
ピカソ展ルードヴィヒ・コレクション(佐賀県立美術館、2016年06月14日)
ピカソ展ルードヴィヒ・コレクションで私がいちばん気に入ったのは「鶴」(ブロンズ)である。
ガス管(ガス栓)とショベルとフォークを組み合わせて立体にしている。ガス栓のねじの部分を鶴の鶏冠にして、ショベルは胴と翼(ショベルの土を救う部分を半分に切って形を変えている)、フォークは足だ。
この作品には、ピカソのデッサンのスピードがくっきりとあらわれている。何を最初に見て、それが「鶴」に見えたのかわからないが、どれが最初であっても、それが鶴の「肉体」の一部に見えたとき、他のものがぱっとそのまわりに集まってきて、一気に形なる。いつも見ていた何かが、突然、違って見えてしまう。ガス栓のねじが鶴の鶏冠に見えたとき、ショベルが翼になってみつかる。フォークは足になってやってくる。
「材料」を変形させるのではなく、「材料」がそのまま「形」になっていくのが「見える」のだ。「材料」が隠している「形」が見えてしまう。違う形になりたがっている、その「もの」の欲望が見える。それを、そのまま後押しする。「材料」のなかから「形」があらわれてくるのを手助けしているという感じかもしれない。「材料」そのものがもっている力を、そのまま引き出すから、「加工」に手間がかからない。あっというまに作品になってしまう。実際にどれくらいの時間をかけてつくったものかわからないけれど、「一瞬」にしてつくったという感じがする。
ピカソの何かを「見てしまう」視力には試行錯誤というものがない。ピカソの視力には迷いというものがない。
そのスピードに、私の視力はのみ込まれてしまう。そこにあるのは「鶴」ではない。しかしし、ピカソの「鶴として見てしまう」スピードにひきずられ、「鶴」にしか見えなくなる。「これは何かなあ、鶴かなあ、ガス管かなあ」などと考えている「時間」がない。ボルトが百メートルを九秒台で走るのを見ているとき、ただそのスピードの美しさに感動して十秒を忘れるのに似ている。いや、それ以上。その作品にピカソがどれだけ時間をかけたのか、そんなことは「思いもしない」。「一瞬」にして完成したと感じてしまうのである。
そして、何と言うのだろう、そこにある「不自由」をたたき壊していく「自由」の力も、そのときに感じるのだ。ガス管もショベルもフォークも、完成された形。(あるいは、それらはつかわれなくなった不良品かもしれないのだが。)その「完成されたもの」を縛っている既成の力を破壊し、もう一度エネルギーを与えなおし、「自由」へ向かって解放する力というものを感じる。「革命」というとおおげさかもしれないが、これから何がおきるのかわからない、何が起きてもかまわない、すでにあるものを違うものに変えていくのは楽しい、という無邪気な喜びがある。喜びの、はかりしれないスピードがある。
陶器作品では「頬づえをついている顔の水差し」がおもしろい。水差しの形ができて、それからそれに絵を描いたのか、頬づえをついている女を描きたくて、その水差しをつくったのか、わからない。きっと、同時に思いついたのだろう。この「同時」というのがピカソのデッサンのスピードである。あらゆることが「同時」なのだ。この壷には、横を向いている顔と正面の顔が組みあわさっているが、それはひとりの女のなかで「同時」におきることである。女は頬づえをついたまま正面を見ているとしても、その顔には同時に横顔がある。立体のなかで、それが自然に融合している。「複数」の時間を「同時」につかまえてしまうのだ。
「接吻」も好きな絵だ。男が女にキスをしている。キスをしながら体をまさぐっている。女は「やめて」というように、その手を拒んでいる。男は、女の顔を見つめながらキスをする一方、「同時」に、女の手を「そんなことするなよ、触らせろよ」という感じで見ながら手に力をこめている。ひとは「同時」にいくつものことをする。そして、それは「いくつものこと」でありながら「ひとつ」。キスは単に唇をあわせること、舌をからめることではない。そのとき「味わっている」のは唇の感触だけではない。「ひとつ」のことをしながら「同時」に「複数」のことを感じ、動いている。この「交錯する感じ/交錯する肉体の動き」を一瞬にしてとらえてしまうピカソのデッサンのスピードが、とても楽しい。快感である。笑い出したくなる。
「読書する女の頭部」は、わかりやすい作品といえるだろう。左半分には光があたっている。右半分は影になっている。その影になった部分、うつむいた睫毛は、読んでいる本をすこし離れている。「活字」を追っているのではなく、ストーリーを追っているのではなく、そこで動いている「感情」に共感しているように見える。「読みながら共感する」というのは誰にでもおきること。それは「同時」に起きているのだが、「同時」ではあっても少し「時差」がある。この「時差」というか「ゆらぎ」を多くの画家は「ひとつの表情」にしてしまうのだが、ピカソの筆のスピードは「ひとつ」を「解体」し、もういちど「統合」する。いや、統合という「おとな」っぽい行為ではないかもしれないなあ。「解体」によって生まれたものをぶつけ合う。そのときの衝突、その衝撃を楽しんでいるといった方がいいのかも。何だって作り上げるときよりも、それをたたき壊すときの方がはるかに楽しい。ここまで壊すことができる、という喜び。壊すことではじめて見えてくる「秘密」のようなものが楽しいし、こわれたものをさらにぶつけて「形」ですらなくしてしまう。そこに「生まれてくるもの」は何? わからない。「知らないもの」が生まれてくる喜び。それは意外と「肉体が知っている」ものだったという、不思議な「安心感」もあるかもしれない。そういうものすべてが「同時」に、そして「一瞬」よりもはるかに短い時間の内に起きてしまうのがピカソなのだ。