詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今村夏子「むらさきスカートの女」

2019-08-18 20:28:28 | その他(音楽、小説etc)
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女
今村夏子
朝日新聞出版


今村夏子「むらさきスカートの女」(「文藝春秋」2019年9月号)

 今村夏子「むらさきスカートの女」は第百六十一回芥川賞受賞作。その書き出し。

 うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。いつもむらさき色のスカートを穿いているのでそう呼ばれている。

 「呼ばれている」が二度繰り返されている。「受け身」である。では、だれが呼んでいるのか。「うちの近所」のひとということになるが、この小説の「うち」はかなり広く、そこに暮らす人(登場人物)もわりと幅広い。「あひる」と同様、「大人」と「こども」、その中間に「わたし」がいる感じだが。「うち」が「わたし」だけの主張であるために、「大人」「わたし」「こども」の交渉が明確にならず、「呼ばれている」が「浮いている」。
 この「呼ばれている」は「受け身」というよりも、一種の「逃げ」である。
 ほんとうは「わたし」が「呼んでいる」だけなのに、「呼ばれている」と書くことで「客観」のように書く。他者に「共有」されているように書く。「うち」という書き出しがそういうところへ読者をひっぱって行く。
 これは非常に「ずるい」書き方である。
 これから始まる小説は一風変わっているが、「主観(うち)」的なもの、あるいはファンタジーではなく「客観」的なものである、つまり「共有」されたものであると作者は主張するのだ。もし、このストーリーが「共有」されないとしたら、それは読者が悪いのだ、と先に言ってしまっている。あるいは、これから始まるのは「客観」なのだから、「共有して」と哀願から始まっているというべきか。「呼ばれている」の繰り返しの中に、私は、そういう「作者の地声(こころの声)」を聞く。
 この書き出しで、私は読む気力をそがれたのだが、少しがんばって読んでみた。
 すぐに「むらさきのスカートの女」とは別に「黄色いカーディガンの女」が登場する。彼女は「呼ばれていない」、つまり共有された呼称にはなっていない。「わたし」が勝手に呼んでいるだけだ。黄色いカーディガンの女は「そと」の人間であり、しかも「うち/そと」を決めたのは「わたし」なのである。
 この「微妙なずれ」を作品のなかで深めていけばいいのだが。
 これもあけすけな「手法(ずるさ)」にすぎない。
 「呼ばれている」と「まだ呼ばれていない」(わたしが呼んでいるだけ)をすれ違わせることで、「わたし」が「むらさきのスカートの女」と「呼ばれている」人間であり、その「呼ばれている」から「呼んでいる」人間になるために「黄色いカーディガンの女」を登場させたことがわかる。
 どっちにしろ、「わたし」ひとりなのだ。「共有されたわたし」が「むらさきのスカートの女」であり、「共有されていないわたし」が「黄色いカーディガンの女」なのだ。「わたし」は「わたし」を「分裂」させながら、ストーリーにしている。「客観」と「主観」を交錯させる。
 これは「あひる」の、「このあひるは、いままでのあひる?」「それとも別のあひる?」という交錯のさせ方に似ている。「事実」を知っている人と、知らない人がいる。知らない人も、実は知っていて知らないふりをしているだけ、とか。もう、細部は忘れてしまったが、「新しいあひる」は「いままでのあひる」と「呼ばれていた」のだったか。呼んだのは両親であり、こどもは知っているのに知らないふりをしてだまされ、「わたし」は疑問に思いながら「共有」を受け入れたのだったか。
 まあ、いいか。
 こういう「交錯」は「あひる」のように短い作品か、もっと長い作品でないと「交錯」が「作為」としてしか見えてこない。この小説も五十枚くらいの長さなら楽しいかもしれないが、長すぎる。
 舞台が「うちの近所」から「わたしの職場」(うちのホテル)に移ってからは、もう「呼ばれている」は消え。「うちの職場」なのに、ひとりひとりが固有名詞を持ち「うち」が「そと」になってしまう。むらさきのスカートの女は「日野」という名前がつけられ、「そと」の世界では「風貌」のかわりに「人間性」が「噂される」。「風貌」よりも「行為」そのものが「共有」される。「噂」は「呼ばれる」の別の言い方である。ストーリーがここからは別なものになってしまうのだ。
 それをもとにもどすために、作者は「ファンタジー」を持ち込む。不倫の上司が会談から落ちて死んでしまう。ほんとうは気絶だった、と言いなおす。
 「呼ばれる」「呼んでいる」を強引に「気絶を死んだと呼んだ(呼ばれた)」という形に転換できないこともない。「わたし」が「所長が死んだ」と「呼び」、それが「むらさきのスカートの女」には「所長が死んだと呼ばれた」と。
 ばかばかしくて、やめようと思ったが、最後まで読んだ。
 すると「予定調和」そのままに「わたし」が「むらさきのスカートの女」としてこどもたちに「共有」される。

 最近おもしろかったのは「コンビニ人間」だけだなあ、と思う。あの小説には「音の発見」があり、それが小説の「文体」をつくっていた。
 この小説では「呼ばれる(暗黙の、うちの世界)」が「飾り」で終わっている。「ホテル」からは通俗小説になってしまっている。



 


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