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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

しばらく休みます。

2015-12-11 09:16:42 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。(代筆)
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森田真生『数学する身体』

2015-11-15 20:48:05 | その他(音楽、小説etc)
森田真生『数学する身体』(思潮社、2015年10月15日発行)

 私は「数学」は小学生レベルのことしかできない。「算数」がせいぜいのところなので、森田真生『数学する身体』をは理解できたとは言えないのだが、とてもおもしろかった。
 最初に印象に残るのが『数学する身体』というタイトル。「数学する身体」とは何だろう。読むと、「身体」といっても外形のことでも、その組織構造のことでもない。「身体」の動き、動かし方についてを書いている。数学(算数)の初期に、指を折って数を数えるとか、鉛筆で数字を書いて計算するということから書きはじめられている。「身体」とは、ようするに「身体の運動」のことである。「身体」をどう動かして「数」を理解し、さらに「数学(算数)」として動かし、世界を理解する、ということが書かれている。「数学するとき、身体(脳を含む)はどう動いているか、それを身体に重点を置いて見つめなおす」というのがこの本の狙いだと思った。「脳/思考」という直接見えないものを「身体」の領域にまで取り戻し、考え直している本だと思った。
 「運動する身体」を私は自分なりに「誤読」して「肉体」と読み替えてみた。「動詞」とともにある「肉体」と考えてみた。「肉体」は「数学する」ときも動くだろうが、ほかのことをするときも動く。その動き(動詞)と結びついたものを「肉体」と読み直すことで、「数学する(という)運動」を、人間全体の「何かをする肉体」と思い、この本を読んだ。そうすると、この本は「哲学する身体(肉体)」という内容に変わる。「数学」を通って、「哲学(思考すること)」全体に通じる「身体(肉体)」の「運動」のことを書いてある本として読むことができる。
 人間の思考(哲学)と身体(肉体)は、どんな関係にあるか。「身体(肉体)」はどんなふうに動いて「思考(哲学)」になるのか。本の帯に、「論考はチューリング、岡潔のふたりにたどりつき、生成していく」と書いてある。森田の書いているところに従えば、チューリングと岡潔は正反対の方向に向かっている。
 そこに書かれている「思考するという運動」と「肉体」のことを、私風に読みおなせば……。
 チューリングは「脳(数学するという運動/動詞)」を「肉体」の外に具体化した。「肉体」を自分の「肉体」の外にまで拡張した。チューニングのつくり出した「コンピュータ」は彼にとっては「肉体」そのものであり、彼の「肉体」とつながっている。母親が自分のこどもの「肉体」とつながっている、と感じるときの、つながっていると同じものである。チューニングは「数学するという運動/動詞」を「肉体」として「生み出した」のである。その「肉体」はチューニングにとって「他者」ではない。他人からみれば「肉体」とは切り離された存在だが、彼にはそうではない。彼には「肉親(肉体)」である。
 一方、岡潔は、「他者」を「生み出す」のではなく、彼自身が自分という「枠」にこだわらず、それを壊し、「他者」として「生まれ変われる」と次元(領域)にまで自分自身の「肉体」を引き戻す。自分と他者の区別のないところ、自分にも他者にもなりうる次元(これを岡潔は「種」という比喩で語っている)にまで戻ることを試みている。そこまで戻れば、「種」は自然に芽を吹き、花を咲かせ、実る、という運動をする。数学をそういう運動(動詞)としてとらえている。岡が何かを生み出すのではない。数学が岡になって生まれる。あるいは岡潔が数学になって「生まれる」。
 チューリングは「生み出す」、岡潔は「生まれる」。岡潔はすでに生まれて生きているから、「生まれ変わる」と言い直した方が「論理的」かもしれないが、「実感」としては「生まれる」だろう。
 岡潔と芭蕉、道元についての考察が、岡潔の運動が「生み出す」ではなく「生まれる」であるということを強く感じさせる。私は「数学」は皆目わからないが、芭蕉は少しは読んだことがあるので、そう感じただけなのかもしれないが、岡潔が「情緒」の働きと呼んでいるもの(あるいは「共感」と呼んでいるもの)の働きは、まさに「生まれる」である。「秋深き隣は何をする人ぞ」という句についての説明部分。

そこにあるのは懐かしさである。秋も深まると、隣人が何をしているのだろうかと、懐かしくなる。芭蕉と他(ひと)との間に、こころが通い合う。その通い合う心が、情緒である。

 「懐かしさ」という「名詞」が「懐かしくなる」と言い直されている。そのときの「なる」が「生まれる」ということ。「懐かしくなる」は「懐かしい」という「形容詞/用言」が「なる」という「動詞/用言」によって、「動き」の部分が強調されたことばである。「変化」している。この変化が「生まれ変わる」ということにつながるのだが、「変わる」というのではなく、あくまで「なる」ということに目を向けなければならない。「種」が芽吹き、「花」に「なる」ように、岡潔は「懐かしい」と感じる人間に「なる」。新しく「生まれる」。
 このことを「心が通う」と森田は言い直しているのだが、ほんとうは芭蕉が「隣の人」に「なる」と私は読み直してみた。「通う」ではなく「なる」。(懐かしくなるの「なる」と同じもの。)
 「自他」の区別はなく「なる」。
 「自他」ということばをつかって、森田は岡潔の思いをさらに言い直している。

数学も、芭蕉のように歩むことはできないだろうか。/数学者は「数学的自然」を行く旅人である。そこで自他を対立させたまま周囲を眺めれば、数学的自然も所詮は頼りない。

 と、ここに「自他」ということばが出てくるのだが、「通う/通い合う」では「自他」がある。それを超えて「他者になる」。そのとき「自他」がなくなる。「ひとつ」に「なる」。
 こういう次元を、また別のことばで表現したのが道元だろう。「自他」、あるいは「過去/未来」「時間/空間」という区別にとらわれなければ、世界で起きていることはすべて自分(肉体)の動きである。あらゆるところに自分(道元は仏と言うだろうけれど)が存在し、その存在はまた自分(仏)である。そこでは「生成」がある。(道元は「現成する」と言うだろう。)それは動いていて、同時に動かない。
 これを森田は、次のように言い直している。

数学において人は、主客二分したまま対象に関心をよせるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。

 ここにも「数学になりきる」と「なる」が出てくる。「生成/現成」の「なる」である。「数学」から、そういう次元にまで考えをすすめるからこそ、岡は

根本的に新しい人間観、宇宙観を一から作り直すことが急務である。

 ということろへたどりつく。
 「数学する身体」は「生きる身体」の問題となる。つまり、生きていくこと、「思想」そのものにぶつかる。この変化というか、過程というか……それがおもしろい。それは単に岡潔の変化ではなく、そのまま森田の変化となっているところ(森田が岡潔になって、数学を超えて「思想」を語ってしまっているところ)がとてもおもしろい。
 ひとつ欲を言うと、途中で出てくる「ノイズ」と「リソース」の刺戟的な話題が、うまく岡潔の「発見」のなかに組み込まれていない感じがする。岡潔にとって芭蕉、道元が「ノイズ」のように働き、岡潔の「数学する(という)運動(肉体)」を活性化させたのだと私は勝手に想像する。「文学(ことば)」が「ノイズ」となって「リソース」を隠れた部分で動かしていると勝手に想像した。チューリング、岡潔にとって「ノイズ」は何であり、「リソース」と同関係したか、つまり「ノイズ」を取り払ってしまうとチューリングや岡潔の「数学」は結晶しなかったかもしれないというようなことを書いてくれると、もっと森田の「哲学」は刺戟的になると思った。
数学する身体
森田 真生
新潮社

*

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羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」

2015-08-08 09:45:14 | その他(音楽、小説etc)
羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」(「文藝春秋」2015年09月号)

 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」は第百五十三回芥川賞受賞作)。その書き出しの一行。

 カーテンと窓枠の間から漏れ入る明かりは白い。( 402ページ、「文藝春秋」)

 「漏れ入る」は「もれいる」か「もれはいる」か。よくわからないが和歌的、新古今的な描写が最近の芥川賞作品ではめずらしく、引き込まれた。
 しかし、

 掛け布団を頭までずり上げた健斗は、暗闇の中で大きなくしゃみをした。今年から、花粉症を発症した。六畳間のドアや通風口も閉めていたのに杉花粉は侵入し、身体に過剰な免疫反応を起こさせている。( 402ページ)

 ここで、私は違和感を感じた。「ずり上げる」という「動詞」が私の肉体としっくりしない。他人(健斗)の肉体の運動なのだから私の肉体としっくりこないのはあたりまえかもしれないが……。そのあとの「侵入し(する)」という動詞や、「身体に過剰な免疫反応を起こさせている。」という文のなかの漢字熟語、「起こさせている」という言い回しにもひっかかった。なぜ健斗を「主語」にしたまま書けないのかな?
 しばらく読み進むと「ロードノイズ」ということばが出てくる( 403ページ)。意味はわかるが、ここでも私はつまずいた。書き出しの新古今のような感覚とロードノイズという表現は異質の次元のものである。さらに「電源をオフにした」が出てくる( 404ページ)。「孝行孫たるポジション」( 408ページ)「フリータイムで入室後」( 409ページ)などの「カタカナ」にも、私は、つまずいた。私の世代と羽田、あるいは主人公の健斗の世代で「言語感覚」が違うだけなのかもしれないが、どうにもなじめない。
 なぜこんな文体なのかなあ、こういう文体でしか書けないことなのかなあと思いながら読み進み、 426ページ、

まっすぐにビルドできていることの快感だ。

 ここにタイトルの「スクラップ・アンド・ビルド」の「ビルド」が出てきて、羽田のやっていることが、やっとわかった。わざと「日本語的(古典的)」な文体とカタカナ語を衝突させているのである。なじまない「文体」を衝突させて、その亀裂から始まる世界を描いている。
 異質なものの衝突は、そのまま「ストーリー」にもなっていく。介護を必要とする肉体(老人)と介護をする肉体(健斗)の対立。精神(感情)関係というよりも「肉体」そのものの出合いと衝突がある。
 異質な肉体(異質な人)の出合いを描くというのが羽田のテーマなのかもしれない。そして、それを明確にするためにわざと異質なことばをつかうのである。奇妙な「文体」をつくるのである。
 「文体」とは「肉体」のことである。「肉体」とは「文体」と同じものなのである。
 とても明瞭な主張である。受賞のことばで、

“世間から求められる言葉を言わなくてもいい自由さ”があることをここで提示したい。

 と羽田は書いている。
 ここに書いている「言葉」を「文体」と言い直せば、羽田がこの小説でやっていることがわかる。いや、これでは、「わかりすぎる」ということになる。「わかりすぎる」は「つまらない」ということでもある。
 別なことばでいいなおすと……。
 「文体」における言語の選択は、筆者の自意識の問題である。羽田がこの小説で書いているのは、健斗の「自意識」であって、他者の意識は描かれていない。「ロードノイズ」というのは「描写」のように見えるが、単なる描写なら「路面の音(路面から聞こえてくる騒音)」でもいいのだが、そういう「日本語」として共有されることばでは「自意識」になりにくい。「自意識」であるまえに、冒頭の「白い」のように「古今的感覚」として日本語に吸収されてしまう。そこから健斗だけの「自意識の風景」を確立するためには「ロードノイズ」という面倒くさいカタカナ語が必要だったのだ。
 この方法論は、とても「わかりやすい」。「わかりやすい」だけに、とても安易でもある。異質なことば(カタカナ語)で「自意識」を浮き彫りにするという方法は、しかし、安易すぎないか。
 主人公は、また自分の肉体を改造(?)しているが、その変化を説明するのに、冒頭の「免疫反応」に類似する「学術用語(専門用語)」をつかっている。特別なことばで、自分だけの「世界」を強調する。安易だなあ。
 この方法が安易であるという証拠(?)として、逆の例をあげれば、それは老人のつかう「九州弁(?)」である。九州弁が老人の「自意識(個性)」である。老人の存在(肉体)そのものである。
 登場人物の書きわけを「ことばの音」だけで表現している。
 いちばん大切な主人公と脇役が、「肉体」ではなく、「ことばの音」で区別される。
 せっかく強靱な若者の肉体と、死んでゆくしかない老人の肉体が出合い、衝突しているのに、肉体のリアルさが描かれず、かわりにそれぞれがどういう「ことば」をつかって自分を語るかということしか表現されていない。
 人間が出会い、出合いをとおして変化していくというのが「小説」だと思うが、そういうものが描かれていない「自意識ごっこ」のように見える。


スクラップ・アンド・ビルド
羽田 圭介
文藝春秋
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しばらく休みます。

2015-08-04 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)



しばらく休みます。
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加藤典洋「「空気名投げ」のような教え 鶴見俊輔さんを悼む」

2015-07-29 00:16:45 | その他(音楽、小説etc)
加藤典洋「「空気名投げ」のような教え 鶴見俊輔さんを悼む」(毎日新聞、2015年07月28日夕刊)

 加藤典洋「「空気名投げ」のような教え 鶴見俊輔さんを悼む」の三段落目の文に、私は思わず涙がこぼれそうになった。

 鶴見さんには、三十㌢のものさしをもらった、と私は思っている。三十㌢のものさしがあれば、人は自分と世界のあいだの距離を測ることもできるし、地球と月のあいだの距離だって計測できる。行こうと思えば、月にも行けるのだ。

 私は鶴見俊輔の文章をそんなに多く読んでいるわけではない。ほとんど読んでいないといっていい。加藤典洋についていえば、私は、今回読むのが初めてだ。
 なぜこの文章に涙が出そうになったかというと、私が鶴見俊輔の文章から学んだことが、そのまま書かれていたからだ。
 加藤がどういう「意味」で「三十㌢のものさし」という「比喩」を書いたのかわからないが、私の考える「三十㌢のものさし」の「意味」は、「自分から離れないこと」である。「自分の手に触れているもの」を頼りにすることである。
 何かの「距離」を測るとき「三十㌢のものさし」では不便なことがある。自分の家と会社までの距離にしても「三十㌢のものさし」で測るとなるとたいへんである。何度も何度も印をつけないといけない。二キロを測れる紐状のものさしがあれば一回で測れるかもしれないが、「三十㌢のものさし」で印をつけながら数えていく(足し算をする)のでは、きっと間違える。まっすぐに測れずに「誤差」も大きくなる。正確に測れたかどうか知るためには、何度も何度も測って比較しないといけない。
 「誤差」が大きくならないようにするにはどうすればいいのか。たとえば長い紐を見つけてくる。紐の長さを「三十㌢のものさし」×10の長さ、つまり三㍍にする。それを利用すると「三十㌢のものさし」をつかったときよりは、早くて正確になる。さらに三十㍍の紐、三百㍍の紐という具合に工夫することもできる。「三十㌢のものさし」で三百㍍の紐を正確に測るのはなかなかむずかしいができないことではない。根気よくやれば、必ずできる。
 しかし、逆は、そういうことはできない。たとえば「二キロのものさし」があったと仮定して、それで机の大きさを測ることはできない。いや二キロのひもを見つけ出してきて、それを半分に、さらに半分に、また半分にと折ってゆき、小さな単位にして、それを利用すればいいといえるかもしれない。でも、最初に「二キロのものさし」をそのまま置くことができる「場所」の確保がむずかしい。
 大きい単位の物差しは大きいものを測るには都合がいいが、それで小さいものを測ることはできない。小さい単位のものさしは大きいものを測るには不便だが、測れないことはない。
 自分がいつもつかっているものをつかって、ものごとにどう向き合っていくか。それを工夫するのはおもしろい。面倒くさいけれど、楽しい。自分のつかっていない道具をつかってものごとと向き合うのは、まあ、楽なときもあるかもしれないが、楽は楽しいとは限らない。楽をすると、自分を見失ってしまうだけである。

 ものとものとの距離ではなく、ひととひととの間(ま)を測る、あるいは関係を築くときは、なおさらそういうことが大切になる。大きい観念(概念)ではなく、いつもつかっていることばで会話しながら近づいていく。触れあう。
 自分のものではないことば(世界のとらえ方、ものさし)はつかわない。

 私は詩の感想や映画の感想を書いている。小説の感想もときどき書いている。文章を書くとき、自分のことばではないことば(流通している「外国の思想のことば」)を借りてきて書くと、書きたいことが楽に書けることがある。私が考えようとして考えられないことを、その流行のことばが代弁してくれる。自分で考えた以上のことを語ってくれる。見た目もなんとなくかっこいい文章になる。
 でも、身の回りにある(三十㌢の範囲にある)ことば、体験したことば、肉体で掴み取ることのできることばで書こうとすると、だらだらと、まだるっこしいものになる。間違いもする。書きたいと思っていたことが、どんどん遠くなり、違ったことを書いてしまったりする。
 でも、それが楽しい。書きながら、あ、私はまたここでつまずくのかと思いながら、こりもせずに倒れてしまう。倒れると痛い。痛いけれど、なんとなく安心する。また大地が受け止めてくれた、という感じかな。そこから立ち上がって、引き返し、またこつこつと「三十㌢のものさし」でことばを積み重ねていく。
 たどりつけなくてもいい。歩きつづけることができればいい。知らないあいだに曲がってしまい、もとに戻ってきたっていい。




言い残しておくこと
鶴見俊輔
作品社
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フィレンツェとローマの旅(2)

2015-06-28 23:48:23 | その他(音楽、小説etc)
フィレンツェとローマの旅(2)

 ローマではシスティナ礼拝堂とボルゲーゼ美術館を訪ねるのが目的だった。20年前は修復中で「最後の審判」は見ることができなかった。
 システィナの絵については和辻がたくさん描いてあるのにごちゃごちゃした感じがしない。ローマの分割統治の感覚が生きているのだろう、というようなことを書いているが、その和辻のことばをそのまま実感した。「最後の審判」自体いくつかの群像に分かれている。群像と群像のあいだに青い空がある。それがごちゃごちゃした感じを消している。
 群像の重なり具合も、重なりながらも随所で何人かが浮き出ている。その浮き出ている人間が、その群像を統治している(代表している)感じがする。ただ群像が動いているというよりも、中心人物が群像の感情を濃密に凝縮して動いている。群像がひとりの人間の肉体全体だと仮定すると、浮き出ている人間は「顔」である。「顔」は「顔」だけでも表情があるが、背後に無意識に動く手足や胴といった肉体があるからこそ、表情が生きる。そういう緊密さで群像が統一されている。
 周辺の絵もそれぞれが礼拝堂の骨格がつくる区画のなかで完了している。区画の一つ一つが、その絵の登場人物によってしっかりと統治されている。天上の真ん中に、アダムの指に神が指で触れようとする、あの絵がある。その絵を見るとき、その絵のなかにしっかりと視線が閉じ込められる。周囲の絵が気にならない。これは不思議な体験だった。
 絵と絵を区切るアーチの骨格に絡み付くように描かれた絵も、それ自体として完了している。その場を離れない。これが「分割統治」と和辻が呼んだものか、とあらためて思った。
 これは写真や図録では、やはりわからない。礼拝堂のなかにはいり、回り全体を見まわし、それから「最後の審判」に向き合うとき、ひしひしと感じるものである。「最後の審判」を見ているときは、天上のアダムや周辺のいくつもの絵は見えない。見えないけれど、肉体がそれをおぼえていて、見えないのにその存在を感じる。そして、それがただ雑然と存在するというのではなく、区画後とに完了しながら整然と存在している。その整然は「孤立」ともまた違い、どこかでつながっている。その強い力を感じる。
 一連のフレスコ画をミケランジェロは13年かけて完成させたというのだが、あまりの濃密さに、よく13年間で完成させることができたものだと感動する。

 
 ブルゲーゼ美術館にはベルニーニの彫刻がある。「プロセルピナの略奪」はなんとしても見たいと思っていた。男が女を略奪し、連れ去ろうとする。女が抵抗する。そのときの葛藤が、女の肌に男の指が食い込む形で表現されている。大理石なのに、女の肌(肉体)のやわらかさがくっきりと表現されている。
 しかし、その印象は写真で見て感じていたものであって、実際に見てみると印象が違った。たしかに女の肉体のやわらかさはわかる。だが、奇妙だ。逃れようとするときの肉体の力が伝わってこない。男の手が女の肉体を引き寄せるのを受けいれている、という感じがする。なんとしてもそこから逃れようとする力、男からだけでなく、男にとらえられている女自身の肉体からも逃げようとする女の「真剣さ」(内部の感情/意思)を感じることができない。
 あまりにも滑らかすぎる。形は正確だが、感情は正確に表現されていない、と思ってしまう。技巧的すぎる、と思う。
 ここでまた思い出してしまうのが和辻のことばである。和辻はギリシャ彫刻を批評して、人間の内部の力をあらわしている、と書いている。肉体の内部からあふれてくる力のことである。「プロセルピナの略奪」にもどって言えば、そこには女の、略奪から逃れようとする力が欠けている。和辻のことばの正確さ、感覚の正直さを、あらためて思う。
 前回書き忘れたが、アカデミア美術館の「ダビデ像」。あの巨大な青年像は、写真で見るときよりも私には痩せて見えた。しかし、それは内部の力が外形を引き締めているというよりも、内部の力が外部に動き出していないからだと思う。皮膚を突き破って動いてくるものがない。

 ボルゲーゼにはラファエロやボッティチェリなどの有名な絵画も多いが、私はどうも嗜好が「ルネッサンス絵画」向きではない。見ていて、わくわくしない。色も形も、私の好みにあわない。短時間で多くの作品を見すぎたために感覚が麻痺しているのかもしれないが。
 ルネッサンスは「肉体の再発見」とも言われるが、私には、ルネッサンスの肉体は外形的には肉体だが、どうもピンとこない。肉体を刺戟してこない。これはある程度予測していたことではあったのだが、それを実感できたのはよかったと思う。好きではないものがある、と肉体でわかることは大切だ。私は美術評論家ではないから、自分の好き嫌いしか言わない。
 また、今回の旅の目的は美術作品に触れることよりも、和辻のことばを本の外へひっぱり出して味わってみることにあったのだから、和辻の指摘の正確さを実感できたのはとてもよかった。和辻がイタリアを訪問したのは90年前である。その時代に、自分の肉眼でことばを動かして対象に迫るその力にあらためて感動した。自分の肉眼を動かすことだけが重要なのだ。写真で想像していたものを実際の作品を見て、眼の記憶を修正する。「肉体」そのものを修正する。それは、やはり楽しい。記憶と肉体を、ことばでととのえなおす。これほど楽しいことはない。
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フィレンツェ、ローマの旅(1)

2015-06-26 23:07:55 | その他(音楽、小説etc)
フィレンツェ、ローマの旅(1)

 私は和辻哲郎の文章が大好きである。和辻の見たものを自分の眼でも見てみたい。そう思ってフィレンツェとローマにある絵を訪ねた。「イタリア古寺巡礼」の一部を追いかけてみた。写真(本/図録)と和辻の文章をとおして知っていると思い込んでいるものを、自分の眼で見て修正する(自分のことばにしてみる)旅である。

 「受胎告知」は多くの画家によって描かれている。フィレンツェで見ることかできる作品では、レオナルド・ダビンチの作品とフラ・アンジェリコの作品が有名だと思う。私はまずウフィツィ美術館でダビンチを見て、そのあとでサン・マルコ美術館でアンジェリコを見た。
 ダビンチの絵は私にはあまりおもしろくなかった。ウフィツィにある無数の作品のなかで印象が弱められてしまったのかもしれない。しかし、マリアの表情(驚き)が指に表現されていて、そこに肉体がある、と感じた。右手の指先に力が入っている感じがなまなましい。左手の驚きで力がぬけた感じとの対比のなかに、人間の肉体のなかで動いている感情の不思議さを感じた。驚き、放心し、一方で何かにすがろうとするかのように肉体が動いている感じが、指の変化のなかにあらわれている。
 ガブリエルの翼の描き方も、奇妙に印象に残る。肩から、翼の曲がり角にかけての部分が非常に強い。鳥の翼はこんなにたくましかったか。よく思い出せないが、私の鳥の翼の記憶とはかなり違う。
 このあとアンジェリコを見た。アンジェリコには「受胎告知とマギの礼拝」(テンペラ?)と「受胎告知」(フレスコ)のふたつがある。「受胎告知とマギの礼拝」の天使の翼の描き方について和辻は「不自然さ」を指摘している。「形はあまり感心ができない」と。
 私はまったく逆に感じてしまった。カラフルな色彩とやさしい形に、あ、これが天使かと思ってしまった。肉体を感じない。ダビンチの作品では天使さえも人間の肉体の重さをもっていて、それを持ち上げ、飛ぶには強靱な翼が必要だと感じる。しかしアンジェリコの作品では天使なのだから人間ではない、もっと身軽だ。だから翼も「飾り」でいいのだ、と納得させる。
 マリアは右手を下に、左手を上にして体を押さえている。自分の肉体のなかで起きている変化を手で確かめようとしている。けれども、そんなに肉体を感じさせない。むしろ眼の輝きに肉体を感じる。肉体の内部で動いているものが視線になってあらわれている。
 喜びは天使の翼の色彩の変化のなかにある。マリアが驚き、とまどっているのに対し、天使の肉体(?)のなかからは喜びがあふれてきて、それが翼の色彩の変化として表現されているように感じた。手の組み合わせ方が、マリアとは逆に左手が下、右手が上になっている。ふたりが向き合うと胸像のように左右対称になる。それが「世界」をしっかり固定させる感じだ。
 その一方で、二人のあいだには柱があって、それが絵を見る側からすると、人間の世界と天使の世界を分断しているようにも見える。間に柱がないダビンチの方が連続感がある。(「受胎告知とマギの礼拝」の方にはさえぎるものがない。)しかし、この分断が、なぜか「清潔」に感じられる。「分断」があるからこそ「真実」という感じがする。「柱」を超えて、天使とマリアを一体のものとしてつかみとるとき、そこに「真実」が実現するといえばいいのか。
 処女が神の子を受胎する(妊娠する)というのは、どう考えても条理を超えている。間違っている。しかし、間違っているからこそ、そこに真実(信実?)がある。信じることで「間違い」を「ほんとう(真実)」にしてしまうとき、その「信じる」のなかで何かが変わる。「真実」が「肉体(信実)」になる。真剣にそれを追い求めている。私は宗教というものを信じていない(「精神」とか「魂」も存在するとは考えていない。方便として、そのことばはつかうけれど……)のだが、この真剣さが「宗教画」というものか、と感じた。
 これに比較すると、ダビンチの方は「宗教」というよりも、もっと「人間的(肉体的)」であるように思える。

 サン・マルコには、「受胎告知」のほかに、それぞれの個室の壁にフラスコ画が描かれている。これが、またたいへん美しい。色彩に陰影があるが、余分な混ざり気がない。壁の白をそのまま生かしている。余白(?)が「個人」というものを浮かび上がらせる。精神を感じさせる。「受胎告知」とは別の美しさである。特に回廊を曲がる寸前から始まる十字架のキリスト(磔刑のキリスト)とひとりの僧が向き合ったシリーズがすばらしい。血を流すキリストの、その血の色が強靱で、血の色を初めて美しいと感じた。それは「肉体」の真実なのだが、同時に「肉体」を超えるものの象徴のようにも感じた。

 アカデミア美術館にあるダビンチの「ダビデ像」は人が多すぎて、何か作品を見ている感じがしない。集中できない。

 それにしてもフィレンツェには見るものが多すぎる。ウフィツィだけで、頭がくらくらしてしまう。写真で知っているものを肉眼で修正するにはとても二日、三日では時間が足りない。どうしても「記憶」の方に引き返して安心してしまう。「あ、これがボッティチェリのヴィーナスの誕生か、春か。これが和辻の指摘していた草花の細部か……」という具合である。自分のことばにする余裕がない。さらに絵の前を通りすぎる人や、写真を撮るひとの姿にも疲れてしまう。
 サン・マルコはなぜか人が少なく、静かだったことも、アンジェリコの絵をすばらしいと感じた要因かもしれない。
 
 ドゥオーモは全体像の美しさを把握するのがなかなかむずかしいが、ヴェッキオ宮殿の塔から見ると姿がよくわかる。ドゥオーモとジョットの鐘楼に登るよりも、ヴェッキオ宮殿へ行くことをお勧めしたい。

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小野正嗣「九年前の祈り」

2015-02-11 21:22:29 | その他(音楽、小説etc)
小野正嗣「九年前の祈り」(「文藝春秋」2015年03月号)

 小野正嗣「九年前の祈り」は第百五十二回芥川賞受賞作。
  420ページ(「文藝春秋」03月号のページ)まで読んできて、小野が書きたいのは「詩」なのかと思った。ある瞬間に人間の本質のようなものが人間から分離して、いままでとは違った人間に見えてくる--その瞬間を描きたいのか、と思った。

窓を背にしたみっちゃん姉のすぐ後ろに悲しみが立っていた。それはみっちゃん姉のそばにずっといたのだけれど、日の光の下では見えなかったのだ。悲しみはいま薄暗がりのなかで初めてその姿を現わし、みっちゃん姉の肩を優しくさすっていた。しかし悲しみが行なうそんな慰めの仕草は、さすられる者とそれに気づいてしまった者の心の痛みを増すだけだった。

 「悲しみ」を人格化している。「現代詩」なら、もう少し「悲しみ」を整理して、文体を凝縮させるが、小説なのでその手間を省いているような、ラフな感じがする。
 「悲しみが立っていた」は初めて登場する文章なので、それでいい。次の「悲しみはいま薄暗がりのなかで初めてその姿を現わし」は「立っていた」の言い直し。人は大事なことはくりかえす。くりかえすことで、それが「事実」になっていく。ここも、書かなければならない理由がある。しかし、そのあとの「しかし悲しみが行なうそんな慰めの仕草は」という文章はどうだろうか。作者が「悲しみ」ということばに酔ってしまっている。詩ではなくなっている。「悲しみ」が「主語」から「歌」のリフレインになってしまっている。
 ここで、私は、最初につまずいた。もう一度同じことを別な形でくりかえすために、わざとラフに書いているの加登も思った。
 そして、小説の最後( 447ページ)で、私はがっかりしてしまった。

 いま悲しみはさなえのなかになかった。それはさなえの背後に立っていた。振り返ったところで日の光の下では見えないのはわかっている悲しみが身じろぎするのを感じた。それは身をかがめると、さなえの手の上にその手を重ね、愛撫するようにさすった。

  420ページの「悲しみ」がくりかえされている。そっくりそのまま。まるで歌謡曲のさびのメロディーのように、少しだけ変奏されて。これでは小説ではない。詩でもない。「歌」でしかない。歌謡曲、ど演歌だ。(演歌が悪いというわけではないのだが。)
 起きたことを「歌」にして、反復し、伝えたいというのならそれはそれでいいかのもしれないが、「悲しみ」の安売りのようで、こんなふうに作者一人が酔ってしまっているのではなあ、とげんなりする。結末が小説を壊してしまっている。
  425ページの「子供っちゅうもんは泣くもんじゃ。」から「みっちゃん姉が希敏を連れていってくれた。」を経て 426ページ「みっちゃん姉が連れ去ってくれたのだ。」の反復までのように凝縮した部分もあるが、たいていはリフレインが目障りである。反復によって、その反復されるものの「本質」を明確にしたいということはわかるが、反復が反復のままでは、小説のおもしろさに欠ける。
 結論(?)がこんな具合に、あからさまな反復の形で閉じられると、小説の構造があまりにもあらわになって、興ざめしてしまう。現在(子供をかかえてふるさとに帰って来て、母のふるさとである島へ行くという小さな旅)と過去(カナダへみっちゃん姉たちと旅行した旅)、そのなかで「手をつなぐ/手をはなさない」が反復されるが、それは「伏線」というよりも、「既視感」の方が強くなる。「結論」がはじめにあって、それをことばで飾っているという印象になってしまう。
 そのために、せっかく方言をつかって生活感あふれるおばさん集団を描きながら、そのおばさんたちから「個性」が消えてしまう。(おばさんのカナダ旅行、カナダ旅行のおばさんの行動はとてもおもしろいのに、それが「歌」の「枠」に乗っ取られてしまっている。)さらに主人公に影響を与えたはずの男たちの描写の「手抜き」も気になる。「悲しみ」のリフレインの邪魔をしないように、非常に弱い調子でしか描かれていない。具体的に見えてこない。いちばん重要な希敏が何度も「引きちぎられたミミズ」と簡単に反復されるのも、信じられない。もっと、そのときそのときの個別の「泣き叫び」を書かないと、希敏がかわいそうすぎる。ストーリーの「狂言回し」になってしまっている。母親がたいへんなのはわかるが、子供だってたいへんなのに、と言いたくなってしまう。



 小野のふるさとの描写では、

二つの島は、陸地を振り切って大海原に飛び出そうとしているように見えた。逃がしてたまるものかといくつもの岬が、たがいの邪魔をしながら、島々に執拗に追いすがり伸びていく--( 391ページ)

このむさくるしい男が誰だか知らないが、男のほうは明らかにさなえを知っていた。さなえがカナダ人と結婚したことも、そのカナダ人とのあいたに男の子が生まれたことも、そしてさなえがカナダ人に捨てられ、男の子を連れて実家に戻ってきたこともすでに知っていた。( 402ページ) 
 
 が簡潔で印象に残った。風景描写の人格化と、集落のひとの生き方が濃密に交差し、溶け合っている。



 作品ではないのだが、受賞のことばの「三歳年上の兄、史敬(ふみたか)が昨年十月亡くなりました。」という文章の「亡くなる」という動詞のつかい方に、私は違和感をおぼえた。こういうとき「亡くなる」というのだろうか。「死んだ」ではないのだろうか。「亡くなる」なら「史敬」ではなく「史敬さん」と敬称をつけそうなものだけれど……。

九年前の祈り
小野 正嗣
講談社
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又吉直樹「火花」

2015-01-27 12:10:45 | その他(音楽、小説etc)
又吉直樹「火花」(「文学界」2015年02月号)

 「天才芸人の輝きと挫折/満を持して放つデビュー中篇!」という触れ込み。「文学界」増刷して4万部の発行とか。私はテレビを見ないので、又吉直樹がどういう芸人なのかまったく知らない。書店でみつけて、やっと立ち読み。

 大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。
    (10ページ、私は目が悪いので転写ミスが多い。原文で確認してください。)

 書き出しである。文章が古くさい。「道は……踏ませながら」という日本語らしくない言い回し(昔の翻訳小説みたいな言い回し)が気に食わない。読むのをやめようかな。でも、雑誌で4万部の小説を書き出しだけで、つまらないからやめた、というのもいいかげんすぎるかなあ。どうせなら、ここも嫌い、あこも嫌いと書き並べてみようかな、と思って読みはじめた。
 すると、おもしろい。「僕」は芸人の「神谷さん」と知り合い、師とあおいで、ときどきいっしょに行動する。そのことが延々と語られる。ときどき「部屋を舞う埃が朝日に照らされ光っているのを眺めていた」というような「小説らしい」描写をはさみながら、漫才のオーディションの様子、漫才に対する「哲学」が語られる。その部分は「真剣」があらわれていて、とてもおもしろい。「真剣」というのは、どういときでも、そこにいる人間が「正直」に動くので、ついついひきつけられてしまう。ひきつけられるけれど、それで「わかる」のかと言われれば、まあ、わからないのだけれど、わからなくてもかまわない。作者も、読者がわかるかわからないかを気にしていない。気にしているかもしれないけれど、その読者への配慮を超えて、「真剣」が出てしまう。そこに、魅力がある。
 これは「僕」自身の「神谷さん」への「感想」とも重なる。

 神谷さんと一緒に吉祥寺の街を歩くのは不思議な感覚だった。神谷さんは、なぜ秋は憂鬱な気配を孕んでいるかということについて己の見解を熱心に聞かせてくれた。昔は人間も動物も同様に冬を越えるのは命懸けだった。多くの生物が冬の間に死んだ。その名残で冬の入り口に対する恐怖があるということだった。その説明は理に適うかもしれないが、一年を通して慢性的に憂鬱な状態にある僕は話の導入部分から上手く入っていくことが出来なかった。(21ページ)

 「熱心」とは「真剣(正直)」の別の言い方だろう。自分の思っていること、考えていることに対して真剣になる。そのとき、ひとは、その真剣についていけないときがある。ただし真剣はわかる。感じる。
 ここに出てくる「熱心」が、どの部分にも満ちている。「熱心」がことばを動かしている。
 この「熱心」の対極にある態度は、どういうものか。「神谷さん」に語らせている。

「聞いたことあるから、自分は知っているからという理由だけで、その考え方を平凡なものとして否定するのってどうなんやろ? これは、あくまでも否定されるのが嫌ということではなくて、自分がそういう物差しで生きていっていいのかどうかという話やねんけどな」(23ページ)

 「物差し」の構え方。自分の「熱心(正直)」から発したものではない「物差し」は個人にとって有効か。そういうことを、ふたりは考えている。
 ここから「ことば」に対する「哲学」が語られる。

神谷さんが面白いと思うことは、神谷さんが未だ発していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕したもののみだ。(63ページ)

神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。その世界は孤独かもしれないけれど、その寂寥は自分を鼓舞もしてくれるだろう。(63ページ)

 「僕」は「神谷さん」を通して「漫才のことばの理想」と出会っている。ことばを動かす情熱と出会っている。その出会いを、この小説は真剣に書いている。

神谷さんから僕が学んだことは、「自分らしく生きる」という、居酒屋の便所にはってある様な単純な言葉の、血の通った激情の実践だった。(72ページ)

「漫才はな、(略)共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、まわりと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されるわけやろ。こう壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴らの存在って、絶対無駄じゃないねん。(略)一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。」(72ページ)

 こういう「激情」の「真剣」の美しさの一方、静かな美しさもある。私がいちばん好きなのは、「僕」が「神谷さん」と一緒に「真樹さん」のアパートへ「神谷さん」の荷物を取りにいくところ。「真樹さん」は「神谷さん」の恋人だった。けれどあたらしい恋人ができて、二人は別れることになる。新しい男のいるアパートへ行って、必要な衣服をまとめて、アパートを去る。そのときの男の様子は「いつも神谷さんが座っていた場所に、作業服を着た男が座っていた。(略)胡座をかき再放送のドラマを眺めて泰然とはしているが、静かに殺気だっていた」と短く書かれているだけなのだが、「再放送のドラマ」という具体的なことばで「時間(その男の過去)」が明確に浮かび上がってくる。一瞬しかとを登場しない人物の描写にも手抜きがない。そういう描写のあと、

もう二度と、このアパートに来ることはないだろう。上石神井に来ることもないかもしれない。この風景を大切にしようと思った。(52ページ)

 私は、ここで涙が出そうになった。「この風景を大切にしようと思った。」の「この風景」は、「僕」にしかわからない。でも「大切にしようと思った」の「大切」は、それを越えて伝わってくる。他人にとってはどうでもいい風景。けれど、あるとき、ある瞬間、そこで「おきたこと」と一緒にある。それは「大切」にするしかない。
 又吉は「大切」を書いている。
 「激情」「熱心」が動かす「哲学」は何度も語られているが、「大切」がそれを支えている。又吉は「大切」を書いたのだ。こんなふうに「大切」を描いた小説を、私は、最近読んだことがない。

文學界 2015年 2月号 (文学界)
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文藝春秋

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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神山睦美、野村喜和夫、文月悠光「その先にある、詩の希望」

2014-12-02 12:11:23 | その他(音楽、小説etc)
神山睦美、野村喜和夫、文月悠光「その先にある、詩の希望」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 神山睦美、野村喜和夫、文月悠光が鼎談している。そのなかで、とても気になることばがあった。池井昌樹の『冠雪富士』について語っている部分。神山睦美が、

行分け詩はいいのですが、散文詩がちょっと異色かなと感じます。でも池井さんは思想のような場所とは違うところで書いているから、それはそれでいいのかなと。

 「思想のような場所とは違うところ」とは何だろう。「思想」とは何だろう。
 神山はポストモダンとかハイデガーとかパウンドとかデリダとかツェランとかアンナ・ハーレントとか、膨大な人名を出して語っているが、そういう「西洋の思想」を指してのみ「思想」と呼んでいるのだろうか。
 私は「思想」をもたない人間はいない、と考えている。「肉体」と「思想」は同じものであって、人間が「肉体」であるかぎり、生きているひとはみな「思想」を具体化している。ことばは「思想」そのものであると感じている。
 たとえばフーテンの寅さんは「それを言っちゃあ、おしめぇよ」とよく口にするが、それは寅さんの思想である。だから、それに共感する人もいる。
 ひとは誰でも幸福になりたいと思っている。みんなが幸福になるためにはどうすればいいのだろうと思っている。みんなが幸福になるということを願わない「思想」なんか、ない。すべてのことばが「思想」である。
 自分が信じている「思想」以外を「思想」から排除するのは、どういうものなのだろう。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ
でんわのむこうでいなかのははが
むすこはははのとなりにすわり
それはきれいなおつきさま
かたをならべてみあげていたが              (「手の鳴るほうへ」)

 これは美しい月をいっしょに見る幸福の描写。詩は、これだけで終わるわけではないが、こういうことを「幸福」と思うのは「思想」である。母といっしょに童心に返って美しい月を見て放心するという幸福を、神山は知らないのだろうか。そういう瞬間を幸福と呼ぶ「思想」を知らないのだろうか。
 神山はアンナ・ハーレントを引用しながら「共苦」ということばをつかっている。こんパッション、苦しみにどう共感するか、ということを問題にしている。いま引用した部分には「苦しみの共感」が描かれていないから、「思想」ではないというのだろうか。
 でも、「かたをならべてみあげていたが」の「が」に注目するなら、池井は楽しい一瞬だけを描いているわけではないことがわかる。母と楽しい時間を共有できない悲しさ、苦しさをも書いている。

そんなうそならもうたくさん
としおいたははおきざりにして
むすこはこんやものんだくれ
ホームのベンチでよいつぶれ
ゆめみごこちできいている

 ここにひとりの人間が生きて苦悩していると感じないのだろうか。それは「共感」に値しない苦しみ、「思想」とは無関係な「苦しみ」なのだろうか。
 あるいは、

あいついまごろゆめんなか
そうおもってははたらいた
 つめたいあめのあけがたに
 あせみずたらすまよなかに
あいついまごろゆめんなか
そうおもったらはたらけた                      (「夢中)

 これは息子のことを思いながら働く姿。そこには「苦しさ」はないか。苦しみながら、それでも息子のことを思う喜びはないか。そういうふうに働く親には「思想」はないのか。
 行分け詩ではなく、散文詩が問題だというのだろうか。「雲の祭日」はどうか。突然電話が通じなくなった息子を心配して、アパートまで妻といっしょに行ってみる。元気に顔を見せた息子に、心配したと言えずに一万円渡して、元気になるものを食えという。その帰り道。

                一万円は痛かったな。いいよ、
それくらい。夕闇の籠め始めた帰路、バスに乗ればよいものを、私
も妻も何か高揚して歩道を歩んだ。子がいてくれるのは、いいな。
うん。そしてまた黙って歩いた。遠くを台風が過ぎるらしい夕映え
の終わりの空には様々な姿した雲が様々に姿変えつつ流れ、だんだ
ん涼しくなってきた。背中の汗、すごいよ。妻が囁いた。ヒトのこ
と、言えるか。私は応えた。肩を並べて初めての帰路だったが、家
にはまだ、まだ遠いのだ。

 ここに書かれている安心と情けないような喜び。これは「思想」ではないのか。

 だいたい「共苦(コンパッション)」と、どういうことなのか。
 私は、キリスト教徒でもないし、聖書も読んだことはないが、映画や小説で聞きかじった範囲で言えば、このことばはキリスト教(あるいはユダヤ教)と深い関係がある。キリストは人間の苦しみを背負うことで人間を浄化した。苦しみによる浄化という考えと結びついた発想だと思う。
 神山がキリスト教徒ならそれでもいい。日本がヨーロッパのようにキリスト教を基本にした国なら(多くの人がキリスト教になじんでいるなら)、まだ「共苦」ということばもわからないではない。
 でも、日本人の多くは、キリストの苦しみによる人間の浄化などという考えを自分の「肉体」として感じているだろうか。身近にそういう人間を見ているだろうか。
 私は無宗教だが(宗教に自分の生き方を結びつけてきたことはないが)、私の母などは、自分ではどうしようもできないことが起きたとき、仏壇の前で「なんまいだ、なんまいだ」と繰り返していた。これは「他力本願」と言えばいいのか、浄土真宗そのもの。自分の苦しみは仏様が助けてくれる。仏様に何とかして、と祈る。母は何か勘違いしているかもしれないが、まあ、そこには「共苦」というような考えはないなあ。「共苦」も「コンパッション」ということばも、わけがわからないだろうなあ。でも、母に「思想」がなかった、とは私は思ったことがない。

 さらに、倉橋健一の『唐辛子になった赤ん坊」について、

デリダやツェランの文脈とは違いますが、(略)キルケゴール的なものをもってきながら考えている。いずれにしても、到達点にそうした生贄や犠牲のようなものがやってきた。(略)最後までデリダやツェランみたいなところに、倉橋さんなりの視線で到達していく。

 と語る。なぜ、「デリダやツェランみたいなところに」「到達」しないといけないのか。どこへ到達したっていいだろう。倉橋は「デリダやツェランの文脈」(ヨーロッパの文脈)を生きているのだろうか。
 私は倉橋のことを知らないからわからないけれど、倉橋はヨーロッパで育ったのだろうか。その宗教風土を生きてきたのだろうか。ぜんぜん違うところで生きてきたのに、「デリダやツェランみたいなところに」「到達」してしまったなら、それはどこかで何かを間違えていないだろうか。ぜんぜん違う暮らしを生きてきながら「デリダやツェランみたいなところに」「到達」したら、それは変じゃないだろうか。

 また、野村は八木忠栄の『雪、おんおん』について、次のように語る。

死者も生者も不分明に溶け合って作り出される、明るい土俗ともいうべき時空が展開し、終わりなき青春に勝るとも劣らない不思議なエネルギーをはなっているです。

 これって、「思想」を評価している? 「思想」として評価している?
 私は「思想」として評価していると読んだのだが、神山は、この「思想」に対してはどう思っているのかわからない。「デリダやツェランみたいなところに」「到達」している? していないなら、それを評価するときの基準は?
 それにしても……。
 「思想」と「土俗」か。妙だねえ。
 わからないことは、いろいろあるのだけれど、まあ、私の母の「なんまいだ、なんまいだ」も「土俗」の類なんだろうなあ。母は詩など書かないし、本も読みはしないが、それでも「思想」はある。暮らし(田舎の、土まみれの生活)のなかで見聞きして身に着けた考えがある。「土俗」というより土がついている「土着」、土地にへばりついている「土着」かもしれないが。

 しかし、わけがわからないなあ、と感じるのは、なぜ神山は「デリダやツェランみたいなところ」を、ヨーロッパを「基準」にして日本の詩を考えるのだろう。
 たとえばキリスト教と同じ一神教のイスラム教には「共苦」というようなことばがあるんだろうか。私は「コーラン」も読んだことはないから知らないが、映画なんかで見る限りイスラム教徒には「共苦」が世界を浄化するという考え方はないなあ。
 あ、ここでイスラム教を突然出したのは、実は、理由がある。
 ときどき日本の詩を問題にして、それを批評しているのに、まったく違う文脈の発言が「評価」の基準として動いているを見ることがある。たとえばだれそれの詩を評価するのに、井筒俊彦の哲学を持ち出して、誰それの詩は井筒哲学と合致する、ゆえに誰それの詩は世界レベルである云々……。変だよねえ。そんなに井筒俊彦の書いていることと詩が関係するなら(あるいは井筒俊彦に詳しいなら)、こういう鼎談のときにイスラム教の視点から見るとというような発言があってもいいのになあ、と思う。
 あるいは孔子を引用して「論語」から見ると、とか、中南米の思想からいうととか、アフリカの経済的視点から見るととかね。
 ヨーロッパ中心の哲学ヒエラルキーで日本の詩を読んで、そこから何が出てくるのだろうか。

現代詩手帖 2014年 12月号 [雑誌]
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伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』

2014-09-16 09:42:36 | その他(音楽、小説etc)
伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』(岩波書店、2014年07月30日発行)

 伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』はタイトル通りの本である。
 安倍の経済政策がどんなふうに間違っているかということを、数値やさまざまな分析(伊東以外の人の分析を含む)を整理して、とてもわかりやすく書いている。経済政策だけではなく、外交、さらには本人の「資質」そのものをも批判している。
 その文章のなかに、経済だけではなく、ことばの問題(人間の生き方の問題)がすばやく差し挟まれているところがあり、それが「知識(頭)」をととのえてくれると同時に、なにか、「肉体」になじむ。「そのとおり」と言いたくなる。私は伊東の文章が大好きだが、それは鋭い分析と同時に、人間の生き方を感じさせるものがあるからだ。
 たとえば、「労働政策」を批判した文章。「非正規雇用」について触れた部分。

 怒りをおぼえるのは、社会が多様化し”多様な生き方を求める”時代になったと言い、そのことが非正規に働く人がふえている原因だと言う厚生労働省の人がいることである。( 107ページ)

 ものの見方、社会のとらえ方はさまざまである。しかし、それは最初から「さまざま」ではない。どんな「言い方」をするかで「さまざま」が違ってくる。
 たとえば非正規雇用労働者がふえているのは、賃金を安く抑え経営負担を軽くするためであるという「言い方」ができる。一方、そういう経営者の狙いを隠して、逆に「会社に勤務時間をしばられて働くことよりも、時には残業をしなければならないというような仕事を嫌い、自分で労働する時間をフレキシブルに決定して自由時間を活用することを好む若者が増えているからだ」ということもできる。
 「言う」(ことばにすること)で、社会の見え方が違ってくる。
 こういうことを伊東は「厚生労働省の人」が「言っている(本文は「言う」)」と書くことで明確にしている。これはとても大事なことだ。ひとは、ことばによって、なにかを隠す。「意味」をつたえるとともに、なにかを隠す。
 それが問題だ。
 ここでは伊東は「怒りをおぼえるのは」と感情を率直に語っているが、この「怒り」が随所に見える。伊東は「怒り」ながら、「アベノミクス」が、その「美しいことば」で何を隠しているかを具体的に、つまり事実を指摘するだけではなく、同時に、「ことばの問題(どんなふうに嘘をついているか)」としても取り上げている。正しいことばの動き方とはどうあるべきか、という問題を取り上げている。
 昔のことばで言えば「道」の問題である。「どの道」を歩くか。どう歩くか。
 そこが重要である。
 先の「非正規雇用」についての文章の前には、次の文章もある。人が、何を、どう言うか(何を隠し、何を伝えるか)の具体例である。「道」の具体例である。

 ある地方の話である。経済団体の会合で、東京から招かれた経済同友会系の実業家が講演し、派遣社員を活用したことにより、不況での対応が可能になった等の話をし、別の経営者が、学校に申し込んで新卒者をとるのではなく、いったん派遣会社を通じて大学卒を雇うことの利点を述べたという。そこにいた公立大学の学長が、たまらず発言を求めた。こうしたことが、新卒者の地位を下げ、若年者の非正規雇用の比率を高めているのである。( 106ページ)

 実業家は「非正規雇用」を活用し人件費を抑えることができたと語り、別の経営者は「非正規雇用」を推進する方法を披露している。大学に求人情報を出すのではなく、派遣会社に求人情報を出す。「正規雇用」を最初から除外するのである。
 こういう「事実」(ことばの操作、情報の操作)を、大学の新卒者はどれだけ知っているだろうか。知らされているだろうか。
 情報はいつでも「公開」されると同時に「隠される(操作される)」ものなのだ。

 「ことば」とは「考え方(思想/生き方)」の問題でもある。「安倍政権が狙うもの」という章のなかでは、次のように書く。

 安倍内閣はグローバル時代に即した人材をつくるための教育振興を推し進めるという。国際化のための教育は英語の重視だけではない。何をどのように考える人間なのか、それが最も重要であり、領土教育で互いに口論し殴り合う若者をつくるのが国際化に即する教育であるはずがない。( 125ページ)

 「何をどのように考える人間なのか」。これは、そのままこの本(伊東)の姿勢でもある。安倍政策の何をどのように考えるか。それは「知識」ではない。ことばを動かし、確かめることである。「道」であり、「実践」である。
 --と、ここまで書いてきて、私は、なぜ伊東の文章が好きなのか、わかった。「どのように考えるか」ということがいつも明確に書かれているからだ。何をどのように実践するか、が明確に書かれている。実践は常に「肉体」によって具体化される。「肉体」が動くのが「実践」である。
 そして、この「どのように」に眼を向けるとき、伊東の「思想(肉体)」を特徴づけることばがあることにも気づく。「道」のつくり方を特徴づけることばがあることに気がつく。「思想」の根本を明確にすることばがあることに気づく。
 「領土問題」に触れた部分。

橋本内閣の池田外務大臣が(尖閣列島を)日本の領土であると言っても矛盾はないかもしれないと外務省は主張するだろう。しかし、中国側の主張を並べ二四年前の決着に言及しないのは、公平ではない。( 133ページ)

 「公平」。これが伊東の「思想」の中心にあると思う。経済に関しては、人が働き、金を稼ぎ、日々を暮らす。そのとき、富はどのように分配されるのが「公平」なのか。その「公平」のためには何をすればいいのか。何を「どのように」考えていけば、「公平」が実現されるのか。安倍のやろうとしていることは「公平」からどれだけ遠いことなのか--そういう指摘を伊東はしている。また外交については、他者の主張をどれだけ聞き入れ、自分の考えと共存させるか、共存のためにはどんなふうに考えをととのえるべきなのか--そういう問題を、歴史を踏まえながら(先人の「道」のつけ方を辿りながら語っている。
 伊東の文章には、私はいつも目を開かれるが、それは「公平」をめざす姿勢にゆるぎがないからだ。

 (私のきょうの「日記」は本の「内容(概要)」の紹介にはなっていないが、伊東のしている分析の紹介はすでに多くの人がしていると思うので、あえて書かなかった。伊東の何を私が信頼しているか、ということを書いてみた。)




アベノミクス批判――四本の矢を折る
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岩波書店

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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映画館へ行こう

2014-09-11 00:52:09 | その他(音楽、小説etc)
facebookに「映画館へ行こう」というグループを作りました。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
映画館で見た映画の感想、批評のページ。
★(金返せ)★★(暇なら)★★★(普通)★★★★(お勧め)★★★★★(傑作)で採点してください。
なお上映映画館(見た映画館/見た日付)を必ず明記してください。(リバイバル、企画上映もOK。DVD、TVは不可)
辛口の批評、採点をお待ちしています。

(このブログよりは、コメントや読者との交流が簡単にできます。)
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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」へのレビュー

2014-09-07 10:05:22 | その他(音楽、小説etc)
アマゾンに「谷川俊太郎の『こころ』を読む」のレビューがアップされています。
筆者は下呂のイクローさん、タイトルは「詩の「感想」(実況中継)がもう一つの詩になっている, 2014/9/4」。
URLは、
http://www.amazon.co.jp/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BF%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E3%80%8E%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E8%B0%B7%E5%86%85-%E4%BF%AE%E4%B8%89/product-reviews/4783716943/ref=dpx_acr_txt?showViewpoints=1

ぜひお読み下さい。

なお、アマゾンではなかなか本が講読できない状態です。
書店にもあまり出回っていません。
講読希望の方は谷内修三までメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお届け先の住所と氏名をお知らせ下さい。
定価1800円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。(振込に費用がかかるため、書店経由と料金的にはあまりかわりません。割引にはなりませんが……。)
ご要望があれば、「○○○○様+谷内修三+日付」の署名をして発送します。宛て名、日付をメールに書いてください。
「リッツォス詩選集」(作品社、中井久夫との共著)も定価4400円(税抜き、郵送料無料)で取り次ぎます。
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小池昌代『たまもの』

2014-08-31 10:18:27 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『たまもの』(講談社、2014年06月26日発行)

 小池昌代『たまもの』を読みながら、あ、ことばが楽になってきたなあ、と感じた。私は、それほどていねいに小池昌代を読んできているわけではないので印象批評になってしまうが、何かをことばで追い詰めていくという感じから、ことばをその場その場で動かして、それが動くがままにしている、という感じがする。この小説では。
 昔つきあったことのある男を思い出す部分。(62ページ)

 なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ。--「閑吟集」の世捨て人はそう言った。狂わずして、なんの人生か。とはいえ、あいつはくずだった。くずに狂った、わたしもくずだ。女というものは、過去なんか引きずらないものだと言うひとがいて、いや違う。わたしも女だが、厚手の絨毯のようなそれを、ずるずる引きずっている。執念深い。けれど最近、そういうものが、ようやくひとつひとつ、ぷつりぷつりと切れてきた。
 さよなら、くず、さよなら、かこ。

 「閑吟集」を引きながら、「狂う」ことについて思いめぐらしている。
 「女というものは、過去なんか引きずらないものだ」という観念的なことばがある。「観念的」というのは、まあ、頭ではわからないことはないが、私の実感とは違うということである。
 「厚手の絨毯のような」のような「過去」をもった個性的なことばがある。そうか、この小説の女は「過去を厚手の絨毯のようにずるずると引きずっている」と感じているのか。いつか「厚手の絨毯」を引きずったことを「肉体」が覚えていてい、それがことばになって動いているのか。私は厚手の絨毯を引きずったことはないが、「ずるずる」という重い感覚が「肉体」を刺戟してくる。わからないと言ってしまいたいが、この「ずるずる」が強烈である。「実感」として、わかってしまう。私の思い出ではないのに。
 その、観念と個性(実感)のあいだで、うーんとうなっていると、改行して、

 さよなら、くず、さよなら、かこ。

 ぱっと、ことばが飛躍する。「いま」がぱっと過去を振り捨てる。「過去」が「かこ」とひらがなになって「意味」を捨て、音、音楽になった飛び散る。
 「閑吟集」の「狂う」から「過去」へ、「過去」から「厚手の絨毯を引きずる」への動きには、なにか粘着力を感じさせる「接続」があるのだが、「ぷつりぷつりと切れてきた」から、この「さよなら、くず、……」のあいだには、「接続」ではなく「断絶」がある。いや、それはたしかにつづいているのだが、つづき方が「粘着力」とは別の力である。「接続」ということばをつかって「断絶」を言いなおすと、それまで書いてきたことを「踏み切り台」にして飛躍するということになる。「踏み切り台」は、それまでのことばと地続きである。けれど、踏み切り台を踏んでしまうと、体が宙に浮く。飛躍する。そういう感じの「断絶」がある。「かこ」というひらがな、音になったことばがそれを強調する。
 で、この「断絶(飛躍)」が、「さよなら、くず、……」で終わらない。

 神輿はだんだん遠くなる。遠くなる。そしてだんだん透きとおる。どこまでいくのか、見届けようとして、眼をあけると、わたしはひとり。雨だった。雨の音は、遠いところをゆく、神輿の音に似ている。

 ここは、散文というより、詩である。
 ことばが「過去」を振り捨てて、「いま」という時間の中で、「いま」そのものを耕している。楽しんでいる。感覚が解放され(敏感になり)、それまで見えなかった「いま」が、永遠になってあらわれている。
 「永遠」と思わず書いてしまうのは、それが「いま」なのに、「過去/かこ」のようにも見えるからである。時間が「透きとお」って、「いま」「かこ」「みらい」がなくなるのかもしれない。「時間」を区切って見せる「観念(?)」が消えて、感覚が新しく生まれてくる。生まれて、動いていく感じ。

 こういうことばの変化が、この小説には随所にある。
 何かの具体的な、リアリティーのある描写が、ことばにすることで、別のことばを呼び寄せ観念的になる。「小説」から「随想(エッセイ)」かのようになる。そう思っていたら、それがぱっとはじけて「詩」になる。
 ことばが「固定化」していない。一つの運動法則に従っていない。
 これは、乱れというものかも知れないが、私は、この変化をとてもおもしろいと感じた。軽くていいなあ、と感じた。
 そして。
 私はここから飛躍して「感覚の意見」を書いてしまうのだが……。
 あ、これが「いま」の小説のスタイルなのか、とも思った。私は小説は「芥川賞受賞作」くらいしか読まないが、最近の「芥川賞」の小説はへたくそな現代詩のまねごとのように見えて仕方がなかった。それは、そうか、いま小説は小池の書いているような詩を含んだ文体をめざしているのか、とようやくわかったような気持ちになった。
 詩から出発しているだけに、小池の方が、そういう「文体」にははるかに長けている。なるほどなあ。こんなふうにして小池は詩をいかしているのか。
 さて、次の作品では、この文体はどんな具合に変化するかな、--そういう期待をさせる小説である。

たまもの
小池 昌代
講談社
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柴崎友香「春の庭」

2014-08-11 09:05:14 | その他(音楽、小説etc)
柴崎友香「春の庭」(「文藝春秋」2014年09月号)

 柴崎友香「春の庭」は第 151回芥川賞受賞作。
 一読して、長すぎると思った。長く感じるのは、小説のなかで登場人物が変化していかないからである。最初と終わりでは人間がかわってしまうというのが小説にかぎらず、あらゆる読み物(ことばでできた作品)の醍醐味なのだが、この小説では人間はまったくかわらない。だから、これは小説ではない。
 悪いことに、柴崎友香は、これを小手先の「手法」でごまかしている。「変化」がないのに「変化」を装っている。
 方法はふたつある。
 ひとつは、登場人物を複数登場させ、瞬間瞬間に「視線」を変えてみせる。「太郎」が見ている世界、女が見ている世界、「太郎」の姉(わたし)の見ている世界、という具合である。
 ふたつめは、「女」を「辰」に、さらに「西」へと「呼び方」を変えていくこと。「呼び方」を変えずに、その人間がどんなふうに見え方が変わってきたかを書くのが小説(太郎にとって女がどんなふうにかわり、その結果として自分がどんなふうに変わったかを書くのが小説)なのに、柴崎は呼び名(認識)が女→辰→西と変わっていくことが「太郎」の変化(女との関係の変化)と簡便に語ってしまう。(食べられなかった手作りの菓子を食べられるようになったという具体的変化のようなものもあるが、それは「女」の力によるものではなく、別の登場人物の登場による変化である。)
 女→辰→西というのは「記号」の変化に過ぎない。「記号」に頼って本質を書かないというところに、この作品のつまらなさが象徴的にあらわれている。
 柴崎が「記号」頼みで作品を動かしている欠点は、書き出しの3段落目で象徴的な形であらわれている。

アパートは、上からみると”「”の形になっている。

 だれが上から見たのか--ということは、それはそれで別の問題なのだが、このカギ括弧(話括弧)を「記号」の「形」のまま使っているのは、ことばの経済学からいうと合理的だが、これでは「文学」ではない。ことばになりにくい(ことばにしてこなかった)ものを、ことばで書くというのが文学の仕事を放棄している。(村上龍がこの問題を選評で指摘している。)
 アパートは二階建てで、それぞれの階に四室ずつある。三室は横に並んでいるが端の一室は直角にまがる形ではみ出している、など、いくらでも言い方はありそうだ。それをしないで”「”の形と省略している。文学は「意味」がわかればいい、というものではない。
 「女」の「呼称」の変化も、この「記号」と同じ性質なのである。
 「太郎」と「女」が交流を続けていくうちに、「女」は「女」から「辰」へ、「辰」から「西」へと個人の名前に変化していくように、印象が変わっていくと言えば、それで小説の「説明」、ストーリーの概略を語る補助線ができたような気持ちにさせるところが、小説としてはとてもくだらない。「太郎」にとって「女」がどんなふうに見え、その結果どんなふうに「太郎」が代わっていったのか、語りたくてしようがなくなる--というのがすぐれた小説である。私はそういう気持ちにはなれない。呼称が変わったと要約してしまえば、すべてが終わる。

 この小説は「人間」を描いているのではなく、「街」の変化を描いている。「街(家)」と人間の関係の変化である--という見方もあるかもしれない。たしかに、この小説のテーマは、次の部分に要約されている。

 空き家があるときは停止していた時間が、動いていた。家の中に誰もいなかった一週間前と、建物自体はまったく同じなのに、その場所の気配や色合いが一変していた。人がその中で生活しているというだけで、急に、家自体が生き返ったみたいだった。
                                ( 400ページ)

 これは女(西)の感想なのだが、「場所の気配や色合いが一変していた」では、「記号」にすぎない。「気配」がどう変わったか、「色合い」がどう変わったか、変わったということばを使わずに、具体的に比較してみせないと小説にはならない。いちばん肝心なところを「気配」「色合い」という「流通言語(記号)」で代用している。
 柴崎は、「気配」「色合い」の前にカーテンや自転車、三輪車などを書くことで変化を書いていると主張するかもしれないが、それを「気配」「色合い」という「抽象的言語」で要約し直してしまえば、何の意味も持たないだろう。
 だいたい、流し読みしただけで、ここが小説のハイライト、柴崎の「思想」のあらわれているところと、指摘できるようなものは「小説」ではなく、「概略」というものだろう。味もそっけもない。
 家の変化も過去に出版された写真集との比較という図式的で、それがわかりやすいといえばいえるが、なんとも図式的でばかばかしい。「過去(しかも、その過去にはだれも関与してこない不動のもの)」と「いま」の比較すれば違いがあるのはあたりまえ。「いま」の刻々と変わっていくもの、まだことばになりきれないもの、ことばになろうとするものを書いていくのが小説というものだろう。書きにくい部分を柴崎は全部省略し、「記号」化できるものを「記号」にしているだけである。
 小説というより、小説の「設計図」だね。

 ところで。
 この小説は、そういう欠点とは別に、非常に「巧み」な部分を持っている。ところどころに空白があって、その空白をはさんで「場面」が転換するのだが、その空白の直前の行が、とてもうまい。

 太郎は、足のかゆみに気づいた。この夏はじめて蚊に刺された。
                                (407 ページ)
 部屋に戻ると冷蔵庫が、どるるん、と音を立てた。
                                (412 ページ)

 具体的な事実があって、それが「余韻」となって作品をふくらませる。こういう文章を、それぞれの断章(?)の終わりにではなく、真ん中に書いていけば、「気配」とか「色合い」という「記号」で要約する必要がなくなるのだが。
 柴崎は、しかし、そういうことをしないで、かならず「最後」でそういう「余韻」の見得を切る。
 これは、私の印象では、長篇小説の手法である。たとえば「ボバリー夫人」(岩波文庫、伊吹武彦訳)から、少し引用すると、

年寄りの女中が出て挨拶し、夕食の支度のできていない詫びをいった。そして支度ができるまで、奥様はお家のなかをご見分なさいましとすすめた。
                                 (50ページ)
そしてエンマは「至福」とか「陶酔」とか、物の本で読んだ時あれほど美しく思われた言葉を、世間のひとはどんな意味に使っているのかを知ろうとした。
                                 (55ページ)

 その「つづき」があるはずなのに、つづきを書かずに中断する。そして別の場面へ変わっていく。「中断」された何事かを読者は自分で引き受けて、いつ終わるかわからない「物語」の中を動きつづける。長篇小説は、そういう「中断」があるからこそ、読みつづけられる。「中断」がないと、息が続かない。
 けれど短編は一気に読ませるものである。途中途中の「中断」に、書き切れなかった「変化」をこめてはいけない。
 なんだか、とても「ずるい」小説を読んだ気持ちになる。

 しかし、こんな、誰が(どの選考委員)が積極的に押したのかわからないような作品が「芥川賞」でいいのだろうか。(高樹のぶ子がいちばん押しているのかな?)私は眼が悪いので、最近は「芥川賞」受賞作くらいしか小説を読んでいないが、何かくらい気持ちになってしまう。



春の庭
柴崎 友香
文藝春秋

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社
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