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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫『中井久夫集1 働く患者』

2017-02-23 10:25:43 | その他(音楽、小説etc)
中井久夫『中井久夫集1 働く患者』(みすず書房、2017年01月16日発行)

 私が中井久夫を初めて読んだのは『カヴァフィス詩集』だった。そのあと、リッツォスの詩を知った。それ以後、エッセイも読むようになったが、『カヴァフィス』以前については何も知らなかった。今度の著作集には、私の知らなかった時代の中井久夫がいる。知らなかった時代の中井久夫なのだけれど、ふと、あっ、知っていると感じるものがある。

 私にとって中井久夫は「他人の声」を生きることができる人である。「他人の声」を聞き取り、ただ再現するのではなく、その声を伝えるとき、中井自身がその声の持ち主になる。声の中に動いている「感情」を生きて、声を動かす。
 「ことば(意味)」を動かすというのではなく「感情」を動かす。
 そのとき、なんといえばいいのか、「感情」を支えるというか、「感情」が動きやすいように、「縁の下の力持ち」のような感じでよりそう。そのよりそい方が自然なので、「感情を生きている」という印象になるのかもしれない。
 中井がサリヴァンを翻訳するようになった経緯を書いた文章を読むと、これは私だけの印象ではなく、他の人の印象でもあるかもしれない。翻訳が単に「意味」を伝えるだけではなく、「ことば」そのものを伝える。「ことば」の強さを伝える。「感情」のなかにある「強弱」、あるいは「リズム」というものを中井は呼吸し、一種の「和音」という形で表に出すことができるのかもしれない。「和音」によって音が安定するというと変かもしれないが、「強さ」が生まれる。

 「統合失調症者における『焦燥』と『余裕』」という文章の中に「あせり」「ゆとり」さとり」ということばが出てくる。「あせり」は「焦燥」を言い換えたもの。「ゆとり」は「余裕」を言い換えたもの。では、「さとり」は? ここからは、中井のことばをていねいに追いかけるというよりも、私は、中井に誘われて自分で「誤読」をはじめる。
 「焦燥」「余裕」ということばだけを読んでいたときは聞こえなかった「音」が「肉体」のなかから「あせり」「ゆとり」ということばになって動き始める。それが「さとり」を揺さぶる。そうか、「さとり」とは「あせり」と「ゆとり」という「区別」を超えるものなのか、と直感する。「さとり」というものを私自身は体験したことがないが、「予感」として「さとり」がわかった気がする。
 中井は「統合失調症者」について書いているのだが、限定しなくてもいいと思う。私は、「あせり」も「ゆとり」も誰もが経験することと思って読み、「さとり」も誰もが経験できるものだと、はげまされたような気持ちになる。この「はげまされたような気持ち」というのは「誤読」だね。「誤読」とわかっているが、私は「誤読」のなかにとどまる。

 「思春期患者とその治療者」「ある教育の帰結」という文章も刺戟的だった。
 高度成長期の教育を「知を知る喜びを追求する教育ではなく、新しいやり方を迅速に身につけるものが勝ちという訓練であった」と批判し、同時に「それは、日本の失業者、とくに青年失業者が非常に少ないことに大きな貢献をしている」と指摘している。この指摘にはびっくりた。1978年、1979年に書かれた文章なのだが、そのまま「現在」を語っている。
 青年の失業を、親が雇っているのである。江戸時代は、青年は家の金を持ちだし遊び、刃傷ざたを引き起こした。そうやって親に苦労をかけた。いまは家の金を盗み出しはしないが、同じように親の金を浪費している。子が働き、給料を稼ぐということの代わりに、子供が大学に行き、勉学という「労働」に対して親が金を払っている。そのために「失業者」が少ない。「もし、戦前のように大半が小学校卒で就職したとすれば、不況のときには相当の失業者が発生したであろう。青年の九割が高校へ、過半数が大学へ進むということは、失業保険を払うどころか、家族の負担で膨大な潜在失業者のプールを維持していることになる」と指摘している。「このプールはかなり効果的な弾力性がある。不況のために、今、就職すればあまりよい展望がもてそうになければ、その代わりに一段階上の学校に進学して、次のチャンスに賭けるという選択に傾く。しかもその間は父兄負担である。失業手当の支払いを政府はする必要がない」とも。
 (中井が指摘したときから約40年たって、状況は少し変わってきている。「父兄負担」ではまかないきれず、学生は奨学金を借りる。卒業したあとは奨学金の返済に追われる。政府は「奨学金」を手当てする必要もない。これについては、批判が高まり、「完全給付型奨学金」というものをつくろうとしているようだが。)
 こういう指摘は、患者治療の「本筋」ではないのだが、そこに私は中井の「耳」を感じる。中井は「複数の声」を広い領域から聞き取り、その「複数の声」で具体的な患者の姿をとらえようとしている。「複数の声」のなかに、患者といっしょに生きている「声」があると予感している。それを探そうとしている。(私は医者ではないので、治療がどういう姿であるべきかといいうことは考えられないので、どうしても脱線し、「誤読」するのかもしれないが……。)

発達期は、現在の課題に対応しながら別の成長のための分をとっておかねばならない時期である。その分までも食い込むとは、それは成人になる資本(もとで)をつぶしていることになる。

 これは「ある教育の帰結」のなかの、ひとつの「結論」として書かれた部分。この「結論の意味」に共感すると同時に、私は「資本」を「もとで」と読ませているところに、はっとする。「あせり」「ゆとり」「さとり」に通じるものを感じる。「頭」で整理したことばではなく、「身振り」に近いもので納得していることばというものがある。繰り返し聞くことでなんとなく「わかっている」感じのことば。その「なんとなく」を踏み外さないことば。
 「身振りでわかっていることば」というのは、ちょっと説明がしにくいが、こういうことばは詩にとってはとても強いことばである。「ほんもの」である。頭でつくったものではない、という意味で「ほんもの」。
 ここで「飛躍」してしまえば。
 中井の詩の翻訳のことばに感じるのは、この「身振りのことば」である。頭で理解し、整理したことばではなく、そこにいる人、その詩を書いた詩人の「身振り」をそのまま言いなおしたようなことば。「身振り」が動くことば。
 著作集1のタイトルになっている「働く患者」のなかに、患者は「治療という大仕事」をしている、ということばがあるが、この言い回しが「身振りのことば」そのものである。患者のいのちの内側から動いていることばだ。

 文章のいたるところに、他人の声に耳を傾けることで豊かにした中井の「もとで」が感じられる。中井の「もとで」は「生きているひと」そのものの「もとで」、「いのちのもとで」。
 これを整理することは難しい。たぶん、整理してしまうと違ったものになる。だから、思いついたまま、書いておく。私は勝手な読者なので、「誤読」を誤読のままにしておく。





中井久夫集 1 働く患者――1964-1983(全11巻・第1回)
中井 久夫
みすず書房
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山下澄人「しんせかい」

2017-02-11 10:14:59 | その他(音楽、小説etc)
山下澄人「しんせかい」(「文藝春」2017年03月号)

 山下澄人「しんせかい」は第 156回芥川賞受賞作。退屈で、やりきれない。
 芝居出身の人で、「間」を描いている。「間」がテーマである。「間」そのものは、この小説のなかでも芝居の稽古のところに出てくる。そこに出てくる「定義」は無視して、私自身のことばで言いなおすと。
 「間」というのは、人間(個人)がもっている「過去」が「現在」のなかへ噴出してくる瞬間のことである。役者の「存在感」によって具体化される。
 芝居というのは小説と違い「現在」しかない。「現在」から「未来」へと動いていくしかない。「過去」は役者が「肉体」で背負って具体化する。小説なら「過去」として説明できる部分を、「ことば」ではなく「肉体」としてさらけだしてみせてくれるのが芝居。役者(存在感)次第でおもしろくなったり、つまらなくなったりする理由はここにある。
 その「間」、つまり「個人の過去」が噴出してくる瞬間を克明に描こうとしたのがこの小説。しかもただの「間」ではなく、「間抜け」の「間」を描こうとしている。そういう意味では「野心作」なのだが、「野心」が丸見えで、その分、退屈である。ぜんぜんおもしろくない。
 具体的に指摘すると。馬に乗って原生林に入っていく。そうすると「コツコツと固い何かで木を小刻みに叩く音が聞こえてきた。」(文藝春秋、 411ページ)何だろう。

大きな黒い何かが木の幹に縦にいた。鳥だった。それが動くたびに音がした。あれがこの音を出しているのだ。キツツキだ。げんにくちばしで木をつついている。木をつつくからキツツキというのだからそうだあれがキツツキだ。( 415ページ)

 キツツキと気づくまでの「間(時間)」が描かれている。その「間」のなかで動いた意識が、動いたままに描かれている。「木をつつくからキツツキというのだからそうだあれがキツツキだ。」という言い回し(文体)に、この小説で書こうとしている山下の狙いがある。キツツキと断定するまでの、あるいは納得するまでの、自分自身への「言い聞かせ」。そのことばの動きが、ゆるりとうねっている。「間延び」している。
 利発な(?)ひとなら、「木をつつくからキツツキだ」でおしまいのところを、「……というのだからそうだあれが」という「認識」をとおって「キツツキだ」にたどりつく。「間抜け」である。「間(認識の動き)」をくぐらないと結論に至らない。
 おかしなもので、こういう「間」を省略でき(抜かすことができる)るひとを、世間では「利発」という。そして、それを省略できないひと(抜かすことができないひと)を「間抜け」という。「間抜け」というのは「間」を多く抱え込んでしまうひとのことである。
 この「間抜け」という批判と、「間抜け」の実体との「齟齬(矛盾)」を描き抜くということを山下はやろうとしている。
 それはそれで「野心」に満ちていて、とてもいいのだけれど、この「間抜け」が、「現実」そのものを突き破っていかないから、退屈。「間抜け」が過激になればおもしろいのかもしれないが。
 たとえば、ベケットの「ゴドーを待ちながら」は「間抜け」を「時間の重力」にまで凝縮している大傑作だが。

 この「キツツキ」の「間抜け」のあとに、逆の「間抜け」が出てきて、その「衝突」というか、「対比」がこの小説の一番の読ませどころである。
 主人公は栄養失調で農作業中に倒れてしまう。それに気づいた農家のひと(雇い主)が救急車を手配したくて電話をかける。農家の人は主人公の名前を知らない。そこで、

「進藤です」
 を繰り返した。
「進藤です!」
「進藤です!」
 しかしそれは
「じんごうげす」
 にしか聞こえない。
「じんごうげす!」
「じんごうげす!」                       ( 417ページ)

 進藤さんの意識のなかでは、スミト(主人公)が倒れた、病院に運ばなければという意識が動いている。全力で突っ走っている。「説明」しなければいけないことがたくさんあるのに、その「説明方法」がない。ともかく「進藤です」と名前を告げることで、相手に察知してもらうしかない。しかし、急ぎすぎているので、いつものように「じんごうげす!」となまったままに言ってしまう。他人に理解してもらうという配慮が抜けて、他人に伝えたいという思いが先走る。そのために混乱する。
 これは、一般的な「間抜け」。そんなに急ぐなよ。落ち着け、といわれる瞬間だ。しかし、ここで「間」をきちんととってしまうと、今度は「劇」が消えてしまう。
 このシーン、舞台での上演を想像してもらうとわかりやすいが、「じんごうげす!」に「間」があっては間延びしてしまう。電話で対応しているひとの声を突き破って「じんごうげす!」が動くとき、緊迫感が出る。
 ここだけ、主人公の視点からふっきれた「他人」が登場している。「間」の違いが「他人」をつくりだす。
 
 「間」はいつでも「適切」であることが求められるものなのだ。

 この小説が退屈なのは、主人公のなかで「間」の変化がないからである。「間抜け(間延び)」のまま。「じんごうげす!」のような「認識」を突き破って、ことば、肉体が動く瞬間がない。「間」のない「間抜け」がない。
 「ゴドー」でさえ、「肉体」がことばを突き破っているのに。

 倉本聡の「富良野塾」をやめた(やめさせられた?)きっかけのなかに、「じんどうげす!」のような「緊迫の間抜け」があるのかもしれないが、私は小説からは読み取れない。
 倉本聡、「富良野塾」という「過去」がなかったら、「小説」になっているかどうかもわからない。芝居で言えば、倉本聡、「富良野塾」という存在感(肉体)によりかかっている作品ということになる。



 「選評」もひどい。川上弘美が積極的におしているのだが、「なんだかいいんですが、うまく説明できないんです」としか言っていない。ことばで金をとっているのだから、「うまく説明しろ」と私は思わずどなってしまう。。吉田修一は「空振り」という比喩で評価しているが、倉本聡、「富良野塾」というスター投手(?)に素人が「空振り」するなんてあたりまえ。「空振り」に「華」がなければ、意味がない。私は直接見たわけではないが、新人の長嶋が金田相手に三回連続「空振り」をしたときのような「華」がなければ「空振り」とは言えないだろう。
 なんだか山下の先生(?)の倉本聡、富良野塾、文藝春秋の「売り上げ」に配慮して受賞作を決めたという感じのする、こざかしい選考評である。こざかしいは「間抜け」ということでもある。
 村上龍がかろうじて「批判」しているが、はっきりと「だめ」といわないはだらしない。こんな口籠もり方は、やはり「間抜け」に見えてしまう。


しんせかい
クリエーター情報なし
新潮社
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しばらく休みます(代筆)

2017-02-03 23:58:49 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。(代筆)
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和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第十五巻)(2)

2017-01-18 20:30:13 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第十五巻)(2)(岩波書店、1990年07月09日、第3刷発行)

 「後篇 世界視圏における近世初頭の日本」を読んだ。倭寇からはじまり、鎖国がるまでのことを書いている。
 「歴史」や「哲学」のことを書こうとしても、私は門外漢なので、見当外れになるだろう。で、違う観点から書いてみる。なぜ、私は『鎖国』という本が好きなのか。
 信長とフロイスについて触れた部分の末尾。( 426ページ)

信長がひそかにキリシタンになっていると信ずるものもあった。そうでなければ、あのように思い切って神仏を涜することはできないからである、と。この言葉には、フロイスの信長にかけていた希望が鳴り響いていくように思われる。

 「フロイスの信長にかけていた希望が鳴り響いていくように思われる。」この部分に、私は思わず傍線を引く。それはフロイスの「心中」を推し量っているのだが、まるで和辻の思いの表明であるように聞こえる。
 フロイスが信長に期待していたものと、和辻が信長を評価している部分は一致しないのだが、何か重なる。
 もし信長が光秀に暗殺されずに生きていたら、日本は違った国になっていたはずであるという思いが「鳴り響いている」ように聞こえる。ことばに「躍動感」がある。それがそのまま「評価」としてつたわってくる。
 信長と秀吉を比較した部分に、宣教師たちのことばが引用されている。( 508ページ)

秀吉は信長ほどに他人の意見を容れる力がない、自分の意見を他の誰のより優れたものと考えている

(信長は)未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い要求を持っていた。それは権力欲の充足によって静まり得るようなものではなかった。それをフロイスは感じていたのである。ところで秀吉には、そういう点がまるでなかった。これは甚大な相違だと言ってよいのである。

 「これは甚大な相違だと言ってよいのである。」はフロイスのことばではなく、和辻が付け加えたもの。「それは権力欲の充足によって静まり得るようなものではなかった。」も同じ。ここにも「史実/歴史」を超えて、何か、躍動する精神の断定力がある。「未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い要求を持っていた。」は和辻自身を語っているように思える。「事実/歴史」を書きながら、人間を評価し、人間に寄り添っている。というより、その人間になりきって動いている。この感じが、随所にあふれている。
 思わず、「そうだ」と相槌を打ちたくなるのである。
 もう一つ、秀吉に関する評価の部分を引用する。( 511ページ)

民衆を武装解除する秀吉の気持ちのなかには独裁権力者の自信や自尊は顕著であったであろうが、未知の世界への探究心や視圏拡大の要求はもはや存在しなかった。宣教師たちが自分の用をつとめなければ追い払う、--それは前の年にクエリヨに特許状を与えたときの秀吉の腹であった。

 「秀吉の腹であった」の「腹」ということばのつかい方。これも興味深い。「魂胆」という「意味」だろう。もっと簡単なことばでいえば「気持ち/こころ」と言えるかもしれない。(気持ち、ということばは直前につかわれている。)
 しかし、和辻は、ここでは「魂胆」も「こころ」もつかいたくなかったのだと思う。
 「魂胆」には「魂」という精神的なことばと「胆」という肉体のことばが同居しているが、意味の重心は「魂」にあるかもしれない。「魂」はきわめて精神的なことばである。そういうことばで秀吉を評価したくなかった、ということだと思う。
 「腹」は「腹が据わっている」という言い方があるが、同時に「腹黒い」というようなつかい方もある。何か「知的」とは遠い。
 信長を評価するとき、探究「心」、「視」圏拡大というような、抽象的なことば(知的なことば)が動くのと対照的である。
 和辻は「知力」について書いているのだということがわかる。
 「未知」を発見し、「未知」を理解する。それは「世界」を理解するということ、「世界」を統合し直すということ。「哲学」しなおすということ。
 次の部分に、手厳しく、こう書かれている。( 535ページ)

秀吉は気宇が雄大であったといわれるが、その視圏はきわめて狭く、知力の優越を理解していない。彼ほどの権力をもってして、よき頭脳を周囲に集め得なかったことが、その証拠である。

 「鎖国」そのものは家光が発令したのだが、秀吉の政策が出発点ということになる。「刀狩り」から始まっている。つまり、「秀吉が下から盛り上がってくる力を抑えて、現状を固定させようとする方向に転じたとき」( 523ページ)から始まっている。

 秀吉を批評して、和辻は、こうも書いている。( 536ページ)

国内の支配権を獲得するために国際関係を手段として用いるような軍人の一人にすぎなかった。

 これは家康についても同じようなことばで批評している。

 他の「史実」にも触れながら、「結論」として、和辻は、こう書いている。( 546ページ)

当時の日本人に外に向かう衝動がなかったのではない、為政者が、国内的な理由によってこの衝動を押し殺したのである、とはっきり断言することができるのである。
 つまり日本に欠けていたのは航海者ヘンリ王子であった。あるいはヘンリ王子の精神であった。

 この「結論」から、また「前篇」を読み返すことができる。「前篇」との対比で「鎖国」の問題がよりいっそう見えてくる。
 ここでも和辻は「精神」ということばで「知力」(世界を統合し直す力)を問題にしている。
 日本が鎖国へ向かっていたとき、世界の「知力」はどう動いていたか。それを「知力」で語りなおしたのが和辻の『鎖国』だということができる。
 そして、その「知力」で語りなおした「歴史」が、単に「知識」の羅列ではなく、そこに躍動する感情として動いているのが、この本のおもしろいところである。和辻のことばには、いつでも「躍動感」がある。

和辻哲郎全集〈第15巻〉鎖国 (1963年)
クリエーター情報なし
岩波書店
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和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第15巻)

2017-01-12 08:42:09 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第15巻)(岩波書店、1990年07月09日、第3刷発行)

 風邪で一日中寝たり起きたりしている。遠藤周作の『沈黙』がマーチン・スコセッシ監督で映画化される。それを見る「予習」として和辻哲郎『鎖国』を読み始めた。体力が落ちているときは、一度読んだ本をぼんやり読むのが楽な感じでいい。とはいうものの、目がかすんで字が読みづらい。しかし、夢中になってしまう。
 私は歴史という「科目」が大嫌いだったが、あれは教科書や先生が悪いのだとつくづく思う。和辻の『鎖国』みたいな「教科書」があれば、きっと夢中になっていたと思う。
 前篇は「世界的視圏の成立過程」、後篇は「世界的視圏における近世初頭の日本」。後篇と『沈黙』が重なる。再読したのは前篇。後篇までは一日では読めなかった。ローマ帝国とゲルマン民族の大移動からはじまり、ポルトガルが喜望峰周りでインド洋に進出、スペインがアメリカ大陸を発見し、太平洋横断し東南アジアにたどりつくまでが書かれている。
 「歴史」に詳しい人には既成の事実が書かれているだけなのかもしれないが、そうか、ひとの欲望はこんなふうに動き、時代が変わっていったのかということが、人間そのものの動きとしてわかる。
 そこに、こんなおもしろい文章がある。マガリャンス(マゼラン)の世界一周についての部分。スペインから大西洋を渡り、さらに太平洋を横断し、喜望峰を周り大西洋に出る。アフリカ西海岸のサン・チャゴ島に上陸する。

この際最も驚いたことは、船内の日付が一日遅れていることであった。ビガフェッタはこのことを特筆している。自分は日記を毎日つけて来たのであるから日が狂うはずはない。しかも自分たちが水曜日だと思っている日は島では木曜日だったのである。この不思議はやっと後になってわかった。彼らは東から西へと地球を一周したために、その間に一日だけ短くなったのであった。

 私たちが「日付変更線」とともに「あたりまえ」と感じていることが、「驚愕の事実」として目の前にあらわれてくる。「大陸」の発見は「目」に見える。しかし「日付変更線」は目に見えない。それを「事実」としてつかみ取るには時間がかかるのだが(やっと後になってわかった、と和辻は簡単に書いているが)、これはなんともすごい。「肉体」でつかみとったことが、それまでの「世界」のあり方に変更を強いる。「日付」が違うということを、「日付」があう、という形にするためには、大洋をわたるという大冒険と同じように、知性も大冒険をしなくてはならない。知識を根底からつくりかえなければならない。書かれていないが、ビガフェッタは「日付変更線」を発見した。これはアメリカ大陸の発見と同じように衝撃的である。「ある」とは誰も考えなかったものが「ある」とわかったのである。しかも「見えないもの」が、「ある」。
 ビガフェッタの「日誌」は、

マガリャンスの偉大な業績を世界に対してあらわにすることになった。かくして最初の世界周航は、スペイン国の仕事として一人のポルトガル人によって遂行され、右のイタリア人によって記録されたということになる。これは近世初頭のヨーロッパの尖端を総合した仕事といってよい。

 この和辻の文章の「統合した仕事」、「統合する」という「動詞」のつかい方に、私はとても感動する。そうか、いろいろな「要素」(事実)は「統合する」ことで「真実」になる。どのようなことも「統合する」ちからで「世界」としてあらわれてくる。「事実」を「統合する」ことで「日付変更線」が姿をあらわす。「統合」しないかぎり、それはあらわれない。
 和辻の書いていることも、すでに知られている「歴史的事実」を「統合した」ものである。和辻が発見したことなどない。でも、その「統合」の仕方がいきいきしている。「人間」そのものを浮かび上がらせている。まるで、そこに描かれている人間になって動いているように、私は興奮してしまう。そして、感動する。

 私は和辻の文章がとても好きだ。どうして好きなのか、それをあらわすことばをなかなか見つけられなかったが、「統合する」という動詞に出会って、あ、これだったのだなあ、と気がついた。
 「世界」にあるものを、正しく「統合する」。それが哲学。

( 203ページに、「アフリカ南方の海峡を通って大西洋に出る未知である。」という文章がある。これは「アメリカ南方の」、あるいは「南アメリカ南方の」の誤植だろう。いま、全集は「第何刷」なのか知らないが、訂正されていることを期待したい。)


和辻哲郎全集〈第15巻〉鎖国 (1963年)
クリエーター情報なし
岩波書店
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しばらく休みます(代筆)

2017-01-10 13:04:16 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。
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ケヴィン・バーミンガム『ユリシーズを燃やせ』

2016-10-24 20:57:12 | その他(音楽、小説etc)
ケヴィン・バーミンガム『ユリシーズを燃やせ』(小林玲子訳)(柏書房、2016年08月10日発行)

 ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』がどうやって出版されるようになったか。これを三つの方向か描いている。執筆するジョイス。彼を支えた側。出版を禁じようとした側。完成されていな作品の可能性を信じて、ジョイスを支える人々もすごいが、まだ本になっていない作品を取り締まろうとする側の姿勢には驚く。
 なぜ、完成していない作品なのに、問題なのか。私は、ここにいちばんおもしろいものがあると思う。
 ジョイスには『ユリシーズ』に先立って『ダブリン市民』と『若き芸術家の肖像』がある。その作品でも「ことば」が問題になった。「わいせつなことば」とか「汚いことば」とか「神を冒涜することば」とか、簡単に言うと「芸術にふさわしくないことば」)読者を不愉快にさせることば)がつかわれていた。そして、雑誌に掲載された一部にも、「芸術にふさわしくないことば」があった。たとえば「テレマコス」でバック・マリガンがスティーヴン・ディーダラスから借りるハンカチの色。「青ぱなの緑」(丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳、集英社版)。現在の「ことばの状況」から見ると、なぜ?と思うが、ジョイスの時代は厳しかったのだ。(最終章の「ペネロペイヤ」が「わいせつ」という問題ではいちばん論争になった部分だけれど、それが完成するのはずっとあとだ。)
 で、ここからわかること。当時の「取り締まりの基準」というのは、その作品にひとつでも「文学にふさわしくないことば」があれば、それ取り締まり対象ということ。これが最終的にどうかわるか。なぜ発禁処分(焚書処分)が解かれたか。端折っていうと考え方が逆になったのである。「一語でもわいせつ/汚いことば/不愉快なことば」があれば発禁処分から、「一か所でも人間の真実に触れることば」があれば「文学」と認められるようになったのである。(筆者も、訳者も乱暴すぎる要約と言うかもしれないけれど。)どこに目を向けるか、その「向けどころ」が違ってきたのである。
 ここから、ジョイスを支えてきた人の「本質」がわかる。様々な人間がジョイスを支えてきたが、彼らはジョイスの書くものが「人間の真実に触れることば」であるとわかっていたのである。そして、その支える側の多くが、文学者ではなく、文学(本)が好きな女性というところが、なんともおもしろい。「ペネロペイヤ」の主役が「女性」であるように、20世紀の文学は女性が切り開いたとも言えるのである。20世紀は女性の時代なのだ。
 少し『ユリシーズ』から離れてしまうが、これはたとえばボーボワールを考えるとよくわかる。いろんな思想家がいて、いろんな思想があるが、マルクスさえ世界に行き渡らなかった。ところがボーボワールのフェミニズムは世界中に行き渡った。女性差別は間違いであると、いまでは誰もが認識している。思想が思想家のものではなく、常識になった。ボーボワールは世界を変えた。ここから、私は20世紀最大の思想家はボーボワールであると考えているのだが。
 20世紀は女性の時代、女性が世界を変えた時代。そういう意味で言えば、「ペネロペイヤ」こそが『ユリシーズ』のハイライトである。「YES」ということば、ひとりの女性が発する「肯定」が真実の中心にある。ケヴィン・バーミンガムは、その点を、実に劇的に描いている。この「ひとりの女性の発する肯定」の前では、男はみんな脇役である。
 『ユリシーズ』(ジョイス)を支えたのは、多くの(ひとりひとりの)女性の「YES」(肯定)だったのである。古い男は、このひとりの女性の「YES」(肯定)に打ちのめされたのである。そのことが、とてもよくわかる。
 エピローグに、こんな文章がある。

 ジョイスの小説は(略)満天の星を眺め、計り知れないものの前で自分たちの小ささを肯定するのだ。その肯定が揺れ動くことこそ、たとえ不行儀に映ったとしても、それをより強いものにする。

 人間を「肯定」する力が、ジョイスのことばにはあるのだ。それも「ひとり」の、言い換えると「個人の肯定」の力があるのだ。

 「文学」は「社会」のものではなく、「個人」のものである。そういう視点で書かれているから、この本を読んでいると、ただただ『ユリシーズ』を読みたくなる。もう一度、それを自分自身のものにしたくなる。厳しい「検閲」を生き延びた『ユリシーズ』。そのことばを、もう一度読みたくなる。私は何とか『ユリシーズを燃やせ』を読み終わるまで『ユリシーズ』を開かなかったのだが、『ユリシーズ』と併読してもおもしろいかもしれない。そうすると、ああ、ジョイスを「肯定」してくれた人がいて、ほんとうによかったという思いが、読み進むのにあわせていっそう強くなるかもしれない。
 ケヴィン・バーミンガムの「あとがき」というのだろうか、「謝辞」が最後にある。そこには夥しい数の名前が出てくる。彼らはケヴィン・バーミンガムを支えた。それはジョイスを「肯定」した人が、また限りなくいたということを想像させる。そうなのだ。名前こそ登場しないが、無数の読者(個人)が『ユリシーズ』とジョイスを突き動かしたのだ。いま目の前にある『ユリシーズ』の奥に、そういう人々(多様な人々)がいる、いた、ということに深々と頭をさげたい。いま『ユリシーズ』を読むことができることに感謝したくなる本である。


ユリシーズを燃やせ
ケヴィン バーミンガム
柏書房
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村田沙耶香「コンビニ人間」

2016-08-11 13:41:11 | その他(音楽、小説etc)
村田沙耶香「コンビニ人間」(「文藝春秋」2016年09月号)

 書き出しの一行で「傑作」と確信する作品がある。村田沙耶香「コンビニ人間」は、そういう作品。第百五十五回芥川賞受賞作。
 その書き出し。

 コンビニエンスストアは、音で満ちている。

 どこがすごいか。「音」を書いていることがすごい。音からはじめているところがすごい。この小説の主人公は、しかし音でコンビニを認識している。コンビニに音があるとは、私は考えたことがなかった。わっ、私の知らない人間がいる。そのことに驚くのである。
 人間というのは、もちろんひとりひとり違うから、知っている人間などいないと言えるのだが、「知らない」ということを私たちは(私は)自覚しない。人間は同じようなものだと思う。たとえばコンビニなら、手軽な商品が売られている。深夜も営業している。ATMもある。まさしく、便利な店だ。そして妙に明るい。特に深夜の時間帯は、その明るさが冷たい、と私は感じている。
 しかし主人公は違うのだ。
 そうか、音か。音で「世界」を認識している人がいる。「音楽」ではなく、音楽とは別な世界を音で認識している人がいる。この「特異性(?)」だけで、主人公は、とても際立っている。
 で、どんな音?

 コンビニエンスストアは、音で満ちている。客が入ってくるチャイムの音に、店内を流れる有線放送で新商品を宣伝するアイドルの越え。店員の掛け声に、バーコードをスキャンする音。かごに物を入れる音、パンの袋が握られる音に、店内を歩き回るヒールの音。全てが混ざり合い、「コンビニの音」になって、私の鼓膜にずっと触れている。

 近くのコンビニへ走って行って、耳を澄ましたい。確かめたい。そういう気分にさせられる。私の知らない(私の見落としていた)世界が、私のすぐそばにある、という驚き。さらに、その音が「私の鼓膜にずっと触れている。」が、すごい。
 音が「肉体(鼓膜)」と一体になっている。

 売り場のペットボトルが一つ売れ、代わりに奥にあるペットボトルがローラーで流れてくるカラララ、という小さい音に顔をあげる。冷えた飲み物を最後にとってレジに向かうお客が多いため、その音に反射して身体が勝手に動くのだ。

 あ、すごいなあ。「身体が勝手に動くのだ」か。音が「肉体」の一部になっていて、音が肉体を動かすのだ。「勝手に」とは「無意識に」である。「無意識に」というのは「意識がない」ではない。逆である。「意識」が「肉体」になってしまっていて、「意識」とは「意識されない」状態なのである。
 このコンビニ店員の「肉体」のなかで、たとえば、私は自分がコンビニで冷たい水を買うときの様子まで思い出してしまう。手前のペットボトルをとると、その空間を埋めるようにボトルが奥から滑ってくる。それを見ている「肉体」になる。そのとき、たしかに音があったといえば、あっただろうなあ。そんなことを思いながら、単に、その描写に主人公の「肉体」を感じるだけではなく、私自身が「肉体」として参加している(そのばに居合わせる)感じになる。コンビニにいて、そこで働いている主人公を見ている気持ちになる。
 書き出しの一ページだけで、大傑作である。

 この音は、途中から「声」にかわる。てきぱきとしたマニュアルどおりの「店内」の声。そのあと、その声が少しずつずれていく。

「あ、それ、表参道のお店の靴だよね。私もそこの靴、好きなのー。ブーツ持ってるよー」
 泉さんは、バックルームで少し語尾を延ばしてだるそうに喋る。

 会話の「内容」も描かれているが、そのときの「声」の調子がていねいに描かれる。コンビニのなかでは主人公は、どの音にもすぐになじんでしまう。他人の口調を吸収し(真似し?)、世界を調和させている。
 ところが一歩、コンビニの外へ出ると、どうもうまくいかない。「肉体(鼓膜?)」が「会話」をスムーズにさせない。自然な(つまり普通の)会話ができない。肉体(無意識)になじまない。つっかかる。その結果、主人公は「変な人(普通じゃない人)」にされてしまう。
 そういう主人公の世界に、コンビニで働くことには向いていない男がやってきて、その男と接触したために、主人公の世界は大きく変わってしまうのだが、そこでも交わされる会話の「内容」よりも、そこから始まる音の変化に私は引き込まれた。
 男と一緒に暮らしながら、別々の世界を生きている。男が風呂場で食事をしている。ドアを閉めて、主人公は久しぶりに一人でテーブルに座って食事を始める。(464 ページ)
 自分が咀嚼する音がやけに大きく聞こえた。さっきまで、コンビニの「音」の中にいたからかもしれない。目を閉じて店を思い浮かべると、コンビニの音が鼓膜の内側に蘇ってきた。

 主人公は、コンビニ以外の音(コンビニで発せられる事務的な会話の調子)以外が苦手である。主人公と男の関係(いわゆる恋愛、あるいは肉体関係)を探るような、店員仲間の「声」がだんだん「雑音」のように主人公を苦しめる。人間の「肉体」と「肉体」の結びつきを求める「声」が主人公を追い込む。
 そのことを、こんな具合に書く。

 店の「音」には雑音が混じるようになった。みなで同じ音楽を奏でていたのに、急にみながバラバラの楽器をポケットから取り出して演奏を始めたような、不愉快な不協和音だった。( 465ページ)

 ここが、この小説の「焦点」。主人公の聞いていた「音」は、彼女にとっては「音楽」だった。コンビニという「場」に集まってきて演奏されるセッションだった。それが、突然、崩れ始める。日常会話が「ノイズ」なのだ。
 そして、そういう「声」に押されつづけ、男の指示に従い、コンビニをやめることになると、さらに変化が起きる。

 今までずっと耳のなかで、コンビニが鳴っていたのだ。けれど、その音が今はしなかった。
 久しぶりの静寂が、聞いたことのない音楽のように感じられて、浴室に立ち尽くしていると、その静けさを引っ掻くように、みしりと、白羽さんの重みが床を鳴らす音が響いた。( 472ページ)

 部屋の中には白羽さんの声や冷蔵庫の音、様々な音が浮かんでいるのに、私の耳は静寂しか聞いていなかった。私を満たしていたコンビニの音が、身体から消えていた。私は世界から切断されていた。( 474ページ)

 「音」が聞こえない。その「肉体」の変化。(作者は「身体」ということばをつかっているが。)これが、なまなましい。痛々しい。
 人間の変化を、音と肉体の関係(肉体の編が/聴覚の変化)でとらえつづけているところが、この小説を傑作にしている。途中の人間同士の会話は、主人公の肉体の変化を明らかにするための、ストーリーという「補助線」にすぎない。面白おかしく書かれているが、そこに作者の「主眼」があるわけではないだろう。
 
 この肉体的苦痛から、主人公は、どうやって「人間」を、つまり「肉体」を回復させることができる。
 いよいよ新しい仕事のために面接にいく、その日。トイレを借りるためにはいったコンビニで、変化が起きる。
 
 ここはビジネス街らしく、客の殆どはスーツを着た男性や、OL風の女性たちだった。
 そのとき、私にコンビニの「声」が流れ込んできた。 
 コンビニの中の音の全てが意味を持って震えていた。その振動が、私の細胞へ直接語りかけ、音楽のように響いているのだった。
 この店に今何が必要か、頭で考えるよりも先に、本能が全てを理解している。

 そして、このコンビニの「声」に従いコンビニ店内の商品配列をてきぱきと変更していく。それに誘われて、入ってきた客が主人公の並べ替えた商品を買っていく。女性二人が新商品に声を上げ、はしゃいでいる。買い物をする。

 今日は暑い日なのに、ミネラルウォーターがちゃんと補充されていない。パックの2リットルの麦茶もよく売れるのに、目立たない場所に一本しか置いていない。
 私にはコンビニの「声」がきこえていた。コンビニが何を求めているか、どうなりたがっているのか、手にとるようにわかるのだった。( 480ページ)

 それをみて「何をしてるんだ!」と叱りつける男に対して、主人公は言う。

「コンビニの『声』が聞こえるんです」
(略)
「身体の中にコンビニの『声』が流れてきて、止まらないんです。私はこの声を聴くために生まれてきたんです」( 481ページ)

 アイデンティティ宣言である。
 感動してしまった。人間を「精神」ではなく「肉体」として、生み出している。
 コンビニの「音」から始まり(起)、コンビニ内での会話から「人間の声」を通り(承)、そこから店外の普通の「人間の声」へと広がり、コンビニの音が聞こえなくなり(転)、コンビニの「声」を聞き取る(結)という具合。コンビニの「音」は「音」ではなく「声」だったのだ。その発見。それが「肉体」としてしっかり描かれている。



コンビニ人間
クリエーター情報なし
文藝春秋
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詩を書くひとへ、詩を読むひとへ

2016-06-22 11:14:08 | その他(音楽、小説etc)
 2016年06月22日は参院選の公示日。
 この選挙で自民党・公明党が勝利し、参議院の議席が三分の二を超えたら、安倍はかならず憲法を改正するだろう。その結果、もう二度と公正な選挙はおこなわれなくなるだろう。政府を批判する意見は抹殺されるだけでなく、批判意見をいう人間は自由を奪われるだろう。

 朝日新聞06月20日朝刊(西部版・14版)一面に次の記事があった。
 改憲議論「次の国会から」(見出し)と報じたあと、

首相は現段階で憲法審査会の議論がまとまっていないことから、「(今回の)選挙で争点とすることは必ずしも必要がない」との考えを示した。

 「必ずしも必要はない」。これは微妙な言い方である。「必要だが、必ずしも必要ではない」。「必要である」ということを隠しているのか。「本来なら必要だが、争点にしてしまうと批判を浴びるので、争点にしたくない。だから、争点として取り上げない」ということだ。
 かわりに「経済」を争点とする。「アベノミクス」を「争点」の前面に押し出す、ということだ。
 「だまし討ち」をすると、自ら言っているのである。
 選挙が終われば、そして参議院の議席の三分の二をとれば、「憲法審査会の議論は終わった。憲法改正草案は何年も前から発表している。国民に知れ渡っている」と言い張るだろう。

 「秘密保護法」「戦争法(安保関連法)」は、いずれも「経済政策」を争点にした国政選挙後の国会で強引に可決された。「経済」をどうするかはそっちのけにして、憲法と相いれない法律を成立させた。
 今回も同じことを狙って行動している。

 さらに、2016年6月22日の読売新聞朝刊(西部版・14版)に、21日開かれた党首討論の記事よると。
 民主党の岡田が、憲法改正をめぐって、「しっかり参院選で議論すべきだ」と語っている。
 これに対して、安倍は

「憲法審査会で逐次的な議論を静かに行い、国民投票で問うべきだ」

 と答えている。
 「静かに」ということばに注目したい。
 これは、ほぼ「密室で」と同じ内容だろう。
 あるいは「結論が出るまで、情報公開は一切しないで」という意味でもあるだろう。
 「議論」に対して、国民から批判が殺到すると、その批判に「憲法審査会委員」の考えが左右される恐れがある。
 「秘密に」というのと同じである。
 もしかすると、「憲法審査会」の「議事録」は「秘密保護法」の対象に指定され、国民はどんな議論がおこなわれたのか知らされないまま、「国民投票」だけを求められるということになるかもしれない。

 もし、自民党の憲法改正草案のまま、憲法が改正されたらどうなるか。
 国民は「政府が保証する」ことしか言えなくなる。思想、言論の自由がなくなる。自由に書き、自由に読むということができなくなる。(「自民党憲法改正草案」をどう読むかは、すでに二回書いてきたので、今回は省略する。)
 あらゆる人権が政府の独自の判断で制限される。もちろん戦争も始まる。
 そうなったとき、「こうなることはわかっていた」とか「わかっていたから、私は自民党や公明党には投票しなかった」と「自己弁護」しても遅い。「野党に投票しなかった人たちが悪い。私はわかっていたが、ほかのひとはわからなかった。私は悪くない。私は犠牲者だ」と泣き言を言っても何にもならない。「安倍が間違っていることがわからないばかが多すぎる」と批判しても、その批判によって、あなたの「聡明さ」が証明されるわけではない。
 あなたが自民党、公明党の考えに賛成できない。自民党の憲法改正草案に賛成できない、というのであれば、そのことを「声」に出して言おう。ひとりでも多くのひとに語りかけよう。あなたの思っていることがどれだけ正しくても、それをひとにつたえないかぎり、それはひとりで思っていることにすぎない。ひとりで思っているだけの「正しい」は空論である。

 自民党の憲法改正草案に賛成、というひともいるだろう。そういうひとも発言してほしい。どうして賛成なのか。それを語ってほしい。語らずに、黙って自民党に投票し、憲法を改正してしまえばいい。その方が面倒がなくていい。勝ってしまえば、自分の正しさが証明される、と思っているかもしれない。
 でも、それでいいのか。
 ほんとうに「正しい」と思っているのなら、それをことばにして、反対するひとと対話し、意見の変更を促すというのが、民主主義というものだろう。
 ことばを書き、ことばを読むことが好きなら、その好きなことを実践してもらいたい。安倍のまねをして、「対話することは必ずしも必要ではない」という態度をとらないでもらいたい。

 私は「対話」がしたい。「対話」ができることが民主主だと思っている。「対話」のなかにしか、ことばの生きる場所はない。ことばが交流できなければ、どんな詩も、生きていけない。死んでしまう。




 (これから以下に書くことは、参院選とも憲法改正の動きとも「無関係」なのだが、もしかすると「安倍一強」に群がることで、生き抜こうとするひとたちの動きとどこか似ているかもしれない。)

 「現代詩手帖」2015年07月号に「ポスト戦後詩、20年」という特集が組まれている。その「鼎談」のなかで、三人の詩人が2000年ごろから詩のことばがかわったというようなことを語っている。私は、それぞれの作品を歴史と比較しながら詩を読むということはしないので、詩のことばがかわったかどうか、よくわからない。ただ、私自身の経験から、ことばの環境は変わったと感じている。詩のことばというよりも、詩の周辺のことばがかわった。
 私の個人的体験、個人的感想であるが。
 ある詩人が、当時の首相の「神の国」発言を肯定したとき、私はそれについて批判した。すると、その詩人からではなく、その周辺のひとたちから猛烈な抗議を受けた。それは抗議から、私の名前をつかっての発言の捏造、最後は「玄界灘に沈めてやる」というようなことまで言われた。
 またある詩人は、私がそのひとの書いた作品を誤読したとき、「詩壇から追放してやる」と言った。私は「詩壇」というものとつきあいがないから、そんなことはどうでもいいが、「詩壇」ということばを「権威」のように使い、その詩人が「権威」に寄りかかっていることに、とても驚いた。私は「詩壇」で発言しているのではなく、ブログで発言している。
 またある詩人は、私がそのひとの詩集の感想として「おもしろくない」と書いたことに対して、とても怒った。そして「谷内に詩集を送るのはやめよう。そうすれば詩集を読むことができず、その結果、現代詩手帖のアンケートにも答えることができなくなる」とネットで呼びかけているのを読んだ。「現代詩手帖」が「権威」であるかどうか、よくわからないが、「詩壇から追放する」という発言に似たものを感じた。批判者を除外することで、自分の「正しさ」を証明するという方法である。
 またある賞を受賞した詩人は、私がそのひとの詩集を全部読まずに感想を書いたところ(目が悪くて、全部読むのは肉体的に無理だった)、「全部読まずに感想を書くのは失礼だ」と怒った。まあ、確かにそうかもしれないが。「そう言わずに、また読ませてください」「読みたかったら買って読め」。買って読んで感想を書いたら「買うのは勝手だが、感想を書くな」と言われた。
 こういうことは、「ポスト戦後詩」で語られている「ことばの変化」とは関係がないかもしれない。しかし、どこかで関係しているかもしれない。自分は、これこれの「権威」に通じている。批判すると、あるいは気に入る感想を書かないなら、「権威」から追放してやる、というような奇妙な言い方は、かつてはなかったと思う。
 「権威主義」が増えてきていると感じる。
 そして、この「権威主義」というのは、安倍のめざしている「独裁」と、とても似ていると私は感じる。そういう「変化」が詩の書かれている場、読まれている場では始まっているように感じる。
 安倍の「独裁」が始まるとき、詩のことばをとりまく「独裁の雰囲気」はもっともっと強くなるだろうと感じる。

 そういうものと「没交渉」の場で詩を書けばいい、詩を読めばいいという意見もあるだろう。孤高の場で詩を守り抜くという生き方もあるとは思う。
 でも、私は、それはつまらないなあと思う。
 ことばは行き来してこそ楽しい。けなして、けなして、けなし抜いて、もうけなすことがなくなったとき、突然、その詩が絶対的なすばらしいものに見えてくるということもある。嫌いだ、気持ち悪いと書いている内に、なんだか好きになる、快感だなあ、と感じるときもある。私はそういうことを何度も経験している。そして、そのとき、「あ、昔の感想は間違っていた」とは少しも思わない。「批判」を書かなければ、けっして「快感」にはたどりつけなかっただろうと思う。
 ことばも気持ちも変化していくから楽しい。
 これが「政府の保証する思想(ことば)」という具合に決めつけられるというのは、とても変だ。私は、自分のことばを、誰かから「保証」されたなくない。誰の「保証」からも関係なく動かせるのが、「自由」だと考えている。

 戦争もいやだし、誰かに「思想/表現」を「保証」されるのもいや。だから自民党の憲法改正案には反対。自民党、公明党の争点隠しの選挙運動を批判しつづけたい。

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パリのピカソ美術館(2016年05月22日)

2016-06-17 10:34:08 | その他(音楽、小説etc)

パリのピカソ美術館(2016年05月22日)

 アンティーブ、ヴァロリス、パリと三つのピカソ美術館を駆け足でめぐって、ピカソの「立体」のおもしろさを、あらためて感じた。特に、いろいろな素材をあつめてつくり出す形がおもしろい。この素材の集め方(コラージュの仕方)に、私は、やはりスピードを感じる。素材を見た瞬間に、ぱっと、それが動いて形になっていくのが見えるのだと思う。悩みというものを感じることができない。まるで、こども。
 その点から言うと、「塑像」は少し違う。「素材」そのものが「形」をもっていない。だから、というと変なのかなあ。「素材」をいったん「形」にしてしまって、それを組み合わせている感じがする。そういう作品がおもしろい。
 マリー・テレーズをモデルにしているのだと思うけれど、「女の胸像」が私はすきだ。女の頭部がおもしろい。目とか鼻とか頬(頬骨)とかを「顔」にぶっつける。そうすると、目や鼻や頬骨が「顔」を突き破って、顔の「外」に出てくる。つながっているのだけれど、「顔」を破ってでてつくる感じがする。その「出てくる」力がピカソには見えるのだと思う。
 何でも、そうなのだと思う。
 そこに「もの」がある。その「もの」を突き破って、「もの」のなかから力があふれる。「もの」を変形させて、自分の力を知らせる。それに即応する。

 違う観点から。
 ある彫刻家がフラメンコダンサーの「塑像」をつくっているのをネットで見たことがある。モデルにポーズを取らせるのではなく、そのポーズになるまで踊らせ、ポーズを取った瞬間をじっと見つめ、それを再現する。止まったポースなのだが、ダンスを見ることで、肉体の中に動いている力を「塑像」のなかに引き込もうとしているように見えた。ピカソと、こんな手間をかけない。一度見ただけで、「肉体」がどんな具合に動いているかをつかみ取り、それを動きそのものとして形にしてしまう。
 もし、ピカソがフラメンコダンサーを何度も何度も踊らせながらポーズをとらせて作品をつくるようなことがあれば、ポーズが同じ形だとしても、そのポーズをとった回数だけの違う作品をつくってしまうだろう。一度見た、一度だけ見えたものを、瞬間的に、そのまま「運動」としてつくりあげるのがピカソなのだ。
 あるいは女のトルソの「塑像」をつくる過程もネットで見た。腰骨や背骨からつくりはじめ、腹筋やさまざまの筋肉を「人体模型」にあるように、そっくりそのまま内部からつくっていく。乳房も内部からつくり、最後に「皮膚」をまとわせる感じで仕上げていく。見えないけれど「内面」から作品をつくっていく。
 ピカソは、そういう「手間」もかけない。「内部」に「いのち」があることはわかっている。その「内部」をつくれば作品が「落ち着く」ということなど、わかってしまっている。ピカソは「落ち着いた姿」ではなく、「落ち着いて見える姿」を破って内部があらわれるときの「異様」の美しさを、見たままに、見えるままに形にするのだ。

 ピカソを見た翌日、ロダン美術館でロダンとカミーユを見たが、ロダンの作品を見ながら展示室を進んでゆき、カミーユの部屋に入った瞬間に、雰囲気ががらりとかわる。肉体の捉え方が違う。カミーユは静かだ。しなやかだ。ロダンとピカソは、まだ共通点があるかもしれないが、カミーユとピカソは共通点はないなあ、と思った瞬間。
 ふと。
 ピカソは大理石を彫ったことがあるだろうか。リノカットやエッチングのように、あるいは陶器のようにやわらかいものは「彫る」ことがあっても、大理石を彫ったことはあるんだろうか、と疑問に思った。
 カミーユは、大理石のなかに隠れている「いのち」のようなものを彫り出し/掘り出している。
 ピカソは、「彫り出す/掘り出す=発掘する」ということがあるのだろうか。むしろ逆に、外にはみ出してしまうものを、そのはみ出す瞬間、外を突き破る瞬間をとらえる芸術家なので、「掘り出す/彫る」という仕事はしなかったのかもしれない、と思ったのである。
  
 立体作品以外では「セレスティーナ」や「自画像」に、やはり引きつけられる。(マリー・テレーズをモデルにした作品は、私が見たときは展示されていなかった。どこかに貸し出し中なのかな。他の美術館でもそうだが、ここにこれがあるはずと思い見に行って、それが貸し出されているときは、とても残念だ。オルセーで見るつもりだったルノワールは東京で展示中で見ることができなかった。)
 ただ、ひきつけられると言っても、晩年の作品ほど魅力的ではない。「内部」から滲み出してくるものが、「表面」と拮抗している。「表面」を突き破って、「存在」そのものを剥き出しにしない。「滲み出す」ときの、ゆっくりした感じが、視線を吸い込むという動きをする。





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ピカソ展ルードヴィヒ・コレクション

2016-06-15 09:14:40 | その他(音楽、小説etc)

ピカソ展ルードヴィヒ・コレクション(佐賀県立美術館、2016年06月14日)

 ピカソ展ルードヴィヒ・コレクションで私がいちばん気に入ったのは「鶴」(ブロンズ)である。
 ガス管(ガス栓)とショベルとフォークを組み合わせて立体にしている。ガス栓のねじの部分を鶴の鶏冠にして、ショベルは胴と翼(ショベルの土を救う部分を半分に切って形を変えている)、フォークは足だ。
 この作品には、ピカソのデッサンのスピードがくっきりとあらわれている。何を最初に見て、それが「鶴」に見えたのかわからないが、どれが最初であっても、それが鶴の「肉体」の一部に見えたとき、他のものがぱっとそのまわりに集まってきて、一気に形なる。いつも見ていた何かが、突然、違って見えてしまう。ガス栓のねじが鶴の鶏冠に見えたとき、ショベルが翼になってみつかる。フォークは足になってやってくる。
 「材料」を変形させるのではなく、「材料」がそのまま「形」になっていくのが「見える」のだ。「材料」が隠している「形」が見えてしまう。違う形になりたがっている、その「もの」の欲望が見える。それを、そのまま後押しする。「材料」のなかから「形」があらわれてくるのを手助けしているという感じかもしれない。「材料」そのものがもっている力を、そのまま引き出すから、「加工」に手間がかからない。あっというまに作品になってしまう。実際にどれくらいの時間をかけてつくったものかわからないけれど、「一瞬」にしてつくったという感じがする。
 ピカソの何かを「見てしまう」視力には試行錯誤というものがない。ピカソの視力には迷いというものがない。
 そのスピードに、私の視力はのみ込まれてしまう。そこにあるのは「鶴」ではない。しかしし、ピカソの「鶴として見てしまう」スピードにひきずられ、「鶴」にしか見えなくなる。「これは何かなあ、鶴かなあ、ガス管かなあ」などと考えている「時間」がない。ボルトが百メートルを九秒台で走るのを見ているとき、ただそのスピードの美しさに感動して十秒を忘れるのに似ている。いや、それ以上。その作品にピカソがどれだけ時間をかけたのか、そんなことは「思いもしない」。「一瞬」にして完成したと感じてしまうのである。
 そして、何と言うのだろう、そこにある「不自由」をたたき壊していく「自由」の力も、そのときに感じるのだ。ガス管もショベルもフォークも、完成された形。(あるいは、それらはつかわれなくなった不良品かもしれないのだが。)その「完成されたもの」を縛っている既成の力を破壊し、もう一度エネルギーを与えなおし、「自由」へ向かって解放する力というものを感じる。「革命」というとおおげさかもしれないが、これから何がおきるのかわからない、何が起きてもかまわない、すでにあるものを違うものに変えていくのは楽しい、という無邪気な喜びがある。喜びの、はかりしれないスピードがある。

 陶器作品では「頬づえをついている顔の水差し」がおもしろい。水差しの形ができて、それからそれに絵を描いたのか、頬づえをついている女を描きたくて、その水差しをつくったのか、わからない。きっと、同時に思いついたのだろう。この「同時」というのがピカソのデッサンのスピードである。あらゆることが「同時」なのだ。この壷には、横を向いている顔と正面の顔が組みあわさっているが、それはひとりの女のなかで「同時」におきることである。女は頬づえをついたまま正面を見ているとしても、その顔には同時に横顔がある。立体のなかで、それが自然に融合している。「複数」の時間を「同時」につかまえてしまうのだ。

 「接吻」も好きな絵だ。男が女にキスをしている。キスをしながら体をまさぐっている。女は「やめて」というように、その手を拒んでいる。男は、女の顔を見つめながらキスをする一方、「同時」に、女の手を「そんなことするなよ、触らせろよ」という感じで見ながら手に力をこめている。ひとは「同時」にいくつものことをする。そして、それは「いくつものこと」でありながら「ひとつ」。キスは単に唇をあわせること、舌をからめることではない。そのとき「味わっている」のは唇の感触だけではない。「ひとつ」のことをしながら「同時」に「複数」のことを感じ、動いている。この「交錯する感じ/交錯する肉体の動き」を一瞬にしてとらえてしまうピカソのデッサンのスピードが、とても楽しい。快感である。笑い出したくなる。
 「読書する女の頭部」は、わかりやすい作品といえるだろう。左半分には光があたっている。右半分は影になっている。その影になった部分、うつむいた睫毛は、読んでいる本をすこし離れている。「活字」を追っているのではなく、ストーリーを追っているのではなく、そこで動いている「感情」に共感しているように見える。「読みながら共感する」というのは誰にでもおきること。それは「同時」に起きているのだが、「同時」ではあっても少し「時差」がある。この「時差」というか「ゆらぎ」を多くの画家は「ひとつの表情」にしてしまうのだが、ピカソの筆のスピードは「ひとつ」を「解体」し、もういちど「統合」する。いや、統合という「おとな」っぽい行為ではないかもしれないなあ。「解体」によって生まれたものをぶつけ合う。そのときの衝突、その衝撃を楽しんでいるといった方がいいのかも。何だって作り上げるときよりも、それをたたき壊すときの方がはるかに楽しい。ここまで壊すことができる、という喜び。壊すことではじめて見えてくる「秘密」のようなものが楽しいし、こわれたものをさらにぶつけて「形」ですらなくしてしまう。そこに「生まれてくるもの」は何? わからない。「知らないもの」が生まれてくる喜び。それは意外と「肉体が知っている」ものだったという、不思議な「安心感」もあるかもしれない。そういうものすべてが「同時」に、そして「一瞬」よりもはるかに短い時間の内に起きてしまうのがピカソなのだ。



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ピカソ「戦争と平和」

2016-06-14 20:24:07 | その他(音楽、小説etc)




ピカソ「戦争と平和」(ピカソ美術館@ヴァロリス、2016年05月20日)

 ヴァロリスはアンティーブとカンヌの中間くらいのところにある小さな街だ。ピカソは、ここで陶器に出合った。陶器に目覚めた。たくさんの陶器をつくっている。それを見に行ったのだが、思いがけず「戦争と平和」に出合った。
 私は、実は、その絵を知らなかった。私の読んだ旅行ガイドには、「戦争と平和」のことが書いてなかった。
 陶器の、立体のおもしろさ、立体を生かした絵(立体と一体になった絵)、油絵にはない強い色に夢中になって、何度も展示室を往復した。リトグラフも楽しかった。あとは広場で「山羊をかかえた男」の彫像といっしょの写真を撮って帰ろうと思っていた。すると、見知らぬひとが、陶器の前を行ったり来たりしている私の方に近づいてきて、「あっちもピカソがある」と言うのである。
 指差す方向へ歩いていき、その部屋に入る。それは、蒲鉾形の、窓のない部屋である。この蒲鉾形の部屋は、実は礼拝堂である。その曲面に「戦争と平和」が描かれている。
 その部屋に入った瞬間、動けなくなった。異様な緊張感がある。
 入って左側が「戦争」、右側が「平和」と言われている。それが、向き合う形で、丸くなって(曲面を描いて)、天井でつながっている。ふいに、「胎内」ということばが思い浮かんだ。「赤ん坊」になって、「胎内」から、「母親の肉体」を通して、世界をみているような気持ちといえばいいのだろうか。
 私は、これから、どっちの方へ生まれていくのか。それを思うと、こわくなったのである。
 それだけではない。「胎内」「生まれる」ということばが、絵を見ている内に、「生む」ということばにかわっていく。私は男だから「子宮」はもちろんない。「産む」ということは肉体的に不可能なのだが、「生まれる」というのは「産む/生むということなのだと感じた。
 「共感」が、そう感じさせる。描かれていることが「わかる」ということが、そう感じさせる。「わかる」のは、それを私が知っているから。実際に体験したことではなくても、「わかる」。その「わかる」とき、私の「肉体」のなかで「何か」が動いている。そこに起きていることに通じる「何か」が起きていて、それが瞬間的に「生まれ」、同時に私は「生み出している」。
 「戦争」の、右の男の持つ刃物の先は赤く濡れている。その下には、手が助けを求めるように動いている。そのまわりは赤い。血だろう。大地が血に染まっている。影絵のアニメーションのように、黒い影が、誰かを殺すシーンを連続して描かれている。その動きに、なぜか魅了されてしまう。私はひとを殺したことはないが、子どものとき、遊びで蛙や蛇や魚を殺したことがある。私は「殺す」ということを「肉体」で知っている。やせて、あばらぼねが浮き出た馬(その白い線)の悲しみにも、ぞくぞくするものがある。友達をいじめたときの、その悲しみが目からあふれてくるのを、ぞくぞくする感じで見ていたことがある。あの、手だけになって、なおも誰かに助けを求める指の動きも、もっと見ていたい、これからどう動くのかを確かめたいという気持ちが生まれてくるのだ。
 「平和」は、美しい。ペガサスの無邪気な動きが楽しいし、よそ見している右の子ども(ペガサスの手綱を持っている子ども)の明るさがいい。女のダンスの、下半身の動き、その線の速さはエロチックなものを含んでいて、思わずうれしくなってしまう。ピカソの線は、ともかく速い。「肉眼」が一瞬だけ見たものを、見たままに描きだすスピードがあって、どきどきしてしまう。右の方では子育てをしている。赤ん坊におおいかぶされるような女の形が、とてもなつかしい感じに見える。いちばん右の、顔のないのは男だろうか。考えを書き留めているのだろうか。
 太陽の描き方もいいな。太陽のまわりに木が生えているなんて、うれしくなってしまう。笑い出してしまう。この「太陽」は、また産道にも、女性の性器にも見える。まわりの「木」と見えていたのは、陰毛である。クリトリスはどれ?などと、思ってもしまう。
 これらの「妄想」は、「生まれる」のではなく私が「生み出す」もの。
 私以外のひとは、私とは違う感想を持ち、その瞬間瞬間、私とは違う人間となって生まれているだろう。違う人間を産み出しているだろう。

 「生む/生まれる」ということに、差はない。違いはない。

 不思議な「混乱」のなかで、私はシスティナの大壁画を思い出していた。天井の中央に描かれたアダムの指。正面の壁の最後の審判。入り乱れる群像。こんなにごちゃごちゃ描いているのに、乱雑な感じがしない。なぜか。和辻哲郎は「イタリア古寺巡礼」のなかで、イタリアには「分割統治」の伝統がある。ローマ帝国の時代から、都市都市に、それぞれの地方の統治をまかせてきた。システィナの絵は、それぞれの「区切り」のなかで完結しているというわけである。
 一方、ピカソの壁画には、そういう区切りはない。左の壁から天井へ、天井から右の壁へ、「曲面」がつづいている。区切りは、色と線のなかにしかない。それは「任意」であるというか、動いている。どこにどの線が描かれ、どこにどの色がおかれようと、それは絵を描くピカソの自由。そして、そのどれを見るかは見る人の自由。
 あらゆる瞬間に「生む/生まれる」が起きる。そして、そこには「とぎれ/区切り」がない。
 これが、この絵の「緊張」の原因だ。人間は、どんな動きもできる。どんな人間にもなれる。「生む/生まれる」は「なる」でもあるのだ。

 この礼拝堂を出たら、外はどうなっているのだろう。「戦争」だろうか、「平和」だろうか。私は、外に出た瞬間、何になって生まれるか。何を生み出すのか。

 ピカソは、「戦争」と「平和」を同時に描いた。それは人間が「戦争」も「平和」も自分の手でつくりだすことができるという「証明」かもしれない。
 しかし、こんなことを考えるのは、私が「疲れている」からだろう。「頭」が疲れていて、「肉体」が楽しめないでいる。
 もっと違う時代に、もう一度、この絵を見に来たいと思った。
 「戦争」は終わった、「平和」のなかへ生まれていくのだという「わくわく」する感じを、「肉体」で味わえるときが来たら、もう一度見てみたいと思う。




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ピカソ「生きるよろこび」

2016-06-13 08:26:19 | その他(音楽、小説etc)


ピカソ「生きるよろこび」(ピカソ美術館@アンティーブ、2016年05月20日、21日)

 ピカソ「生きる喜び」は、フランス・アンティーブの「ピカソ美術館」にある。この絵を見に行ったとき、幼稚園児くらいの子どもを相手に、女性が絵の説明をしていた。これがとてもおもしろかった。
 この絵には直線と曲線がある、というような説明から始まった。左上のヨットは帆が直線で描かれている。三角形である。この三角形は海に映るヨットの影にもつかわれている。さらに笛を吹く男(獣、山羊?との組み合わせ)の体のなかや、遊ぶ子山羊たちの体のなかにも、女の足の交錯したところにも隠れている。その組み合わせが、まるで音楽のようである。(ということまで説明していたかどうか、私のフランス語ではよくわからないのだが、女性が絵のいろいろな場所を指し示しながら語るので、かってに想像した。)
 右の男の、右下の茶色い、うんこというか、ひげというか、それを指して「これは何?」と聞いている。子どもたちは、すぐには答えられない。でも、同じ部屋にある別の絵を指し示しながら、それが動物の尻尾であることを教えている。「同じ形をしてるでしょ」。そう、右の男は、ちょっと目にはわかりにくいが、やっぱり山羊と男が合体した生き物なのだ。
 それからタンバリンを取り出した。女のひとが手の先の「まるい白」。あれは手で輪っかをつくっているのではない。タンバリンを持っているのだ。男は笛でメロディーをかなで、女はタンバリンでリズムを刻む。その音楽にあわせて、女と子山羊たちがいっしょに踊っている。そう説明している。さらにタンバリンを子どもたちにまわして、「叩いてみて」と言っている。(子どもだから、軽く叩く子もいるが、思いっきり叩いて、叱られたりもしている。)そのあと、プレイヤーで、笛とタンバリンの音楽を実際に流し、それも聞かせている。
 その音楽を聴きながら、絵を見ながら、私が考えたのは(感じたのは)。
 このタンバリンの丸は、子山羊たちの「顔」の形にもなっているということだ。「顔」が「音楽」になっている。「音」を奏でている。
 前日、ひとりで見ていたときは気がつかなかった。あっ、子山羊たちが、こっちをみている。子山羊は「あ、見られた」と思いながらも、踊ることをやめることができない。この瞬間、あ、見てはいけなかったのかな、と思ってしまう。そんなことを感じさせるくらい、楽しさにリアリティがある。そう思いながら見ていたのだが、タンバリンが「顔」になっている、「肉体」になっていると思うと、その踊る喜びがいっそう強く感じられた。後ろ脚で立ち上がったり(左の子山羊)、飛び上がったり(右の子山羊)、「体」が音楽になって、かってに動いてしまう。やっぱり、見てはいけない「喜び」を見てしまったのかなあ。
 こういう「動きのリアリティ」を含んだ線(デッサン)は、ピカソは、まさに天才。「写真」のように「リアル」な「形」ではないのだが、そのひとつひとつが、目に見たままなのだ。「肉眼」というのは、どんな精密機械よりもすばやく対象に焦点をあてて、何かを見てしまう。「肉眼」には何かが見えてしまう。
 私たちは(私は、というべきなのかもしれない)、何かを見たとき、その形を「わかる」ようにととのえてしまう。絵に描いて誰かに示すときは、そのととのえ方はさらに厳しくなる。「見たまま」ではなく、誰かに「見えるように」描く。ことばで言えば、肉体からあふれてくる音をそのまま無秩序にあふれさせるのではなく、単語にし、さらに「文法」にあわせてととのえ、文章にするように、絵の場合も「形」をととのえている。「ととのえた形」を「わかる絵」として学んでいる。
 でも、ピカソは違うのだ。
 子山羊の足の力が入っている感じ、立ち上がったときの胴の豊かな感じ、それから「顔」が「山羊」なのにまるで「人間」のように見える、その見えるままを描くことができる。
 おかあさんの丸くておおきなおっぱい。細い腰。おしりのしっかりした丸さ。まげた膝。伸ばした足。足の裏。足の甲。みんな、それを見た瞬間の、見えたままの形を描く。それはほんとうに「見てはいけない」秘密の「リアリティ」かもしれない。ピカソは、それを自在に組み合わせる。
 ふつうはそんなことをすると「デッサン」がばらばらになる。「歪む」。
 ピカソの絵を、そんなふうに「歪んだデッサン」「狂ったデッサン」「子どもよりもへたくそな電算」と見るひともいるかもしれないが、私には「見えたまま」を描き、そのバランスがまったく正しいものに見える。「写真」のように「動き」を一瞬を切り取ったのではなく、「いのち」が動いている、その「動き」そのものを「動かして」描いているように見える。

 幼い子どもの描く絵は、「デッサン」が狂っているように見える。学校では「デッサン」を正確に描くこと(写真のように描くこと)が求められる。そのための「教育」もする。でも、あれは「見えたまま」描くというよりも、「こう描けば誰にでもわかる」という「形のととのえ方」の勉強であって、「見えたまま」を描くということではないと思う。
 ピカソの絵を見ると、特に、そう感じる。
 ピカソは、子どもが何かを見たときの「見える」驚きをそのままに描く。「見てはいけないもの」を見たときの驚きのまま描く子どもの力強さを、さらに突き進めて、「いのち」に高めている。子どもの絵の「稚拙さ」に似ているかもしれないが、子どもにはこんなに「強く」は「見たまま」を描けない。「動き」を「動かしながら」描くということはできない。
 そんなことを思った。

 絵の説明は20分以上つづいた。30分くらいあったかもしれない。
 最後に、ここにはいろいろな青がつかわれているが、それはどうやってつくり出すのか。「先生」は女の体の青い色を絵の具を実際にまぜてつくってみせた。びっくりしてしまった。えっ、こんなことまで、こんな子どもたちに教えるのか。色をまぜることで、他の色とのバランスがとれる。そう語っている。わかるかなあ。いまはわからなくてもいい。でも、きっといつか思い出すだろうなあ。
 ウィーンでクリムトの「接吻」を見たとき、ここでも偶然、子どもたちに絵の解説をしているところに出くわした。そのとき、子どもたちにほんものの「金箔」を手に取らせてみせているのに驚いたが、ヨーロッパでは、幼いときから「ほんもの」に触れさせ、ほんものについて真剣に語るのだ。(洋服の幾何学模様についても、そのハーモニーについて、真剣に説明していた。)
 ウィーンでも感心してしまったが、ここでも感心してしまった。

 アンティーブの「ピカソ美術館」には、ピカソがヴァロリスでつくった陶器の作品もある。皿にいろんな模様が描かれ、彩色されている。その形、皿を指でえぐって描いた線が、子どもの無邪気な強さを感じさせ、とても楽しい。

 さらに。
 この美術館は、ピカソがアトリエとしてつかっていた城。つかわせてもらったお礼に作品を残していって、それで「美術館」になったのだという。窓から地中海の青い海が見える。その透明な光を見て、さらにもう一度ピカソを見つめなおす。なんとなく、ピカソになった気分。








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滝口悠生「死んでいない者」

2016-02-12 09:04:59 | その他(音楽、小説etc)
滝口悠生「死んでいない者」(「文藝春秋」2016年03月号)

 滝口悠生「死んでいない者」も第 154回芥川賞受賞作。
 この小説は「文体」に凝っている。そして、凝っているだけではなく、ルール違反の文体である。だから、とても読みにくい。
 どこがルール違反か。 438ページ(文藝春秋)。

 たとえば故人は、あそこで重なった寿司桶の数を数えている吉美の父であり、その横で携帯電話を耳に当て、おそらくまだ実家にいる弟の保雄に数珠を持ってきてくれるように頼んでいる多恵の父でもある。もちろんその電話を受けている保雄や、彼らの兄にあたる喪主春寿の父でもある。故人には五人子がいた。

 えっ、五人? 私は読み間違えたのかと思い三度読み返した。家系図(?)までつくってみた。吉美、保雄、多恵、春寿。四人だ。吉美は何番目のこどもかわからないが、他の三人は上から春寿-多恵-保雄である。
 私は、冒頭にもどって、この文章までを二回読み直したが、春寿以外に固有名詞をもった人間は登場していない。
 どうしたって、子は四人である。
 それが 444ページ、故人に十人の孫がいると説明されたあとの文章、

 森夜と海朝は故人の末子の一日出の子だが、その名を目にし、いったいなんと読むのだったか親戚たちは何度聞いても覚えられない。
 
 突然「五人目」の子が登場する。
 ばかばかしくなった。
 「故人には五人子がいた」という文章を読んでいなければ、まだ許せる。「五人」と書いたときに四人しか紹介せずに何ページもたってから五人目を明らかにする。これは、読者をばかにしている。「故人には五人子がいた」を「伏線」と思えばいいのかもしれないが、こんな「目くらまし」みたいな手法で「文体」を飾ってみても「文学」にはならないだろう。
 最初に引用した文でも、「故人は……の父であり、……父でもある。……父でもある」と「父である」が何度も繰り返されたあと、「故人には五人子がいた」と書くのは、あまりにも「ことばの経済学」に反している。「父である」という繰り返しだけではなく、「故人」と「父」を言い直すという「無駄」もしている。
 その繰り返しのあいだに「寿司桶の数を数える」という動作と、「携帯電話をかける」「電話をうける」という動きがあり、その電話のなかに「数珠を持ってきてくれ」という依頼が侵入している。
 むやみに複雑にしている。
 映画に「群像劇」という手法がある。登場人物が大勢いて、それぞれが「過去」を抱えて「いま」を生きている。その「過去」が「いま」にさまざまな輝きを与え、特にストーリーといったものはないのだが、そこに「人生の縮図」が浮かび上がる、という作品。この小説も、そういうものを狙っているということは、わかる。「通夜」をとうして「群像劇」を描こうとしていることはわかるが、こんな「面倒くさい」文体では、「情報量が多い」というよりも「情報が整理されていない」という印象しか引き起こさない。
 人間を描かず、人間の周辺に「情報」をばらまくことで、ことばを間延びさせてるだけである。
 で、この「群像劇」をとおして、では滝口は何が書きたかったのか。ひとはたくさんいても、そのこころの動きは動きは似ている。人間は生まれて、生きて、死んでいくだけだから、こころだっていろいろ違うようでも似ていて、それを重ねることで「人生」そのものが見えるということだろう。
 そのために「親族」には入りきれない(?)ダニエルという外国人の夫、はっちゃんという故人の友達も「薬味」のようにしてつかわれ、それが「重なる人生/重なるこころの動き」を証明するのにつかわれているのだが、これが、何と言えばいいのか、あからさますぎる。
 はっちゃんが故人と敦賀に小旅行にいったときの思い出、というより、その思い出にまつわる思い出。( 490- 491ページ)

 敦賀に行ったのは、かの地に越した同級生の車田晴治が四十をすぎて所帯を持ち、子どもが生まれたその祝いに出向いたのだが、はっちゃんはまだそのことを思い出せない。車田は何年か前に死んだ。遠方ゆえ葬儀には行けず、弔電で済ませた。十は年下だったはずの美しい細君が今どうしているかは知らない。はっちゃんは今そのことを思い出さなければ、もう思い出さないかもしれない。だからといってもう誰も困りはしないだろうが。それに結局松原の浜まで歩いていって何がしたかったのかは今なお思い出せないままだ。
                             
 故人の孫にあたる知花が思い出す小学校の時の担任の思い出。( 492ページ)

いったいこのどうでもよいけれども無視はできない岩島先生のエピソードを、いつ誰に伝えればいいのか。別にそんなに誰かに伝えたいわけではないのだけれど、そのどうでもよさゆえにいつか誰かに伝えなければ、これもまた自分の記憶の彼方に忘れ去られて二度と掘り返せなくなるかもしれないと、思う端から岩島先生はどうでもよさに浸食されていく。自分もまた誰かのどうでもよい記憶としてどこかに存在していて、やがて忘れ去られるものと思われる。

 このページをあまり隔てずに繰り返される「どうでもよい思い出」「思い出さないと思い出でさえなくなるもの」「誰からも忘れ去られるもの」が「人間の一生」であることを、通夜に立ち合ったひとが、それぞれの思いで確かめるのだが、そのときのこころの動き(ことばの動き)があまりにも酷似しているので、これでは「群像劇」にならない。登場人物はけっきょく「ひとり」なのではないか、と思ってしまう。「ひとり(滝口)」の考えたことを複数の人間に分担して語らせているだけという気がしてくる。
 こんな面倒くさいことをせずに、「ひとり」だけを話者にして、もっと「語り」を充実させる方が深みが出るだろう。
 本谷有希子は「他人」をしっかりと描いた。「他人の声」を聞き取り、それを「他人の肉体」として書いたが、滝口は「他人」を描けていない。名前を入れ替えても、読者は奇妙に思わないだろう。

死んでいない者
滝口 悠生
文藝春秋
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本谷有希子「異類婚姻譚」

2016-02-11 09:53:23 | その他(音楽、小説etc)
本谷有希子「異類婚姻譚」(「文藝春秋」2016年03月号)

 本谷有希子「異類婚姻譚」は第 154回芥川賞受賞作。
 本谷有希子。どこかで読んだことのある名前だと思ったら、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の作者だった。芝居は見たことがないが、映画を見た。何の予備知識もなく見た映画だが、山が映った瞬間、その緑の色を見た瞬間、この緑は見たことがあると思ったら、舞台が石川県だった。北陸の緑である。どうりで見たことがあると感じたはずだ。私は北陸で生まれ育った。「肉体」にしみついている「色」というのは、抜けないものなのか、と思った。
 こういうことは、今回読んだ小説とは関係ないかもしれない。あるかもしれない。

 ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。
 誰に言われたのでもない。偶然、パソコンに溜まった写真を整理していて、ふと、そう思ったのである。まだ結婚していなかった五年前と、ここ最近の写真を見比べて、なんとなくそう感じただけで、どこがどういうふうにと説明できるほどでもない。が、見れば見るほど旦那が私に、私が旦那に近付いているようで、なんだか薄気味悪かった。

 これは書き出しの二段落だが、とも読みやすい。リズムが、とても読みやすい。どこかに「北陸」のリズムがあるのかもしれない。こういうことは、映画の山の緑を見て、この緑は見たことがあるぞと感じるのに似ていて、他人に説明しても、絶対に通じないことかもしれない。
 いや、読みやすいのは本谷の文体がこなれているからであって、本谷が「北陸」育ちとは関係がない、というのが正しいのだと思うけれど。むしろ、本谷が「戯曲」から出発したということの影響の方が大きいかもしれないけれど。
 「戯曲」は口語。その口語のリズムが小説にも反映していて、「頭」を刺戟する(考えさせる)というよりも、聞いた瞬間(耳に入ってきた瞬間)にイメージが浮かぶ(肉体の存在が感じられる)ということかもしれない。読み返さなくても、書かれていることが、わかる。それも「音」として「肉体」に入ってくる。
 声に出して呼んでみるとわかる。一度もつまずかずに、そのまま「朗読」できる。これ、なんて読む?とつまずく「漢字」が出て来ないし、「読点」の位置が、そのまま呼吸をととのえる。「肉体」に負担がかからない。(これは、「戯曲」であった場合、ほんとうに長所であるかどうかはわからないが……。つまり、不自然な「口語」にも独特のリズムがあって、それが芝居を活気づかせるということもあるかもしれない、という意味なのだが。)その結果(?)、この小説は、驚くほど早く読み通すことができる。私は目が悪くて、読むのに非常に時間がかかるのだが、この小説は一時間かけずに読んだ。
 この読みやすさに、私は驚いてしまった。
 しかし、この読みやすさを「北陸」育ちの共通性だけで言ってしまっては、本谷に申し訳ない。「戯曲」を書きつづけた「経験」、「戯曲」との関連でとらえた方がいいだろう。そういう部分をいくつか取り上げると……。
 旦那と顔が似てきたということを、弟のセンタに相談(?)する部分に、その特徴がとてもよくでている。二人の顔が似てきたのは「いつも二人でいるうちに、表情がお互いに似てきたとか。」と弟が指摘する。それに対して、では弟と彼女は?と主人公が問う。旦那と主人公の結婚は、弟と彼女の同棲期間よりも短い。弟と彼女の方が顔が似ていてもいいのではないか?

「同棲と結婚はやっぱり違うんじゃない?」
「違うって、何が?」
「なんやろう。密度とか?」

 このやりとりの「密度」ということばが「戯曲」作者(劇作家)ならではである。
 「芝居」というのは役者がでてきて、ことばをしゃべる。「小説」と違って、基本的に登場人物の「過去」を事前に説明することはない。登場した瞬間(いま)から「未来」へ向かって動くだけである。「過去」は、役者が自分の「肉体」で語るしかない。この「過去」を含んだ「肉体」の感じを「存在感」というのだが、語られることば(台詞)にリアリティーを与えるのは、役者の肉体である。声である。
 「密度」という抽象的なことばは、それだけでは「意味」を持たない。人間がそこにいて、その人間が見えるときに、あ、そういえばこの人はこういうことばのつかい方をするとわかっているときにのみ、「意味」がはっきりする。
 主人公(姉)と弟には、「共有」される「過去」がある。姉は弟のことをわかっている。弟も姉のことをわかっている。だから「密度」というような抽象的なことばが、そのまま二人の間で行き来する。
 「密度」ということばは、この場面では「抽象」ではなく、弟の「肉体」そのものとして浮かび上がっている。弟が、まさに、そこに動いている。その動きを姉(主人公)が実感していることをあらわしている。ここが、戯曲的。芝居的。
 そのあと、

 センタと写真の入ったフォルダを、カメラのイラストのある場所までドラッグするように指示した。
「これ、私苦手。すぐびよーんってなって、元の場所にもどっちゃうのよね。」
 案の定、二度ほどびよーんに苦戦したものの、どうにか写真をバックアップすることができた。

 この「びよーん」という表現も同じ。「びよーん」は主人公と弟のあいだで繰り返されたことばだろう。(また、パソコンをつかっているいる読者なら、この「びよーん」の意味するところは、「意味」ではなく肉体が立ち合っている現実、肉体感覚といっしょにつかみとれるだろう。役者の「肉体感覚」と観客の「肉体感覚」を重ねて動かすという芝居の特徴が、ここに反映されている。)直前の「ドラッグ」は「ずるずる」と言い直すことができるかもしれないが、会話(口語)ではないので「ドラッグ」のまま書かれる。しかし、口語(?)で「びよーん」と書かれてしまうと、次の描写では「びよーん」がそのままつかわれる。
 芝居でいう「役者の肉体/過去」が、そのまま物語に侵入し、ストーリーを「肉体」として動かしていく部分である。
 この「役者の肉体/登場人物の肉体」を活用しながら、ストーリーそのものにしていくという「手法」が、この小説を生き生きとさせている。ことばを読んでいるにもかかわらず、「抽象的な論理/思考」を追いかけているというよりも、生身の人間を「見ている」感じにさせる。
 「会話」というか、登場人物の「声」のつかい方がとてもうまいのだ。「声」をそのまま「肉体」にさせてしまうのだ。
 私がこの小説でいちばん感心したのは、主要人物ではない「おばさん」が出てくる部分。旦那が、ある家の前で痰を吐く。それを見咎めて、おばさんが、「あんたたち、どこに住んでるの?」「住所を教えなさい」「警察呼ぶから。」とか怒り出す。主人公はあわててハンカチを取り出し、旦那の吐いた痰をぬぐい取るのだが、それを見たおばさんが、

「よくやるね。」
 吐き捨てるような声だった。
 えっ。
「あんたの痰でもないのに。」

 うーん。「住所を教えなさい」「警察を呼ぶ」は「頭」で考え出せる状況かもしれないが、「よくやるね。」「あんたの痰でもないのに。」は、ほんとうに「おばさん」がそこに存在しないと出て来ないことばではないだろうか。本谷が「おばさん」になってしまわないと言えないことばではないだろうか。そして、その「なる」というのは、一瞬だけ「おばさん」になるのではなく、生まれて、結婚して、いまの「おばさん」という「過去」をもった人間である。独立した完全な個人。「他人」だ。
 ほかの登場人物はストーリーの展開にしたがって何度か出てくるが、この「おばさん」は一回きり、偶然、そこに登場する。しかし、偶然登場する人間であるけれど、そういう人間にも「過去」がある。その「過去」が「いま」、「よくやるね」ということばといっしょに噴出してきて、それがストーリーを動かしていく。ほかの登場人物を動かしていく。
 ここは、すごい。
 本谷は「他人の声」聞き、それを批判せずにそのままうけいれて「他人のことば」にすることができる。「他人の声」が本谷をつかんで放さないのかもしれない。まるでシェークスピアだ。
 この 389ページ(文藝春秋)から 392ページにかけての部分、特に 391ページの「よくやるね。」を中心とした数行を読むだけでも、この小説を読んだ価値がある。読む価値がある。本谷の力量に圧倒される。

 ラストは私はおもしろいとは思わなかった。キャンピングカーや猫、「山」が最後の部分の「伏線」になっている。でも、小説のおもしろさはストーリーの展開のスムーズさ(伏線の巧みさ)にあるのではなく、そこに出てくる「人間」のおもしろさにある。
 いちばんおもしろいのは、やっぱり「おばさん」だ。
 この「おばさん」だけは、この小説のメインストーリーの、互いの顔が似てくるということから逸脱している。誰にも似ない。完全な「個人/他人」をそのまま生きている。こういう人間を造形できるのはすばらしい才能だ。
異類婚姻譚
本谷有希子
講談社

*

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2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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