小池昌代『わたしたちはまだ、その場所を知らない』(河出書房新社、2010年06月30日発行)
詩についての思いめぐらし。それを学校を舞台に描いている。すこし小池の思い入れが強すぎるかもしれない。文月悠光のようなひともいるから、この小説に出てくるミナコのような少女も実際にいるかもしれないが、そう考えるよりも、小池が中学生に自分の思いを代弁させていると読んだ方がいいかもしれない。
そういう思いがあるからこそ、小池は詩というスタイルにこだわらず、ただ日本語をまさぐりながらことばを書く。それはあるときはエッセイになり、あるときは小説になるということだろう。
こういう自在なことばの運動というのは、私は気に入っている。
ただ、詩に関する思いめぐらしは、中学生を主人公にすることで、ちょっと議論を避けているような雰囲気もある。
ここで語られる「比喩」と「余裕」の問題は、詩の「本質」をついていると思う。ただ、ミナコとニシムラの対話の形で詩の本質に迫るという方法は、「対話」の形ではあっても、閉ざされている。プラトンの対話篇を持ち出してしまってはいけないのかもしれないけれど、対話というのはたとえそれが対話であっても、ふたりで結論を出してしまってはいけないのだと思う。
もちろん、それがわかっていて、それでもなおかつ、ここに書かれていることをことばにしておきたかった、というとこだろうとは思うのだけれど……。
そういう詩に関することばよりも、私は、次のような部分に詩そのものを感じる。
「足の裏」だけではなく「襟足」を登場させたことは失敗だと思う。(ことばが散漫になる。意識が散漫になる。「日本語」を探しすぎている、と思う。)ただし、「自分の足の裏が感じたことを、覚えておこうとミナコは思った。」はとてもいい。
ことばは、自分が感じたことを覚えておくためにある。
そのために書く。
この「肉体」が「感じたこと」、たったひとりの「肉体」を通り抜けた何かをことばにする、そして記憶する--そこにこそ、私は詩があると思う。
もっと、そういう部分をたくさん書いてほしかったと思う。

詩についての思いめぐらし。それを学校を舞台に描いている。すこし小池の思い入れが強すぎるかもしれない。文月悠光のようなひともいるから、この小説に出てくるミナコのような少女も実際にいるかもしれないが、そう考えるよりも、小池が中学生に自分の思いを代弁させていると読んだ方がいいかもしれない。
「自分って、そんな、身のつまった袋なのかな。日本語のほうが、自分よりも大きいよ。わたしはそう思っている。その大きな日本語のなかから、ぴったりの言葉を選び出すんだ。書くって、だから、その袋のなかから言葉を選ぶことなんだよ。あれでもない、これでもないって、考えるの。ずーっと考えるの。やり続けるの。そうすると、ぽこっと出てくることがあるよ。私の場合は」
そういう思いがあるからこそ、小池は詩というスタイルにこだわらず、ただ日本語をまさぐりながらことばを書く。それはあるときはエッセイになり、あるときは小説になるということだろう。
こういう自在なことばの運動というのは、私は気に入っている。
ただ、詩に関する思いめぐらしは、中学生を主人公にすることで、ちょっと議論を避けているような雰囲気もある。
「比喩って、詩の技術でしょ。技術ってさ、本質じゃないよね。おまけみたいなものじゃないの? あるいはサービスかな。詩の要は、比喩なんかじゃないよ。と、わたし思うよ。ニシムラくんの詩は、そういえば、比喩がないね」
「あ、おれ、そうだ。比喩って書かねえなー。書けないんだよ」
「なんでなの」
「そういう余裕がないんだよ」
ここで語られる「比喩」と「余裕」の問題は、詩の「本質」をついていると思う。ただ、ミナコとニシムラの対話の形で詩の本質に迫るという方法は、「対話」の形ではあっても、閉ざされている。プラトンの対話篇を持ち出してしまってはいけないのかもしれないけれど、対話というのはたとえそれが対話であっても、ふたりで結論を出してしまってはいけないのだと思う。
もちろん、それがわかっていて、それでもなおかつ、ここに書かれていることをことばにしておきたかった、というとこだろうとは思うのだけれど……。
そういう詩に関することばよりも、私は、次のような部分に詩そのものを感じる。
ミナコはふいに足の裏に意識が移って、そのあたりがすうっとさびしくなった。さびしいとは、心ばかりが感じるわけじゃない。人間は、足の裏とか襟足で感じることもある。そんな気がして、自分の足の裏が感じたことを、覚えておこうとミナコは思った。
「足の裏」だけではなく「襟足」を登場させたことは失敗だと思う。(ことばが散漫になる。意識が散漫になる。「日本語」を探しすぎている、と思う。)ただし、「自分の足の裏が感じたことを、覚えておこうとミナコは思った。」はとてもいい。
ことばは、自分が感じたことを覚えておくためにある。
そのために書く。
この「肉体」が「感じたこと」、たったひとりの「肉体」を通り抜けた何かをことばにする、そして記憶する--そこにこそ、私は詩があると思う。
もっと、そういう部分をたくさん書いてほしかったと思う。
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