goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代講座」開設のお知らせ

2011-02-14 12:03:46 | その他(音楽、小説etc)
4月からよみうりFBS文化センターで「現代詩講座」を開きます。受講生を募集中です。
テーマは、

詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。

現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。

受講日 第2、4月曜日(月2回)
    13時-14時30分(1時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
    1万1340円(1か月あたり3780円)
    維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
    (福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)

申し込み・問い合わせ
    よみうりFBS文化センター
    (福 岡)TEL092-715-4338
         FAX092-715-6079
    (北九州)TEL093-511-6555
         FAX093-541-6556
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂東玉三郎・中村獅童「高野聖」「将門」

2011-02-13 22:20:21 | その他(音楽、小説etc)
坂東玉三郎・中村獅童「高野聖」「将門」(博多座02月13日昼の部)

 「高野聖」「将門」とも玉三郎の魅力を見せるというより獅童をささえるというニュアンスが強いかもしれない。
 「高野聖」は獅童の声の若さと玉三郎の台詞回しの巧みさの違いが際立った。そして、そのことが不思議と「高野聖」の内容にあっていた。獅童の硬く張り詰めた声のなかにある純粋さが、妖女の魔力を遠ざける。ストーリーとしては僧の汚れのなさが妖女の魔力を遠ざけるということになっているのだが、その汚れのなさ、純粋さを獅童は声で表現する。声の肉体でストレートに打ち出す。なるほどなあ、と感心した。
 玉三郎の台詞回しは、間合いがとてもすばらしい。獅童に接近していきながら、最後の一瞬で立ち止まる。引き下がる。そのこころの揺らぎのようなものが伝わってくる。玉三郎が、魔力によって動物に変えてしまったものたちをあしらうときの声の調子、ことばを発するときの間合い(肉体とことばの密着度--何かしながらそれをことばでも言い聞かせるときの肉体の動きと声の出てくるスピード)が、獅童の場合と微妙に違うのである。獅童を相手にしているときは、肉体と声の間にひと呼吸あり、それがこころの揺らぎをあらわす。動物(けだもの)たちを相手にするときは、相手の反応をうかがわない。獅童を相手のときにみせた「ひと呼吸」がない。というよりも、「ひと呼吸」をさらにのみこんで、相手を先回りしてしまう。動物(けだもの)たちのことはもうわかってしまっている、と軽くあしらっている。
 見せ場は、獅童と玉三郎の湯浴みのシーンだろう。そこでは獅童は無言で、そのことが、今度は獅童の肉体そのものの純粋さ、涼しさを浮かび上がらせる仕組みになっている--のだろうけれど、私の席からは(私は目を手術して以来、あまりよく見えないせいもあって)、そのあたりの感じは、肉眼では把握できなかった。やろうとしていることはわかったが、実感できなかった。
 肉体の動きそのものとしては、玉三郎には見せ場がいろいろあるというか、姿が美しく見える。馬になった富山の薬売りの前で胸を開いて見せるシーンの背中など、不思議に妖しい。獅童を湯に案内するときの歩き方も、とても妖しい。それが美しい。
 歌舞伎役者の肉体の魅力に「足」があると私は感じている。女形は歩き方で見せるだけだが、男は足そのものを見せる。ふくら脛の形など、普通のひととは違っていて、ちょっと浮世絵の絵のようというか、独特の柔らかさと強さが同居していておもしろいなあと思う。この足があって、あの動きをささえているという感じがするのだが、この芝居での獅童はそういう足を直接見せるシーンがないのが残念だった。これはまあ、芝居の内容がそうなのだからかもしれないが……。
 「将門」は「高野聖」で感じた獅童の声の若さは、「将門」では生かされていない。声の若さを生かした役どころではないということかもしれないが、聞いていておもしろくない。玉三郎の声の色気に答える色気がない。聞いていて、呼吸があっていないように思える。敵味方(?)なのだから呼吸が合わなくてもいいのかもしれないが、玉三郎が本性をあらわす瞬間がすっきりしない。芝居というのは現実ではなく芝居なのだから強引でいいのかもしれないけれど、その強引さにも呼吸があると思うのだが、変な感じが残った。
 ただ、獅童と玉三郎が舞う場面は、獅童の動きが若々しく、それが玉三郎のなかの若さを引き出しているように感じられた。玉三郎が若く感じられた。けれど、この芝居、男の若さが女の若さを引き出すというのは、なんだか違う気がするなあ……。
 私は歌舞伎にうとく、玉三郎についても美しい女形ということしか知らなかったので、「将門」では、あ、こんなことも(女も)演じるのかと驚いた。立ち回りにスピード感が足りない感じがしたけれど、これはこんな芝居なのかもしれない。玉三郎が動くというより、まわりが懸命に動いて見せることで成り立っている。最後の家が崩れるスペクタクルも、あ、装置まで動いて玉三郎の動きを補っている、と感じてしまった。

 最後にカーテンコール(?)があって、それがおもしろかったが、そこでも玉三郎と獅童の呼吸があっていないのが、なんだか今回の公演を象徴しているようでもあった。



 博多座の観客のマナーはあいかわらずひどい。幕が開いても、ひそひそ話がやまない。そのひそひそ話が反響して「うわーん」という不気味な音になって広がる。オペラグラスで舞台を見るのはいいのだが、一回一回マジックテープつきのケースに入れたり出したりするのにはまいってしまった。注意するには遠すぎる席にいたが、オペラグラスを出し入れするたびに、びりっ、びりっという音が響いてくる。かばんのがさごそもうるさくて困った。



THE LAST SHOW 坂東玉三郎「ありがとう歌舞伎座」
篠山 紀信
小学館
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴッホ展(九州国立博物館)

2011-02-04 01:01:55 | その他(音楽、小説etc)
 「マルメロ、レモン、梨、葡萄」。初めて見る絵である。画集などに収録されているかどうか知らない。収録されていても、見逃してきた絵である。こういう1枚に出会うと、たしかに「展覧会」というものはありがたいものだと思う。図録、画集にはない何かがある。
 「マルメロ、レモン、梨、葡萄」は文字通り、4種類の果物が描かれているのだが、色使いに特徴がある。黄色を主体とした変奏(?)で構成されている。他の色、青系統の色が排除されている。
 光を反射する白っぽい黄色から、くすんで茶色っぽい影まで、あ、このなかに何色の黄色があるのだろう。もっとも明るい黄色から暗い黄色まで、光はどのように動いていくのか。色は、どんなふうにして育ってきたのか--ということを考えてしまう。
 この絵の中の、どの黄色がひまわりの花びらになり、どの黄色がひまわりの種になったのだろう。あるいは、アイリスの壺、アイリスのバックの壁の色、テーブルの色は、ここからどんな変化の果てに生まれてきたのか。さらに、自画像の顔の色は、この絵のなかでどの位置を占めているのか……。
 私はゴッホのファンではないのでよくわからないが、ゴッホが好きな人なら、この1枚から何枚もの絵の誕生を予測できるだろう。--そう思うと、とても楽しいのである。私にはわかりっこないことが、この絵のなかで起きている、ということが何ともおもしろいのである。
 この絵を中心にして、ゴッホの黄色の変化をたどると、きっとゴッホが見えてくる。そういう予感がするのである。
 この絵には、オリジナルの額がついている。そこにも黄色が塗られ、模様もついている。額も含めて1枚の絵なのだ。そのことも楽しい。画家が絵を描くとき、額を想定しているかどうか知らないが、このときゴッホは額まで含めて絵だと考えていたのだ。

 ほかの絵では「アイリス」が私は好きである。
 青、緑、黄色--その三色の変化がおもしろい。黄色の壁、テーブル、壺が背景になっているのだが、その絵を見ていると、このアイリスの青(その影としての紫)は、黄色から絞り出された補色の結晶という感じがしてくる。強烈に対立しているのだが、どこかでつながっているかもしれないという錯覚に陥る。
 右下に倒れた(こぼれた?)ひと茎のアイリスの存在もおもしろい。左上から右下に、カンバスの対角線が描かれる。もう一方の右上から左下への対角線は中央で消えるが、そのかわり2本、離れた形で存在することで、花瓶(花)が左へ倒れるのを防いでいる。そのバランスが美しい。空白のバランスが音楽を感じさせる。
 ほかの絵にもいえることだが、浮世絵から影響を受けた輪郭線--もしそれがなかったら、と考えるのも楽しい。私はときどき絵のなかから輪郭線を消し、色と色とが直接触れ合っている状態を想像してみるのだが、そのとたんにバランスが崩れてしまう。絵が倒れてしまう。不思議である。



「没後120年ゴッホ展」のすべてを楽しむガイドブック (ぴあMOOK)
クリエーター情報なし
ぴあ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山之内まつ子『比喩を死ぬ』

2010-12-14 22:32:56 | その他(音楽、小説etc)
山之内まつ子『比喩を死ぬ』(ジャプラン、2010年10月25日発行)

 山之内まつ子『比喩を死ぬ』は句集である。私は俳句のことはまったくわからないが、山之内の作品は「俳句」というより「一行詩」として読んだ方がいいのかもしれない。適当なことばがみつからないのだが、どうも「俳句」というには「ことば」が多すぎる。

身の丈のかわらぬ樹木に不倫する

 「に」がいらないと思う。「に」があることによって、想像力がしばられる。「切れ」と言っていいのかどうか門外漢の私にはわからないことなのだが、読者を遊ばせてくれる余裕がない。読者の想像力をひとつの方向にひっぱりすぎるように思える。
 たぶん、別な角度から見れば「濃密な句」という評価になるのだと思うが、私は、こういう濃密さは苦手である。

人ごみで地獄をひとつもらう癖

 「癖」がうるさい。中七の「地獄」が他のことばであれば「癖」でもいいのかもしれないが、「地獄」では強すぎて「癖」がわずらわしい。

街さびれ過去の木陰を喰らう犬

 「さびれ」「過去」「陰」では、ことばが整いすぎる。調和しすぎる。「矛盾」がない。矛盾とはいわなくても、あ、こんなことばの出会いがあるのか--という驚きがないと、「一期一会」という感じがしない。
 「犬」も、あまりにも「人間的」すぎる。もっと人間の「暮らし」から離れたもの、とかげとか、ひとの会話から消えてしまった昆虫なんかが出てくると驚きが生まれるかもしれない。「木陰」ではなく「日向」の方が「時間」を超えるかもしれない。

鶴を折る精神不安な椅子といて

 「精神不安」もうるさいが、「椅子がいて」の「いて」がなんともいえず窮屈である。「いる」といわなくても、ことばのなかには「ひと」(作者)が「いる」。その、わかりきったことばが、とてもつらい。
 「折る」と「いて(いる)」というふたつの動詞があるのも、短い詩型にあっては「詰め込み過ぎ」という印象が残る。
 また、山之内には予想外のことに思われるかもしれないが、この句のことばのとりあわせは、新鮮味に欠ける。「精神不安」は、たとえば大正の句なら新鮮かもしれないが、平成のいまから見ると、まるで第二次大戦前のような古くさい匂いがする。大正よりも第二次大戦前の方が時代が「新しい」から、私の書いていることは変な印象を与えるかもしれない。変な「比喩」という印象を与えるかもしれない。しかし、ものは考えようで、平成から見ると大正なんて誰からも聞いたことがないことばかりなので第二次大戦前よりも新鮮なのだ。--これは、ジャプランを経営している高岡修のことばの感覚に通じるものだが……。

 批判ばかり書いて申し訳ない気もするが、イメージというよりは「意味」指向が強すぎるのだと思う。「比喩を死ぬ」という句集のタイトルにも、「意味」がこめられすぎていて、「遊び」がない。

 最後になったが、気に入った句をあげておく。

柿の実の非の打ち所なく熟しけり

 「熟しけり」が「切れ字」の関係もあるのかもしれないが、豊かである。余裕・遊びがある。つまり、山之内がどんな「熟柿」とともにあるのかわからないが、山之内を除外して、読者がそれぞれ勝手に自分自身の「熟柿」と向き合えるところがいい。「けり」が、余分なことばを排除している。

花しょうぶ黒澤映画の雨しきり

 黒澤映画の雨は花菖蒲には過激過ぎるかもしれないが、そこがおもしろい。映画の雨は、自然の雨のこともあるが、ホースで降らせる人工の雨のときもある。そうすると、雨が太陽の加減できらきら光っていたりする。そのまぶしい雨と花菖蒲をふと思ったのである。

人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊原清明「俳文『草を抱く』(3)」

2010-12-11 20:15:09 | その他(音楽、小説etc)
豊原清明「俳文『草を抱く』(3)」(「白黒目」26、2010年11月発行)

 豊原清明「俳文『草を抱く』(3)」は俳句と文章を組み合わせたものである。

曇りから抜け出た鳥の夜寒かな

 夏日は晴れじゃないと、なんとなく物足りなくなるが、秋、冬、と、移行していく最中で、「九森も、ええなあ。」と思うのだ。今年の秋は暑く、憂鬱でなにをしても旨くいかなかった。春、夏、と、緊張していたのか、秋は、「だらん」として、ごろごろした。気が向けば、すぐ近くの「マルゴ」店に行っていた。一人外出はそれ位になった。何が悩み事かといえば、女性と、誰一人とて、付き合っていない、飢えと、教会のにこにこした場で、ひとりっきりになるという、疎外感である。そんな、秋が終わった。

 「曇りから」という書き方がとてもおもしろい。「曇天から」「雲間から」くらいしか、私は思い浮かばない。「曇天から」も「雲間から」も「空」を指すが、「曇りから」はどうだろう。もちろん「空」も指すだろうが、私には何か「空」未満の感じがする。地面と空の間にある光の弱い「空間」。その「空間」に閉じ込められていたのは、鳥か。鳥であると同時に豊原なのだろう。「抜け出た」もいいなあ。
 文章の「そんな、秋がおわった。」がさっぱりしている。

ゆっくりとした父母包みしは冬の虫

曇り絵図撮って雨月の日々遅刻

秋雨後の父の時計や磨き澄む

 どの句も、句の中に「時間」がある。俳句は「一期一会」のものだが、その「一期一会」のためには、作者の「時間」(過去)が必要なのだ。作者の「時間」が対象と出会い、その瞬間に、「時間」が組み替えられあらわれるということなのかもしれない。




夜の人工の木
豊原 清明
青土社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」

2010-11-21 00:22:18 | その他(音楽、小説etc)
「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」(2010年11月20日、福岡市・都久志会館)

詩朗読 谷川俊太郎 ピアノ 谷川賢作 ギター 鈴木大介 フルート 岩佐和弘 ギター&ヴォーカル 小室等

 「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」は音楽のふたつの面を楽しむことができる催しだった。
 プログラムは2部構成。1部は「エア」「フェリオス」「海へ」など武満の、いわゆる「現代音楽」の紹介。2部は、「死んだ男の残したものは」など歌詞つきのポピュラーソング。1部では、枠をこわしてどこまでも広がっていく音楽の力、2部ではいっしょにいる空間を親和力のある世界に変えていく力を感じた。

 1部。「海へ」は私は非常に好きな曲である。
 「海へ」というタイトルであるが、私はこの曲を聴くといつも「波」を思う。波が岸へ押し寄せてくる。そのうねり。波--水が盛り上がり、水が崩れる。フルートの音の動きに、私は水の盛り上がり、内部から高まってくる力のようなもの感じる。ギターの音の輝きには、盛り上がった水が高みからくずれるときにできる水の「腹」の部分の暗いきらめきを感じる。いま、私は水がくずれる--と書いたのだが、このくずれるは表面的に見た水の動きかもしれない。くずれるのではなく、盛り上がろうとする力に拮抗するように、それを引き止めようとする力があって、その綱引きの過程で、波が盛り上がり、くずれるということが起きるのかもしれない。そのどうすることもできない緊張感--どうすることもできない、というのは、水自身の意思ではどうすることもできない、という意味である。もし、水に意思というものがあると仮定してのことだけれど。
 そのどうすることもできない何かを感じたと思った瞬間、音が一瞬、消える。私は、フルートの音を聞いているのかな? それとも、ギターの音を聞いているのかな?わからなくなるのである。実際に演奏されているのはフルートであり、ギターなのだが、そこには演奏されていない「楽器」があるのかもしれない。
 そして、その「演奏されていない楽器」は、演奏開場(ホール)を破壊してしまう。演奏会で音楽を聴いているという感じを叩きこわしてしまう。実際にフルートの音を聞き、ギターの音を聞いているにもかかわらず、私は別な場所にいる。ホールからほうりだされて、何だかわけのわからないことを考えてしまっている。
 最初に「枠をこわしてどこまでも広がっていく音楽の力」と書いたのは、そういうことである。演奏会の開場にいることも、実際にフルートの音を聞いていることも、ギターの音を聞いていることも、実感ではなくなる。
 谷川俊太郎は、「音楽は過去を持たない、ただ、いまを未来へ運んでいくだけだ」というような意味合いの詩を朗読したが、そのことばを思い出すとき、たしかにそうなのだけれど、未来へ動くという動きのなかに、過去を超越した世界とつながる何かを感じる、とでもいえばいいのだろうか。谷川のことばがあったから、私は、たぶんそう感じるのだが、フルートもギターもそれぞれの「音」とは別の「音」、固有の音を超越した音とつながって、そのいま、ここにない「音」を未来へ届けようとして動いていると感じる。フルートとギターの音を「いま」と言い直し、聴衆を「未来」と言いなおせば、谷川の言ったことばにもどることができるかもしれない。

 「音楽」は「いま」「ここ」にある「音」で語りながら、「いま」「ここ」にない「音」を伝えようとしている。あるいは、それを生み出そうとしている。
 そうすると、それは詩と同じものになるのかな?
 詩は、「いま」「ここ」にあることばで語りながら、「いま」「ここ」にない何かを伝えようとする。生み出そうとする。
 「いま」「ここ」にないもののために、「いま」「ここ」にあるものが動く。「いま」「ここ」を破壊しながら。
 「いま」「ここ」にない何か--それをたとえば「沈黙の音」とか、「宇宙との一体感」と言いなおせば、武満の音楽、谷川の詩を語るときの「標準語」になるのかもしれない。
 武満と谷川は、そういう「はるかな」場でつながっているのかもしれない。その「はるかな」場と、私たち聴衆(読者)は直接対面する。そのとき、私たちは武満とも谷川ともつながっていない。武満を超越して動く音楽、谷川を超越して動く詩、そういうものと「孤独」のままつながる。「私」というものが完全に「孤独」になる。そういう震えるような怖さと快感(?)につつまれる。

 2部は、1部でこわしてしまった演奏開場(ホール)を、きちんと取り戻す。音楽は、そしてその音楽と音楽のあいまに語られる語りは、この開場に来た観客を親密にさせる。1部の音楽では、私は「孤独」になり、その「孤独」をとおして、誰でもない何かとつながってしまうが、2部では違う。
 ここにいる人はみんな同じ音楽を聞いている。そして、その音楽にかかわる人はみんな自分と同じ。演奏の順番を間違えたり、冗談を言ったり、お祝いに何かをあげたり、怒ったり。そして、音楽は、そういうつながりをなめらかにする潤滑剤のような感じである。ギターとピアノの音は拮抗しない。「海へ」のフルートとギターの音のように、何かここにない「音」をめぐって動くということはない。「いま」「ここ」にある「音」にこの「音」を組み合わせると、ほら、あったかい。ほら、悲しい。ほら、楽しい。そんなふうに感情がなじみやすくなる。誰もがみんな「生きている」という感じになる。
 2部では武満と谷川の家族ぐるみのつきあいが何度か語られた。小室等との家族的なつきあいも語られた。「家族」が何度も話題になったが、2部は、いわば「家族」になるための音楽なのだ。音の違った楽器でも(音が違った楽器だからこそ)、違ったものが出会って、距離をうまいぐあいに保って動くと、そこに親密な空間ができる。そういうことを教えてくれる。
 私は音痴だし、音楽に触れる機会もほとんどなく、小室等というアーチストを「出発の歌」くらいしか知らなくて、その「出発の歌」も上条恒彦の声で覚えているので、どんな声をしているか、わからなかった。今回聞くのがはじめての「声」といっていいのだけれど、やわらかくて「家族」をつつみこむという感じにぴったりだった。だからこそ、2部を聞きながら「家族」ということを思ったのかもしれない。

 (実は、谷川さんの写真を撮らせにもらいに楽屋へ行ったとき、谷川さんが小室さんを紹介してくれた。「小室です」と小室さんは言うのだけれど、私はプログラムで事前に小室等さんが出ることを知っていたのに、かなりとまどってしまった。私のことなど小室さんは知るはずがないから、どうあいさつしていいかもわからなかった。白髪にもびっくりしてしまった。そのために、とっても変なことを言ってしまった。ごめんなさい。そんな具合だったのだ、2部が終わったあとで、あ、しまった、小室さんの写真も撮らせてもらえばよかった、サインももらえばよかったなあと思った。--というわけで、強引に楽屋に押しかけて行ったのに、とった写真は谷川俊太郎さんと谷川賢作さんのみ。許可をとって掲載していますが、転載はしないでください。)


カトレーンII~武満徹:室内楽曲集
オムニバス(クラシック)
BMG JAPAN
はだか―谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎
筑摩書房

ここから風が~ディスク・ヒストリー’71-’92
クリエーター情報なし
フォーライフ ミュージックエンタテイメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金原まさ子句集『遊戯の家』

2010-11-18 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
金原まさ子句集『遊戯の家』(金雀枝舎、2010年10月12日発行)

 私は俳句をまったく知らない。リズムとして五・七・五でできていることや季語が必要なこと、芭蕉や蕪村が有名ということくらいは知っているが、それくらいである。どんなひとがいま俳句を書いているかまったく知らない。金原まさ子という人もはじめて聞く人だ。
 読みはじめてすぐ、そのリズムがとても新しいと感じた。

春暁の母たち乳をふるまうよ

 巻頭の一句である。若い人なんだろうなあ。私はどんな作品も声に出して読むことはないが、「母たち乳を」の「たちちち」というた行の音の動きに、いままで聞いたことのない音を感じた。「ははたち」というのも意識しないと発音できない音である。「はは」の後ろの「は」が意識しないと「わ」にくずれそうになる。それをふんばって「は」と発音したあと「た」と明るい音「あ」の母音が受け(「はは・た」と3連続で「あ」の音がある)、そのあと「ちちち」とつづく。破裂音と「い」の同じ組み合わせ。それから「ふるまうよ」と一転してなめらかな音になる。「しゅんぎょうの」から読み返すと、漢語・濁音の強い音から始まり、音が三度(あるいは四度?)変化していることに気がつく。こんな激しい変化は若い人しか書けない、と思った。
 ところが金原は九十九歳である。帯に「九十九歳の不良少女」と書いてある。「十九歳」の誤植だろうと思ったが、1911年生まれと「略歴」に書いてあるから、きっとそうなんだろう。私は2010-1911=99が最初計算できずに、こっちの方も誤植に違いないと思ったのだった。
 ことばは年齢は無関係である、というのは「頭」では理解できても、実際に、こんなふうにして、そのことばに触れると驚いてしまう。「ことばと年齢は無関係」ということを、私は「頭」でしか把握していないのだ。「肉体」にしきれていないのだ、と反省した。

 脱線してしまったが、ともかく、この句集は「音」がおもしろい。

真空に入り揚雲雀こなごな

 気に入ったものに○をつけながら句集を読んだが、最初に○をつけたのが、これである。「こなごな」という音が乾いていて気持ちがいい。この乾いた感じが「真空」とぴったり合う。音は「五・八・四」と変則なのだが、最後の字足らずの、飛び散った感じも「こなごな」に合っていて、新鮮な感じがする。
 何度も書いて申し訳ない感じがするが、どうみても十九歳の、つまり学校で宿題が出たので仕方なしに俳句をこしらえてみたが、こんな感じになってしまった、という雰囲気がある。そして、いま書いたように、悪くいえば「こんな感じになってしまった」なのだが、非常に印象に残る。これ、失敗作? それとも斬新な傑作? 私は俳句の門外漢だから、そういう「判定(?)」はせず、ただ、あ、この音の動き、おもしろいじゃないか。みんなもっとこういう感じで俳句を作れば楽しくなるのに、と思うのである。

丸善を椿が出たり入ったり

 赤い椿だね--と私は勝手に思ったが、春になって強烈な赤が丸善の自動扉(と勝手に想像する)を行き来する。かかえているは、やっぱり十九歳の不良少女である。(私は、ずーっと十九歳と思い込んでいて、感想を書こうとしてふと帯をみたら「九十九歳」とあって、びっくりしたのだった。)突っ張った感じの不良少女には赤がよく似合う。そして、その赤が、なんの不安をかかえてか丸善を出たり入ったりする。その動きが美しい。また、「出たり入ったり」の音も新鮮である。「入ったり」は5音なのかもしれないが、促音の関係で私の実感(肉体感覚)では4音と半拍。そして、それは「丸善を」も同じ。「ん」があるので4音と半拍。「つばき」という音は重たいので「中七」がもったりするのだけれど、それをサンドイッチのように4音半が挟んで軽快になる。この軽いのだか重いのだか、揺れるリズムも十九歳の不良少女にぴったりだなあ、と私は感じてしまうのである。(きっと中年男の妄想がまじっているね、この感想には。)

 はっ、と思ったのは次の句である。

細螺(きしゃご)になった水やりを忘れてから

 リズムが何か違う。その直前に「日本タンポポ引金に指がとどかない」は十九歳だが、「細螺」の句は何かが違う。「細螺」ということばの影響もあるかもしれないが「水やりを忘れてから」が若者のことば、リズムとは明らかに違う。「水をやり忘れてから」なら十九歳だが「水やりを」は十九歳は言わないだろう。(これはあくまで私の語感だけれど。)「細螺になった」の「なった」は、もしかすると「わざと」選んだ口語なのかもしれない、と急に思ったのだ。
 「わざと」というのは、西脇が詩とは「わざと」書くものである、というときにつかう「わざと」なのだけれど。
 金原にはことばを無意識につかうという感覚はないのだ。俳句はあくまで意識的につくるものなのだ。そのことを意識していると、私は「細螺」で感じた。そして、この意識化は若い人じゃないなあと直感した。十九歳という感じを、あ、修正しなければいけない、と思ったのだ。

階下(した)にひとり二階にふたり牡丹雪

 この句で、この人はベテランだとわかった。そして、略歴を見て、え、何歳? 2010-1911って、いくつ? わからない。直感として数字が入ってこない。そのあと、帯を見て、九十九歳? 間違えていない? と思い、念のため計算して九十九歳であることを確かめた。確かめたが、こんどは十九歳以上に、その年齢にびっくりしてしまう。
 俳句をどう読んでいいのかわからなくなる。
 あ、もう、年齢は忘れよう--と、それからようやく思ったのだ。
 この句、階下→二階、ひとり→ふたりと自然に視線が上を向いていく。その視線の先に(家の中からは見えないのだけれど)、屋根があり、しずかに牡丹雪が降っている。降り積もっている。視線が下から上へ向かうのとは逆に、雪は上から下へ降ってくるのだけれど、それがちょうど屋根で出会う。そのときの牡丹雪のやわらかさ。あたたかさ。自然でいいなあ、と思う。
 
 落ち着いて(?)読み返すと、以下の句がいつまでも強くこころに残る。

焼却炉よりさめのかたちが立ち上がる
            (「さめ」は原文は、魚偏に養う。「ふか」かもしれない)

 愛しい人が亡くなった。その火葬場での印象だろう。さめの生命力。命の、すさまじい力が、まさに「立ち上がる」という感じになるのだと思う。

かわたれや見るなの部屋の燕子花
寝てからも守宮の足のよく見える

 ガラスまでとはりついている守宮。ひらがなの「も」の字になっている。孤独な感じ、孤独が通い合う感じが、「足」と具体的に書かれていて、しんみりと感じる。

うすやみがそっくり夕顔に入りゆくよ
凝っとしているとノギクは熱を持つ
象色の象のかなしみ月下のZOO
もぎたてを食べると木苺はにがい
すれちがうときフムと花虻牛虻は

 「五七五」を踏み外すとき、そこに不思議な「未生」のリズムが動く。それは、熟練の成果なのだろうけれど、あ、やっぱり若い美しさ、十九歳の不良少女の純粋さなのだと思うことにしよう。


人気ブログランキングへ




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「心の底から ただいま」

2010-10-14 07:56:22 | その他(音楽、小説etc)
「心の底から ただいま」(読売新聞、2010年10月14日朝刊)

 チリの落盤事故から作業員の救出がつづいている。新聞、テレビで報道がつづいている。そのなかで、あ、これはいいなあ、と思ったのが読売新聞10月14日朝刊のグラフ(西部本社版、 5面)の見出しである。

心の底から ただいま

 人は帰って来たとき「ただいま」という。これは普通のことである。地底から奇蹟の生還をした人たちも「ただいま」と言っただろう。こういうとき、「地底から ただいま」という見出しが考えられる。
 シャトルから帰って来た宇宙飛行士の見出しに「宇宙のてっぺんからただいま」という見出しを読んだ記憶がある。そういう流儀でいけば「地底から ただいま」。
 でも、その「地」を「心」に置き換えて「心の底から ただいま」。

 あ、びっくりしたなあ。
 たしかにそうなのだ。落盤事故でとじこめられていたひとたちは、毎日毎日地上へ生還することを願っていた。「ただいま」は普通のあいさつではないのだ。心の底からあふれてきたことばなのだ。
 その喜びが伝わってくる。

 こういう見出しを読むと、とてもうれしくなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒川洋治「ゴンチャロフ著『平凡物語 上・下』評」

2010-08-05 12:34:23 | その他(音楽、小説etc)
荒川洋治「ゴンチャロフ著『平凡物語 上・下』評」(毎日新聞、2010年08月01日朝刊)

 文章は、たとえば「起承転結」のように書くものである、という考え方がある。「結論」がないといけないらしい。文章だけではなく、あれこれ何かを話していると、「それで、結論は?」とうながされることがある。ことばは「結論」へたどりつけないといけないらしい。
 私も長い間そんなふうに考えていたが、最近は考え方が違ってきて、「結論」はどうでもいいなあ、と思うようになった。考えられるところまで考える(ことばをうごかしていく)。それだけでいいように思うようになった。「結論」にはきっと「むり」がある。「結論」にしなければならない、という意識によってゆがめられてしまったものがある、というように考えるようになった。
 それで、というのも奇妙かもしれないが。
 他人の文章(詩)を読むときも、筆者がいいたい「結論」にはあまり関心がなくなった。どんな「結論」であれ、そこに書かれている「結論」はその人のものであって、私の現実とはどこかしら違っているから、それは私の「結論」にはなりえない--そう思うようになった。そして、「結論」とは関係ないわけではないだろうが、「結論」として書かれている部分とは違う部分に関心がでてきた。「結論」ではない部分が、とてもおもしろいと感じるようになってきた。

 で。

 荒川洋治「ゴンチャロフ著『平凡物語 上・下』評」の、途中(「起承転結」の「転」くらいの位置の部分)に、とてもこころを動かされた。

ぼくの印象にのこったのは二人。ひとりは、青年が友人と釣りをしているとき、父親らしい老人といっしょに来て、そばに立った娘だ。三日目も来る。そのあとも。あまりものをいわない彼女と機械的な視線をおくる青年。この光景は特に意味もなく、うすっぺらなのに印象的だ。ああ、このようなことはよくあるのに、ゴンチャロフの小説でしか会えないことだと、ぼくは思うのだ。

 ああ、いいなあ。いい文章だなあ、と思う。荒川洋治にしか書けない文章だと思う。どこかで体験したようなこと、体験したけれど、ことばにしようとはしなかった何気ないこと。よくあること。よくあるけれど、だれも書かなかった。つまり、ゴンチャロフの小説のなかにしかない、ことば。
 それを指摘する荒川のことばも、それにいくらか似ている。
 ゴンチャロフの小説以外にも、たぶん、ふと、これは平凡なことなのだけれど、だれも書いてこなかったことだなあ。このひとのことばに出合わなかったら、それがことばになるということすら気がつかなかったことだなあ、という部分はあると思う。
 荒川は、今回、たまたまゴンチャロフを取り上げて、そう書いているが、荒川の評価(批評)はいつでもそうしたものだと思う。
 そして、それはそのまま荒川の文章の特徴でもあると思う。
 荒川がほめているような文章は、荒川の文章に出合わないかぎり、そこに存在していることすら気がつかない。

 荒川は、書評のなかでもっとほかのことも書いていた。「結論」も書いていたはずだ。でも、私はもう思い出せない。思い出せるのは、

このようなことはよくあるのに、ゴンチャロフの小説でしか会えない

 という文だけである。それは繰り返しになるが、「このようなことはよくあるのに、荒川洋治のことばでしか会えない」と私は思うのだ。


忘れられる過去
荒川 洋治
みすず書房

このアイテムの詳細を見る


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小池昌代『わたしたちはまだ、その場所を知らない』

2010-07-29 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『わたしたちはまだ、その場所を知らない』(河出書房新社、2010年06月30日発行)

 詩についての思いめぐらし。それを学校を舞台に描いている。すこし小池の思い入れが強すぎるかもしれない。文月悠光のようなひともいるから、この小説に出てくるミナコのような少女も実際にいるかもしれないが、そう考えるよりも、小池が中学生に自分の思いを代弁させていると読んだ方がいいかもしれない。

「自分って、そんな、身のつまった袋なのかな。日本語のほうが、自分よりも大きいよ。わたしはそう思っている。その大きな日本語のなかから、ぴったりの言葉を選び出すんだ。書くって、だから、その袋のなかから言葉を選ぶことなんだよ。あれでもない、これでもないって、考えるの。ずーっと考えるの。やり続けるの。そうすると、ぽこっと出てくることがあるよ。私の場合は」

 そういう思いがあるからこそ、小池は詩というスタイルにこだわらず、ただ日本語をまさぐりながらことばを書く。それはあるときはエッセイになり、あるときは小説になるということだろう。
 こういう自在なことばの運動というのは、私は気に入っている。
 ただ、詩に関する思いめぐらしは、中学生を主人公にすることで、ちょっと議論を避けているような雰囲気もある。

「比喩って、詩の技術でしょ。技術ってさ、本質じゃないよね。おまけみたいなものじゃないの? あるいはサービスかな。詩の要は、比喩なんかじゃないよ。と、わたし思うよ。ニシムラくんの詩は、そういえば、比喩がないね」
「あ、おれ、そうだ。比喩って書かねえなー。書けないんだよ」
「なんでなの」
「そういう余裕がないんだよ」

 ここで語られる「比喩」と「余裕」の問題は、詩の「本質」をついていると思う。ただ、ミナコとニシムラの対話の形で詩の本質に迫るという方法は、「対話」の形ではあっても、閉ざされている。プラトンの対話篇を持ち出してしまってはいけないのかもしれないけれど、対話というのはたとえそれが対話であっても、ふたりで結論を出してしまってはいけないのだと思う。
 もちろん、それがわかっていて、それでもなおかつ、ここに書かれていることをことばにしておきたかった、というとこだろうとは思うのだけれど……。

 そういう詩に関することばよりも、私は、次のような部分に詩そのものを感じる。

ミナコはふいに足の裏に意識が移って、そのあたりがすうっとさびしくなった。さびしいとは、心ばかりが感じるわけじゃない。人間は、足の裏とか襟足で感じることもある。そんな気がして、自分の足の裏が感じたことを、覚えておこうとミナコは思った。

 「足の裏」だけではなく「襟足」を登場させたことは失敗だと思う。(ことばが散漫になる。意識が散漫になる。「日本語」を探しすぎている、と思う。)ただし、「自分の足の裏が感じたことを、覚えておこうとミナコは思った。」はとてもいい。
 ことばは、自分が感じたことを覚えておくためにある。
 そのために書く。
 この「肉体」が「感じたこと」、たったひとりの「肉体」を通り抜けた何かをことばにする、そして記憶する--そこにこそ、私は詩があると思う。
 もっと、そういう部分をたくさん書いてほしかったと思う。






わたしたちはまだ、その場所を知らない
小池 昌代
河出書房新社

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子兜太『日常』抄

2010-05-27 11:13:41 | その他(音楽、小説etc)
金子兜太『日常』抄(「ふらんす堂通信」124 、2010年04月25日発行)

 「ふらんす堂通信」124 に金子兜太『日常』の抜粋が掲載されている。冒頭の句がおもしろい。

猪の眼を青と思いし深眠り

 私は俳句は知らない。「深眠り」がもしかすると季語なのかもしれない。だが、まあ、季節とは関係なく、深い眠りのなかで猪と出会っていると思えば楽しい。このとき、猪は対象なのか金子なのか、ちょっとわからない。猪の目が青いと思うのもいいけれど、もし自分が猪なら目は青だぞ、と決めて(句では、「思い」と書いているが、「思う」のうちには、「決める」というこころの動きもあるだろう)、深い眠りに入る。
 青い目の猪--というのが、ちょっと「異界」を感じさせ、なんだか、その異界の「王」にでもなった感じ。百獣の王といえばライオンだが、ライオンのいない日本では狼か猪くらいが百獣の王だろう。狼のようにいかにも狂暴そう、こわそうというのではなく、体つきがなんとなく愛嬌もある猪。でも、強い。そのあたりのアンバランスも、夢見るにはいいかなあ。

木や可笑し林となればなお可笑し

 これは、おかしいね。林は木がふたつ。そりゃ、おかし+おかし=なおおかし、だね。「山笑う」というようなことばも、ふと思うねえ。山には木がたくさん。「おかし」×無数。笑ってあたりまえだね。
 でも、そう考えると、またおかしいねえ。
 「木や可笑し」と思っているのは「私(金子)」。木二本(?)の林は「可笑し可笑し」、木が無数の山なら「可笑し×可笑し」になってしまうかもしれないけれど、そう思うのは「私(金子)」。で、笑うのはたいてい「おかしい」と思っているひと。金子だね。「山笑う」は「山が笑う」ということであって、金子が笑うというのとは、違うね。木がいくらおかしくても、その木が何本集まっても、おかしいと思うのは「私」であって、山(木)自体がおかしいと認識するわけではないから、笑わないね。
 こうやって、論理的(屁理屈的?)にことばを動かしていくとわかるのだが、俳句というのは、どこかで「私」と「対象」が溶け込んでしまって、区別がなくなる世界だね。
 「山笑う」は山の緑が萌え出てきて、急ににぎやかになる、華やかになる様子をいうのだろうけれど、その山の木々そのものがおかしいと感じ、それを笑う「私」が存在すると、その「笑い」のなかで、世界そのものが融合する感じがする。笑っているのは、山? それとも「私」? こんな質問は、くだらないね。山が笑えば私も笑う。木がおかしければ、それを見て笑う私もおかしく、同時に楽しい。楽しさのなかで、木と「私」の区別がなくなる。
 「木は可笑し」というとき、木は木ではなく、木は「私」なのだ。同じように「林」というとき、そこに林があるだけではなく、その林そのものが「私」なのだ。対象と「私」は結びついて、離れない。その分離不能な状態のなかでことばが動くと俳句が生まれるんだろうなあ。

走らない絶対に走らない蓮咲けど

 これは、医者から「走ってはいけません」と止められている金子の様子かな? 蓮が咲いている。それが見える。もっと近くでみたい。近くで一体になりたい。その気持ちが肉体を「走る」にむけて動かす。でも、先生は「走ってはいけない」と言った。走らないぞ、走らないぞ、とことばで言い聞かせている。言い聞かせれば言い聞かせるほど、肉体は走りたがる。
 その矛盾と、蓮の、豪華な感じの対比がいいなあ、と思う。
 一方、(何が一方なのかしら、と書きながら思ったけれど……)

頂上はさびしからずや岩ひばり

 この清潔な感じも、おかしくていいなあ。



句集 日常
金子 兜太
ふらんす堂

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相生葉留実『海へ帰る』

2010-05-24 12:12:12 | その他(音楽、小説etc)
相生葉留実『海へ帰る』(ふらんす堂、2010年03月21日発行)

 相生葉留実『海へ帰る』は句集である。私は、俳句は門外漢である。たぶん、私の感想はトンチンカンなものだろう。
 気持ちのいい句がたくさんある。

雲も水も旅をしてをり花筏

 「も」には当然、「私」もふくまれるのだろう。そして、というのもちょっと変だけれど、このときの「私」は「雲」と「水」と、どっちの方に、より寄り添っているのだろう。わからなくなるが、そのわからなさのなかに、「雲」ももちろん「水」からできているという考えがふと割り込んできて、あ、相生は、雲と水とを同じものと感じていたのかも、と思う。天と地にあるもの。かけ離れたもの。違って見えるもの--けれども、それは「同じもの」でもある。その「同じもの」に「私」が自然に融合していく感じがする。相生は、何か、「私」意外なものに、すーっと融合していき、一体感をもって世界を見渡す。そのとき、世界がおだやかに変化する。そういう世界を描いていると思う。

長旅の川いま海へ大晦日

 「雲も水も」の旅は、いますべての「水」の「母」である「海」へ帰っていく。「海」には「水」(サンズイ)と「人」と「母」がいると言ったのは誰だったろうか。
 そのとき、長い長い旅のおわりに水が海にたどりついたとき、その水が浮かべていた、たとえば「花筏」はなんだったのだろう。不思議な出会い。出会いの中での美しさというよろこび。それが、静かに記憶として「長い」時間を飾ってくれるに違いない。さまざまな出会い、美しさの発見、そういうことを繰り返しながら、でも最後は「起源」である水そのものへ、その「母」である「海」へ帰る。
 相生がみつめているやすらぎが、そのなかに見える。

まくなぎに出口入口ありにけり

 もし一句だけ選ばなければならないとしたら、私はこの句にするかもしれない。「雲も水も」や「長旅の」に比べると、美しい感慨というものがあるわけではないが、その美しくないところ(?)に、「いのち」のとまどいとよろこびがある。
 どんなものにも出口、入り口がある。出口は入り口であり、入り口が出口である。ひとが(私が)それを出口と呼ぶとき、それは出口。入り口と呼ぶとき入り口。
 もし、そうであるなら、ひとはあるものを「雲」と呼ぶなら、そのとき「雲」。「水」と呼ぶなら、そのとき「水」。「長旅」と呼ぶなら、そのとき「長旅」。すべては、ひとの思いといっしょになって、世界そのものとして目の前にあらわれてくる。
 そういう一種の「事件」を相生は「ありにけり」とすっぱり言い切る。この「ありにけり」は、有無を言わせない力がある。とてもいい。
 先に書いたことを繰り返すことになるが、私の感覚では、人が「水」というとき、それが「水」に「なる」のだが、相生は、「なる」とはいわない。「ある」というのだ。この「ある」の力がすごい、と思う。
 「ある」の世界の中で、ひとは「なる」を繰り返しているのだが、その「なる」はいつか「ある」にならなければならない。「ある」に到達しなければならない。相生は、到達している。そう感じた。

 ほかにもおもしろい句がたくさんある。思いつくまま、違った印象が残る句をあげると、

鳥帰るほんとに帰つてしまひけり
花木槿夕方までに書く手紙
ゆび頬に弥勒菩薩の秋思かな 

 水が登場する句は、たいがいがおもしろい。

春の水まがりやすくてつやめける
芹摘めば水拡がつて流れけり
さざなみの風にうまれて一枚田
田植水鳥のくちばし撫でてをり

句集 海へ帰る
相生 葉留実
ふらんす堂

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小池昌代『怪訝山』(2)

2010-05-21 12:28:59 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『怪訝山』(2)(講談社、2010年04月26日発行)

 小池昌代が書こうとしている「いまこのとき」。その矛盾したというか、どこにも属さず、ただ生身の身体だけがあって、それが「ここ」ではないどこかへとつながってしまう感じ--それは詩、というものかもしれない。
 「いまこのとき」は「いま」から離れて、「いま」ではなく「過去」「未来」、「ここ」から離れて「どこか」と結びつく--いや、融合する。「空白」として、融合する。
 その瞬間に、詩があらわれる。
 小池昌代は、私にとっては小説家であるというより詩人なので、私はどうしても彼女の文章に詩を読みとってしまう。 
 たとえば、「木を取る人」の書き出しのあたり。湯船に入って、栓をぬく。お湯がなくなり、裸の体が残される描写。同じことを、小池は2度繰り返して書いている。1度では書き足りずに2度書いている。

 その、一瞬手前に宿る認識のようなもの。

 2度書きながら、「その、一瞬」と強調するときの「その、」が「いまこのとき」である。「いまこのとき」には、意識が過剰にふくまれている。過剰であることによって、「いま」を超え、「過去」「未来」、あるいは「ここ」ではない「どこか」と融合し、その瞬間に、それが「いま+ここ」、つまり「いまこのとき」になる。

 いま、私は、偶然のようにして、「いまこのときに」なる、と書いたが、その「なる」ということが「いまこのとき」に起きているすべてかもしれない。そして、何かが何かに「なる」という変化の瞬間こそが詩なのだ。
 「なる」ということばをつかった文章がある。そして、こそに詩があらわれてくる部分がある。「木を取る人」の後半部分。

 役割を終えた雑巾は、バケツの端に広げられてかけられる。その表情は、よく使われたモノだけが持つ、さばさばとして、いい具合にくたびれた感じがあった。義父の手にかかると雑巾さえも、それにふさわしい、ある輪郭を取り戻す。雑巾は雑巾になり、きみしぐれはきみしぐれになる。

 きのう書いた「怪訝山」にもどれば、「いまこのとき」、美枝子は美枝子になり、イナモリはイナモリになる。コマコはコマコになる。それは「過去」でも「未来」でも、「いま」でもなく、ほんとうに「いまこのとき」なのだ。意識の空白において、思うとき--その矛盾のとき。
 そういう「とき」に私はひきつけられる。すいこまれる。

小池昌代詩集 (現代詩文庫)
小池 昌代
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小池昌代『怪訝山』

2010-05-20 23:53:57 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『怪訝山』(講談社、2010年04月26日発行)

 小池昌代『怪訝山』は何を書こうとしているのだろう。「怪訝山」の最初の部分に、小池の書きたいことが集約されていると思う。

 蛍光灯が一本切れていて、オフィスのなかはいつもよりも薄暗い。美枝子もイナモリもそれに気づいてはいるが、取替えようという意欲がわかない。誰かがやるだろう。それは明日の自分かもしれないが、いまこのときの自分ではない。

 「いまこのとき」--これが小池の向き合っているものだ。書こうとしているものだ。「いま」というのは誰にでもある。けれど、その「いま」とは何だろう。「いま」の何を知っているだろう。より正確に言えば、「いまこのときの自分」、「いま」と「自分」の関係について何を知っているだろう。あるいは「とき」と「自分」の関係について何を知っているだろう。
 もしかすると、「自分」と誰かを隔てているのは「とき」なのではないだろうか。「いまこのとき」というのは、それぞれの人間にあって、それは同じではないのではないのか。
 これは、奇妙な感じかもしれない。けれど、それぞれに「いま」(いまこのとき)というのは違うのである。

「イナモリさんが、繰り返し見るのは、どんな夢ですか」
「母親が死んだ夢。おふくろはとっくに死んでいない。でも何回も夢に見る。まだ、しんでいないみたいに。あ、そういうことなのか」
 自分で言ってイナモリはとっとした。
「おふくろは死んだが、まだ死んでいない……」

 「おふくろは死んだ」というのは「過去」である。「まだ死んでいない」は「いまこのとき」である。母を思う、「いまこのとき」、その「思う」というなかに母は生きている。
 「いまこのとき」というのは、単なる過去-現在(いま)-未来のなかの一瞬ではない。それは、いわゆる「直線的に流れる時間」の一点ではない。それは「思う」という意識に深くからみついている時間である。「おふくろは死んだ」と「思う」、その「いまこのとき」、おふくろが死んだのは「過去」であるがゆえに、「いまこのとき」それを思い出すことができる。思うことができる。
 最初の引用部分で美枝子が切れた蛍光灯を見ている、そのとき。美枝子は、それを取り替えようとは思わない(意欲がわかない)。そういうときの「いまこのとき」。その「思う」の空白の時間……。

 「いまこのとき」の「とき」は空白なのである。空白であるから、それはあるときは「過去」をも「いま」にしてしまう。そこでは時間は直線的には流れず、思うときに、その瞬間に浮かび上がって存在するのである。立ち現れてくるのである。

 そして、この「いまこのとき」を小池は「思う」と同時に「肉体」にもかえていく。「思う」自体が空白なのだから、そこを埋めるのはほんとうは「思い」ではないのだ。イナモリが死んだ母を思うのも、真剣な(?)思い、というか、いわゆる「思考」ではない。何かを一つ一つ積み重ねていく思考ではない。ぼんやりした全体--いわば、母の「肉体」のようなものである。母は生きているというとき、そこには母の肉体があるということだ。単に母の感情(たとえば「やさしさ」)、あるいは「思考」ではなく、母が肉体そのものとして思い出されているのだと思う。

 思いの空白--その空白としての「いまこのとき」。そこにあるのは、「肉体」である。蛍光灯が切れていると思っているとき、その思いなどというのはぼんやりしている。はっきりしているのは「肉体」である。なにもしようとしない「肉体」がある。
 死んだ母を思うときも、それは思いがあるというより、その「思い」を抱え込んだあいまいな「肉体」が「いまこのとき」、そこにあるということかもしれない。

 「いまこのとき」の「肉体」。イナモリとコマコのセックスに、そのときの「肉体」の感覚が書かれている。

 コマコという女は、なにかしら、すべてが巨きい。中へ入ると、ずぼずぼとおぼれ、自分がとても小さなものとなる。イナモリは、コマコの体をとして、ここではないどこか向こう側へ、運ばれていくような感覚にしびれた。達したあとの脱力のなか、身を横たえていると、ごろりと等身大の生身が戻ってきて、そのだるさも、決していやでなかった。

 「いまこのとき」、それは「等身大の生身が戻って」きたときの感じなのだ。何も思わない。「思い」は「等身大の生身」そのものとぴったり重なってしまっている。そして、それは「ここではないごとか」へ行ってきた肉体である。
 「いまこのとき」は、どこへでもつながっている。「等身大の生身」は、その「どこか」では等身大を超えているのだが、「いまこのとき」は等身大である。
 わけのわからない往復--それを身体はしてしまう。そして、その身体があるとき、それが「いまこのとき」である。

 この等身大の生身--そのものから「いまこのとき」を見つめなおすとどうなるだろう。コマコからのセックス、コマコが見たセックスは次のように描かれる。

「あたしはもう妊娠しないよ。ヘーケイしたから。ヘーケイすると、女は山になるんだよ。深い野山さ。だからもう、遠慮はいらないよ。わけいって、わけいって、深く入っておいで。さあさあ、おいでよ、どんどんなかへ。もうあたしは産まない。突き当たりさ。突き当たったところの、山の入り口さ」

 どんどん入っていくと、突き当たると、そこが「入り口」。
 この矛盾。
 この矛盾こそが、「いまこのとき」なのだ。それはどこにでも通じている。だから、どこにも通じていない。過去にも未来にも通じていない。通じているのは、身体がかかえる「思い」、その「思い」が動いていく「時間」なのである。過去でも未来でもないから過去でも未来でもある。
 何もかもを融合させて、つないでしまう。つなぐことで切り離してしまう。その矛盾した「至福」。それが「いまこのとき」なのだ。



怪訝山
小池 昌代
講談社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノリサイタル

2010-05-07 23:10:26 | その他(音楽、小説etc)
イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノリサイタル(アクロス福岡シンフォニーホール、2010年05月06日)

 ラヴェルの「夜のガスパール」はプログラムの最後に演奏された。ショパン「ピアノ・ソナタ第3番ロ短調、作品58」、リスト「メフィスト・ワルツ」で、なんだか疲れてしまった聴衆が何人か帰っていったあとのホール。
 演奏の合間で、聴衆の出入りがあり、イーヴォ・ポゴレリッチは必ずしも心地よい気持ちでピアノを弾いていたとはいえないかもしれない。
 しかし、この雰囲気が何かしら不思議に、この演奏をきわだたせた。
 どこから響いてくのかよくわからない。とてつもなく激しい音、孤独な音である。そのひとつひとつは、ハーモニーを求めているのか、ハーモニーになってしまうことを拒絶しているのか、あるいは、その両方なのか。
 弦がたたかれている。たたかれながら、悲鳴をあげている。錆びた弦、疲れ切った弦の悲鳴を想像してしまう。その悲鳴はだんだん荒廃していく。荒廃していきながら、荒廃することで、遠くに「いのち」を感じさせる。「まだ、生きている」と、荒廃の奥から、透明な「いのり」のようなつぶやきが聞こえる。そのつぶやき、ささやきを聞きながら、弦はさらに絶望の声のなかに荒廃していく。
 ピアノ線という弦をたたく力は、たたいているうちに、そこから発せられる悲鳴が、絶望が、弦自身の声なのか、あるいは自分の声なのかわからなくなり、ひたすら力を込めてハンマーを振りおろす。早く、遅く。そして、そのとき、もしかすると「音源」は弦ではなく、ハンマーなのではないか、ハンマーではなく、それを振り降ろしている人間なのではないか、と思えてくる。
 イーヴォ・ポゴレリッチはフォルテの音を叩き出すたびに、椅子から飛び上がる。大きな体が椅子の上ではねまわる。その「肉体」が音を発している。
 そんな印象が、突然、炸裂する。そして、音楽は、突然、終わる。
 イーヴォ・ポゴレリッチがステージから去ると、そこには何もなかった。「余韻」というような甘いものは、イーヴォ・ポゴレリッチが彼自身の「肉体」でかっさらっていった。不思議な拒絶に出会った。その潔さにびっくりしてしまった。




ショパン:ピアノソナタ第2番
ポゴレリチ(イーヴォ)
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする