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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「その手に触れるまで」(★★★★★)

2020-07-08 15:43:01 | 映画
ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「その手に触れるまで」(★★★★★)

監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 出演 イディル・ベン・アディ

 非常に見づらい映画である。特に私のように視力の弱い人間は、船に酔ったような感じになる。画面が揺れるのだ。そしてその揺れは、たとえば「仁義なき戦い」のような手持ちカメラが走り回る揺れではなく、ふつうの映画なら固定して撮るシーンで揺れるのだ。たとえば少年がイスラムの礼拝をする。その肉体を追うようにしてカメラが動く。カメラを固定しておいて、その「フレーム(枠)」のなかで少年がひざまずき、体を投げ出すという動きを撮った方が、観客には少年の動きがわかりやすい。しかし、カメラは固定されていない。どこに「視点」を定めて動いているのかもつかみにくい。ただ、少年に密着するように動いているということだけがわかる。これが私の知っている少年(人間)ならば、こういうとらえ方をしていても「不安」にも「気持ち悪い」という状態にもならない。知っている人だったら、本の少しの肉体の動き、手や指の動きだけでも、何かを感じる。でも、始めてみる人間、知らない人間の動きを、こんなふうに撮られて、それを見せつけられても困惑する。少年のことは何も知らないのに……と思ってしまうのである。細部の動きから、少年の「内面」を感じ取れと言われても、そんなものはわかるはずがない。しかし、そのわかるはずがないものを、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督は、「わかってやれ」と押しつけてくる。いや、そうではなくて、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督も少年がわからずに、ただわかりたいと思い、そばにいつづけるだけなのかもしれない。
 この「そばにいる」(いっしょにいる)という感覚が「気持ち悪い」までに濃厚になるシーンが、少年が出席している「放課後講座」である。あるときアラビア語(?)を歌をとおして教えるのはいいことか、コーランに反することがというテーマにした話しあいが開かれる。子どもたちの両親も参加している。そこで何人かが発言する。その何人かをカメラは発言者が変わるたびにずるずるっと動いて捕らえる。一人ずつをカメラを切り換えて映し出すわけではない。そうすると発言者と発言者のあいだにいる人までカメラに映ってしまう。もし、そこに私がいたら(つまり「肉眼」でそういう場を目撃したら)、私は発言者と発言者の「あいだ」の人々を意識から省略して発言者だけを見つめる。見ていても「脳」のなかで見なかったことにする。ところが、カメラにはそういう「省略」ができない。そこにいる人を全部映し出す。不必要な(?)人も「つながり」のなかに入ってきて、その「つながりのなさ」があるにもかかわらず、そこにいるということが非常に気持ち悪い感じで目眩を引き起こすのだ。人がそばにいること、個人が個人では存在しないことというのは、ある意味で「気持ち悪い」ことなのだ。私たちは(私だけか)、たぶん、人がいても「いない」という処理をして、日常を生きている。
 この映画の主人公は、しかし、その「そばにだれかがいるけれど、それはいない」という「処理」ができない。自分とは違う考えの人がいる、ということを受け入れることができない。そばにいていいのは、自分と同じ考えの人間だけだ。世界は自分と同じ考えの人間で構成されていなければいけない。そう思っている。そして、その少年の意識が私に乗り移っているから、放課後講座の討論会が「気持ち悪い」ものとして肉体に迫ってくるのだ。そして、ここから考え直すと、この映画のカメラは「少年」そのものなのだ。「少年」の見ている世界を「少年」が見たまま、再現しているのだ。
 手を洗い、口をすすぎ、身を清めるシーンが何度も出てくるが、その時の映像に少年の顔が入り込んでいたとしても、それは「客観」ではなく、少年が見た「主観」からの世界である。手を洗うシーンでは、手しか映らないから、そのことがよくわかる。少年は真剣に「手」の汚れが落ちていくのを見ているのだ。
 少年に触れていいのは、そして少年が触れていいのは、少年と同じ「清らか」な存在でなければいけない。少年と同じように「神」と一体になろうとしている人間でなくてはならない。それ以外の人間は、「いてはいけない」。共存など、ありえない。少年と違う考え(違う神を信じる)人間は、いてはいけない。もしいっしょにいたいなら、同じ考え(同じ神)を持つべきだ。
 これを象徴するのが、少女との恋である。少女は少年に触れる。キスをする。そのとき少年は少女にイスラム教徒になれと迫る。それができないなら、いっしょにいることはできないと突き放す。
 さて。
 ここで、私は悩む。
 この少年に、私はどこまで付き合いつづけることができる。少年が何を考えているかわからない。頭では「狂信的」なイスラム教徒になっている、ということは理解できるが、だんだん、少年は狂信的なイスラム教徒なのだと頭で処理することで、こころと肉体が少年から離れて言っていること気がつく。つまり、「冷淡」な気持ちでストーリーを追うことになる。「結末はどうなるの?」と思ってしまう。
 と、突然、思いがけない「できごと」が起きる。
 少年は、放課後教室の女性の先生を「背信教徒」と思っている。なんといっても、先生の新しい恋人はユダヤ教徒なのだ。そして殺害することが正しいことだと思っている。実際に殺害しようとして失敗し、少年院に入る。少女との濃いの跡、作業で通っている農場からの帰り道、少年は車から脱走し、もう一度女性教師を殺そうとする。しかし、女性教師の家に忍び込もうとしたとき、つかんだ二階の窓が壊れ、少年は地面に落ちる。背中を強打して、動けない。死んでしまう、助かりたいと思う。必死になって、庭を仰向けのまま這ってゆく。女性教師を殺すはずの「凶器」の金具で、窓格子を叩き助けを求める。女教師が出てきて、少年に気づく。「救急車を呼んでほしいか」と尋ねる。少年は、うなずく。少年は女性教師に手を伸ばし、その手に触れる。それまで、別れの握手さえ拒んでいた女性教師の手に触れる。
 何が起きたのか。死にたくなくて、少年は必死だったといってしまえばそれまでだが、私は、このラストシーンに、非常に衝撃を受けた。
 だれかといっしょに生きる(社会)とは、「助けを求める」ことなのだ。「助けを求めることが許される」のが社会なのだ。少年は、それまで誰にも助けを求めてこなかった。神にさえ、助けを求めていない。正しいことをすれば(背信教徒を殺害すれば)、神は少年を受け入れてくるとは考えても、それは神が助けてくれるということとは違う。自分の肉体を傷めることで、少年は初めて「助けを求めた」。それまで少年は「助けられてきた」けれど、他人に助けを求めたことはなかった。でも、人間とは助けを求めるものなのだ。
 握手をする(他人に触れる)は、「私はあなたに危害を加えません」、あるいは「私はあなたを助けます」という意味をあらわすだけではなく、「何かあったら私を助けてください」ということを含んでいるのだ。もちろん、「助けてください」を意識して握手をする人はないが、握手をしたことがある相手なら、ひとは助けの手を差し伸べる。「助けを求めてもいい」というのが社会なのだ。
 このことは、カメラの動きというか、映像そのものからも伝わってくる。
 この時のカメラ、映像は、それまでのものとはまったく違う。仰向けで這っていく少年に近づき、その動きにあわせて移動するという点では同じだ。そして、少年が何をめざしているかが最初のうちはわからないという点でも同じだ。少年に何が見えているのかがわからない。けれど、少年がポケットに隠し持っていた凶器を取り出し、窓の格子を叩いたときから、彼のやっていること、「助けを求めていること」がくっきりとわかる。そして、女性教師の手に触れたときの「安心感」がくっきりとわかる。
 ああ、よかった、と思う。
 私は少年を誤解しているかもしれない。監督が描きたかったものを理解していないかもしれない。しかし、この「ああ、よかった」という気持ちの晴れ方は、めったにない。いわゆるハッピーエンドではないけれど、心底、「ああ、よかった」と思う。このときカメラは少年に寄り添っているのではなく、少年そのものになっていると実感する。カメラと主人公と、見ている観客が「一体」になる。こういう映画を「名作」という。

(KBCシネマ2、2020年07月08日)


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ペドロ・アルモドバル監督「ペイン・アンド・グローリー」(★★★★)

2020-06-19 17:44:35 | 映画


監督 ペドロ・アルモドバル 出演 アントニオ・バンデラス、アシエル・エチェアンディア、レオナルド・スバラーリャ、ペネロペ・クルス

 ペドロ・アルモドバルの映画は絵画(色)と音楽が強烈だ。この映画でも色が鮮やかだ。そして、その色の鮮やかさが最後に光に変わる。そこに、この映画のすべてがある。
 
 有名監督が、肉体の痛みに苦しんでいる。栄光はあるが、新しいことは何もできない。ただ生きているだけ、という状態だが、こういう状態をさらに苦しめるのが「過去の栄光」というものなのか。栄光を思い出すが、気分は晴れない。過去を思い出せば出すほど、つらくなる。
 それが、最後の最後の瞬間。
 アントニオ・バンデラスは一枚の絵を見つける。そこには幼い自分が描かれている。太陽の下で本を読んでいる。それを見たとき、アントニオ・バンデラスは「最初の欲望」を思い出す。
 家の修理をしている若い男。(この男が、少年時代のアントニオ・バンデラスを描いたのだ。)仕事をして体が汚れたので、水を浴びる。その姿を少年は、ベッドでうたた寝しながらみつめている。健康な体に水しぶきがはねる。光が散らばる。若い男が体の向きを変えると、体に隠れていたペニスが見える。「タオルをとってくれ」。少年はタオルを持って若い男に近づく。正面からペニスが見える。少年は、気を失う。
 日盛りの下で本を読んでいた。熱射病が原因だが、それだけではない。少年は、そのときはじめて「欲望」を知ったのだ。「el primer deseo 」は「欲望の最初」と訳したい感じがする。少年は、自分に「欲望」というものがあったと知る。「欲望」を発見するのだ。
 それは太陽の光そのもののように輝かしい。

 映画の冒頭、アントニオ・バンデラスはプールに沈んでいる。背中の痛みをやわらげるためなのだろうが、この不思議なシーンは、最後の「欲望」の発見の「水」ともつながっている。少年は「欲望」を発見しただけてはなく、「欲望」のなかに自分の理想像をみたのだろう。水をはじいて、きらきら輝く肉体。

 しかし、少年は、成長し、その欲望のままに生きるわけではない。欲望を殺し、「愛」に生きる時代もあった。薬物中毒に苦しむ恋人に寄り添い、旅をする。恋人が薬物中毒から立ち直るのを待って、マドリッドに帰ってくる。そういう時代があった。
 その後、その恋人との生活を何度も映画化している。それは忘れられない「祝祭」であり、「栄光」よりも輝かしいものに違いない。その「忘れらない」感情を、体力が落ちたいまは「芝居」にしている。それを演じるのは、一度は仲違いした役者であり、それを昔の恋人が偶然に見て、主人公は自分だときづく、というシーンもある。
 私の書き方は逆になったが、映画は、いまと過去を交錯させながら、最後に「最初の欲望」を発見するという展開になっている。そういう展開だからこそ、最後の「欲望」の発見が、とても美しい。
 この「欲望」の発見は、また、「欲望の法則(La Ley del deseo)」を思い出させる。アントニオ・バンデラスが出演した。「Dolor y gloria」という原題も音が美しいが、タイトルは「el primer deseo 」の方がよかったのではないか、と私は思った。この文字がパソコン画面をさっと横切っていくシーンも非常に美しかった。

(キノシネマ天神、スクリーン2、2020年06月19日)



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ワン・シャオシュアイ監督「在りし日の歌」(★★★)

2020-06-14 15:56:39 | 映画
ワン・シャオシュアイ監督「在りし日の歌」(★★★)

監督 ワン・シャオシュアイ 出演 ワン・ジンチュン、ヨン・メイ

 映画はいつでも「いま」を描くものである。
 この映画は、中国の「ひとりっこ政策」の時代から「現代」までを、しっかりと俯瞰している。俯瞰している、というのは、「いま」から「過去」をみつめていると言うことである。しかし、この「過去」をみつめるという「動詞」はなかなかやっかいなものである。「思い出した」瞬間、それは「過去」ではなくなる。「いま」になる。40年前が、「きのう」よりも鮮やかに「きょう」のとなりに存在する。それは「いま」を突き破って、「未来」にさえなってしまう。映画のラストシーンは、まさに「それ」である。「過去」が「過去」にとどまっていてくれない。「過去」の「夢」(見たかったけれど、みることのできなかった夢)が、「いま」を突き破って、主役二人の「未来」を語るのだ。その美しい「夢」は、「いま」がどんなに哀しいかを語る。「未来の夢」は「過去」にそれを夢みたときよりも不可能になっている。不可能を知って、それでも「夢みる」という「いま」がある。それは、「過去」を生きるということにつながる。

 あ、何が書いてあるか、わからないでしょ?

 わからなくて当然なのです。実は、私もわかって書いているわけではないのだから。私がわからずに書いていることが、読んだ人にわかるということは、ありえない。それを承知で、しかし、私は書く。わかりたいから。

 と書けば、これがそのまま映画のストーリーにもなる。「事件」のストーリーではなく、主人公たちの「こころのストーリー」になる。
 「わかる事実」と「わかることのできないこころ」があり、その「わからないこころ」は「わからない」がゆえに、こころを占領してしまう。これを言い直すと、いま思っていること、それ以外はわからないということになる。
 だれもが自分の苦悩だけて手いっぱいになり、自分の行動が相手にどう影響するのか。その結果、社会がどうなるのか。そんなことは、わからない。わかるのは、自分がこんなに苦しんでいるということだけである。そして、だれもがそうなのに、「わかるでしょ?」「知っているでしょ?」と迫る。
 そうなのだ。
 みんな、「わかる」のだ。わかるから、「わからない」としか言えないところに追い込まれる。ひとは一人で生きているのではないのだから。
 この複雑なこころのドラマを、主役の二人が熱演する。後半の、子どもの幼友達の話を聞くシーン、子どもの墓参りをするシーン、そしてラストの電話のシーンでは、思わず涙がこぼれる。とくに、最後の電話のシーンでは、もうスクリーンが見えなくなる。私は中国語がわからないから、字幕を読み間違えているかもしれないが、字幕を読み間違えたいほど(つまり自分の感じを優先させてスクリーンを見てしまうほど)、感動的で美しい。
 この映画に問題があるとすれば、あまりにも「ストーリー」になりすぎているということだろう。どこにでもありそうで、どこにもないかもしれない。「特異」すぎるのだ。そして、その「特異」を消すためにカメラが非常に大きな演技をしている。時間の流れの中で、かわらないものがある。たとえば「地形」。あるいは見すてられた「生活の場(古い家/室内)」。これをアップでとらえる。このときのき「アップ」というのは接近してとうよりも、「人間」を小さいな存在として、「人間」よりも「地形」や「室内」を大きなものとして、浮動のものとしてとらえるということである。「大小」そのものでいえば、人間はいつでも小さいが、映画はその小さいはずの人間をスクリーンに拡大し大きくして見せるものである。この映画は、逆をやる。人間はあくまでも小さい存在である。「自然」「地形」「室内(家庭という場)」の方が大きい。それは、ちいさな人間が死んでも、なにもなかったかのようにつづいていく。
 そして、ここから、この映画の重要なテーマが浮かびあがる。
 ひとりの人間よりも、複数の人間の方が大きい。ひとりの人間の苦悩は、複数の人間によって共有されることによって大きくなり、それは「時間/時代」を超えて存在し続ける。私たちは、ひとりの人間の苦悩を、ひとりの固有のものとしてその個人にまかせてしまうのではなくて、私たちのものとして引き受けていかなければならない。
 こういうことは、しかし、わかってはいけないのだ。「わからない」まま、「わからない何か」として、そこに存在しなければならないのだが、カメラが「わかるもの」にしてしまっている。
 わたしには、そんなふうに見えた。
 コロナ感染拡大の影響で、2か月半ほど映画を見ていなかった。その間に、映画の見方を忘れてしまっているかもしれないが、どうも落ち着かないのである。あまりにも「わかる」が堂々として、そこに存在していることに。まるで、ふるさとの(つまり、熟知した、忘れられない)山や河を見ている感じがするのである。



 と書いたあとで、少し反省。
 この映画の、たとえば主人公(夫)が、いつも鍵の束を腰にぶら下げている(「ET」の冒頭に出てくる警官?のように)小道具のつかい方、妻の方はいつも料理をつくっている最中であるとか、人間を浮き彫りにするときのキーワードのようなものをきちんと「演出」しているところは、見ていて非常に気持ちがいい。
 こういう「細部」を中心にして語りなおすと、まったく違った映画として見えてくるかもしれない。子どもの墓参りのあと、妻が墓前にそなえた蜜柑(?)を手に取り、皮をむき、半分を夫に渡すシーン、あるいは食事のとき妻が饅頭を半分に割って、その半分を夫に渡すシーンとか。繰り返し繰り返し積み重ねてきた時間が、無言で「日常」を完成させる。その二人がことばを必要としないまま重なるということが、最後の「ことばの重なり」という美しいシーンにつながる。
 「ニューシネマパラダイス」のラストシーン。カットされたキスシーンが続けざまに映し出された。あれを見たとき、わたしはやっぱり涙がとまらなかったが、この映画のラストシーンはそれに似ている。このシーンだけ、もう一度、いや、何度でも見てみたいなあ、と思う。
 ほんとうは、とてもいい映画なんですよ。
 私は、ひさびさに映画を見たので、やっぱり映画についていけていないのだなあ、と思いなおした。

(KBCシネマ1、2020年06月14日)




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ジュリアス・オナー監督「ルース・エドガー」(★★+★)

2020-06-13 16:47:01 | 映画
ジュリアス・オナー監督「ルース・エドガー」(★★+★)

監督 ジュリアス・オナー 出演 ナオミ・ワッツ、ティム・ロス、ケルヴィン・ハリソンJr

 ナオミ・ワッツとティム・ロスが夫婦というのは、あり得ない。私は、そう思うのだが、この「思い込み」は「偏見/先入観」である。「偏見/先入観」がテーマである映画を、私は「偏見/先入観」をかかえたまま見に行くのである。
 なぜ、ナオミ・ワッツとティム・ロスが夫婦が夫婦であってはいけないのか。
 ナオミ・ワッツは「透明」である。ティム・ロスは「不透明」である。そんなふたりが夫婦なら、そこで起きることは「透明/不透明」の間をゆらぎつづけ、最後はナオミ・ワッツが「不透明」になり、ティム・ロスが「透明」になるということが、あらかじめ予測できてしまうからである。
 これは「偏見/先入観」というよりも、「定型」に属する事柄である。
 映画は、この「定型」をどれだけ揺さぶることができるか。それがいちばん問題になるが、揺さぶりきれていない。もちろん、テーマがナオミ・ワッツとティム・ロスの問題ではないのだから、ナオミ・ワッツとティム・ロスの「定型」を揺さぶる必要はない、という見方もできるのではあるけれど。

 ちょっと「前置き」長くなったが。
 映画を見始めてすぐ、ぜんぜん映画らしくない、と感じる。長い間、映画を見ていないから、映画の「感触」を忘れてしまったのかと思ったが、最後まで映画を見ている気がしない。
 最後になって、クレジットで、この映画が「舞台」を脚色したものであることを知らされる。それで、はじめて納得がいく。この映画は、映画ではなく、「舞台」なのだ。つまり、「肉体」よりも前に「ことば」があるのだ。ここで展開されるのは「ことば」のドラマなのだ。
 また振り出しに戻るが、ナオミ・ワッツもティム・ロスも「ことば」で演技する俳優ではない。言い直すと、「ことばの論理」を演じる役者ではない。「肉体の論理」を演じる役者である。まあ、だからこそナオミ・ワッツとティム・ロスを夫婦にしたのかもしれない。
 ドラマは、ケルヴィン・ハリソンJrと女性教師との間で展開する。その「引き金」になるのがケルヴィン・ハリソンJrの書いたエッセイというのが、「ことば」こそがこの映画のテーマであると語る。
 ケルヴィン・ハリソンJrは歴史上の人物の思想を「代弁」する主張をエッセイに書く。そのことばは、ケルヴィン・ハリソンJrの主張なのか、それとも歴史上の人物の思想なのか。その歴史上の人物というのが危険な思想の持ち主の場合、とくに、その識別がむずかしくなる。
 いったい、「だれのことば」が人間を動かしているか。
 これは非常にむずかしい。もしこのストーリーを「小説」にすると、「ことばはだれのもの」というテーマが浮かびあがりにくくなる。小説では、だれが言ったかという印象よりも、言ったことばそのものが浮かびあがる。芝居だと、つねに目の前に「ことば」を話す人間がいるので、だれが言ったかが前面に出て、「だれのことば」かという問題は背後に隠れる。だからおもしろくなる。言い直すと、「ことばの論理」より前に、いま目の前にいる人間(役者)の存在そのものを判断の基準にしてしまうという「錯誤」が舞台では起きるのだ。
 これを、そのまま映画で踏襲している。テーマにしている。
 黒人の高校生がいる。成績が優秀でスポーツもできる。ルックスもいい。私たちが彼を判断するとき、何を基準にして判断するのか。「成績(スポーツを含む)」を判断するのは、ひとりひとりの考えではない。ルックスについては「好み」があるが、それにしたって顔だちがととのっている、背が高い、太っていないというような「判断基準」は、何か個人の判断を超えたものを含む。つまり「偏見/先入観」がどこかにある。「偏見/先入観」で見てしまった「人間」を、私たちは少しずつ「修正」していく。
 ややこしいのは、この「修正」に、「社会的価値(?)」のような「基準」が作用してくることである。「社会が求める価値」に合致しているから、このひとは人間としてすばらしい、という「評価」が生まれる。ひとは「見かけ」で判断してはいけない、内面(精神、頭脳)を重視して、価値判断すべきである、というのもまた「社会的基準」なのである。「社会的理想」が「人間」に「修正」を迫るのだ。
 それは判断するひとに対する作用だけてはなく、判断されるひとについても言える。つまり、「社会的評価」に合致するように行動できるひとを社会は受け入れると判断し、それにあわせるということが起きる。
 このとき、だれが正しくて、だれが間違っている?
 もし、流通している「社会的評価」のありよう、それを支えるすべてのひとが嫌いだとしたら、ひとはどう行動できる?

 これに対する「答え」は、簡単には出せない。だから、映画は「答え」を用意していない。
 「Black lives matter」の問題を考えるとき、私たちは、この映画(戯曲)が問いかけているところまで考えないといけないのだということを指摘している。それは、とても重要な指摘だが、やはり「映画」では何か無理がある。「ことば」を「肉体」が隠してしまう部分がある。舞台でこそ、より刺戟が強烈な作品だと思った。
 「Black lives matter」が世界的風潮となっているいまではなく、それ以前に見れば、また違った感想(評価)になったかもしれないとも思うが。
(キノシネマ天神、スクリーン3、2020年06月13日)




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豊島圭介監督「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」

2020-03-22 15:28:06 | 映画
豊島圭介監督「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」(★★★★★)

監督 豊島圭介 出演 三島由紀夫、芥正彦

 いろいろなことが語られているが、見せ場は「解放区」についての討論。「他人」「もの」「時間」をどうとらえるか。このテーマは、三島のテーマというよりも、この時代のテーマでもある。だからこそ、全共闘の芥正彦との対話が成り立っている。(ついでに書いておくと、私が大好きな安部公房も、他人、もの、時間について書いていた。つまり、解放区について。)
 私が理解した範囲で語りなおすと。
 三島は、「もの」のなかには「もの」が「もの」として存在するまでの過程としての「時間」を含んでいる。いま、ここに「机(もの)」がある。それが「机」として存在するのは、木を加工し、机という形にととのえたひとがいて、またそこに労働があるからだ。これを破壊しバリケードとしてつかう。壊してつかうことも可能だし、そのままの形としてつかうこともできる。いずれにしろ、そのとき、机をつくったひとの「時間/労働」は否定される。「時間」が否定され、「もの」が瞬間的に「空間(場)」を構成(形成)するものとしてあらわれる。これが「解放区」。そして、この「解放区」を構成する「もの」を「他人/他者」と呼ぶことができる。ただ「自分」の欲望のためにだけ存在する「対象」のことである。これに「人間(自分)」がどうかかわっていくか。自分の中には「自分の時間」がある。また、ともに存在する他の人間(他者ではない)へどうつなげてゆくか。言い直すと「連帯」するか。それを「もの」の破壊(解放)にあわせて、どうつくりかえていくかという問題でもある。そのとき、三島は「時間」と直面する。自己延長としての「時間」である。
 芥はこれに対して、途中までは三島と意見を一致させるが、「時間」の問題と向き合うときから、完全に違ってくる。「自己延長」としての「時間」(他者を自己に従属させるということになる)は「解放区」を否定する。持続(連続)としての「時間」を存在させてはならない。常に「解放区」は「解放区」として存在しなければ存在の意味がない。「解放区」を出現させ続けることが「革命」だ。
 論理としては、芥が完全に三島を論破している。
 しかし、「論理」の問題は、どちらが勝ったかということではケリがつかないところにある。三島の論は論として「完成」している。だから、どんなに芥に論破されようと、三島は三島の「論理」に帰っていて、そのなかで「自己完結」できる。
 芥は芥で、三島を「論破」したところで、それから先に何があるわけでもない。芥の論理は論理として「完結」している。つまり、それを実行できるのは芥だけであり、結局はだれとも共有できないのだ。
 もちろん一部のひととは共有できる。だから、生きている。
 私がここで書く「共有」とは、たとえばボーボワールの「女は女に生まれるのではない。女に育てられるのだ」というような、だれもが納得し、常識として定着するということである。だれもがそれを指針として行動できる。女性差別をやめる、という具体的な行動としてボーボワールの哲学は「共有」されるが、三島の「論理」も芥の「論理」も、そういうひろがりを獲得できない。
 それは、言い直せば、あくまで「個人限定」の「論理」であり、「個人の思想」なのだ。ひとりで生きるしかないのだ。そしてふたりはそれを生きている。(三島は、生き抜いて、死んだ。)
 この激烈な対立をわくわくしながら見ていて、ふと思ったのが「演劇」である。三島は小説以外に「演劇」を書いている。芥は(私は見たことがないのだが)、演劇をいまもつづけている。
 演劇が小説と違うところは何か。
 演劇は基本的に「過去」を語らない。小説はあとから「過去」を追加できるが、演劇は役者が出てきたら、それから起きることだけが「勝負」である。もちろん「せりふ」で実はこういう「過去」があったと言うことはあっても、それは「過去」を語らなければならない事態が発生したということにすぎない。だから、役者は舞台に登場したときに、すでに「過去」を背負っていなければならない。(存在感がなければならない。)
 そして、それぞれの人間が「過去」を背負っているにもかかわらず、舞台の上で起きるのは、その「過去」を否定して、新しい「もの」としての人間として相手とぶつかることである。芝居とは、いわば「解放区」そのもののことなのである。
 で、こう考えるとき。
 というか、こう考えて、この映画を思い出すとき、二人がいかに「演劇」としてそこに存在していたかがわかる。ふたりはそこで討論しているのではない。「演劇」の瞬間を生きているのだ。
 芥が幼い娘(?)をつれて壇上に登場する。それ自体が「演劇」だ。ほかの学生とは違って、「赤ん坊を持っている」という「過去」を背負っている。「存在感」がほかの学生と完全に違っている。彼が発することば以上に、赤ん坊が「過去」を語るのだ。しかし、芥は当然のこととして、その「過去(赤ん坊)」を無視して、ことばそのものを三島にぶつける。
 三島は、そのときすでに知られていたように「作家」という「過去」を背負っているが、そしてボディービルで肉体を鍛えているという「過去」も背負っているが、そんな「虚構」でしかない「過去」、ことばで説明するしかない「過去」では、赤ん坊という「現実」そのままの「過去」に太刀打ちできるはずがない。
 もう、それだけで三島は芥に負けているのだが、二人とも「演劇」を生きる人間だから、「存在感」の勝負はわきにおいておいて、ことばを戦わせる。あいまにタバコのやりとりというような「間」の駆け引きもみせる。
 勝利を確信した芥は、途中でさっさと姿を消す。ほかの学生にはわからなくても、三島には芥が勝った(三島が負けた)ことは明瞭だから、それでいいのだ。三島を「もの」にして、芥の「解放区」は出現した。三島のことばは破壊された机、バリケードに利用される机のように、「もの」そのものとして三島の作品から切り離され、「単発の論理」としてそこに存在するだけのものになったのだ。それは「持続」させる必要はない。瞬間的にそれが出現し、その衝撃が、ほかのひとを揺さぶればそれだけでいい。最初に書いた芥の「解放区」をそのまま、そこに実行したのだ。だから、知らん顔して赤ん坊(過去)と一緒に帰っていく。
 三島は、そういうわけにはいかない。敗北の形であれ、それは確かに「解放区」であり、それが「解放区」である限りは、三島は三島の「論理」を完結させるために、それをことばで「時間」として存在させなければらならない。これは、まあ、矛盾しているというか、悪あがきなのだが、三島がすごいのは、その悪あがきをきちんと最後まで、「演劇」でいえば、幕が下りるまで実行するところである。これは、偉い。思わず、そう叫びたくなる。
 芥が「天才」だとすれば、三島は「秀才」を最後まで生きるのである。「秀才」だから、一度自分で決めた道は決めた通りに歩かないと「実行」した気持ちになれないのだろう。それが自衛隊での自決につながる。芥は「天才」だから、何かを「実行」するにしても「規定路線」など気にしない。自分で決めた道であっても、瞬間的にそれを否定し「解放区」を新たに出現させ、「解放区」と「解放区」を断絶させたまま生きるのだ。「解放区」を持続させる人間と、「解放区」さえももう一度「解放区」にしようとする人間の生き方の違いだ。

 それにしても。
 あの時代はすごかった。ことばがことばとして生きていた。ことばをつかって「時間」を断絶、拒否するのか(芥)、ことばをつかって「時間」を持続させるのか(三島)。どちらを目指すにしろ、ことばをないがしろにしていない。
 この映画では(討論では)問題になっていないが、いま、私が聞きたいと思うのは「ことばの肉体」についてふたりがどう思うかである。しかし、こういうことは聞くことではなく、ふたりのことばを読むことで、私自身が考えなければならないことである。
 肉体がことばであるように、ことばも肉体である。そのことばの肉体を動いている「時間」はどういうものか。
 私はぽつりぽつりと考えているだけだが、まあ、考え続けたい。

(中州大洋スクリーン2、2020年03月22日)

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テレンス・マリック監督「名もなき生涯」(★★)

2020-02-24 18:15:29 | 映画
テレンス・マリック監督「名もなき生涯」(★★)

監督 テレンス・マリック 出演 アウグスト・ディール、バレリー・パフナー

 テレンス・マリックの映像は美しいと評判である。この映画も確かに美しい。しかし、困ったことにその美しさは、私の「頭」が感じる美しさであって、「本能」というか「欲望」が感じる美しさではない。簡単に言い直すと、この映像の真似してみたい(絵に描いてみたい、ことばに置き換えてみたい)という欲望が起きない。その場所へ行ってみたいとも思わない。さらに言い換えると、この映像を「美しく」撮っているひとの気持ちがわからない。こんな美しい映像を撮る人に会ってみたいという気持ちにはぜんぜんなれないのだ。
 なぜなんだろう。
 今回の映画には、その「わからなさ」へ近づくための手がかりのようなものがあった。主人公が兵役を拒否した。それでも召集令状(?)は届く。そして主人公へ出征する。ひとりになった女が「あなたに私がみえるの?」と語るシーンがある。主人公も独房で「あなた」と呼びかける。そのあと「父」とも呼びかける。ここで、はじめて私は「あなた」がだれだかわかった。「神」なのだ。
 おそろしいことに。(というと、たぶん叱られるかもしれないが。)
 私の席の隣(新型コロナウィルスを警戒してなのか、たいていひとつ空席をおいて座っているので、ほんとうは二つとなりの席)の女性が、主人公が「神」に語りかけることばを、英語そのままで反復していた。それで、ますます、主人公やその妻が語りかけている相手が「神」なのだと確信した。
 で、こう思ったのである。
 テレンス・マリックが描き出しているのは人間の視線で見た「情景」ではなく、「神」が見た「世界」なのだ。テレンス・マリックが、「神」が見ている世界と想定した世界という方が正確なのだろうけれど、いずれにしろ「人間」が見た「世界」ではないのだ。
 これでは、私が共感できるわけがない。私は「神」を信じていない。「神」を信じていないのに、「神が見た世界」を見せつけられても、これは確かに美しい映像だけれど、それがどうした?としか言いようがない。
 しかも、である。
 この映画は、一方で兵役を拒否する(ヒトラーに従うことを拒否する)主人公が、「村八分」にされることを描いている。とても人間臭いのである。一方で、孤独な「神」への誓いのようなものがあり、他方で「神聖」とはほど遠い俗な人間関係がある。なまなましい「人間ドラマ」(人間動詞の葛藤)がある。それなのに、その「人間ドラマ」は、「神」の視線でとらえられているためか、「情念」のようなものがつたわってこない。怒りや憎しみが感じられない。「試練」のように描かれるのである。
 これがまたまた、私には、ぴんと来ない。「試練」を描いていることはわかるが、「試練」にしてしまうと、「人間ドラマ」が「人間対人間」ではなく、「人間対信念(?)」のようなものにすりかわってしまい、まるで「倫理の教科書」みたいと感じるのである。私は、こういうのは苦手だ。
 「神」のかわりに、村で暮らす女の方には、小麦粉の量をそっと増やしてくれる水車小屋の男がいたり、こわれた台引き車のまわりにちらばったじゃがいもを集めてくれる女がいたりする。一方で、女は、彼女より貧しい老婆にとれたばかりの蕪をわけたりするという、「人に隠れておこなう善行」のようなものが描かれる。主人公の方は、冷酷に「死」と向き合いながら、それでも思っていることを貫く姿が描かれる。
 その「試練」がふたりをどう育てたのか。
 私にはわからないが、そういう「試練」を生きる人がいて、いまの世界が支えられているというような「メッセージ」を監督はつたえようとしているようだが、それが「神の見ている世界」なら、いやだなあ。キリスト教徒ではなくてよかったなあ、と私などは思ってしまう。「信念」を生きる姿は立派だが、そういう人がいるから「いまの世界がある」と言われて、それでキリスト教徒は納得するのだろうか。次代のひとのために信念を生きる「名もなき生涯」を選び取るのだろうか。「信念を生きることで、社会がどうかわるのか」と、「神」ではなく、生きている人間から問われつづけるという、それこそ「この世の試練」ともいうべきものが何度も描かれるのを見ると、「偉いなあ」と思わず声が漏れる。
 でも、これが「道徳の教科書」になってもらっては困るなあ、と私は思ってしまう。
 ヒトラーのどこに問題があったかを、もっと描いてもらいたい。テーマが違うといわれれば、そうなのだけれど。

(中州大洋スクリーン2、2020年02月24日)
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テリー・ギリアム監督「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」(★★★★★)

2020-01-25 19:01:55 | 映画
テリー・ギリアム監督「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」(★★★★★)

監督 テリー・ギリアム 出演 アダム・ドライバー、ジョナサン・プライス、ステラン・スカルスガルド

 「ドン・キホーテ」は二重の「誤読」の物語である。「二重の」というのは、騎士道物語の誤読と、現実の誤読ということだが、二重に誤読してしまうと、どちらを誤読したのかわからなくなる。騎士道物語を誤読したために、現実の世界で騎士道を発揮しようとしたのか、現実の世界を誤読したために騎士道精神を実現しようとしたのか。
 しかし、それはどうでもいいことなのだ。
 人間は「誤読」せずにはいられない存在なのである。他人が語ること、他人の行動は、あくまで他人のものであって、私のものではない。私には私のことば、私の現実がある。二つがぶつかったとき、かならず違いがあり、それを乗り越えるためには、いままでとは違うことをしなければならない。だから知らずに間違ってしてしまう誤読は「誤読」ではない。単なる勘違いだ。間違っていると知っていて、なおかつその間違いへ向けて動いていく誤読こそが「誤読」なのである。
 ドン・キホーテ(ハビエル)は「間違い」であることを知っている。それが「物語」なのか「現実」なのか、簡単には言えないが、どちらかが間違っていると知っていて、その間違いのなかへ突入していく。間違いであることを引き受け、間違いの向こう側へ行こうとする。「誤読」しなければ「真実」というものには達することができないと知っているのである。
 さて。
 「間違い(誤読)」を引き受けることだけが「真実」だと知ってしまった人間に何ができるか。
 この問題をテリー・ギリアムは映画づくりとからめてつきつめる。「誤読」を映画にすることで考え始める。映画というものは(あるいは文学というものは、と言ってもいいが)、「現実」ではなく「嘘/虚構」である。いわば「間違い」であり、「誤読」を増幅させたものである。一度、この「誤読」を引き受けてしまったものは、そこからは逃れられない。どこまでも「誤読」を生きるしかない。「わざと」誤読し、「誤読」を語ることで、自分の信じている「真実」に近づくのである。
 それはだれのものでもない。「誤読」を引き受ける人間だけがふれることのできる「真実」である。
 クライマックスの、ドン・キホーテが月へ旅立つシーンが象徴的だ。目隠しをして「偽」の天馬に乗る。まわりでドン・キホーテをたぶらかす人間が冷風を送り、さらに熱風を送る。それにあわせてドン・キホーテは、大気圏を抜け出した、太陽に近づいたと「ことば」を語る。それはもちろん「間違い(現実の誤読)」だが、そのことばを引き出した人間の方はどうか。「現実」を見ているのか。ドン・キホーテのことばにあわせて冷たい体験の外を思い、さらに熱い太陽の近くを思い描く。ドン・キホーテのことばにあわせて「現実」をつくりかえ(捏造し)、その想像力に加担する。このとき「真実」は、どこにあるのか。「真実」とは何なのか。大気圏の外は冷たい、太陽の近くは熱い、というのは「真実」ではないのか。もしそれが真実だとすれば、ドン・キホーテのことばは「真実」にならないか。
 この問題に、簡単に答えを出してしまうことはできない。あるいは意味がない。
 だいたいドン・キホーテが「だまされている」と自覚していないかどうかもわからない。目隠しをするのはなぜなのか。だまされたふりをして、周りの人間をだましているのかもしれない。知っていることを語るため、宇宙の「真実」を語るために、だまされたふりをしているのかもしれない。
 ここに「誤読」のいちばんの醍醐味がある。知らないふり(無知のふり、狂気のふり)をして「真実」を語りたいと欲望しているのかもしれない。言い換えると、ひとは自分の言いたいことを言うためなら、進んで「誤読」をするのである。「誤読」というかたちで、自己主張する(自己実現する)。
 そして、「誤読」は引き継がれていく。「真実」も引き継がれていくが、それ以上に「誤読」が引き継がれていく。だいたい「真実」を引き継ぐというのは「誤読」の最たるものであって、ほんとうは「誤読」しか引き継がれていないのかもしれない。
 セルバンテスの書いた『ドン・キホーテ』は、いまも古典として残っているし、新訳も出たりする。しかしさまざまなドン・キホーテのどれが「真実」と呼べるものなのか、テリー・ギリアムの「誤読」がセルバンテスの考えていた「真実」なのか、だれにもわからない。(小説の「ドン・キホーテ」のなかにさえ、ニセモノの「小説・ドンキホーテ」が出てくる。)読者が、映画を見たひとが、自分に引きつけて「真実」を引き継ぐのである。つまり「誤読」するときだけ、「真実」が引き継がれるのだ。
 ラストシーン。サンチョ・パンサを演じさせられ続けてきたアダム・ドライバーがドン・キホーテになる瞬間、うーん、涙が流れます。スペイン語の簡略版と文庫本で途中までしか読んでいなかったので、感動のあまり牛島信明訳の「ドン・キホーテ」(絶版)を古本で注文してしまった。

(2020年01月25日、ユナイテッドシネマキャナルシテイ、スクリーン11)
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クリント・イーストウッド監督「リチャード・ジュエル」(★★★★★)

2020-01-19 09:06:13 | 映画
クリント・イーストウッド監督「リチャード・ジュエル」(★★★★★)

監督 クリント・イーストウッド 出演 ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ

 ポール・ウォルター・ハウザーとサム・ロックウェルが、ファミリーレストランみたいなところで会っている。そこへジョン・ハムがFBIはリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)の捜査をやめたという通知を持ってくる。そのあとのシーンが、私は好きだ。
 ポール・ウォルター・ハウザーがケーキ(ドーナツ?)に食らいつく。食べているではなく、味わっている。歓びの味。これが、このケーキのほんとうの味。自分が無実であることは知っている。その無実が受け入れられたことへの安心感。達成感。いろいろあるが、ともかくうまい。これがこのケーキの味。自分のいちばん好きな味。
 このときの表情をクリント・イーストウッドは逆光で撮っている。これが、すばらしい。普通なら、この感動の表情を、正面からの光(順光?)でとらえるだろう。逆光では、肝心の表情が見えにくい。だが、この見えにくさが、私の視線を引っ張る。もっとよく見たい。そして、気持ちが集中する。ポール・ウォルター・ハウザーが向こうからやってくるのではなく、私の視線がスクリーンのポール・ウォルター・ハウザーに近づいていく。そして、ポール・ウォルター・ハウザーと一体化してしまう。
 ここにイーストウッドの映画の基本というか、原点というか、魅力が凝縮している。役者は演技をする。カメラはそれをとらえる。だが、それは押しつけではない。あくまでも観客がスクリーンに近づいていくのだ。家を出て、バスや電車に乗って映画館へゆく。その「移動」と同じことを映画館のなかで観客はするのだ。椅子に座って見ている。たいていはぼんやりと時間を潰している。しかし、あ、ここがいいなあ、と思ったとき観客は身を乗り出してゆく。家から映画館へ来たように、座っている席からスクリーンに気持ちが近づいていく。
 このポール・ウォルター・ハウザーの無言でケーキを食うシーンは、イーストウッドの映画にしては長いシーンだった。一度ケーキに食らいつき、歓びがあふれればそれでも充分なのだが、二度、三度、ケーキに食らいつき、ゆっくりとかむ。その繰り返しが、とてもいい。逆光が「後光」のようにさえ見えてくる。
 このあと向き合っていた席からサム・ロックウェルが動いてきて、ポール・ウォルター・ハウザーの隣に座る。肩を抱く。ここも涙が出るくらいに美しい。カメラは二人を正面からではなく、背後から、つまり背中を映し出すのだ。だれも、彼らの表情を知らない。泣いているかもしれない。ポール・ウォルター・ハウザーもサム・ロックウェルも。しかし、だれも、それを知らない。考えてみれば、だれも何も知らないのだ。二人がどんなふうに苦しんできたかを。とくに、ポール・ウォルター・ハウザーの味わった苦悩や怒りをだれも知らない。ひとはだれでも、だれにも知られないことを持っている。どんなにそれが語られようとも、知らないものがある。あるいは、それは見てはいけないものかもしれない。そのひとだけの「宝」かもしれないのだから。
 これに似たシーンが、もうひとつ。捜査のために押収されていたものが家に帰ってくる。そのなかにタッパーがある。キャシー・ベイツが、「私のタッパーが、事件と何の関係がある」と抗議したタッパーである。ふたに番号が書いてある。それはたぶんFBIが整理のために書いた番号だと思う。つまり、汚れ、傷、である。でも、それは傷つきながらもキャシー・ベイツのところに帰って来た。キャシー・ベイツがタッパーを手に取り、それを眺める。カメラがキャシー・ベイツの視線になり、タッパーを見つめる。すると蓋の上に数字が書いてある。こういうシーンにも、私は、涙を流してしまう。しかし、このシーンは、いつものイーストウッドのようにさらりと短い。
 感動させるのではなく、感じさせる。考えさせる。感動して、観客が自分の感動によってしまってはいけないのだ。そうさせないように、イーストウッドは、さっとシーンを切り換える。もっと見たい、という気持ちがわいてきたところで、ぱっと別のシーンになる。その手際に私はいつも感心する。

(2020年01月18日、t-joy 博多スクリーン2)
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ジェームズ・マンゴールド監督「フォードvsフェラーリ」(★★★)

2020-01-18 09:37:35 | 映画
ジェームズ・マンゴールド監督「フォードvsフェラーリ」(★★★)

監督 ジェームズ・マンゴールド 出演 マット・デイモン、クリスチャン・ベール

 私は車にはまったく関心がない。しかし予告編で見た車が走るシーンが、とても自然に感じられて見に行く気になった。「自然」と書いたのは、わざとらしさがない、スピードを強調していないということである。
 マット・デイモンだったか、クリスチャン・ベールだったか。たぶん、クリスチャン・ベールだろうなあ、車が最高速度に達すると、逆にゆっくりした感じになる、というようなことを言う。別世界に入ってしまう。ハイになって感覚が世界と融合してしまう、ということだろう。
 これをどう映像にするか。
 難しいと思う。しかし、ちゃんと映像化できていると思う。クリスチャン・ベールがレースでトップにたったあと、そのシーンがある。前に誰もいない。どこまでもどこまでも走っていってしまいそうだ。この愉悦にすーっと吸い込まれる。
 これはもう一度あらわれる。クリスチャン・ベールが、テスト走行中、その感覚に誘い込まれる。この瞬間、あ、このままクリスチャン・ベールはこの世から去っていくのだとわかる。そして、実際、そうなるのだが、それが必然に感じられる。
 自然から、必然へ。
 これを映像で体験できる。この二つの「ハイ感覚の走行映像」を見るだけで、この映画を見る価値がある。
 しかし、他の部分は、あまりおもしろくない。
 「フォードvsフェラーリ」と言うが、ほとんどはフォード内部の「権力闘争」である。その欲望のつまらない闘いが、クリスチャン・ベールの快感を純粋に見せるという効果を上げているのかもしれないけれど、そういうものがない方がより純粋になったと思う。
 それはマット・デイモンのちらりと見せる「レース駆け引き」のうさんくさい部分についても言える。ライバルのストップウオッチを奪い隠したり、ナットを落としてみたりして、相手の動揺を誘う。実際にそういうことがあるのかもしれないが、クリスチャン・ベールの快感の、必然の美しさを傷つけてしまう。
 レーサーの純粋さを追求する映画ではない、といえばそれまでだが。

(2020年01月16日、t-joy 博多スクリーン3)
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エドワード・ノートン監督「マザーレス・ブルックリン」(★★★)

2020-01-15 20:21:19 | 映画
エドワード・ノートン監督「マザーレス・ブルックリン」(★★★)

監督 エドワード・ノートン 出演 エドワード・ノートン、ブルース・ウィリス、ググ・バサ=ロー、アレック・ボールドウィン、ウィレム・デフォー

 エドワード・ノートンを初めて見たのは「真実の行方」。吃音の二重人格(殺人者)を演じているのだが、最後の最後の一瞬、どもらない。つまり、全部芝居だった、とわかる。この吃音から、普通のしゃべり方に変わる瞬間が、実にうまい。「はっ」とさせる。しかし、「はっ」としながらも、「あれっ、せりふのしゃべり方を間違えたのかな?(演技ミスかな?)」と思った次の瞬間にどんでん返しが始まる。
 よく似たどんでん返しでは「ユージュアル・サスペクツ」がある。ケヴィン・スペイシーが、「犯人」なのに、おしゃべり障害者の演技で刑事の追及をかわしていく。最後に足を引きずっていたのに普通の歩き方に変わるのだが、それは「おまけ」で、「おしゃべり」(嘘)の自然な感じが、とてもいい。
 私は英語は「字幕」が頼りだが、字幕を頼りにしながらも「声の調子」で引っ張られる役者がいる。エドワード・ノートンもケヴィン・スペイシーも、演技のなかで、もう一度演技するという二重構造のときに、とても生き生きとした味が出る。
 で、今度の映画だが……。
 そこには二重構造どころか、何重にも二重構造が入り子細工のようになっている。それが複雑すぎて、エドワード・ノートン自身の強靱な記憶力と、頭に浮かんだことばをおさえきれないという「言語」に関する二重構造が邪魔になっている。エドワード・ノートンの奇妙な病気が他人を警戒させるわけでも、また他人を同情させるわけでもない。つまり飾りになっている。こんな演技ができます、という「宣伝」になっている。
 これは監督もできます、脚本も書けます、という「宣伝」にまで拡大し、ちょっと「味」が雑になっている。これは、演技に遊び(裏切り)がなくなっているという感じで、「人間」そのものの魅力が感じられない。
 映画を見るのは(あるいは芝居を見るのは)、演技を見るだけじゃなくて、「地」も見たいからだね。どの役者もそうだが、「地」の出し方が乏しい。その分、映画としてはすっきりしているというか、簡潔な感じになっているが、つまらなくもある。
 エドワード・ノートンもアレック・ボールドウィンも、妙に「甘い」ところがあり、それが「悪」をつつむところに「許せる」感じがあっておもしろいのに、「甘さ」を殺してしまうと「凡人」になってしまう。
 ウィレム・デフォーは逆に「醜さ」のなかに純粋さを感じさせるところが魅力なのに、なんといえばいいのか、最初から純粋なんだというような主張をしてしまうので、これも「凡人」になってしまう。
 難しいものだなあ、と思う。
 この映画を支えているのは、1950年代という「風景」だろうなあ。私は1950年代のブルックリン(ニューヨーク)を知っているわけではないが、いまとは違う人間臭さがいいなあ、と思う。車が走っても、いまの映画のようにカーチェイスにならないし、地下鉄もなんとなくのんびりしている。これにジャズがマッチしている。大都会だけれど、つめたくない。人間臭い。これが、ストーリーにぴったりあっている。
 エドワード・ノートンが「多芸」であることは、今回の映画でよくわかった。でも、次は役者に専念してほしい。

(2020年01月15日、t-joy 博多スクリーン10)   
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ポン・ジュノ監督「パラサイト 半地下の家族」(★★★★★)

2020-01-14 09:14:03 | 映画
ポン・ジュノ監督「パラサイト 半地下の家族」(★★★★★)

監督 ポン・ジュノ 出演 ソン・ガンホ、チェ・ウシク、パク・ソダム、チャン・ヘジン

 この映画は非常に分かりやすく、同時にわかりにくい。そして、その「わかりにくさ」を最大限に生かしてクライマックスが「リアリティー」に満ちたものになる。これが傑作のゆえん。
 映画は映像と音楽で成り立っている。ところが、この映画の基本は映像と「匂い」である。これが、この映画をわかりにくくさせている。映画館では、特別な劇場でないかぎり匂いはつたわらない。このつたえることのできない匂いをどう表現するか。どう観客にわからせるか。
 金持ち一家の子供が、貧乏一家がいるとき、貧乏父親の匂いをくんくんと嗅ぐ。それから母親の匂いもくんくん。「同じ匂いがする」。そう指摘されて、貧乏一家は少しうろたえる。石鹸やシャンプーをそれぞれべつのものにするか、という相談をする。でも、そんな匂いではなく、貧乏一家が住んでいる「半地下」の部屋の匂いがしみついているのではないか、と気づく。でも、それって、どんなにおい? まあ、半分湿ったような、生乾きの洗濯物のような、少し黴臭いにおいだろうなあ。でも、そういう匂いは、実際に嗅いだ瞬間には気がつくが、「嗅覚」がそれを思い出せるわけではない。私は、思い出せない。ただ、頭の中で「あ、きっと生乾きの匂いだ」と思うだけである。そして匂いというのは、父親が何度かやってみせるが、自分の衣類をくんくん嗅いでみたって、はっきりとはわからない。すでに自分の「肉体」の匂いが混じっているし、「半地下」で暮らし続けているうちに、その匂いに慣れっこになっているから「匂い」として存在しないのである。
 この存在しているのに、存在しない、というのはこの映画の重要なテーマであり、「匂い」を主役にしたというのは、この映画の画期的な手柄である。
 で、その存在しないはずの匂いが、クライマックスで大活躍する。
 子供の誕生日。金持ちの知り合いがお祝いにかけつける。金持ち一家の地下に隠れ住んでいた男(元の家政婦の夫)が地下室から抜け出して、貧乏人一家と金持ちに復讐する。殺人鬼となって暴れ回る。いちばん下の男の子(最初に匂いを指摘した男の子)が気絶する。父親が病院へ連れて行こうとする。運転手(貧乏人の父親)に車を出せと言うが、父親は襲われた娘、妻が心配なので車の運転はしたくない。迷う父親に、金持ちの父親が「車のキーをよこせ」とわめく。キーをほうりなげる。そのキーの上に殺人鬼が倒れ込む。父親はキーを拾い上げるとき、強烈な匂い(地下室の匂い)に気づき、思わず顔を背ける。それに半地下の父親が気づく。「あ、俺たちはこんなふうに金持ちから顔をそむけられていたのだ。いつもは使用人としてちゃんと向き合ってくれているように見えるが、彼らの本質はこれなんだ。貧乏人には顔を背け、そのあとで顔を背けたことがなかったかのようにふるまう。それが金持ちの生き方なんだ」。実際、男の子の父親は顔を背けながらも殺人鬼の体を汚れたものをのかすようにして動かし、キーを拾い上げ、男の子を病院へ運ぼうとする。この瞬間、貧乏人の父親は瞬間的に殺意に目覚め、復讐する。このキーを放り投げてから、キーを拾うまでの、二人の父親の一瞬の映像のなかに「匂い」がなまなましく映像化される。
 昔、「パフューム」という香水と官能をテーマにした映画があったが、あのばかばかしい「説明」映画に比べると、この映画の「映像力(匂いをつたえる力)」は圧倒的だ。トイレの汚い匂いなら何度も映画化されている。この映画でも、大雨の日に下水が逆流してくるシーンがある。でも、それは「想像力」の範囲内。想像していなかった匂いと、その瞬間の反応、その反応への本能的な怒り。これを映像化できたのが、この映画の、ほんとうにほんとうにすばらしいところ。
 この瞬間、「匂い」ではないけれど、私は私が体験してきたさまざまな「差別」を思い出す。「差別」は、男の子の父親が見せた反応のように「一瞬」である。そして、「差別」したひとは瞬間的にそれを修正するので、彼には差別したという意識はない。さらに、そういう瞬間は第三者にはつたわりにくい。だから、それに気づくひとは少ない。でも、当事者なら気づく。あ、いまの反応は、何か違う、と。「差別」には、そういうわかりにくい「におい」がある。
 (「匂い」ではなく「におい」と書くべきだったのだと、いま気づいたが、書いたものは書き直さない。)
 この「におい」を映像とストーリーにしたこと。これがこの映画のいちばんの魅力だ。

 この映画は、そういう映画の「魅力」のほかにも刺戟的なテーマを投げかけてくる。貧乏人の一家が金持ち一家に復讐する(怒りをぶちまける)というのなら、いままでも描かれてきたと思う。黒沢明の「天国と地獄」もそのひとつだろう。
 この映画は、金持ち-貧乏と簡単に社会を分類しない。金持ちと貧乏の間には、半金持ち(半貧乏)がいる。「半地下」に住む家族が、いわば「半貧乏(半金持ち)」である。半貧乏は、自分を貧乏だと思う。金持ちと比較するから、どうしてもそうなる。このとき、もっと貧乏がいるということに気がつかない。気がついたとき、たぶん彼らは「半地下」ではなく「半地上」の部屋に住んでいると自覚し、ほんとうの地下室ではなくてよかったと思う。でも、これはなかなか自覚されない。無意識のうちに「地下」を差別して(言い換えると、放置して)生きている。
 だから。
 「地下室」の存在が明らかになり、地下室の住民から反撃されると、今度は自分たちが「地下室」に蹴落とされ、せっかく「半地下」から「半地上」、そして手に入れた束の間の「地上」のたのしみも奪われてしまうとうろたえる。映画の後半に展開される「地下住民」と「半地下住民」の壮絶な闘いは、それを明確に描いている。しかも、その闘いが、なんというか、「他人を蹴落とす」ことが「生存」につながるという、生々しいものなのだ。彼らが頼りにし、また恐れるのが、金持ちなのである。金持ちに「半地下」のひとの不正を訴え、「地下」から助けてもらう、というのが金持ち一家から追い出された家政婦の方法であり、それを阻止しようとするのが「半地下」の一家の方法である。互いに助け合うということは考えたりしない。
 これは現代社会(特にアベノミクス以後の日本の社会)で起きていることをそのまま象徴している。いや、雄弁に告発している。貧乏人に、貧乏人を蹴落とせば、半貧乏(半金持ち)を維持できるぞ、と誘い水を向ける。「言うことをきかないなら、子会社に出向させるぞ」「言うことをきかないなら、非正規社員にしてしまうぞ」「言うことをきかないなら、パートにしてしまうぞ」と言うかわりに、たぶん経営者なら「言うことをきいたら契約社員にしてやる」「言うことをきいたら正社員にしてやる」と言う。そうやって「差別構造」を固定化する。
 大声を出して笑いながら見て、見終わったら、ぞっとする。映画のストーリーではなく、いま、現実に起きていることに気がついて。この社会に充満している「におい」に気がついて。



 この映画は、福岡では大人気で、私はKBCシネマで見るつもりで出掛けたのだが、映画館に上演の20分以上前についたのに、劇場の外にまで列がつづいている。「あれ、きょうは受け付けが遅かった?」と思ったら大間違い。私が見ようとした初回はすでに売り切れ。映画館のなかにはすでに入場を待つ人が列を作っていて、劇場の外の人の列は次の回のチケット購入者だった。しかも、もうすでにだいぶ売れているらしい。そういうことが、開いたドアの向こうのやりとりから聞こえてくる。その間にも、列はどんどん長くなる。私は急いで中洲大洋でもやっていたことを思い出し、ネットで予約しようとするが、なかなかつながらない。やっとつながったと思ったら、そこもすでに半分以上埋まっている。いつもの席が埋まっている。でも、そこにいちばん近い席を、なんとか確保した。中洲大洋も満員だった。
 KBCシネマも中洲大洋(スクリーン2 )も客席数が 100席程度だが、こういう経験ははじめて。だれが宣伝しているのだろう。びっくりした。

(2020年01月13日、中洲大洋、スクリーン2)
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J・J・エイブラムス監督「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」(★★)

2019-12-21 09:16:20 | 映画
J・J・エイブラムス監督「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」(★★)

監督 J・J・エイブラムス 出演 デイジー・リドリー、アダム・ドライバー、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック

 正確にはどう言ったのかわからないが、映画の後半に興味深いセリフが出てくる。「スピリット」と「ハート」をつかいわけている。主役のレイ(デイジー・リドリー)に対して、人間には「スピリット」は「ハート」がある、と言う。レイア姫だったか、ルークだったか、忘れてしまった。これは、言い直すと「ハート」があれば、人間は(レイは)ダークサイトには落ちない、という「予言」である。「ハート」を生きろという教えである。
 そうか。「スピリット」と「ハート」は、そういう具合につかいわけるのか。
 たぶん「科学」なども「ハート」でつくるのではなく、「スピリット」で切り開いてくものなのだろう。研ぎ澄まされた力。それは両刃の刃で、良い面もあるが危険な面もある。「ダスベーダー」は「ハート」を欠いているために、ダークサイトに落ちた。
 このときの「ハート」というのは、もう少し説明がいるだろう。たぶん、「愛」と言い直せばわかりやすくなる。そこには「憎しみ」は入っていない。私は単純な人間だから愛も憎しみも「こころ」の動きだと思うが、英語の感覚(ディズニーの感覚?)では「ハート」は「愛」なのだ。
 それを象徴するの「論理」と「シーン」が最後に二つ用意されている。ダスベーダーの親分(?)、パルパティーンが出てきて、レイに対して「俺を殺せ、憎んで殺せ。そうすればお前はダークサイトに落ちる。暗黒の支配者になれる」というようなことを言う。「憎しみ」がダークサイトにつながっている。「殺し」はどうしたって、どこかに「憎しみ」を含む。
 じゃあ、どうやって、その「縁」を断ち切るか。パルパティーンが繰り出す雷光のようなものを、レイはライトセーバーを十字に組み合わせて(キリストだね、笑ってしまうけれど)、その中心で反射させてしまう。パルパティーンはみずからの憎しみ(怒り)の「反射」で死んでしまう。レイはその死に直接関与していない。(詭弁だね。)だから、レイはダークサイトには落ちない。
 さらにパルパティーンとの闘いで死んでしまったレイをカイロ・レン(アダム・ドライバー)が自分のいのちを吹き込むことでよみがえらせる。キスシーンもある。これが「愛」。いかにもディズニーである。
 で、これを「ふたり」の物語ではなく、宇宙の物語にする。そのとき映画の最初につかわれていたことば「共生」がよみがえる。「愛とは共生である」。
 まあ、いいんだけれどね。映画だから。でも、映画だからこそ、「愛」とか「共生」なんてものはぶっ壊して「ダークな力」のなまなましさを展開して見せるというあり方もあっていいんじゃないかねえ。「ジョーカー」がそうであったように。だいたい、第一作の「スターウォーズ」がヒットしたのは、なんといってもダスベーダーの力だな。何だかわからない(セリフなんか聞こえない、息づかいだけ)けど、かっこいい。誰も傷つけない「共生」の世界は、理想かもしれないけれど、味気ないと思うよ。
 映画が「論理」になってしまっては、映画の意味がない。
 それにしても、42年前とは違って映画制作技術はどんどん発達しているか、宇宙船がやたらと出てくる。うるさすぎて、おもしろくない。もっと省略しても「量」を感じさせるのでないと、なんだか逆に「手抜き」に見えてしまう。工夫が足りない。それもつまらない理由だな。「おもちゃ」が減ったのもつまらないね。
 でも、まあ、これで「スターウォーズ」を見なくてすむと思うと一安心。「サイドストーリー」はこれからもつくられるだろうけれど。

(2019年12月20日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン13)
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ケン・ローチ監督「家族を想うとき」(★★★★★)

2019-12-19 08:21:22 | 映画
ケン・ローチ監督「家族を想うとき」(★★★★★)

監督 ケン・ローチ 出演 クリス・ヒッチェン、デビー・ハニーウッド、リス・ストーン、ケイティ・プロクター

 この映画の最後は非常に複雑だ。複雑にさせているのは原題の「Sorry We Missed You 」ということばにある。私は英語を話さない。イギリス人の友人もいない。だから「誤読」するしかないのだが。
 もし父親が家族を捨てて家を出ていく。もちろんよりよい収入を求めて出て行くのだろうが、そのとき「we」と書くかどうか。主語は「I 」だろう。さらに過去形ではなく「I will miss you 」(きみたちが恋しくなるだろう)ではないのか。
 なぜ「we」であり、また「missed」と過去形なのか。
 手がかりは映画の中にある。
 父親が窃盗集団に襲われてけがをする。病院へゆく。妻が付き添っている。夫の会社から苦情の電話が入る。その電話を奪い取って、妻が叫ぶ。「私たち一家をばかにしないで」(英語で何と言ったかわからないが、字幕は、そういう感じだった)。このとき「私たち(we)」がつかわれている。「私を」ではなく「わたしたちを」。
 さらに、父の車のカギを隠した娘が、カギを渡すときこんなことを言う。「このカギさえなければ、元の家族にもどれると思って隠してしまった」と。元の家族は「私たち(we)」であり、その「元の」につながるのが「missed」なのだ。「昔の家族がなつかしい、いまはどうしてこんなのだろう」と想い続けている。少女の気持ちは「missed」ではなく「miss」という「現在形」だと想う。
 息子の反抗も同じだ。「昔のおとうさんにもどって」というようなことを言う。昔が恋しい。
 これは父親も、その妻も同じである。いまは苦しい。昔がなつかしい。
 それが最後で「We Missed You 」と過去形に変わる。「過去形」に変わるのは(あるいは変えるのは、と言った方がいい)、主語が「I 」(ひとり)ではなく「we」(複数、私たち)に変わったからだ。父は、いったん家族を捨て去る。けれど、そのとき父は「ひとり」ではない。「私たち」であることを強く実感している。もう、負けない。「私たちをばかにするな」という妻のことばの「私たち」が生きている。「昔が恋しい」(昔がなつかしい)を通り越して、「かつては昔がなつかしい」だった。いまは家族が「団結」し直している。いろいろなことがあって「we」にもどっている。だから「過去形」で語るのだ。
 「未来」が見えない結末だが、その見えない「未来」に立ち向かう気持ちが、「いままで」を「過去形」にしてしまう。そこに希望がある。生きていく力がある。父はいったん家族を捨てる。家族はそれを止めようとする。けれど受け入れる。「we」は形式的には破壊されているが、こころは「we」にもどっている。
 この複雑なことばの中に、ケン・ローチのふつうの人々によりそう「祈り」のようなものを感じる。
 それにしても。
 世の中はいつからこの映画に描かれるように、ただひたすら合理主義を追求するだけのシステムになったのか。しかも、それは「資本家」にとっての合理主義である。利益が出るなら利益を分け与えるが、利益が出ないならそれは労働者の責任、というシステムである。ひとりひとりには「家族」がある。つまり、「事情」というものがあるのだが、それは「合理主義的契約」のなかには含まれない。「事情」を捨てる。「事情」をすべて「自己責任」にしてしまう。
 そうしたなかにあって、訪問介護の仕事をしている妻と向き合う、介護される人の生き方に、何か救われるものがある。介護される老人が、妻の髪をブラッシングすることを「生きる喜び」にしている。ひとと触れ合い、人の役にたつ。それはブラッシングは単に髪をととのえることではない。肉体が触れ合うことで疲れをとかしてしまうのだ。老人に髪をまかせている妻の姿は、髪を梳いてもらっているというよりも、ゆったりと湯船にひたっているような解放感にあふれていた。
 そこには、もうひとつの「家族」(we)がある。
 父親のところに警察から電話がかかってくる。息子が万引きをしたのだ。それを知った同僚が父親を心配する。父親の「家族」を心配する。そこにも「we」(家族)の姿がある。
 「家族」の経済的敗北を描きながら、経済的敗北には負けないという「意思表示」を感じる。「負けさせないぞ」というケン・ローチの怒りのこもった、苦しくなるけれど、同時に胸が熱くなる映画である。

(2019年12月15日、KBCシネマ1)

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ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「読まれなかった小説」(★★★★★)

2019-12-15 10:49:34 | 映画
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「読まれなかった小説」(★★★★★)

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 出演 アイドゥン・ドウ・デミルコル、ムラト・ジェムジル、ベンヌ・ユルドゥルムラー

 フー・ボー監督「象は静かに座っている」の対極にある映画である。出演者はひたすらしゃべりまくる。主役の息子、両親だけではない。脇役の友人や、書店で出会った小説家も、延々とことばを語る。それは精神なのか、感情なのか。イブン・アラビーを語るときでさえ、それは神学論なのか、哲学なのか、現実社会への憤りなのかわからない。あらゆるものに区別はなく、ただ「語る」ということだけがある。そして、こんなにしゃべりまくるにもかかわらず、彼らには「言い足りないこと」「言い残したこと」がある。その瞬間に「言えなかったこと」がある。つまり、「理解」しあわないのだ。
 映画だから、最後は「理解」に至るのだが、感動的なのは「理解」ではなく、こんなにも理解しあわずに、他人を拒否しながら、それでも「共存」しているということである。なにが彼らをつないでいるのか。逆説的な言い方になるが、「ことば」なのだ。
 「理解しない」というのは不思議なことで、「理解できる」何かがあって、そのうえで「理解しない」という決断に至る。私のことばは、そのようには動かない。私の肉体はそのようには動かない。そう判断するときの「そのように」という部分。そのとき動いている何か。「理性」と言っていいのかもしれない。「意味」をつかみとる力。いや「意味」をささえる「ことば」。「ことば」のなかに意味があるのか、「意味」の動きとしてことばがあるのか、これも区別はできないし、区別する必要のないものかもしれないけれど、何らかのことを「共有」したうえで、それを拒絶するとき「理解しない」(私は違う)という態度になる。
 「象は静かに座っている」のとき、「肉体」が先に動いて、その「肉体」をことばが追いかけるということを書いた(ように、思う)。この映画では、むしろ逆だ。「ことば」が先に動いて、それを肉体が追いかける。しかし追いつけない。肉体が残されてしまう。そしてそれは、ことばとは逆に、ひとが自然に受け入れてしまうものなのだ。
 こういうシーンがある。
 主人公が村からの帰り道、友人に会う。リンゴの木にのぼって、リンゴをとっている。友人はイスラム教徒の「聖職者」である。彼は友人をつれており、友人も「聖職者」である。そこで、神学論か社会論か哲学か何かわからないけれど議論が始まる。三人のアップもあるが、三人は村のなかを歩きながら話し続ける。そのときの三人の姿(遠景)、さらに村の姿がスクリーンに映し出される。「声」によって三人は区別できるし、「論理」によっても三人は区別できる。もちろん遠景とは言え「姿(肉体)」によっても区別はできるのだが、このときの肉体は「三人」という存在であって、それ以上ではない。「意味」の入れ物が三つある、その「入れ物」という感じである。いいかえると、このとき私は「入れ物」としての「肉体」があるということを受け入れて、それを見ている。たぶん歩いて議論している三人も、それぞれの「肉体」を「ことば」の入れ物として見ているように感じられる。「入れ物」は「入れ物」であって、「内容」ではないので、それがどんな形をしていても、それなりに存在してしまう。受け入れてしまうものなのだ。
 では、このとき「ことば」は何とつながっているのか。何を「共有」しているのか。
 イブン・アラビーが出てきたせいかもしれないが、「ことば」は「神」とつながっているのだ、と思った。それぞれひとりひとりが「神」と直接、「ことば」でつながっている。友人とつながっている、家族とつながっているのではなく「神」とつながっている。そのつながりのなか(ことば=意味)のなかに他人は入っていくことはできない。何か、イスラム教徒には、独特の「個人主義」がある。「ことば=神」の「個人的契約」のなかに他人は入ることができない。彼らが語っているのは、「私は神とこういう関係にある」ということだけなのだ。共通の話題が語られているようでも、そこには「絶対的な差異」というものがある。先に書いた「理解する/理解しない」は「あなたが神とどういうことばで契約するか、その内容は私には無関係(理解しない)だが、あなたのことばが神とつながっているということは理解する」ということになるかもしれない。
 「神」ということばがあいまいすぎるなら(あるいは、個人的すぎるなら)、「真理」と言い換えてもいいかもしれない。リンゴがある。リンゴという呼び名(ことば)がある。一個のリンゴは具象であり、それをリンゴと呼ぶことばは抽象である。そのときの具象と抽象を結び、イコールにするのが「真理」。ひとはそれぞれの「真理」を持っている。つまり、自分自身の「抽象能力」を「具象」と結びつけ、具象と抽象を行き来しながら、世界を把握している。そのときの「世界像」は無数になる。この「無数」を理解することはできない。「無数」を「一」にひきもどす「肉体」の存在を「意味を生きているもの」として受け入れるしかない。そういうことを、イスラム教徒(この映画に出てくるトルコ人)はやっているのだと思う。こういう生き方しかできないのだ。
 こんなことを書いても映画の「感想」にはならないし、「批評」にもならないとはわかっているのだが、私は、こう書くしかない。映画を見ながら考えたこと、感じたことは、いま書いたようなことなのだ。書きすぎているかもしれないし、書き足りないために、ごちゃごちゃになっているのかもしれない。
 しかし、この映画の「読まれなかった小説」というのは、なかなか味わい深いタイトルである。ひとりひとりの「ことば(人生)」は、結局「読まれなかった小説」なのである。ひとは「語る」。「ことば」を生きる。しかし、それは「神との個人契約」なので、他人に読まれ、共有されることはない。共有があるとすれば、夫婦という肉体、親子という肉体、さらには友人という肉体(ひとりひとりは、絶対的に違う)という感じを持ったまま、時間を生きているということだけなのだ。言い換えると「小説」を読んで「理解」できるのは、「肉体」を共有したことがある限られた人間だけである。その「共有」にも「誤読」が入り込むし、そうではない人間との間では、ただ「誤読」だけが存在するということにもなる。
 自己弁護をしておけば、私は「誤読」を生きる人間である。「誤読」しかしない人間である。私は生き方として「誤読」を選んだ。この映画の感想も、そういう意味では「誤読」の産物である。

(2019年12月13日、KBCシネマ1)

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フー・ボー監督「象は静かに座っている」(★★★★★)

2019-12-13 15:41:26 | 映画


フー・ボー監督「象は静かに座っている」(★★★★★)

監督 フー・ボー 出演 チャン・ユー、パン・ユーチャン、ワン・ユーウェン、リー・ツォンシー

 窓がある。あるいはドアがある。出口がある。そして、そこに人物がいる、という映像(シーン)が非常に多い。しかし、外も内部も、人物も「全体」が見えない。人物のアップの背後(脇、そば、周辺)が、どこかにつながっているけれど、「全体」が見えないので、どこにつながっているかわからない。逆に「外部」があることが、「内部」が閉ざされているという印象を強くする。
 「外部」はすべてのひとによって共有されるものであるのに対し、「内部」というのは人物に関して言えば「ひとり」ひとりのものであって他人とは共有できないものである。
 しかし、映画を見ているうちに、それが逆のことのように感じられてくる。
 「ひとり」ひとり違うはずの「内部」がどうしようもなくつながってくる。閉ざされたまま「共有」されてくる。だれも他人の「内部」など知らないはずなのに、それぞれが相手の「内部」を知っている感じがしてくる。主役の四人の「内部」だけではなく、その周辺の人物の「内部」も「違う」はずなのに、共通のものがどんどん増えてくる。
 逆に、「外部」はだれに対しても開かれているのに、それは「遠い」。たしかに存在するのに、それを「共有」したいのに、たどりつけない。
 こういう「抽象」的なことを、この映画はあくまでも「具体」として描き続ける。「抽象」にならずに、「具体」そのままでつたわってくる。「具体」のままで表現されている。そう感じるのはなぜだろうか。
 演出といえばいいのか、カメラアングルといえばいいのか、それに特徴がある。役者は「全身」で演技している。しかし、カメラは常に(と言っていいと思う)、「肉体」の「部分」しか映さない。「全身」で演技をさせておいて、「部分」しか見せないという、とても贅沢な撮り方(表現の仕方)をしている。スクリーンに映しだされることのない隠されたものを、観客は常に自分の「肉体」で補いながら映画のなかに引き込まれていく。自分の「肉体」で補った分は、常に自分の「過去」である。自分が体験し、「肉体」が「おぼえている」ことである。そういう「肉体」がおぼえていることは、たいていはいちいちことばにしない。自転車の乗り方、泳ぎ方をことばで説明できないけれど、そこに自転車があり、そこにプールがあれば、転ばずに自転車を漕ぎ、おぼれずに泳ぐのににている。無意識のうちに「過去」を復元し、「ああ、これは知っている」「こういうことは体験したことがある」という感じを、自分の「内部」に積み重ね続ける。
 この強烈な「説得力」を支えるのは、色彩計画である。舞台は地方都市。季節は冬。(晩秋かもしれないが。)雨が降っている。あるいは雨が降りそうな気配がある。光が鮮明ではない。ものの「輪郭」が明確ではない。色も「輪郭」が明確ではない。あいまいさに統一されている。この「輪郭」のなさが、別々のものである人間の「内部」を外にはみ出させ、また「外部(他人)」を内に引き込む。そういうことを「自在に」というのではないが、しつこく揺さぶる。
 「音楽」も、それによくにている。断片的である。明確な「輪郭」、つまりすぐにおぼえられるような「旋律」を持っていない。不安定に、何かがきらめき、何かが沈黙のなかへおちていく。
 「セリフ」も巧みだ。ストーリー(人間で言えば、全身)はことばとして語られない。逆に、ストーリーを要約して語ろうとすれば、その瞬間に抜け落ちていくような「日常会話」、あるいは会話というよりは言いたいことを封印したままのの「言い差しの断片」ばかりである。親子がけんかするときも、ことばで怒りを爆発させてしまうわけではない。「どうせ、わかってもらえない」という怒りを「肉体」に封印して、「言われなかったことば」を浮かび上がらせる。この「セリフ」の「構造」がスクリーンに展開される人物の映像、全身は映し出さずに、アップだけをぶつけてくる構造と非常に緊密につながっている。
 映画でしかできないことを、映画でやっている。映画でしかないから、映画を超えてしまっている。その強さに圧倒される。
 映画のラストも非常にすばらしい。主役の四人のうちの三人は、「座っているだけの象」を見るために(同じものを見る、外部を共有するために)満州里を目指す。(三人だが、脇役のこどもが加わり、四人という構造はかわらない)。その、どうでもいいような「バスの内部」と、窓から見える夜の風景が映し出される。途中だけが展開される。満州里へ向かっているかどうかは、風景だけではわからない。特徴的な風景(日本で言えば東京から京都へ行くとき、富士山が見える)というものがない。その延々とつづくバスの旅。途中で、トイレ休憩があり、息抜きがある。からだをほぐすために、ヘッドライトの光ので「羽根蹴り」をする。何にもならないゲーム。でも、そこにはただ「時間の共有」がある。
 あ、これなのだ。
 ひとは、時間を共有する。他人の「過去」は共有できない。共有した気持ちになる、共感する、ということはできるが、それは「共有」とは言えない。けれども、何にもならないことをするとき、ゲームをするとき、ひとはたしかに時間を共有する。そういう時間の共有の仕方がある。三人(四人)が旅をしているのも、その無駄な時間の共有かもしれない。これが、しかし、人間をつないでいるのだ。
 主役の四人は、誰かと時間を共有したいと思っている。でも、共有できない。「過去」を「共有」できない。だから「いま」を「共有」できるはずがないし、「いま」を「共有」できないとしたら「未来」はさらに「共有」できない。だから、絶望する。
 でも、どこかに「時間を共有する瞬間(共有できる瞬間)」がある。そのことを告げて、この映画はぱっと終わる。このシーンだけ、はるかな「遠景」であり、鮮明な「輪郭」と光、登場人物の全身が、とても小さく輝く。「羽根蹴り」の「羽根」さえも。蹴り損ねる足の動きさえも。
 傑作。
 文句なしの、2019年のベスト1。
 「ジョーカー」を見たとき、ここ数年のベスト作と思ったが、これはここ十年のベスト。「長江哀歌」を見たとき以来の感動である。

(2019年12月11日、KBCシネマ2)
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