goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ルキノ・ビスコンティ監督「異邦人」

2021-06-07 19:41:53 | 映画

ルキノ・ビスコンティ監督「異邦人」(★★★★)(KBCシネマ1、2021年06月07日)

監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、アンナ・カリーナ

 ルキノ・ビスコンティは「異邦人」のごとにひかれたのだろうか。「異邦人」の何を撮りたかったのだろうか。
 映像は、大別して三つある。ひとつは顔のアップ。これを近景と呼んでおく。二つ目は人の全身が映る中景。もうひとつは自然(たとえば海)の遠景というか、なぜ人の動きが小さくしか見えない広い空間を映したのかわからない映像。
 アップ、近景では、目のちょっとした動きが意味を持つ。マルチェロ・マストロヤンニは、表情が目まぐるしく変わるという顔ではない。顔の表面に、うっすらと脂肪がついていて、表情筋がそのまま表情をつくる感じではない。でも、目が動くとき、顔全体も動いたように感じられる。アンナ・カリーナにかぎらず、ビスコンティ映画に出てくる女優は目が鋭い。口が大きい。大声で笑う。非常に野性的な感じがする。イングリット・バーグマンのように「知的な女性」という印象から遠い。野生の女、という感じ。そして、その野性味が、男の「知性」を浮かびあがらせる「補色」のような働きをする。例外は、この映画には出ていないアラン・ドロン。アラン・ドロンは、ビスコンティの映画のなかでは、野蛮な(野生の)欲望をもった男優だ。目というよりも、口を大きく開けて「肉体」を覗かせるとき、野蛮が剥き出しになる。
 ビスコンティの映画では、男は基本的に「口」では演技をしない。笑わない。目で、誰にも理解されていない自分というものを、具現化する。目が、自分の悲しみだけをみつめている。この映画でも、マストロヤンニは、そういう演技をしている。
 ほかの男優は、マストロヤンニとは違って、「口」で、つまり「ことば」で演技をしている。口を大きく開けて、ことばに意味を持たせる。マストロヤンニは、ことばも目と同じように、自分をみつめるためにしかつかわない。最後の方に牧師との対話があるが、このときでさえ対話というよりも、自分と向き合っている。けっして神(絶対に自分ではないもの)とは向き合わない。そう考えると、口を大きく開けてことばを発するとき、他の男たちは「神」に向かって自分はこういう人間であると主張しているのかもしれない。もし対話というものが男たちの間で成立するとすれば、間に「神」を置くことによって対話していることになる。法廷がまさにそれ。この映画では「法」を間に検察、弁護側がことばを戦わすというよりも、「神」を間において激論している。マストロヤンニの演じる主人公は「神」を拒絶しているから、誰とも「対話」にならないのだ。「不条理」というのは、なぜ、その人が「神」を拒絶しているかわからない、という意味かもしれない。
 まあ、こんなことには立ち入るまい。私は「神」を見たことかないから、何を書いても空論になる。
 私が中景と呼んだシーンでは、据えつけられたカメラの前を人が横切ったりする。こういうシーンはいまでこそ珍しくないが、この映画がつくられた当時は珍しかったのではないだろうか。主役の動きが、他の人物の動きによって瞬間的に見えなくなるということはなかったと思う。いわゆる誰でもない存在(神)の視線のように、主人公にかぎらず登場人物の姿をくっきりと映し出している。そして、このことは逆に言えば、ビィスコンティは「神」の立場から、この映画をつくっていない、ということになる。ある瞬間には、目の届かない世界がある。目が届かないところでも、何かが起きている、ということを語っている。
 この印象が、遠景になると、まったく違う。人間は非常に小さい。海辺では、海があり、砂浜があり、空がある。それは人間とはまったく関係なく存在している。言いなおすと、その自然のなかで人間が何をしようと、自然は関知しない。これは、人間が何をしようと「神」は関知しない。責任をとらない、ということを語っているかもしれない。
 こんなことを書くつもりではなかったのだが(マルチェロ・マストロヤンニの顔についてだけ書くつもりだったのだが)、ここまで書いてきたら、突然、思い出すのである。「異邦人」の主人公は、殺人の動機(?)について「太陽がまぶしかった」と言う。これを「神」がまぶしかった、と言いなおすとあまりにもキリスト教的になるのか。「神」とは言わず、「人間の行動に関知しない存在がまぶしかった(その存在に目が眩んだ、自分を見失った)」と言いなおせば、どうだろう。関知しないを関与しないと言いなおせば、「異邦人」の最初にもどれるかもしれない。母が死んだ。その死に対して、主人公はどう関与できるか。もちろん死を悼むという関与の仕方はある。それは死後のことである。母が死んでいくとき、息子は、その死にどう関与するのか。看病する、介護するという「関与」の形があるが、そういうことは、たぶん「異邦人」の主人公にとっては「関与」とは言えないものだろう。だいたい、施設にあずけるという形の「関与」はしている。人間には、関与できないことがらがある、と主人公は知ってしまった、ということだろう。
 こうした認識をもつ人間の行動は、「神」の関与・関知を人間存在の条件と考えるひとからは「不条理」に見える。でも、それは逆に言えば、「神」の存在を実感していない人間から見れば、「神」の関与・関知を絶対的と認める人間が「不条理」になる。ビスコンティは、たぶん、「神」の存在、「神」が人間に関与・関知しているとは認めない哲学を生きたのだと思う。「神」が関与・関知するとしたら「自然」に対してだけである、と感じていたのではないだろうか。
 そして、「神」が関知・関与する「人間の自然」というものがあるとしたら、それは「造形=顔、美形」というものだと信じたのではないか。そう考えると、ビスコンティが美形にこだわる理由も、なんとなく納得できる。「神」が関与・関知した美形が、人間社会のなかで苦悩する。それをしっかりみつめる愉悦。それがビスコンティの本能なのか、と思った。マストロヤンニは、とびきりの美形ではないが、苦悩する顔は(その目の悲しみは)、もっともっと苦しめと言いたくなるくらいに美しいからね。苦しめば苦しむほど、美しくなる男--というのは「不条理」でいいなあ。

 

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年5月号を発売中です。
137ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001411">https://www.seichoku.com/item/DS2001411</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スパイク・リー監督「アメリカン・ユートピア」

2021-05-29 14:51:33 | 映画

スパイク・リー監督「アメリカン・ユートピア」(★★★★★)(2021年05月29日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 スパイク・リー 出演 デビッド・バーン

 私は音楽をほとんど聞かないので、デビッド・バーンもトーキング・ヘッズも知らない。この映画を見に行ったのは、監督がスパイク・リーだったからである。スパイク・リーは「ドゥ・ザ・ライトスィング」から見ているが、社会的意識に共感を覚える以上に、その映像の清潔感に非常にひかれる。清潔で、なおかつ強靱である。予告編でも、あ、これはシンプルで強靱だなあと感じたが、本編を通してみて、さらにその印象が強くなった。
 映画はデビッド・バーンが率いるグループの舞台での公演「アメリカン・ユートピア」を撮影したもの。舞台の最初から終わり(アンコール?)までをそのまま撮っている。最後に「おまけ」がついているが、基本的に、ただ公演をそのまま撮っている。もちろん映画だからカメラはいろいろなアングルから撮影されているが、切り替えが非常にスムーズであり、まるで何回にもカット割りして撮影したかのようにさえ見える。カメラがデビッド・バーンらの動きをまったく邪魔していない。いったいどうやって撮った?と思う。でも、これはあとから思うことで、見ている間は、ともかくスクリーンに引きつけられる。
 この舞台は、ある意味でとても奇妙である。音楽のこと、ライブ公演のこと、あるいはミュージカルのことを知らない私が言うのだから、きっと間違いを含んでいると思うが、何よりも舞台の出演者の服装が変である。全員が灰色のスーツ(シャツを含む)を着ている。モノトーンなのである。そして、裸足。余分なものがない。服装で観客の視線を引きつけようとしていない。デビッド・バーン自身が、もうおじさんだし、容姿で観客を魅了しようとは思っていないような感じ。
 ダンスもあるが、いまふうの「キレキレ」という感じてはなく、これならちょっと真似すればできるかな、という感じ。昔の金井克子の歌いながら踊る感じ、というとデビッド・バーンに怒られるかもしれないが、まあ、そんな感じ。あとは、演奏者との関係で言うと、ちょっとしたマーチングバンドかなあ。舞台装置は、すだれカーテンのようなものが三方を囲んでいるだけで、ほかは何もない。つかこうへいの芝居のようである。何もないから、出演者が自由に動け、その動きにだけ視線がひっぱられる。ともかくシンプルである。そのシンプルが神経質を強調するようでもある。
 で。
 映画のもう一つの要素、音楽の方はどうか。単純ではない。とくに歌詞がめんどうくさい。単純な解釈を受け入れない。歌い方も歌を楽しむというよりも、何か神経質な苛立ちの方を強く感じる。「音」も出演者が演奏する楽器の音に限られている。隠れた音(出演者以外の楽団が演奏する音)がない。そういうことも、デビッド・バーンの神経質な(?)な声を強調する。デビッド・バーンは神経質、と書いたが、その補足になるかもしれない。途中でデビッド・バーンが解説しているが、高校(?)のコーラスのために「家においで」(よくわからない、たぶん間違っている)という曲をつくった。家に友だちを招待しておきながら、早く帰ればいいなあ、と思ったりする。でも、高校生は、まったく違う解釈で歌う。ほんとうに歓迎している。まったく別の曲みたいだった、という。そう言ったあとでデビッド・バーンバージョンを歌うのだが、それはたしかに「もう早く帰ってくれよ」という神経質な思いがあふれる歌なのだ。「家においで」には、そういう「矛盾」がある。
 そして、矛盾といえば、この映画のタイトルは「アメリカン・ユートピア」である。そのユートピアのアメリカで何が起きている。ブラック・ライブズ・マター運動は記憶に新しい。そして、歌のなかには、そのプロテスト・ソングが含まれている。アメリカはユートピアじゃないじゃないか。(ポスターではUTOPIAが逆さ文字に印刷されていた。)そして、そういう抗議があるからこそ、スパイク・リーは、この映画を撮ったのだろう。問題提起だね。真剣に、何かをしないといけないと感じている。でも、誰にでもあてはまる有効な何かというのは、存在しない。と、神経質なデビッド・バーンなら言うかもしれないなあ。
 で。
 この問題提起が、また実に興味深い。映画は舞台と違う。映画ならではのことができる。映画の最後、公演が終わったあと、デビッド・バーンが自転車で帰っていく。そして仲間たちも自転車で移動している。その移動シーンに、もう一度「家においでよ」が流れる。しかし、それはデビッド・バーンの歌ではない。はっきりしないが、たぶん高校生の合唱である。「いやだなあ、もう早く帰れよ」ではなく、ほんとうに「家においでよ」と誘っている。いっしょに楽しい時間をすごそうと言っている。
 同じことば、同じ曲が、歌い方ひとつで意味が違ってくる。それを映画はちゃんと証明して聞かせてくれる。これは、スパイク・リーの「主張」なのだ。本の少しの「演出」でスパイク・リーは強烈な「主張」をこめることに成功している。
 これはまた、こんなふうに言い直すことができる。アメリカにはいろいろな問題がある。ブラック・ライブズ・マターをはじめ、いろんな運動がある。それは、アメリカを変えていくことができるという可能性のことでもある。デビッド・バーンは舞台から、有権者登録をしよう、選挙に行こう、と呼びかけている。それは、アメリカがどんな国であろうと、アメリカ国民にはアメリカを変えていくことができると言っているように感じられる。その「意図」をスパイク・リーが解釈して、語りなおしているように見える。
 で。
 ここからさらに思うのである。このラストシーンの音楽が映画の特徴を生かした「演出」であるとするなら、舞台ならではのものとは何だろうか。この映画は舞台を巧みにとらえているが、やはり舞台ではなく、映画である。どこが違うか。
 これから書くことは、期待と想像である。
 映画では、舞台の上の「肉体の熱気」がわからない。とくにスパイク・リーの映画ではカメラワークが見事すぎて、全てのシーンが「映像」になってしまっている。なりすぎている。逆に言うと、デビッド・バーン自身の「肉体」の、そして他の出演者の「肉体」のどうすることもできない熱気のようなものがそがれてしまっている。それは汗とか呼吸の乱れとかではなく、なんといえばいいのか、実態に肉体を見たときの生々しさが欠けているように感じる。このひとはいったい何を感じているのか、という直感的な印象が弱くなっているように感じる。
 だからこそ。
 あ、これは映画ではだめだ。実際に舞台を見たい。ライブを見たいという気持ちになる。「家においでよ」と誘ったけれど「もう帰れよ」と思っている。「もう帰れよ」言いたいけれど、それをがまんしておさえているだけではなく、「違う人間になって、もう一度家に来てほしい」と思っている。いまのきみは嫌いだけれど、きみが一緒でないと生きている意味がない。その矛盾した感情。デビッド・バーンの声を神経質に感じるのは、こういう矛盾があるからだろう。そういうときの感情というのは、肉体を直接みるときに、複雑に伝わってくるものである。カメラを通すと消えてしまう「肉体」の匂い。それを体験したいなあ、という気持ちになってくる。いま、ここに私とは違う肉体をもった人間が生きていて、いろいろなことを思っている。矛盾をそのまま味わってみたい。矛盾に「解釈」をくわえずに、「肉体」そのものとして向き合ってみたい、という気持ちを引き起こされるのである。
 いや、ほんとうに生の声を聴きたい。演奏を聴きたい。動きを見たい。映画がだめだからではなく、映画がいいからこそ、そう思う。今年見るべき映画の1本だね。

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年4月号を発売中です。
137ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001228">https://www.seichoku.com/item/DS2001228</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フロリアン・ゼレール監督「ファーザー」

2021-05-15 16:58:38 | 映画

フロリアン・ゼレール監督「ファーザー」(★★★★)(2021年05月15日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 フロリアン・ゼレール 出演 アンソニー・ホプキンス、オリビア・コールマン

 認知症の老人を描いているのだが、これはほとんど恐怖映画である。
 映画は三つの場面に分かれる。①アンソニー・ホプキンスが見ている世界(オリビア・コールマンから見ると、正しく認識されていない世界)②オリビア・コールマンが見ている世界(観客から見ると、客観的な「正しさ」を伝える世界)③だれが見ているのかわからない世界(ふたりのほかに、介護人、オリビア・コールマンの夫らが登場する。そこには、当然彼らが見ている世界も含まれる)。
 この三つの世界(もっと多いかもしれない)が、「画面」としては「均一」に描かれる。同じ方法で描かれる。①が焦点の定まらないぼやけた世界とか、モノトーンの色彩の世界というわけではない。カメラがアンソニー・ホプキンスの目として動いているわけではない。それは②の世界がオリビア・コールマンの目の位置にカメラがあるわけではないのと同じだ。カメラは、いわば③の位置にある。そして、これに「目」だけではなく、ことばが加わる。「目に見えないもの」(たとえば、認識)が「ことば」として、世界を存在させる。「目」と「ことば(声/耳)」が一致しない。もちろん、この映画が認知症の老人を描いているのだから、アンソニー・ホプキンスの「ことば」が間違っていると簡単に判断できるのではあるけれど、それは映画にのめりこんでいないとき。外から映画を見ているとき。いわゆる「客観的」な立場で映画を見ているとき。私は、そういう「客観的」な見方というのが苦手な人間なので、簡単にアンソニー・ホプキンスは認知症である、とはなかなか思えないのである。もしかすると、オリビア・コールマンが騙しているのでは? 彼女が、他の登場人物と共同してアンソニー・ホプキンスが認知症であると思い込ませようとしているのでは?
 実際、アンソニー・ホプキンスは、そう感じているかもしれない。アンソニー・ホプキンス腕時計がなくなる。それは介護人が盗んだのか。それともオリビア・コールマンが隠して、介護人が盗んだと思い込ませようとしているか。もちろんアンソニー・ホプキンスはオリビア・コールマンを疑ってはいない。だから、よけいにこわいのである。アンソニー・ホプキンスにわかるのは、どうも自分が認識している世界と他人の認識している世界には違うものがあるということだけである。どちらが正しいか(自分がほんとうに間違っているのか)、確信が持てない。当然のことだけれど、だれでも自分の認識が「正しい」と思う。だからこそ、その「正しさ」が「多数派」によって否定されていくと、頼りにするものがなくなる。自分は「正しい」のにだれにも「正しさ」を受け入れてもらえない。それは、アンソニー・ホプキンスを子ども扱いにする介護人の姿勢に対する強い反発となってあらわれる。「私は知性のある人間、大人であって、子どもではない」。その証拠に、アンソニー・ホプキンスは自分はかつてはタップダンサーだったと嘘をつくことができる。ただし、この嘘はほんとうに嘘か、それともアンソニー・ホプキンスの認識が間違っているのかは、観客にはよくわからない。実際にアンソニー・ホプキンスが、それなりに踊って見せるからである。
 アンソニー・ホプキンスの認知症が進んでいく。そのときの世界を映画は表現している、と簡単に要約することはできるはできるが、その要約の前に、私は、ぞっとするのである。キューブリックは「シャイニング」で次第に狂気にとらわれていくジャック・ニコルソンを描いた。そこにはオカルトめいた要素がつけくわわっていて、そのために狂気に陥っていく人間の苦悩が、見かけの「恐怖」にすりかえられている部分がある。それに対して「ファーザー」には、そういう「見かけの恐怖」がない分、余計にこわいのである。
 いったい、何が起きている?
 これを判断する「基準」はひとつである。アンソニー・ホプキンスは認知症なのであって、オリビア・コールマンが父親をだましているわけではない、という証拠は、アンソニー・ホプキンスの「服装」の変化によって明らかにされる。最初はジャケットを着ている。そのまま外へ出かけられる姿である。つぎにセーター姿が登場する。もちろんセーターでも外に出ていくことができるが、基本的にそれは家でくつろぐ姿(リラックス)をあらわし、人前に出るときはセーターを脱ぎ、ジャケットを着る。だが、アンソニー・ホプキンスはリラックスするはずのセーターも着られなくなる。どこから手を通していいかわからなくなる。さらにパジャマ姿になっていく。これでは外へは出て行けない。家にいるときだって、他人がくるなら、やはり着替えるのがふつうだ。パジャマ姿は基本的に他人に見せるものではない。このパジャマ姿は、最初は上下そろいの姿だが、施設に入所したあとは下はパジャマのズボンだが、上は下着である。もうパジャマすら「姿」にならない。破綻している。ジャット、ズボンという姿からはじまり、セーター、パジャマ、さらには不完全なパジャマ姿への、冷徹な「変化の記録」。ここには「ことば」は関与していない。だから「嘘」がない。途中に、アンソニー・ホプキンスがセーターを着られずにオリビア・コールマンに手伝ってもらうシーンがある。さらにはパジャマからふつうの服装に着替えるのを手伝う(手伝いましょう)ということばも繰り返される。そこに、絶対に否定できない「事実」がある。
 最後の最後に、アンソニー・ホプキンスは「認知症」の恐怖を語る。自分は、かつては枝が広がり葉っぱが繁った木であった。しかし、いまは枝がないのはもちろん葉っぱもない。何もない木だ。このことばに覆い被さるように、イギリスの緑豊かな木が風に葉を揺らし、光をはね返す美しいシーンが広がる。そして、映画が終わる。それを見ながら、私は人生の最後にどんな風景を見るのだろうと思い、また、恐怖に叩き落とされる。
 この映画は、アンソニー・ホプキンスがアカデミー賞(主演男優賞)を取ったから、見に行ってみよう、という軽い気持ちでは見に行かない方がいい。ぞっとするから。アンソニー・ホプキンスの演技は、生き生きとした表情から失意まで、非常に幅が広くて、それだけでも恐怖の原因になるし、いわゆるイギリス英語の明瞭な発音が、最後の不安でいっぱいの声に変わる、その声の演技も「迫真」であり、それだけにまた、非常にこわいのである。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年4月号を発売中です。
137ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001228">https://www.seichoku.com/item/DS2001228</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ティム・ヒル監督「グランパ・ウォーズ」(★★)

2021-05-04 09:04:18 | 映画

ティム・ヒル監督「グランパ・ウォーズ」(★★)(2021年05月02日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 ティム・ヒル 出演 ロバート・デ・ニーロ、オークス・フェグリー、ユマ・サーマン

 長い間映画を見ていなかったので、映画をどうやって見ていいのかわからない感じがした。それで、気楽に笑える映画をと思い、見に行ったが……。
 大人向けというよりも、家族向け、子ども向けコメディーだから、セリフがやたらとはっきりしている。ニュアンスではなく、はっきりと、わかりやすく。これは演技にもあらわれている。アクションがオーバー。内に抱え込んでいるものがない。すべてを出してしまうを通り越して、すべてを型の枠に入れてしまう。
 こういうとき、役者は何を感じるのかなあ。
 まあ、デ・ニーロは「童心」に帰って楽しんでいるなあ。ドッジボールのシーンははしゃいでいる。クライマックス(?)の孫との一対一の対決、ジャンプしてボールを投げるときの姿勢など、どうやってとったのかわからないが、さまになっている。「やれたぞ」と喜んでいる感じがいいなあ。
 それにしてもね。
 「タクシー・ドライバー」の、痩せて、ぎらぎらした感じの青年が、こんなに腹が出た老人になるのかと思うと、人間の体は不思議だ。「レイジング・ブル」のときは落ちぶれていくボクサーを演じるために何キロも太ったようだが、そのときの「酷使」が影響しているのかも。よくわからないが、太って「愛嬌」が出てきたので、こういう老人役には向いている。クリストファー・ウォーケンが、痩せたまま(それでも、「ディア・ハンター」と比べると太ったか)と比べると、その違いがわかる。
 ユマ・サーマンは、かつてはデ・ニーロのような「体の線」があったが、今回は、それがない。まあ、コメディーだから、か。
 私が唯一笑ったのは、予告編でもあったが、デ・ニーロのベッドにヘビがあらわれるシーン。これって、「ゴッド・ファーザー」の「馬の首」だね。でも、あの映画、デ・ニーロは出ていないんだよなあ。デ・ニーロが出たのは「パートⅡ」。でも、おかしい。何か、記憶をくすぐられる。
 で、ね。
 ここまで書いてきてわかることは、これはやっぱり「記憶をくすぐる」映画なのだ。デ・ニーロの友人がクリストファー・ウォーケンである理由も、さらには「戦争」が何やら「ゲリラ戦」(ベトナム戦争のとき、はやったことば)を思い出させるのも。そのときはなかったドローンも出てくるけれど、これだって、それを駆使するのはアメリカ(デ・ニーロ)だからね。ユマ・サーマンも、かつては「戦う女」だったから起用されたのかも。とくに戦うシーンはないが、ふたりの「戦争」を、うすうす感じるのも「戦士」だったからこそ。
 たぶん、そういう「見方」も求められているんだろうなあというか、そういう「見方」も期待して映画はつくられているんだろうなあ。でも、私は、こんな「うがった」見方が嫌い。映画は、過去にどんな映画を見たかを思い出すためのものじゃない。過去を思い出すためのものではない。
 次はもっと違う映画を見たいなあ。
 コロナが拡大する中、映画館も「時短」営業になるようだが。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年4月号を発売中です。
137ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001228">https://www.seichoku.com/item/DS2001228</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランシス・リー監督「アンモナイトの目覚め」

2021-04-28 08:01:56 | 映画

フランシス・リー監督「アンモナイトの目覚め」(★★★★)(2021年04月27日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 フランシス・リー 出演 ケイト・ウィンスレット、シアーシャ・ローナン

 ケイト・ウィンスレットとシアーシャ・ローナンの組み合わせが気になって見に行った。ふたりとも好きな女優というわけではないのだが、どこをどう叩いても壊れそうにないケイト・ウィンスレットの肉体の厚み、どこをどう叩いても壊れそうにないシアーシャ・ローナンの精神のしなやかな強靱さ(復元力?)がぶつかるのはおもしろい「見もの」という感じがしたのである。
 で、この二人の演技合戦。通い合うところが全然ないような感じがして、それが逆に、なんともおもしろい。二人は仕事(?)も正確もまったく違うし、感性そのものもまったく違う。本来なら出会う必然性がない。そして、二人は、互いが違う人間であるということを理解している。理解した上で、出会ってしまうのである。
 そして、出会ってしまったあと、共通点があるということを「わかる」。「理解する」という感じではなく「わかる」。「頭」で理解するのではなく、皮膚感覚、肌の感じで「わかる」のである。男に、正当に(?)評価されていない、認められていない。人間として受け入れられていない。そのために苦労している(苦悩している)、ということを「わかる」。そして、接近していく。異質なのに、接近していく。異質だから、どうせ理解されないと思い、接近しやすいのかもしれないが。
 それは磁石のような感じ。対極が、「磁石」という共通の性質で引きつけあう。
 これをケイト・ウィンスレットのどっしりした不透明な肉体と、シアーシャ・ローナンの繊細で透明な肉体で演じる。ぶつかりあう。なかなか、すごい。セックスシーンが映画というよりも、何か、「演じていない」すごみで迫ってくる。「美しく」撮ろう、撮られようとしていない感じがする。セックスはひとに見せるものではないから、それでいいのだが、何か他人を(観客を)無視したようなところがあって、びっくりしてしまう。
 こういうことを象徴するのが、ケイト・ウィンスレットがシアーシャ・ローナンの家を訪ねて行ったときのこと。メイドが二人のキスシーンを見るが、シアーシャ・ローナンは見られていることを意識しない。「たかが使用人だ」というようなことを言う。他人など「眼中」に入っていないし、自分にとって何の関心もない人間を排除しても、何も感じないのだ。
 これは逆に言えば、二人がつねに男から排除されていることを意識しているということでもある。ふたりは男から「排除する暴力」を学んでいるのである。ふたりは常に誰かを排除しようとしている。そして、排除する/排除されるという関係が、二人がいつも向き合っている世界なのだ。でも、二人でいるときは排除する/排除されるがない、とふたりは一瞬の夢を見る。
 その、そのすさまじいセックスシーンを見ながら、あ、これだな、と思ったのだ。何が、これだなと思ったかというと。この映画の主人公の二人は、他人なんか気にしていないのだ。自分のしたいことがあり、それに向かってまっしぐらなのである。「まっしぐら」を通して「排除する力」に対抗する。そういう力を生きるしかないと理解して、そのまっしぐらにひかれ、まっしぐらすぎて結局うまくいかない。うまくいかないけれど、それでも、求めてしまう。
 ラストの大英博物館の「化石の展示ケース」を挟んでむきあうふたりの姿は、何の「結論」も明確にしていないが、それゆえに、すごい。結論などどこにもない。生きていること自体が結論であって、その展開がどういう結論に達するかは問題ではない。そんなものは「偶然」なのだ。「展開していく」ということだけが大切(必然)なのだ。そして、その「必然」をふたりが自分で選ぶように、観客は自分で選ばなければならない。
 こういう映画は、病み上がりの肉体には重すぎる。デ・ニーロの「グランパ・ウォーズ」くらいで時間潰しをすべきだったか、と少し反省した。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」12月号を発売中です。
137ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2000183">https://www.seichoku.com/item/DS2000183</a>

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロベール・ブレッソン監督「少女ムシェット」

2021-04-20 08:20:45 | 映画

ロベール・ブレッソン監督「少女ムシェット」(★★★★★)(2021年04月19日、KBCシネマ2)

監督 ロベール・ブレッソン 出演 ナディーヌ・ラミー

 昔の映画(1967年制作)は、いいなあ。「短篇小説」のように、深い余韻が残る。
 この映画はフレームというのか、画面の切りとり方が味わい深い。凝ると、カメラが演技をしているという印象になるが(最近の映画に多い)、カメラはどっしりと構えている。そのカメラのフレームの枠から肉体が自然にはみ出し、それがそのまま画面を切りとっている感じになる。短い文章を積み重ねることでつくられた、無駄のない短篇小説の文体に触れている感じだ。
 この「切りとられた映像」に重なるように、「切りとられたセリフ」がある。画面からも、ことばからもはみだしている現実が実際には存在するのだけれど、そのはみだした部分は観客に想像させる。そして、不思議なことに、そのはみだしている部分、想像した肉体、想像したことばは、そこに存在しないはずなのに、役者の肉体のなかで凝縮しているように感じられる。短篇小説の文体が、ただ短ければいいというのではなく、凝縮していないとおもしろくない、というのに似ている。「凝縮」のなかに「長編」に匹敵する「時間」があるのだ。感情があるのだ。
 そこに動いている人間の感情、そのすべてを克明に知っているという気持ちになる。「切りとられること」で、本質だけになる、ということなのかもしれない。
 しかし、その「本質」というのは危険だ。剥き出しになってしまうというのは、支えるもの(隠すもの)を失うことだから。
 そのことを人間関係と森との対比で、この映画は、深々としたものとして展開する。
 一方に人事(家庭、社交、学校)があり、他方に自然(森)があり、その森(自然)は人が荒らしてはいけない領域だが、それは美しいからではなく、きっと危険だからなのだろう。人間を目覚めさせる何かがある。「本質」が人間に邪魔されずに、動いている。罠にかかる鳥や、銃で撃たれる兎さえ、「本質」なのだ。
 人事(人間関係)に嫌気がさした少女は、森の中で生まれ変わる。それは、ほんとうの自分になるという意味である。保護される少女から脱皮して、少女であることを超越する。おとなと対等になる。こういうことは、人間には必要なのだけれど、やはり危険なことでもある。
 少女は、結局自殺してしまうが(つまり、危険を乗り越えられないのだが)、この自殺のシーンが非常に美しい。ああ、よかった、と思ってしまうのだ。少女が死んでしまうのに。
 危険なのは、少女ではなく、この映画を見ている私ということになる。絶望的な少女が死んでいくことを、美しいと感じるというのは、人間として変でしょ? こういう矛盾にたじろいでみるのも、映画を見る楽しみだなあ、と私は思う。
 それにしても、このモノクロの映像は美しいなあ。涙の輝きが、輝きとしかいいようがない美しさで迫ってくる。明暗のなかに色彩がある。さらに、主演の少女もいいなあ。目に力があるだけではなく、全身に力がある。少女だからあたりまえなのかもしれないが、肌に張りがある。それは何か野生を感じさせる。森の小さな獣である。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」12月号を発売中です。
137ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2000183">https://www.seichoku.com/item/DS2000183</a>

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」(★★★)

2021-04-12 08:35:53 | 映画

クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」(★★★)(2021年04月21日、中洲大洋、スクリーン3)

監督 クロエ・ジャオ 出演 フランシス・マクドーマンド

 フランシス・マクドーマンドが主演だし、アメリカで評判になっている映画でもあるので見に行った。アメリカの現実を知るという意味では貴重だったが、日本とどれだけ重なり合うものをもっているか。ちょっと疑問だ。つまり、私の現実とどうかかわってくるか、というところで親身に受け止められない部分がある。私は車を運転しないので、車を「ホーム」として動くというところで、まず、私との違いを実感する。この違いを、乗り越えることができない。
 気に入ったシーンが二つある。ポスターにもなっている海のシーンと、ラスト近くの砂漠(荒野)のシーン。この二つには共通点がある。海のシーンは、姉の「ホーム=ハウス」の安定した姿に接したあと、やっぱりここにはいられないと思い、ひとりで姉の家をあとにする。誰にも告げない。そして、海へ来る。荒れている。荒野のシーンは、かつて住んでいた「社宅/ホーム=ハウス」の裏庭につづいている。どこまで行っても、何もない。(遠くに山はあるけれど。)海と同じだ。共通しているのは、何もない、荒れている、ということではない。「ホーム=ハウス」に触れたあと、「ハウス」を捨てて、何もないところへ行くという行動が共通している。「ハウス」はない。しかし、彼女には車という「ホーム」がある。そして、それは言い直せば「記憶」である。
 象徴的なシーンが、皿が割れるシーン。祖父の代からつたわる大事にしていた皿。それが、友人の不注意で割れてしまう。それをフランシス・マクドーマンドは、接着剤で復元する。「できた」と安心する。「ホーム=記憶」は、彼女の肉体そのものになっている。改良を重ねて、自分の暮らしにあうようにしてきた車は、もはや彼女の肉体だから、新しい車に買い換えたらと言われても、それを手放すことはできない。割れた皿も、割れたからといって捨てるわけにはいかない。それは彼女の「肉体」だからだ。
 この「肉体」を認識させてくれるのが、荒れた海であり、何もない荒野なのだ。それは非情である。非情であるからこそ、彼女の肉体のなかに生きている「情=記憶」を厳しく屹立させてくれる。彼女は、そういうものが好きなのだ。何よりも、記憶を生きているのだ。
 この感覚は「ノマド」と呼ばれる人に共通するものかもしれない。彼女の友人は、燕が巣をつくっている川岸を思い出す。大量の燕の巣。群れ飛ぶ燕が川面にうつる。その美しさを忘れることができない。そこには、やはりひとは、彼女ひとりしかないのだ。
 なるほどなあ、と思う。
 しかし、一方で、それに匹敵するような非情な自然は、日本には少ないかもしれない。日本は狭すぎる。すぐ「人家」が目に入る。個人に絶対的孤独にたたきつけ、さあ、自分の記憶=肉体だけを頼りに生きていけるかと迫るような広大で荒れた自然は少ない。それに、日本は車でどこまでも移動できる広さそのものがない。周りが海で、1000キロ走れば陸はなくなる。いや、1000キロも走らなくても、海は近い。アメリカにとって(少なくとも、この映画に登場するひとたちにとって)海とは、太平洋か大西洋であり、それは砂漠(荒野)と同じようなものなのだ。
 などなど、と思う。それにしても……。
 けがのため、この映画は私にとっては今年初めての映画になった。2時間椅子にすわっていられるか不安だったが、なんとか乗り切れた。しかし、映画の見方を忘れているかもしれないなあ、とも感じた。フランシス・マクドーマンドは大好きな女優だが(「ビルボード」よりも「ファーゴ」の方が好き)、顔は痩せているのに、下半身は大きいなあ、とか、荒野で排泄するとき、わざわざ車から離れたところまで行って排泄するのかなどと、変なところが印象に残った。もしかすると、その変なところにこそ、この映画では見逃してはいけないものがあるのかもしれない、という気もする。それが「映画の見方を忘れてしまった」と書いた理由。この映画を評価するなら、その排泄シーンとか、レストランの厨房のこびりついた肉をヘラで削ぎ落とすシーンとか、アマゾンでの働き方とか(そういう細部の描き方)に注目しないといけないだろうなあ、と思う。「ノマド」は単に移動する人間ではなく、同時に労働する人間だからである。私は、その部分を半分見落としている。映画の見方を忘れてしまっている、と、やっぱり思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セルゲイ・ロズニツァ監督「国葬」(★★★)

2020-12-28 10:23:59 | 映画
セルゲイ・ロズニツァ監督「国葬」(★★★)(2020年12月26日、KBCシネマ2)

監督 セルゲイ・ロズニツァ

 スターリンの国葬のドキュメンタリーだが、なんとも不気味である。スターリンが脳溢血(?)で倒れてから死ぬまでの経過を国営放送が克明に語る。医学用語をつかった病状報告が克明すぎるのである。こんなことを知らせてどうなるんだろう、と思う。そして、こんなことが放送されるのは、他につたえることがないからではないか、と思う。あるいは、放送したこと(内容)が問題になり、「粛清」されてはたまらない、だから「科学的(医学的)事実」だけをつたえようというのか。
 その一方、続々と国葬のために集まってくるひとたちの声はひとことも聞こえない。共産党の役職者や労組(?)の代表は追悼のことばを発表するが、国民はみな無言である。そして、その無言の顔がこれでもかこれでもかというくらいに映し出されるのだが、この膨大な顔を見ても、「声」が聞こえない。想像できない。悲しんでいるのか、ほっとしているのか、見当がつかない。涙を拭いている人もいるが、その涙の意味がわからない。ほんとうに追悼の気持ちがあって涙が流れたのか、涙を流しておいた方がいいと判断したのか。
 大勢の人が集まっているが、その人と人を結びつけるものがさっぱりわからない。
 これがテーマであり、これが監督の言いたいことかもしれない。スターリンが死んだとき、国葬がおこなわれたが、その国葬に対して国民が何を考えていたか、それはそのとき語ることができなかった。国民は「声」を奪われていた。ただ、無言で、つまり権力に対していっさいの批判をせずに生きることを強いられていた。それはスターリンが死んだからといって一気に解決することではない。
 自分を抑圧しているものに対してどう戦うか。それを知らないのだ。そして、その「知らない」というか、「ほかのことを考えさせない」ために、たとえば「放送(ジャーナリズム)」がある。「ことば」の統制がある。冒頭のスターリンの死を告げる放送が、とても特徴的なのだ。
 私は最初何を言っているのか、さっぱり理解できなかったが、この理解できないは「感情移入ができない」である。つまりスターリンの死を告げる放送は、「理解できない事実」というよりも「理解する必要のない事実」だけを語る。感情移入による「共感」、感情の「連帯」が生まれないことば語り続けることで、「感情」の共有、「感情」による「連帯」を遠ざけている。「悲しみ」さえ、共有させないのだ。「国葬」で「悲しみ」を共有している国民はいないのだ。これは考えようによっては(考えなくても)、ひじょうに残酷なことである。しかし、そういう残酷を産み出してしまう、ものを考えないためのことばの統制がソ連ではおこなわれていたのではないのか。
 流通することばは、自分自身の「暮らし」とは無関係である。しかし、それを聞かないといけない。そんなことは私には関係がないと言えない。そんなことは聞きたくはないとも言えない。
 それが、そのまま「国葬」のとき、「現実」としてあらわれてくる。スターリンが埋葬された廟へいつたどりつけるかわからない。それでもその前まで行って追悼しないと、きっと追悼しなかったことを問い詰められる。反論することばがない。「悲しみ」も共有できないが、「反論(怒り/その反動としての喜び)」も共有できない。だから、群集のなかにかくれて自分自身を守る。群集の中で「個人」を守る。生き抜く。言いたいことを言わない。言いたいことが言えないという苦しさが、言いたいことを言わないと決めた瞬間から、すこし苦しくなくなる。こうしいてれば生きていける。そのほんの少しの安心を求めて、さらに無言がつづいていく。
 ここから国民がことばを取り戻すために、どれくらいの時間がかかるのか。スターリン批判はたしかにあったが、それはどのような形で生まれてきたか。ほんとうに国民の声として「暮らし」のなかから生まれてきたのか、それとも共産党の内部で生まれてきただけなのか。どちらにしろ、「批判」がことばになり、それが「行動」になるまでには時間がかかる。
 これは……。
 スターリン独裁下だけの問題ではない。独裁があるところ、かならず起きることだ。一度独裁が確立されたら、そこから国民がことばを取り戻すためには長い時間がかかる。ことばを守ることが独裁を防ぐ方法であるということを、逆説的に語ることになるだろう。
 どこまでもつづく無言の顔。それを見る必要はある。この無言の顔に対して、私はいろいろ書いたが、そのことばが彼らの無言には届かないとも思う。あの膨大な無言の顔にきちんと向き合えることばがいったいどこにあるのか、想像もつかない。ただ、「無言」にはなりたくない、とだけ思う。








**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤俊也監督「日本独立」(★)

2020-12-22 23:02:41 | 映画
伊藤俊也監督「日本独立」(★)(2020年12月22日、中洲大洋スクリーン4)

監督 伊藤俊也 出演 浅野忠信、宮沢りえ、小林薫

 白洲正子を宮沢りえが演じるというので見に行ったのだが。
 無惨な映画。人間がぜんぜん浮かびあがってこない。どの役者も、ほんらいなら非常人間くさい存在感を発揮するのに、この映画では単なるストーリーの紹介のための「書き割り」。いや、というよりも、宮沢りえなどはときどきストーリーを超える演技をするので、そこだけが浮かびあがって、とても奇妙。
 そして、そのストーリーも浅野忠信(白洲次郎)、小林薫(吉田茂)が中心になるはずなのに、脇に追いやられている。二人がなぜ「意気投合」しているのか、そのことがぜんぜんわからない。
 では、この映画は何を描きたかったのか。
 時間をかけて、というか、二度もくりかえされる小林秀雄のセリフが、この映画の中心になっている。
 小林秀雄は、戦艦大和の生き残りの乗組員が書いた「小説(?)」を高く評価している。それを発表しようとするが、GHQの検閲にひっかかって、果たすことができない。白洲次郎もその作品を世に出そうとするが、なかなか実現しない。(何年か後には出版されるが。)
 その小説のどこがポイントなのか。
 小林秀雄のことばは、まず小林秀雄の口から語られる。「GHQは戦争で生き残った日本人と戦死した日本人のつながりを完全に断ち切ろうとしている」と。これは、戦死した日本人の精神を否定しては日本は成り立たない、死者の思いを思想としてきちんと引き継いで行かなければならない、という意味なのだろう。それは、一回で十分であるはずなのに、その作者が小林秀雄が自分を評価してくれたと意識しながらとぼとぼと帰るシーンで、もう一度語られる。とぼとぼと帰る男の姿に、小林秀雄のことばがもう一度かぶさるのである。
 伊藤俊也が描きたかったのはこれなのである。
 しかも「ことば(セリフ)」として、描きたかった。忘れたころに、もう一度その「ことば(セリフ)」が出てくるのではなく、念押しするように、すぐにくりかえされる。なんともあからさまな「宣伝」である。
 そして、その作品の一部も、わざわざ「セリフ」をとうして紹介する(小林秀雄が朗読する)という年の入れようだし、白洲次郎にも「文字」を読ませている。
 それならそれで、「脇役」として映画にもぐりこませるのではなく、その男を主人公にして映画を作り、その背景に憲法制定をめぐる政治の動きを描けばいいのだ。そうせずに、あくまでも憲法制定をめぐる吉田茂と白洲次郎の動きを中心にし、しかもその「接着剤」として宮沢りえをもってくるという非常に「姑息」な映画のつくり方をしている。
 こういうつくり方は、正面切った「日本国憲法批判」よりもタチが悪い。
 「憲法」にどういうことが書かれているか、ではなく、アメリカがやっつけで作り、それを日本に押しつけただけが強調される。その強調の手段として、若いアメリカの女性を登場させ、憲法学者でもなんでもない女性が「自分の作成した条文がそのままつかわれている」と自慢しているという批判として映画に出てくる。これは、日本からなかなか消えない女性蔑視の風潮を利用して、アメリカ押しつけの憲法はデタラメという主張をもり立てるためのものだろう。
 繰り返しになるが、この対極(無関係なアメリカの女性の対極)にあるのが、大和の乗組員の手記なのだ。
 吉田茂については、私はよく知らないが、この映画では憲法9条の「第2項」の立役者のように描かれている。具体的には、そういう描写は出てこないのだが、再軍備の「余地」を引き出した人間として描かれている。吉田とマッカーサーの「密談」があったことは、口外してはならないという形で、この映画では「公表」されている。この部分の、マッカーサーが「公表してはならない」と言ったことを公表することで、「これが真実なのだ」と告げる(見せかける)方法をとっているのも何とも手が込んでいて、私はいやあな気持ちになってしまった。
 前後してしまうが、「戦争」そのものも、戦艦大和の生き残りの男を通してのみ描かれているのも、非常に非常に、うさんくさい。「なぜ、戦艦大和の兵士は死んでかなければならなかったのか」「死を受け入れるために、思想(ことば)をどう整えたか」。これが、憲法のことばをどう整えたかと向き合わされる形で展開する。戦争のために死んでいった人(広島、長崎の原爆の犠牲者、各地の大空襲の被害者)は、戦争と憲法から排除された形でストーリーが描かれる。
 幣原が、電車のなかで聞いた男の声から「戦争放棄」を思いついたというようなことは、当然のことながら描かれない。「国にだまされた」という男の声は、どこにも出てこない。
 GHQという勝者が押しつけることばと、大和の死んでいくしか生きる方法がない男たちのことば。それを対比することで、日本国憲法が日本人のことばではない、と主張するのである。
 日本国憲法に対して、無惨、無念の思いを抱いた男たちだけの声で、この映画は作られているのだ。
 この映画ではなく、松井久子監督の「不思議なクニの憲法」をぜひ見てください。「2018年バージョン」からは、私も出演しています。宮沢りえも浅野忠信も小林薫も出演していないけれど。








**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エフゲニー・ルーマン監督「声優夫婦の甘くない生活」(★★+★)

2020-12-18 22:01:13 | 映画
エフゲニー・ルーマン監督「声優夫婦の甘くない生活」(★★+★)(2020年12月18日、KBCシネマ2)

監督 エフゲニー・ルーマン 出演 ウラジミール・フリードマン、マリア・ベルキン、アレキサンダー・センドロビッチ

 ソ連からイスラエルへ「移民」してきた(?)声優夫婦を描いている。知らない俳優ばかりなので、ちょっと知らない世界を覗き見している感じになる。
 映画のなかで「声」をテーマにするのはむずかしいし、初めて見る役者なので「声」に聞き覚えがないから、その「つかいわけ」にもついていくのがむずかしい。★2個は、映画の「でき」というよりも、見ている私の「限界」をあらわしたもの。イスラエルに住んでいる人なら、もっと★がつくだろうと思う。
 声優だから「声」を演じる。「声」を演じながら、実は「人間(人生)」そのものを演じる瞬間があり、また演じた人生によって役者が虚構から仕返しを食う、ということもあるだろう。つまり、自分が求めているものを発見する、ということが。★を1個追加しているのは、その部分が、静かに描かれていて、味わい深いからである。
 妻の方は、「声優体験」を生かしてテレフォンセックスの若い女性を演じる。そこに吃音の男から電話がかかってくる。興奮すると、どうしても吃音になってしまう。それをセックスというよりも日常会話で癒していく。それが男の好奇心を誘う。妻の方も、嘘(演技)のはずなのに、そこに日常が入り込んでしまう。「すきま風」の吹いている夫との関係とは違う「温かさ」を感じてしまう。男も女も、求めているのは「セックス」よりも「日常のこころの通い合い」なのである。そして、それこそが「セックス」なのだ。肉体がふれあわなくてもこころが触れる。そして、この「こころ」を「声」が代弁する。しかも、それは「代弁」のはず、「日常からはなれた虚構」のはずなのに、それこそ「虚構」からのしっぺ返しのようにして、ふたりを揺さぶってしまう。
 アメリカ映画なら(あるいはフランス映画なら)、ここから「新しい人生」がはじまるのだが、すでにソ連を捨ててイスラエルへ来た、「新しい人生」を踏み出している人間には、そこからもういちど「新しい人生」へ突き進んでいくというのは、なかなかむずかしい。アメリカ映画のようにも、フランス映画のようにもならない。
 この踏みとどまり方は、なかなかおもしろい。「列島改造」という角栄のやった「それまでの在庫総ざらえ決算」が一度しかできないのとおなじである。それを、イスラエルに「移民」としてやってきた人間が、肉体として受け入れていく。この問題を追及していけば、それはそれでまた第一級の映画になるが、あまり踏み込まず、さらりと描いているのは、それを「哲学」にしてしまうのは、とてもむずかしいということなのだろう。
 これは、夫が妻の仕事を秘密を知るシーンに、間接的に、とても巧みに描かれている。夫は、「魔がさした」かのようにテレホンセックスのダイヤルをまわす。そこに妻が出てくる。それは「演じられた娼婦」なのだが、その「声」を夫は覚えている。夫が妻の声を初めて聞いた、そしてその声に恋をしたのが「娼婦役」の「声」だったのだ。役者(声優)として成功するとき、すでに妻は(たぶん夫も)自分を「大改造」している。そのときの「痕跡」を夫はしっかりと見てしまうのである。
 もう、そこからは「大改造」はできない。「大改造」が引き起こしたものを、しっかりと踏みしめて生きていくしかない。残りの資産はないのだ。つまり、ふたりで、いままでの「声」をぜんぶたたきこわして、「新しい声」を生きていくというようなことは、よほどのことがないかぎりできないのだ。この問題を「さらり」と描いて、「哲学」をおしつけていないところが、この映画の見どころかもしれない。
 しかし、再び書くが、これは「耳になじんでいない役者」の「声」で聞いても、私の「肉体」にはしっかりとは響いてこない。私の耳は、どちらかといえば鈍感の部類なので、「これはまいったぞ」と思いながら見るしかなかった。
 随所に、隠し味として「映画」が出てくるが、さりげなく「声」についての「哲学」を語っているのも泣かせる。夫は、かつてダスティン・ホフマンの声を吹き替えたことがある。「クレイマー・クレイマー」の声である。夫はダスティン・ホフマンは小さいが(夫は、大男である)、声には芯があり、強い。その声を「自分の声」を獲得するのに苦労したというようなことを言うのである。なかなか、おもしろい。






**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セリーヌ・シアマ監督「燃ゆる女の肖像」(★★-★)

2020-12-05 14:59:00 | 映画
セリーヌ・シアマ監督「燃ゆる女の肖像」(★★-★)(2020年12月05日、キノシネマ天神1)

監督 セリーヌ・シアマ 出演 ノエミ・メルラン、アデル・エネル

 予告編、ポスターでは気がつかなかったのだが、たぶん、真剣に見ていないからだ。実際に映画が始まると、私はかなり真剣に映像を見るのだろう。「タイトル」がスクリーンにあらわれた瞬間、映画を見終わった気分になった。フランス人はそういうことを感じないだろう。日本人だけが(あるいは中国人も)感じる「いやあな・もの」が突然映し出される。「燃ゆる女の肖像」というタイトル。「燃ゆる」の古くさい響きはまだ「気取っている」というだけで許せるが、「肖像」の「肖」に私はげんなりした。ワープロなので表記できないが「肖」の漢字が「鏡文字」になっている。「肖」は左右対称の漢字に見えるが、よく見ると左右対称ではない。第一画と第三画は「筆運び」が違うし、最後の「月」も「はね方」が違う。大きなスクリーンだと、目の悪い私にもくっきり見えてしまう。この「鏡文字」のどこに問題があるか。ストーリーを先取りしてしまっている。「文字」が演技してしまっているのだ。
 「肖像」は描かれるひとの肖像である。画家はモデルを見て、その肖像を描く。これは一方通行の視点。しかし、この映画は、そういう一方通行の視点で描かれるわけではなく、モデルがモデルでありながら画家を見つめることを暗示している。見つめ、見つめ合い、たがいに相手の中に自分を見つける。つまり「鏡」を見るようにして自分を発見していく。そういうストーリーになることが暗示されるのである。というか、暗示を通り越して、あからさまに語られてしまう。
 実際、ストーリーが予想していた通りに展開してしまうと、もう映画を見ている感じにはぜんぜんなれないのだ。なんというか……。さっさと終われよ。くどくどくどしい、と思ってしまう。タイトル文字を考えたひとは「気が利いている」と思ったのだろうが、観客をばかにしすぎている。
 せっかく二人以外の女、家事手伝いの女を登場させ、堕胎までさせる。そのときの情景を画家に描かせるというような、「描くとは何か」(見るとは何か)という問題を提起しているに、「肖」の「鏡文字」のせいで、台だしになっている。堕胎する少女の手を、まだ歩くこともできない赤ちゃんが無邪気につかむところなど、「鏡文字」がなかったら生と死の非対称の対称が浮かびあがって感動してしまうのだが、「すべては鏡文字ですよ」と最初に説明されてしまっているので、なんともつまらない。
 途中で何回が出てくる「本物の鏡」さえも「鏡文字」を明確にするためのものにしか見えない。映画がタイトル文字のために奉仕させられている。
 ラストシーンの、画家がモデルを遠くから見つめるシーンも、「鏡文字」がなければ感動的なのだが、「鏡文字」があるばっかりに感動しない。つまり、ラストシーンでアップでスクリーンに映し出されるモデルのこころのふるえ、音楽に共鳴しながす涙は、同時にそれを見つめる画家の顔なのである。同時に、それは観客の顔でもある、と最初から説明してしまっているからである。
 もう一度タイトルを映し出せ、ものを投げつけてやる、といいたい気分になる。
 途中の女たちだけの祭りで歌われる歌がとても印象的だった。映画が終わったあとのクレジットの部分でも少し流れる。フランス語なのでよくわからないが「なんとかかんとか、ジレ」と聞こえる。「わたしは行こう」なのか「わたしは行ってしまう」なのかわからないが、「別れ」のようなものが歌われていると聞いた。これに途中に出てくる「後悔するのではなく、思い出すのだ」というセリフが重なる。そういう意味ではここも「鏡文字」なのだが、フランス語の歌の文句がよくわからないだけに(字幕もないので)、勝手に想像することができて楽しい。
 なんでもそうだけれど、最初から「答え」を見せられるのは楽しくない。わからないなりに、これはなんだろう、と自分自身の「肉体」の奥にあるものをひっぱりだしてきて、いま、そこで展開されている「こと」のなかに参加していくというのが楽しいのだ。このよろこびを奪ってはいけない。
 タイトルの「肖像」がふつうの文字で書かれていたら、私はきっと★を4個つけたと思う。でもタイトルにがっかりしてしまったし、そのがっかりを促すように映画が進んでいくので、ほんとうに頭に来てしまった。「字」がかってに演技するな。







**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェデリコ・フェリーニ監督「道」(★★★★)

2020-11-19 10:25:15 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「道」(★★★★)(2020年11月18日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ

 何度か見た映画である。くりかえし見る映画というのは、なんというか、その映画のどこが好きかを確認するためにある。
 私はアンソニー・クインがジュリエッタ・マシーナを捨て去るシーンが大好き。何が起きるかわかっているのに、毎回どきどきする。これは最初に見たときからおなじ。
 廃墟のようなところ(廃村、というべきか)で、ジェルソミーナが眠り込んでしまう。だんだん足手まといと感じ始めたザンパーノが、ジェルソミーナが眠り込んでいることをいいことに、そこに置き去りにして、逃げてしまう。
 そのとき、荷車のなかからマントとか衣類をとりだし、眠るジェルソミーナにかけてやるのだが。
 荷車には、ジェルソミーナが吹いていたトランペットがある。
 あ、あそこにトランペットがある。荷台から顔を覗かせている。その存在にザンパーノは気づいていない。私の方が先に気がついている。ザンパーノは気づいていない。いつ、トランペットに気がつくだろうか。トランペットに気がついて、ジェルソミーナがいつも好きな曲を吹いていたことを思い出すだろうか。ジェルソミーナがトランペットが好きだということに気づいて、それをジェルソミーナに残していく気持ちになるだろうか。
 ジェルソミーナが大好きなトランペットだ。ジェルソミーナがいなくなったらトランペットはどうなるのだろう。トランペットがなかったらジェルソミーナはどうやって生きていくのだろう。ジェルソミーナは捨ててもいい。でも、ジェルソミーナを捨てるなら、トランペットだけはジェルソミーナに渡してほしい。
 だから、早く、もっと早く、気づいてほしい。そこにトランペットがあるということに。トランペットをジェルソミーナが吹いていたことを、ちょっとでいいから思い出してほしい。
 ストーリーはわかっているのに(最初に見たときから、そうなることはわかったのに)、毎回、ここでどきどき、はらはらする。映画だから、そのシーンが変更になることはないのに、毎回、心配でならなくなる。
 ジェルソミーナが捨てられるのだから、ここでトランペットを残されたくらいでほっとしてはいけないのだけれど、私は、ああ、よかったと思い、毎回、涙が流れてしまう。私の祈りがとどいた、と思ってしまう。
 これは、どういうことなんだろうなあ。わからない。わからないから、好き。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★★)

2020-11-14 09:14:40 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★★)(2020年11月13日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、アヌーク・エーメ、アニタ・エクバーグ

 この映画のラストシーンは好きだなあ。
 海岸で巨大なエイが引き上げられる。それは巨大さゆえに美しいとも醜いとも言うことができる。ちょうど、この映画のほとんどで繰り広げられる「甘い生活」のように、私のもっている感覚を超越している。自分のついていけない世界については醜悪と拒否することも、甘美とあこがれることもできる。どちらにしろ、それは存在を「認識」だけであって、「体験」するわけではない。特にそれが映画のなかの世界ならば、なおさらだ。だから、何とでも言うことができる。醜悪といっても、甘美と言っても、私がそのことばを口にすることで私自身は傷つかない。その後のことばの展開に何も影響を受けない。いつでも表現をかえることができる。実感ではないのだから。肉体でつかみとった「事実」というものは何もない。
 でも、そのあと。ひとり仲間(?)から離れたマルチェロ・マストロヤンニに河の向こうの少女が何かを言う。聞こえない。何を言われたかわからないままマルチェロ・マストロヤンニは仲間といっしょに引き上げる。それを見送る少女の顔のアップ。
 少女はマルチェロ・マストロヤンニを知っている。手伝いに行った保養地(?)のレストランのテーブル。マルチェロ・マストロヤンニはタイプライターで小説を書こうとしている。少女は音楽が好きで、ジュークボックスを鳴らす。歌を口ずさむ。マルチェロ・マストロヤンニは音楽を止めろ、と言う。そこから短い会話がある。少女はそれを覚えている。マルチェロ・マストロヤンニはどうだろう。覚えていないかもしれない。マルチェロ・マストロヤンニが関心があるのはセックスの相手としての女だからだ。
 このシーンが印象的な理由は、ここにある。
 マルチェロ・マストロヤンニの知らないところで、だれかがマルチェロ・マストロヤンニを支えている。そして、その「支え」のなかには、ラストシーンの少女のような存在もある。明確に気づいていないけれど、気づいていない何かが影響してくる、というものがある。「支え」と書いたが、言い直せば「影響を与えてくれる」ということである。
 たとえば、それはモランディを愛し、パイプオルガンを弾く友人かもしれない。映画のなかで、その友人とは「数回会ったことがある」というセリフが出てくるが、数回でも深く影響する何かというものがある。(少女とは何回会ったか知らないが、たぶん映画にあるレストランのシーンの一回だけだろう。)あるいは、田舎に住んでいる父かもしれない。父だからひっきりなしに会っていたはずである。非常に影響を受けいているはずである。しかし、マルチェロ・マストロヤンニはその影響を受け取ろうとはしない。むしろ拒絶しようとしている。そういうときも、「無意識」のなかを動いている「影響」はある。それはマルチェロ・マストロヤンニを「支え」ているはずである。
 わかることとわからないことがある。そのなかで人間は、その日そのときの欲望で生きている。「甘い生活」におぼれるのか、「苦い生活」を生き抜くのか。どちらが「正しい」ということはない。「判断保留」を生きる。そういう生き方そのものが「甘い」のかもしれないが。まあ、そういうことは、いってもはじまらない。
 そして、人間は、こういう「影響」を与えてくれたかどうかさえわからない人間のことは、どうしても忘れてしまう。ひとは「影響」を受けたい、「影響」を受けて自分自身を変えてしまうことを夢見る存在なのかもしれない。
 象徴的なのが、「マリアを見た」という兄弟のエピソードである。「マリアを見た」という体験を共有したいと大勢のひとが集まってくる。マリアの「影響」を受けることで、自分自身の生活を変えたいのだ。「奇跡」にすがりたいのだ。でも、「奇跡」なんて、起きない。突然降り出した雨のために、体の弱っていた老人(?)がひとり死ぬだけである。マリアの助けを求めてやってきかたひとが、マリアの奇跡には遭遇せず、雨に濡れて死んでいく。
 現実というものが、こんなふうに首尾一貫しないものならば、どうやって生きていけばいいのだろう。こういうことを書き始めると「意味」になってしまうので、私は書かない。ちょっと考えた、という「経過」だけを書いておく。
 私は、この映画に出てくるような「甘い生活」というものを知らないので、もうひとつだけ、私にとってなじみやすかったシーンを書いておく。冒頭のキリストをヘリコプターで運ぶシーン。いわば、こけおどし、のシーンだが、ビルの壁にキリストの影が映り、その影がビルの壁をのぼるようにして空に消えていく。この1秒足らずの映像が美しい。フェリーニの狙いがどこにあったか知らないが、私はこのキリストの影のシーンが撮りたかったのだと信じている。アマルコルドの孔雀と同じで、影のシーンが絶対必要なわけではない。それがなくてもキリストを運んでいることはわかるのだから。でも、だからこそ、そのシーンがフェリーニには必要だったのだ。
 さらに。ヘリコプターにはマルチェロ・マストロヤンニが乗っている。彼と屋上(?)で日光浴をしている女たちが会話をする。ラストの少女との会話のように、互いに言っていることばは聞き取れないのだが。ただし、「大人」の会話なので、何を言っているかはテキトウに判断することができる。「デートのために、電話番号を聞いている」とかなんとか。少女とマルチェロ・マストロヤンニとのあいだでは、そういう「テキトウな想像(自分の欲望)」にあわせた「意味」というものは存在しなかった。このときの、女たちの「腋毛」。剃っていない。その、なまなましい自然。
 このなまなましい自然から、少女の純粋な自然までの「間」。そこにゆれ動くマルチェロ・マストロヤンニ、というふうに見ることのできる映画でもある。フェリーニの映画では、男は一種類(女の気持ちがわからないのに、女に持ててしまう優柔不断な美男子)なのに、女の方は今回の少女やジェルソミーナの純心からアニタ・エクバーグの肉体派、あるいはジュリエッタ・マシーナの素朴からクラウディア・カルディナーレの美貌、アヌーク・エーメの神秘まで、振幅(?)が大きい。でも、フェリーニは最終的には「純真」を選ぶということなのかなあ。最終ではなく、それは出発点ということなのかもしれないけれど。
 福岡(KBCシネマ)でのフェリーニ祭は9本ではなく6本の上映。私は「道」を最後に見ることになる。私が最初に見たフェリーニだ。フェリーニへの「初恋」だと思うと、見る前から胸がときめく。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェデリコ・フェリーニ監督「フェリーニのアマルコルド」(★★★★★)

2020-11-12 21:22:07 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「フェリーニのアマルコルド」(★★★★★)(2020年11月12日、KBCシネマ2)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 孔雀

 フェリーニの映画のなかでは、私はこの映画がいちばん好き。理由は簡単。役者がみんなのびのびしている。「特別なひと」を演じているという感じがない。もちろん小さな街の庶民を描いているのだから、そこに「特別なひと(たとえばギリシャ悲劇の主人公)」がいるわけではない。そこで起きる事件も特別変わったものではない。起きたことを覚えておかないと、あとで困るということでもない。体験したことは、たしかに人間に影響するだろうけれど、あの事件が人生を決定したというようなことは起きない。母親が死ぬことだって、だれにでも起きること、だれもが経験しなければならないことのひとつにすぎない。
 これを、どう演じるか。
 みんなのびのびと、好き勝手に演じている。「どうせ映画」と思っている。遊びながら演じている。この「遊びながら」という感じがスクリーンにあふれる映画は、意外と少ない。役者本人の部分を半分残し、残りの半分でストーリー展開のための演技をする。そうすると、スクリーンに映し出されているのは役者か役か、わかったようでわからない。別ないい方をすると、「私はこんなふうに演じます」という「リハーサルの過程」という感じがどこかに残っている。そこに、不思議な「味わい」がある。
 こういうことを感じるのは、まずルノワール。それからタビアーニ兄弟。そして、フェリーニの、この「アマルコルド」。監督なのだけれど、映画を支配するわけではない。役者を支配するわけではない。役者が動く「場」を提供し、そこで遊んでもらう。そして、その遊びを、「ほら、こんなに楽しい」と観客に見せる。
 これって、映画のタイトルではないが、「私はこんなことを覚えている(実はこんなことがあった)」と、話のついでに語るようなもの。「あ、それなら私も覚えている」と話がもりあがったりする。そのときだれかが「ほら、こんなふうに」とある人の物真似をして見せるようなもの。「精神」とか「意味」とか「感動」ではなくて、そういうものになる前の「肉体」そのものを共有する感覚といえばいいのかなあ。
 で、ね。
 そこに突然、孔雀が舞い降りて羽を広げて見せる。それも雪の降る日にだよ。雪が降っているのに、孔雀がどこかから広場に飛んでくる。伯爵の飼っている孔雀だ、というようなことをだれかが言うけれど、まあ、これは映画を見ているひとへの「後出しじゃんけん」のような説明。そんなことはどうでもいい。
 何これ。なんで、孔雀が雪の降る日に飛んできて、しかも羽を広げて見せる必要があるんだよ。
 必要なんて、ないね。必然なんて、ないね。意味なんて、ないね。
 映画を見ていないひとに、そこに孔雀が飛んできて羽を広げるんだよ、それが美しいだよ、言ったってわからない。「嘘だろう、そんなつごうよく孔雀なんか飛んでくるわけがない」と、フェリーニから思い出話を聞かされたひとは言うかもしれない。
 そう、そこには必然はない。そして、必然がないからこそ、それはフェリーニにとって必然なのだ。「遊び」という必然。ひとは「遊び」がないと生きていけない。「遊ぶ」ためるこそ生きているといえるかもしれない。不必要なことをして、必要の拘束を叩き壊してしまう。
 たぶん、これだな。
 フェリーニの映画にはカーニバルやサーカスがつきものだ。祝祭がつきものだ。それは世界の必然を叩き壊して、瞬間的に解放の場を生み出す。「解放区」だ。自分が自分でなくなる。だれかがだれかでなくなる。自分を超えて、だれにだって、なれる。その「瞬間的な生のよろこび」。そういうものがないと人間は生きていけない。祝祭のあとに、しんみりしたさびしさがやってくるが、それはそれでいい。「祝祭」の体験が、「肉体」のなかにしっかりと生きている。覚えている。思い出すことができる。それは、いつの日か、それ(解放区)を自分の肉体で「再現」できるという可能性を知るということでもある。
 あ、めんどうくさくなりそうなので、もうやめておこう。
 雪のなかで羽を広げる孔雀。ああ、もう一度、みたい。いや、何度でも見たい。
 みなさん、主役は孔雀ですよ。ちょっとしか登場しないから、見逃しちゃダメですよ。






**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェデリコ・フェリーニ監督「青春群像」(★★★)

2020-11-11 15:57:51 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「青春群像」(★★★)(2020年11月11日、KBCシネマ2)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 知らない人ばかり

 日本公開は1959年。製作は1953年。私は、今回、はじめて見た。
 注目したのはカーニバルのシーンと、グイドという少年。グイドって、「8 1/2 」の主役(マルチェロ・マストロヤンニ)の名前じゃないか。五人の若者のひとりとこころを通わせ、彼がひとり町を出て行くとき駅で見送る。この町を出ていった青年がフェリーニであり、また見送ったのもフェリーニということになるだろう。町を捨てながら、その町にとどまり見送る少年。ここに奇妙なセンチメンタリズムがある。センチメンタルとは、現実と認識のずれを意識しながら、そのずれを見つめることからはじまる。そのとき、視点はいつでも何も知らない「無垢」(純粋)から見つめられる。この映画でも、若者が描かれるのだけれど、そしてそこには「おとな」の視点があるのだけれど、それを結晶させるのは少年の視点。「無垢」が青春の「汚れ(不純物)」を洗い清める。「不良」から「不」をとりはらう。強調しないけれど、そういうニュアンスをしっかり刻印している。「無垢」が「不良青春」を通過して、「おとなのなかのこども」として生きる。「8 1/2 」のグイドだね。その出発点が、この町。フェリーニのこころはいつもこの町にある、ということか。次に見る「アマルコルド」の舞台なのか、とあす見る映画を思い出しながら(?)見ていた。
 もうひとつ注目したカーニバル。いつものことながら「楽しい」だけではない。美空ひばりの「お祭りマンボ」ではないが、「祭りがすんだそのあとは……」というさみしさがある。さみしいけれど(さみしくなるのはわかっているけれど)、カーニバルの「発散」がなければ日々の暮らしを生きていくことはできない。このカーニバルではピエロの張りぼてが非常に印象に残る。ピエロは笑いを引き起こすが、カーニバルが終わればその顔は不気味である。また、悲しい。その張りぼてを捨てていけない。捨ててしまうことができない。捨ててしまっては、悲しみが生きていけない。ピエロをかかえ、引きずりながら、泥酔して家へ帰る若者、泥酔した若者によりそい自宅へ送り届ける若者。だれかの悲しみ(不幸)をだれかが支えている。この、無意識の「連帯」が青春というものかもしれない。支えているとか、支えあっているという意識はないんだけれどね。
 それにしても。
 不景気な時代は、青年の「自立」がどうしても遅くなる。「青春群像」とはいうものの、みんな二十代の後半、三十過ぎに見えたりする。そしてそれが、なんといえばいいのか、いまの日本の若者の姿と重なって見える。イタリアは「家族愛」が強いのかもしれないけれど、みんな「家」を出て行かない。出て行けない。親の収入に(あるいは別の家族の収入に)頼っている。貧乏なはずなのに、親がいちばんの金持ちなのだ。私は若い人とのつきあいがないのでわからないのだが、そうか、いまの若者はこの「青春群像」に出てくる若者のような「精神」を生きているのか、と思ったりした。自分の「青春」を一度も思い出さなかった。不思議なことに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする