を「氏は」と省略する形で受けている。新聞か何かの「文体」のようだ。主人公は、「氏は」ということばをどういう気持ちでつかうのだろうか。これがわからない。友人の父親に対して、まるっきり感情というものがない。友人の消息を心配しているのに、父親に対してはまるで第三者。会話こそ心配口調であるけれど、「地の部分」には「心配」が滲んでいない。
 これはいったい何なのだろう。
 どういう気持ちになったら、こういう文章が書けるのだろう。

 選考会では「文章のうまさ」が評価されたらしいが、うまければいいというものでもないだろう。それにほんとうにそんなにうまいのか。一見、うまそうに書いてあるだけのように思える。
 「うまさ」よりも「ほんとう」かどうかが重要だろうと思う。釣りのシーンで「銃身」が出てきた段階で、私は「ほんとう」が書かれていないと思った。「氏は」という部分で、とても嫌な気持ちになった。

影裏 第157回芥川賞受賞
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文藝春秋
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六代目中村芝翫襲名披露

2017-06-25 21:32:33 | その他(音楽、小説etc)
六代目中村芝翫襲名披露(博多座、2017年06月25日)

 芝居は「一声二姿三顔」と言われる。それを実感する歌舞伎だった。私は三階席(いわゆる天井桟敷)で見たので「顔」なんかは見えないこともあって、よけいにそれを感じたのかもしれないが。
 私が見たのは昼の部。演目は「車引」「藤娘」「毛谷村」「河内山」。

 私が歌舞伎を見るのは四度目くらいで、役者のことも知らないし、ストーリーも何も知らないで見るのだから、とんでもない誤解をしているかもしれないが。
 「河内山」(六代目中村芝翫が河内山宗俊を演じる)の最初の場面で、質屋で中村芝翫が木刀を質草に「五十両貸せ」とか、「ひじきと油揚ばかり食べているやつらは……」という台詞を言うところで、あ、この芝居は「台詞回し」が主役の芝居だと気づく。かっこいい見得や荒々しい動き、あるいは踊りや曲の美しさではなく、台詞を聞かせる芝居だとわかる。「声」が主役の芝居である。
 ところが、主役の中村芝翫の「声=台詞回し」がぜんぜんおもしろくない。引きつけられない。「ことば」で「交渉」を乗り切る、というのは「意味」としては何となくわかるが、「丁々発止」という感じがしない。覚えている台詞を言っているだけ、ストーリーを説明しているだけ、という感じなのだ。
 質屋の場面が終わると、そのあと思わずうつらうつらしてしまった。
 中村芝翫が「山吹のお茶」を要求する場面、最後の「ばかめ」と叫んで花道を引き上げる場面はちょっと目が覚めたが、あとは、うーん、眠い。眠りそうだ。あ、眠ってしまった、という感じだった。
 昼の部の一番の見せ物がこれだから、たまらない。
 「車引」では、橋之助、福之助、歌之助の「声」が、あたりまえといえばあたりまえなのだろうが、若くてつまらなかった。声が「肉体」になっていない。「意味」を伝えるだけに終わっている。ただし動きは軽さとスピードがあって、若い肉体というのはいいなあと感じた。
 「藤娘」は菊之助が舞った。女形は上半身、特に手の動きが重要だと思っていた。指先の動きが感情をあらわしていて、あ、なるほどなあと思いながら見ていたのだが、途中から「腰高」が気になり始めた。「姿」が気に食わない。腰、膝、足の裏(?)という、上半身を支える部分が、どうも「弱い」。荒事というのは、たぶん下半身の力で動いているのだと思うが、女形の基本も下半身にあるのかもしれない。上半身と下半身が分離している感じで、だんだん落ち着かなくなる。見ている私の感覚が。歌舞伎というのは肉体の美しさ、動きの美しさのなかに「感情」を味わうものだと思うが、見ていて「味わう」という「喜び」が少しずつ消えているのを感じてしまったか。
 「毛谷村」は、六助を菊五郎が演じた。うまいわけでも、熱をこめて演じているわけでもないと思うが、きょう見た芝居のなかでは、いちばん「楽な気持ち」になれた。年をとったとはいえ、やっぱり「顔」に花がある。天井桟敷からでも、それがわかる。しかし、なんといっても「声」がいちばんよく聴こえた。
 
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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作品社
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井筒俊彦『老子道徳経』

2017-05-29 09:34:58 | その他(音楽、小説etc)
井筒俊彦『老子道徳経』(英文著作翻訳コレクション・古勝隆一訳)(慶応義塾大学出版会、2017年04月28日発行)

 私は老子を読んだことがない。井筒俊彦『老子道徳経』を通してはじめて触れることになる。そのせいか、老子を読んでいるのか、井筒を読んでいるのか、ちょっとわからなくなるところがある。たぶん、井筒を読んでいるのだろう。そうか、老子の「道」は井筒の「無分節」とつながっていくのか、と思いながら読んだ。言い換えると、あ、老子を読まないことには井筒の考えがわからないぞ、と反省したということでもある。「道」は「分節」をうながす「正しさ/おおもと」のようなものだ、と感じた。

 第一章、

道可道 非常道     道の道とすべきは、常の道に非ず。

 書物全体が、この書き出しの一行の「解説」になっている。

「道」(という言葉)によって示されうるような道は、<道>ではない。

 原文の「道」ということばが、括弧付きの「道」、括弧なしの道、山括弧付きの<道>と三種類に訳出されている。その三つはどう違うか。これを私が言いなおしてもしようがない。この本を読んでもらうのが一番わかりやすい。(古勝のあとがきによれば、井筒が表記をつかいわけている、意識しているので、それを再現しているということである。)
 ただ、そう書いてしまうと「感想」にはならないので、私の読み取ったことを少し付け加えておく。

 第三十五章の、

用之不可既     之を用いれば既(つ)くすべからず。

それを用いてみると、人はそれが無尽蔵であることに気づくのだ。

 「それ」とは「道」のことだが、「用いる」ことによって「無尽蔵」であると気づくと定義されるときのそれは山括弧付きの<道>である。ただし、それは存在するのではなく、「用いる」ということと同時に「分節されてくる」(現前して来る/顕現して来る)ものである。
 「用いる」という動詞といっしょにしか存在し得ないもの。
 「用いる」は「つかう」、あるいは「動かす」。
 ひとは自分で「つかえる」ものを通してしか、世界を「分節」できない。「つかう」ことが「分節」することである。「名詞」ではなく、「動詞」こそが、世界を「分節」する、「動詞」の「ことば」を中心にことばをとらえなおす--ということを、私は井筒の著作から学んだが、そのことをここで再確認した。
 「我田引水」になってしまうが、あるいは「誤読」の押し売りになってしまうが、この部分に、私はとても励まされた。よし、私は私の「誤読」をつづけていこう、という気持ちになった。

 第六章、

谷神不死     谷神(こくしん)は死せず。

<谷の霊>は、不滅である。

 私の名前には「谷」という文字がある。その「谷」を老子は「道」と結びつけて考えている。こういうところにも、「我田引水」的に、何か、感動してしまう。「谷」には「水」がつきもの、「谷内」というのは「谷の、水のあるところ(湿地)」というような意味を含んでいるが、そう考えると急に老子が「近しい」ものに感じてきたりする。私は「水」に非常に惹かれるが、それもゆえあってのことなのだ、とそれこそ「我田引水」的に妄想するのである。

 第二十四章

企者不立     企(つまだ)つ者は立たず。

爪先立ちする人は、しっかりと立つことができない。

 「企画する」ということは<道>の考えからすると、「爪先立ちする」ということなのか、とふいに気づかされたりする。<道>は「企画」とは断絶したところに存在する、と知らされる。
 これを「用いる(つかう)」というのは、では、どういうことだ。
 これは、考えなければならない。
 「用いる」と思ったときは、もう<道>ではなく、「用いる」と意識しないときに<道>が世界を分節する、ということか。

 あれこれ断片的に考えるだけしかできない。



 私は英語が読めない。井筒の書いた英語のテキストを読んだわけではないのだが、訳文で一か所、疑問に思ったことがある。
 第三十二章の、「注」の訳文(104 ページ)

(3)「それ」とは「樸」によって表象される、絶対的な未分節の精神のことである。

 ここに出て来る「未分節」に私は驚いた。ほんとうに「未分節」なのか。
 第三十四章の「注」の訳文( 109ページ)には、

(4)すなわち、その絶対的無分節もしくは、無差別の状態に関して。

 と、ある。
 「未分節」ではなく「無分節」。
 「無分節」には、私はなじんでいる。というか、井筒は「無分節」ということばをつかっていると思う。読み落としているのかもしれないが、私は井筒の著作で「未分節」を読んだことがない。
 私は実は、井筒の「無分節」を「誤読」して「未分節」ととらえ直しているのだが(このことは「詩はどこにあるか」で何度か書いた)、井筒は「未分節」「無分節」をつかいわけているのか。
 井筒の日本語の著作のどこに「未分節」があるのだろう。それはどれくらいの割合で著作に出て来るのだろう。
 英語表記はどうなっているのだろうか。それが気になった。古勝は井筒の英語の使い分けに応じて「絶対的な未分節」「絶対的無分節」と翻訳をわけているのか。それを知りたいと思った。
 小さな違いだが、「存在はことばである」と考えるなら、この違いは「大きい」。
 第二十五章の注(84ページ)には、

(1)別解 「かたちはないが完全な<何か>」、もしくは「まだまったく分節されていない<何か>」。

 と「無分節」という「名詞(形)」ではない表現もある。「まだ」ということばに従うなら、これは「未分節」という名詞に置き換えてもかまわないと思うが(私は井筒の「無分節」を、「分節がない」ではなく「まだ分節されていない」と「誤読」して「未分節」と読んでいるのだが)、この部分の英語表記と、先に取り上げた英語表記の部分はどう違うのだろうか。
 とても気になる。 

老子道徳経 (井筒俊彦英文著作翻訳コレクション)
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会
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ピカソ

2017-05-16 10:34:06 | その他(音楽、小説etc)


やっと見ることができたピカソの肖像画。

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しばらく留守にします。

2017-05-06 09:43:25 | その他(音楽、小説etc)


この絵を見に行ってきます。
東京でピカソ展があったとき、図録の表紙になっていたのに見ることができなかった1枚。

わくわく、どきどき。
初恋の人に会いにゆく気持ち。



留守中も「嵯峨信之を読む」は更新する予定です。
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しばらく休みます。(代筆)

2017-04-27 10:25:57 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。(代筆)
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しばらく休みます(代筆)

2017-04-11 09:24:23 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます(代筆)
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「ピカソ、その芸術と素顔」

2017-04-05 09:59:19 | その他(音楽、小説etc)
「ピカソ、その芸術と素顔」(みぞえ画廊、福岡市中央区、2017年04月04日)
  
 「ピカソ、その芸術と素顔」はみぞえ画廊のリニューアルオープン記念で開かれてる。絵は「静物」と「男の顔」の2点。あとはロベルト・オテロの撮影したピカソの写真。
 絵は、私は「男の顔」が好き。ピカソの作品には、なんといってもスピードがある。見るスピードが、他の画家よりもはるかに速い。速く対象をとらえてしまう。だから速く描ける。その速さのなかに、「対象が好き」という感情があふれている。「対象が好き」という気持ちが強くあふれている。「好きだから、描いた。ほら、見て」という子供の感覚。
 と、抽象的なことを書いてもしようがないか。
 「男の顔」では帽子のまわりの塗り残し(キャンパスの白が残っている)が鮮やかで美しい。太い太陽の光の輪郭のよう。反射のように。この太い塗り残しと、髭の、色を塗ったあとを引っかいてキャンバスの白を引き出す感じが呼応している。髭のもじゃもじゃが細い光を反射している。(髭の中の白髪、と見ることもできる)レンブラントなら、その光を繊細に、ていねいに描くだろう。光の変化を描くだろう。けれどピカソは一気に、乱暴に、あっと言う間に描いている。そこに「いのち」がある。単に光の変化(反射)というよりも、「肉体」のなかからあふれてくるエネルギーの発する力がある。そう思うと、帽子のまわりの白い光も、単に太陽の光というよりも、この男が全身で発しているオーラのようなものかもしれない。
 顔の描き方というか、目、鼻、口の形が、またおもしろい。目は、どう見たって女の性器である。男が女の裸を見て(特に性器を見て)興奮している。だから、目が女の性器の形になる。目の周りの睫毛は、トイレの落書きの陰毛そのものである。瞳孔は、クリトリス。いいなあ。この、あからさまな欲望。もう、目はセックスをしてしまっている。鼻の穴も膨らみ、女の匂いをぞんぶんに吸い込んでしまっている。口からは舌が出てきそうだ。あらゆる穴という穴をなめつくしたように、唇は腫れている。
 「静物」は何を描いているのだろう。中央のノートは本のようでもあるし、楽譜のようでもある。楽譜と思ってしまうのは、全体に「音楽」があふれているからだ。左に燭台があり、右にはカクテルグラス? 何よりも美しいのはバックに描かれている夜空の星。ピカソの視線のスピードは星の光よりも速いから、星が放出する光を「形」としてとらえてしまう。ピカソは星が放出している光の、その放射する光線の一本一本が見えてしまうのだ。私は目が悪くて、いまは夜空を見てもほとんど星をとらえることができないが、あ、昔、こういう星を見たことがあるなあ、と思い出してしまう。「肉体」のなかにある、若くて健康な力を思い出させてくれる。
 写真を見ると、ピカソは「被写体」としても、とても魅力的であることがわかる。特に気に入ったのが、描いたばかりの絵を私人に見せているもの。男が女に襲いかかっている、スケベな絵。がき大将が優等生に「ほら」と見せている感じ。あるいは先生に「ほら」と突き出して、困らせている感じ。もっと真剣なのかもしれないけれど、私は、「無邪気」を感じる。「純粋」を感じる。
 アンティーブのピカソ美術館での写真もある。あ、ここへ行った、去年はアンティーブとバローリスへピカソを見に行ったのだということを思い出したりもする。画家(作家)の生きていた場所(作品の舞台)を知ることは、作品を理解するために必要なこととは決して思わないが、そういう場所へ行ってみると、「気持ち」がかってに動くというのがおもしろい。ここにピカソがいたんだ、と思うと、何かピカソに会っているような気持ちになる。「錯覚」なんだけれど、錯覚は楽しい。
 ピカソは着ているものもおしゃれだ。さすがに金があるだけあって、いいものを着ているということが写真からもわかる。セーターやシャツも、あ、これがほしいと思ったりする。そんななかにあって、白いブリーフにTシャツの写真もあったりする。思わず、じーっと見てしまう。変な趣味? 
 ジャクリーンと一緒の写真もある。ジャクリーンを見ながら、あ、見たことがある、と思う。「絵に似ている」と思う。そう思って当然なのだろうけれど、ピカソの人物はデフォルメされているから、この「似ている」は、ある意味で不思議。
 で、どこが似ているか、と考えたとき、やっぱり「スピード」ということばが思い当たる。ジャクリーンのなかで動いている感情が顔に出てくるまでのスピード。感情が顔を動かしている。その感情の放出を、「静物」の星の光の放射のように、くっきりと、目に見えるように描いているからなのだと思う。「輪郭(形)」が似ているのではない。「似顔絵」ではない。顔のなかで動いている感情の動き、その強さが、絵とそっくりなのだ。絵がジャクリーンに似ているというよりも、ジャクリーンが絵に似ていると言った方が正確かもしれないとさえ思う。写真よりも絵の方がジャクリーンにそっくり、と「実物」を知らないのに、そんな奇妙なことを思ったりする。
 2017年04月01日-04月16日の期間中、無料。ぜひ、どうぞ。客がいないので(?)、貸し切り状態でこころゆくまで見ることができます。

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しばらく休みます(代筆)

2017-03-22 09:37:45 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。(代筆)
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又吉直樹「劇場」

2017-03-11 10:30:48 | その他(音楽、小説etc)
又吉直樹「劇場」(「新潮」2017年04月号)

 又吉直樹「劇場」はストーリーと描写と哲学が交錯する。「小説」の王道である。
 私は「見かけ」のストーリーには関心がない。目次に「上京して演劇を志す永田と恋人の沙希。未来が見えないまま、嘘のない心で結ばれた二人」が、「見かけのストーリー」である。「枠組み」である。
 「見かけのストーリー」とは別に、「真のストーリー」がある。「他人」が突然登場して、世界を活気づかせる瞬間がある。それが「描写」となって全体を引き締める。たとえば、

沙希が僕に気遣って話すのを止めた時、その静けさはとても大きな音として僕の神経を逆なでするようになった。(68ページ)

アパートの中は妙に冷えていたのに、外気に触れると着ているものが膨らむ感触があった。(88ページ)

 その描写の特徴は、表面的な叙述から始まり、ことばの力を借りて反転するように深まるところにある。「静かさ」が「音」として「神経を逆なでする(うるさい)」にかわる。「冷えている」ものは「小さい」あるいは「固まる」という印象がある。たとえば、氷。それが「膨らむ」にかわる。
 ここに、ことばでしかできない運動がある。そして、その運動の「奥」に又吉の「過去(時間)」というものが噴出してきている。表面から内面へと視線を動かし続けてきた意識のあり方が見える。「劇場」というタイトルに合わせて言えば、役者で言うところの「存在感」が「手触り」として浮かび上がる。

感傷を抱えて公園に立ちよっても見下ろされるような視線を感じると、そればかりが気になって、自分がなにに悩んでいるのかわからなくなることがあった。(46ページ)

 というものもある。何かを「感じる」。あるいは「気づく」。その「感じ/気づき」にとらわれて、そこに入って行ってしまう。最初に引用した部分は、

沙希が僕に気遣って話すのを止めた「のを感じた/のに気づいた」時、その静けさ「ばかりが気になって」、それははとても大きな音として僕の神経を逆なでするようになった。

 ということである。何かを感じて(気づいて)、自分がそれまでとは違う状態に「なる」。「逆なでするようになった」「わからなくなることがあった」のなかにひっそりと動いている「なる」という動詞が、ほんとうの「ストーリー」である。「着ているものが膨らむ」には「なる」という「動詞」はないが、そのあとの「感触」ということばを手がかりにすれば「膨らんだ感じになった」という形で「なる」が隠れているといえるだろう。
 「なる」というのは、ひとが変化すること。二人が出会い、二人が変わる。それは好きになる、嫌いになる、待た好きになる、けれどどうしようもなくて別れるというような変化でなく、「内部」の変化、認識の変化を意味する。こういう描写が又吉のことばの動きを支える底力である。
 もうひとつの魅力は「哲学」。「哲学」ということばは、実際に17ページに出てくるだけれど……。また、「演劇論」や「小説論」という形でも書かれているのだが、私が「哲学」と強く感じるのは、正面切った「論」ではない部分。

 頭の中で構成され熟成され審査を受けて、結局空気に触れることのない言葉と、生まれた瞬間空気に触れる言葉がある(16ページ)

 この考察を借りて言えば、「生まれた瞬間空気に触れる言葉」、言い換えると「他人」にぶつかることばの方に「論になる前の哲学」(純粋な哲学)を感じる。

「正直すぎて感情をどれかひとつに絞られへんねやと思う」(32ページ)

「主張と感情と反応が混ざって同時に出てまうねん」(33ページ)

 沙希の「人物描写」なのだが、外側からの描写ではなく、内部での変化を書こうとしている。それまでの沙希が新しい沙希に「なる」瞬間、その内部で何が起きたかを書いている。「内面」描写である。
 「描写」がそのまま「哲学」に昇華していく。

「創作ってもっと自分に近いもんちゃうんか」(85ページ)

 ということばがあるが、「自分に近い」とは「自分の内部に忠実」という意味だろう。沙希の「人物描写」が「外形」ではなく「内部の変化」としてとらえられているということは、沙希が主人公永田の「内部」になっているということでもある。沙希を自分に近づけてことばにしている。それはほとんど永田自身でもあるということになる。
 ここに「恋」が濃密に書かれている。

幾日か洗髪していない人間の頭皮の生々しい匂いや、かさぶたを剥がし血がにじんだ時の痛みを書こう。(26ページ)

この主題を僕は僕なりの温度で雑音を混ぜて取り返さなければならない。( 100ページ)

 と又吉は「小説作法(小説論)」も語っている。膨大な「演劇論」も展開されている。「小説」はそういうものをすべてのみこんで動いていく。そういう「王道」の小説を又吉は書いている。それは何か、「欠点」が全部噴出して、それが輝かしいものに変わるような力業である。そういうことを指摘するひとはきっと多いだろうと思う。それはそれでおもしろいが、一回書いたら、二度目は自己模倣になる。正面切った「哲学」というか「論」は、どうしても「ひとつ」になってしまう。その「ひとつ」からはみ出し、「ひとつ」になることを拒絶している「描写」の方に、魅力を感じる。「論」を組み込むにはもっと長さと登場人物が必要だろうと思う。「論」がぶつかりあわないと、「論」が「描写」にならない。そういう意味では「大長編小説」(1000枚以上)のものを読んでみたいという欲望をそそられる。

新潮 2017年 04月号
クリエーター情報なし
新潮社
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