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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーブン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』

2022-02-12 14:18:13 | 映画

スティーブン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』(★★★★) (2022年02月12日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン13)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 アンセル・エルゴート、レイチェル・ゼグラー

 いちばん驚いたのは。
 私の「肉体」がついていけなくなっていること。私はダンスもしなければ歌も歌わないから、前の作品(ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンズ監督「ウエスト・サイド物語」)でも私の「肉体」がついていっていたのかどうかはわからないが、今回のスピルバーグの映画では、私の「肉体」が置いてきぼりにされているのを感じた。
 冒頭の口笛のシーンは、まだ「耳」だけが動いているので、わくわく感はおなじなのだが、役者が歌い踊りだすと、途端に、私の「肉体」は傍観者になってしまう。歌いたい、踊りたい(まねしてみたい)という気持ちが起きないのだ。わくわく、どきどきが「肉体」を支配して、私の「肉体」が動き出すという感じにならない。
 「トゥナイト」や「マリア」というゆったりとした曲さえ、何か、ついていけない。妙に「洗練」されている感じ、シャープな感じがする。「肉体」が動こうとすると、「理性」がやめておけ、というのだ。こころのなかであっても、一緒に歌うな、声を出すな、声帯を動かすなと、理性が言うのである。
 「クラプキ巡査どの」はこのミュージカルでは私の一番好きな曲だが、初めて聞いたときの荒々しい強さがない。歌っている若者に対する「同情」というのか、あ、そのつらさ、知っている、という感じにならない。あまりにも洗練されすぎている。その場で思いついて歌いだすという感じがしない。最初からその曲があって、それを歌って踊っている感じがする。私がストーリーを知っているから、ということだけではない何かがあると思う。「午前十時の映画祭」で上映されたときは、そんな感じはしなかった。スピルバーグの映画になって、そう感じるのだ。「クール」(この曲もとても好き)もなんだか違う。「アメリカ」も、豪華だけれど、美しすぎる。
 あ、そうなんだ。「美しすぎる」が、どうも、気に食わない。
 映画(ストーリー)は簡単にいってしまえば、不良の対立が生んだ悲劇だが、その不良たちが、今の私から見ると繊細(純粋?)で洗練されすぎている。何かを破壊せずにはいられない「欲望」というものが「演技」としてしか伝わってこない。生身の「肉体」としてつたわってこない。「おれたちには肉体がある。この肉体を、この世界に存在させたいのだ」という欲望が稀薄なのだ。
 「演技」になりすぎていて、しかも「演技」として洗練しすぎていて、「肉体」そのもの、どうしようもない「欲望」というものが、見えにくくなっている。うまく撮れすぎている。(これはスピルバーグの映画全体について言えるかもしれない。)とくに、集団のダンスシーンはあまりにもあざやかで、まるでそれだけのショーのような感じがする。若者が好きで踊っている、体がどうしても動いてしまうという感じではなく、私たちはこんなにダンスがうまい、とそのうまさを見せている感じ。
 とってもいいんだけれど、何か、違うかもしれない、と感じる。
 これは、というか、一方、というか……。
 レイチェル・ゼグラーの声に、私は非常に驚いた。透明な輝きと、透明な強さがある。「トゥナイト」の二重唱は、まったく知らない曲に聞こえてしまった。もし映画から「抜粋」して、レイチェル・ゼグラーの歌声だけを聞いたら「ウエスト・サイド物語」とは思わないかもしれない。
 ただ、それがいいことかどうかは、また、別の問題。
 昔に比べて、歌もダンスも、みんな「うまく」なりすぎたのかもしれない。映画で見たいのは、「うまさ」でもないし「うまさ」にかける情熱でもない、と思ってしまったのだった。

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ウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(★★★★)

2022-01-29 15:01:25 | 映画

ウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(★★★★) (2022年01月28日、中州大洋、スクリーン2 )

監督 ウェス・アンダーソン 出演 手作りのセット、いろんな人たち

 たいへんたいへんたいへんたいへんたいへん、おもしろい。でも、★ひとつ減点。だってさあ、最後の最後で、おもしろさを「解説」してしまっている。シェフが記者に答えた「セリフ」。「毒は、とてもうまかった。初めての味だった」と言わせている。しかし、その「初めての味」はぜんぶことばにできる。つまり「知らなかった味」ではなく「知っている味」の組み合わせ。つまり「組み合わせ方」が新しかったのだ。そして、この「解説」は単に「解説」しているだけではなく、長くなるからと言って切り捨てた「記事」を拾い上げてみたら、そこに書いてあった。それを「採用する」という手の込んだ仕掛けなのである。
 この「手の込んだ仕掛け」をいちいち言っていてもしようがない。でも、いちいちいわないとほんとうは「味わった」ことにならない。シェフが「毒の味」をひとつずつ語ったようにね。私は、そういうことは好きだけれど、大嫌いでもある。めんどうくさいからね。なかには「知らない味」もあり、それを書かないと、きっと「あの味が抜けている」ということを言う人がいる。まあ、それでいいんだけれど。
 「正確」がどうかわからないが、ひとつだけ書いておく。
 この映画ではセットが魅力。ほんものそっくり、というのではなく、手作り感がある。つまり、セットとすぐにわかる。そこに、「手作り」して遊んでいる感じがあって、とても気持ちがいい。できた料理を、入り組んだ階段をのぼって届ける。その、なんでもないけれど、単純で変な入り組み方の「リズム」。瞬間的に、ジャック・タチを思い出した。「ぼくの伯父さん」だったかなあ、パリの下町、入り組んだ街の高いところに住んでいる。その「住処」の雰囲気に似ているねえ、この手作りのセットの感じ。「ぼくの伯父さん」は、自分の家を出るときに、遠く離れた建物の鳥籠の鳥に、鏡で太陽の光を反射させて合図する。朝を送る。そのシーンが私は大好きだが、そういう「誰の迷惑にもならない自分だけの遊び」という感じが全体を支配していて、それがとっても、とっても、とっても、とってもいい。
 でもね、これは、やっぱり言ってはいけないことなんだと思う。言いたいけれど、ぐっとこらえて、ときどき、ついもらしてしまうという感じくらいがいい。最後にまとめて言ってしまっては、「わからないやつは馬鹿だ」といわれた気持ちになる。まあ、言われたって、平気だけれど。
 役者も、みんないいなあ。「演じない」ことを演じている。あるいは「演じる」を演じていると言えばいいのか、よくわからないが。登場人物になってしまわない。つまり、「役(登場人物)」を見ているというよりも、役者をみているという感じにさせてくれる。「登場人物」なのだけれど、登場人物であることを忘れさせて、この人、こういう人だったんだあと錯覚させてくれる。「あれは、役なんですよ。私じゃないんですよ」「えっ、でも、あなたにしか見えない。役じゃないでしょう」というような、とんちんかんな会話をしてしまいそう。そのうちに役者の方で、まあ、どう見るかは観客の自由だけれどという声をもらすだろうなあ。
 というような、どうでもいいことまで、私は考えてしまう。感じてしまう。この妄想している時間が楽しい。映画を忘れる。(笑い)
 映画にもどると。
 最初に「料理」が出てきて、最後にもまた「料理」が出てくる、という、「ほら、きちんと終わったでしょ」という感じも好き。
 最後の「ことばの解説」がなければ、★10個つけたいけれど、と思いながら★4個。こんな変なことで悩むというのも、まあ、快感ではあるね。

 

 


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クリント・イーストウッド監督『クライ・マッチョ』(★★★★★)

2022-01-15 15:21:58 | 映画

クリント・イーストウッド監督『クライ・マッチョ』(★★★★★) (2022年01月15日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティー、スクリーン8)

監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッド、闘鶏の鶏

 クリント・イーストウッドが魅力的なのは、描きすぎないことである。もっと見たい、と思った瞬間に、もうそのシーンはない。少し見せればいい。少し見て、あとは観客が自分の知っていることを思い出し、そこから考え、感じればいい、という感じ。
 冒頭の朝の光の中を走る車。その朝の光に透けながら輝く木立の葉っぱ。そういう光と木の葉の感じは、たしかにどこかで見た記憶がある。どこだろう。はっきりと思い出せない。見ていないかもしれない。でも、見たと思わせる。もう一度見たい、と思う。その瞬間、もうカメラの位置は違っている。
 光、その「光線」を感じさせるシーンは、ほかにもある。イーストウッドが車にかがみ込む。そのとき逆光、太陽の片鱗のようなものが、さーっと差し込み、あ、美しいと思ったら、もう見えない。見えなかった人には見えなくてもいい、という感じかなあ。
 こういうことが、もしかしたらこの映画のテーマかもしれない。
 ひとはそれぞれ自分の人生を生きている。自分の人生にも、他人の人生にも、見える部分もあれば見えない部分もある。太陽の光と違って、人の放つ光、人の出会いは規則的ではない。偶然であって、その出会いが、なにかの光のように他人の(自分の)一部を透明な光でつつむ。なんでもないことかもしれないが、それが忘れられない何かになる。
 イーストウッドが少年に乗馬を教えるシーンが好きだなあ。どうやって馬と接するか。支配するのではなく、一緒に生きる。早足で走るとき、スピードアップをするとき手綱で指示するのではなく、体重のかけ方をかえる、というのなど、なるほどなあ、と思う。乗っている人の体重の移動が、自然に馬を「押す」形になる。おんぶされている人が体重を前にかけると、おんぶしている人の体は自然に前のめりになる。体が前のめりになると、足が少し早く動く。バランスをとるためにね。そのあとの「姿勢」についても、なんでもないようだけれど、馬が楽になるような、そして乗っている人が楽になるような姿勢である。
 相手も、私も。
 この相互に「楽」な感じが、たぶん、いまのイースウッドが私たちにつたえたいものなのかもしれない。父と子の関係、男と女の関係、友人の関係。互いに、相手の小さな部分にさっと光を当て、私は、それを見たよ。私は、それが好きだよ、と言う。これだけで、ひとはひとと一緒に生きていける。
 そして、こういうことは、まあ、忘れられてもいいことかもしれない。世界を変える人間ではない。でも、そのとき世界は変わっている。個人個人にとっては、ね。実際、この映画では、少年もイーストウッドも「新しい」世界を手に入れる。彼らの「世界」が変わる。誰も注目していないけれどね。それがいいんだね。
 ラストの一瞬前。
 少年が、大事にしていたマッチョ(鶏)をイーストウッドに渡す。あげる。これ、いいねえ。さっと描いている。イーストウッドが、「焼いて食べてしまうかもしれない」と冗談めかして言う。少年は「だめだよ」とは言わない。冗談だとわかっているから、というよりも、もっと大きな何か。少年は生まれ変わったのだ。「マッチョ」が彼の支え(理想)ではなくなったのだ。少年が「マッチョ」を超えたのだ。それを「信頼」という形(抗議しないという形)で、ぱっと描き、ぱっと打ち切る。
 演技させるのではなく、演技させない。「人工的なもの/作為的なもの」にしないということかなあ。
 イーストウッドの車と牧場の馬が並行して走るシーンも、なんでもないのだけれど、馬が美しくていいなあ、と思う。

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ジェーン・カンピオン監督「パワー・オブ・ザ・ドッグ」

2021-11-24 10:40:09 | 映画

ジェーン・カンピオン監督「パワー・オブ・ザ・ドッグ」(★★★★★)(2021年11月23日、中州大洋スクリーン1)

監督 ジェーン・カンピオン 出演 ベネディクト・カンバーバッチ、キルステン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、コディ・スミット=マクフィー

 ジェーン・カンピオン監督。これは、見なければ。女性のセックス、恋愛を「学ぶ」には、ジェーン・カンピオンの映画ほど最適なものはない。ともかくびっくりさせられる。「触覚」の官能というのはわからないでもないが、ジェーン・カンピオンの映画を見るまでは、ちょっと想像しにくかった。ウッディ・アレンのなんという映画だったか、ジュリア・ロバーツが「背中を触られると感じる」というようなことを言い、ウディ・アレンが「一晩中背中を愛撫していたので疲れた」というような愚痴をこぼす作品があったが、しれは、まあ、コメディーだしね。
 で、この映画。私はジェーン・カンピオンが監督という以外に興味はなかった。キルステン・ダンスト(スパイダーマンの恋人?)は唇が嫌いだし、この女と、どちらかというと精神力を具現化するベネディクト・カンバーバッチがセックスするのか。そこにどんな「触覚」の興奮があるのか。キルステン・ダンストが、どんなふうに官能に目覚めていくのか、と、先入観を持ってスクリーンに向かってしまう。
 で、びっくり。
 始まってすぐすぐ。キルステン・ダンストが働いている(経営している?)店へベネディクト・カンバーバッチが入っていく。夕飯だ。テーブルの上に造花がある。これをベネディクト・カンバーバッチが「しゃれている」と手にとる。そこまでは、まあ、ベネディクト・カンバーバッチが粗野なカーボーイではなく、繊細な感覚を持っている男の「伏線」(大学で、哲学だか文学だかを専攻した。古典の素養もある)としてわからないでもないが、その造花を手にとった後、造花の花びらに指で触れて、その動きを見る。何かを思い出すように、触っている。えっ? これって、いままでの映画なら女の動作じゃないか。変だなあ。
 ところがね、これが「変」ではないのだ。なんとこの映画は、女の「触覚」とセックス(官能)を描いているのではなく、男の触覚の官能(セックス)をベネディクト・カンバーバッチを通して描いているだ。ことばを変えて、簡単に言いなおすと、新しいゲイ(ホモセクシュアル)の映画なのである。
 もちろん、すぐにはそうとはわからない。
 途中には、キルステン・ダンストがベネディクト・カンバーバッチの弟、ジェシー・プレモンスと平原のなかでダンスするシーン、そっと手を触れ合うシーンがあって、やっぱりこの女の触覚の官能がテーマか、と思わせたりする。
 ベネディクト・カンバーバッチは、弟のジェシー・プレモンスがキルステン・ダンスト結婚したことにいらだっている。家の中に「女」が侵入してきたことにいらだっているのか。それはベネディクト・カンバーバッチが女にセックスをの欲望を感じていて、それを横取りされたからではないということが徐々にわかってくる。
 これに、キルステン・ダンストの連れ子、コディ・スミット=マクフィーがからんでくるから、とてもややこしい。ベネディクト・カンバーバッチは造花をつくったのが女ではなく、コディ・スミット=マクフィーだと知って驚くのが、最初に書いた造花に触れるシーンだ。この痩せた少年、女のようだとからかわれる少年をベネディクト・カンバーバッチは、やはり嫌っているのだが、その理由が単に女っぽい(カーボーイには不向き)からではないということが、わかってくる。それはカーボーイになる前のベネディクト・カンバーバッチの「姿」だったからだ。
 で、この描かれていないベネディクト・カンバーバッチの少年時代に何があったのか。ことばで説明されるだけだが、冬の山で遭難しかけた。そのとき、一人の男が助けてくれた。こごえる少年の体を裸で抱きしめて温めてくれたのだ。このときの「触覚」が忘れられないのだ。あのとき、造花の花びらを触っていたのはベネディクト・カンバーバッチの指だけれど、その想像の先にはベネディクト・カンバーバッチが花びらになって、だれかに触られていたのだ。そのことが、映画が進むに連れてわかるようになっている。
 男の触覚の官能は、二度、克明に描かれる。ベネディクト・カンバーバッチが彼を助けてくれた男のイニシャルが入ったスカーフ(?)をズボンの中から取り出し、においをかぎ、そのスカーフをつかって彼自身の顔を愛撫する。何度も何度も愛撫を繰り返し、こらえきれなくなってスカーフをズボンの中へ入れ、オナニーをはじめる。
 コディ・スミット=マクフィーは、そのシーンを直接見たわけではないが、間接的にベネディクト・カンバーバッチの「秘密」を知ってしまう。そして、その「秘密」を利用して、母を憎んでいるベネディクト・カンバーバッチを殺そうと思う。
 この「殺し」がまたまた「繊細」というか、その「殺人」に「指」がどこまでも関係してくる。「殺し/殺される」はセックスそのものであり、そこには「指/触覚」が絡んでいるというのが、この映画のテーマなのだ。ひとは「触覚」によって支配されている、とでもいっているようだ。
 ベネディクト・カンバーバッチは革をつかってロープをつくっている。そのロープをコディ・スミット=マクフィーにプレゼントするという。ところが革が足りなくなる。その不足の革をコディ・スミット=マクフィーが持っている。炭疽病で死んだ牛の皮。そうと知らずに、それをつかったために、ベネディクト・カンバーバッチは炭疽病で死ぬのだが、まあ、そんなストーリーはどうでもよくて。
 このロープの仕上げのとき、ベネディクト・カンバーバッチとコディ・スミット=マクフィーは二人きりになる。ここからが男の触覚の官能を克明に描く二度目のシーン。ベネディクト・カンバーバッチがコディ・スミット=マクフィーにたばこを渡し、コディ・スミット=マクフィーが火をつけて、吸いさしをベネディクト・カンバーバッチにくわえさせる。動いている指はコディ・スミット=マクフィーの指。それは、ある意味ではセックスなのだ。少年が大人を誘っている。支配している。それはベネディクト・カンバーバッチ自身の見果てぬ夢だったかもしれない。指とたばこと唇。それが何度もスクリーンで展開する。
 「指/触覚」は、このクライマックス以外にも何度も描かれる。ベネディクト・カンバーバッチは手袋をしない。牛を去勢するとき、他のカーボーイから「手袋をしないのか」と聞かれるが、しない。キルステン・ダンストは先住民からもらった手袋をはめ「なんて、やわらかいの」とうっとりする。コディ・スミット=マクフィーは櫛の歯を指ではじいて母親をいらだたせる。指は暴力を振るう。指は官能に溺れる。指は間接的な攻撃にも使うことができる。ロープを編むのも手、指の仕事。炭疽病で死んだ牛の皮をはぎ、凶器としてつかうのも指。指がからみあうのが、この映画なのだ。
 この繊細で暴力的な指を、ジェーン・カンピオン監督は、雄大なアメリカの山と平原を舞台に展開する。その映像はとてつもなく美しい。近景、中景、遠景を組み合わせながら揺るぎなく展開する。
 そうか、ジェーン・カンピオンにはゲイの官能は、こういうふうに見えているのか、と目をさめさせられる。ラストシーン(ここでは詳細を書かない)も、非常に不気味で、人間の複雑さをたっぷりと味わわせてくれる。
 舞台は「現代」ではないが、「時代」を超える人間の本能/感性をを描いた傑作だ。「ピアノレッスン」「ある貴婦人の肖像」も舞台は「現代」ではなかった。「時代」設定をあえて「過去」にすることで、変わらない人間の本質を描く(浮き彫りにする)というのがジェーン・カンピオンの姿勢なのかもしれない。
 書きそびれたが、音楽もとてもいい。「現代的」だ。それがこの映画をいっそう清潔にしている。

 

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ロベール・ブレッソン監督「田舎司祭の日記」

2021-11-07 18:15:27 | 映画

ロベール・ブレッソン監督「田舎司祭の日記」(★★★★+★)(2021年11月07日、キノシネマ天神スクリーン1)

監督 ロベール・ブレッソン 出演 クロード・レデュ

 この時代の映画がいいのか、ブレッソンがいいのか。
 両方いいんだろうなあ。
 「田舎司祭の日記」というくらいで、「日記」のアップはあるし、ことばことばことばの連続。アクションが少ない、というか、そのアクション自体がなんとなく「演じています」という感じ。司祭が汗を拭くシーンなんか、リアルではなくて、「様式美」としてのアクション。
 でもね。
 これがいい。とってもいい。肉体の動きを、はっきり動いているという感じでみせる。つまり、誇張があるのだが、その誇張は役者の「表情」を引き立てるためにある。肉体の動きが明確なので、何をしているか、すぐ「意味」がわかる。「意味」がわかるので、見ている方に「余裕」が生まれる。どういう余裕かというと、そういうとき「顔/表情」はどう動くのかを見る余裕だ。顔に集中できる。目の動きに集中できる。
 映画は、やっぱり「顔」を見せる。
 顔の大きさは、どんな人間も、そんなに変わらない。どんなに近づいても大きさに限度がある。でも、それがスクリーンに拡大されて映るとき、見えなかったものが見える。こころの動きが見える。
 肉体の動きは「形式美」であらわし、こころの動きは「表情のアップ」で見せる。このバランスが、とってもいい。
 そして、ここからもうひとつ。
 人は他人を見るとき、全部を見ているようで、そうではない。一部を見て、それを拡大し、自分のなかに「ある人物」をつくりあげてしまう。特に、他人の「こころ」をつくりあげてしまう。それが時には「誤解」を生み、そこから人間ドラマが複雑に動く。
 この映画そのものが、そういうストーリーでもある。新しく赴任してきた司祭は村人のことを知らない。わかるのは「一部」である。その「一部」から全体を想像し、想像したことを「理解」と勘違いする。これは、村人の方にも言える。司祭の全部を知っているわけではない。でも、司祭が何をしているか、わかったつもりになる。
 「形式的(常套句のような)」行動を彩る瞬間的な「表情」。
 これは、最初の方のシーンで象徴的に描かれる。
 司祭が自転車で村にやってくる。汗を拭いている。離れたところで男と女がキスをしている。女がキスをしながら司祭の方を見る。男と女は、どう見ても「不倫」である。「不倫」を司祭に目撃されて、ふたりは去っていく。不倫かどうかは、村にやってきたばかりの司祭にはわからないはずである。でも、不倫だと感じる。それは、女が司祭を見るときの「目つき」、何を見ているの、と非難するような目つきにあらわれている。若い恋人なら、司祭に見られても司祭を見ている司祭を非難するような目つきはしない。それを司祭自身が感じ取る。もちろん観客である私も感じてしまう。これを鮮明にするには、行動はやはり「形式的」でなくてはならないのだ。
 このバランスが、とってもいい。
 さらに(追加の★のための注釈)。
 出演者は、誰が誰だか、私にはわからないのだが。
 領主(?)の妻を演じた女優に見とれてしまった。まるで杉村春子。ものすごく、うまい。そこにたしかに人間がいる、という感じ。一度も会ったことがないのだけれど、この人に会ったことがある。この人は、いつもこういう話し方、こういう表情をする、と感じてしまう。
 司祭(クロード・レデュ)が主役なのだけれど、二人の対話のシーンでは誰かわからないこの女優に見とれてしまった。

 


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ケビン・マクドナルド監督「モーリタニアン 黒塗りの記録」(★★)

2021-10-30 15:48:50 | 映画

ケビン・マクドナルド監督「モーリタニアン 黒塗りの記録」(★★)(2021年10月30日、キノシネマ天神スクリーン1)

監督 ケビン・マクドナルド 出演 ジョディ・フォスター、ベネディクト・カンバーバッチ、タハール・ラヒム

 9・11に関係する「実録」映画といえばいいのか。事実をもとに、正確にはモハメドゥ・ウルド・スラヒの著書「グアンタナモ収容所 地獄からの手記」を題材につくられた映画。
 アメリカの「事実に基づく映画」で、私が一番奇妙に感じるのが、登場人物が実在の人物に「容姿」を似せることである。この映画ではジョディ・フォスターが実在の弁護士が白髪なので白髪で登場する。これが、なんとも気持ちが悪い。ジョディ・フォスターのほんとうの髪の色は忘れてしまったが(久しく見ていないので、見に行った)が、この映画の弁護士のように白髪ではないし、年をとった結果だとしても、こういう色の白髪にはならないだろうという冷たい色をしている。ジョディ・フォスターは、もともと「陽気」という感じではないが、あの紙の色では「冷静」というよりも「冷たい」だけが前面に出てしまう。
 それではなあ、と思うのだ。
 実在の弁護士の声は知らないが、ジョディ・フォスターは低音でかすれている。声そのものが感情の抑制を表現している。あの声があれば、「冷静」は十分に表現できる。声だけで演技すればいいじゃないか、と思う。
 ベネディクト・カンバーバッチもわりと低い声で、「冷静」を表現していた。ジョディ・フォスターのようにハスキーではない。深みをもった低めの声である。
 それはそれでいいのだが。
 私はこの二人の声を聞きながら、あ、これは私の予想と違って「法廷ドラマ」ではないぞ、と感じた。9・11に関係しているという嫌疑で、何年も拘留されているモーリタニアの青年の無実を証明する。そのときの弁護士と検事側(実際はベネディクト・カンバーバッチと途中でその仕事を辞める)のやりとりが法廷でおこなわれるという映画だと思っていたが、そうではないぞ、と気がついた。こんなに「似た声」の持ち主が法廷で対立しても、ドラマははじまらないからね。
 実際、法廷ドラマは、ないに等しい。タハール・ラヒムの「独り舞台」と言っていい。法廷に直接出ているのではなく、拘留されているグアンタナモ収容所から「中継」で証言する。タハール・ラヒムの声は、ジョディ・フォスター、ベネディクト・カンバーバッチとは違い、明るい。声が「無実」を証明している。
 これはねえ。
 映画ではなく、「声」を聞かせる舞台の方が「人間性」があらわれておもしろくなる作品だと思った。
 「犯人」をなんとしても処刑したい、と思っている「検察側(ブッシュ側)」のなかにも、ひとり「冷静/強靱」な声を持っている人物(ベネディクト・カンバーバッチ)がいて、それが弁護側の「冷静」な声(ジョディ・フォスター)と和音をつくるように接近し、物語をつくっていく。「和音」が完成した瞬間、そこから、いままで存在しなかった「新しい響き」(タハール・ラヒム)が生まれ、広がっていく。タハール・ラヒムの声はもちろん最初から存在するのだが、ジョディ・フォスター、ベネディクト・カンバーバッチのつくる和音によってさらに自由になって響く。そういう感じかなあ。
 私が映画を見ながら、そして見終わったあとに夢見たのは。
 でもね。
 この「音楽」は、タハール・ラヒムの証言が象徴的にあらわしているが、実際は「その場」に集まって生まれるのではなく、離れたところにいて、むりやり(?)合体させられるのである。そのためタハール・ラヒムの証言が「意味の美しさ」でおわってしまう。「意味」が前面に出すぎて、「声」が隠れてしまう。
 それがなんとも残念。
 この映画じゃ、ブッシュを「後悔」させることはできないね。
 こんなことを書くのは、この映画が、映画のリズムをもっていないからだな、きっと。肝心の部分が「ことば(声)」で説明される。もちろん「黒塗り」の文書は映像化されているし、許されない拷問のシーンも映像化されている。でも、それは「ことば(セリフ)」を補足するものであって、肉体を刺戟してこない。肉体にとどくのは、「声」だけなのである。これだったら、映画にする必要はない。それこそ「手記」でいい。
 こんなことを気づかせてくれるのは、変な言い方だが、ジョディ・フォスターが実在の弁護士そっくりの髪の色で「変装」していたからだね。「変装」は、ばれる。それが隠れている「声のドラマ」のおもしろさを明るみに出したということかな。あえて、いい点をあげるならば。

 


 

 

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キャリー・ジョージ・フクナガ監督「007ノー・タイム・トゥ・ダイ」

2021-10-19 17:32:23 | 映画

キャリー・ジョージ・フクナガ監督「007ノー・タイム・トゥ・ダイ」(★)(2021年10月19日、中州大洋スクリーン1)

監督 キャリー・ジョージ・フクナガ 出演 ダニエル・クレイグ

 しばらく映画を見ていなかったからなのか、映画の見方を完全に忘れてしまったのかもしれないが、ぜんぜんおもしろくなかった。と、書いたら、感想がもうおしまい。
 何がおもしろくないのかなあ。イントロダクションにボンドが出てこないのが、まず、まずい。「インディー・ジョーンズ」を引き合いに出すのがテキトウかどうかわからないけれど、イントロダクションにはやっぱり主人公が出てこないと、スピード感がない。これじゃあ、長くなるだけだぞ、と思っていたら、ほんとうに長い。いつまでたっても終わらない。
 で、そのイントロダクションなのだが、なんとまあ、ボンドの「恋人」の過去の紹介。まあ、悪役組織が関係してはいるのだが、それならそうで組織に焦点を当てて描けばいいのだが、本編にはいると、なんとか生き延びた少女が大人になってボンドの恋人。イントロダクションが「二股」。おいおい。それにさらに尾ひれがついて、実は恋人は妊娠していて、ボンドは青い目の娘と出会い、過去を知る。あーあ、これじゃあ、スパイものでもアクション映画でもなくなるね。「過去」にひきずられる恋愛がテーマ。「過去」にひきずられるは、それだけではなく悪役の方も同じ。彼にも忘れられない「過去」がある。まるで「過去の悲しみ」のみせっこ。私の方がつらい人生を生きてきた。だから、生きる権利がある。そういう言い合い。
 なんとか「人間味」を出そうとしているのだろうけれど、アクション映画に人情悲劇や恋愛、そのあとの家族愛なんと関係してきたら、もうごちゃごちゃ。終わりようがない。ご都合主義そのままに、恋人と娘はミサイル攻撃(爆発)があっても安全な場所まで「ゴムボート」で避難している。その海岸で、恋人は娘を遊ばせながら、ボンドが死を覚悟していることを無線(?)で「愛してる」と最後の別れを告げる。どっちらけで、見ている私の方が死んでしまいそう。
 なんというか……。ディズニーの「家族向け映画」みたいだなあ。
 映画は果てしなく「ディズニー化」していくのかもしれない。主役は男から女へ。白人から有色人へ。007の後任も、アフリカ系の女性だったしなあ。いまさら007をアフリカ系の女性にしても、もう遅い。どこにも新しさはない。ただ、白人至上主義、マッチョ主義ではない、とむりやり自己弁護しているだけ。
 そあおりで(?)、私の大好きな俳優、クリストフ・ワルツなんか、出番がほんのちょっと。もう少し演技させて、悪人だけれど人懐っこいという矛盾した魅力をみせてほしかったなあ。体を拘束されていて、動かせるのは顔だけなんだから、もっと演じさせないとつかった意味がない。

 

 

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ヤスミラ・ジュバニッチ監督「アイダよ、何処へ?」(★★★★★)

2021-09-26 15:30:02 | 映画

ヤスミラ・ジュバニッチ監督「アイダよ、何処へ?」(★★★★★)(2021年9月2 6 日、KBCシネマスクリーン2)

監督 ヤスミラ・ジュバニッチ 出演 ヤスナ・ジュリチッチ

  映画が始まってすぐ、ファーストシーンで、私は、あれっと思う。室内。ソファに座っている男を映し出す。映像に奥行きがない。人物に立体感がない。精密な絵画か写真のよう。えっ、こんな映像をずーっと見せられるのか、といやな感じになる。作為的すぎる。映像を加工しすぎじゃないのか。
 ちょっとがっかりしながら、自動販売機で買っておいた缶コーヒーの一口呑む。
  映画は、画面が変わって、まず木と太陽が映し出され、戦車の一部が映し出される。一部で「全体」を暗示し、そこから「世界」を描き始める。これも、まあ、平凡な手法だなあ。そんなことも思う。
 ところが。
 主人公のアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)が出てきてからが、引きつけられる。アイダは国連の平和維持軍の通訳をしている。通訳というのはなかなかやっかいな仕事である。自分の思っていることとは関係なく、ひとのことばを正確に別な人に伝える。時間が一瞬止まり、世界がことばのなかで繰り返され、ことばが通じた後やっと動き出す。この「間合い」がなんとも言えず「濃厚」なのである。その「濃厚」さのなかに引き込まれる。なぜ「間合い」が「濃厚」になるかといえば、アイダは一方でセルビア人に侵攻される住民(犠牲者)であり、他方で住民を守る平和維持軍の職員だからだ。つまり、守られる人間でありながら、守る人間なのである。もし彼女がどちらか一方だったら、彼女の行動は違ってくる。彼女にも主張があるはずなのに、通訳をするときは、それは封印されている。この封印感が間合いを濃密にする。
 この奇妙な「濃厚な間合い」は実際に「濃厚な関係/複雑な関係」を生み出す。アイダは国連軍の中にいて「安全」である。しかし、夫やこどもは国連軍の基地の外にいる。避難してくるが、中に入れない。避難させたい。しかし、国連軍はアイダの家族だけを特別待遇するわけにはいかない。混乱が大きくなるだけだ。アイダはまず夫を侵攻してきたセルビア人との交渉役に仕立てる。セルビア人と交渉する民間人の代表に仕立てる。そのあと強引に二人の息子も基地の中に引き入れる。基地の外にはまだ2万5000人も住民が避難場所を求めて待っている。
 アイダのやっていることは、だんだん「通訳」の仕事から、家族を守ることへと重心を移していく。しかし、これがなかなかうまくいかない。国連軍はアイダの家族を守るためにだけ存在するわけではなく、スレブレニツァの住民を守るために存在するのだから。ひとりの願いだけを聞いているわけにはいかないのだ。でも、アイダにとっては、まず家族なのだ。他の人が目に入らなくなる。「通訳」の仕事の枠をはみ出し、自分自身のことばを「英語」で、つまり自分の母国語以外で言うことになる。これが「敵」との交渉ならば、その「敵のことば」を話すということは意味があるが、「味方」と話すのに自分以外のことばをつかわなければならない。「敵」とは「母国語」で話し、「味方」とは「外国語」で話す。「外国人」にはアイダは「外国人のひとり」にすぎない。しかも、その国連軍が向き合っている「敵」はアイダの話すことばを話しているのである。ここで、とても奇妙なことが起きるのだ。国連軍が最後まで守るのは、結局「国連軍が話すことば(英語)」を話す人間だけであり、国連軍に協力する人間だけであり、それ以外の人間は「区別しない」のである。いちおうスレブレニツァの住民を守る姿勢は見せるが、具体的には、何もしない。放置する。
 結局、「英語」を話すために、アイダは家族から引き離されてしまう。そして家族は、夫、ふたりの息子が全員男であるために虐殺されてしまう。
 で。
 途中は省略するが、映画の終わりの方で、私はもう一度、あっと声を上げる。ファーストシーンの奇妙な映像、あれは「写真」だったのだ、と確信する。
 アイダはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終わった後、自分の住んでいた家に向かう。そこには別な一家が住んでいた。家の中は改装されている。そこに住んでいる女が、アイダの家族の残したものを渡してくれる。それは写真だ。冒頭のスナップ写真はないが、きっとそのなかの一枚なのだ、と私は確信する。冒頭の奇妙な感じのシーンは、この写真を受け取るシーンの伏線なのだ。彼女には、もう写真しかない。記憶はもちろんあるが、記憶の証のようなものは写真しかない。家族は、その写真の中に生きている。この悲しみ、そして喜び(というと、変かもしれないが)。写真は、アイダにとっては過去といまとをつなぐ「通訳」のようなものである、とも思う。
 映画は、そのあともつづいていくのだが、「写真」の存在を、ことばをつかわずにただ映像の質の変化だけで表現したこの構成に私は心底こころを揺さぶられてしまった。(途中に、家族の交友関係がわかる写真を廃棄するシーンもあって、最初のシーンと写真の引き渡しのシーンを強く結びつけるのだけれど。)「スレブレニツァの虐殺」では、きっと、アイダの持っている写真さえも残されていない犠牲者がいるのだ。戦争は、人間の記憶さえも奪い去り、なかったことにしてしまう。そのことへの強い抗議が、この映画を貫いている。「一枚の残された写真」になろうとする映画である。個人に徹することで、歴史を忘れないという映画である。戦争は個人を破壊する野蛮な行為であると告発する映画である。
 私は、結局、缶コーヒーは最初の一口だけで、残りを飲むのを忘れてしまった。吸引力の非常に強い映画である。

 


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セバスティアン・ボレンステイン監督「明日に向かって笑え!」(★★★)

2021-09-23 16:31:27 | 映画

セバスティアン・ボレンステイン監督「明日に向かって笑え!」(★★★)(2021年9月21日、KBCシネマスクリーン2)

監督 セバスティアン・ボレンステイン 出演 リカルド・ダリン

 リカルド・ダリンは何本か見ている。「瞳の奥の秘密」が有名だ。シリアスな役者かと思っていたら、コメディーも演じる。スペイン語の練習もかねて、見に行った。「字幕」があるのでついつい字幕を見てしまう。それに、喜劇の方が、深刻な劇よりも「ことば」を理解するのがむずかしい、というようなことを考えながら、それでも笑ってしまう。
 何がおかしいかというと。
 出で来るアルゼンチン人が、みんな正直なのだ。銀行の頭取(?)と弁護士に、農協設立のために出し合った資金をだまし取られる。どうも、その金は、山の中の厳重な金庫に隠してあるらしいという情報を手に入れ、奪われた金を取り戻そうとする。「でも、全部はダメ。自分たちが奪われた分だけ」などと、真剣に相談する。まあ、他人のものまで取り出すと「盗み」になるからね。
 このあたりのやりとりは、私が真っ正直な人間ではないので、やっぱり笑ってしまう。そこまで正直にならなくていい、と。結局、奪い返した金の残りは慈善団体に寄付しよう、という結論にたどりつくのだが、これだって、なんというかアルゼンチン気質をあらわしているなあ、と思う。かたくなに信念を守る、というところがある。
 見どころは、どうやって警報装置のついた厳重な金庫を破るか。二面作戦が楽しい。ひとつは、物理的に金庫を破るためには警報装置が働かないようにしないといけない。簡単に言えば、停電。この簡単(?)なことも、奇妙に失敗してしまうところに味がある。根っからの悪人ではないので、上手くできないのだ。もうひとつが心理作戦。金庫のことが気になってしようがない弁護士を、警報装置を誤作動させることで、ふりまわす。警報装置から携帯電話にメッセージが流れてくるたびに、弁護士は山の中まで車をぶっとばす。何度も何度も。そんなことしなくたって、停電で警報装置を止めてしまうだけでいいじゃないか、というのではちょっと味気ない。単なる金庫破りになる。そうではなくて、金を奪った人間を精神的に追い詰める、という復讐がおもしろいのだ。これは「怒ってるんだぞ」と相手に分からせることだね。相手が、それに気づくかどうかは別問題。自分たちが憂さ晴らし(?)ができればいい。
 これは、最後の最後。悪徳弁護士が、正直者集団の車修理屋へやってくる。彼にオーナーがマテ茶を出す、というシーンに、さらっと描かれている。「何も知らないばかな弁護士」と、ちらっと思う。この「ちらっと」という感じがいいんだなあ。

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濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(★)

2021-09-08 09:46:40 | 映画

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(★)(2021年9月6日、中洲大洋、スクリーン2)

監督 濱口竜介 出演 西島秀俊、三浦透子

 毎年カンヌ映画祭に行っているアメリカ人が「とてもおもしろかった」と激賞したので見に行ったのだが。
 私は村上春樹の小説が大嫌いなので、やっぱり、この映画はダメ。
 ぞっとした。
 何がぞっとしたかというと、冒頭の、女が夢か何か、物語を語る声にぞっとした。あえて感情を殺したような、たんたんとした口調。聞いた途端に、あ、この映画は「声」を描いているのか、と直感してしまう。その直感に、ぞっとしたのである。
 村上春樹の小説にぞっとしてしまうのは、それが「予想通り」だからである。「予想」を裏切るようには進まない。何か、全然知らないものが突然あらわれて物語を変えていくという瞬間、作者(村上)がそれにつられて変わってしまうという瞬間がない。
 いちばん「あざとい」と感じたのは、映画の中に出てくる「ワーニャ伯父さん」。これを役者が多国語で演じる。そのリハーサルの過程で「ことば/声」の問題が語られる。つまり、説明される。感情を込めずに、ただ、正確に。その訓練をしたあと、「正確なことば」が「演技」のなかで「感情の共有」を生む瞬間がある。それを「劇場」に来ている観客にも共有させる。それが芝居だ。その通りだと思うが……。だからこそ、芝居は「一声、二顔、三姿」というのだとも思うが。これを、そのままことばで説明してしまってはねえ。「手話」をもってきて、それを強調するのはねえ。
 私は、「ワーニャ伯父さん」でやっていことをこそ映画でやればよかったのだと思った。つまり、映画を多国語で演じる。逆に「ワーニャ伯父さん」を日本語だけで演じる。そうすると声の問題がもっと切実につたわる。声の中にはわかるものとわからないものがある。それを手さぐりで、あるいは体当たりでというべきか、探りながら自分を開いていく。わからないものにであったとき、人間は、たいてい自分に閉じこもる。西島秀俊は妻の浮気を目撃して(これも声がきっかけ)、自分に閉じこもる。妻が急死したあとも自分に閉じこもる。そこから、どうやってこころを開いていくか。何が西島のこころを開かせるか。それが「ことばの意味」ではなく、「ことばを語る声」である、というのなら、この部分こそ「声」を頼りにするしかない「多国語(何を言っている、意味がかわからない)ことばで映画にして見せなければ、映画にする意味がない。
 映画の中で起きていることを「ワーニャ伯父さん」の「日本語」が手がかりになって、観客の中で広がる。そういうふうにしないと。
 まるで、とてもよくできた村上春樹の「解説本」を読んでいるような映画だった。
 役者たちも、やっていることを完全に理解してやっている。この映画は「声」がテーマだとわかってやっている。それがまた、気持ち悪い。えっ、この役者、こんな人間だったのか、と映画を忘れて引きつけられる瞬間がない。こういう「完璧さ」というのは、私は大嫌い。

 


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内山雄人監督「パンケーキを毒見する」(★)

2021-08-03 17:06:01 | 映画

内山雄人監督「パンケーキを毒見する」(★)(2021年08月03日、KBCシネマ2)

監督 内山雄人 

 菅の、「何もしゃべれない(自分のことば=思想を持たない)」愚かさを浮き彫りにしているが、その恐ろしさにまで迫っているとは言えない。それが物足りない。
 「出会い系バー(?)」に出入りしているということから、スキャンダルをでっちあげられた前川がなんとなく暗示しているが、菅は内閣調査室をつかって多くの人の「暗部」を握っているのだろう。そして「公表されたくなかったら俺の言うことを聞け」という形で他人を支配している。前川は、出会い系バーの問題では何も後ろめたいことをしていないので平然としていたが、ほかの人は平然とはしていられない「秘密」を持っているのかもしれない。それは自民党議員も野党議員も、官僚も、それから一般の企業経営者も同じかもしれない。そう考えないことには、あんなに何もしゃべれない人間がトップでいられるはずがない。
 共産党の小池に追及されたとき、加藤が「代弁」し、菅に質問した、菅が答えろと言われて、「加藤が言った通りです」という国会答弁があったが、それが象徴的だ。管は、小池の質問も加藤の聞いていない。理解していない。加藤の答弁を理解しているなら、「加藤の言った通りです」と言わずに、しれーっとして、それをそのまま言いなおせばいい。それができない。それすらできない。自分の問題として理解していないからだ。小学生だって、だれかの「言い訳」がうまいと思ったら、それを即座にコピーできる。あ、こう言えばいいんだと理解し、狡賢くふるまう。それができないのは、何が原因で菅が追及されているか、それすら理解していないということだろう。理解しているのは、追及されている。追及をかわさないといけない、ということだけなのだ。
 何の答弁だったか忘れたが、官僚が急ごしらえで書いた「答弁」をそのまま読むシーンも再現されていた。急ごしらえなので「ふつう体(である体)」で書かれている。少し頭を働かせれば、「である」を「です、ます」に変えることくらいできるのに、それすらできない。
 口からでまかせの安倍の嘘がいいというわけではないが、その口からでまかせで乗り切るということが菅にはできない。嘘のためのことばも持っていない、ということだ。
 ここからわかるのは、やはり「脅し」だけである。「おまえには知られたくないことがあるんじゃないのか。私はそれを知っている。ばらしてもいいか」。ばらされたって、それで命がなくなるわけではないだろうが、みんな見栄っ張りなので、おとなしくしている。それだけではなく、菅を持ち上げている、ということか。菅を尊敬しているのではなく、ただ菅を恐れている。
 この映画は、菅の「出世(?)」を「博打」にたとえていたが、「博打」に菅は次々に失敗している。それなのに失脚せずに、逆に出世している。ここにも、ほんとうは注目しなければならない「何か」がある。ふつう、一般庶民は博打にまでは手を出せないが、パチンコや競馬、仲間内のマージャンなどで「負け」が込むとにっちもさっちもいかなくなる。借金に手を出し泥沼にはまる、ということも起きる。菅がそうならないのはなぜなのか。「博打」といえば「やくざ」である。そういう「うさんくさい」何かを監督はつかみ、暗示しようとしているのかもしれないが、よくわからない。博打で負けても、負けをチャラにするだけの、相手の「弱み(秘密)」をちらつかせて、負けても負けても、勝負(賭け)ができるのかもしれない。
 女博徒がさいころを振るシーンをばかばかしい演出と思ってみていたが、それはばかばかしい演出を超えた「暗示」なのかもしれない。前川を脅し、口封じをしようとした行為に通じるものが、その演出に隠されているかもしれない。もし、そうであるなら、この演出はおもしろいが、実際のところはよくわからない。
 映画の最後に、若者が出てきて、政治と若者について語ったが、菅に対して、あるいは日本の政治に対して「恐怖」を感じていないのが、なんとも不気味だった。恐怖を感じていないから、怒りも感じていない。つまり批判にならない。政治を語ることさえ、なんというか「保身」のための行動に見えてしまった。
 「新聞記者」と同様、どこまでも追及してやる、という気概が伝わって来ない映画なので、私は、見て損をした、と思った。管に接近はしているが、素顔に迫るにいたっていないし、素顔を暴くとは、到底言えない。日本の映画の限界なのかもしれない。
 映画館は、私を含め、高齢者でいっぱいだったが……。

 


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エリザ・ヒットマン監督「17歳の瞳に映る世界」

2021-07-18 17:02:47 | 映画

エリザ・ヒットマン監督「17歳の瞳に映る世界」(★★★★★)(2021年07月17日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 エリザ・ヒットマン 出演 シドニー・フラニガン、タリア・ライダー

 「17歳の瞳に映る世界」とは、何とも奇妙なタイトルである。まるで見ることを拒んでいる。特に私のような高齢の男が、わざわざ17歳の少女に世界がふうに見えるかということは、頭では関心があっても、肉体として関心がない。そんなもの見ても何も感じないだろうなあ、と思ってしまう。しかし、「予告編」の映像が不思議に気になって仕方がなかった。あ、この映像は珍しい、見たことがないという印象があるわけではないのだが、気にかかるのである。
 主人公は、当たり前だが17歳。妊娠している。これも、まあ、あり得ることである。母親も父親も気づかない。友人が気づく。少女はだれに相談するでもなく堕胎を決意する。少女が住むペンシルベニアでは両親の同意が必要。少女は両親には知られたくないので、ニューヨークへ行って堕胎しようとする。その旅行(?)に、やはり17歳(?)のいとこがつきあう。
 このときの車窓の風景が奇妙。なんのおもしろみもない。「近景」があるだけなのだ。ロードムービーの感じがしない。それもそのはずである。ペンシルバニアとニューヨークは遠くない。同じバスに乗る青年が何も持たずに乗る距離である。少女たちは重いバッグを持っているが(このバッグのせいで、長い旅を思ってしまうが)、本来なら必要ない。「近い」からこそ、ニューヨークで堕胎しようと思ったのである。途中でバスを乗り換えるシーンがあるが、連れの少女が「なぜ、乗り換え?」と聞くくらいの近さなのである。手術しても、せいぜい一泊、ことによれば日帰りができると思っていたのである。
 で、ニューヨークなのだが。
 「近い」けれど、やっぱり「遠い」。人の密度がペンシルベニアとはまったく違う。密度が違うと、人に対する「関心度」がまったく違う。簡単に言えば、少女に対して「ビッチ」などとはだれひとり言わない。この映画では、たまたまバスに乗り合わせた青年が主人公ではなく、いとこの方に関心を持って近づいてくるが、ほかにはだれも近づいてこない。自分から近づいていかないと、「親密」が生まれない世界である。「自分を知っているものは誰一人いない」。この冷たい感じが、街の映像そのものとなって動いている。もともと堕胎が目的だから、少女たちも「観光客」のように視線を動かさない。少女たちも街に近づくわけではないのだが。
 この不思議な映像には、私は、かなり困惑した。予告編で感じたのは、この印象である。この「疎外感」いっぱいの街を、「堕胎」をしてくれる医院(施設?)を探して歩く。つまり「近づく」ということを少女が必要に迫られて行動する。ここからが、すごい。映画がまったく別の生き物のように動き始める。
 たどりついた施設は、「近づいてくる」少女を施設は拒まない。言いなおすと、「堕胎はよくない」というような説教をしない。そういう領域へは「近づいていかない」。近づいてきた部分だけを受け入れ、そこで何ができるかを探し出す。最初の施設は妊娠期間が18週間なので、ここではできない、と別の施設を紹介する。
 次の施設では、手術前の処置に一日、手術に一日と二日かかると言われる。そして、その、「決意」を再確認するとき、少女に、突然「近づいてくる」ものがある。担当の相談員が、少女に質問をする。初体験はいつだったか。いままで何人とセックスしたか。どんなセックスをしたか。避妊をこころがけていたか。少女は、四択の答えのなかのひとつを選んで応えていくわけだが、だんだん答えられなくなる。セックスを強要されたことはあるか。暴力を振るわれたことはあるか。そういうとき、拒否したことはあるか。「Never Rarely Sometimes Always 」(一度もない、めったにない、時々、いつも)。答えられないのは、「一度もない」と断言できないからである。つまり、彼女の妊娠は、望んでいたものではない、ことを思い出してしまうのだ。もちろん、だからこそ堕胎にやってきたのだが、その堕胎の直前で、自分は自分のためにだけセックスをしてきたのではないという事実を再確認するのである。セックスをさせられたことがある、それを受け入れたことがあるという事実を再確認するのである。質問に答えようとして、答えられないことを知る。少女は、突然、自分自身に「近づいていく」ことを強いられる。それは「近づきたくない自分」である。
 このシーンには、釘付けになってしまう。少女が答えられなくなってからのシーンは、たぶん二、三分だと思うが、まるで何時間にも思える。
 そして、あ、これだったんだ、とおも思う。「近づきたくない自分に近づく旅」。近づきたくない自分を目の前に抱えながら、ニューヨークを歩く。そのとき、世界はたしかにこんなふうに見えるのかもしれない。冷たい無関心。それはニューヨークの人々の視線が生み出すのではなく、少女自身の「近づきたくないものがある」ことが生み出している部分の方が大きいのだ。
 手術を終えて、少女は帰っていく。その途中、トンネルのなかか何かで、スクリーンが暗くなって、終わる。少女は、いままで生活してきた「家」へ近づいていくしかないのである。そこで見出す自分はどんなものなのか。近づいてみないとわからない。

 これは、大変な傑作である。この作品に比べると、先週★5個をつけた「ライトハウス」は、まあ、映画でなくてもいい作品、いわば「文芸」である。見る順序が逆だったら、「ライトハウス」は★2個かもしれない。タイトルに騙されずに、見てください。なお、原題は、クライマックスシーンで繰り返される「Never Rarely Sometimes Always 」。
 

 


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ロバート・エガース監督「ライトハウス」(★★★★★)

2021-07-10 18:52:36 | 映画

ロバート・エガース監督「ライトハウス」(★★★★★)(2021年07月09日、キノシネマ天神、スクリーン3)

監督 ロバート・エガース 出演 ウィレム・デフォー、ロバート・パティンソン、鴎、汽笛、螺旋階段。

 モノクロの真四角なスクリーン。そしてそのスクリーンには「余分」なのものが何もない。余分なものがない、というのはこんなに美しいものなのか、と改めて思う。
 その余分なものがない中で、ウィレム・デフォーとロバート・パティンソンの、二人だけのドラマがはじまる。北海の孤島。灯台が舞台。余分なものはないと書いたが、余分なものはある。通りすぎていく霧笛の音、そして鴎。ふたりの男以外には、それだけ。そして、その余分が二人を刺戟する。たぶん鴎も霧笛も自由だからだ。どこへでも行くことができる。けれど灯台守の二人は、交代の人間が来るまで、どこにも行くことができない。
 しかし、そういうときでも、人間のこころはどこかへ行ってしまうのだ。どこかへ行きたがる。こころが「肉体」のなかからはみだし始める。これがモノクロに、不思議な色をつける。
 まず、他人が気になる。孤島に四週間、二人だけで生活しなければならないので、どうしても相手が気になる。こういうとき、ふつうは互いに自己紹介をする。名前を名乗る。ところが、二人は名前を呼ばない。二人しかいないから、「おまえ」で通じるから、名前は必要ない。実際、映画を見ていて、名前を呼ばないことを、最初は不自然に感じない。二人は、ここに来る前に当然名乗りあっていると思って映画を見ている。
 しかし、若いロバート・パティンソンがまず耐えられなくなる。「名前で呼べ」と反抗する。ウィレム・デフォーは名前で呼び始めるが、彼自身が名を明かすのはずっとあとだ。名前を名乗ったときから、ロバート・パティンソンの「過去」が語られ始める。名前とは「過去」というか、アイデンティティーなのだ。私は、久々に、アイデンティティーということばを、この映画を見て思い出した。アイデンティティーとは、単なる過去ではなく、「相手が知らない過去=過去の秘密」ということである。「過去の秘密」がロバート・パティンソンに、孤高の灯台守という仕事を選ばさせたのだ。
 ウィレム・デフォーは、そのことにうすうす感ずいている。「過去の秘密」がない人間が、孤島の灯台守の仕事なんかをするはずがない。「若いくせになにか隠している」と直感的に思う。そして、それは同時にウィレム・デフォーにも「過去の秘密」があるということを暗示する。
 ここから「世界」が狂い始めていく、というのがなんともおそろしい。ふつうは名乗ることから安定した関係(世界)がはじまるのだが、この映画では逆なのだ。名乗ることで、その名前の背後にはあった「過去」が「現在」へと噴き出してくる。しかも、こういうときは、どうしても「過去を隠したい」という気持ちもあるから、それは「ほんとうの過去」ではないことになる。嘘を語る。
 そして、嘘を語ってみてわかることがある。ウィレム・デフォーはしきりに「白鯨」(だと思う)のことばを「引用」する。他人のことばを引用する。自分のことばでなにかを語るのではなく、他人のことばで語るのは、それが嘘だからだ。
 こうやって互いの「秘密」の暴き合いがはじまる。このときも自分の嘘に耐えられなくなるのは若いロバート・パティンソンである。自分が名乗った名前は嘘だった。それは前の仕事をしていたとき(木こり、筏で丸太を運搬する)、仲間を事故で死なせてしまった。もともと折り合いが悪くて、なんとかしたいと思っていた。
 そして、その気持ちは、いまの相手、ウィレム・デフォーに向かって爆発する。嘘ばかりしゃべって、ほんとうに大切なこと(灯台守の仕事)を教えてくれない。こき使われているだけだ。しかも、相手はなにかいかがわしい秘密を持っている。(と、ロバート・パティンソンは思う。)
 こんなふうにストーリーを追っていくと、まるで映画というよりも舞台劇のようでもある。実際、ことばが重要な働きをしている。嘘はことばだからね。しかし、ウィレム・デフォーのセリフが「暗記(他人のことば)」であることが最初からわかっているので、これが逆に「芝居」を感じさせない。芝居しかできない人間のうさんくささがスクリーンからあふれてくる。
 モノクロという色を剥いだ映像が効果的なのだ。観客は、自分の記憶している色(肉体が覚えている色)でスクリーンを見つめる。自分自身の「過去」が噴出してきて、二人の葛藤とまざりあう。二人が憎しみ合いながら、それでも酒に酔って気晴らしに夢中になる気持ち悪さは、出色である。ほかの幻想のシーンよりも、二人のダンスのシーンの方が悪夢のように幻想的である。
 悪夢的幻想といえば、重たい霧笛、暴力的な鴎、荒れる波、断崖の岩、さらに灯台内部の螺旋階段がとても美しい。螺旋階段は霧笛と鴎がさんざん登場し、風景になってしまったあと、さっと出てきてさっと消える。螺旋階段が「主役」、霧笛と鴎が「準主役」、ウィレム・デフォーとロバート・パティンソンは「脇役」かもしれないなあ、とも思う。登場回数とは逆だけれど。二人が死んでも、霧笛も鴎も螺旋階段も生き残る。そこに、非情の美しさがある。

 

 

 

 

 


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ハリー・マックイーン監督「スーパーノヴァ」

2021-07-02 18:39:18 | 映画

ハリー・マックイーン監督「スーパーノヴァ」(★)(2021年07月01日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 ハリー・マックイーン 出演 コリン・ファース、スタンリー・トゥッチ

 いま映画界は「認知症ブーム」である。現実の問題が大きくなってきて、それが映画に反映しているということだろう。この映画では、認知症そのものの問題は、途中で二回、スタンリー・トゥッチが愛犬とともに徘徊してしまうシーンと、パーティーで読むべきスピーチ原稿が読めなくなるシーンでのみ描かれる。「ファーザー」に比べると、とてもおとなしい。スピーチ原稿が読めなくなり、コリン・ファースが代読するシーンは、感動を盛り上げる「演出」のようで、あざとい感じがする。
 男性同士のパートナーというところが、この映画の新しさなのだが、周囲が寛容すぎて現実の問題が見えてこないのは、かなり物足りない。兄弟や友人たちが、二人をあたたかく見守りすぎる。唯一の問題は、コリン・ファースには、以前、スタンリー・トゥッチではない男の恋人がいた、というくらいだが、その彼もパーティーにやってきていて、「和気あいあい」とまではいかないが、落ち着いて交流している。
 唯一の問題は、スタンリー・トゥッチが症状が進む前に自殺したいと願っていること。そのことに対してコリン・ファースはどう向き合えばいいのか、ということ。これは当人にとっては大変な問題だと思うのだが、なんというか、映画になっていない。映画として成立する作品になっていない。
 コリン・ファースもスタンリー・トゥッチも一生懸命演技しているのかもしれないが、すべてが「ことば」で語られてしまうため、映画ではなく芝居を見ている感じ。さすがイギリス、なんでも「ことば」で説明してしまわないと気がすまないんだなあ、感心するか、あるいは、これではラジオドラマを聞いているみたいだなあとがっかりするか。私は感心しながら、がっかりした。
 わたしはやっぱり映画は、目で感じ取りたい。苦悩をことばではなく、表情、肉体の動きで、スクリーンで見たい。スクリーンから目が離せない、という興奮を味わいたい。
 先に書いたスピーチ代読など、その典型。なんだ、これは、と怒りだしたくなる。文字が読めなくなる、あるいは簡単な単語なのに別の単語とし読んでしまう、というようなことが克明に描かれない。アイリス・マードックだったか、認知症になったとき「GOD」を「DOG」と読み、夫か「検査をやめてくれ」と叫ぶ映画があったが、そういう「リアリティー」があればいいのだが、そういうものがまったくない。ジュディ・デンチが、「私、何か読み違えた?」というような顔をして夫をみつめるシーンなんか、映画の醍醐味の頂点。本人はわからない。けれど、周囲はみんなわかる。その「断絶」がすごい。「問題」が深刻化する前に、「認知症」が引き起こす本人と他者の断絶が明るみに出る前に、コリン・ファースが代読を申し出るなどというのは、あまりに味気ない。
 「スーパーノヴァ」というタイトルが示しているように、遠いところで起きた破滅を美しく眺めている感じ。これではねえ……。
 でも、前の列にいた高齢者の三人組、夫婦と妹(女友だち?)の、真ん中に座っていた女性は「いい映画だったわ。涙が止まらない」と実際にハンカチで涙を拭きながら席を立って行ったから、感動するひとは感動するのかもしれない。私は、まさかそんな感想を聴くとは想像もしていなかったので、とてもびっくりした。

 

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セルジュ・ゲンズブール監督「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」

2021-06-29 09:58:28 | 映画

セルジュ・ゲンズブール監督「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」(★★★★)(2021年06月28日、KBCシネマ2)

監督 セルジュ・ゲンズブール 出演 ジェーン・バーキン、ジョー・ダレッサンドロ、ジェラール・ドパルデュー

 フランス人の肉体感覚(肉体のとらえ方)というのは、私には、独特なものに見える。なんとういか……修正なし、なのだ。
 ジェーン・バーキンの小さな胸(あまりにも小さい乳房)が象徴的だが、それをそのままさらけだす。その小さな胸は、それだけを取り出すと魅力的ではない。だが、体全体がそこにあるとき、それは別な働きをする。体のラインをすっきりと、透明感のある美しいものにかえる。欠点(?)を気にしていない。
 逆の肉体もある。ジェーン・バーキンの雇い主である店長の男は、太っていて、しきりにおならをする。それはそれで、ひとつの体なのである。汚く、醜い。ひとの体というものは、そういうものなのだ。批判はするが、その肉体をどうかしろ、とはだれも言わない。肉体とはそういうものだと受け入れている。
 象徴的なのが、店で開かれるダンスパーティーのクライマックス、素人ストリップである。美人でもなければ、若くもない。そういう女が舞台でストリップをしてみせる。官能をそそる動きをするわけでもない。「芸」なしで、ただストリップをする。
 しかし、見ている観客(男も女も)は、そのストリップを見ながらいろいろなことを考える。セックスの妄想もあるだろうが、なんというばかなことをしているのだろう、というようなさめた意識も漂っている。ストリップに対してあからさまな反応はしない。それぞれの場で、眼を動かす、手を動かす、あるいは表情をかえない。
 それぞれの肉体が、ただ「共存」する。
 この、ただ「共存する」(一緒にある)というところから、一歩踏み出すと「恋愛」になる。セックスになる。セックスは、ただ単に肉体の接触ではなく、官能を共有して、はじめて恋愛にかわる。修正なしの肉体が、修正なしのまま、手さぐりで「到達点」をまさぐり、到達した瞬間に、いままで存在しなかった恋愛が生まれてくる。ほかのだれにも手出しできない恋愛が。
 ジェーン・バーキンとジョー・ダレッサンドロが安いあいまい宿を追い出され、豪華なホテルも追い出され、荒野で、トラックの荷台で、だれもいないところで、ふたりだけでセックスし、エクスタシーを共有する。だれものでもない肉体が「相手」のものになる。「相手」をみつけることで、区別がなくなる。
 たぶん、恋愛があって、セックスがあるというのではない。フランス人にとってとは。セックスがあって、一緒にエクスタシーに達して、そのとき「恋愛」になる。「肉体」が恋愛の対象として生まれ変わる。
 この映画は、そういう過程を描いている。
 ちょっと変わった肉体(自分の知らない肉体)に出会う。どうすればいいんだろう。わからないけれど、セックスしてみるしかない。苦痛が生まれるのか、快楽が生まれるのか。それは、個々の肉体の問題である。当事者の問題である。他人が口を挟むことはできない。乳房が小さい。それがどうした? 相手はゲイであり、膣に挿入できない。それがどうした? フランス人は、肉体的欠点を持っていることをおそれない。むしろ、欠点があるからこそ、そこに生きている何かを感じるのかもしれない。
 余分なことを書きすぎたかもしれない。この映画は、そういうストーリーとは別に、奇妙な魅力を持っている。ジョー・ダレッサンドロはゴミの運搬をしているのだが、そのトラックのとらえ方(映像)、走る荒野のとらえ方が、孤独感をあおる。何もかもが汚い、というのが不思議に美しい。それも強調の美ではなく、あるがままの美。そこに存在するから、それでいいのだ、という感じの美。豚のように太った犬や、ゴミのなかから拾いだしたぬいぐるみ、得体のしれない肉の固まり。それはリアリティーという美しさである。修正しない美。と言いなおせば、最初に書いたジェーン・バーキンにつながる。
 この映画には、おまけがついている。おまけと感じるのは、私だけかもしれないが。のちに有名になるジェラール・ドパルデューがドラッグにおぼれているセックスアニマルとしてうす汚れた感じを体全体であらわしている。鞍なしの白い馬に乗って、我が道を行くという感じで紛れ込んでいる。
 変な映画だが、映画でしか到達できない「変な質感(肉体感覚)」を、観客の反応なんか知ったことか、という感じでスクリーンにぶっつけている。フランス人にしか撮れない、とてつもなくフランス的な映画だと思う。

 

 


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