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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェデリコ・フェリーニ監督「魂のジュリエッタ」

2020-11-10 18:44:37 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「魂のジュリエッタ」(★★★+★)(2020年11月10日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 ジュリエッタ・マシーナ

 フェデリコ・フェリーニ初のカラー作品。黒沢明の「どですかでん」を見たときのように、何か、不安な気持ちで見てしまう。
 あとは、イタリアは中国と同じで「歴史」があるから、なんでも巨大になってしまうという感じ。ケタが外れている。しかし、ケタが外れながら、妙に「完結性」がある。けばけばしい化粧や衣裳、明確な色彩の氾濫。それは、なぜか「競合」して互いを打ち消してしまうということがない。不思議なバランスがある。
 「どですかでん」を見たときは、モノクロの方がいいのに、と思いながら見た。フェリーニの場合は、そこまでは感じないが、「色が硬い」という感じがする。人工的、といえばいいのか。でも、人工的だからこそ、そこに不思議な調和もある。繰り返しになるが、不思議なバランスがある。
 なぜなんだろうなあ。
 別の角度から、見てみる。
 この映画の特徴は、最初にあらわれている。
 ジュリエッタ・マシーナの「顔」がなかなかスクリーンに映らない。カツラをとっかえ、ひっかえする。衣裳も変える。それを後ろ姿で見せる。やっと正面を向いたと思っても、影で見えない。この逆光のために顔が見えないというシーンは何回か出てくる。
 映画で、役者の顔を見せないで、いったい何を見せるのか。
 その疑問の中に、この映画の答えがある。フェリーニが描くのは、まず、ジュリエッタ・マシーナが「見る」世界なのである。どこまでが現実で、どこからが幻想なのか、はっきりしない。目をつむって見るのが幻想とは言い切れない。目に見える幻想を消すために目をつむるということさえするのだから。
 幻想は目で見るのではなく、「魂」で見る、とフェデリコ・フェリーニは言うかもしれない。私は「魂」というものがよくわからないので、ここは保留にしておく。ただし、目以外のもので見ている、ということだけは確かだと思う。そして、この「目以外で見る」ということが明確に意識されているために、全体のバランスが崩れないのかもしれないと思った。意識の明確さが「人工的」という印象を誘うのかもしれない。
 この「目以外で見る」ということを、映画という「目に見えるもの」にするというのは、なかなか複雑であり、刺激的だ。象徴的なのが、夫の浮気を撮影したフィルム。ジュリエッタ・マシーナは、夫と愛人のデートを自分の目で見たわけではない。しかし探偵の撮ったフィルムの中には「現実」が映し出されている。自分の目で見たのではないものが、現実としてそこにある。
 私たちが映画を見るとき、それと同じことを体験している。私たちは映像を見ているが、現実は見ていない。そして現実と錯覚する。これがフィクションなら、それは単に錯覚と言ってしまえるが、夫の浮気現場となれば、見たものを「錯覚」とは言えない。
 何か、変なものがあるでしょ? この論理。
 この変なものを、映画の中で、ジュリエッタ・マシーナはどう乗り越えていくか。日々、「幻想」に悩まされているだけに、これは非常にむずかしい問題だ。
 どうやって、乗り越える?
 このことを考えると、フェリーニはいい加減だなあ、というか、男はいい加減なもんだね、と思う。フェリーニ夫婦の体験がどこかに反映されていると思うのだが(「8 1/2 」以上に「個人的体験」が反映されていると思うのだが)、男は知らん顔をしている。女には困難を乗り越える力がある、と甘えきっている。そこのところがおかしい。いまは、こういう映画はもうつくれないだろうなあ、と思う。演じてくれる女優がいないような気がする。フェリーニに言わせれば、男の問題は「8 1/2 」で描いたから、今度は女の問題を描いた、ということになるのかもしれない。
 壇一雄に「火宅の人」という小説がある。映画にもなった。主人公を作家(男)ではなく妻(女)にして展開すれば「魂のジュリエッタ」ではなく、「魂のリツ子」になるのか。
 脱線した。目で見るのは現実か、幻想か。幻想は目で見るのか、目以外のもので見るのか、というところに踏み込んで、それを目に見える映画にする、というのはとてもおもしろいテーマだと思う。


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フェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2 」(★★★★★)

2020-11-09 20:41:43 | 映画

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、クラウディア・カルディナーレ、アヌーク・エーメ、サンドラ・ミーロ(2020年11月09日、KBCキノシネマ、スクリーン2)

 KBCシネマで「生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭」が始まっていた。一日一本、一回かぎりの上映なので「甘い生活」「道」は見逃してしまった。(気がついたら上映が終わっていた。)
 この映画で私がいちばんおもしろいと思うのは、「視線」のとらえ方である。冒頭、渋滞する車の中でマルチェロ・マストロヤンニが息苦しくなる。それをまわりの車からひとが見ている。それぞれ孤立している。孤立しているのに、すべての視線がマルチェロ・マストロヤンニに集中する。いや、集中しない視線もあるが、その視線でさえ見ないことでマルチェロ・マストロヤンニを見ている(意識している)と感じる。象徴的なのが、バスのなかの「顔のない乗客(顔が隠れている)」である。「視線」がないことによって、観客の「視線」をマルチェロ・マストロヤンニに集中させる。マルチェロ・マストロヤンニは車を脱出し、凧のように空を飛び、凧のように地上に引き下ろされる(引き落とされる)が、私はそのとき観客としてマルチェロ・マストロヤンニを見ているのではなく、スクリーンのなかの「誰か(描かれていない人間)」としてマルチェロ・マストロヤンニを見ている。マルチェロ・マストロヤンニ自身として、マルチェロ・マストロヤンニを見ているような気持ちにもなる。(これが最後の「祝祭」のシーンで、私もその踊りの輪の中に入っている気持ちにつながる。)
 最初の方の湯治場の描写も同じである。多くの「名もないひと」がマルチェロ・マストロヤンニを見つめる。その「視線」がなまなましい。「名もないひと」の不透明な肉体が「視線」のなまなましさの奥に感じられる。マルチェロ・マストロヤンニは「見られている」。そして同時に、「生もないひと」を見ている。しかも、なんというのか、「見る欲望」を見つめていると感じる。「名もないひと」は「見る」ことで何らかの欲望を具体化している。簡単に言い直せば、マルチェロ・マストロヤンニを見てやるぞ、という感じかもしれない。
 これは単にマルチェロ・マストロヤンニが有名人(映画監督という役どころ)だからではなく、人間はだれでも目の前にいる誰かに何かを感じたら、それを見てしまうものなのだ。象徴的なのが、マルチェロ・マストロヤンニがクラウディア・カルディナーレの「まぼろし」を見るシーン。クラウディア・カルディナーレが見つめている。見つめることで何かを語りかけている。愛の欲望と言い直すと簡単だ。マルチェロ・マストロヤンニは見られているというだけではなく、愛の欲望の対象として見られている(誘われている)と感じる。クラウディア・カルディナーレの視線は、それほど強烈である。
 ほかの女優たちもマスカラや眉を強調することで、「視線」のありかをはっきり知らせる「化粧」をしている。顔を見せているだけではなく、「見ている」ということを見せているのだ。
 マルチェロ・マストロヤンニのまわりには大勢の女がいる。その大勢の女の中で、クラウディア・カルディナーレ(ミューズか)、アヌーク・エーメ(妻)の対比がおもしろい。ウディア・カルディナーレの「視線」は「見ているぞ」という感じで動く。目力が非常に強い。しかし、アヌーク・エーメは化粧の関係もあるのかもしれないが、「視線」が「引いている」。なんというか、「引いた演技」をしている。「視線」だけではなく、もっと「肉体」全体でマルチェロ・マストロヤンニと向き合っている。そうか。こういう感じが「妻」なのか。長い時間をいっしょに生きてきて、「視線」だけではなく、手や足や、からだ全体の動き方で相手を受け止めている。何かを訴える、という「深さ」のようなものを感じさせるのか。
 もうひとり重要な役どころとしてサンドラ・ミーロがいるが、彼女は気晴らしの愛人か。「視線」がらみでいうと、「娼婦風に」といってマルチェロ・マストロヤンニが眉を描きくわえるシーンがおもしろい。
 マルチェロ・マストロヤンニはこの三人の間を、非常に無邪気に渡り歩く。マルチェロ・マストロヤンニの「子ども時代」を思い起こさせる少年が出てくるが、その「少年」のままの「こころ」が動いている。誰かに焦点をしぼり、そのひとと生きていく、という「決意」のようなものをつかみきっていない。それが「かわいい」といえば「かわいい」のかもしれない。けっして「汚れない」という感じ。純粋なまま、という感じ。でも、肉体はおとななんだよなあ。そこに、まあ、「苦悩」があるのかもしれない。
 まあ、どうでもいいんだけれど。
 マルチェロ・マストロヤンニには、何か、不透明になりきれない「純粋さ」のようなものがあるなあ、と感じた。
 それにしても。
 このころの映画というのは、いまの映画から見ると「絶対的リアリズム」を表現しようとしていないところが、とても新鮮だ。どこかに「リアル」があれば、あとは嘘でもいい。クラウディア・カルディナーレがはじめて登場するシーンが象徴的だが、「視線」さえリアルなら、歩き方(動き方)は逆に不自然でもかまわない。いや、不自然な方が「視線」を強調することになるから、おもしろい。ぜんぜん関係ないが、ハンフリー・ボガードの「動かない両手」のようなものである。両手を動かさず、突っ立っている感じなので、表情の微妙な動きや声の変化が印象に残るような感じかなあ。人間の「視線」さえつたわるなら、ほかの部分は「視線」を強調するための「脇役」。この映画は、そんな具合にして撮られていると思った。


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黒沢清監督「スパイの妻 劇場版」(★★)

2020-10-20 15:26:45 | 映画
黒沢清監督「スパイの妻 劇場版」(★★)(2020年10月20日、KBCシネマ1)

監督 黒沢清 出演 蒼井優、高橋一生

 黒沢清は何を撮ろうとしているのか。私は、そんなに多くの作品を見ているわけでもない。見た作品も、ほとんと覚えていない。私とは、相性が悪いのだろう。
 思うことは、ただひとつ。
 黒沢は、古い映画をたくさん知っているに違いない。1950年代、あるいはそれ以前のものもあるかもしれない。スクリーンの枠組みというが、絵のなかにしめる人物の位置が、どうも古くさい。私が映画館で映画を見るようになってから見た映画というよりも、テレビで見た白黒フィルム(テレビ自体が白黒だったが)やリバイバルとしてみた白黒フィルムの感じに非常に似ている。
 この映画のなかには、実際に、主人公が妻をつかって撮ったフィルムが流されるが、それは「出色」。その映画中映画のもっているニュアンス、トーンが、まあ、黒沢が狙っている映画ということになるのだろう。
 全編を白黒で撮ると、この映画はなかなかおもしろいものになると思う。
 出だしの英国人を逮捕するときの建物の前の刑事ふたり。ひとりが白い服。一人が(忘れたが、白くない服)、その間にカーキー色の軍人(?)が入り込む。カラーだと、色がうるさくて、緊張感がそがれる。
 森の中を車が走るシーン、木の間から見える空(光)と樹木の形(影)のコントラスト。これなども、黒沢明の「羅生門」に通じるものをもっているかもしれない。モノクロ映画ならば。
 さらに、登場人物たちの、妙にのっぺりした顔(クライマックスまでは、まるで能面)のように、目鼻の輪郭があるだけで、陰影がない。モノクロというよりも、無声映画時代の「顔さえ見せておけば、セリフなんてどうでもいい」という時代の撮り方だなあ。
 これに輪をかけるのが「セリフ」に重心が置かれていること。蒼井優の「セリフ」が特徴的なのだが、「心情」をことばで説明する。映画ならば、ことばでなく、役者の肉体と顔で、感情の変化をあらわすのだが、「セリフ」をいったあとで「顔」が動いている。
 だから、クライマックスというか、見せ場はみんな「演劇(舞台)」みたいな感じ。
 最後も、あまりにも「説明」的すぎる。高橋一生(でいいのかな?)が、船の上で帽子を振っているシーン、蒼井優が「だまされた」と気づいた瞬間でおわっておけば、まだ映画の印象は違ったかもしれない。蒼井優の精神科病院への入院、そこでのやりとり(大演説)、空襲という幕切れは、完全な「紋切り型」。
 これを新しいスタイルと感じるか、時代後れと感じるかは、人によって違うだろうが、私は「時代後れ」と感じる。



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ファラド・サフィニア監督「博士と狂人」(★★)

2020-10-18 10:05:59 | 映画
ファラド・サフィニア監督「博士と狂人」(★★)

監督 ファラド・サフィニア 出演 メル・ギブソン、ショーン・ペン(2020年10月17日、キノシネマ天神、スクリーン2)

 「辞書作り」の苦労を感じたくて見に行ったのだが、肩すかしを食った感じ。
 ショーン・ペンが「ことば」にのみこまれていくのは、「ことばを読んでいるとき、自分が救われる」というような言い方で表現されている。そして、「本のなかのことば」を読んでいたときは、確かにそうだったのだが、「現実のことば」に直面すると救われるどころか、もっともっと深い苦悩に引き込まれていく。「ことば」を「現実」(自分の肉体)で定義しようとすると、どうしていいかわからなくなる。ここが、この映画のクライマックスで、こういう「矛盾」のなかに潜む「絶対的真実」(一回かぎり、その人かぎり)を具現するには、やはりショーン・ペンが必要だったというともわかる。
 こうした「ことばを超えた絶対(一回かぎりの真実)」をどうやって「ことば」としてとらえ直し、「現実を定義するか」。言い直すと、ことばはどうやってことばになるか。この哲学的問題を考えるには……。
 あ、あ、あ、あ。
 私は「英語」がわからないのだった。「字幕」にはアルファベットと日本語が交錯して映し出されるが、ここはどうしたって英語そのものの「来歴」というか「歴史」がぼんやりとでも感じられないと、起きていることが実感できない。
 困ったなあ。
 ここがクライマックスだぞ、ということはショーン・ペンの動きと、それを補足する「日本語字幕」で「ストーリー」としては理解できるが、その「ストーリー」に私の「肉体」が重ならない。言い換えると「感情移入」できない。
 英語が母国語の人なら感じるに違いない「ことばの響き(深み)」が、私の頭のなかを素通りしていく。かすめる、という感じすらしないのだ。
 まいったなあ。
 だからね、逆に言うと。
 その「クライマックス」よりちょっと前の、ショーン・ペンの人生をほんとうの苦悩に引き込む女性が、「文字が読めない」とわかった瞬間、それに対するショーン・ペンの説得というか、励まし、その後女性が文字を覚え、読めるようになっていく、ついには「ことばをこえることば」(深い真実)を書くようになるまでの、なんというか、「さらり」とした部分が、とても私の「肉体」には響いてくる。実に、実に、実に、せつせつと感じられる。
 場違いを承知で書くと、石川淳や森鴎外の、「ここはちょっと簡単に書いておくね。あとで必要になる(伏線のはじまり)なのだから」という感じの「(映画)文体」になっている。
 あ、ショーン・ペンのことばかり書いたが、一方のメル・ギブソンにも妻との愛の葛藤、家族への愛と「学問」への愛の両立というような問題が起きるのだが、その苦悩のなかに「ことば」はあまり重要な要素としては入ってこない。なんというか、「謎解き」というか、「頭脳の解釈」で完結しているように思える。これは、私が英語がわからないということと原因があるかもしれないが。
 で、また、ショーン・ペンの逸話にもどるのだが、「ことば」を覚えるということはとても危険なことなのだ。とくに「ことば」を書くということは。知らなかった自分を発見し、その知らなかった自分になってしまう。そうするともう、その知らなかった自分を信じて、それについていくしかない。「ことば」を生み出しながら、「ことば」に導かれ、「ことば」についていく。
 辞書には。とくにこの映画が題材としている「オックスフォード英語大辞典」には、そうやって「肉体(生活)」に定着してきた「ことば」の歴史(変遷/つまり揺らぎ)が書き込まれている。そのうちのなんとかということば(私はもう忘れてしまった)には、ショーン・ペンの逸話がなければわからないものがある。いや、それよりも重要なのは、この映画では「見出し言語」としては紹介されていないが、たとえば「love(愛)」というだれもが知っているようなことば、日常語になりきってしまっていて、その意味を真剣に考えることのないことばにも、それがいままでの「愛」の定義ではとらえきれないものが隠れているということを教えてくれる。

 こんなふうに感想を書いてしまうと、とてもいい映画、みたいになってしまうが。
 これはね、これはこれで、ことばの「罠」なのだ。ことばは「書きたい」と思っていることを書くとき、その他を切り捨ててしまう。その結果、「結論」がどうしても「結晶」してしまうということが起きる。
 「異端の鳥」は大傑作であるけれど、たったひとつ、通俗映画そのものに通じるエピソードのために台無しになってしまっている。この「博士と狂人」は逆に、たったひとつ、ショーン・ペンが女性の「弱点」のようなものに気づき、それを女性が「弱点」であると認識し、自覚を持って越えていく、その「超越」の向こうになにがあるかわからないが、それについていくことからはじまる「破滅」が映画を駄作から救い出している。ここだけなら、まるでギリシャ悲劇だ。
 でもね、★はやっぱり、2個のまま。肝心の「英語」がわからない。英語がわかるようになれば★4個かも。



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アーロン・ソーキン監督「シカゴ7裁判」(★★★)

2020-10-11 18:02:41 | 映画
アーロン・ソーキン監督「シカゴ7裁判」(★★★)

監督 アーロン・ソーキン 出演 エディ・レッドメイン、マイケル・キートン(2020年10月11日、キノシネマ天神、スクリーン2)

 「裁判映画」だから、やっぱりことばが主役。
 そして、この「ことば」のあつかいが、この映画ではとてもおもしろい。映画のなかでも「コンテキスト」ということばが出てきたが、ことばの意味は文脈によって違ってくる。何を言ったかと同時に、どういう状況で言ったか。
 エディ・レッドメインは学生の運動家である。非常に弁が立つ。しかし、そのことばは「あいまいさ」を含んでいる。「我々の」という「所有形」を多用する。彼がだれかと一緒にいるとき、つい「我々の」ということばをつかう。一緒にいても「我々」ではないことがある。
 具体的に言えば、この映画で描かれている七人は、1968年、シカゴで開かれた民主党全国大会の会場近くに集まった七人である。ただし、その七人は、それぞれ所属している団体がちがう。立場がちがう。たまたまデモを先導したという理由で「ひとまとめ」に逮捕され、ひとまとめに起訴されている。そのなかには、どうしても相性の悪い人間がいる。エディ・レッドメインはヒッピーが嫌いだし、ヒッピーはエディ・レッドメインを嫌っている。「我々」なんかではないのだ。たとえ「我々」というときがあったとしても、それぞれが自分の「コンテキスト」を生きている。しかも、自分の「コンテキスト」を守ろうとしている。
 七人のなかにひとり「ボーイスカウト」の世話係(?)のような「暴力否定主義」のおじさんがいて、こどもに「どんなことがあっても暴力はダメ」と言っているのだが、法廷で思わず法廷の官吏を殴ったりもする。自分で自分の「コンテキスト」を逸脱してしまう。七人以外にアフロ系の男も起訴されていて、彼は彼で「コンテキスト」の格差に怒りをぶちまける。
 あ、ずれてしまった。
 ことばの「コンテキスト」にもどしていうと、エディ・レッドメインのことば「友人が警官の暴行を受けて負傷した。血を流した。彼の血は我々の血だ。我々の血がでシカゴの街で埋めよう(これは正確なことばではない、私がテキトウに書いている)」というようなことを言ってしまう。これが「暴動を煽った」と認定され、七人は有罪になる。
 このエディ・レッドメインことばは、「11人の怒れる男たち」で、長引く会議、対立する意見にいらだち、陪審員のひとりが「殺してやる」と叫ぶのに似ている。ほんとうに血を流せ、街を血でみたせ、ほんとうに殺してやる(殺意をもっている)というのではなく、おさえられない怒りが「血を流す/殺す」という「比喩」を呼び寄せている。しかし、「コンテキスト」を無視すれば、これは「脅迫」になるし、「殺人の予告」(意思表示)にもなる。
 逆の「コンテキスト」も示されている。公園で集会を開きたいと言ってきたヒッピーに対して市役所の担当者がダメだという。「ダメといわれても集まる」「どうすれば解散するか」「10万ドルくれれば集まらない」。この「10万円よこせ」は状況次第では「恐喝」になる。しかし、担当者は「恐喝」とは感じていない。犯罪性を感じていない。
 というぐあい。
 そして、これは、また「ことば」が語られない「コンテキスト」をも浮かびあがらせる。この裁判自体が、政府の、ベトナム戦争に反対する学生、ヒッピーは国策の邪魔だという「コンテキスト」によって引き起こされている。暴動があったから七人を逮捕するというのではなく、七人を逮捕することでベトナム戦争反対という運動を抑えつけるという「コンテキスト」を完成させようとしている。法廷では語られないことばが、じつは裁判そのものの「コンテキスト」になっている。
 あ、ずれているのではなく、私の書いていることは徐々に「本筋」にもどっているのか。
 これが、最後の最後で、じつに感動的な「コンテキスト」を破壊することばを噴出させる。政府の意図を叩き壊す。
 最終陳述を認められたエディ・レッドメインが、裁判が始まった日から判決の日までに死んだ兵士を名前、5000人近くの名前を読み上げる。ベトナム戦争で死んだ兵士の名前。その人たちへの追悼を、自己主張にかえる。法廷が拍手でつつまれる。
 七人がやったこと。それはベトナム戦争への抗議、ベトナム戦争を拡大する政府への抗議だったのだ。アメリカ人が理不尽な根拠でベトナムに派兵され、多くの兵士が死んでいる。ベトナム人も死んでいる。この政権を許すことができない。
 「コンテキスト」と「コンテキスト」の戦い。そのなかで、ことばはどんなふうに動くか。ことばをどう動かしていけるか。これは映画であると同時に、ことばと「コンテキスト」の問題を考えさせる作品である。言い直せば、非常に政治的で、民主主義とは何かを問う作品だ。民主主義とは、ことばがどれだけ自由に自分自身の「コンテキスト」を確立し、それにしたがって他者と向き合うことができるか、どれだけ多くの「コンテキスト」を用意できるか、という問題である。つまり、「多様性」の問題である。
 いま日本では「問題ありません」「指摘はあたりません」という菅の「コンテキスト」だけが横行している。ジャーナリストに求められているのは、多くの国民と共有できる「コンテキスト」の形成だが、何人がそれを自覚しているか。菅と一緒にパンケーキを食べるという胸焼け、吐き気をもよおさせる「コンテキスト」を菅と共有しているだけだ。
 こういう映画がつくられるアメリカの自由を非常にうらやましく思う。

 マイケル・キートンが重要な役どころで、ストーリーを予告する形で登場する。「ミスター・マム」のときから、とても好きだ。マイケル・キートンが出ていると知って、見に行ったのだった。ときどき、目のなかに顔がある、という印象になる。目に引きつけられる。 











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バーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」(★★★)

2020-10-09 15:16:00 | 映画
バーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」(★★★)

監督 バーツラフ・マルホウル 出演 ペトル・コラール(2020年10月09日、キノシネマ天神、スクリーン3)

 これは語りづらい映画である。ということは、映画そのものである、ことばにするとつまらない、ということなのだが。
 ホロコーストを逃れた少年が体験する「日常」を描いている。しかし、「日常」なのに「瞬間」でしかない。「いま」しかない。過去もなければ、未来もない。過去に経験したことが何の役にも立たないし、これから先、何が起こるかわからない。
 唯一、これから起きることがわかるのは、少年がナイフを拾った場所を教えに行くシーン。そこでは少年は「うそ」をつく。「うそ」というのは、かならず「計画」を含んでいる。つまり、そこには「未来」が予想されている。予想されている「未来」のために「うそ」をつく。
 このシーンが、いわゆる「普通の映画」らしい唯一の部分。そして、ひとつのクライマックスでもあるのだけれど、このわかりやすいシーンだけが、なんといえばいいのか、興ざめするのである。主人公に感情移入して、「やったね」と言ってしまうのだが、つまり共感してしまうのだが、その共感がこの映画を壊してしまう。このシーンがなければ、私は★を5個にした。マイナス1ではすまない、マイナス2という感じで、よくないのである。
 このほかのシーンは、少年には、何が起きているのか、さっぱりわからない。どうすれば生き延びることができるのか、「計画」が立てられない。場当たりで、反応するしかない。
 女とのセックスのシーンがそれを端的に語っている。女は少年にクリトリスを舐めさせ、快感にふける。次にセックスに誘う。少年は慣れていないから(まだ10代の前半、もしかしたら10歳以下かもしれないので、あたりまえだけれど)、あっという間に射精する。女は怒りだす。さらには、山羊とセックスして見せる(そういう素振りをする)。こんなことは、少年には絶対に想像できない。わからないことが、次々に起こる。目の前で「他人の行動」として起きるだけではなく、自分の「肉体」そのものが、そういう「現場」に誘い出されてしまう。
 少年は最終的に生き延び、父と再会するのだが、あまりに過酷なことを体験しているので、どうしても「未来」がわからない。父親と少年は一緒にバスに乗って我が家へ帰るのだが、そのとき父親は「未来」がわかっているから、安心して思わず眠ってしまう。けれど、少年は「眠り」に身をまかせることができない。父親の手に刻まれた数字を見て、自分にはそれがないことを思う。そして、自分の名前を、バスの窓に書く。「いま」自分は「ここにいる」と。「いま」「ここ」を「名前」で結びつけて、生きていくしかないのだ。
 映画のタイトルは、エピソードのひとつからとってる。野鳥の羽にペンキを塗って空に放つ。すると、仲間の鳥が「色違い」の鳥を見つけて、一斉に攻撃をし始める。小鳥は力尽きて墜落し、死んでしまう。少年はかろうじて「異端の鳥」のように死なずに生きている。しかし、それは偶然である。
 しかし。
 あまりの残虐さ(陰湿さ)に、耐えられない人がいるかもしれない。私は怖いシーン、血が飛び散るシーン、残酷なシーンは大好きな人間だが、この映画には、ちょっとまいった。どのシーンも、それがストーリーとなって動いていくのではなく、ただ「いま」としてそこにあるだけだからだ。普通の映画なら、このシーンは残酷だけれど、ストーリーをこんなふうに「説明」している、と言えるのに、この映画では、ただ「残虐」なだけでからである。









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クリストファー・ノーラン監督「TENET テネット」(★★)

2020-09-28 19:41:58 | 映画
クリストファー・ノーラン監督「TENET テネット」(★★)

監督 クリストファー・ノーラン 出演 ジョン・デビッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、ケネス・ブラナー

 大音響、という評判だったので敬遠していた。耳が痛くなるのは耐えられない。一方、私は大音響の中でも眠ることができるという特技を持っている。MRI検査。大音響と暗闇の密封感が怖いと言われていたけれど、私は、寝てしまった。検査がおわって、揺り起こされた経験がある。
 で、この映画、やはり大音響がつづくと私の肉体が「自己防衛」してしまうのか、うつらうつら。見ているのが面倒くさくなって、寝てしまった。
 だから、見落としがあるのを承知で書くのだが、ぜんぜん、おもしろくない。時間を逆行すると言ったって、ねえ。基本的には「ターミネーター」と、どこが違う? 「ターミネーター」のように悪役に魅力がない。ぜんぜん、こわくないじゃないか。
 あ、私は、ケネス・ブラナーが好きなんです。実は。声が。それで、ケネス・ブラナーが出ているなら見てみようと思って見たんだけれど、動機が不純だった? だからおもしろくない?
 いやいや。
 「時間逆行」のハイライトがはじまる寸前、カーチェイスというか、消防車などをつかった大がかりな車の暴走シーン。そのとき、主人公の乗っている車のバックミラーが壊れている(ひびが入っている)のを映し出す。これは、この車が実は未来でトラブルを体験してきたことがある。そのトラブルは、こういうこと、という導入部になっている。それが、見た瞬間にわかる。「さあ、見てください」とスクリーンいっぱいに映し出しているでしょ? 親切といえば親切だけれど、別にここまで親切にしてくれなくてもいいよ、と言いたくなる。
 タイトル前のオペラハウスで、椅子に開いた穴が、銃弾が逆戻りして塞がるシーンは、まあ、この映画のテーマが「時間の逆行」と説明するのに必要なんだろうけれどね。
 それにしても、笑ってしまうよなあ。「時間の逆行」といいながら、その時間は順行の時間とパラレル(平行)を、一枚のガラスを挟んで同時に見せるんだから。こんな種明かし(?)見たくないようなあ。「何が起きている?」と驚く前に、こんなばかな(図式的な)映像じゃ、「時間体験」にならないなあ。
 それにしても。
 悪役のケネス・ブラナー。彼には子供がいる。これが、この映画の最大のミス。脚本のミス。子供がいる、ということは、もうそこにはケネス・ブラナーの手の届かない「未来」(時間の順行)がはじまっているということ。どんなにあがいてみたって、ケネス・ブラナーは負ける、勧善懲悪というと変だけれど、ジョン・デビッド・ワシントンが最後には問題を解決して勝ち残る、ということがわかりきっている。いや、映画は別にストーリーを見るためのものじゃないから、結論がわかってもかまわないのだけれど、「時間」の問題の基本が提示され、そこに結論が浮かびあがるというのは、なさけない。あじけない。
 「ダンケルク」では、陸の時間、海の時間、空の時間を、「映画を見ている時間」に重ねあわせるという画期的なことをやった監督なのに、「未来」を描くのは苦手みたいだなあ。
 (2020年09月28日、t-joy 博多スクリーン9)


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ロン・ハワード監督「パヴァロッティ 太陽のテノール」(★★★)

2020-09-25 08:51:05 | 映画
ロン・ハワード監督「パヴァロッティ 太陽のテノール」(★★★)

監督 ロン・ハワード 出演 ルチアーノ・パバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、ボノ

 俗に三大テノールという。ルチアーノ・パバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス。私は音楽に詳しいわけではない。オペラは見たことがない。だから、いい加減に書くのだが、この三人は、私の感覚ではどうみても「同等」ではない。だから「三大」というのは奇妙な感じがする。(では、だれが三大かと言われたら、こたえようがないのだが。)
 まずホセ・カレーラスの声がピンと来ない。プラシド・ドミンゴは声よりも顔が目立つ。顔で人気が出たんだろうなあ、と思う。ルチアーノ・パバロッティは美声もあるが、何よりも「大声」という感じがする。そこが、非常に魅力的だ。こんな大声を出すことはできない。ホセ・カレーラスは完全に見劣りがする。
 で、再び、なぜ「三大テノール」か。この映画では、その秘密が明かされる。ホセ・カレーラスが白血病で入院した。彼を励まし、退院したのをきっかけに「三大テノール」として、一種の「応援コンサート」をやったのだ。これが成功し、「三大テノール」が誕生した。ホセ・カレーラスが見劣りがしたのは、単に声が小さい、体が小さいだけではなく、病み上がりという問題があったのかもしれない。
 つかわれている音源は古いものもあり、音質的には問題があるのかもしれないが、それでもパバロッティは飛び抜けて魅力的である。声が大きくて、まっすぐという印象が非常に強い。こんなふうに大声が出れば、私は音痴だが、音痴であっても歌うのは楽しくなるだろうと思う。
 声について、ボノがおもしろいことを言っている。パバロッティがオペラに復帰したとき、全盛期の声とあまりにも違う、と悪評だった。しかし、ボノは「つかいこんだ声の魅力がある」という。それを証明するように、プラシド・ドミンゴの指揮で、死んでゆく男かが歌うシーンがある。その声が、非常に切実である。若いときの、まだまだ大声が出せるというような感じではなく、限界を知って、それを受け入れる声の不思議な「なつかしさ」のようなものがある。
 ああ、そうなのか、と納得する。
 オペラともパバロッティとも関係ないのだが、「声」で思い出すのは、美空ひばりの「津軽のふるさと」である。少女時代の音源がCDとして発売されている。クリアな音ではないのだが、私のこの古い音源が非常に気に入っている。おとなになってから(?)の「津軽のふるさと」も何度か聞いたが「なつかしさ」が違う。少女なのに、大人以上に「なつかしさ」を知っている。一生に一度だけ体験する「ほんとうのなつかしさ」。その「なつかしさ」は、どこかでパバロッティの「なつかしさ」に似ている。それは「代表作」のひとつではあっても、「最高傑作/絶対作(?)」ではない。しかし、「これしかない」というものを内に抱え込んでいる。思わずこころが惹かれ、動くのである。
 ひばりは音符が読めない、と言われた。パバロッティも「どうして譜面どおりに歌わないのか」と批判されたとき「音符が読めないんだ」と応えたという逸話がある。(映画には出てこなかった。)そのことと関係するかどうかはわからないが、パバロッティがジュリアードで教えたとき、女性に「君の場合は、演奏よりちょっと速く歌った方が魅力が出る」というようなことを言う。「楽譜」として存在する音よりも、自分の「肉体」のなかにある音を解放する、その力にまかせるということだろう。こういうエピソードを聞くと、ああ、パバロッティはただただ歌うことが好きだったんだ、自分の「肉体」の声にしたがって歌っていたのだ、ということがわかる。自分を解放している。だから、あんなに伸びやかなのだ。
                 (キノシネマ天神1、2020年09月24日)

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太田隆文監督「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(★★★★)

2020-08-23 12:10:07 | 映画
太田隆文監督「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(★★★★)

監督 太田隆文

 「ドキュメンタリー」というよりは「インタビュー」。沖縄戦を生き残った人たちの証言と、当時の記録フィルムを合体した作品。
 この証言から、私はふたつのことを学んだ。
 ひとつは、沖縄は「日本本土」の「捨て石」にされた。「防波堤」というよりも、時間稼ぎの「捨て石」。沖縄を守ろうという気持ちは日本軍には少しもなかった。
 その視点(沖縄はどうなってもかまわない、日本本土さえ守れればいい)は、そのまま現在の政権に引き継がれている。
 さらに、この「沖縄捨て石(沖縄防波堤)」の考えは、いまはアメリカと共有されている。当時アメリカが沖縄を拠点にして日本を攻撃しようとしたように、いまは沖縄を中国や北朝鮮を監視する拠点にしている。もちろん、いざというときは「捨て石」の戦場にするつもりでいる。沖縄を戦場にしているかぎり、アメリカ本土への攻撃は遅れる。
 ここには沖縄県民(民族、歴史、文化)への蔑視が潜んでいる。同等の人間とは見ていない。
 これは、私がこの映画から学んだ、もう一つのことへとつながる。
 同等の人間と見ない、というのは、一方的な「人間観」を押しつける教育になる。「理想の日本人」を育てる、という教育につながる。それは簡単に言い直せば「洗脳教育」である。
 天皇を絶対視する。ことばを強制的に統一する。(これは、沖縄だけではなく、朝鮮半島でも行われたことである。ほかの国に対しても行われたことである。)この「ことばの統一」は単に「共通語/強制的に使用させる」というだけではない。
 ことばは、どこの国にとっても(そこにすむひとにとっての)、思想の到達点である。ことばをとおしてしか、私たちは考えられない。ことばを奪われることは考えることを奪われること、批判する力を奪われることである。
 それに関して、非常に興味深いエピソードが紹介されている。濠に避難し、「集団自決/日本軍による強制死」を迫られたとき、アメリカに住んだことのあるひとが濠から出てアメリカ軍と交渉する。アメリカ軍が、住民に「殺さないから出てこい」と呼びかけたことからはじまる交渉だが、彼は、アメリカ軍と交渉する。その結果、その濠に避難していたひとたちは全員助かる。別の濠に避難していたひとの多くは「強制死」の犠牲になる。
 かれは、なぜ、交渉ができたのか。英語が話せる、というだけの理由ではない。他人のことばを聞き、それが真実であるかどうかを自分で考えることができたからだ。どちらの考え方が正しいか、自分で判断できたからだ。こういう考えが育つためには、人間はいろいろな意見を持っているということをまず知らないといけない。そのうえで、自分に何ができるか、どうすれば生きられるかを考える必要がある。そのとき、必然的に「批判」というものが生まれてくる。
 もうひとつ、これに関連して。
 「強制死/集団自決」が手榴弾をつかって、はじまる。しかし、不発弾が多くて、なかなかうまくいかない。そうこうするうちに、一人の母親が「どうせ死ぬにしろ、いまここで死ぬ必要はない。生きられるだけ生きよう、逃げよう」と子どもたちをつれ、「強制死」の現場を脱出する。母親の「本能」といえば本能なのかもしれないが、ここでも力を発揮しているのは、自分で考えること。そして、自分のことばで語ること。母親は自分のことばで、こどもたちを説得したのだ。
 「教育」と「洗脳」は、かなり似通ったところがある。そしてそれはいつでも「ことば」の強制と同時にはじまる。
 ここから、私はこんなことを考える。映画からかなり離れるが、考えたことを書いておく。
 いま、「国語教育」の現場で「文学」が排除され、「論理国語(?)」というものが幅を利かせようとし始めている。社会に流通している「文書」を正確に読み取り、ひととの交渉をスムーズにする、ということが目的らしい。
 だが、人間の「交渉」にはいつも「論理」以外に「感情」もまとわりついてくる。そのまとわりつき方は微妙で、正確に把握するのはむずかしいが、ともかく「感情」にひとは直面する。その「感情」というか、「思い悩み」(ことばにしにくいあれこれ)をことばをとおして学ぶのが「文学」である。「文学」はたしかに「契約書」の内容を正確に把握するには効力を発揮しないかもしれないが、意外な力を発揮することもあるはずだ。「このことばは、どういう意味だろう」だけではなく、「なぜ、いまここで、こんなことばをつかっているのだろう」と疑問を抱く。そこから「契約書」の秘密(隠しておきたいこと)が見えてくることもある。様々なことばを知り、それについて自分で考える力を身につけることは、どんなときでも必要であり、それは「実用以外のことば」に触れることでしか身につかない。
 だから、こんなことも考える。ジャーナリズムには、いつでも「権力からリークされた新しいことば」があふれかえる。「新しいことば」を知っていること、それをつかいこなせることが「正しい」ことのように書かれている。しかし、「新しいことば」は不都合な何かを隠すために考え出されたものであることの方が多い。いままでつかっていたことばでは間に合わない。そのとき、国民をだますために「新しいことば」がつくりだされる。「おまえはこの新しいことばを知らないのか。知らない人間が何を言うか。黙って、新しいことばをつかうひとの言うことを聞け」。こういうことが平然と行われる。
 最近では「新しい生活様式/3密回避」というのがある。どこが新しいのか。不便なだけだろう。大勢が集まり、大声で議論し、より親密な関係をつくりだしていく。これは「民主主義」の理想ではなかったのか。だれもが自分の意見を言う。意見を聞いて、はじめてその人の生きている現実がわかる。現実をどうかえていけば、みんなが幸福になれるか。それを考えるのが「民主主義」である。その、人間の基本的な生き方を否定するのが「新しい生活様式/3密回避」である。ひとは権力によって「分断」される。情報(ことば)は、権力が一方的におしつける。それが「正しい」かどうか、いろいろな立場で検証してみないとわからない。様々なひとが「自分の立場」を自己主張し、その自己主張に耳を傾けないと、「政府情報」が「正しい」かどうかわからない。安倍政権がやろうとしているのは、この「国民には何が起きているのかわからない」という状況をつくりだして、一方的に支配力をつよめるということである。
 「PCR検査をしない」「GOTOキャンペーンは経済を救う」。そこには「情報操作」が行われている。「情報」とは「ことば」である。限られたことば、政権にとってつごうのいいことばだけがジャーナリズムをとおして、強制的に流通させられている。
 もっと手の込んだ「情報リーク」というものもある。新聞の片隅をつつくと、そういうものがどんどん出てくる。
 どんなことでも、自分のことばで言い直す、ということが必要なのだ。もちろん、個人が知っていることは限界がある。だから、間違える。しかし、この「間違い」が必要なのだ。「間違い」つづけるかぎり、「政権の言いなり」にはならない。「洗脳」されることはない。「間違い」は時間をかけて、日々の暮らしのなかで、ひとつずつ正していけばいい。いずれ、「正しい」に出会う。それまでは、自分のことばを動かしつづけるだけである。
 この映画には、「自分のことば」で語りつづけるひとが次々に出てくる。そして、絶対に「自分のことば」以外では語らないを、決意している。ことばの強さが、この映画を支えている。そういう意味でも、この映画は「ドキュメンタリー」ではなく「インタビュー」であることをもっと強調してもいいのではないのか。
                 (中洲大洋スクリーン3、2020年08月20日)
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アイラ・サックス監督「ポルトガル、夏の終わり」(★★★★)

2020-08-14 16:40:58 | 映画
アイラ・サックス監督「ポルトガル、夏の終わり」(★★★★)

監督 アイラ・サックス 出演 イザベル・ユペール、マリサ・トメイ、ブレンダン・グリーソン

 映画館でポスターを見かけ、その緑の美しさに目を奪われた。チラシに書いてあることを読むと、おもしろい映画とはいえない。イザベル・ユペールは、きっとわがままな役を演じるんだろうなあ。フランス人はたいていがわがままだから、地でやるんだろうなあ。あまり見たくはないが、緑が気になる。
 ということで見に行ったのだが。
 なんと美しい。もう美しいということばだけを並べ立てて感想をおしまいにしたいくらいに緑が美しい。
 アジア・モンスーンの、ひたすら強靱な緑とは違う。イギリス、アイルランドの暗い緑(黒い緑)とも違う。
 たとえて言うと。春先の若い緑がやわらかさを抱えたまま重なり合い、いくつものの緑に分かれていく。そこにはもちろん夏にしか存在しない強い緑もあるのだが、その周辺にはまだまだ硬くならないままのみどりがそよいでいる。
 そしてそれが朝の光、昼の光、夕方の光のなかで、反射に、陰を抱え込み、どこまでもどこまでも変化する。さらに雨まで降ってくる。雨もアジア・モンスーンの雨とは違うし、イギリスの雨とも違う。やわらかく、深く、霧のようにやさしく緑をつつむのだ。
 舞台のシントラという街が少しだけ出てくる。ポルトガルは石畳の坂の街。壁には独特の装飾。路面電車の街。それはシントラも同じで、石畳の坂と路面電車と、壁の装飾も出でくる。赤い煉瓦色の屋根や、様々な色の壁。そのすべてが、変化する緑に抱かれている。海さえも、なんといえばいいのか、山(緑)と向き合い、拮抗するというのではなく、遠慮がちに存在しているように感じられる。身を引きながら、緑を抱きしめているという感じか。
 映画は、この多様で、傷つきやすいような、しかしいろいろな変化を受け入れながら育っていく緑、様々に変化する緑のように、人間が生きているということを教えてくれる。人間のそれぞれが一本の木。それぞれの緑は似ているようで違う。違うけれど、光と水と風といっしょに生きて、違うものがあつまることで、一本ではあらわせない美しさを奏でる。音楽のように。ぶつかったり、はなれたり、あつまったり。その瞬間瞬間に、同じ緑に見えていたものが、違った緑に見える。それがおもしろい。
 映画の最後のシーンは、緑とは少し違うのだが、みんなが山の上に大西洋に沈む夕日を見に行く。ばらばらのシルエットが山の上に描かれる。しばらくして、登場人物がみんな坂を下りて帰ってくる。映画では描かれない「夜の緑」のなかへ。その描かれなかった「夜の緑」を見るために、シントラへ行ってみたい、と思わせる映画である。夜、窓からもれてくる灯。人工の光、うごめく人間の影を、シントラの緑はどう受け止めているのか。
                   (KBCシネマ2、2020年08月14日)
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ジョージ・ミラー監督「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(★★★)

2020-08-01 17:00:11 | 映画
ジョージ・ミラー監督「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(★★★)

監督 ジョージ・ミラー 出演 暴走車、砂漠、トム・ハーディ、シャーリーズ・セロン
 コロナウィルス拡大のため、客が入りそうな(人気のあった)過去の映画が再映されている。「マッドマックス 怒りのデス・ロード」もその一本。初公開は2016年。目の調子が悪いときだった。予告編で、おもしろそうだけれど目が疲れるだろうなあと思い敬遠して見なかった。いまも目の調子は悪いが、調子の悪さにも慣れたので、見てみた。
 予想通り、目が疲れた。
 映画は、ひたすら「映像」と「音楽」に終始している。オペラのようなものだ。ここまでやってしまうと、快感である。ストーリーなんか、どうでもいい。シャーリーズ・セロンが出ているが、美形であろうがなかろうが、もうほとんど関係がない。
 タンクローリーのような車でシャーリーズ・セロンが逃げる。それを「トラック野郎」軍団が追いかける。ひたすら逃げ、ひたすら追いかける。うーん。なつかしいなつかしい、「激突」の世界。
 スピルバーグは1対1の逃げる、追いかけるを「人間」を排除して描くことで、タンクローリー(だったっけ?)に「人格」を持たせた。タンクローリーの面構えが魅力的だった。逃げる車なんか、どうでもいい。踏み切りで、列車が通りすぎるのを待つ。そのときタンクローリーがぐいぐいと押す。セダンの男は必死になってブレーキを踏む。そのとき、「がんばれ」と応援してしまうのは、逃げる男に対してではなく、タンクローリーに対してだ。もっと押せよ。それくらいのパワーはあるだろう。思いっきり感情移入してしまう。だから、最後、タンクローリーが、クラクション(というより警笛ということばの方がぴったりくる)を鳴らしながらがけ下へ落ちていくのを見るときは、それが悲鳴に聞こえてしまう。あと、もうちょっとだったのに……。
 この映画は、それを踏襲していることになるだろう。逃げる方も、追いかける方も人数が増えているので、悲壮感(?)はない。お祭りだ。だから、オペラになる。人間なんか、どうでもいい。トム・ハーディやシャーリーズ・セロンがどんな過去を背負っているか、どんな未来を夢見ているか。そういう「説明」がカットバックで入ってくるたびに、ああ、めんどうくさいと思ってしまう。
 そういう「時間(ストーリー)」は放り出して、ただ逃げる、追いかける、攻撃する、というのがわくわくする。どうせ映画なのだから、現実にはありえないものをどれだけ繰り広げるかだけが重要なのだ。妊婦の事故死(?)もシャーリーズ・セロンやトム・ハーディの不死身も、ありえないからこそおもしろい。トム・ハーディは、メル・ギブソンに比べて「美形度」が落ちるのが残念だった。こういう荒唐無稽には「絶対的美形」が必要なのだ。まあ、それでシャーリーズ・セロンが駆り出されているのだろうけれど。
               (中洲大洋、スクリーン1、2020年08月01日)



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イ・ウォンテ監督「悪人伝」(★★★★★+★★★★★+★★★★★)

2020-07-26 12:31:03 | 映画
イ・ウォンテ監督「悪人伝」(★★★★★+★★★★★+★★★★★)

監督 イ・ウォンテ 出演 マ・ドンソク、キム・ムヨル、キム・ソンギュ

 これは、もうわくわく度がとまらない大傑作。
 何が傑作の理由かといって……。
 チラシに、こう書いてある。

極悪組長×暴力刑事vs無差別殺人鬼

 さて、あなたがこの映画の出演依頼を受けたとしたら、だれを演じたいですか? この「問い」にどう答えるべきか考えると、傑作の理由がわかる。
 映画でも小説でも、それが「傑作」であると感じるのは、自分を主人公に重ねて、主人公のこころの動き(行動)に心酔するからだ。こんな風に生きたい。こんな風に言ってみたい。
 さて、「これが私の夢の生き方だ」と、言いたいのはだれ?
 見終わっても、「答え」が見つからない。

 社会の常識からいえば、まあ、刑事がいちばん無難。暴力刑事ではあるけれど、社会のために働いている。他人から「後ろ指」さされることもない。与えられた仕事をするだけではなく、「正義感」もある。その「正義感」から暴走するのだけれど、この手の刑事はいままでも映画で描かれてきたしなあ。
 それに、この暴力刑事が魅力的なのは、極悪組長と無差別殺人鬼がいてこそなのだ。どちらかひとりでは、そんなにおもしろくない。平凡。そう考えると、「主役」じゃないよね。
 タイトルからわかるように、主役は極悪組長。彼は無差別殺人鬼に襲われ、重傷を負う。面子が丸つぶれ。だから加害者を探し、仕返しがしたい。仕返ししたということを、みんなに示したい。そのために刑事と手を組んで、「捜査情報」をたよりに無差別殺人鬼を追いかける。
 ストーリーとしては、この暴力刑事と極悪組長が手を組むというところにおもしろさの秘密があるのだが、それを支える(?)のが無差別殺人鬼。彼次第では、単なるストーリーになる。なぞというか、殺人鬼の「快感」を体現しなくてはいけない。殺したいと思うことと、実際に殺すこととの間には大きな隔たりがあるのだけれど、その隔たりを感じさせず、接着剤のようにして「快感」がないといけない。「憎しみ」ではなく「快感」。人間として許されることではないのだが、だからこそ、映画なら、そんな「人生」も体験してみたいと思うでしょ?
 だから、たとえば。
 クライマックス。屋上にいるところを見つかり、走って逃げる。そのあとカーチェイスが始まる。結末はわかっている(想像がつく)にもかかわらず、殺人鬼に対して、「逃げろ、逃げろ、逃げ抜け」と私は応援してしまう。これって、「反正義」の感覚だよなあ。「逃げろ、逃げろ」と応援しながら、わくわくする。追跡の途中で刑事の車と組長の車が衝突すると、「やったぜ」と思ったりする。
 その一方で、刑事の車と組長の車が協力して殺人鬼を追い詰めるのを期待している。
 矛盾しているねえ。
 でも、こういう「矛盾」した感覚を引き起こすというのが、「傑作」の基本。
 どうせ、映画なんだから。
 自分が現実には体験できないことを、リアルに感じたい。
 で。
 自分の現実で、いちばん実現(実行)できないのは、どっち?
 極悪組長? 暴力刑事? 無差別殺人鬼?
 全部できないから、全部やってみたい。

 この映画は、荒唐無稽であるだけではなく、細部が非常に綿密。法廷で展開される証言につかわれる「メモ」。その「主語」を破り捨てて、目的語、述語の部分だけを利用するというところなど、うなってしまう。いや、叫んでしまう。
 「うまい!」
 脚本が、完璧。

 でも、なんといっても、この映画はマ・ドンソクの演技につきるかなあ。
 極悪組長とはいっても、この丸顔、しまりのない唇、憂いを含んだ(?)目つき。矛盾した愛嬌というか、かわいらしさがある。それを隠しながら「極悪」を生きているのだが、ときどき「憎しみ」ではなく「よろこび」をあらわす瞬間があり、そのときの表情がいい。
 暴力刑事が部下を殴りつけるとき、「おまえ、やるじゃないか」という表情をしたりする。最後の最後には、刑務所に収監されるのだが、その刑務所に殺人鬼がいるのをみつけ、「ここにいたか、待ってろよ」という感じで、にやりと笑う。いや実際に「にやり」までいかない。「にやり」を隠して、相手を見据える。
 こんなこと、私はしたことがない。
 だから、やってみたい。
 映画なんだから。

               (KBCシネマ、スクリーン1、2020年07月26日)









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エミリオ・エステベス監督「パブリック 図書館の奇跡」(★★★★★)

2020-07-18 12:25:05 | 映画
エミリオ・エステベス監督「パブリック 図書館の奇跡」(★★★★★)

監督 エミリオ・エステベス 出演 エミリオ・エステベス、アレック・ボールドウィン、クリスチャン・スレイター

 大作というのでもない。傑作というのでもない。けれど★5個をつけたくなる映画というものがある。このエミリオ・エステベス監督「パブリック 図書館の奇跡」が、それである。
 父親はマーティン・シーン、弟はチャーリー・シーン。ふたりに比べると「地味」だが、足が地についた「主張」がある。だから脚本も監督もやるのだろう。
 この映画でのエミリオ・エステベスの「主張」とは何か。
 ことばはだれのものか。必要としている人間のものだ、につきる。
 そして、この「必要としている人間のもの」はことばだけではなく、ほかのものにもあてはまる。音楽も美術も。この映画では「図書館」が「寒さを避けるための空間(室内)」として求めれている。この「求め方」はほんらいのあり方とは違う。違うけれど、そういうものが求められたとき、どう人間は対応できるか。自分の「肉体」をとうして「再現(実行)」できるか、それが、問われている。
 オハイオ州シンシナティ。寒波に襲われた街。行き場のないホームレスが「図書館」を占拠する。どう対応するか。それがテーマ。図書館は、ホームレスのシェルター(受け入れ場所)ではない。でも、追い出してしまうと、彼らは凍死する恐れがある。
 そのやりとりの過程で、エミリオ・エステベスが「怒りの葡萄」を引用する。
 ここで、私は涙が出てしまう。おさえきれない。しばらくはスクリーンが見えなくなってしまう。エミリオ・エステベスは、無意識のうちに「怒りの葡萄」のことばに支えられて生きてきた。何か言わなければならなくなったとき、そのことばを語る。それは彼のことばではない。けれど、それを口にしたとき、それはスタインベックのことばではなく、彼のことばなのだ。
 このとき、エミリオ・エステベスは、「一個の肉体(ひとりの人間)」なる。「ことば」ではなく「声」を生きる。ことばを「肉体」にしてしまう。
 このとき、そのことばは、それを聞いているホームレスのことばでもある。「声」にならない「声」が、いま、エミリオ・エステベスがスタインベックの「ことば」を生きることで「声」になり、共有されて、ホームレスの「肉体」のなかで動いている。
 ことばの共有は、最後にまた違った形で展開される。
 警官が突入することを知ったエミリオ・エステベスとホームレスたちは裸で逮捕されることを望む。無抵抗の象徴として裸になる。そのとき、エミリオ・エステベスが歌い始める。その歌をホームレス全員が歌う。音楽の共有だけれど、その音楽は、そのとき何よりも、ことばなのだ。いいたいことが、そのことばのなかにつまっている。他人の書いたことば(歌詞)だが、歌うとき、そのことばはホームレスの「声」となって彼らの「肉体」を結びつける。
 ことばはだれもが話すが、だれもが語れるわけではない。でも、語らないといけないときがある。自分でことばを組み立てる必要がある。だれにでもできるわけではない。そういうときは、知っていることばに頼る。覚えていることばに頼る。覚えているのは、そのことばが彼を支えてくれていたからである。ことばは、覚えられて、肉体になる。肉体になって「共有」が広がっていく。
 こういうことが、図書館を舞台に繰り広げられる。
 図書館はことば(情報)の宝庫だ。そこにやってくるひとたちは、「情報」を求めている。なかには、「実物大の地球儀はない?」というとんでもないものもあるが、世の中にはとんでもないものを「情報(ことば)」として求めている人もいるのだ。そういうものを図書館はもっていない、図書館にはない情報(ことば)もある。それを、どうやって獲得するか。その「答え」のひとつが、「怒りの葡萄」と「歌」によって表現されている。「共有」は図書館にはないのだ。共有できる「ことば(情報)」を提供できるが、「共有」そのものを提供できない。「提供」を獲得するとき、ことばも情報もかわっていく。そこから現実のドラマが始まる。「生きている」ということが始まる。
 ことばをあつかう仕事をしてきたこと、ことばを読んだり書いたりすることをつづけている私には、ひとつの「理想」を見る思いがする。そういうことも★5個の理由だな。
 それにしても、「交渉人」「テレビのレポーター」も組み合わせ、ことばの「共有」の問題を、ことばがいっぱいの図書館を舞台にして、ドラマにする脚本には細部に目配りがきいていて、エミリオ・エステベスの演技同様、浮ついたところがなく、とてもいいと思った。
              (KBCシネマ、スクリーン2、2020年07月18日)





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大森立嗣監督「MOTHERマザー」(★★★★★)

2020-07-14 18:13:06 | 映画
大森立嗣監督「MOTHERマザー」(★★★★★)

監督 大森立嗣 出演 長澤まさみ、奥平大兼、阿部サダヲ

 予告編を見て、非常に気になった映画である。何が気になったかというと、カメラの演技が少ない。最近の映画は、訳者が演技していないものをカメラの切り取り方で演技にしてしまう。それが、どうも気に食わなかった。この映画は、そういう部分が少ない。カメラの枠のなかで、役者が充分に演技をしている。そして、その「肉体」がきちんと伝わってくる。
 唯一(?)、カメラが演技をするのは、長澤まさみが奥平大兼にすがりつき、「もうお母さんには修平しかいない」と泣くシーン。カメラは二人の全身から、奥平大兼の握りしめた拳へのアップへと動く。そのぎりぎりの抑制で震える拳に奥平大兼の感情があふれているのだが、ここはそのまま全身のままでとめておいてほしかった。奥平大兼が、長澤まさみから平手打ちされ、そのままぴくりとも動かない。顔は殴られたとき横に動き、斜め下を見ている。その動かない奥平大兼に長澤まさみがすがりつくのだが、そのままがいい。私の好みからいえば、もしカメラが演技をするのだとしても、それはアップではなく、むしろ引いてほしい。引いた画面の端に(離れたところで)、妹が遊んでいる姿が入ってきたら、私は泣いてしまっただろうなあ、と思った。
 長澤まさみは、私は初めて見たのだが、とてもよかった。子どもを育てる力がないのだが、「私の産んだ子ども、私の一部」という感じが、せりふだけではなく、肉体から発散されている。自分の肉体そのものだから、彼女自身が肉欲におぼれる自分を許すように(性交することによって、その後何が始まるのか、それから起きることを受け入れるように)、子どもの「肉体/精神」が傷ついていくことを許してしまう。「修平なら、こういうことを自分の肉体で乗り切ることができる」と信じている。そして、その「信じていること」が暴走して、奥平大兼に祖父母(長澤まさみにとっては両親)殺しをさせてしまう。このときの、ふたりの全身の演技はとても素晴らしい。(カメラは演技を放棄して、ただ「枠」に徹している。)殺人を押しつける方も、引き受ける方も、どうしていいかわからなくなっている。長澤まさみは「息子が殺人を侵しても、その肉体も精神も傷つかない、そういう力を持っているはずだ。私の子どもなのだから」と思っている。奥平大兼は「もし祖父母を殺さなければ、殺して金を手に入れなければ、母は肉体も精神も傷ついて死んでしまう」と思っている。いや、ふたりは思っているというよりも、思い込もうとしている。互いの思いを了解した上で、自分の肉体を動かす。「これは、私の肉体」。ふたりが、互いのことをそう思っている。精神の苦悩も「これは、私の苦悩」と思っている。私は便宜上わけて書いたが、ふたりは、それをわけることができないところにまで追い込まれている。この緊張感がすごい。
 ふたりには、結局何が起きたのかわからないのだと思う。わかることは、「私は息子が好き」「私は母が好き」ということだけなのだ。その「好き」のためにはいろいろなことができるのだけれど、その「いろいろ」を想像できない。「好き」という感情が強すぎて、他の人が「こうしたらいいのに」(親ならこうすべきだ/こどもならこう生きるべきだ)ということばを受け入れることができない。
 倫理や正義をもちだすと、この映画は、とんでもないものになってしまう。長澤まさみの行為も、奥平大兼の行為も、社会(良識)は決して受け入れることができない。しかし、良識を超越しているものが、この世にはあるのだ。「いのち」そのものが、すべてを超越しているだろう。ひとが死んでも、どこかしらないところで「いのち」そのものはつづいているのだから。
 ここから思うことは、たったひとつ。私の母は母の肉体を「分割」するように私を産み落としてくれた。「ひとり」として産んでくれた。そうであるなら、私はぜったいに「ひとり」にならないといけない。
 そういう思いに至ったとき、ふっと、ラストシーンで長澤まさみも奥平大兼も「ひとり」であることを受け入れることができるようになっている、と思った。信じられないような「つながり」で「ひとつ」になっていた「ふたり」だが、最後は「ひとり」であることを受け入れて、自分と他人をみつめている。そこに静かな「安らぎ」のようなものがある。悲惨なストーリーだが、超越的な美しさがある。長澤まさみも奥平大兼も、非常にいい役者だ。
(T-joy 博多、スクリーン3、2020年07月14日)  




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ウッディ・アレン監督「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(★★★+★)

2020-07-12 13:31:51 | 映画
ウッディ・アレン監督「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(★★★+★)

監督 ウッディ・アレン 出演 エル・ファニング、ティモシー・シャラメ

 最近のウッディ・アレンは弱い光のなかで、輝いたり陰ったりする「人肌(女性の肌)」の変化に執着している。この映画でも、最初からそういうシーンで始まる。大学のキャンパスでエル・ファニングとティモシー・シャラメが話をする。夕方の色づいた光がエル・ファニングを染め上げる。金髪がやわらかに輝き、ほほが朱色(黄金?)にそまる。エル・ファニングが美しいのか、夕暮れの光が美しいのか、判断に迷う。そして、迷っている瞬間、私は、私がウッディ・アレンになっていると感じる。
 言い直すと。
 もしエル・ファニングが魅力的に見えたとしても、それは彼女自身の力によるものではない。ウディ・アレンの演出、特に光の演出によって、この世を超えた存在になっているのである、とウディ・アレンは言っているのだ。
 ここではウディ・アレンは「自己分裂」していることになる。
 ふつうはミューズに出会い、ミューズに引かれて、さまざまな活動が始まる。しかし、ウディ・アレンの場合、それは「女性」であるだけではだめなのだ。その「女性」をウディ・アレンが求める光のなかに存在させることで、彼女はミューズに生まれ変わるのだ。ミューズがウディ・アレンを育てるのではなく、女性をミューズに生まれ変わらせることで、ウディ・アレンの創作欲は動き始めるのだ。
 ミューズによってウディ・アレンは生きているということを装い、ウディ・アレンは次々にミューズを取り換えていく。ウディ・アレンにとってミューズは突然やってくるのではなく、ウディ・アレンの「創作」でもある。同じミューズを使っていたら「自己模倣」になる。「自己模倣」を乗り越えるためには、次々にミューズを「更新」しなければならない。
 そういうことが、非常によくわかる映画である。ダイアン・キートンからはじまり、エル・ファニングにたどりつくまでの「女性の変遷」を見ていると、とくにそう感じる。
 ウディ・アレンの「好み」は「成熟」というよりは、「未成熟=未完成」である。「ブルー・ジャスミン」のケイト・ブランシェットさえ、「未完成」を生きている。「わがまま」を貫いている。(ダイアン・キートンは、唯一、未成熟とは無縁の女性に見えるが、未成熟を感じさせないことがウディ・アレンには耐えられず破綻したのかもしれないし、そこで破綻したからこそウディ・アレンの女性遍歴=ミューズ探し、ミューズづくりがはじまったかのもしれない。ウディ・アレンには「未熟、未成熟」と「純粋」のあいだには大きな違いがあるということが明確に認識されていないのかもしれない。「未成熟」なら「純粋」と思い込んでいる感じがある。)

 ということを書いてもしようがないが。

 私は、エル・ファニングが生理的に嫌いである。
 こう書き始めた方がよかったかもしれない。
 なにが嫌いか。「童顔」が嫌いである。「童顔」は「未成熟」とは違い「未熟」である。まだ「成熟」に手がかかっていない。
 でも、これは考えようによっては、「成」の気配さえないのだから、どんなふうにでも育てられる。変化させることができるということかもしれない。それは、逆に言えば、手を着けたいけれど、どこから手をつけていいかわからないということでもある。
 この映画のなかでは、恋人のティモシー・シャラメのほかに三人の「成熟」した男が出てくる。彼らは、ティモシー・シャラメに対して、どうしていいか、さっぱりわからない。したいことが「ある」のだけれど、それを具体化できない。ディエゴ・ルナは自宅に誘い込むが、スカーレット・ヨハンセンが帰って来て、したいことができない。自分の「未熟」をさらけだしてしまう。
 ウディ・アレン(ティモシー・シャラメ)も、結局、何もできない。
 自分のしたいことをエル・ファニングに明確に伝えるが、エル・ファニングは目の前にあらわれる「魅力」に右往左往して、エル・ファニングを「支えている」ティモシー・シャラメを、ほんとうに「つっかえ棒」のように利用しているだけである。そして、その自覚もない。
 ここには、どうすこともできない「分裂」がある。
 そして、この分裂は、最初に書いた「ウディ・アレンの自己分裂」に、そのまま重なる。
 ティモシー・シャラメはエル・ファニングに魅力を感じるが、それはティモシー・シャラメの求めている「陰影」を背負ったときのティモシー・シャラメなのだ。セントラル・パークの馬車のなかで、ティモシー・シャラメは「街路の騒音と、部屋の中の沈黙」というようなことを言う。だれのことばだろうか。私は知らない。それに対して、その出典を「シェイクスピアね」とエル・ファニングが言う。このとき、ティモシー・シャラメは、エル・ファニングに「陰影」を与えることは絶対に無理だと悟る。エル・ファニングは「陰影」を生きる人間ではないのだ。

 「陰影」好みなんて、スノッブだ。全体的な美は「無垢」にある。でも、「無垢」のままは嫌い。「陰影」を与えたい(自分の好みにしたい)、というのは「かなわぬ恋」である。
 この映画は、エル・ファニングとティモシー・シャラメを描いているが、ふたりがいっしょに行動するシーンは非常に少ない。「恋」は、「ミューズはほんとうにいるのか」というストーリーのための「枠組み」に過ぎない。そのことも、「かなわぬ恋」を雄弁に語っている。
 ウディ・アレンの映画を見ると、私はたいてい登場人物が大好きになるが、この映画ではかろうじてジュード・ロウが年をとっていい男になったなあと感じたくらいで、ほかの登場人物(役者)には「共感」というものを感じなかった。「凡作」だと思った。しかし、ウディ・アレンとミューズとの関係がとてもよくわかった気がしたので★をひとつ追加した。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン3、2020年07月12日)


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