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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トッド・フィールド監督「TAR ター」(★★★★)

2023-05-12 21:49:55 | 映画

トッド・フィールド監督「TAR ター」(★★★★)(中州大洋、スクリーン2)

監督トッド・フィールド 出演 ケイト・ブランシェット

 ケイト・ブランシェットを見たくて見に行ったのだが、いやあ、こわかった。昔から(?)、演じるというよりも、他人になってしまう役者だったが、今回も、完全に他人になってしまっている。(ほんもののケイト・ブランシェットを知っているわけではないのだが。)私はこういう「なりきり型」の役者は、役者ではない、と思っているのだが、別格だねえ。
 なんといっても階段で転んでからの「顔」がすごい。メーキャップなのだろうけれど、「醜い」を気にしていない。「ブルージャスミン」(ウディ・アレン監督)の最後でも思ったけれど、「醜い」をさらけだす。役者なのに。
 いや、そこだけじゃないんだけれどね。というか、その最後の「醜さ」を、それが当然という感じさせるように、演技が動いていくのがすごい。
 音楽のことはよくわかるが、人間のことは何もわかっていない。人を傷つけても、そのことによってこころが傷つかない。それを、とっても自然に(?)やってしまう。傷だらけの顔が「醜い」のではなく、彼女そのものが「醜い」。それを納得させてしまう。「容姿」とは関係がないのだ。
 パソコンが壊れた、と言って、秘書(恋人)のパソコンを借り、抹茶の準備をさせるあいだにメールを盗み見るということろなんか、すごい。なんというか、「確信」を持っている。メールが残っているはず、ということを「確かめる」というよりも、いざとなったら、メールが残っているじゃないかということを理由に秘書を問い詰めるために、メールを盗み読みするのだ。
 このシーンが象徴的だが、何かをするのは、つぎに何かをするためなのである。
 音楽というのは、私の考えでは、つぎに何かをする(次の展開を考える)というのではなく、「いま、その瞬間」を存在させるものだが、彼女にとっては違うのだ。「つぎ」のために「いま」がある。
 音楽を語るセリフでは、指揮者が「時間」を決めるのだ、時間を支配するのだというセリフがあるが、このときの「時間」は「いま」ではない。ターにとっては「時間」は「つぎ」のことなのだ。左手で(右手だったかな?)「はじまり」を決める、「はじまり」の瞬間を指示するというが、彼女にとって問題なのは、その「一瞬」ではなく、それが「つぎ」にどうなるか、なのである。
 だから。
 というべきなのか、どうなのか。
 ストーリーは「つぎ」から「つぎ」へと展開していく。けっして「いま」(その瞬間)を描かない。もし、「いま(その瞬間)」を描いているとしたら、それは、ある傷ついた顔だけなのである。女を追いかけて転んだのに、男に襲われたと嘘をつく。そこにだけ、彼女の「いま」がある。つまり、「つぎ」がない。はじめて、追いかけてきたものを「逃がす」ことになる。
 で、そんな人間に「音楽」が可能なのか。
 これは、まあ、矛盾だなあ。彼女は「音楽」を捨てられない。彼女が「音楽」を見つけたのか、「音楽」が彼女を見つけたのか。たぶん。「音楽」が彼女を見つけた。その見つけ方は、なんというか、残酷である。この残酷とケイト・ブランシェットがぶつかる。そのときの「衝撃音(ノイズ)」が「音楽」そのものになる。いままで聞いたことのない音になって突然あらわれる。だから、見終わったあと、残酷(ノイズ、雑音)というのは、なんと美しいものなのか、と思わずうなってしまうのである。
 ★5個にしようか、私はずいぶん迷った。私は「怖がり」なので、一個減らした。でも、いまは怖くてこう書いているが、怖さが消えたら★10個というかもしれないなあ。

 


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阪本順治監督「せかいのおきく」(★★)

2023-04-29 17:13:50 | 映画

阪本順治監督「せかいのおきく」(★★)(キノシネマ天神、スクリーン3)

監督 阪本順治 出演 黒木華、寛一郎、池松壮亮

 「せかいのおきく」を私は「世界の記憶」と思い込んでいた。舞台は江戸時代。街で糞尿を買って、農家に売る男と、武士の娘の恋と聞いて、てっきり「日本の貴重な歴史(記憶)=循環型の社会」が背景として描かれるのだと思っていた。
 そんなことを思うのも。
 私には、寛一郎、池松壮亮のようにそれを商売(生業)としていたわけではないが、糞尿を担いだ記憶があるからだ。山の畑まで運び、糞尿を撒くという仕事をしたことがあるからだ。私は病弱だったが、貧乏だったから、そういう仕事は日常だった。鍬で畑を耕したり、刈り取った稲を担いだり。
 小学生のころから、そういう仕事をしながら、寛一郎のように、「学問(字を覚え、読み書きがしたい)」のようなものに憧れていた。テレビで見た「海外特派員」にあこがれ、世界の広さを知りたいと願っていた。家が貧乏だったから、これは、ほんとうに夢の夢だったのだけれど、いま生きている世界とは違う世界を知りたい(糞尿を担いで畑仕事をする以外のことをしたい)と願っていた。
 だからというか。
 黒木華の演じる主人公の気持ちとは関係なく、映画を見ながら、いろいろ思うことがあった。
 私は、エルマノ・オルミ監督の「木靴の樹」も大好きだが、それは、主人公(ミネク)のおかれた状況に自分を重ねてしまうからだった。「学問」というのは、日常とは違う。そして、そこには何か、いままで知らない世界を知る手がかりがある。その未知へのあこがれと、その世界に近づくための困難さ。
 それは江戸時代という遠い歴史の問題ではなく、私が小学生のころは、まだそのままの世界だった。江戸時代は、いまから思う「昭和」よりも、「平成」よりも、もっと「地続き」だった。
 で、ね。
 糞尿を買って、それを売って生活するたくましさは、何といえばいいのか、私にはとても美しく見えた。水や風の動きも、とても気持ちがよかった。私は、こういう世界を知っているということが、不思議な喜びとして広がってくる。
 声を失った黒木華が、こどもたちにせがまれて、寺の寺子屋(?)で文字を教えることを決意するシーンなんかも、とっても好き。自分の「役割」を「学問」と結びつけて、それを大切にするという感じが、しずかにつたわってくる。こどものときにいだいた「あこがれ」がよみがえってくる。
 勉強をする、そうすると世界が変わってくる。このことが、私はとても好きなのだ。自分の世界を変えるために、もっと何かを知りたい。何かを考えたい。考えるためには「学問」が必要なのだ。
 ちょっと映画から離れた感想かもしれないけれど、そういうことが「世界の記憶」として、どこかに生きていると思う。
 そういうことを静かに実感させてくれる映画なのだけれど。
 うーん。
 糞尿を汲む杓が、何だか頑丈すぎる。金属でできているように見えてしまう。さらに、池松壮亮のセリフに「仕事をさぼって」というなものがある。私はよく知らないのだが、「サボタージュ」とか「サボ(木靴)」ということばから派生していると読んだ記憶が、かすかにある。外来語、である。それを江戸の末期とはいえ、糞尿を担いで生きている若者が知っているとは思えない。(偏見かもしれないが。)「青春している(だったかな?)」という言い回しにもびっくりした。「青春」ということば自体は中国の古典にあると思うが、それがはたして学問を知らない若者に浸透しているかどうか、それが疑問。
 「せかい(世界)」も同じだなあ。江戸時代は、ふつうは「世の中」、あるいは「しゃば」と言ったのではないだろうか。映画のタイトルを「世界の記憶」と勘違いしたのも、ひとのなまえと「せかい」が結びつくとは、江戸時代を背景にした社会では、私は想像できなかったせいもある。私自身の記憶をさかのぼってみても、「世界」ということばは、わりと新しい。小学5、6年生のころ「世界地図」というものを知って「世界」ということばが自分のものになった気がする。江戸時代、いったい何人が「世界」ということばを知っていたかなあ。
 美しい映画なのだけれど、「ことば」への疑問がぬぐいきれず(学問というのは、ことばの世界がと思うので)、かなり興ざめしてしまった。「江戸時代の循環型生活」というのも、「お飾りの背景」(知的装飾)に見えてしまう。これは、実際に糞尿を担いで野良仕事をした人間には、なんというか、「侮辱された」と感じるものに変わってしまうかもしれない。糞尿を担いだこともない人、何も知らない人が、そのことを知っているかのように描いて利用しているだけという感じてしまうかもしれない。
 ことばの問題がなければ、★4個の作品。

 

 

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ダーレン・アロノフスキー監督「ザ・ホエール」(★★)

2023-04-08 19:13:30 | 映画

ダーレン・アロノフスキー監督「ザ・ホエール」(★★)(キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 ダーレン・アロノフスキー 出演 ブレンダン・フレイザー

 舞台劇が原作。だから「室内」限定という設定は、それはそれでいいのだが、あまりにも「ことば」の説明が多すぎる。ふつうの映画なら映像で見せる部分をことばで見せてしまう。
 で、そのとき問題なのは。
 「舞台」は、「ことば」を聞く場所なので、ことばがどれだけ多くてもかまわないし、肉体で表現できないことを「ことば」で表現してもまったくかまわないのだが。
 映画はねえ。
 主演の男優のメーキャップが話題になっているが(アカデミー賞も撮ったが)、どうしても観客の意識は「映像」に向かう。映像に集中してしまうから、「ことば」への集中力が落ちる。
 特に、主人公が200キロを超すまでに太ってしまって、歩行器がなければ歩けない。遠くにあるものをつかむには特殊な棒がいるという醜い肉体がメインだとすると、どうしても観客の視線は肉体に引っ張られる。顔はどうやって太らせたのか。だれもことばなんか聞かない。わっ、すごい。こんな醜い体に、よくなってしまったものだなあと思うだけ。
 何度も書くが、だれもことばなんか聞かない。
 私は外国人に限らないが、名前を覚えるのが苦手だから、人の名前が何人か出てきても、覚えられない。主人公の恋人がどういう名前だったか、ピザの配達人はどういう名前だったか。主人公の恋人も、ピザの配達人も顔を見せないから(恋人の写真はちらりと出てくるが)、もう、その区別がつかない。(これが映像ではっきり写し出されれば、すぐ区別がつくのだが)。
 まあ、その「ことばへの集中力」を低下させないためなのか、「映像への集中力」を緩和させるための中わからないが、映像が暗くて不鮮明。別に雨が降っている必要はないのだが、外はいつも雨。(最後のクライマックスだけ、わざとらしく晴天なのだが、これがまた、なんともあざとい。)私は、こういう「仕掛け」が大嫌い。
 「ことばへの集中力」を要求するなら、スピルバーグ「リンカーン」のように、役者に「声」の演技をさせるべきなのだ。ダニエル・ルイ・ルイスは映画なのに、リンカーンを「声」の強さでも演じきっていた。何よりも「声」がリンカーンを演じていた。
 舞台劇なら、ちゃんと演じていたのに、あのセリフを聞き逃するとしたら、それは観客にも責任があると言いうるかもしれない。しかし映画では、あのセリフを聞き逃したから人間関係がわからないというようなことがあってはならない。映画は「ことば(声)」を聞くためにあるのではない。映画の出発が「無声映画」だったこと、映画の基本は映像であることを、映画の基本はメーキャップのリアルさにあると置き換えている。アメリカ映画のいちばん悪い面が、この映画に集中している。
 いちばん悪い面と書いたが。
 「悪い面」はブレンダン・フレイザーのアカデミー賞主演男優賞の受賞にもあらわれている。ブレンダン・フレイザーがどうしようもない演技をしているというのではないが、アカデミー賞は、しばしば有名なのに受賞していない人とか、苦労した人に賞を与えてしまう。有名人を実物そっくりに演じれば、賞を受賞できるというのも、そのひとつ。有名人への評価と、演技への評価をごっちゃにしている。有名人に感動したのか、演じた人の演技に感動したのか、そのあたりが、とても微妙。映画で、わざわざ、有名な人物の評価をもう一度する必要はない。
 あ、こう書いてみると、何も書くことのない映画だということがよくわかる。

 で、最後に、ひとつだけ、よかった点をあげておく。ファーストシーン。オンライン授業のとき、主人公(大学の教師)の顔だけが映らない。カメラが故障している、という設定。顔が見えないから、学生は、ただ「声」に集中して聞いている。さらに、教師からは見られているから、ずぼらな聞き方はできない。
 ね。
 ここに、この映画の「理想の見方」が暗示されている。
 この映画は、主人公の姿を見てはいけない。想像するのはいいが、実際には見てはいけない映画なのだ。映画につかわれている「白鯨」という小説でも、白鯨が実際に姿をあらわすのは、ずっーとあと。姿をあらわすまでは、白鯨に恨みを持つ船の乗組員は、それを知らない。「ことば」で知っているだけ。
 「ことば」だけ、聞きなさい。主人公の「姿」は、想像しなさい。そうすれば、この「作品」の良さがわかります。
 私は実際、この映画をだまされてみたようなもの。予告編で、太った醜い男の姿はたしかに「ちらり」と見た記憶はあるが、全体がわからなかった。だから、その醜い肉体に引きずり込まれることはなかった。で、ちょっとおもしろそう、と思ったのだ。ところが、映画では、この醜い肉体が出ずっぱり。
 これじゃあ、だめだよなあ。(また、悪口になったが。)
 そして、いい点と書いたファーストシーンでも、私は、かなりわくわくした。醜いからだ(メーキャップ)が売り物というけれど、もしかしたら、そんなに見せないのかも、と期待したのだ。そうなら、おもしろいかもしれない。ちょっと「エレファントマン」なんかも想像したのだ。
 でも、ほんとうに、そこまでだった。
 映画を見るなら、ぜひ、目をつぶってみてください。そうすれば、意外といい映画かも。(笑い)

 

 

 

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ガストン・ドゥプラット&マリアノ・コーン監督「コンペティション」(★★★★)

2023-03-21 13:31:45 | 映画

ガストン・ドゥプラット&マリアノ・コーン監督「コンペティション」(★★★★)(キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 ガストン・ドゥプラット&マリアノ・コーン 出演 ペネロペ・クルス、アントニオ・バンデラス、オスカル・マルティネス

 この映画が成功しているいちばんの理由は、リハーサルを超豪華な建物のなかでやっていることだ。映画の撮影ならともかく、リハーサルに、そんな場所をつかう必要がない。でも、これは映画をつくる、リハーサルをするという「映画」なのだから、豪華な舞台の方が見栄えがするし、いかにも「映画」という気持ち(現実ではないという気持ち)になる。
 というようなことを書いていると、これが映画なのか映画ではないのか、よくわからなくなる。
 これが、ミソだね。
 何もかもが嘘なのに、そこに「ほんとう」がある。人間の、かぎりないエゴイズム。登場人物が、みんなエゴイズムのかたまり。
 でも、それ、「ほんとう」? 演技として演じられているだけでは?
 ほら、また、わからなくなる。
 映画のなかでは「ほんとう」を演じながら、その「ほんとう」は嘘だったという部分があるし、こんな安直な「嘘」で結末をつけてどうするんだと思っていたら、ちゃんと別の「ほんとう」(安直な「ほんとう」)が用意されている。
 これでは、終わりがない。映画のなかでは、この「終わりがない」さえ、ちゃかされている。
 どこまで書いても繰り返しになるので、繰り返しにならない「もの」について書いておこう。
 ペネロペ・クルスの「腋毛」である。ペネロペ・クルスが処理していない腋毛を見せる。もちろん、それは映画のための「嘘」ではあるのだが、その腋毛はペネロペ・クルスの腋毛であることは事実なのだ。
 いいなおすと。
 この映画に出てくる役者の、その「肉体」そのものは「ほんもの」である。(もちろん、この役者の肉体は「ほんもの」ということも、アントニオ・バンデラスの二役という形で「ほんもの」を否定されるが、その否定はことばだけなので、まあ、役者の「肉体」の「ほんもの性」は揺るがないと考えていいだろう。
 これを言い直すと。
 観客は、映画(芝居でもいいが)を見るとき、何を見に行くのか。自分の日常とは違う「ストーリー」か。そんなものではない。ひたすら「役者の肉体」を見るだけなのである。ペネロペ・クルスの腋毛が欲望をそそる、とか、あ、そんなもの見たくない、とか。つまり、腋毛がない方が好き、とか。
 この「肉体」を見ているだけ、というのは、笑ってしまうことに、これも映画のなかでひとつのテーマとして描かれている。脇役の女優とキスするリハーサルがある。アントニオ・バンデラスとオスカル・マルティネスのキスがへたくそ、というのでペネロペ・クルスが演じて見せるのだが、それは演技? それとも本気? つまり、脇役の女優にその少女を選んだのは、役者としての才能にほれこんだから? それともキスしたかったから? それは、わからない。わからなくていいのである。アントニオ・バンデラスとオスカル・マルティネスは、わからないまま、それを見つづける。わからなくなって、つまり、困惑した出資者だけが、そのキスを見ることに耐えられず、その部屋を離れる。
 役者の「肉体」を見ることが嫌いなら、映画を見なくてもいい、でも「肉体」を見ることが好きなら、「スケベごころ[があるなら、見に来て、ということだ。
 で、その「肉体」にも、いろいろ種類(?)がある。ペネロペ・クルスもアントニオ・バンデラスも、簡単にいうと「色」を売っているが、オスカル・マルティネスはさすがに「色」を売る年齢でもない殻かもしれないが、「声」を売っている。「声」がとても聞きやすい。それが「舞台俳優」という役柄にぴったりでおもしろかった。さらに、その「声」がスペイン人とはちょっと違うかも、と思ったら、アルゼンチン人だった。知らず知らずに、そんな「肉体」の違いを見ていたことになる。


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サム・メンデス監督「エンパイア・オブ・ライト」(★★★★)

2023-03-04 21:02:33 | 映画

監督 サム・メンデス 出演 オリビア・コールマン、マイケル・ウォード、コリン・ファース

 スピルバーグの映画がどうも気に入らなくて……。予告編で見た「エンパイア・オブ・ライト」で目を洗い直す感じ……。(「対峙」も予告編の緊迫感がすばらしい。)
 「エンパイア・オブ・ライト」は「ニュー・シネマ・パラダイス」ではなくて、「オールド・シネマ・パラダイス」という感じだが、映像が、なんといっても英国風で湿度と奥行きがある。そこが好き。
 屋外の風景だけではなく、室内も、湿気があって、それが色に反映している。私が日本の湿度になれ親しんでいるから、イギリスの色を好むだけなのかもしれないが。
 「オールド・シネマ・パラダイス」だから、どうしても「純粋」というわけにはいかないのだが、その「純粋じゃない」部分のなかに「純粋」を探し出してしまうという感じが、まあ、しみじみとします。
 コリン・ファースが、この映画のなかでは、誰もが「大嫌い」と言うに違いない役を演じているところが、なんともおもしろい。かつては美少年、英国王を演じてアカデミー賞(主演男優賞)をとったんだけれどね。
 あ、こんな脱線は、どうでもいいか。
 スピルバーグの映画がそうであったように、そして「ニューシネマパラダイス」がそうであったように、映画のなかの映画が、この映画でもとてもいい。大好きな「チャンス」の大好きなシーンが、一部はなんと、音だけで出てくる。豪邸の、豪邸だからこそあるエレベーターに乗って「この部屋は小さいね」。あっけにとられて、笑うのを忘れる、というか、忘れるまでに「間」がある。「チャンス」はドタバタを含むコメディーだったけれど、そのドタバタさえ「間」があった。「間」がコメディーを「芸術」に昇華させていた。(と、書くと、コメディー・ファンに叱られるかもしれないが。)
 で。
 この「間」なんだけれど。
 イギリスはやっぱりシェークスピアの国だねえ。セリフの強さと「間」で、芝居をリエルに変えていく。ことばをつきつけられたら、嘘をつかない。ことばにしない限り、それは「秘密」だし、ことばにすれば、それはすべて「事実」(現実)になる。だからこそ、ことばにするかどうか、「間」が必要になる。「間」のなかに「真実」が凝縮している。
 引きこもりのオリビア・コールマンを精神科病院へつれていくために部屋に侵入するところのやりとりは、まあ、すごいもんだねえ。オリビア・コールマンは何も言わず、顔だけで演技をするのだけれど、それがなんというか、やっぱり「間」なんだなあ、と思う。
 思えば、スピルバーグの映画というのは「間」を、ほかの監督よりも短くすることで成り立っているね。スピード感。私が経験する「間」、想像する「間」よりも短い。つまり、速い。その加速度にのっかって、映画が展開する。
 この映画は、逆。
 スピードを上げない。とどまる。ゆっくりと進む。その「ゆっくり」のなかに力がこもる。加速度に頼らない。「ゆっくり」、あるいは「進まない」動きのなかに、人間が存在している、その力を見せる。それが登場人物の「生き方」も決定する。
 それにしても。
 再生の象徴としての、最後の緑の美しさ。このままずーっと見ていたいと思う。そして、この緑についても、「チャンス」が反映しているね。

 

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スティーブン・スピルバーグ監督「フェイブルマンズ」(★★)

2023-03-03 22:18:02 | 映画

スティーブン・スピルバーグ監督「フェイブルマンズ」(★★)(中州大洋スクリーン1)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ミシェル・ウィリアムズ、ポール・ダノ、ガブリエル・ラベル

 予告編を見たときから不安だったのだが、その不安が的中した。おもしろいのは、映画のなかの映画の部分だけ。肝心のドラマが紙芝居っぽい。
 スピルバーグの「自伝」らしいが、ここには「自伝」特有の「ためらい」がある。そして、それが映画をつまらなくしている。自伝だから、家族が出てくる。自分の家族を描くというのは、とてもむずかしい。スピルバーグの両親が生きているかどうか私は知らないが、どうしても家族に対する「配慮」が働く。「悪く」描けない。「憎しみ」を描ききれない。
 で。
 どういうことが起きるか。
 映画が「ストーリー」になってしまう。登場する人物が「演じる」前に、ストーリーがすべてを説明する。映画なんて(小説なんて、詩なんて、と言ってもいいが)、「ストーリー」なんか、どうでもいいのである。「人間」が生きているかどうかが問題なのである。
 つまり。
 この映画では、母親の「浮気」が一つのテーマだが、この「浮気」が、その「浮気」の一番いい部分が、少年の撮る「家族ムービー」のなかだけで、生き生きしている。「映画のなかの映画の部分だけ」と最初に書いたのは、そういう意味である。そこには、なんと、映画の質を高めるのは、「狙い」のなかにどれだけ偶然が入り込んでくるか、あるいは偶然カメラのなかに入ってきてしまったものをどれだけ「リアリティー」として吸収(消化)し、作品に昇華させていくことができるか、ということと関係している。なぜ、それが映っている? わからない。しかし、よく見ると、それが映っていた。そして、それが「現実」なのだ、ということが映画を、突然、すばらしいものにする。かけがえのないものにする。母親の浮気のシーンは、まさに、それである。
 それは、浮気相手が母親に帽子をかぶらせるシーンが特徴的だが、ちらって見た目にはなんでもないこと、ほほえましい親愛のシーンなのだが、別のシーンが組み合わさると、全然違ったものになる。「意味」がかわる。「意味」とは、そこにあるものではなく、ひとの認識がつくりだすものだからである。
 そういう意味では、映画は「つくるもの」ではなく、「つくらされるもの」でもある。そういうことを、この映画は語っている。
 この映画の秘密は、また、別のシーンでも語られる。戦場の死体のなかを歩く軍曹かなにか知らないが、責任者がいる。演技指導をして、撮影をはじめる。そうすると、その軍曹は少年の演技指導を上回る演技をする。しかも、それは「顔」ではなく、「背中」の演技なのだ。歩く後ろ姿なのだ。
 スピルバーグに限らないが、名監督といわれるひとたちは、そういう瞬間をのがさずに組み合わせることができる能力を持っている。そういうことをスピルバーグは少年のころからやっていた、と意識して見れば、これはこれで、たしかに「立派な自伝映画」だとは思うが、やっぱり、退屈。
 ゴールデングローブ賞の作品賞、監督賞、主演女優賞を獲得しているが、これは「御祝儀」のようなものだ。アメリカ人は「実在の人物(実際にあったこと)」を評価するのが好きな好き人が多い。有名人を「そっくりさん」として演じると、たいてい主演男優賞、主演女優賞が獲得できるし、作品賞も獲得することが多い。人への評価(称賛)と作品を混同していると思う。
 アカデミー賞でもいくつかの部門でノミネートされているが、私はこういう作品や演技をおもしろいとは思わない。
 「激突」や「ジョーズ」は、スピルバーグってだれ?と、何も知らない観客が見てもおもしろい映画だった。この映画を、スピルバーグってだれ? そんな人聞いたこともない、という人が見ておもしろいと何人が言うだろうか。

 


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マーティン・マクドナー監督「イニシェリン島の精霊」(★★★★★)

2023-01-30 21:34:22 | 映画

マーティン・マクドナー監督「イニシェリン島の精霊」(★★★★★)(中州大洋スクリーン1、2023年01月30日)

監督 マーティン・マクドナー 出演 コリン・ファレル、ブレンダン・グリーソン、バリー・コーガン、ケリー・コンドン

 打ちのめされる。希望しか存在しない絶望というものがある。一方、逆に、絶望が唯一の希望ということもある。この映画は、ふたつが交錯するのだが、私は、後者に強く揺さぶられた。
 希望しか存在しない絶望をコリン・ファレルが演じ、絶望しか存在しない希望をブレンダン・グリーソンを演じるのだが、映画のなかの年齢で言えば、ブレンダン・グリーソンに近いせいか、彼の絶望と希望(欲望といってもいい)に「チューニング・イン」してしまう。
 絶望のために、彼は、自分の指を切り落とすのだが、それしか希望を実現する方法がないからである。絶望と引き換えに、音楽を完成させる。それ以外に、方法を見つけることができない。
 この絶望が、コリン・ファレルにはわからない。同じように絶望が唯一希望であるケリー・コンドンにも、わからない。それはブレンダン・グリーソンが音楽をめざしているのに対し、ケリー・コンドンは文学(読書)を支えにしている違いから来るかもしれない。ブレンダン・グリーソンは「つくりだす」愉悦を求めている。ケリー・コンドンは「つくりだす」愉悦を求めてはない。
 言い直すと。
 ブレンダン・グリーソンにとって、音楽がつくりだせるなら、その音楽が「絶望」をあらわしているか、「希望」をあらわしているかなど、問題ではないのだ。だから「絶望」を唯一の「希望」として生きることができる。音楽が完成したとき、左手の指を全部切り落としてしまうが、その「絶望」と音楽を引き換えにする決意があったからこそ、音楽が完成した。そこには、「絶望」の愉悦があるのだ。
 これは、希望しか存在しない絶望しかわからないコリン・ファレルには、わからない。ここに、もうひとつ、絶妙な人間が登場する。希望しか存在しない希望を生きるバリー・コーガンである。彼には、絶望がわからない。警官の父親に殴られようが、オナニーをしながら眠り込んでしまった裸の父親を見ようが、絶望しない。絶望できない。絶望できないというのは、絶望に耐える力がないということである。だから、ケリー・コンドンに見捨てられたと知ったとき、その絶望に耐えられずに自殺してしまう。
 このバリー・コーガンと比較すれば、絶望しか存在しない希望を生きているブレンダン・グリーソンの強さがわかる。彼は、絶望するからこそ、生きていられるのである。指を切り落としたからこそ、生きていられるのである。
 希望しか存在しない絶望という「凡庸」を、しかし、コリン・ファレルは非常にうまく演じている。私は、コリン・ファレルの鋭さのない目(焦点がない目)が好きではないのだが、この映画ではそのおどおどした目も効果的だ。希望とは、彼にとって、いつも自分のなかから生まれてくるものではなく、だれかから与えられる何かなのである。希望をつくりだすことができない。だから、希望しかない絶望というのだが。希望を自分でつくりだせれば、絶望はしない。
 この、何もつくりだせない「凡庸」を端的にあらわしているのが、彼のついた嘘である。ブレンダン・グリーソンを困らせるために、ブレンダン・グリーソンの友人である音楽大の学生に嘘をついて島から追い出す。そのために、バリー・コーガンからも見捨てられるのだが。バリー・コーガンの自殺は、ケリー・コンドンに捨てられたことよりも、コリン・ファレルが信じられなくなった(希望にはなり得なかった)ということが原因かもしれない。
 こう書いてくると、これは映画よりも芝居(舞台)の方がわかりやすくなる作品かなあとも思った。マーティン・マクドナーは、「スリー・ビルボード」が映画というよりも、舞台(芝居)みたいで、少し物足りなかった。「芝居指向」の強い監督なのかもしれない。脚本を書くのも、「芝居指向」のあらわれだろう。今度も舞台っぽいのではあるけれど、舞台(土地)そのものが劇的で、そこにしか存在しない空間の美しさに満ちていて、効果的だった。海と荒野しかないから、人間がむき出しになる。人間の、希望と絶望がむき出しになる。
 私は最近ほとんど映画を見ていないのだが、これは傑作。希望しかない絶望は多くの人が描くが、絶望しかない希望を強靱に描き出す監督は少ない。マーティン・マクドナーは、そのひとりだ。

 

 

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オドレイ・ディワン監督「あのこと」(★★★)

2022-12-04 15:03:53 | 映画

オドレイ・ディワン監督「あのこと」(★★★)(2022年12月03日、KBCシネマ、スクリーン2)

監督 オドレイ・ディワン 出演 アナマリア・バルトロメイ

 ノーベル文学賞受賞作家アニー・エルノーの小説が原作。主役の女性が1940年生まれという設定だから、1960年ごろのフランスが描かれていることになる。アメリカを揺るがしている中絶問題がテーマなのだが、フランスはそれをどんなふうに解決したのか、問題を克服したのか。しかし、映画は、これをフランスの問題、あるいは国家の問題としては描いていない。ひとりの女性がどう向き合ったか、そのとき社会が(男が)どう対応したか、それに対して主人公がどう反応したかに焦点を絞って描いている。
 だから。
 この映画の特徴は、視線が拡散していかないところにある。情報量が少ないわけではないのだが、すべてが主人公の身体に接近した場所で描かれる。この主人公の肉体との距離をどう感じるか。ひと(他人)との距離の取り方は、習慣というか、国民性によって随分違うと思う。フランス(人)のことは私はよく知らないが、どちらかというとひととひとの「物理的距離」は近い。挨拶のとき抱き合ったり、キスしたり、カフェなどの座席の距離も狭い。しかし、「心理的距離」はどうか。独立心が強いというべきか、わがまま度合いが強いというべきか、意外と「遠い」。「遠い」(距離感が広い)から、わがままが許されるのだろう。そして、いったん対立すると、近づかなくなる。日本は、「物理的距離」はかなり広いが、「心理的距離(拘束感)はかなり強い。「同調圧力」(というらしい)がある。他人の「わがまま」を否定し、自立を許さないところがある。
 この映画は、私が感じているままの「フランス人の距離感」で展開する。
 カメラは主人公に密着する。いつも彼女から離れない。いつも1メートル以内(もっと短い、50センチ、30センチの距離か)にいる。遠くのものがカメラの中に入ってくるときもあるが、それはあくまで彼女の視線がその遠くのものをみつめたから。たとえば大学の教室での、離れた席にいる男、教壇にいる教師を見るという具合。主人公の「視線」から自由にカメラが世界をとらえるわけではない。
 印象的なシーンがいくつかあるが、私にとってもっとも強烈だったのは、海のシーン。主人公が男友達と海へ行く。沖へ向かってどんどん泳いでいく。男が危ないと追いかけてくる。このときカメラが映すのは海の広さではない。追いかけてくる男や、遠ざかる岸も映さない。ただ水のなかで泳いでいる女を映す。彼女は、自分だけではどうすることもできない圧倒的なものと対面している。それは「全体」が見えない。水のようにただ肉体に絡みついてくる。決して「親身になることのない(近づいてくれない)」ものが、肉体のそばにぴったりとはりついている。ここに、彼女の「息苦しさ」が象徴されている。戦いたくても戦えない、助けを求めたいのに誰も助けてくれない。「いのち」が、ただ、「いのち」のまま存在している。巨大な、手に負えないもののなかで。
 問題は。
 このとき、私はどこにいるのか。私は、彼女にとって、たとえば巨大な海なのか。彼女を追いかけてきて、「引き返せ」といっている友達なのか。わかっているのは、私は彼女ではない、ということだけなのだ。この映画のなかには、私は、いない。そのことを、もっとも強烈に感じさせるのが、この海のシーンだ。そして、私がそこにいない(関与できない)にもかかわらず、私を彼女の「30センチ以内」の距離に引っ張りこむのがカメラなのである。
 私は、ほんとうは、そこにいるのだ。たとえば、主人公に妊娠を告げる医師として。流産を引き起こすと嘘を言って流産防止薬の処方箋を書く医師として。助けを求められた男友達として。あるいは、堕胎の処置をする女として。同じ寮の友達として。その距離の中にいて、彼女を拘束するのではなく、彼女の独立とどう向き合うか。「30センチ」の距離以内に入らなければ、まあ、「知らん顔」ができる。私には無関係ということができる。しかし、カメラは、そういう私の「わがまま」を許さない。
 他人を「わがまま」と切って捨てることは、もしかしたら簡単かもしれない。私と無関係ということは簡単かもしれない。しかし、簡単だから、その方法がいいとはいえない。これが、むずかしい。この映画が、ある瞬間、「恐怖映画」のように迫ってくるのは、その「距離感」があまりにも現実的だからかもしれない。古い時代設定だが、時間の距離を超えて迫ってくる。特に、あの海のシーンでは、そこには「歴史(過去)」ではない「時間(いま)」が動いている。

 

 

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ペドロ・アルモドバル監督「パラレル・マザーズ」(★★★★)

2022-11-05 18:13:09 | 映画

ペドロ・アルモドバル監督「パラレル・マザーズ」(★★★★)(2022年11月05日、キノシネマ、スクリーン3)

監督 ペドロ・アルモドバル 出演 ペネロペ・クルス、ミレナ・スミット

 この映画のいちばんの見所は、ミレナ・スミット。10代のシングルマザーの役。アルモドバルが手抜き(?)して撮っているイントロダクションの部分は、いや、ほんとに顔見せ。ペネロペ・クルも、ここは単なる「導入部」という感じで演じているので、見ている私も「これは物語を説明するだけのものだなあ」という気分で見ているし、ミレナ・スミットをちょっと変な顔だなあ。アルモドバルは変な顔の女が好きだからなあ、という中途半端な感じで見ていたのだが……。
 自立して、カフェで働き始め、ペネロペと再開するところからがぜん輝きだす。髪を切り、染めて、一瞬だれだかわからない。ペネロペが「アナなの?」と言って、そのことばで、あ、ミレナ・スミットかとびっくりする。この激変の過程には、過酷な「過去」があるのだが、その「過去」がペネロペの秘密と重なっていく辺りが、見物中の見物。
 いいですか?
 役者というのは、脚本を読んでいる。つまり、ストーリーを知っていれば結末も知っている。それなのに、ストーリーも結末も知らないふりをして演じないといけない。「秘密」はほんとうはペネロペとミレナに共通するものだが、秘密の「ほんとう」を知っているのはペネロペだけ。ミレナは知らない。その「知らない」を、きちんと演じないといけない。その「知らない」ミレナにペネロペは、真実を言うべきかどうか苦悩する。ペネロペの役は、演技の経験がない私がいうとヘンだけれど、役者なら演じることができる(と思う)。苦悩には、だれでも同情してくれるしね。ペネロペが涙を流すのを見て、笑い出す観客はいないだろうからね。
 真実を知らないまま、言い換えるとペネロペの「秘密」にあやつられる形で、ミレナは立ち直っていく。この過程がとってもおもしろいし、そこに嫉妬がからんできて、ミレナがペネロペを翻弄してしまうシーンなど、これ演技? と思うくらいの迫力。演じるのはペネロペであって、ミレナの実際の動きはほとんどないのだけれど、そのペネロペの変化を引き出している「存在」としての、なんともいえない「存在感」がすばらしい。
 そのあと、ミレナはペネロペの手を離れてというか、ミレナがペネロペを切り捨てて、さらに自立していくのだが、これを、もうペネロペは止めることができない。ペネロペは感情の揺れというか、感情を演じているのだが、ミレナは感情だけではなく「意思」をも演じている。
 これがね、ほんとうにすごい。
 意思を持たなかった女が、意思を持って動き出すというは、昔で言うとジェーン・フォンダが巧みに、演じて見せたが、ふとそんなことも思い出してしまうのだった。これからのアルモドバルの映画の「宝物」になるかもしれない。演じているではなく、「意思」が生きている、という感じがするのである。「意思」がそこに存在するなら、「感情」の変化など、演じなくてもいいのだ。感情は、彼女のまわりが(たとえば、ペネロペや母親が)演じて、そこに「世界の陰影」を反映すればいいのだ。

 最初と最後に、スペイン内戦のことが少しだけ出てくる。これが私には、かなり強引に感じられるが、内線を生き抜いた女性を描くのが、これからのアルモドバルのテーマなのかもしれない。戦争は戦う男の視点で描かれることが多いが、内戦で死んでいく男を見続けた女の姿をアルモドバルは、どう描くのだろうか。ミレナ・スミットが中心人物を演じるだろうなあ。早く、それを見てみたい。

 


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作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

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エマニュエル・クルーコル監督「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」(★★★)

2022-08-07 17:00:31 | 映画

エマニュエル・クルーコル監督「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」(★★★)(2022年08月07日、KBCシネマ、スクリーン2)

監督 エマニュエル・クルーコル 出演 カド・メラッド、マリナ・ハンズ、ロラン・ストッカー

 ベケットの「ゴドーを待ちながら」を囚人が演じる。「待っているだけ」という状況が囚人の状況と重なる。そこから、ふいに「現実」が噴出してくる。それをそのまま舞台に生かす、という演出方法で演劇そのものは大成功を収める。
 映画は、その成功までの過程を手短に紹介する。そして、「それ以後」をていねいに描写していく。これがなかなかおもしろい。芝居の中に、隠れていた現実(意識できなかった現実)がことばとして動き始めるとき、そのことばを語った役者たちの現実はどうなるのか。たとえば芝居の上演後、刑務所へ帰って来た囚人たちは、持ち物検査や身体検査を受ける。それは現実? それとも「芝居」(虚構)の一部? もし、それが絶対に隠すことのできない現実だとすれば、それをことばにするとどうなる? ベケットは、もう助けてくれない。つまり、自分のことばを探し、自分で語らないといけない。どう語ることができるか。
 このむずかしい問題を、囚人たちは、とてもみごとに解決して見せる。
 語らないのである。最終公演の直前、「ゴドーを待ちながら」を演じた五人は、逃げ出してしまう。「現実」の世界へ「隠れてしまう」。声を出せば、見つかり、刑務所に戻される。もちろん、再び逮捕されるかもしれないという「不安」はあるが、それよりも求めていた「現実」のなかに隠れてしまう。その「現実」がどんなものか、彼らが語ることはないから、それが何なのか、私にはわからない。ただ、事実として、そのことが伝えられる。
 ことばにしてはいけないことがあるのをことばにしたのが「ゴドーを待ちながら」だとすれば、ことばにしてはいけないことをことばにしないまま生きているのが、逃亡した五人の囚人たちである。
 このことに、芝居にかかわった人間は、どう向き合うことができるか。五人を演出した演出家(ほんとうは役者、「ゴドー」を演じたこともある)は、どうことばにすることができるか。それは、ほんとうはことばにしてはいけないことかもしれない。しかし、人間だからことばにしてしまう。それがクライマックスなのだが。
 このクライマックス寸前の、二、三分の描写がてともおもしろい。ここだけなら★10個をつけたいくらいの、わくわく、どきどき、はらはら、なのである。五人が逃亡したことを知った演出家は、五人を探し回る。上演開始まで20分。劇場内を探し、街を探し、鉄道(地下鉄)の駅にまで行く。ひとりで走り回る。この間、ひとこともしゃべらない。いや、「五人を見なかったか」というようなことは訪ねるが、ほかはことばにならない。ことばは彼の肉体の中で動き回っている。ことばは、それが自分の声なのに、聞き取れないくらいに錯綜しているだろう。つまり、聞こえすぎて、わかる必要がないくらい明確になる。
 あ、この瞬間こそが、「ゴドー」の舞台なのだ。「ゴドーの登場人物」は、彼ら自身の声が「わかりすぎる」。わかりすぎて、わからなくなる。他人に説明のしようがない。それがわかりすぎるということだ。
 だからね、映画は、ここで、中途半端のまま終れば、大傑作になったと思う。
 でもね、映画だから「結末」が必要になる。「結末」に本物のベケットの反応まで「引用」してしまう。しようがないといえばしようがないが、それでは「ベケットの反応」は明確になることで、逆に存在しなくなってしまう。
 あ、何を書いているか、たぶん、誰にもわからない文章になっていると思う。
 それでいいのだと思う。
 私はこれから「ゴドーを待ちながら」を読み返すことにする。
 

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マイク・ミルズ監督「カモンカモン」(★★★★)

2022-05-01 17:30:36 | 映画

マイク・ミルズ監督「カモンカモン」(★★★★)(2022年05月01日、中州大洋、スクリーン4)

監督 マイク・ミルズ 出演 ホアキン・フェニックス、ウッディ・ノーマン

 「ジョーカー」でアカデミー主演男優賞をとったホアキン・フェニックスが、わがままな子役を相手にどういう演技をするか。それを期待して見に行ったのだが、おもわぬ収穫もあった。物語の舞台が次々にかわっていくのだが、モノクロの映像が、登場人物の表情に焦点を当てるので、見ていて意識が散らばらない。舞台(都市)の変化をきちんととらえながらも、それがうるさくない。都市の表情、その情報量が抑制され、人間の心理の変化が際立つ。画面の切り替えが多いし、「字幕情報」も多いのだが、モノクロの映像が、そのままストーリーの中心になる感じがする。モノクロ映画は、やっぱりすばらしい。
 ホアキン・フェニックスは演技をしているというよりも、子役のウッディ・ノーマンにあわせて反応している感じ。自分で演技し、世界をつくっていくという感じではない。「ジョーカー」と正反対の演技をしている。しかも、それがこの映画にはぴったりなのだ。なんといっても、ストーリーは感情の起伏が激しい子ども(甥)にふりまわされるおとなという役所なのだ。しかも彼は単に子どもにふりまわされるだけではない。彼は自分なりの信念をもっていて、その信念ゆえに妹とも対立している。いわば「理想」をもった頑固者なのだが、それが子どもに揺さぶられて、かわっていく。
 しかもね。ホアキン・フェニックスの映画の中での職業が、子どもをインタビューしてまわるラジオ局員というのも、とてもおもしろい。子どものことをある程度わかっているはずが、わかっているつもりだが、実際に子どもと暮らしてみると、知っている子どもとはぜんぜん違う子どもが大暴れする。どう対処していいかわからない。そういう、なんというか、大人の「自信」を打ち砕かれる過程を描いているのである。「自信」というのは、他者に対して、おうおうにして「殻」のような働きををしてしまう。それが破れたとき、彼自身も解放される。その、不思議な幸福感。
 さらに、その変化の結果として、子どもとの信頼関係ができ、一線を越えるというと変だけれど、まるで「理想の父親」のようになってしまう。しかし、そこから「叔父」にもどらなければならない。そうしないと、ほんとうの父の方が不幸になってしまう。で、当然のことだけれど、そこから引き返す。その瞬間に広がる、彼の世界の幸福の多様さ。これが、とてもいい。
 そこから耳を澄ませてみれば、それまでにインタビューしてきた子どもたちの「未来」に対する考えの、なんという美しさ。子どもがインタビューに答えたことばに変化があるわけではないが、子どもの声が「純粋」に響いてくる。ラストのクレジットで、その声がかなり長く紹介されるのだが、とてもいい。
 それにしても、ホアキン・フェニックスの、自然な演技のすばらしさ。「クレイマー、クレイマー」のダスティン・ホフマンの演技よりも自然に感じられる。そして、この演技を自然なものにしているもうひとつの理由が別にある。「ジョーカー」では非常に痩せた肉体で、存在の異様性を前面に打ち出したホアキン・フェニックスだけれど、今回はシャツの上からも(背中からの映像だけでも)、でっぷりと太った「ふつうの中年男」になっている。このふつうの感じが、ほんとうに、とてもいい。ここに描かれているのは、どこにでもあり、またどこにもない幸福である。どこにもない幸福が、どこにでもある(どこででも実現できる)ように具体的に描かれている。その細部の美しさ、確かさ(存在感)がホアキン・フェニックスのだらしない(?)太った肉体にあると書くと、叱られるかな? ホアキン・フェニックスのファンからは。しかし、太っても、美形だね。

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アスガー・ファルハディ監督「英雄の証明」(★★★★★)

2022-04-24 10:52:01 | 映画

アスガー・ファルハディ監督「英雄の証明」(★★★★★)(2022年04月23日、KBCシネマ・スクリーン2)

監督 アスガー・ファルハディ 出演 アミール・ジャディディ

 この映画がいちばんおもしろいのは、「事実」を知っているのが主人公と観客だけであるということだ。登場人物は大勢いる。主役は借金で刑務所にいる男。愛人がたまたま金貨の入ったバッグを拾う。それを換金して借金を返そうと思う。しかし、良心がとがめて、バッグを落とした人を探し、返すことになる。そして、実際に返すのだが、このことが「報道」されると、だんだん話がこんがらがってくる。金貨を返したというのは、ほんとうか。だれが、その金貨を見たか。噂(ねたみ?)が噂を呼んで、SNSを通じて、どんどん「疑い」が広がっていく。金貨を見た人が主役と愛人と、主役の周辺のわずかな人しかいない。噂を否定する「根拠」がないのだ。
 で、この映画で考えさせられるのが、この「事実」に対する向き合い方なのだ。なぜ、こんな不思議な映画が成り立つかといえば、「コーラン」を信じる人の「人間観」が影響している。コーランは神と人との「一対一」の契約である。その「一対一」の「直接性」が人間関係に影響している。簡単に言うと、大金を拾ったら、日本人なら警察に届ける。この映画の主人公は、そういうことをしない。直接、落とし主を探し出し、直接、拾った金を返す。「一対一」なのだ。「一対一」だから「証拠」はいらない。しかし、「証拠」を残さないから、第三者はどこまでも疑うこともできる。人間は「疑う生きもの」なのである。映画の中で、「神に誓って」ということばが出てきたかどうか、ぼんやりして聞き逃したが「息子に誓って」ということばを主人公は言ったと記憶している。これは「息子との一対一の信頼関係」の延長線上のことばとして「事実」を言うということ。私のことばが間違っているなら、その影響が自分の息子に及んでもいい、ということである。日本の「経済関係」で言えば「連帯保証人とし息子を差し出す(古いことばで言えば、人質として息子を差し出す)」くらいの意味がある。この「一対一」の信頼関係は神との契約の引写しである。だから、それを壊すことは、コーランを信じている人には神との関係を裏切ることであり、「罪」であり「恥」である。この映画には何度も「恥」とか「名誉」ということばが出てくるが、それは「神との一対一の関係」を裏切ることは人間にとって「罪」であり、同時に「恥」でからである。この「恥」は人間に対してというよりも神に対する感覚の反映なのである。そういうことが、ぐさりと刺さってくる映画である。
 で。
 ここからが、さらにおもしろい。この「一対一」の関係は、マスメディアによって(テレビによって)、「一対多」の関係に変わる。正確に言うなら「一(主人公)対一(テレビ)対一(視聴者=多数)」。「テレビ」は媒介だから、それは「主人公(一)対視聴者(多)」お変わってしまう。「一対一」なら「説得」できるが、「一対多」の状況では説得は非常にむずかしい。ひとりが多くの人に対応していられない。さらにややこしいのは、テレビ取材に応じているときは、まだ「主人公対テレビ」という「一対一」だったののが、現代の「メディア」は最初から「多」であり「多」のそれぞれが「一」であるということだ。SNSがわかりやすいが、「発信」はだれでもできる。だれが「取材」し、だれが「発信」しているかもわからない。そしてその「発信回数」には制限がない。(テレビの場合は、同じことを何度もくりかえし放送できない。)多く発信すれば、それが大多数になる。金を返した男は正直者だという発信が一回。それに対して男は嘘をついているかもしれない、という疑いが百回。そのとき、それを見た人は回数の多い方を信じてしまうことになってしまう。疑いを信じる根拠を、そのSNSを見た人は持たないからである。
 さらに、その「情報」が「ことば」だけである場合(金貨を返した)と、「映像」がある場合(男が、金を貸した男を殴っている)を比較したとき、「映像」の方が強く印象に残る。どんな行動にも「脈絡」があるのだが、「映像」は脈絡を無視して、男が金貸し男を殴っているという「瞬間的事実」だけをつたえる。殴ったのには「事情」があると「ことば」で言っても、それは通じないし、それを「聞かせる」ということができない。
 コーラン社会を支えていた「一対一」という基本的な「事実の場」がSNSの発達で壊されてしまっている。「事実」の特定ができないようなところにまで人間を追い込んでいる。

 ここから映画を離れて、私はこんなことも考えた。いま、世界の話題(ニュース)はロシアのウクライナ侵攻である。連日、いろいろなニュースが「報道」されている。それぞれの「報道」が「事実」を主張している。
 だが、「報道」されていることは、ほんとうに「事実」なのか。これを語れるのは、戦争で死んだ人だけである。だれによって殺されたのか。知っているのは死んでいる人だけであり、問題は、死んだ人は「証言」できないことである。
 こんなことがあった。
 私はフェイスブックを通じて、ウクライナに何人かの友人がいる。会ったことはなく、フェイスブックで「動向」を知っているだけの友人だが。その一人が、戦争がはじまってすぐ、ウクライナ兵士(たぶん)と一緒にいる写真を掲載していた。そのうちの一枚は友人の住んでいる家のなかである。家の仲間で兵士が入ってきている。その写真には「これで安全が確保できた。歓迎」というようなことばが書かれていた。あっと思った。どうしようか悩んだ。次の日、ふたたび友人のページを訪れると、その写真は削除されていた。ウクライナ兵が削除するよう要求したのか、友人が自主判断し削除したのか、あるいはフェイスブックが削除したのか、わからない。私は推測しか書くことができないのだが、もしその写真をロシア側が入手すれば、ウクライナ兵の居場所が特定できる。これは、戦争をしているときはまずいだろう。その居場所が、いわゆる「前線」ではなく、「前線」から遠く離れた都市の真ん中であるとなれば、なおさらである。
 友人は「歓迎」と書いていたが、友人が兵士を呼んだのか、それとも兵士が押しかけたのか。それも「事実」がわからない。友人が「歓迎」と書いたのか、書かされたのか、それも本人しかわからない。いま注目を集めているマリウポリの製鉄所。そこに避難している「民間人」(という表現を、読売新聞はつかっていた)は、そこに避難してきたのか、それともそこに集められたのか。その「事実」も本人にしかわからない。もし、全員が死んでしまえば、「事実」を証言できるひとはいない。「状況」から「事実」を推定することしかできない。
 「情報網」を持たない私でさえ、ウクライナの友人の家にウクライナ兵がいた(ロシアよりと推測され、調べられたのかもしれない)ということを「知っている」。証拠の「写真」を見た。しかし、「事実」については、わからない。友人に聞きたいが、もしかすると、メールなどはすべて検閲されているかもしれないと思うと、聞けない。友人がどうなるか、という保証がない。私でさえ、そういう「情報」をももっているのだから、世界には、どれだけ「情報」があふれているかわからない。私は、その膨大な情報のなかから選択された新聞のニュースを読んでいるだけである。それが「事実」であるかは、よほど慎重に見極めないとたいへんなことになる。

 この映画では「美談の男」は、結局、社会に受け入れられない。「美談」を信じてもらえない。人は、他人を称賛することよりも、他人を批判することで自分を正当化することの方を好むのかもしれない。「美談」を実行することはむずかしいからである。
 ラストシーン。
 とても美しい。男が刑務所に帰っていく。入れ違いに、一人の男が刑務所から出て行く。妻が迎えに来ている。その「一対一」。信頼はいつでも「一対一」なのである。それを見る男の表情はおだやかである。彼は、神との「一対一」の契約を守ったのである。知っている人は少ない。しかし、神は絶対に知っている。そういう安らかさである。そして、彼には、息子と愛人がいる。彼らとも「一対一」の信頼がある。
 私は神の存在を信じているわけではないが(神はいないと考えているが)、このコーランにもとづく世界観は、これからの世界(SNSが変えていく世界)との向き合い方の、ひとつの「指針」を示しているようにも思える。
 主人公の苦悩がどんどん深まるというよりも、主人公の「一対一」の関係がどんどん多数のひとのなかで希薄化されていく感じをとらえた映像、つねに周囲に男の存在が分散されていく感じの映像が、現実世界のあり方を丸ごととらえていて、とてもよかった。この分散、拡散された世界から「一対一」へどう引き返すか。これはコーランを信じている人だけではなく、すべての人間の共通の課題である。

 

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ジュリア・デュクルノー監督「TITANEチタン」(★★★★★)

2022-04-07 14:47:20 | 映画

ジュリア・デュクルノー監督「TITANEチタン」(★★★★★)(2022年04月07日、KBCシネマ・スクリーン2)

監督 ジュリア・デュクルノー 出演 アガト・ルセル、バンサン・ランドン

 冒頭、車のエンジン部分(?)のアップがつづく。エンジンではないかもしれないが、車の内部、しかもシートとかハンドルとかではなく、もっと機械的な、ふつうは人が見ることがない部分。私は車を持たないし、車に関心がないので、いま映し出されているのが何かわからない。たぶん車だろうとするだけである。強靱な構造と、それに付随する油の汚れ。あるいは、それは汚れではなく、必要な不純物かもしれないし、必要であることによって「汚れ(汚い)」ではなく「美しい」にかわるものかもしれない。何もわからない。
 けれど、そこに「ある」ということが、わかる。私のわからないものが、私とは関係なく、そこに「ある」。
 映画は、この、そこに「ある」けれど、そこに「ある」ものが何かわからな、全体がわからないから個別の意味もわからないというい状態でつづいてく。多々し、わからないといっても、最初の映像が車の内部(エンジン)であるとわかる/想像できる程度には、情報が散りばめられている。少女は交通事故で、頭蓋骨にチタンのプレートを埋め込んだ。そのチタンのせいなのか、少女は「金属」が好きである。当然、車も好きである。どれくらい好きかというと、車そのものとセックスするくらいに好きである。その結果、妊娠し、車の子ども(?)を産んでしまうくらい好きである。その一方、人間とのセックスは嫌いである。相手が男でも女でも、愛情というよりは嫌悪感の方が上回る。セックスすると(しようとすると)、相手のことが我慢できずに殺してしまう。連続殺人の果に、逃亡する。その逃亡の過程で、奇妙な消防士(隊長)に出会い……と、まあ、テキトウに、その場その場で、「その場/そのときの人間関係」が「ある」ものとして描かれる。
 これは、とてもおもしろい。そこに「ある」ものが、ストーリーとは関係なく(関係があるのかもしれないけれど/ストーリーを突き破って)、ただ「ある」ということを主張している。だいたい、車とセックスし、妊娠するということが、「現実」かというと、嘘(ありえないこと)なのだが、その嘘のなかに「車が好き/金属が好き」という「真実」があって、その嘘でしか語ることのできない真実が「ある」ということが、ただ、映像化されるだけなのである。
 こんなデタラメ、どこまでつづけられるんだろうか。
 充実した映像に酔いながら、私はちょっと心配しながら、映画をみつづけた。途中から出てくるバンサン・ランドンが妙にリアリティーがあって、主人公の少女の「嘘」を、たんなる「ある」ではなく、もっと違うものに変えていくような感じがあって、そこもおもしろいなあ、と思うのだった。
 でも、こんなデタラメ、どうなるの?
 再びそう思ったら、クライマックスに、とんでもない「どんでん返し」、というか「種明かし」。
 少女というか、主人公の女は、車の子どもを妊娠している。いよいよ出産というとき、とても苦しい。そのときの産婆役がバンサン・ランドン。彼は息子を誘拐された。何年後かにあらわれた少女を息子として受け入れている。最初は、少女を息子の名前で呼ぶ。すると少女が突然、「アクレシア」と言う。ほんとうの名前で呼んで、ほんとうの名前で私を支えて、というわけである。私は、「わっ」と叫びそうになるほど感動した。そうか「私はアクレシアである」と少女は叫びつづけていたのか。車のショーでダンスをしているとき、何人もの男にアクレシア(だったと思う)と呼びかけられ、サインも求められるが、かれらは「アクレシア」を女の名前と思っていない。車の名前、商品の名前のように、ただ呼んでいるだけだ。
 で、これも最初の方のシーン。少女が車の後ろで退屈している。父親が自分に関心をしめしてくれない。あのとき、父親は、たしか少女の名前を呼んでいない。少女は名前を呼ばれたかった。
 これは、逆に言えば、少女はだれかの名前を呼びたかった。「匿名性」のなかで生きるのではなく、固有名詞の出会いのなかで生きたかった。だからこそ、逆に、主人公に迫ってくる女が自分の名前を名乗るのに、名前を聞かれても答えない。名前は、最初にあるのではなく、信頼関係ができたあとで、名前が必要なくなったときにこそ必要なのだ。名前を呼ばなくても、だれがだれであるかわかっているとき、そのとき、あらためて名前を呼ぶということは、きっとそれは、その相手が名前を呼んだ人になるということなのだ。バンサン・ランドンが出産で苦しむ少女を励ましながら「アクレシア」と呼ぶ。そのとき、バンサン・ランドンは「アクレシア」になる。そこに「ある(生きている)」人間が、別の人間に「なる」。バンサン・ランドンが、生まれてきた赤ん坊を、まるで母親のように抱き、「私がついている」というようなことを言う。そのとき、彼は、まさに、「母親」なのだ。アレクシアそのものなのだ。
 わっ、すごいなあ。
 私はほんとうに感動したが、同時に、ちょっと待てよ、とも思った。いま、私が書いた感動は、実は、どうでもいいことである。こんな「意味」に感動していたら、映画である意味がなくなる。ほんとうに感動しなければならないのは、この奇妙な、嘘だらけの映画を「事実」に変えていくアガト・ルセルの「肉体」、その「肉体の演技」に対してである。なんだってできそうな、しなやかな肉体。そのなんだってというのは、セックスから殺人まで、という意味である。何をしたって、彼女の「肉体」は傷つかない。妊娠がわかり、堕胎しようとして鉄の棒を子宮につっこむ、突き刺す。行方不明の少年に変装するために、鼻の骨を折る。「肉体」にとってはたいへんな苦痛だが、その苦痛を精神が跳ね返していく。精神こそが肉体なのだ。妊娠した後の、醜い肉体さえ、なんだってできる強靱さを持っている。これが、衰えつづけるバンサン・ランドンの肉体(鍛えているのに、醜いと感じさせる)との対比で強調される。アガト・ルセルの肉体は、どんなにメーキャップで醜く変形させられても、なおかつ、美しく、強い。なんといっても、車の子どもを産んでしまうのだ。
 こんな、どこから語り始めていいのか、どこまで語れば気が晴れるのかわからないような作品をパルムドールに選ぶカンヌ映画祭というのは、おもしろいね、とあらためて思った。このときの審査委員長はスパイク・リーらしいが、なるほどね、とも思った。同じように車と秘密を抱えた人間の再生がテーマ(?)の「ドライブ・マイ・カー」とは比較にならない。

 「ドライブ・マイ・カー」との比較を書こうかも思ったが、もう十分に「ドライブ・マイ・カー」は批判したのでやめておくが、この映画を見た後で思い返すと、「ドライブ・マイ・カー」の脚本賞受賞というのは、まるで「チタン」がわからなかったひとは「ドライブ・マイ・カー」で車と秘密を抱えた人間の再生、沈黙と語ることの意味を理解してください、と言っているようにも見える。カンヌ映画祭は、なかなかシンラツである。

 

 

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濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(2)

2022-04-01 10:44:25 | 映画

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(2)

 映画監督・山崎哲がフェイスブックで「ドライブ・マイ・カー」を批判していた。ポイントは「日本の俳優は例によって声( 言葉) が肚に落ちてない。言葉が自分の言葉になってないんだよね。」このことばで、ふと思いついたことがあるので書いておく。
 昨年のカンヌ映画祭で「脚本賞」を受賞し、多くの人が見るようになった。先日発表されたアカデミー賞でも「国際長編映画賞」を受賞した。アカデミー賞は、まあ、追認のようなものだから、ほんとうの評価かどうか、私は怪しんでいる。でも、カンヌ映画祭の「脚本賞」は、納得はできる。「脚本」はたしかによく書かれていると思う。でも「脚本」と映画は別物なのだ。
 「脚本」も、作品によっては一こまずつ時間を指定しているものもあるだろうけれど、基本的には時間を指定しないだろう。さらに、誰が演じ、どんな声を出すかという指定はないだろう。つまり、ひとは(読者は)、脚本を自分のスピードで読むことができる。登場人物の「声」は、自分の好き勝手に想像できる。脚本を読み、30分の映画を想像する人もいれば6時間の映画を想像する人もいる。張りつめた声を想像する人もいれば、弱々しい声を想像する人もいる。時間のことは、ここでは、ちょっとわきにおいておく。
 「声」の問題を、もう一度書いておく。
 私は前回、「ドライブ・マイ・カー」について書いたとき、この映画のテーマは「声」だと書いた。そして、その「声」に作為がみえみえなので、ぞっとしたというようなことを書いた。それは最初のシーンで、すぐにわかった。見なくてもというと変だが、作為が見えるということは、結末に驚かないということである。結末に感動しない、ということである。予想された通りの展開、予想された通りの結末。安直な、すでに知っている物語の紙芝居、という感じ。
 脱線したが。
 この「声」がテーマ、そして「声」が作為に満ちているということは、たぶん、私が日本人で、日本の俳優の「声」だったから気づいたのである。ネイティブだから気がついた。初めて聞く外国人の「声」(しかもスピーカーで増幅された声)の場合、「作為の声」に気がつくかどうかは、かなりむずかしい。現実の場でなら、あ、いま、声の調子を変えた、ということは、声だけではなく、表情や仕草でもわかるが、それにしたって、話されていることば(声)を聞き慣れていないと、むずかしいかもしれない。
 カンヌ映画祭の審査員に、この「声の演技」がわかったかどうか。「声の演技」の「まずさ」が原因でパルム・ドールを逃し、「脚本賞」にとどまったのかどうか、それはわからないが。「声の演技」を気にしないで、この映画が「声」を基本にして展開し、それが「声」をもたない(というと、いいすぎになるが)手話話者との対話でクライマックスをつくりあげるという、ストーリーの構造は「脚本」を読めばわかる。映画を見れば(映画から脚本を想像すれば)、明確にわかる。
 別なことばで言いなおすと、「脚本」というのは、実際の映画、演技とは関係なく評価できるということである。「声」を聞き取る能力がなくても、「脚本」を読むことはできるのである。「声の演技」(そのよしあし)が理解できない外国人審査員だったからこそ、脚本に注目したということがありうるのだ。「声」がテーマなのに、「声」を理解できない外国人審査員が、その「ストーリーの展開の仕方」だけに焦点を当て、「脚本賞」に選んだということが、可能性としてあるのだ。
 彼らは訳者の「声」を聞かず、彼ら自身のなかにある「人間の声」を「脚本/字幕(?)」から再現し、「彼ら自身の声」に感動したのだろう。
 もちろん「日本人の声」(作為、無作為)に習熟している審査員がいて、そういう日本人の声を生かしている脚本だと評価したのかもしれないが、私には、そうは思えない。
 だってねえ。
 映画はたしかに脚本と監督が担う部分は非常に大きいが、脚本の狙いや監督の求めていることと違う何かがあらわれた瞬間が、いちばん輝かしい。脚本を超えて、役者の肉体が動き出し、まるで脚本がないかのように感じる一瞬が、おもしろいのだ。
 ちょっと思いだしたのだが。
 「サユリ」という映画。役所広司が、ほんとうはもてているわけでもないのに、女にちょっと親切にされ、それを女が自分に気があると信じて、女に「ほら、酒をのめ」と言い寄るシーンがある。その、もてない男の、一瞬の正直さ。思わず、「おいおい、おまえは振られ役なんだぞ。脚本を読んだのか。振られるのを知っているのか。ばかじゃないのか」とちゃちゃをいれなくなる。笑い出したくなる。役者は脚本(結末)を知らずに、つまり、その瞬間しか知らない人間として動いていなければならない。そういうものがないと、映画として成り立たない。
 「ドライブ・マイ・カー」の役者は、みんな「結末」を知っていて、その「結末」のために「作為の演技(声)」をしている。役所広司のように、自分の生きている現実の一瞬を、自分本位に勘違いしていない。だから、おもしろくない。すべての映像も、みんな「結末」を知っていて、それに向かって収束していく。そこには「脚本」しかないのだ。
 だいたい、劇中劇に「ワーニャ伯父さん」をつかうというのも見え透いている。「ワーニャ伯父さん」の結末(ストーリー)を知っているひとは多い。そのストーリーをちょっと見えにくくするために、他国語で演技する、なんて、「作為」以外の何でもない。「脚本賞」は「作為の構図の完成度が高かった」という評価なんだろうなあ、と思う。「ストーリーが単純明快に整理されていた脚本」という評価なんだと思う。

 

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ケネス・ブラナー監督『ベルファスト』

2022-03-26 17:09:36 | 映画

ケネス・ブラナー監督『ベルファスト』(★★★★★-★か★★★★+★) (2022年03月26日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 ケネス・ブラナー 出演 モノクロフィルム

 この映画の最大の特徴は、モノクロ、ということである。モノクロではないシーンもあるのだが、基本はモノクロ。このモノクロの画面が、ここに描かれているのは「記憶」だと告げる。「記憶」というのは、どんな記憶であれ、整理されている。それが変わってしまうことがない。言いなおすと、これから何が起きるのか、ストーリーはどう展開するのか、という「なぞ」がない。「なぞ」だけがもつ魅力がない。
 そのかわりに、「細部」がある。そして、その「細部」というのは「失われた細部」である。いまも残っている「細部」ではない。「失われた細部」ではあるけれど「忘れられた細部」ではない。この具体性を「懐かしい」という。
 それはそれでいいんだけれど。
 見ながら、いまではなく、別の時代に見たなら、もっと感動しただろうなあと思わずにはいられなかった。
 どういうことかというと、私は、どうしても「ベルファスト」ではなく、「ウクライナ」を思い浮かべてしまうのだ。ベルファストで起きたこととウクライナで起きていることは、問題はまったく違うはずなのだけれど、重なって見えてしまう。なぜかというと、ウクライナでも、多くの市民は何が起きているかはやっぱりわからないのではないかと思うのである。市民には、日常しかない。その日常というのは、宗教対立(武力対立)ではなくて、日々の仕事をすること、お金がないこと、学校へ行くこと、女の子にこころをときめかせること、おじいちゃんが病気になること……と、いつでも、どこでも変わりがない。そこへ、自分が望んでいない「武力対立」が踏み込んでくる。ああ、日常はどうなってしまうんだろう、と思う。
 それは「日常とは何だろう」という思いでもある。
 日常とは何か。簡単に言えば「細部」である。そして、その「細部」は他人にとってはどうでもいいことである。父親は出稼ぎに行っている。稼いだ金は競馬につかってしまう。お母さんが泣いている。宿題がわからない。おじいちゃんは、算数のごまかしかたを教えてくれる。好きな女の子の隣の席に座りたい。……という、どうでもいいことが、かけがえのない「日常」というものなのである。そして、それは、不思議としかいいようがないのだが「団結」できないものなのだ。「集団」で守ることができないものなのだ。「集団(たとえば、ふるさと、ベルファストという街、その住民)」の力では守ることができないものなのだ。「日常」はあくまで個人のものであり、それはいつでも簡単に、「日常よりも大切なものがある」という考えによって破壊されてしまうのだ。
 「日常」とは「細部」であり、「細部」とは「個人」のものであるから、そこには概念では整理できないもの、統一できないものがある。
 で、ね。
 それが、この映画では、なんというか「整理」できないはずのものが、とてもていねいに「整理」され、こういう「日常」が失われました、と描き出すのだけれど。
 そこに、私は、つまずいてしまう。
 なぜかなあ。
 私なりに考えれば(私は宗教には疎いので、ただ想像するだけなのだが)、ここにはベルファストを去らなければならなかった一家の背後にある「宗教対立の日常」が描かれていない。カトリックとプロテスタントの対立があったと簡単に説明されるが、その対立の最前線の「日常」というものが描かれてない。
 それを描き始めると、映画はまったく違ったものになってしまう。
 そこに問題がある。描き方では、まったく違ったものになってしまうことを承知で、「記憶」を整理している。整理しすぎている。「家族(家庭)」のなかにまで踏み込んでくる「暴力」を描いてはいるが、それは「踏み込まれた家庭」の視点からのみ描かれていて、「踏み込んで行く暴力」の側の「日常」の視点がない。それがないと「世界」が立体的にならない。
 まあ、これは欲張りすぎた見方かもしれない。

 というのも。

 やっぱり、ラストシーンでは、どうしても涙をこらえることができない。バスで街を出て行く一家。それを見送る老いたおばあちゃん(ジュディ・デンチ)。「振り返ってはダメ」と言う。その声は聞こえないはずなのに、主人公の少年はバスの中から、振り返ってしまう。まるで、その声が聞こえたかのように。子供というのは、してはいけない、と言われたことをしてしまうものだが、そのしてはいけないと言われたことをするかのように。(ふつうは、してはいけないと言われたことをするのは、なんというか、欲望の、本能のようなものだけれど、この映画では、それは生々しい欲望とは違うのだけれど。)
 いつでも、どこにでも「矛盾」はある。その「矛盾」が、ラストシーンで、美しく昇華される形で描かれている。

 

 

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