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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「藤田嗣治と彼が愛した布たち」

2020-11-21 10:46:18 | その他(音楽、小説etc)


「藤田嗣治と彼が愛した布たち」(2020年11月20日、福岡市美術館)

 藤田嗣治は「白い肌」とともにバックの布の細密な描写、あるいは着ているドレスの写真と見紛う描写が有名である。
 私は藤田の「白い肌」があまり好きではない。白すぎて人間味がない。まるで色を抜かれてしまったような感じがする。それに比べると、布は異様なくらい、生きている。
 「タピストリーと裸婦」(1923年)は背景のタピストリーがとてもおもしろい。たたみ皺がなまなましく描かれている。そのたたみ皺が浮かびあがらせる布の柔らかさと強さに私は引きつけられてしまう。藤田は裸婦よりも、このたたみ皺(布)を描きたかったのではないのか、と思えてくる。
 布はいつでも広げられているとはかぎらない。たたんでしまわれていることがある。つかうときになってそれを広げる。そこにはたたんだときにできた皺が残っている。この皺の感じは、たとえばシーツの、それをつかったためにできる不規則な皺と違ってある一定の規則性がある。そして、そのたたみ皺は、きちんとたたんでおかないとこんなに美しい形ではあらわれない、という不思議な一面を持っている。
 「タピストリーと裸婦」では、その規則性と、シーツの乱れが同時に描かれているので、規則性のもつ不思議な「色気」のようなものが強調されることになる。抑制されていたものが解放されるとき、そこにまだ残っている抑制の名残。きちんとたたんできたものだけが持っている不思議な初々しさ。たたむとき、布の目にあわせてたたまないと、こんなに美しくならない。広げるときも、きっと手順をまもって丁寧に広げるのだと思う。たわめる、たわむ。そこには暴力があるはずなのに、暴力を感じさせない。なんといえばいいのか、不思議な反発力と抑圧がせめぎ合っている。 
 裸婦の陰影も、藤田にとっては、このたたみ皺のようなもの、抑圧と解放のせめぎあう場なのだろうか。よくわからない。私は、裸婦よりも、バックにつるされた布(タピストリー)のたたみ皺のように欲情してしまう。触りたくなる。触って、本物かどうか確かめたくなる。絵だとわかっていても。裸婦の肌をはいまわる執拗な陰影に、一種の暴力のようなものを感じるが、それは裸婦自身が発する生命力というよりも、藤田の視線の力である。藤田の絵筆によって、布は生き始めるが、裸婦の肌は死に始める、という感じがする。私は、そこに描かれているものが「絵」なのに生きて動き始める、ということが感じられるものが好きなのだ。
 「自画像」(1929年)のシャツも奇妙だ。シャツの形に閉じこめられた布が、肉体の動きを借りて別なものになろうとしているように見える。シャツの下には「肉体」があるはずなのだが、「肉体」をほうりだして、シャツが生き始めようともがいているようにも見える。筆をもつ手も、藤田の目も、そしてそのそばにいる猫の目も動かない。シャツだけが動こうとしている。あ、背景に描かれている女の横顔、髪も動こうとしている。そしてなによりも不思議なのは、その「絵の中の絵」の方が、私には藤田の「自画像」よりも魅力的に見えることだ。「裸婦」では「死んでいる」と感じる「肌」が絵の中の絵の、その女の首筋、顎の影では「生きている」と感じる。タペストリーに触ってみたいと感じたように、この絵の中の絵の女の横顔(首筋や顎)には触ってみたいと思う。藤田の来ているシャツ(その布)にも触ってみたいと思う。でも、藤田の「肉体」には触ってみたい、という気持ちは起きない。

 そういうことを思った後で、展覧会そのものを思い出してみると「藤田嗣治と彼が愛した布たち」と絵だけではなく、「布」にも焦点を当てていることの「意味」のようなものもわかる。もしかすると、タイトルに導かれるようにして、私は藤田の絵を見たのかもしれないが、藤田が「布」に執着していたこと、愛していたことが非常によくつたわってくる企画展だった。藤田がつくった服や裁縫道具も展示されている。
 藤田は「裁縫」が得意なのだ。布に親しんでいる。ミシンをつかうだけではなく、手でも縫う。自分の着るものをデザインし、手作りしている。それは「着る」というよりも「布を生かす」という感じがする。画家ではなく、ファッションデザイナーとし生きていれば、どんなふうになっただろうかというようなことをふと思った。布そのものが美しい形をもとめて歩きだすという感じのファッションが生まれていたのではないだろうか。



                



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吉田博「光る海」

2020-10-26 10:57:20 | その他(音楽、小説etc)


吉田博「光る海」(「没後70年 吉田博展」福岡県立美術館、2020年10月25日)

 吉田博の版画は浮世絵と違い「線」が強調されていない。「線」がないとさえ言える。「面」で全体が構成される。
 「光る海」は舟の帆の処理に「輪郭線」があるが、これはむしろ珍しい印象がある。「光る海」を含む「瀬戸内海集」では、ほぼおなじ構図の時間とともに変わる海と空の色の変化をとらえたものが人気のようだ。私の隣で、高齢の夫婦が「やっぱり、朝がいちばんいいよねえ」「これが見たかったんだよ」などと話している。たしかに美しい。
 しかし、私は「光る海」がいちばん気に入った。
 海に乱反射する光の帯が鮮烈だ。セザンヌの塗り残しの白いキャンバスの輝きのように、ほんとうに光っている。この光を吉田は「丸鑿」の彫り痕で表現している。彫り痕の「丸み」が海のなめらかな(静かな)うねりにぴったり重なる。光を見ているのか、海を見ているのか。区別がなくなる。もちろん区別はないのだが。
 私はふつう「絵」に目を近づけるということはしないが、思わず目を近づけ、その反射の一つ一つの「彫りの深さ」「彫るときのスピード」が見えないものだろうかと、立ち止まってしまった。どうしたらこの軽快さが実現できるのだろう。
 「完成された作品」のなかに隠れている「過程」の美しさ、と書いてしまうと違うのだろうけれど、この「丸鑿」の彫り痕をそのままつかうという発想と、それを実現してしまう彫りの力に、こころを、というより「肉体」そのものを刺戟された。あ、彫ってみたいという気持ちになるのだ。
 私は一時期、「版画」にあこがれたことがある。とくに「丸鑿」をつかって彫っているとき、その彫りが重なりながら変化する「面」に非常に愛着を感じた。彫ったときと、刷り上がったときの印象が違うのも興味深かった。狙いどおりにならない。特別に勉強したわけでもないのだからあたりまえのことなのだが、なんとなく、こういうことを仕事にしてみたいなあとあこがれたのである。あれやこれやしていう内に、級友たちの才能に打ちのめされ、私はこういう世界には向いていないとあきらめてしまったのだが、そんなことも思い出したりした。
 専門家から見れば、もっといろいろな技法が見えるのだろう。たとえば「渓流」の水の流れ、泡立つ感じの表現には非常に根気のいる刀さばきが必要なのだと思うが、それは素人の私にはわからない。しかし、「光る海」の「丸鑿の痕」は私のような素人でもわかる。すぐにでも真似して彫ってみたいと思わせるものがある。「肉体が刺戟される」というのは、そういう意味である。版木と彫刻刀を買いに行こうかな、と私はほんとうに思ってしまった。版画をあきらめながらも、私はかなりの長い間、年賀状の絵を版画で彫っていた。彫らなくなってからも、かなりの期間、彫刻刀を手離さずにいた。中学生がつかう程度の彫刻刀だが。

 あ、どんどん、作品から離れてしまう。でも、感想というものは、そういうものだろうと思う。純粋に作品についてだけ語ることなどできない。



 この展覧会では、刷り上がった作品と同時に「版木」も展示されていた。ただ残念なのは、ガラスが表面をおおっていて、「彫り」の「肉体」の感じがわからない。ガラスに私の顔が映ってしまって、何がなんだかわからない。
 また、この展覧会では版画作品のほかに、水彩画、スケッチ(画帳)も展示されている。福岡県立美術館が所蔵する油絵は四階で見ることもできる。そういう「吉田の全体像(?)」を見たあとで思うのだが、とくに画帳のスケッチを見たあとで思うのだが、こんなに「手の速い」吉田が「版画」に向かった不思議さ、である。
 版画は非常に手間がかかる。私のような素人の彫ったものでも(素人の彫ったものだからかもしれないが)、刷りを重ねると(年賀状などたかがしれているが)、版木が歪んでくる。版木を最初に彫った状態に保ち続けるだけでもたいへんである。重ね刷りも紙が縮むので調整がむずかしいだろう。専門の「職人」がいるのだろうけれど。
 で、ふたたび「光る海」にもどるのだが。
 その手間のかかる仕事のなかで、「丸鑿」の処理が際立って見えるのである。その部分は、ともかく「速い」だろうと思う。ていねいに彫ることには間違いないだろうが、ゆっくりだと光の反射が弱くなるような気がする。一瞬で、ぱっと彫らないといけない。白い光のそばにある波自身の黒い影(森鴎外なら黒く光った、と言うだろうか)と比較するとわかりやすい。凸の形に彫り残すのは一瞬ではできない。光の反射の彫りは一瞬の判断に任されている。

 それとは別に、不思議に感じたのは、多くの作品に共通するのだが、「視線の高さ」が私の「視線」よりも妙に高い。吉田の身長がどれくらいだったのか知らないが、どの風景を見ても、これはどこから見たんだろうと感じる。椅子か何かの上に立ってなら、こういう世界が見えるかもしれない。少し小高いところからなら、こういう世界が見えるかもしれない、とは思うが。全体を描いたあと、フレーミングを変えているのかもしれない、というようなことも思った。不思議な「間接性」の中を吉田は生きていると感じた。


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オンライン講座「村上春樹を読む」(2)

2020-09-27 16:54:18 | その他(音楽、小説etc)
オンライン講座「村上春樹を読む」(2)

 村上春樹の「海辺のカフカ」の「第一章」の書き出しの読み方。前回は、

 家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金色のライター(そのデザインと重みが気にいっていた)と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。

 父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ。あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。

 というところまで読んだ。(そこまで紹介した。)
 そのとき「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。」はなぜ現在形なのかということを少し書いた。過去形でも「意味」はかわらない。しかし、村上春樹は現在形で書く。この現在形は、次のように引き継がれていく。

 ほかには小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真。その写真も引き出しの奥に入っていた。僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑っている。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になっている。おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。教科書の写真で見たギリシャ演劇の仮面みたいに、その顔には二重の意味がこめられている。光と影。希望と絶望。笑いと悲しみ。信頼と孤独。一方の僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ている。海岸には僕ら二人のほかに人の姿はない。僕と姉は水着を着ている。姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て、僕はみっともないブルーのぶかぶかのトランクスをはいている。僕は手になにかをもっている。それはプラスチックの棒のように見える。白い泡になった波が足もとを洗っている。

 「その写真も引き出しの奥に入っていた。」といったんは過去形がつかわれるが、それからあとは一貫して現在形である。
 現在形をつかうのは、ひとつには「写真」に映っている「事実」は時間とは関係がない、時間の経過によって「事実」が変化しないからである。「僕と姉」は海岸にいる、笑っている、は変わらない。十年後、写真のなかの「僕と姉」が「山にいる、けんかしている」には変わらない。こういうことは、外国語でもおなじである。「事実」は現在形で書くことができる。たとえば、
2012年12月26日、安倍内閣が発足する/発足した 
2020年9月16日、安倍内閣が総辞職する/総辞職した
 この二つの表現は、ともに許容される。日本語の場合、「動詞」を「名詞」に変化させた上で「安倍内閣が発足」「安倍内閣が総辞職」と書くことができる。(外国語でもできると思う。)どちらを採用するかは、書く人の「主観(好み)」である。「認識の仕方」である。こういうことは、学術的な歴史書でも新聞などの報道でも、小説でもおなじである。
 そして、小説の場合は、「主観」であることが、現在形で強調され、読者を「主観(主人公の思い)」に近づけることになる。「主観」はいつでも「現在形」なのだ。過去を思い出すときも、そのときの感情は「いま」なのだ。「いま」こころが動いている。それが現在形をつかう理由なのだ。
 「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。」も「戻す」ということを強く意識しているから現在形なのだ。

僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑って「いた」。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になって「いた」。

 と書くことも可能なのだが、「笑っている」「影になっている」という方が、いま、写真を「見ている」という臨場感がでる。僕が「動いている」という感じが強くなる。そして、それは読者にもまた写真を見ているという錯覚を引き起こす。
 この錯覚が、「笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。」という一種の異様な印象を受け入れさせ、さらに「その顔には二重の意味がこめられている。」という思考の世界へと読者を誘い込む。
 それにつづく描写は、「客観的描写」ではない。「僕と姉」が海岸にいるは、誰が見てもおなじ。他人が見れば「山にいる」に変わるわけではない。しかし、「二重の意味」は「僕」が考えたことであって、ほかのひとは違うことを考えるかもしれない。
 外国人を相手に、この部分を読んだとき、まず、「何が書いてあるのかわからない」という反応があった。「光と影。希望と絶望。笑いと悲しみ。信頼と孤独。」ということばの羅列。そのことばの「意味」は辞書で引けばわかるが、なぜ、ここに、そういうことばが次々に出てくるのかわからない。
 それは、わからなくて、あたりまえ。「客観的事実」ではないからだ。あくまで「僕」が考えたことであって、「僕」の「主観」だからである。「主観」が他人にわかるまでには時間がかかる。ある人が笑っているにしろ、泣いているにしろ、それは楽しいから、悲しいからとは限らない。絶望して笑うこともあれば、うれしくて泣くこともある。「主観」は、ほかのことがら(事実)とつきあわせないと、正しくは把握できない。つまり、突然「主観」が出てきたら、それはわからなくてあたりまえであり、それは小説を読んでいけば少しずつわかることなのだ。
 この三段落目でいちばん「説明」がむずかしいのは「おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。」の「おかげで」である。「そのために」という客観的な書き方ではない。「そのせいで」ということばでもない。「おかげ」はなんらかの「利益」につながる。「僕」にとっての「利益」とは何か。
 「分断されたみたいになっている」から、それからあとのことを考えることができたのだ。もし姉の顔も僕の顔と同じように正面を向いていたら、「僕」の考えは、小説に書かれているようには動かなかったのだ。考える力をくれた。だから「おかげ」という表現がつかわれていることになる。

 高校国語に「論理国語」が導入されることについて、文学嫌い(?)の人がよかったよかった、主人公の感情について考えるのはいやだったというようなことを体験として語っている文章を読んだが、それは文学を論理的に読む習慣が、その人になかったというだけである。「論理国語」などという分野をつくらなくても「論理」は存在している。小説の中にもきちんと書かれている。どう読むかだけである。
 たとえば、外国人は、きょうの文章では「てらいもなく」「みっともない」「ぶかぶか」が、わかりにくい、と言う。辞書を引いたが納得できない、という。
 私は、こう説明する。「わかりにくいことばは、必ずもう一度ほかのことばで言い直されている。それを探してみよう。」
 私が差し出すヒントは、
 「僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ているけれど、姉は?」
 「姉は横を向いている/カメラをまっすぐに見ていない」
 「人とあったとき、まっすぐに見ない、横を向くのは、どんなときですか?」
 「なんとなく、見つめられたくないときとか」
 「そういう気持ちが、ない、だからまっすぐに見ている。僕と姉とは、気持ちが違っているということを強調しているのだと思います。」
 村上の「てらいもなく」という表現が正しいかどうかは少し脇においておくが、村上はことばの意味を特定できるように「論理的」に書いている。この「論理」を発見させることができるか、発見できるかが、「国語(ことば)教育」のおもしろさだと思うが、文学嫌いのひとは、そういう教育を理解できなかった、あるいはそういう「訓練」をしてこなかったというだけだろう。そういう人が「論理国語」を学んだとしても、私には、結果はおなじに思える。「論理」を見つけ出していくのは、そのことばをつかっている人間だからである。
 もうひとつ、「みっともない」「ぶかぶか」はどうか。これも姉との対比で書かれている。「姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て」いる。それは「ぶかぶか」ではない。きっと身体にぴったりとあっている。似合っている。見栄えがする。その様子が見えるように「赤い花柄のワンピース」と具体的に描写している。対比すると、見栄えがしない、かっこ悪い、を「ぶかぶか」で言い直していることがわかる。「ぶかぶか」は否定的な意味合いでつかわれていることがわかる。
 とっても「論理的」でしょ? 

 こういうどこまでもどこまでも「論理的」に小説を解体していくという読み方、一緒にしてみたいと思うひとはいませんか?
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オンライン講座「村上春樹を読む」

2020-09-11 17:32:54 | その他(音楽、小説etc)
村上春樹の読み方

 外国人を相手に「日本語」をオンラインで教えている。テキストは村上春樹の「海辺のカフカ」。先日教えたのは、ハイライトを抜き出すと、こんなことになる。
 まず、「第一章の書き出し」を読む。

 家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金色のライター(そのデザインと重みが気にいっていた)と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。

 父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ。あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。

 第一段落の「持ちだす」と「もらっていく」は、どう違うか。どちらも「もの」が「父」の側から「僕」の側へ移動する。「もの」を中心に見ていくと、ことばをつかいわける意味はない。しかし、村上はつかいわけている。なぜか。
 「持ちだす」には「黙って」ということばがついている。「黙って持ちだす」は、ほかのことばで言えば、どういえるか。「盗む」である。
 「もらう」は「僕が父からもらう」。父を主語にすると「父がぼくにくれる」この「もらう/くれる」には「もの」の移動の他に「人間関係」がからんでくる。「恩恵」がふくまれる。これは外国人にはなかなかむずかしい考え方のなのだが、とりあえずは「恩恵」がふくまれるから「盗む」ということとは無関係だということを認識させる。「加害/被害」の関係ではなく「恩恵」を「与える/受ける」の関係が「もらう」という動詞の中になる。
 そこから最初にもどって「持ちだす」はどうか。そこには「加害/被害」の関係もなければ「恩恵を与える/受ける」という関係もない。いわば「客観的」なことばである。そして、その「客観」は他人から見れば「黙って持ち出す」だから、実は「窃盗(盗み)」である。
 「僕」は「盗み(犯罪)」をどこかで意識している。しかし、それを隠すために(自己弁護するために)「持ちだす」ということばを使っている。さらにそれを「もらっておく(もらう)」と言い直している。父からもらった、父がくれたと言い直すことで、「犯罪性」が完全に消える。
 これは言い直せば、「僕」は「僕の行為」から「犯罪性」を消したいと思っているということである。小説を全部読んだ人には、私の書いている説明がわかると思うが、小説を最後まで読んでいなくても、この書き出しだけで「僕」という人間のこころの動きがわかる。
 ひとつの行為を別のことばで表現する。そのとき、その表現の変化のなかには「意味」があるのだ。そういうことを、日本語の初級を終えたくらいの外国人に教える。「ストーリー」を理解するのではなく、ストーリーのなかで動いている「人間のこころ」。それがどんなことばによって表現されているから教える。
 むずかしそうでしょ? でも、私はなぜか、こういうことが得意。「こことここに気をつけて」という指摘し、気づかせることができる。(ちょっと自慢)。

 この「僕」の「こころの動き」をあらわしていることばは、ほかにもたくさんある。私が次に問いかけたのは第一段落の「やはり」である。「やはり」はどういう意味? これは辞書を引いてもなかなかわからない。日本人に聞いても、「やはり」の意味は答えにくいだろう。
 しかし、こういうネイティブならだれでもわかりきっていることば、しかし説明しにくいことばというのは、作品のなかで常に言い直されるものである。だから、「やはりの意味は?」の次に、「やはり」に似たことばはないか、と質問する。
 「答え」がわかますか?
 第二段落に出てくる「迷った末に」である。「やはり」机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした、は「迷った末に」机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした、と言い直すことができる。言い直しても「意味」は同じである。
 さらにもうひとつ、非常に似たことばがある。二段落目の最後の方に出てくる「あらためて」である。「あらためて」ロレックスを机の引き出しに戻す、は「迷った末に」ロレックスを机の引き出しに戻す、であり、「やはり」ロレックスを机の引き出しに戻す、でもある。
 すべてのことばが入れ替え可能というわけではないが、似た感じで「入れ替えてもかまわない」くらいの感じ。
 そして、この「やはり」とか「あらためて」とかいう、あまりにも「わかりきったことば」の背後には「迷う」というこころの動きがあることを指摘する。そうすると、「僕」という人間の「性格」がここだけでもずいぶんわかる。「僕」は何かをするとき「迷う」人間である。「考える」人間である。そして、それを「ことば」にする人間である。
 こういうことをつかみ取ると、その後の「小説」を読むとき、いろいろなことがしっかりと理解できる。「僕」が「迷う/考える/考えをことばにする」人間であると理解すると、「時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった」という文章の中の「人目をひきたくはなかった」がわかりやすくなる。二段落目の「むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ」の「むしろ……はずだ」の「構文」も「意味」をもってくる。「そちらのほうがずっと使いやすい」でも「意味」は充分につたわる。しかし、村上は「意味」ではなく「僕のこころ」を描いているから「むしろ……はずだ」という「構文」が必要なのだ。「迷い」をふっきるため、ふっきったということを明らかにするために、そうした「強調構文」がつかわれている。

 さらに、こんなことも教える。
 「黙って持ちだした」「もらっていくことにした」は「過去形」。ところが「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す」は「現在形」。最後の文章は「あらためてロレックスを机の引き出しに戻した」と書き直しても、「意味」はかわらない。
 むしろ「過去形」の方が理解されやすい。実際、私が教えた相手はドイツ人で、彼は「ドイツ語では、ここは過去形になる」と言った。「時制の一致」を考えると、どうしても「過去形」になる。だから、日本人であっても多くのひとは「過去形」で書くだろうと思う。
 なぜ、村上は「現在形」にしたのか。これは例を挙げて具体的に説明するのは骨が折れるので、「現在形」にした方が、そのとき「感情」がいきいきと感じられるからだとだけ説明した。
 でも、この「現在形」は、とても重要なのだ。実は三段落目は、「行為」というよりも「感情」の動きに力点をおいた文章に変わる。「感情/こころ」の動きというのは、いつでも「現在」なのである。「戻す」という「現在形」をつかうことで、三段落目のことばと連動しやすくなるように書かれているのでもある。

 村上春樹の「文体」は、日本語を教えるには、ほんとうによくできている。たとえば「持ちだしたのは、現金だけじゃない」の「だけ」は、この文章のあとに「ほかに」持ち出した「もの」が列挙されるということを暗示している。「だけ」じゃない、ということばがあるから、そのあとに「鹿の皮をはぐ折り畳み式のナイフ」というような、それ、何?というものが出てきても自然に読むことができるのだ。こういうことも、もちろん、ドイツ人に説明した。
 そのドイツ人は、最後に「私は物理系の仕事をしてきたので、ものの動きを論理的に追うことは得意だが、ことばがこころの動きと一致していることを知って、とても楽しかった」と言った。

 それで、ふと、思ったのだ。
 きっとこういう読み方は、日本人でもあまりしない。(朝日カルチャーの現代詩講座は、これに似たことをやっている。あることばは、どのことばと関係しているか、そのことばを結びつけるとどんなことがわかるか、というようなことを通して、詩に書かれている「こころ」を追ってみる。)だから、日本人相手であっても、こういうことをやればきっとおもしろいのではないかと。
 いまはネット環境さえととのっていれば、オンラインでやりとりができる。
 「村上春樹を読むオンライン講座」。興味のある人がいれば連絡をください。三人以上参加者がいれば、はじめたいと思います。私が「講師役/進行役」をしますので、土曜か日曜の夜(隔週)一時間、千円を予定しています。
 なお、参加してみたいなあ、と思われた方は、一段落目の「外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか」は、何を修飾することばなのか、そう考えた理由を書いて私あてに送ってください。(yachisyuso@gmail.com)

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小池昌代『かきがら』(2)

2020-09-01 09:33:59 | その他(音楽、小説etc)


小池昌代『かきがら』(2)(幻戯書房、2020年09月11日発行)

 小池昌代『かきがら』の最後に「匙の島」という短篇がある。「かひの島」と読むらしい。島の形が匙に似ているのだという。そして、その匙は、最後でこう変わる。

木製の匙で綺麗な水を汲み、赤ん坊の口をしめらすのだ。そのことで、新しく誕生した彼あるいは彼女を、島の一員に迎え入れる。

 一種の「神話」のような構図の作品だが。
 私が最初に興奮したのは、島の「涸れ井戸」に水がよみがえったのエピソード。井戸を覗く。

 皆、かわりばんこに井戸を覗き込む。その面(おもて)が、そのままばかりと井戸に落ちるような気がしてフミは怖い。見上げた顔はのっぺらぼう。何でも無闇に覗き込むものではない。

 という主人公の感想のあと、みずから進んで「うば捨て山」に入るという「オニババ伝説」のようなものが語られる。つづいて、

 誰もがタブーのように語るオニババだったが、フミもまた、オニババを思うとき、悲しみの先にある「満天の自由」に触る気がするのだ。

 括弧付きで、突然「満天の自由」ということばが出てくる。これが、私には、井戸を覗いたとき、井戸の底(水面)に映った「のっぺらぼう」が見た「星空」か何かのように感じられたのだ。「宇宙の自由」のように感じられた。
 「満天の自由」と「井戸」が呼応していると感じ、その非情な美しさ(人間を無視した美しさ)に、こころが震えた。
 詩を読むと、意味はわからないのに、あることばが突然「全体的な美しさ」で屹立してくるのを感じるときがあるが、それに似た感じを「満天の自由」に感じた。
 そして、これが最終的に「別の形」で小説の結末になるだろうと予感した。
 あとは「予感」なのか、私が「予感」にあわせて小池のことばを「誤読」しているだけなのかわからないが、とてもおもしろい展開が始まる。
 ある人が不気味な魚をつりあげる。その直前に、赤ん坊の泣き声のようなものを聞く。「ヨナタマ」ではないか、という。

ヨナタマは、海霊と書き、「ヨナ」とは海のこと。「タマ」は女性の別称とも、命のことだとも言われる。

 ここでは小池は「女性の別称」と書いているのだが、私はなぜか「女性の性器の別称」と読み違えていて、実は、いま引用しながら「あ、女性の性器ではないのか」とちょっと驚いたのだが。
 何かしら、「井戸」「満天の自由」と「女性の性器」がつながっている、そこから「命」がうまれてくるという「予感」がしたのである。
 脱線したが……。
 この「ヨナタマ」を、魚を釣った家族や近所の人がそれを食べてしまう。
 「ヨナタマ」は津波をもたらすという不吉な伝説もあるので、島人は不安になるのだが、釣り人が聞いた「赤ん坊の泣き声」が現実の赤ちゃんの誕生という具合に変化していく。
 その過程で、ちょっと説明はしにくいのだが、「生まれる前の時間」とか、人間の誕生までの変化(母の胎内での変化)が「魚の状態」ではじまるとか、海のなかでの「初潮」が語られる。
 そのときの一種のキーワードのようなもの(物語の意味を刻印されたことば)は「ブエノスアイレスの洗濯屋」と同じように、鍵括弧のなかに入っていたり、裸のままだったりするのだが、ストーリーを突き破るようにし先へ先へとイメージを広げていく。まるで「詩」のことばのように感じられ、そういうことばの「配置」にふれると、ああ、小池はやっぱり詩人なのだ、と思うのだった。
 赤ん坊に関しては、赤ん坊を抱いた女性が「名前はまだです。名無しです」と言ったあと、

名無しという言葉が、その場に矢のごとく放たれて、空気が清(す)んだのがフミにはわかった。

 そのあとフミは赤ん坊の顔を覗く。閉じられていた目が一瞬開かれ、表情が目まぐるしくかわる。「老賢者」「怪魚のような醜貌」「カエル」「ヘビ」「トカゲ」「サル」。それが「疾風のように通りすぎた」。
 この描写は、なぜか「井戸」を覗いたときのことを思い出させる。赤ん坊の目は「井戸」なのだ。そうであるならば、赤ん坊が見つめたのは「満天の自由」なのだ。「満天の自由」を主人公は、赤ん坊をとおして瞬間的に見たのだ。
 とは、小池は書いていないのだが、私は「誤読」する。
 そして、いいなあ、と思う。
 何か、巨大な「迂回」をとおして、世界が新しく生まれ変わる。世界が生まれ変わるためには「迂回」が必要だ。その「迂回」の目印のようなものが、作品のなかに「配置」されていて、それを辿ると世界が動いたことがわかる……という感じと言えばいいのか。

 「詩」のことばが、小説のなかに生まれてしまう「余分」を、ある意味では削り落とし、あるいは「詩」を踏み台にしてストーリーを別次元へ飛翔させてしまう。なにか、そういう感じで、小池の短篇のことばは凝縮したまま動いている。
 ストーリーのスムーズな展開というよりも、ぎくしゃくしていても、「象徴的なことば」の飛躍力(飛翔力)を借りて、新しい世界を生み出してしまう。そういう「文体」だと思った。だから、ストーリー(散文)を読むというよりも、「詩」だと思って読んだ方が、きっと楽しい。







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小池昌代『かきがら』

2020-08-31 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)


小池昌代『かきがら』(幻戯書房、2020年09月11日発行)

 小池昌代『かきがら』は短篇集。7篇収録されている。「ブエノスアイレスの洗濯屋」というタイトルに惹かれて、まず、その作品を読んだ。
 ブエノスアイレスが直接登場するわけではなく、主人公の働いている洗濯屋の親方の祖先の末裔がブエノスアイレスで洗濯屋をやっている、という具合に登場する。直接小説の「舞台」になっているわけではない。
 で。
 こんなことから書き始めたのは、実は、この小説が「ブエノスアイレスの洗濯屋」のような「ことば」と、その「ことばをとおして想像すること」を、とても巧みにつかうことで成り立っているからである。このタイトルは、ひとつの「象徴」のような働きをしているのだ。
 「ことば」と「ことばばをとおして想像すること」というのは、いくつも書かれるのだが、象徴的なことにしぼって取り上げると。
 主人公(空也)が住んでいるビルには「おにぎり屋」がある。このおにぎりをつくることを、空也は「むすびかた」と言う。「おむすび」といういい方があるから、それを踏襲したものだが、それを聞いておにぎり屋の店員(ヒロノブ)は、

「つくりかたじゃなくて、むすびかたか。あんた、微妙なことを言うね」

 と感想を漏らす。言っていることはわかるが、「微妙」な違いがある。それは「ずれ」というのでもないなあ。むしろ、逆に「重なり方」「一致の仕方」というものである。
 そういうことが、いくつものことばが出会いながら「重なり」(一致)を深めていく。「ことば」が重層的になるとき、世界が重層的に、立体的に見えてくるという構造になっている。
 洗濯屋にはアイロンがつきもの。空也はアイロンをかけることを仕事にしている。アイロンは「皺」をのばすためのものである。おりぎりは手で握る。その掌には「皺」がある。もちろん掌の「皺」はアイロンでのばすものではないが。
 おにぎりは素手で握ったものがおいしい。「雑菌が調味料」の役割をする。アイロンも完璧に皺がなくなってしまってはいけない。

人間の手作業の「雑味」というものを、残すくらいが、いい仕事だ。

 「雑菌」が「雑味」と言い直されて、アイロンがけとおにぎりをひとつに「結ばれる」。
 キーワードがつぎつぎに変化して、世界がなんとなく重なりひとつになる。このときのキーワードを小池は「雑味」のように、括弧で強調するときもあれば、クライマックスででてくる「人肌」のような、括弧なしでつかうこともある。
 人が死ぬとき、手を握る。そうすると、命が延びる、生きている人から死んでいくひとに向かって血が流れ、同時に時間が逆流するように、死のうとしているひとが引き返してくる感じがある、とヒロノブがいう。その話を聞かされた空也が、ヒロノブに手を握らせてくれ、と頼む。

空也の手から、ヒロノブの手へ、静かに移動していくものの気配があった。空也の手はつめたく大きく、ヒロノブの手はあたたかく小さい。ヒロノブも空也も、久しぶりに人肌に触れた。炊きたての白米とはばかに違う。アイロンの取っ手とはまったく異なる。人の肌。人の肌は。

 この短篇は、この「人肌」の発見、あるいは「人の肌」に「触れる」という、ちょっとなつかしいようなものをことを発見するまでのことを描いている。このあとで、空也は、

空也は初めて、親方の「親戚」に思いを馳せた。(略)合ったことのないブエノスアイレスの洗濯屋を、空也は今こそありありと身の近くに感じた。

 ことばが重なり、それが世界を、他人を身近にする。ことばがあって、ことばをとおして想像することで「ありあり」が初めて存在する。
 それが、先に引用した「雑味」のようなことばをぽつんぽつんとつなぎながら語られていく。括弧のないものも含めて引用すると、「後屈」「事実婚」「果皮(老婆)」「砧/皺」「見えない人」「降臨」「旧世界」などである。どれも「ありあり」を浮かびあがらせるためのことばである。
 補足すると「見えない人」とはドガの「アイロンをかける女・逆光」の絵について触れたところに出てくることばであり、それがブエノスアイレスの「見たことのない人」へとつながり、「旧世界」は富士山が爆発する前の世界をさす。つまり、この小説は、現代が舞台ではなく「未来」が舞台なのである。
 「未来」と断ることで、「ことば」にかかる圧力を軽減し、「ことば」と「ことばを通して想像すること」の関係が巧みに語られるのだが、気になるのは、その語り方があまりにも巧みでつまずきがないことである。書いているうちに「ことば(キーワード)」が生まれてきたというよりも、最初から「キーワード」を散らしておいて、それをつないでいったのではないかという印象がしてしまう。それはそれでひとつの方法なのだと思うが、私が散文を読むときに感じる興奮とは相いれないものである。だから「巧み」という印象が真っ先に出てきてしまった。








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「詩はどこにあるか」2020年8月号、発売中。

2020-08-30 22:25:28 | その他(音楽、小説etc)

「詩はどこにあるか」2020年8月号、発売中。
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目次

谷川俊太郎『ベージュ』2  ジョージ・ミラー監督「マッドマックス 怒りのデス・ロード」14
谷川俊太郎『ベージュ』(2)16  藤森重紀『まちのかたち 凡庸な日常』23
谷川俊太郎『ベージュ』(3)25  谷川俊太郎『ベージュ』(4)32
高山羽根子「首里の馬」42  青柳俊哉「蝉声」、池田清子「最近の」、徳永孝「川の流れの中で」45
柴田秀子『遠くへ行くものになる』52  森鴎外『阿部一族』56
須田覚『西ベンガルの月』58  長嶋南子『海馬に乗って』62
長嶋南子『海馬に乗って』(2)68  アイラ・サックス監督「ポルトガル、夏の終わり」73
池田瑛子『星表の地図』75  鈴木ユリイカ『サイードから風が吹いてくると』80
遠野遥「破局」84  野沢啓「詩を書くという主体的選択――言語暗喩論」88
鈴木ユリイカ『サイードから風が吹いてくると』(2)93  水島英己『野の戦い、海の思い』98
レオナルドマイコ「一碧万頃」102  河邉由紀恵「蝋梅」、田中澄子「彼女は 彼に」105
坂多瑩子「クレヨン」109  池田清子「えっ」、徳永孝「怒っているの?」、青柳俊哉「水踏む音」113
太田隆文監督「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」124
山本育夫「つづれ織り『詩の遠近法』」128  山本育夫書き下ろし詩集「野垂れ梅雨」十八編134
有働薫『露草ハウス』138  吉田広行『記憶する生×九千日の昼と夜』143
山本育夫書き下ろし詩集「野垂れ梅雨」十八編(2)147  吉田広行『記憶する生×九千日の昼と夜』(2)152
小池昌代『かきがら』157
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遠野遥「破局」

2020-08-16 18:40:06 | その他(音楽、小説etc)


遠野遥「破局」(「文藝春秋」、2020年09月号)

 遠野遥「破局」は第百六十三回芥川賞受賞作。高山羽根子「首里の馬」ががっかりする作品だったので、遠野遥「破局」もつまらないだろうと思い、読まずにほっておいた。そのまま、ごみに出してしまえばよかった。
 遠野は「受賞のことば」で傘のシーンについて「自分の実力を超えた文章」(が書けた)と書いている。その部分は、たしかに美しい。

私は鞄から折りたたみ式の黒い傘を取り出した。灯は一本の傘にふたりで入ればいいと言って、自分の傘をつかおうとしない。ふたりで傘をさすと距離がとおくなってしまうから、それが嫌だという。(453ページ)

 遠野は「この場面だけ読んでも、何もわからない。だから、最初から読んで欲しい」と書いてるのだが、最初から読む必要はない。私が引用しているほかは読まなくていい。
 読まなくていい理由をこれから少しだけ書いておく。
 主人公は、ときどき「ニュース」に触れる。そのニュースがワンパターンである。

テレビではニュースをやっていて、強制わいせつの疑いで、巡査部長が逮捕されていた。走行中の東海道線の車内で、女性の下着に手を入れるなどしたという。(406ページ)
テレビの電源を入れると、元交際相手の暮らすアパートに侵入して下着を盗んだとして、巡査部長の男が逮捕されていた。(409ページ)
テレビではニュースをやっていて、女性用トイレに小型カメラを仕掛けたとして、巡査部長の男が逮捕されていた。(435ページ)

 これが一人の巡査部長のニュースであり、ストーリーの展開にしたがって動いていく(徐々に犯罪が拡がってくる)というのなら、まだわからないでもないが、何の関係もなく、ただ巡査部長が性がらみの犯罪で逮捕されるというだけである。
 しかも、この「ニュース」の文体が、主人公がニュースを聞いてことばにしているというよりも、新聞の「コピー」のような文体である。「女性の下着に手を入れるなどしたという」「アパートに侵入して下着を盗んだとして」「小型カメラを仕掛けたとして」。これは、新聞(マスコミ)が容疑者から「事実と違う」と指摘されたとき、「警察発表にしたがって書いたもの(伝聞)」であると言い逃れるための文体である。
 あきれかえる。
 こういうニュースにめが行くのは、主人公が、いつもいつも性にとらわれているという「証拠」なのかもしれないが、また警官逮捕か、他にニュースはないのか、と思ってしまう。
 この主人公は、また「マナー」や「法律」を非常に気にかけている。それが、ばかばかしい。

こうして肉や酒を振る舞ってもらっている以上、こちらから何か話題を提供するのがマナーであるはずだ。
肉だけで腹を満たすのはマナーに反する気がした。(ともに408ページ)
女にわざと脚をぶつけようとした。が、自分が公務員試験を受けようとしていることを思ってやめた。公務員を志す人間が、そのような卑劣な行為に及ぶべきでなかった。(414ページ)
彼女のことを知りたくて(トートバッグの)中身を見ようとしたが、やはり公務員を志しているからやめた。(415ページ)
灯に年齢を聞くと十八だというからやめた。灯の体を思えば酒を飲ませるわけにはいかないし、何より法律で禁止されている。(418ページ)
ひとりだけ酒を飲むのはマナーに反するので、私はアイスコーヒーを頼んだ。(426ページ)

 こんなことばが、ふたりの女の間を行き来し、セックスをする男のことばなのである。しかも、そのセックスというのが、なんとも味気ない。

私たちは会うたび欠かさずセックスをした。ひとたび始めればすぐには終わらなかったし、夜が明けるまで時間をかけてそれを行うこともあった。私はもともと、セックスをするのが好きだ。なぜなら、セックスをすると気持ちがいいからだ。セックスほど気持ちのいいことは知らない。(436ページ)

 なんとも。
 こんな文章を読んでも、私は欲情しないなあ。セックスしたいという気持ちにならない。

麻衣子は私の上で、大きくなめらかに腰を動かした。麻衣子が動くのは初めてだったが、麻衣子はこの動作にすっかり習熟しているように見えた。私は我慢する間もなく、あっという間に射精を迎えそうになった。すると、麻衣子がさっと腰を引いた。路地を横切る鼠のような素早さだった。上を向いていた性器がぶるんと私の顔のほうを向き、まさにその動きの途中で私は射精した。精液は、嘘のようにゆっくりと飛んだ。にもかかわらず、私は身をかわすことができなかった。精液が私の鼻や口、シャツに付着した。(439ページ)

 この描写だけ「綿密」で、ポルノ小説をなぞっているみたいだ。この「なぞっているみたい」というのは、最初の方に引用した「警官逮捕」のニュースの文体に通じる。作者の「肉体」を通ってことばが動いている感じがしない。どこかで読んだことがあるぞ、としか感じない。「麻衣子はこの動作にすっかり習熟しているように見えた」はいいけれど、相手の動きを「習熟」していると感じるかぎりは、主人公も「習熟」していないといけない。どんな具合に主人公がセックスに「習熟」しているのか、ぜんぜん、わからない。つまり、好奇心を刺戟してこない。
 だいたいねえ。
 「ねえ、ごめんね、あんまりさせてあげられなくて。陽介くん、きっといつも我慢してたんだよね」(438ページ)というようなことを、いまの若い女性が言うのだろうか。セックスは、女が男に「させてあげる」ものなのか。「マナー」や「法律」を言う前に、人間としての「平等感覚」を先に身につけるべきではないのか、なんて、説教をしたくなってしまうなあ。
 こんな作品を「文学」として選んだ選者の感覚に疑問をもつ。


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高山羽根子「首里の馬」

2020-08-07 17:29:38 | その他(音楽、小説etc)


高山羽根子「首里の馬」(「文藝春秋」2020年09月号)

 高山羽根子「首里の馬」は第百六十三回芥川賞受賞作。
 その書き出し。

 台風があきれるほどしょっちゅうやって来るせいで、このあたりに建っている家はたいてい低くて平たかった。(316ページ)

 違和感を覚えた。「あきれるほど」が、どういう立場から発せられることばか、よくわからなかったからである。
 この一段落目の最後は、こうである。

このオレンジと白の独特な屋根の色模様が南国特有の景色に溶け込んで、うまいこと情景をかもしだしていた。(317ページ)

 「うまいこと」がまた奇妙である。台風に苦しむ土地の人ではなく、よそからみている。客観的、というのとも違う。見たものを「自分の主観」にしてしまっている。この「主観」は二段落目の最後、

建物群は、いま、それでもこの土地の象徴としてきっぱり存在している。(317ページ)

 この文章の「きっぱり」にもあらわれている。
 これから始まるのは、「寓話」(あくまでも語り手が存在することで成り立つ世界)であること、「現実」ではないことを告げている。
 これは、これでいい。ことろが、この「主観」の持ち主の「順さん」は、320ページで、「主役」を「未名子」に譲ってしまうことになる。320ページから「文体」がかわるのだ。
 まあ、大枠のなかに、もうひとつ枠ができた、と考えればいいのかもしれない。「劇中劇」のような、「寓話」のなかに「現実」を入れ込んだ世界と言えばいいのか。ふつうは、「現実」のなかに「寓話」を入れるのだけれど、この小説は「逆構造」を狙っている。
 で、それだけでは終わらず、今度はその「逆構造」のなかに、また別の「寓話(フィクション)」を入れ込む。
 そのとき、この「フィクション(虚構化することで初めて明確になる現実)」というのは何?
 高山は、簡単に「謎解き」をしてしまう。「答え」を言ってしまっている。「孤独」である。(335ページ)以後、「孤独」が、この小説をひっぱっていく。
 あとは、なんというか、安っぽい「ハゥツゥ思想解説書」みたいになってしまう。つまり「孤独」とは何かを、何回か定義しなおすために、ストーリーが利用される。
 こんな具合。未名子はネットを使い、どこに住んでいるかわからない人物にクイズを出すという仕事をしている。クイズに答えからかといって、回答者に何かが与えられるわけではない。

一対一のクイズには、対話があり、心の交流が生まれます。(338ページ)

 あとは、もう読まなくても、どうでもいい。私は最後まで読んだが、「孤独」な人間が、だれと交流し、どうやって心の交流をつくっていくか、ということが「現代の寓話(フィクション)」として展開されていくだけである。

自分の知らない知識をたくさん持っている人たちとの、深すぎない疎通も心地よかった。きっとここを利用する何人もの回答者も、こういうささやかな感情のやりとりを求めて通信をしているんだろう。そうして未名子自身も彼らと同じくらいに孤独だという実感があった。                            (349ページ)

 で、このままでは、現実を突き破り、ことばの力で真実に至るという小説にならないと考えたのか。主人公は、突然、こんなことをことばにする。(最終盤、である。)

 未名子はほんのしばらく前まで、自分が本質的には仕事でクイズを出していた相手の回答者たちとおなじ種類の孤独と閉塞感を抱えているんだと考えていた。(401ページ)
 
 突然、主人公は「自分は違うんだ」と主張して、その「孤独寓話(フィクション)」から脱けだして、「順さん」の「主観」(沖縄の埋もれた歴史)に寄り添うのだが、いい気なもんだなあ、と私は思ってしまう。
 小説なのだから、沖縄をどんな具合に描こうと、それめそれで作者の自由だが、こんな「寄り添い方」はないだろう。沖縄を舞台にする必然性がないし、こんなに長々と書くようなことでもない。長く書くなら、「孤独」の哲学をもっと綿密に書く必要がある。比較する方が間違っているのかもしれないが、ボルヘスなら原稿用紙十五枚の小説だなあ、と思った。時里二郎なら二十枚の散文詩か。




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2020-08-02 23:39:20 | その他(音楽、小説etc)
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村上春樹『一人称単数』

2020-07-24 19:01:26 | その他(音楽、小説etc)


村上春樹『一人称単数』(文藝春秋、2020年07月20日発行)

 私は村上春樹の文体が嫌いである。翻訳されることを意識して書かれた文体だからである。特に長編小説は、翻訳されることが強く意識されている。私は翻訳はしないが、直感的に、そう感じてしまう。澱みがなく、読みやすい。次に出てくることば、次に何が書かれるか「予測」しやすい。
 どんな作品でも(あるいは日常会話でも)、ことばは常に次にどんなことばがあらわれるか、「予測」しながら読む(聞く)のがふつうのやり方だ。この「予測」をどれだけていねいに導くか、あるいは裏切るかが「作品」の価値を決めるときがある。すぐれた文学は「予測」させると同時に、その「予測」を許さないという両面から成り立っているが、「予測を許さない」という部分が多くないと、「初めて読む」という感動が起きない。村上春樹の小説は(私は、嫌いだからほとんど読んだことはないのだが、読んでいるかぎりでいえば)、「予測」が非常に簡単である。すらすらと読める。私は目が悪く、「速読」はむりなのに、である。
 で。
 その「予測可能な文体」のなかに、ときどき、あまりにも「予測」をそのまま利用したことばがあらわれるときがある。このときに、私は、どう言っていいのかわからないが、ぞっとする。ウェルメイドの「料理」であるはずなのに、「味の素」の粒が溶けずにそのまま残っていて、それを噛んでしまったという感じ。それまでの「ていねい」に準備されてきた(つくられてきた)ものが、「手抜き」によって崩れていく。もともと村上春樹の文体は好きではないが、この瞬間は、ぞっとするとしかいえない。
 この部分こそいちばん大切に書かないといけないのに、「味の素(もうつかわれなくなった定型)」で処理されている、と感じる。
 ひとつだけ例を挙げる。「謝肉祭(Carnaval)」の、女友だちが詐欺師だったとわかったあとの部分。女友だちは「醜い」が、「特殊な吸引力」でひとをひきつける(主人公も、その吸引力にひきつけられた)。その夫はハンサムだ。
 その二人の組み合わせから、主人公は、こんなことを考える。

彼女のそのような特殊な吸引力と、若い夫のモデル並みに端正なルックスがひとつに組み合わせられれば、あるいはそこで多くのことが可能になるかもしれない。人々はそのような合成物に抗いがたく引き寄せられていくかもしれない。そこには悪の方程式のようなものが、常識や理屈を飛び越えてたちあげられるかもしれない。(178ページ)

 「特殊な吸引力」については、充分に書き込まれているから、そこには不満はない。しかし、「悪の方程式」はどうだろうか。女の魅力と男の魅力があわさって、他人を簡単にだますということなのだろうが、あまりにも「手抜き」のことばではないだろうか。
 「悪の方程式」に中心があるのではなく、女の「特殊な吸引力」がテーマであることは理解できるが、その「特殊な吸引力」の「もうひとつの証拠」のようなものが、こんな「犯罪小説の定型の説明」につかわれるようなことばで書かれてしまうことに、私は納得ができない。
 ここがいちばん肝心なところ。
 「悪の方程式」を「悪の方程式」ということば(慣用句)ではなく、具体的に書かないと、何といえばいいのか……「女友だち」がストーリー(主人公の人生)から簡単に排除されてしまう。「排除の根拠」になってしまう。
 「悪の方程式」というのは、たぶん、日本語だけではなく、外国の犯罪(小説)の説明につかわれることばだと思うが、そう思うと、よけいにいやになる。
 最近、日本では「夜の街」ということばが、「悪の方程式」のようにつかわれているが、そういうことも思い出した。世間に流布している「定型」を利用した表現をキーワードにつかうのは、なんともおもしろくない。ある主張のためにことばを利用する「政治家の文体」を感じる、といえば、私の「ぞっとする」を言い直したことになるかなあ。









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服部誕『もうひとつの夏 もうひとつの夢』

2020-07-19 15:12:54 | その他(音楽、小説etc)
服部誕『もうひとつの夏 もうひとつの夢』(私家版、2020年06月30日発行)

 服部誕『もうひとつの夏 もうひとつの夢』は小学生の「良雄」の体験を描いている。六章で構成されている。その「第一話 紫色のビー玉」。ある日、銭湯へ行く。そこには入れ墨をした男がやってきている。

首から下は全部、入れ墨がしてあった。それは虎や龍のようだった。良雄はじっと見ておられずにすぐ目をそらした。(略)見てはいけないものを見てしまったように思えた。
(略)
 しぼった手拭いでバシバシとからだじゅうを叩きながら、ほりもんのおっちゃんは出ていった。それはまるでサーカスの猛獣使いのようだった。

 「猛獣使い」という比喩がおもしろい。男は、自分の肉体の中に潜む猛獣を、自在に再御していると良雄に見えたのか。男が猛獣に見えたけれど、男は人間なので「猛獣使い」という比喩になって、ことばがかってに動いたのか。ここに、詩があると思った。
 「小説」なので、文体がどうしてもそうなってしまうのかもしれないが、「見てはいけないものを見てしまったように思えた」の「思えた」は叙述のことばとして弱いと思う。「思えた(思う)」という動詞をつかわずに、こころが動いていることを書くと、描写が現実になって動き始めると思う。
 タイトルになっている紫色のビー玉は、後半に出てくる。友だちが引っ越していくこと何。その友だちからビー玉をもらう。

 もうすぐ家に着くというときに、良雄の抱えていた紙袋がふいにやぶれた。
 じゃらじゃらと路地中にすさまじい音を響かせながら、あっという間に地面に散らばった何百個のものビー玉は、良雄の家の玄関からもれる明かりをきらきらは反射させ、茜色にそまった夕空の下、まるで宝石の海のようにあたり一面に広がっていった。

 美しい描写だが、ことばの重複が多いと思う。「猛獣使い」のように、もっと刈り込めば、さらに印象的なことばになったと思う。
 小説は、この散らばっていくビー玉を追いかけるように、次々に思い出を追いかけていく。
 「第六話 蝋石の夢」には第一話に書かれていた「富士山のない銭湯」の話が、友人のことばの中に蘇るというおもしろい仕掛けもあって、全体をおさえている。

 忘れ去った夏の日々の記憶の扉をもういちど開けるのは、いつか見るかもしれない、もうひとつの夢のなかなのだ。

 この「末尾の二行」には、作者のいいたいことがきちんと書かれている。だが、きちんと書いてしまっていいのかどうかは、とてもむずかしい。
 第一話のおわりのように、自分の思いではなく、「もの」に何かを語らせた方が余韻が残るのと思う。







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閻連科『丁庄の夢』

2020-07-16 11:04:50 | その他(音楽、小説etc)


閻連科『丁庄の夢』(谷川毅=訳)(河出書房新社、2020年06月30日新装版発行)

 閻連科の文体は、私にとっては、まず「音」である。ことばが「音」そのものとして聞こえる。もちろん私は谷川毅の訳文(日本語)を読んでいるのだから、私の聞いている音は「原音」ではない。しかし、強烈な音が聞こえる。音が重なり合って、壮大な交響曲のように響く。そういう印象がある。そして、その音の強さの背後には、人情を無視した自然の非情さがある。非情と向き合うために、人間は「情」のかぎり、声を張り上げないといけない。『年月日』という短篇は、非情と向き合った人間が聞き取った自然の音も書かれていた。それは交響曲ではなく、あえていえばピアノのソロのような音楽だが、ピアニッシモの音さえも、宇宙の果てまで届くような強さを持っている。純粋なのだ。そういうことが伝わってくることばだ。
 今回読んだ『丁庄の夢』も強い音がぶつかりあっているが、新しい要素として「匂い」が加わった。これまでも「匂い」を書いているかもしれないが、私の記憶からは抜け落ちている。
 その匂いは、「血の匂い」だ。

地下に管が蜘蛛の巣のように張り巡らされていて、その中を血が流れていた。きちんと接合されていない継ぎ目の隙間から、管の曲がったところから、血が水のように噴き出していて、空中高く飛び散り、どす黒い雨のように降り注ぎ、べっとりとした生臭い匂いが鼻をついた。さらに平原でも、祖父は井戸や川の水が真っ赤で生臭い血になってしまっているのを見た。

 そして、血の匂いはまた、死の匂いでもある。

口元から血が流れていた。口元だけではなく、鼻からも血が流れていた。血は何筋もの流れを作っていた。学校に死人の血の臭いが漂った。

 生きている「熱い血」の臭いではなく、死んだ血の生臭い臭い。
 しかし、そんな臭いを嗅ぎ取ってしまうのは、小説の舞台になっている村には、また違った臭いがあるからだ。

秋の夜の月のしかりの下で、荒れ地の枯れ草には白枯れた香りがあった。ほど近いところにある黄河古道には、焼いた砂に水をかけたような渇いた匂いがあった。それらの匂いが肯定に集まってきて漂っていた。その匂いで一杯になって、違った静けさが人々に染み渡っていった。馬香林の歌に様々な味わいがあるように。

 舞台は、ほんとうは美しい村なのだ。それは漢詩に出てくる「非情」に似た人間を超える美しい村なのだ。しかし、その村を舞台に、血を売るという商売がはじまり、エイズが蔓延していく。村人がつぎつぎに死んでいく。
 つまり。                   
 死んでいく人間の血は汚れ、その臭いは強烈だが、生きている人間の血は純粋に美しいかというとそうではない。病気におかされ瀕死の血があると同時に、別の人間の肉体のなかには死を食い物にして生き延びる非情な血がある。(人間もまた、あるいは人間こそ、非情の存在なのかもしれない。)
 それが次から次へと、血のぶつかり合い、臭い(臭い、香り)のぶつかり合いとして描かれる。
 そのなかには、病気におかされながら、その絶望の中から新しくいのちを獲得して燃え上がる血の臭いもある。エイズに感染し、連れ合いに捨てられたもの同士が、愛に燃え上がる。

叔父さんは(略)、熱病のできもの特有の臭いの他に、隠そうとしても隠せない若い娘の放つ匂い、まだ汚されたことのない清らかな味わい、結婚したばかりの娘の鮮烈な女の香りを感じ取っていた。

 二人の愛と生きることへの欲望は、結果的に、社会を変えていく。その瞬間が美しく描かれる。
 そして、その愛憎の境目に、また別の臭いがさしはさまれる。棺桶の臭い。棺桶をつくる木、切り出された木の真新しい臭い。それは木の血の臭いといえるかもしれないが。

漆黒の闇の中に、切ったばかりの木屑の新しく白く輝く香りが灯のある方から漂ってきた。香りは村の西から、南から、北から、東の横町から流れてきてまとまると一塊になり、揺らめいていた。

 情(人情)と自然の非情がぶつかり合い、それが人間の温かい情(人情)と残忍な欲望の対立を鮮烈にする。人間の非人情(残忍な欲望、他人の死を気にしないという人情)と自然の非情はまったく違うのだ。自然の非情は、悲劇を一瞬にして美に結晶させ、詩を生み出すが、人間の非人情が生み出す悲劇は詩にはならないのである。簡単にカタルシスを与えてくれないのである。
 だからこそ、引き込まれてしまう。

 しかし、閻連科は基本的に詩人なのだと思う。最後はいつも小説を読んだというよりも、詩を読んだような激烈な感情が噴出してくる。
 この小説のクライマックスは、小説の語り手である死んだ少年の父親を、祖父が殺す場面である。
 その最後の瞬間を読んだとき、私は、あっと叫んでしまった。

地面を染めた血は、春の野に花が咲いたようだった。

 非常に短い。その短さに、私はびっくりしたのだ。なぜというに、閻連科のことばの特徴は、ことばがことばを誘い出すように、何度も言い直されるところにあるからだ。
 たとえば、

死人は木の葉が落ちるように、火が消えるように死んでいった。墓掘り人はついでのように鍬を振るい穴を掘り、まるで死んだ犬や猫を埋める穴を掘っているかのようだった。悲しみもなく、泣き声もなかった。泣き声も悲しみも涸れた川のように音を立てることもなく、涙も灼熱の太陽の中に降る霧雨のように、地面に落ちる前に蒸発してしまった。

 という具合。「死人は木の葉が落ちるように、火が消えるように死んでいった」は、ふつうなら、「死人は木の葉が落ちるように死んでいった」か「死人は火が消えるように死んでいった」と書くだけだろう。(死と木の葉が結びついたイメージは「葉っぱが一枚落ちると人が一人いなくなった」というような具合に、この小説では何度も繰り返されている。)しかし、それだけでは気がすまずに、「犬猫を埋めるように」という描写があり、さらに「涸れた川」があり、最後に「灼熱の太陽と霧」の比喩がある。この、どこまでもつづくことばの暴走(?)のようなものが閻連科の特徴なのに、クライマックスでは、それが一行で断ち切られているのだ。
 それは、どうしてか。
 クライマックスの一行は、主人公の死んだ少年の声なのだ。
 それに対して、他の部分の饒舌ともいえる描写は、語り手の声であると同時に、その場を生きる人たちの声なのだ。一人の声ではなく、多数の(無数の)声。一人が声を発すると、それに刺戟されるようにして、別な一人が気づいたことを語り、それを引き継ぎ別の人が語る。集団で引き継がれる声。閻連科の小説が、どこか「民話風」というか、土着の声を感じさせるのは、自然の非情と向き合うと同時に、そういう「語り継がれた声」を含んでいるからだと思う。
 加速し、どこまでもどこまでも広がっていく文体の中に、クライマックスで主人公の声が単独で屹立する。だからこそ、それが激烈に響く。

 音の過剰、色の過剰。そして、この小説の臭い(臭い、香り)の過剰。閻連科の感覚は、世界を更新し、どこまでも広がっていく。こういう文体と同時代を生きるのは、たいへんなよろこびだ。



 私は中国語をまったく知らないのだが、小説の中に出てくる「嗅覚」の世界を、臭い、匂い、香りと訳し分けた谷川の文体にも感謝したい。世界は、ことばにしたがって明確になっていく。





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村上春樹『海辺のカフカ』

2020-07-02 18:36:37 | その他(音楽、小説etc)
村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社、2002年09月10日発行、2017年03月05日26刷)

 もし外国人に日本語の小説の読み方を教えるとしたら、どんな教材がいいか。私は村上春樹が大嫌いなくせに、教材には村上春樹が適していると思う。これはカンにすぎないのだが。
 で、ためしにを『海辺のカフカ』をめくって、その「第一章」の書き出し。

 家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金色のライター(そのデザインと重みが気にいっていた)と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。
 父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ。あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。
 ほかには小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真。その写真も引き出しの奥に入っていた。僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑っている。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になっている。おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。教科書の写真で見たギリシャ演劇の仮面みたいに、その顔には二重の意味がこめられている。光と影。希望と絶望。笑いと哀しみ。信頼と孤独。一方の僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ている。海岸には僕ら二人のほかに人の姿はない。僕と姉は水着を着ている。姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て、僕はみっともないブルーのぶかぶかのトランクスをはいている。僕は手になにかをもっている。それはプラスチックの棒のように見える。白い泡になった波が足もとを洗っている。

 これを読んで、こんな質問を考える。

1 僕(主人公)は何歳くらいだと思いますか? なぜ、その年齢を想像しましたか?
2 父親は何歳くらいで、どういう人間だと思いますか? なぜ、そう想像しましたか?3 僕が、父の書斎から持ち出したものは、何と何ですか?
4 僕が、父の書斎から持ち出さなかったものは何ですか?
5 それを持ち出さなかった理由はなぜですか? なぜ、持ち出さなかったのですか?
6 持ち出したものの中で、僕が一番大事だと考えているものは何ですか?
7 なぜ、それが一番大事だと、あなたは考えますか?

 質問の「要点」は6と7。
 質問というのは、たいてい「答え」を想定してつくるものだが、この質問と答えをくみあわせて考えながら、私はもう、小説のつづきを読む気力をなくしていた。
 僕が持ち出したものの中で一番大事なのは、「僕と姉との写真」。それは「非実用的」なのに、長々と説明している。僕が実用性を重視していることは、二段落眼に「実用性を考えれば」ということばが明記されていることからもわかる。それなのに実用性を無視して(つまり、他者と自分との関係において何の意味も持たないと知りながら)、それについて語る。言い換えると、それが自分にとって大事であるということを語るからなのだ。
 村上春樹の小説は、驚くほど「合理的」に書かれていて(実用性ということばを、前もって書いている部分にそれが端的にあらわれている)、「速読」できるようになっている。「速読」しても、読み落としがないように書かれている。また、絶対に読者がつまずかないように書かれている。なぜ、僕が写真を持っていくか。「実用的ではない」。つまり、「個人的に必要だ」からだとわかるように書いている。
 この「合理性」は、こんなふうに問いかけると、より明確になる。

8 「家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。」とはじまるのは、なぜだろう。
 答え ほかにも持ち出したものがある、ということを暗示するためである。そして、その他のものかと読者の関心を引っ張っていくため(物語の展開をスムーズにするため)である。

9 「父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。」という文章から、僕の性格を想像してみよう。どういう人間だろうか。
 答え 自分の行動を常に見直し、他人の視点を意識する人間である。自分がどうみられているかを基準にして、自分の行動を制御することができる人間である。言い換えると、つねに「自己対話」をする人間でもある。

 そして、ここから「僕と姉との写真」へと世界が変わった瞬間に、小説のテーマがくっきりと見えてくる。「暗示」(象徴的言語)であるけれど、誤解の入る余地がないくらいに明示される。
 「二重の意味」ということばが三段落目に出てくるが、「二重」であることによって世界が完成するというテーマである。主人公の僕は、自分を探しに世界へ飛び出すのではない。僕とだれか(姉が、まず書かれているが)と二重になること、出会い、まじわることで、世界が生まれると同時に、世界が完結する。このときの二重は、似た者同士の重なりあいではなく、まったく反対のものが「二重」になることで完結するのである。「重なりあい」の中に、それまで存在しなかった運動があり、その運動そのものが世界なのだという哲学が村上の中にあるのだろう。
 読まずに書くのだが。
 こんなふうに、書き出しを読んだだけで小説世界がどう展開していくかわかってしまう作品というのは「退屈」ではないだろうか。ことばとはこんなふうに書くもの(語るもの)という「手本」にはなっても、それ以上のものにはなり得ないのではないだろうか。
 読まずに書くのだが。
 私が村上春樹の「ことば」に関する疑問は、そこにある。何が起きても、それは前に書かれていることをきちんと踏まえていて、どこにも間違いがない(嘘や飛躍がない)というのは、ことばを読んで「だまされる」という快感から遠いのではないか。
 私は、だまされたい人間である。そんなことありえないだろう。でも、そうあってほしい、と小説を読んだときは思いたいのだ。







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ハマスホイとデンマーク絵画

2020-06-06 17:56:14 | その他(音楽、小説etc)



ハマスホイとデンマーク絵画(山口県立美術館、2020年06月06日)

 ハマスホイは見たことがない。「背を向けた若い女のいる室内」が有名だ。入場券のカットにもつかわれているし、ポスターにもつかわれている。小さな「写真」で見ていたときは気がつかなかったのだが、実際に見てみると不安につつまれる。
 何が私を不安にさせるのか。
 陶器の壺が載っているのは棚だろうか。飾り台(あるいは何かの物置台)だろうか。わからない。壺の下の茶色の部分、その右端が女の体に隠されている。何の影かわからないが、その影と思えるものが女の右側にぼんやりと落ちている。

 何が私を不安にさせるのか。
 「問い」をかかえたまま、他の絵にもどってみる。
 「室内-開いた扉、ストランゲーゼ30番地」という絵がある。ひとはいない。ある部屋の正面(?)と右側の扉が開かれている。正面の開かれた扉から向こうの部屋が見える。その部屋の書面の扉も開かれている。
 ここにあるのは何か。扉と床。それはつかいこまれている。そして、生きている。ひとはいない。留守なのか。そうではなく、死んだのかもしれない。ひとは死んでも部屋は生きている。部屋を構成する素材である「木」は生きた木ではなく、死んだ木である。それが、生きている。人間の「いのち/死)」を超えて生きている。しかも、その「生き方」というのは、かつてここにひとが生きていたと「感じさせる」ことによって生きている。「生きていたと感じさせる」とは「死んだと感じさせる」と同義である。

 「背を向けた若い女のいる室内」にもどってみる。
 壁も棚も壺も、生きている。人の死を生きている。
 一方、女はどうか。盆をかかえている。生きている。しかし、そこにいのちの輝きはない。女は、若いのに、そのいのちを死んでいる。
 女がもしこの部屋の「手入れ」をしなければ、つまりこの部屋をつかわなければ、部屋のすべては死んで荒れていく。女は部屋を「生かす」ことによって、自分のいのちを消尽していく。
 生と死の関係が、ここでは逆転している。逆転しながら、それが拮抗している。

 室内は死を生きている。女は生を死んでいる。

 その不思議な拮抗、向き合い方が、女の体によって隠されている。棚か飾り台かわからないが、その「知りたい部分」は女の肉体(人間のいのち)が隠している。しかも、それは活発ないのちの活動によって隠されてしまったのではなく、偶然のように、女がそこに佇むことによって隠されている。
 そして、その隠されたものを暗示するようにして、女の肉体が終わった右側に、不思議な黒い影が落ちている。

 さらに不思議なのは、絵の静謐を描き出す水平の線と垂直の線である。二つの線に囲まれた正面の灰色の壁。その広がりは広がりとして感じるのだが、私がそれよりも強く感じるのは描かれていない右側の広がりである。垂直の線の右側の部分は絵の中では狭い。しかし、室内はその狭い部分の右側に大きく広がっていると感じてしまう。
 その右側の広がりに(想像力の中で広がってしまう巨大なものに拮抗するために)、左上には額(絵)が描かれている。絵の下には壺が描かれている。不思議なバランスを感じるのだ。
 そして、繰り返すことになってしまうが、この不思議なバランスのことを思うと、女が隠している棚、あるいは飾り台の、存在の(形の)、それが何かを決定づけるものが女によって隠されていることがまた気になってしまうのだ。

 他の絵では、「農場の家屋」が印象に残った。屋外を描いているのだが、室内を描くのと同じように非常に少ない色彩で描いている。煙突からのぼる煙りの白さが(かすかな白さが)、逆に光の静謐な深さを感じさせる。

 ハマスホイ以外の画家の絵では、ユーリウス・ボウルスンの「夕暮れ」がおもしろかった。光が足りないために、焦点を結ぶことができなかった写真のように、木のシルエットがぼんやりと浮かんでいる。
 そうか、こんな光の描き方があったのか、と驚いた。
 ピーザ・スィヴェリーン・クロイアの「詩人の肖像」は、木漏れ日の描き方が印象派を感じさせた。





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