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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白石和彌監督「ひとよ」(★★)

2019-11-28 23:00:31 | 映画
白石和彌監督「ひとよ」(★★)

監督 白石和彌 出演 佐藤健、田中裕子

 久々の田中裕子。その前に見た日本の邦画がどうも気に食わなくて、「ひとよ」も見ようか見まいか、ずいぶん迷った。予告編で見た田中裕子が「浮いて」見えたということも気がかりだった。
 そして、気がかりどおりの映画だった。
 田中裕子は「おさえた演技」する。うまいのだが、「おさえた演技」をしているということが「主張」になってしまっている。それが、どうも、落ち着かない。ほかの役者とのバランスが乱れる。
 唯一感心した部分は、次男が中学生のとき、コンビニでエロ本を万引きする。そのこどもを引き取りにいった帰り道。田中裕子は、万引きしたエロ本を道を歩きながら開いて読む。そのあとを少年が「みっともないから、やめて」というようなことを言いながらついてくる。このシーンでは、田中は「おさえた演技」をしていない。むしろ、こどもをからかう(?)ために、おおぴらな、わざとらしい雰囲気を出している。これが、とてもいい。なんといえばいいのか、「役」をばかにしている。母親の感情を、親身をもって演じているというよりも、ばかにしている。こどもを叱る(注意する)にしても、もっとほかにも方法があるだろうという思いがあるのかもしれない。だけれど、この映画ではこういう設定になっている。そのことを突き放して演じている。だから、その瞬間、「演技」ではない、田中裕子自身の「肉体」が動く。それがおもしろい。
 映画にしろ、芝居にしろ、観客はたしかに「演技」を見に行くのだけれど、「演技」だけではつまらない。「演技」以前の「肉体(人間)」をみたいという気持ちもある。「美人」とか「美男子」とか「かわいい」とか、「役」を忘れてしまって、そこにいる「生身」の役者も見たいのだ。
 それで、というのも変な言い方だが。
 このエロ本を開きながら街を歩くシーンを見たとき、私は「北斎マンガ」(漫画だったか?)の田中裕子を思い出したのだ。北斎がいなくなったあと、「どこへ行ったんだよう」と半分泣きながら歩くようなシーンだった。こどもの格好をしていた。自分はこどもではないのだから、これは「真実」を演じるのではない、単に「役」を演じているんだというような、突き放したような、さっぱりした感じがあった。
 私は、どうも、しつこい演技は苦手なのだ。
 しつこい演技が好きなひとは感動するかもしれないけれど。
 そして、これに輪をかけてストーリーがしつこい。こどもを守るために父親を殺した母親が15年ぶりに帰ってくる。それだけで充分めんどうくさいストーリーなのに、「親子」「家族」の話が、ほかにも登場するのである。それは微妙に絡み合っているというよりも、田中裕子の一家の問題の一部をほかの家族のなかでも展開してみせるという構造になっている。「伏線」ではなく、補強である。たとえていえば、色と面で描く絵画(洋画)の人物に、線で輪郭を描き加え(日本画)、形をはっきりさせるという感じ。たしかにストーリーで訴えたいこと(意味)は明瞭になるが、そんなものを押しつけないでくれよ、といいたくなる。「意味」というのは、人間がだれでももっている。他人の「意味」なんか、必要ない。だから、私は、拒絶反応を起こしてしまう。

(2019年11月28日、中洲大洋スクリーン4)
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マーティン・スコセッシ監督「アイリッシュマン」(★★)

2019-11-17 20:33:02 | 映画

マーティン・スコセッシ監督「アイリッシュマン」(★★)

監督 マーティン・スコセッシ 出演 ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシ、ハーベイ・カイテル

 この映画、監督と出演者の名前を見て、どう判断するか。私はアル・パチーノの大声が嫌い。それでずいぶん迷ったのだが、マーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロの組み合わせには「なつかしい」ものがあるので、ついつい見に行った。
 クエンティン・タランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」でも感じたのだが、いま、アメリカは「懐古趣味」の真っ只中にあるのかもしれない。昔の「風俗」(社会情勢)が、とても丁寧に描かれている。「ゴッド・ファザー」のテーマ曲が、原曲のままではなく、編曲されてインストルメントで流れてくるところなんか、ちょっとうれしくなる。
 しかし。
 出演者の名前で気がかりだったことが、すぐにスクリーンで展開された。
 ロバート・デ・ニーロの娘が店員をしている。何があったのかよくわからないが、娘はオーナーに叱られて(殴られて?)帰って来て、家にいる。怒ったロバート・デ・ニーロがオーナーに文句を言いに行く。のではなく、簡単に言うと、殴りに行く。復讐だ。
 このシーン。もう、ロバート・デ・ニーロは動けません。76歳だからむりはない。いつまでも「タクシー・ドライバー」ではない。そうわかっていても、いやあ、もたもたしている。でっぱった腹が動きをさらに鈍くみせる。ふつうの「暴力」シーンが撮れないので、な、な、なんと。倒れたオーナーの手を踏みつぶす。これではまるでゲイの男の復讐。と書くと、偏見だ、と言われそうだが、とても「噂の殺し屋」として有名になる男とは思えない。「殺し」稼業は、「肉体」で戦うのではなく、銃で始末するのだから、とくに腕っぷしが強い必要があるわけではないが、どうもねえ。
 私はこのシーンで、もう完全に「ダメ」。気乗りがしなくなってしまった。
 映画そのものは、アメリカの政治が労組とマフィアがらみで描かれていて、とても丁寧につくられている。「裏事情」を私はまったく知らないのだが、アメリカというのは「政治」が国民のすみずみにまで浸透しているということが、よくわかる。
 メインになっている労組は、トラック運転手の労組だが、トラックがあるからあらゆる商品がアメリカ国内に配送されるという「信念」が「権力」指向となって動くところがとてもおもしろい。日本の「連合」は、悪い意味で、この組織に似ているだろう、というようなことをちらちらと思いながら見た。
 しかし、しかし、しかし。
 やっぱり役者が年寄りすぎる。若い役者が老人を演じるとき、あまり違和感がないが、年をとった役者が若い年代を演じると、絶対にダメ。動きにシャープさがまったくない。さらに見慣れた顔が、見慣れた表情(演技)をするのだから、老人の学芸会という感じがしてしまう。ロバート・デ・ニーロは苦渋の表情と人懐っこい表情をおりまぜて演技しているが、苦渋のときの目に力がない。人懐っこい表情のときは「おじいさんの柔和な目」でもだいじょうぶなのだが、苦渋、懐疑の顔になると、まるで腑抜け。焦点があっていない。まあ、自分の内面をみつめているから、焦点があっていなくてもいいのかもしれないけれど、あの力のない目でどうやって「殺人」を乗り切るのか、見当がつかない。
 アル・パチーノは、やっぱり好きになれない。いつからあんなふうに大声でわめきちらすことを演技と思うようになったのだろうか。「役どころ」は大声で労組をひっぱるボスだから、それなりの意味はあるのかもしれないけれど、声が演技になっていない。説得力がない。威圧しているだけ。大声で喚かないときは、しっかりした声なのになあ。どうしてふつうの声で演技しないのだろうか。
 ジョー・ペシは、自分自身の「肉体」を動かさない役なので、「体型」に目をつぶれば、それなりにおもしろい。とくに、あのしゃがれた声が「裏舞台」を生きている感じがしていいなあ。何か「権力闘争」で精神を使い果たしたような声だ。最後の方のからだが不自由になったシーンの演技はいいなあ。自分のあわれさをわかって受け入れている。悪いことをやって、もう充分、人生を楽しんだ。仕方がない、という顔をしている。
 そのあとに、まだまだロバート・デ・ニーロの人懐っこい目が語り続けるんだけれどね。娘が大好きなのに、娘から愛されないのはつらい、ということを訴える。
 老人映画と思って見ればいいのかもしれない。
 でも。
 若いときのロバート・デ・ニーロやアル・パチーノを知らないからかもしれない、マーティン・スコセッシを知らないからかもしれないが、私の隣の若い男(30代?)は、「うーん、久々に感動する映画を見た」と独り言を言っていた。
 妙なことに、映画を見た直後、他人の感想が、最近耳に入ってくることが多い。

(2019年11月16日、KBCシネマ1)
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ジュリアン・シュナーベル監督「永遠の門 ゴッホの見た未来」(★★★)

2019-11-13 09:58:41 | 映画
ジュリアン・シュナーベル監督「永遠の門 ゴッホの見た未来」(★★★)

監督 ジュリアン・シュナーベル 出演 ウィレム・デフォー

 私はカメラが演技する映画が好きではない。カメラは、どっしりとそこにある、というだけでいい。フレームの中に人が入って、人が出て行く。そういう映画が好きだ。
 この映画は、カメラが演技しつづける。
 ウィレム・デフォーは歩きつづける。その歩くスピードにあわせてカメラが移動し、揺れる。これだけなら、それはすでに「定型」になってしまっている。「演技」といえるほどのものではない。
 とても嫌なのは、カメラの中に「光」が入ってきて、映像を変色させることである。それも完全に変色するのではなく、奇妙な感じ、下四分の一、しかも左側だけという感じで微妙に変色する。焦点も甘くなる。涙で視界がぼける感じに似ている。水滴が眼鏡について、そこだけぼわーっとする感じに似ている。私は目が悪いので、最初は目がどうかなったのかと思った。三か月の定期検診を風邪のために休んだので、とても心配になった。画面が切り替わるとふつうの映像にもどるので、逆に、やっぱり目の異変?とさらに心配になったりする。
 半分以上過ぎた辺りで、やっと、これは「わざと」なのだ、と気がつくのだが、わかった後でも、落ち着かない。どうも、ゴッホが精神的に不安定になったときに「見える」風景を、そうやって描いているようなのだが、こんなやり方は私にはなじめない。
 さらに、音楽が演技しすぎる。
 映画は映像と音楽でできているから、カメラと音楽が演技すれば、もうそれでおしまい。役者は必要なくなってしまう。
 ウィレム・デフォーが、カメラの演技に負けずに演技しているし、マッツ・ミケルセンとの対話シーン(カメラが演技していない!)もいいのだが、方々で演技しまくる音楽(音を聞かせすぎる)が、「どうだ、芸術映画だろう」と主張しているようで、とてもつらい。「はい、芸術映画なのはよくわかりました」と言ってしまえばおしまいなのだ。
 私は「芸術」ではなく「人間」を見たい。

 話はかわって。

 私はゴッホの絵は「好き」とは言えない。どこがなじめないかというと、色をパレットの上でつくらずにキャンバスの上でつくっている感じがするからだ。色に堅牢さがない。それがなじめない。
 この映画では、その、私の思っていたことがそのまま「再現」されていた。
 ウィレム・デフォーのゴッホは、パレットに絵の具を絞り出すが、パレットの上で絵の具をまぜるわけではない。キャンバスに絵の具を筆で置いていく。絵の具を重ねる。キャンバスの上で絵の具と絵の具が、色と色が出会い、交渉し、変化していく。そして、その交渉がきちんとまとまるのを待つというのではなく、つまり「完成」させるのではなく、「未完成」という開かれた状態に突き放す。結果として、そこに「変化する」というスピードだけが表現されることになる。そのスピードにのって、絵を見るひとは現実を離れ、別の世界に行ってしまう。ゴッホの絵は、そういうことを目指しているのだとわかる。
 こういうことを「象徴的」に語るのが、ゴーギャンとの比較である。ウィレム・デフォーが外から帰ってくると、オスカー・アイザックのゴーギャンが女の絵を書いている。触発されてゴッホが絵を描き始める。ゴーギャンは鉛筆でデッサン(スケッチ)しているのだが、ゴッホはいきなりキャンバスに絵筆を走らせる。ゴーギャンは、ゆっくり描けと忠告するが、ゴッホはつかみとったものを追い越すように速度を上げて描きつづける。
 その前に(冒頭近く)、戸外から帰ったゴッホが長靴を脱ぎ、それを描き始めるシーンもあるが、そういう「描くシーン」はとてもいい。カメラが演技するのではなく、そこでは「絵の具」(色)が演技している。それをウィレム・デフォーがサポートしている。(助演だね。)この長靴を描くシーンは、色が色と出会い、変化し、固有の色になるまでをとらえていて、とても魅力的である。このシーンだけなら、この映画は 100点満点である。あ、あの長靴の絵がほしい、と思わず思ってしまう。
 こんなふうにゴッホの絵と精神を再現できるのだから、それだけで映画を押し進めればいいのに、と思う。過剰なカメラと音楽の演技が「映画」を壊してしまっている。

 追加。
 南フランスを「温暖」な場所ではなく、光が透明だけれど、寒々としているということをきちんと描いているのもいいなあ、と思った。オランダからフランスへと列車で動い言ったとき、光が変化し、あ、この光の変化が「印象派」なのかと思ったことを思い出した。ずいぶん昔の旅の記憶だけれど。
 私は「印象派」の作品が好きではない。好きではないけれど、そのとき「印象派」とはこういうことなのか、と納得した。そういうことも思い出した。

 もう少しつけくわえておくと。
 私はセザンヌが形を解放し、マティスが色を解放し、ピカソが形と色を再統合したと感じている。つまり、私にとってはピカソが絵画(彫刻を含めてもいいけれど)の頂点にある。
 ゴッホが大好きな人には、また、違って見えるかもしれない。
 隣の隣に座っていた女性は、途中で寝息を立てていたが、映画が終わると「久しぶりにいい映画に出会ったわ。芸術を見たわあ」と話しながら通路を歩いていた。

(2019年11月11日、t-joy 博多、シアター11)








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瀬々敬久監督「楽園」と平山秀幸監督「閉鎖病棟 それぞれの朝」

2019-11-10 20:02:13 | 映画
瀬々敬久監督「楽園」(★★★)
監督 瀬々敬久 出演 綾野剛、杉咲花、佐藤浩市
平山秀幸監督「閉鎖病棟 それぞれの朝」(★★★)
監督 平山秀幸 出演 笑福亭鶴瓶、綾野剛、小松菜奈

 瀬々敬久監督「楽園」、平山秀幸監督「閉鎖病棟 それぞれの朝」を見たが、すっきりしない。日本の映画に綾野剛が出ているせいか、どうも一本の映画に見えてしまう。根岸季衣も二本の映画に出ていた。そういうことも影響しているかもしれない。やっている「役どころ」が似ていて、ちょっと気持ち悪い。綾野剛、根岸季衣は、こういう人間と思われているのか、ということが前面に出てくる。ほかの役者もそうだが、「存在感」というよりは、「定型」を利用している。新しい人間を見ているという気がしないのである。
 「楽園」は、少女がクローバーで花の冠をつくったあと田んぼ(?)のなかの道を歩くシーンのカメラの移動の感じが妙に宙に浮いたような気持ち悪さがあって、出だしとしてはおもしろいのだが、そういう不気味な感じが持続しない。
 佐藤浩市が「村八分」にあう感じが、いかにも「限界集落」で起きそうな出来事で興味深いといえば興味深いが、これを利用してラストシーンへ持っていくのは、「安易」という感じがする。綾野剛の受けている差別とは別のものなのに、それをいっしょにしてしまうのは「強引」というより、ストーリーを分かりやすくするための「安易」な展開としかいえない。これが「楽園」のいちばんいやなところかなあ。
 佐藤浩市の物語だけを、もっとていねいに描けばおもしろい作品になったと思う。中年男が村八分にあう物語では、だれも見るひとはいないと思ったのかもしれないけれど。しかし、それならそれで、佐藤浩市の物語を省略した方がよかったのではないか。
 綾野剛と佐藤浩市を重ねること(通わせること)で、現代の抱える問題を押し広げたつもりなのかもしれないが、私はこういう重ね合わせは、どうも納得ができない。
 「閉鎖病棟」もある意味では、人間の重ね合わせである。ひとりでいるときは突破できなかった「壁」というか、自分自身の生き方が、他人に触れること(他人の悲しみと自分を重ね合わせること)によって、「自立」へ向かって動き出す。感動的といえば感動的なのだけれど、ちょっと「感動的すぎる」。つまり、作為を感じてしまう。
 で。
 私は田中裕子が出演する「ひとよ」を見ようか、見まいか、迷ってしまった。三本の映画に共通するのは「殺人」なのだが、殺人は経験したことがないだけに、殺したいという気持ちを役者と共有できるかどうかが問題なのだが、私は、どうも苦手だなあ。血が飛び散ったり、悲惨な殺人シーンは笑いだしてしまうほど好きなのだけれど。あれは現実には見ることのないシーンを見る興奮だな。「未知との遭遇」で宇宙船が山を越えながらひっくりかえるシーンのような。「殺人」も、私の予想できないような「動機」で起きるのなら、それは見応え(?)があるのかもしれないが、たいていは「殺してしまうのは、やっぱりやりすぎでは?」と思ってしまうからねえ。

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アリ・アッバシル監督「ボーダー 二つの世界」(★★★)

2019-11-03 21:24:17 | 映画
アリ・アッバシル監督「ボーダー 二つの世界」(★★★)

監督 アリ・アッバシ 出演 エバ・メランデル、エーロ・ミロノフ

 私は最近の「特殊メイク」にどうもなじめない。多くは「そっくりさん」にするためのものだが、この映画では主役の二人を「そっくりさん」にしている。しかも、それは「醜い」そっくりさんである。「醜い」は隠された「異形」をも含んでいる。それは「ことば」で表現された後、「映像」でも一瞬だけ具体的に提示される。こういうやり方も、私にはなじめない。
 映画は、やっぱり「俳優」を見るものだと思う。日常では絶対に見ることのできないアップされた顔、肉体を見ることで、自分の肉体のなかにある「可能性」みたいなものを刺戟される。映画を見て、美男・美女になれるわけではないが、見終わると「主役」になった気持ちになる、というのが映画のおもしろさ。芝居(舞台)だと、「アップ」がないから、「のめり込む」という感じにはならない。
 この映画では、では、そういう「のめり込み」を誘うシーンがないかというと、そうでもない。セックスシーンが、なかなかの「力演」である。でも、これはねえ。セックスシーンというのは、だいたい人にみせるものではない。どんなに工夫しても「無様」というか「醜い」ものを含んでいる。(「帰郷」のジェーン・フォンダのエクスタシーが、私の見たセックスシーンではいちばん美しい。絶対的な美しさで輝いているが……)そして、その「醜さ」に何か「欲望」の本質を教えられた気がするのである。そうか、欲望にかられるときは、「美醜」の区別がつかなくなるのか。「美醜」という判断基準とは違うものによって人間は動くのか、と。
 で。
 実は、これがこの映画のテーマか、とも思う。「美醜」の判断基準とは違うものによって動くだけではなく、いつも信じている「判断基準」そのものとは違うものによって人間は動くことがある。「判断基準」は「顕在化」しているもののほかにも、ある。「顕在化している判断基準」を消して、まだ「判断基準」のない世界へと踏み込んで行く。
 わかった上で(そう解釈した上で)言うのだが、やっぱり「醜さ」を強調した「特殊メイク」はいやだなあ。
 この映画では「判断基準の逸脱」とどう向き合うかが、とても丁寧に描かれている。「幼児ポルノ」の摘発シーンなど、アメリカ映画なら、捜査官がパッと踏み込んで逮捕、あるいは証拠を突きつけて逮捕があっと言う間なのに、この映画では捜査そのものが慎重だし、取り調べもとても穏やかだ。あ、北欧の「人権感覚」は、ここまで徹底しているのか、と教えられる。女性主人公が、認知症で施設に入っている父親と口論するシーン、看護師が間に入って口論をやめさせるシーンなども、非常に落ち着いている。「判断基準」をひとが逸脱したとき、それをどう復元するかという問題が、逸脱した人が逸脱に気づき、自己修正していくのを待つ。決して、「正常な判断基準」へもどることを強制するわけではない。
 こういうことを踏まえて、映画は、社会の「判断基準」を逸脱した女性主人公がどんなふうにして「自己」を発見し(つまり自己のアイデンティティに気づき)、いまある「判断基準」を乗り越える姿(新しい生き方の基準を自分自身で選び取る)かを描いている点は、感動的といえば感動的なのだが。
 これが「特殊メイク」をつかわずに、「素顔」で演じられていたらどんなにすばらしいだろうと思う。「ふつう」のなかにこそ「判断基準」の強い「罠」のようなものがあるのだから、と思わずにはいられない。

 (2019年11月03日、KBCシネマ2)
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ダニー・ボイル監督「イエスタデイ」(★★★★)

2019-10-16 00:05:24 | 映画

ダニー・ボイル監督「イエスタデイ」(★★★★)

監督 ダニー・ボイル 出演 ヒメーシュ・パテル、リリー・ジェームズ

 これは何というか、イギリス以外では絶対つくることができない「味」を持った映画。どこが「イギリス味」かというと、みんな、相手がだれであろうが自分の「身分」を離れないということ。うーん、イギリスというのは徹底的に「階級社会」なのだ。自分の属する「階級」とは「親密」につきあうが、そうでなければ知らん顔。たとえ知っていても、知らない顔をする。これは逆の言い方をすると「分断社会」、「個人主義の社会」ということにもなるのだけれど。
 象徴的なのが、主人公ヒメーシュ・パテルの歌(といってもビートルズの歌)だけれど聞いたシンガー・ソングライターのエド・シーラン(本人/私は知らないけれど、有名人らしい)が主人公の家を尋ねてくる。主人公の父親は、彼を見ても「エド・シーランに似ているなあ」「本人だよ」「ふーん」という感じ。「階級(住む社会)」が違うから、何の関係もない。たとえ有名人だとしても、それがどうした?という感じ。主人公にとってはびっくり仰天だが、それは主人公とエド・シーランとの関係であって、父親とエド・シーランは無関係。言い換えると、究極の個人主義とも言える。(「ノッティングヒルの恋人」にも似た感じの味がある。大女優・ジュリア・ロバーツとイギリスの普通の男が恋愛するけれど、それでどうした、という感じで周囲が見ている。)
 だから、というと奇妙に聞こえるかもしれないけれど。
 ヒメーシュ・パテルが「新曲」と言って家族に「レット・イット・ビー」を弾き始める。でも最初の部分だけで、つぎつぎに邪魔が入って最後まで歌えない。家族や父親の友人は「聞きたい」とは口では言うが、真剣に聞く気持ちは全然ない。どうせ、つまらない曲、自己満足の曲だと思っている。思っているけれど、口にはしない。この「個人主義」もなかなかおもしろい。日本だと、「聞きたい」と言った手前、最後まで聞く。でも、イギリスは気にしない。聞く方には聞く方の「事情」がある。そっちを優先させてしまう。ヒメーシュ・パテルは「家族」だけれど、音楽という違う「階級」にも属していて、そんなもの私の知ったことじゃないと、両親も、その友人も、どこかで思っている。
 最後のコンサートシーン。父親が楽屋(といっても、ホテルの一室)を尋ねてくる。そこで何をするかといえば、皿に載っている手つかずのサンドイッチを見つけて「それ、全部食べるのか」と息子に聞く。ヒメーシュ・パテルは、父親に全部やってしまう。いったい全体、これはどういう親子? でも、これがたぶんイギリスの「親子関係」なのだ。一緒にいても、それぞれの「領域」があり、個人と個人の「つきあい(社交)」がある。それを優先する。つまりは「個人」を優先する。
 これが映画(ストーリー)と何の関係がある?
 とっても深い関係がある。この奇妙な「個人主義」(階級の分断)と共存こそが、この映画の神髄なのだ。
 ビートルズ。世界のアイドルだが、イギリス人にとっては世界と共有する音楽でとはなく、あくまで個人とビートルズの関係にすぎないのだ。「すぎない」と書くと語弊があるが。あくまでひとりの人間としてビートルズが好き。他のひとがビートルズが好きであっても、その「好き」はひとりとは関係がない。「個人」とビートルズが音楽を共有するのであって、「個人」が「大勢のファン」と共有するものではないのだ。
 このことをはっきりと語るのが、ビートルズを知っているふたり。ふたりは、ビートルズを知っていて、そのことをヒメーシュ・パテルに告げに来る。「盗作」というか「剽窃」だと知っているけれど、非難しない。逆に、「ビートルズを世界に広げてくれてありがとう」と言う。ビートルズと世界のひとりひとり(個人)がつながる。そのことに悦びを感じている。ちょっとイスラム教徒の神と個人の関係に似ているかなあ。そこにあるのは「個人契約」だけ。あくまで「個人」がビートルズを楽しむ。
 アメリカの音楽業界の「一致団結」してビジネスにしてしまう感覚とは大違い。
 ヒメーシュ・パテルはアメリカ資本主義が提供する大成功をほっぽりだす。全部の曲を無料ダウンロードできるようにして、ヒメーシュ・パテルは「自分」にもどって行く。みんなが好き勝手にビートルズを楽しめばいい。大勢で楽しむのはそれはそれで楽しいが、「個人」で楽しんでもいいのだ。みんなで楽しまないといけないというものではない。
 いいなあ、この「愛し方」。「階級」で分断されているから、「独立」というか「自立」の精神も強いのだ。「個人」でいることの「自由」を知っている。たしかに自由は「個人」であることが大前提だ。ダニー・ボイル監督は「私はこんなふうにビートルズが好き」と、自分のビートルズの愛し方を映画にしたのだ。
 ジョン・レノンとの出会い、会話の部分も、そういうことを語っていると思う。
 イギリスの「個人主義」はいつ見ても美しいと私は感じる。絶対に自分を離れない。生まれ育った世界に自己という足をくっつけて生きている。ヒメーシュ・パテルが、ビートルズの「ことば」を思い出せなくて、リバプールを尋ね歩くことも、そういうことを象徴している。知っていることしか、ことばにできない。(ということを、ビートルズを覚えているふたりが主人公に語る。)ビートルズが、なんとも不思議な形でスクリーンいっぱいに広がる。ビートルズを聞きながら、イギリスへ行ってみたくなる、ビートルズの歩いた場所を歩きたくなる映画だ。

 (2019年10月15日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン8)


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ジャ・ジャンクー監督「帰れない二人」(★★★★★)

2019-10-13 10:30:25 | 映画
ジャ・ジャンクー監督「帰れない二人」(★★★★★)

監督 ジャ・ジャンクー 出演 チャオ・タオ、リャオ・ファン

 ジャ・ジャンクーといえば「長江哀歌」。あの映画の衝撃が強すぎて、他の作品はどうしても見劣りがする。「長江哀歌」は「日常」というものが「時間」をもっている。つまり「歴史」であるということをたいへん静かな映像でつかみ取っていた。「日常」というのは激変しているのだが、その激変はつねに静かさの中に沈んでいく。ちょうどダムの水底に集落が沈んで行くように。
 この映画では、女と男の「日常」が、つまり「時間」がとてもていねいに描かれる。
 「激変」というか、ストーリーを要約すれば、暴力団(?)のボスが対立する組に襲われる。女は男を救うために発砲する。銃の不法所持で服役する。出所してみると、男は他の女と一緒になっている。さて、どうするか。
 この十数年の「時間」をチャオ・タオとリャオ・ファンが演じる。しかも、ほとんど無表情に。あ、これは中国人の表情を私が見慣れていないために感じることかもしれない。日本人の表情は「能面のようにのっぺりしている」といわれるが、中国人もおなじだ。アジア人が表情に乏しいのかもしれない。
 事件を起こすまでは、まだ表情に活気があるが、事件の後、男をかばって(銃は男がもっていたものだ)逮捕されてからのチャオ・タオは、彼女自身のなかにとじこもる。財布を盗んだ女を問い詰めるところ、バイクの男をだますところ、列車のなかで知り合った怪しげな男についていくところなど、隠していたものがぱっと噴出するのだが、リャオ・ファンとの「絡み」になると、無表情に近い。とても静かになる。感情を滲ませる部分もあるが、とても静かである。たとえばアメリカ映画、フランス映画の女と男のように、ののしりあいやとっくみあいがあるわけではない。そんなことをしなくても相手の思っていることがわかる。相手の「過去(時間)」がわかり、「いま」の苦悩もわかる。わかった上で、そのわかっていることを語る。
 これが「日常」である。
 時代は変わる。そして女と男の考えも変わる。変わるけれど、変わらないもの、変えられないものがある。それを要約して、「渡世の義理」とこの映画では言っている。「渡世」とはひととひととの関係である。ひととひとが出会ったら、そこに義理が生まれる。
 男は、義理を捨ててしまうが、女は義理を守る。その義理に男は頼るが、頼りきることはできずにやっぱり出て行く。これを甘えというのだが。
 そういうあれこれを見ながら、私は「長江哀歌」のひとつの美しいシーンを思い出していた。「長江哀歌」で私がいちばん好きなシーンは、どこかの食堂のシーンである。テーブルが壁にくっついている。テーブルは食事のたびに拭かれる。そうするとテーブルが接している壁にも雑巾が触れることになる。テーブルと壁の接していた部分に、だんだん「汚れ」がついてくる。拭き痕が残る。食堂はダムのために立ち退きになる。テーブルが運び出される。すると、壁に雑巾の拭き痕だけが残る。「義理」とは、こういうものなのだ。繰り返し、積み重ねが残す、とても静かな「痕跡」。それは「汚れ」に見える。しかし、それは「汚れ」ではなく、ほんとうは「美しさ(清潔さ)」を守り続けた「暮らしの痕」なのだ。私の、その短いシーンで思わず涙が出てしまったが。
 おなじものをチャオ・タオの振る舞いに見るのだ。かつて愛した男。いまは愛しているかどうかわからないが、あの愛にもどれたらいいのに、という思いが消えない。あの愛を守ろうとしている。それは、あのときの自分を守るということとおなじ意味である。テーブルに雑巾がけをしてテーブルをいつも清潔にするように、事件と呼べないような小さなあれこれが起きるたびに、それを片づける。ととのえ、清潔にする。つまり、あのといの自分自身にもどる。その繰り返しが、壁にではなく、チャオ・タオの「肉体」に残る。それは「汚れ」に見えるときもある。麻雀店を取り仕切る「女親分」に、とくにその「汚れ」が見える。しかし、それは「汚れ」ではなく、暮らしをととのえる過程で積み重なった、どうすることもできない「時間」なのである。
 その重さと悲しさと苦しみと、それでも「義理」を生きる悦び(愛した男といっしょに「いま」を生きている、という実感)が交錯する。チャオ・タオの「姿勢」の「正しさ」のなかに、それがくっきりと見える。映画ではとくに、リャオ・ファンが脳梗塞から半身不随になっているので、「姿勢」の対比としてそれがくっきりと浮かび上がる。この「肉体」の対比は、こうやってあとから整理しなおせば、いかにもストーリーという感じだが、映画を見ている瞬間は、そういう感じがしない。チャオ・タオの「意志の強さ」がスクリーンを支配しているからだろう。そして思うのは、こういう「姿勢」の対比を見せる映画では、たしかに「ゆれ動く表情」というものは邪魔なのだ。無表情は選びとられた演技なのだ。「顔」で演技するのではなく、「全身(肉体)」そのもので演技する。「ジョーカー」のホアキン・フェニックスの「全身の演技」にも驚いたが、チャオ・タオの「静かな全身の演技」にも驚いた。引きつけられた。

 それにしても、と思うのは。
 どこでも、いつでも「日常」はある、ということ。その「日常」というのは「過去」をもっているということ。中国は経済発展とともに大きく変わっている。そういう大きな変わり方は目につきやすい。その一方、「日常」の感じ方も少しずつ変わっている。変わるものと変わらないものが絡み合って、うごめいている。この押しつぶされながらつづいていく「日常」の感じは、巨大なビル群や、経済活動だけでは見えない。なんといっても「大きい」ものは見えやすく、「小さい」ものは見えにくい。そういうことを感じさせてくれる映画である。チャン・イーモーは「紅いコーリャン」(日常)から「シャドウ(影武者)」(グローバル経済)へと激変したが、ジャ・ジャンクーは「日常」(いま、そこにいる人間)に踏みとどまっている。そういう点も、私はとても好きだ。

 (2019年10月12日、KBCシネマ・スクリーン1)

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トッド・フィリップス監督「ジョーカー」(★★★★★)

2019-10-04 19:24:47 | 映画
トッド・フィリップス監督「ジョーカー」(★★★★★)

監督 トッド・フィリップス 出演 ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ

 間違いなく2019年のベスト1。ここ数年のなかでもベスト1になる作品。
 映画は映像と音楽だが、その両方に圧倒される。
 映像は、色彩計画がすばらしい。ホアキン・フェニックスのダークな髪(映画では、さらにダークになるように染めているようだが)と目にあうように、街全体が黒をひそませた色でできている。つかいこまれて、生活が積み重なった黒い陰り。ゴミ袋の黒は当然といえば当然の黒だが、黒にも光を反射して輝く瞬間があるが、そういうことがないようにしっかりと黒の中に沈み込ませている。ホアキン・フェニックスが着るピエロの赤い服さえ、その赤には黒がまじっているのだろう、静かに全体の中に溶けこんで行く。けっして浮き上がらない。「群集」の衣装にも浮いたところがひとつもない。
 街の風景では、何度かホアキン・フェニックスが昇り降りする長い石の階段がとても魅力的だ。新しさというものが全然ない。それに合わせるように街全体にも新しさがない。高層ビルがあってもひたすら古い。車が走るトンネルの「距離感」も、とてもすばらしい。閉塞感に満ちている。室内の調度も同じだ。新しくすることもできず、ただつかってきたという感じだけが、ぐいと迫ってくる。
 これを別なことばで言いなおすと、すべての存在が「過去」を持って、「いま」「ここ」にある、という感じだ。
 「音」も同じ。「音楽」になれずに、うごめいてるノイズ。あまりにも長い間、そこでノイズであり続けたために、もう「肉体」のなかにしみこんでしまっている。まるで「肉体」からもれだしてきたようなノイズ。いや、もともとノイズというようなものは、「外の世界」にはなくて、「音楽」が「肉体」を通り抜けていくときに、「音楽」になりきれずに残して行った「傷」がもらしてしまう「うめき声」のようなものか。この暗さが、画面の、暗いけれど、しっかり自己主張する色彩と非常によくあっている。
 さらにホアキン・フェニックスの「肉体の暗さ」がすごい。顔(表情)の演技もすばらしいが、痩せた上半身の、背中の、正面からの、脇腹の、いや、骨が浮きでるような、うねるような「暗さ」に思わず吸いよせられてしまう。「健康」というものを少しも感じさせない。こういう言い方がいいとは思わないが、「奇形」の強い歪みを秘めている。生々しいいのちが、生々しいままうごめいている。触りたくない、近づきたくない。もし近づくことがあるなら、この映画に何度もあるように、殴る、蹴る、という暴力の捌け口として接触することになるだろう。そう、思わず、殴ってしまいたいような怖さがある。蛇を見たときの怖さのような。だから殴る、といっても手で殴るのではなく棒か何かで殴ることになる。そういう不気味さがあるためか、ホアキン・フェニックスが殴られる瞬間というのは、何というか、うーん、よく殴ったなあ、殴った奴は偉い、という感じさえするのである。よっぽど怒りがこもらないと、ホアキン・フェニックスを殴ることはできない。(蹴る、というのは、これとは少し違う。)
 で、この殴られたときの痛み、怨念みたいなものが、ホアキン・フェニックスの「肉体」にとどまるのではなく、「街」全体の中にしみこんでいくような感じがまたすごい。こういうことを感じさせるのは、やはり「色彩計画」が完璧なのだと思う。ホアキン・フェニックスの目の色が何度もかわる。狂気を秘めて、悲しみに沈む。ああ、この色はきっと街のどこかを映している、この色と街はどこかで完全につながっている、と感じさせるのである。
 しかし、ストーリーの山場の、ホアキン・フェニックスとロバート・デ・ニーロのシーンは、あまりよくない。「ことば」が説明しすぎるからかもしれない。ロバート・デ・ニーロの「形だけの演技」と組み合わさったとき、ホアキン・フェニックスの「肉体の過去」がうまく動かない。ロバート・デ・ニーロの「過去」が噴出して来ないので、二人がいることによって生まれるはずの「化学反応」のような変化が不発に終わっている。テレビ放映中の殺人という、生々しいはずのものが、妙に紙芝居みたいに見えてしまう。ロバート・デ・ニーロは損な役回りなのだけれど、損な役だけに、もっとしっかり演じればとても目立つのになあ。ホアキン・フェニックスに圧倒されて、演技するのをあきらめたのかもしれない。
 でも、まあ、そのロバート・デ・ニーロの傷を抱え込むことで、他の部分がいっそうすばらしく感じられるのだから、これはこれでいいか。
(2019年10月04日、ユナイテッドシネマももち、スクリーン9)
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キム・グエン監督「ハミングバード・プロジェクト0・001秒の男たち」(★★)

2019-10-02 11:16:15 | 映画
キム・グエン監督「ハミングバード・プロジェクト0・001秒の男たち」(★★)

監督 キム・グエン 出演 ジェシー・アイゼンバーグ、アレクサンダー・スカルスガルド

 この映画は、予告編を見たとき非常に気になった部分があった。株取引で金を稼ぐ話なのだが、値上がりしそうな株を買って、高値になったら売って儲けるという話とはぜんぜん違う新しい「儲け方」がテーマになっていることだ。売り注文と買い注文の間に割り込む。2000円なら売るという人がいて、2100円でなら買う人がいると仮定する。間に入って2050で買い取り2100円で売り飛ばす。50円の利益だが、その株の総量が1万株なら50万円。そういうことを可能にするために、電子取り引きにかかる時間を短縮する。他の人が取り引きを成立させるのに1分かかるところを30秒で処理すれば、そういうことが可能になる。こういうことを、私が書いたような1分とか30秒ではなく、なんと「ミリ秒(0・001秒単位)」でやろうとする。そういうことにアメリカの証券会社(?)は取り組んでいる。実話らしいのだが。
 私は株を持っていないし、株取引にも関心がないのだが、株取り引きで金を稼ぐということの「意味」がよくわからない。ある企業のやっていることに賛同し、そこに投資し、利益配分を受けるという株の持ち方は理解できるが、取り引きで「利ざや」を稼ぐということが、いったいどういうことなのかわからないので、それを知る手がかりがどこかにあるかなあと期待して見に行った。
 そして、私の考えていたことがどういうことだったのか、やっとわかった。
 主人公たちの「悪戦苦闘」のなかに、ひとつ、どうでもいいようなエピソードがある。アレクサンダー・スカルスガルド(この色男っぽい目、どこかで見たことがある、と思ったらステラン・スカルスガルドの息子だった。頭を禿にして、猫背をやっても、目の色っぽさが目立つ)が小さなバーに入り、酒を飲む。ウェートレス(いまは、これは差別語か、聞かなくなった)が近づいてきて、「何してるの?」「秘密だ」「CIA?」というようなやりとりをした後、どうせ説明してもわかりっこないだろうと思ったのか、アレクサンダー・スカルスガルドが「極秘情報(彼らのやっている計画)」を話す。そのとき「蜂蜜」か何かの会社の株を例にとる。一株の利益は小さくでも、取り引きが大きければ厖大な利益になる、と。それを聞いてウェートレスは「でも、蜂蜜をつくっているひとは?」と聞き返すのだ。これにアレクサンダー・スカルスガルドは何も答えられない。
 この瞬間、私が疑問に感じていることは、これだったのだと気づいた。ある企業の株を買うというのはその企業に出資すること。言い換えると、その企業の労働者に出資するということ。いい製品をつくり売れれば企業の儲けになり、労働者の賃金も上がる。つまり出資者は配当利益を得ると同時に労働者を支えることにもなる。でも、株の売買は? 資金調達力が間接的に労働者の賃金に影響してくることはあるだろうけれど、そういうことは株取引でカネ稼ぎをしているひとは気にかけていないだろうなあ。労働者は、株取引というカネの動きの中では存在しないのだろうなあ。
 カネ至上主義に対する批判は、アーミッシュのひとたちとの交渉でも出てくるが、このウェートレスのひとことの方が強烈に印象に残った。
 いま世界で起きていること、特に日本で起きていることは、このウェートレスの批判にすべてつながる。「現実に生きているひとりひとりはどうなるのか」という問題だ。カネの流れの中で、ひとりひとりの「労働(時間)」は、どう評価されているのか。そのことが無視されている。企業は金儲けのために労働者の賃金をおさえる。そのために子会社をつくりもする。正規社員と非正規社員との賃金格差が、そのまま企業の収益になるということだけではない。何やら最新の経済学では、国債はどれだけ発行しても債務超過にはならないといわれているらしい。国債は政府が発行し、いまは買い手がいなくて日銀が買っている。その日銀は諸経費を差し引いた利益を国に還元する。そういうことを繰り返すので財政破綻は起きないさらに「円」もどれだけでも増刷できる。--この、私にはさっぱりわからない「理論」も、なぜわからないかといえば、そこに「私」という「労働者」が組み込まれていないからだ。
 普通の税金(?)なら、「私という労働者」は組み込まれている。毎日8時間働き続けて、稼いだカネから税金を払ってきた。働けなくなったいま、いままで収めてきた税金(国を支えてきた税金)の見返りとして年金を払ってくれ、医療費を補助してくれと言える。でも、国債をつぎつぎに発行して財政をまかなうとき、「私という労働者」はどうなっている? 働かなくても「国債」で支出がまかなえるから心配しなくていい? そりゃあ好都合だけれど、働いていない分を受け取る(働かないで収入を得る)って、何かおかしくないか。働かなくてもいいといわれる一方、どこかで働かない人間は排除してしまえ、ということが起きていないか。年金だけでは老後の生活は維持できない。2000万円資産が必要という「試算」が発表されたとき、麻生は、その報告書を拒否した。豊かなひとたちは「2000万円準備しない方が間違っている」とも言う。それが他人を排除することだとは意識しないで。
 経済学に、人間(労働)をどう組み合わせるか、ということが、もう一度問われないといけないのだと思う。

 映画から、どんどんずれていってしまったが、たぶんずれて行った部分にこそ、ほんとうに書きたいことがある。だから、これから先は付け足し。
 光ファイバーのためのトンネルと、ジェシー・アイゼンバーグが胃の検査を受けるためにのむ胃カメラが重なる部分がとてもよかった。アメリカ人の「強欲さ」を人間の当然の欲望として描いているのもよかった。「秘密」をつきとめるために取る方法が「尾行(追跡)」「盗撮」というアナログだのみ(人間の直接的な行動)」というのが皮肉だし、無線中継の塔をジェシー・アイゼンバーグが電動のこぎりで倒しに行こうとするところも人間的でよかった。
(ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン13、2019年09月25日)
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ジェームズ・グレイ監督「アド・アストラ」(★★)

2019-09-27 22:14:39 | 映画
ジェームズ・グレイ監督「アド・アストラ」(★★)

監督 ジェームズ・グレイ 出演 ブラッド・ピット、トミー・リー・ジョーンズ

 宇宙映画が傑作になるか駄作になるかの分岐点は、とても単純なことを土台にしている。「宇宙の果て」については誰も何も知らない。死と同じように、いろいろ語られるが、それ実際に体験した人はいない。
 で。
 その何にもわからないところで、何が起きるか。ここにもう一つ大事なポイントがある。人は知っていることしか考えることができない。「宇宙の果て」なんだから何があってもいいはずなのに、ドラマはいつも知っていることを繰り返すしかないのだ。
 つまり、人を愛する、人を憎む、人を殺す。人を「父」に変えると、この映画のストーリーになるし、よく知らないがギリシャ悲劇にもなる。宇宙という舞台を借りた父親殺しの悲劇が展開されるだけなのだ。この悲劇は、逆読みすれば、権力者は暴君(独裁者)になり、暴君はこどもによって否定されることで新世界がはじまるということになる。どう読むかは、まあ、読者次第だ。読者が、どっちを「知っているか」ということにかかる。
 この映画の最初のクライマックスシーン。トミー・リー・ジョーンズあてのメッセージを読むブラッド・ピット。初めは、組織が用意した手紙を読む。返事が返って来ない。また繰り返す、でも返って来ない。そして何度目か、ブラッド・ピットは用意されたメッセージをそばにおいて、自分自身のことばを語り始める。よく覚えていないが「父さん、愛している」というようなことを語る。この瞬間、この映画は終わる。要約すれば、ブラッド・ピットはトミー・リー・ジョーンズ(父)を愛していたし、トミー・リー・ジョーンズもまたブラッド・ピットを愛していた。だからこそ、その愛は、父が死ぬこと(父殺し)によって完結する。父を殺さないかぎり、ブラッド・ピットは「人類の父」にはなれないのである。
 こういうことは「文学」では何度も何度も形を変えながら語られていることだと思う。人間は同じこと(知っていること)しか語れないから、そうなってしまうのだ。問題は、どんなふうにそれを語るかである。「語る」ということに限定して言えば、これはもう「ことば」の方がはるかに「自在」である。どこまでも「でたらめ」を言うことができる。どんな「でたらめ」でも「ことばの論理」は「論理の完結性」を実現できる。いざとなれば、これまで書いてきたことは間違いで、新たな事実をもとに語りなおせば、こういう結果になるというようなどんでん返しも簡単にできてしまう。これは、裏を返せば、こういう「宇宙を舞台にした父殺しのギリシャ悲劇」は、ことばで表現してこそ「宇宙の果て」まで行き着くことができる。映像では無理なのだ。
 映像は、どうしても具体的である。映像もことば(声)と同じように消えていくが、瞬間的な情報量は映像の方が多い。すべての情報を「嘘」で統一することはできない。ことば(声)は情報量が少ないから「嘘」をひとつひとつ消しながら「嘘」を積み重ねていくことができるが、そういうことが映像にはできない。
 だから、私は声を上げて笑ってしまった。最後の見せ場で。
 父を殺した後(父が死んでゆくのを、死んでゆくのにまかせた後)、ブラット・ピットは地球へ帰るために、「宇宙遊泳」しながら母船に帰る。このとき母船とブラッド・ピットとの間には砕けた岩のような障害物が散らばっている。ぶつからずに帰船するために、ブラット・ピットは捨てていくステーションの一部を剥がし、それを「楯」にする。宇宙の浮遊岩石は「楯」にはぶつかるがブラット・ピットにはぶつからない。このとき、ブラット・ピットの質量の方が大きいから、はじき返されるのは浮遊岩石だけであって、ブラット・ピットの側には「反作用」はないということになるのかどうか、私は知らないが、見ていて変に感じるのだ。一方で、浮遊している岩石にぶつかれば宇宙服(船外活動着)が破れる、ヘルメットが破れる)と状況設定しておき、他方で「楯」で防御すれば衝突していても作用・反作用は起きない。まっすぐに目的へ向かって遊泳できるということが、私には理解できないのだ。もちろん私が無知だから理解できないのであって、そこで起きていることは物理学としては正しいことなのかもしれないけれど、何といえばいいのか、私の「知っていること」とそこで起きていることが「合致しない」。つまり「知らないこと」を信じろと求められていると感じ、私は、つい笑いだしてしまったのだ。「真実」であるにしろ(真実だからこそ)、荒唐無稽。
 もし最後のクライマックスシーンが「宇宙物理学(?)」的に見て「真実」だとしても、それを「真実」と直感できなかったということは、それまでの映像の積み重ねの随所に、嘘がいっぱいあったということだろうなあ。映像の「嘘」を消してしまうほど、ことばが「ドラマ」になっていなかったということだろうなあ。
 ついでに言えば。
 父のトミー・リー・ジョーンズにあわせたのだろうが、ダークヘアーのブラット・ピットというのは奇妙だった。目にもコンタクトを入れているのか、妙な色をしていた。私の偏見かもしれないが、ブラット・ピットは「軽さ」が魅力なのに、それを発揮できないときは、もう別人である。前に見た「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は、私は好きではないが、ブラッド・ピットには、ああいう「ノータリン」的ムードがよく似合う。ノータリンだけれど、足が地についているというのが、なかなかおもしろかった。高望みしないというのが、逆にかわいらしかった。
(ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン13、2019年09月25日)
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ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(2)(★★★★)

2019-09-24 10:17:47 | 映画
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ダーク・ボガード,ビョルン・アンドレセン,シルバーナ・マンガーノ,ロモロ・ヴァリ
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ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(2)(★★★★)

監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 ダーク・ボガード、ビヨルン・アンデレセン、シルバーナ・マンガーノ

 (きのう書いた感想のつづきです。)

 「タージオ」のオーディションフィルムを見た。ルキノ・ビスコンティがビヨルン・アンデレセンに横を向いて、笑って、セーターを脱いで、とかいろいろ指示をしている。その中に「立って」という指示がある。そして、ビヨルン・アンデレセンが立ち上がるのだが、
 「背が高いなあ。驚いた」
 と思わず声をもらす。
 この瞬間、私は、この映画のすべてが決まったと感じた。
 ビィスコンティは採用しようかどうしようか迷うのだが、この「迷い」の中に映画の決定するものがある。「背が高いなあ」と驚いたのは、ビィスコンティはタージオ役に背の高くない美少年を考えていたからだ。ダーク・ボガードは、そんなに背が高くない。体つきががっしりしていない。中背というよりも低い方かもしれない。「恋人」としてはビヨルン・アンデレセンは背が高すぎる。一緒に並んだとき、釣り合わない。別に、年上の男の方が背が高く、少年は背が低くなければならないという決まりはないのだが、背が低い方が「少年」のイメージに近いだろう。背が高いと「青年」、あるいは「大人」になってしまう。
 でも、ビィスコンティはビヨルン・アンデレセンを選ぶ。この瞬間、この映画は男色に目覚め、苦悩する初老の男のうじゃうじゃした「抒情」から、美少年が初老の男をたたきのめす「神話」(悲劇)に変わったのだ。
 ダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンに会う前から男色だったかもしれない。秘書か同僚かわからない若い男がすでにダーク・ボガードのそばにいて、「芸術論」を戦わしている。この男はダーク・ボガードを批判し、刺戟を与えるが、インスピレーションは与えない。もうすでに「関係」は終わっているのだろう。
 一方、ビヨルン・アンデレセンは「議論」などしない。ただ、見つめられ、そしてときどき見つめ返す。ほんとうに見つめているのか、ただダーク・ボガードの周辺を視線が動いていっただけなのかわからないが、わからないからこそ、ダーク・ボガードには、それが強烈に感じられる。ふいに音楽が浮かんできて、五線譜に音符を書き始めたりする。いわば、音楽のミューズだ。予想していなかった「美」をダーク・ボガードはつかまえたのだ。
 同じことがビィスコンティにも起きたのだ。背の高い美少年は、ビィスコンティの「予想」を裏切った。「予想」を裏切られて、そこからいままでビィスコンティの表現してこなかった「美」の可能性があふれてきたのだ。ビィスコンティが即座にビヨルン・アンデレセンに決めかねたのは、ビィスコンティの予想していなかった「新しい美」にビィスコンティ自身が追いつけるかどうか、わからなかった、確信がなかったからだろう。しかし、確信がないからこそ、可能性に欠けるという喜びがある。興奮がある。これからつくる映画が、「現実(事実)」の再現ではなく「神話」の創造になるという予感がビィスコンティを突き動かす。その衝動にビスコンティは身を委ねる。
 実際、これは「神話」である。ラストシーン近く、ビヨルン・アンデレセンは海の中に進み、片手をのばし遥か遠くを指し示す。それは「永遠」のありかを指し示しているように見える。この逆光のシルエットは、確かに、長身の、痩せた少年でないと「絵」にならないだろう。「神話」には「神話」にふさわしい「形」というものがあるのだ。
 このラストシーンの前に、一つ、とても生々しいシーンがある。ビヨルン・アンデレセンが砂まみれで汚れている。それを保母(?)みたいな女性がバスタオルで吹き清める。砂をぬぐい取ると、その下から完璧な美があらわれる。現実の不純物をとりはらうと、その奥から美があらわれるというのは、美を生み出すためには現実の汚れ(事実)を振り落とし、清めるということが必要なのだ。
 オーディションにやってきたビヨルン・アンデレセンは、さまざまな「現実」を身にまとっている。それをビィスコンティはセーターを脱がせるように払い落とし、立ち上がらせ、「神話」にふさわしい「肉体」に変えたのだといえる。
 このときビスコンティはダーク・ボガードになったのだ。
 トーマス・マンの原作を私は読んでいないのだが、最後の「永遠」を指さすシルエットと、砂まみれの少年の砂をぬぐい取るシーンはビィスコンティの「創作」ではないだろうかと想像した。
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チャン・イーモウ監督「SHADOW影武者」(★★★★)

2019-09-11 20:47:33 | 映画
チャン・イーモウ監督「SHADOW影武者」(★★★★)

監督 チャン・イーモウ 出演 ダン・チャオ、スン・リー、チェン・カイ、ワン・チエンユエン

 チャン・イーモウと言えば「赤」。「紅いコーリャン」の「赤」もそうだが、そのあとも「赤」が美しかった。日本の赤とは違うチャイニーズレッド。それと拮抗するさまざまな原色。たとえば補色の緑。(アメリカ映画にはだせない色。イギリス映画とも違う輝き。)やっぱり大陸の空間が影響するのだと思うが、原色が同居しても、うるさくない。明るいバランスが強烈だった。
 それが、なんと。
 今度の映画は、まるで「墨絵」(水墨画)。降り続ける雨が、必然的に遠近感のなかに「灰色」のグラデーションを抱き込むが、登場人物の衣装も白と黒、灰色。さらに城のなかにはシャの懸垂幕(掛け軸?)みたいなものがかかっていて、そこには文字(詩)が隅で書かれている。最初の内は(ほとんど最後までだが)、色彩は「人間の顔」くらいなもので、モノクロ映画の世界に飛び込んだよう。
 この白と黒に「陰陽」が重なる。光と影。「影」にはいろいろな意味がある。「陰謀」などというのも「影」だろう。ストーリーは、いわば「陰謀(影)」と「戦闘(光/現実)」とのからみあいで進んで行くのだが。さらに「陰陽」は、「男」を「陽」と呼ぶときは、女は「陰」になり、そのからみあいと読むこともできる。実際、「男/女」はいろいろな意味でストーリーを動かす。
 でも、見どころはストーリーではない。(歴史に詳しい人は、ストーリーが重要だというかもしれないが。)
 主人公が「武術」を完成させるシーン。薙刀のように長い刀をあやつる武将とどう戦うか。その訓練をするシーン。長刀(陽)に対して、傘(影)で立ち向かう。長刀(男)の力を、傘(女)のしなやかさで吸収しながら、相手の武器を奪い取ってしまう。
 このシーンがまるで一幕ものの「ダンス(バレエ?)」のよう。二つの琴をつかった音楽にあわせて、男と女の肉体が融合して動く。そこに雨と光が陰影を与える。水溜まりを踏み荒らす足、飛び散るしぶき。それも一緒にダンスする。予告編でもちらりと紹介されていたが、「あ、もっと見たい」と思わす叫んでしまいそうだ。(このシーンだけで、★10個つけたいくらい。)
 傘を武器に変えての市街戦も、まあ、見どころではあるのだけれど、これは「予告編」だけで充分という感じ。
 そのあとの、やや入り組んだ「ストーリー」は、私の「関心外」で、私が考えたのは「陰陽」という中国の思想というか、中国人というのはやはり「対」感覚が強いということ。それは逆に言えば、世界は「1+1=2」という関係で「安定」するという感覚。「2」を超える数字は中国人には存在しない。「3」は、あってはならない数字(世界の向こう側)なのだ。
 これは、音楽のありかたを通しても描かれている。琴の合奏というのは、違う琴を違う二人が演奏し、違う音を奏でながらひとつの世界をつくりだすこと。ここにも「1+1=2」、「2」こそが世界の絶対的な完成の形という思想がある。そこにもし、もうひとつ「1」が加わることは、完璧が崩壊するか、完全に違った何かが誕生することであり、中国の思想ではない。
 だから。
 この映画、主人公の「影(余分な1)」の存在が「世界」を不安定にする。いつでも、どこでも「1対1」のはずが、別なところに「1(本物であったり、影武者であったりする)」がいて、「2」におさまりきれない。どうしたって「陰」か「陽」か、どちらかを消して「1」にしないことには世界は不安定になる。そういう意味では、わかりきった「結末」なのだが。
 この「中国式予定調和」が、まあ、映画の結末としてはしかたがないのだろうけれど、残念。★5個にならない理由。
 
 (中洲大洋スクリーン3、2019年09月11日)
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クエンティン・タランティーノ監督「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(★)

2019-09-04 18:52:45 | 映画
クエンティン・タランティーノ監督「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(★)

監督 クエンティン・タランティーノ 出演 レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、犬

 シャロン・テート事件というのは、映画をつくっている人間にとっては何としても映画にしてみたい事件なのだろうか。「身内」の事件だからね。
 でも、描くのはむずかしい。結末は誰もが知っている。どうしても「残忍」になる。
 クエンティン・タランティーノは、これをとても奇妙な方法で再現する。
 シャロン・テートを殺害しようとしていた三人組(四人組?)は、現代に「殺し」が蔓延しているのは、テレビで役者が次々に人を殺すからだ。殺人に対して感覚が麻痺しているからだ。世界から殺人をなくすために、殺人を平気で演じる役者を殺してしまえ、という「結論」に達し、テレビで人気があったレオナルド・ディカプリオを襲うことにする。映画ではシャロン・テートの「隣人」である。
 「論理のすり替え」というか「対象のすり替え」というか。まあ、理屈の言い方はいろいろあると思うけれど。
 で、これを、いかに「唐突」に見せないか、ということに知恵を絞っている。その「仕掛け」として、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットの組み合わせがある。ひとりはスター、ひとりはお抱えのスタントマン。
 テレビの視聴者はレオナルド・ディカプリオを見ているつもりでいるが、それは危ないシーンではブラッド・ピットが演じている。ブラッド・ピットと知らずに、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットを見ている。でも、この「知らずに」は、「知る必要がない」ということでもある。どっちでもいいのだ。「役者」を見ているときもあれば、「役者」ではなく「ストーリー」だけを見ているときもある。そういうことをいちいち区別はしない。
 これは、だれを殺害するかという計画(?)にも反映される。シャロン・テートを狙っていたのだが、特にシャロン・テートでなければならないわけではない。誰かを殺すことで何かを訴えたかった。だから簡単にレオナルド・ディカプリオに、標的を変えてしまう。とくに変えたという意識もないままに。
 そうなると、そこで再現されるのは「どたばた」になる。コメディーになってしまう。暴力的コメディー。殺す方も、殺そうとして殺される人間も、もう、目的も何もない。訳が分からないまま、銃がぶっぱなされ、殴り、殴られる。犬が男の急所にかみつくというようなコメディーならではのシーンもある。バーナーで焼き殺すというシーンまである。そのすべてが、ぜんぜん美しくない。あの殺しのシーンをもう一度見てみたい、ということはない。ばかばかしい、としか言いようがない。
 映画は映画、娯楽なのだから、「どたばた」でかまわないといえばかまわないのだけれど。
 この最後の「どたばた」を無視して、60年代の風景(ファッション)を思い出してみる、というだけなら、それはそれで楽しい映画だろうけれど。でぶでぶになったレオナルド・ディカプリオを、自分自身で笑って見せる(批判して見せる)クレジットの部分など、傑作ではあるのだけれど。
 唯一、素直に(?)感情移入できたのは、ブラッド・ピットが飼っている犬だけだったなあ。
 (ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン5、2019年09月04日)

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ナディーン・ラバキー監督「存在のない子供たち」(★★★)

2019-08-30 21:58:02 | 映画

ナディーン・ラバキー監督「存在のない子供たち」(★★★)

監督 ナディーン・ラバキー 出演 ゼイン・アル・ラフィーア

 この映画の感想を書くのはむずかしい。私自身の「視点」をどこに置いていいか、悩んでしまう。そして、悩んでしまうということこそが、この映画が告発していることかもしれない。
 悠長に悩むなよ、と怒っている。
 悩みは、苦しみではない。
 主人公の少年は苦しんでいる。悩む暇などない。両親もまた苦しんでいる。彼らもまた悩む暇などない。どうしようか、考えない。考えても答えがないからだ。そして、この苦しみは、誰かに代わってもらうことができない。いつも直接的だ。
 と、飛躍する前に、悩むことについて思いを巡らしてみる。
 とても興味深い男がいる。少年が家出をし、助けを求めたエチオピアの不法移民。彼女には赤ん坊がいる。その子供の父親である。一緒に暮らしているわけではない。市場で店を開いている。そこへ主人公が赤ん坊を連れてやってくる。彼が父親だから、赤ん坊の父親に助けを求めるのだ。
 この男は、苦しまない。悩みもしない。どう行動するか、もう結論が出ているからである。悩むことを放棄し、ただ行動する。子供に金をやる。食べ物をやる。
 ここに、何か恐ろしいものがある。
 「結論」が出てしまっている、という恐ろしさだ。
 見回せば、世界はすでに「結論」だらけである。少女は生理が始まれば結婚させられる。不法移民は発覚すれば追放される。偽造の身分証明書と金があれば、スウェーデンへ行ける。世界には、いくつもの「結論」がある。ひとは、そのどれかを選択するのではない。選ぶ権利、選択を悩むということが許されていない。
 これは、そういう苦しみを生きていない人も同じである。
 不法移民は逮捕する。犯罪者は刑務所に入れる。もちろん裁判もあるが、それは「結論」として裁判があるからであって、裁判をとおして人間を再生させるためではない。「結論」を「結論」らしくみせかけるだけのものである。

 だからこそ。

 私は、悩むということを選び取りたい。「考える」ということを選び取りたい。
 映画から離れてしまうが、いま、日本のネットであふれているのは「結論」としてのことばだけである。みんなそれぞれ「結論」をもっていて、それを基盤にして、違う「結論」を主張する人間を否定しようと、罵詈雑言をばらまいている。罵詈雑言をばらまくことを、だれも悩んでいない。言えば、それで満足している。
 考えなくなっているのだ。「結論」をコピー&ペーストして、この「結論」があるから大丈夫と思っている。なんといっても、それは自分で考えた「結論」ではなく、すでに出てしまっている「結論」だから、間違っているはずがない、と信じている。

 たぶん、この映画に登場する多くの「無名」の人間は、同じように行動しているのだ。ネットで罵詈雑言を書くかわりに、ただそこにある「結論」をそのまま採用して生きている。奇妙な言い方だが、エチオピアの不法移民の女性さえ、不法がばれないように働いて生きるという「結論」を生きている。乳呑み子をかかえているという問題があるが、それによって「結論」がかわるわけではない。ある意味で、悩まないのだ。
 少年だけが悩んでいる。妹に生理が始まれば、どうやって隠そうか。赤ん坊にのませるミルクがなくなった。どうしよう。よその赤ん坊の哺乳瓶を奪う。氷に砂糖をつけてなめさせる……。
 
 だからこそ、こう言いなおすことができる。
 
 主人公の少年は、苦しむのではなく、悩めと言っている。みんな「結論」をそのまま受け入れて、「結論」をかえようとはしない。少年は、たったひとり「結論」を変えようとして、悩み、戦うことにしたのだ。
 裁判官も、マスコミも、みんな悩んでなんかいない。「結論」が存在していて、それをすべてにあてはめようとしているだけだ。それに対して少年は異議を唱えたのだ。悩みを行動に変えたのだ。

 学ぶべきなのは、ここなのだ。悩み、行動する。そのとき、苦しみは生きる力になる。少年は、最後にほほえむ。身分証明証の写真を撮るためだが、行動こそが身分証明書であることを、少年は告げている。
 だが、こういうことを「結論」にするのは、やめておく。私は、悠長に悩むなよと叱られたことを、もっと考えてみたい。
 (KBCシネマ1、2019年08月30日)
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デクスター・フレッチャー監督「ロケットマン」(★★★)

2019-08-27 20:22:07 | 映画
デクスター・フレッチャー監督「ロケットマン」(★★★)

監督 デクスター・フレッチャー 出演 タロン・エガートン

 見始めてすぐ、これはスクリーンではなく「舞台」で見たいなあ、と思った。タロン・エガートンの演技が、そう感じさせる。
 スクリーンと舞台とどう違うか。
 スクリーンは細部(アップ)を見ることができるが、肉体がカメラに切り取られるので「全身感」がない。ときには「肉体感」が逆になくなってしまうときもある。もちろんアップによって強調される「肉体感」もあるのだが。
 舞台では、当然のことながら「肉体」が切り取られ、アップになるということはない。常に全身がさらけだされ、ときには飛び散る汗がきらきら光り、息づかいまで聞こえてくる。そばにいる、という感じがしてくる。
 タロン・エガートンは、この「肉体感」が強い。ふつうの肉体(中肉中背?)という感じで、特にスマートということもない。それが「距離感」を縮める。(似た俳優に、マーク・ウォールバーグがいる。)
 で。
 おもしろいことに、この映画はエルトン・ジョンの音楽を描きながら、エルトン・ジョンと「他者」との「距離」を浮かび上がらせていて、そのことも「舞台」向きなのだと思う。
 「距離」を象徴するのは「ハグ」。幼いエルトン・ジョンが父親に「ハグして」とせがむ。しかし、父親は拒む。その瞬間に、そこにあらわれる「距離」。これがスクリーンでは「ことば」になってしまう。「舞台」なら、きっと「せりふ」を越えて、そこにある「空間」そのものが見えてくると思う。「肉体」と「肉体」の「距離」が、「距離」ではなく「空間」になってしまう。「空間」は「舞台」からはみ出し、観客席にまでつながってしまう。その瞬間、少年の「悲しみ」が観客のものになる。
 カメラのフレームは、その「距離感」の絶対性を、ときにあいまいにしてしまう。カメラのフレームによって「距離」が勝手に動いてしまう。でも、「舞台」なら、そういうことはない。観客からは、常に登場人物と登場人物の「距離」が見える。
 この「距離」に苦しみ、それをなんとかしようともがくエルトン・ジョン。なかなかおもしろい。
 映画の始まりが、エルトン・ジョンがアルコール依存症(薬物依存症)のグループに出かけて行き、そこで自分を語るというところから始まるのも、象徴的だと思う。円を描くように坐り、語り始める。エルトン・ジョンが最初に見るのは、そこに来ている「参加者」ではなく、円の真ん中にある「空間」だろう。それを、エルトン・ジョンはどうやって乗り越えるか。参加者と、どうやって「一体」になるか。まあ、「一体」になる必要もないのかもしれないけれど。ともかく、エルトン・ジョンは「空間」(距離)というあいまいな「哲学」にひっかきまわされつづける。
 それを見ながら、私はさらに、こんなことも考えた。
 私は音楽をほとんど聞かない。エルトン・ジョンも、実は聞いたことがない。大ヒットしているから、どこかで聞いているかもしれないが、これはエルトン・ジョンと思って聞いたことはないのだが。
 何度も出てくるライブシーンを見ながら、エルトン・ジョンはやっぱり「ライブ(なま)」を生きていたのだ思ったのだ。観客に誰がいるか。そのことだけで、もう、「距離」が違ってくる。「肉体」に変化が起きてしまう。
 レコードも出しているが、彼はきっとライブなしには生きられなかっただろう。ステージと観客席はわかれているが、ステージに立てば観客の存在がどうしても「肉体」に迫ってくる。その不特定多数の「肉体」にどうやって向き合うか。自分の「肉体」をどうやって届けるか。曲(音楽)だけではなく、エルトン・ジョンは「肉体」そのものを「他人」に近づけたかったのだ。そのときの「緊迫感」を生きたのだ。
 派手な衣装はエルトン・ジョンと観客を「分断」するかもしれないが、エルトン・ジョンとしてはきっと観客に近づく(観客の視線を引きつける)ための手段であり、方法だったのだと思う。
 音楽を聴かないし、ライブというものに一度も行ったことがない人間が書くと「嘘」になってしまうかもしれないが、音楽はやっぱりライブにかぎると思う。エルトン・ジョンの「声」をつかわず、タロン・エガートンが自分で歌っているのだから、ぜひ、この映画を「舞台」にのせてほしい。それが実現したら、見に行きたいなあと思う。

 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン8、2019年08月27日)

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