詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーティン・マクドナー監督「イニシェリン島の精霊」(★★★★★)

2023-01-30 21:34:22 | 映画

マーティン・マクドナー監督「イニシェリン島の精霊」(★★★★★)(中州大洋スクリーン1、2023年01月30日)

監督 マーティン・マクドナー 出演 コリン・ファレル、ブレンダン・グリーソン、バリー・コーガン、ケリー・コンドン

 打ちのめされる。希望しか存在しない絶望というものがある。一方、逆に、絶望が唯一の希望ということもある。この映画は、ふたつが交錯するのだが、私は、後者に強く揺さぶられた。
 希望しか存在しない絶望をコリン・ファレルが演じ、絶望しか存在しない希望をブレンダン・グリーソンを演じるのだが、映画のなかの年齢で言えば、ブレンダン・グリーソンに近いせいか、彼の絶望と希望(欲望といってもいい)に「チューニング・イン」してしまう。
 絶望のために、彼は、自分の指を切り落とすのだが、それしか希望を実現する方法がないからである。絶望と引き換えに、音楽を完成させる。それ以外に、方法を見つけることができない。
 この絶望が、コリン・ファレルにはわからない。同じように絶望が唯一希望であるケリー・コンドンにも、わからない。それはブレンダン・グリーソンが音楽をめざしているのに対し、ケリー・コンドンは文学(読書)を支えにしている違いから来るかもしれない。ブレンダン・グリーソンは「つくりだす」愉悦を求めている。ケリー・コンドンは「つくりだす」愉悦を求めてはない。
 言い直すと。
 ブレンダン・グリーソンにとって、音楽がつくりだせるなら、その音楽が「絶望」をあらわしているか、「希望」をあらわしているかなど、問題ではないのだ。だから「絶望」を唯一の「希望」として生きることができる。音楽が完成したとき、左手の指を全部切り落としてしまうが、その「絶望」と音楽を引き換えにする決意があったからこそ、音楽が完成した。そこには、「絶望」の愉悦があるのだ。
 これは、希望しか存在しない絶望しかわからないコリン・ファレルには、わからない。ここに、もうひとつ、絶妙な人間が登場する。希望しか存在しない希望を生きるバリー・コーガンである。彼には、絶望がわからない。警官の父親に殴られようが、オナニーをしながら眠り込んでしまった裸の父親を見ようが、絶望しない。絶望できない。絶望できないというのは、絶望に耐える力がないということである。だから、ケリー・コンドンに見捨てられたと知ったとき、その絶望に耐えられずに自殺してしまう。
 このバリー・コーガンと比較すれば、絶望しか存在しない希望を生きているブレンダン・グリーソンの強さがわかる。彼は、絶望するからこそ、生きていられるのである。指を切り落としたからこそ、生きていられるのである。
 希望しか存在しない絶望という「凡庸」を、しかし、コリン・ファレルは非常にうまく演じている。私は、コリン・ファレルの鋭さのない目(焦点がない目)が好きではないのだが、この映画ではそのおどおどした目も効果的だ。希望とは、彼にとって、いつも自分のなかから生まれてくるものではなく、だれかから与えられる何かなのである。希望をつくりだすことができない。だから、希望しかない絶望というのだが。希望を自分でつくりだせれば、絶望はしない。
 この、何もつくりだせない「凡庸」を端的にあらわしているのが、彼のついた嘘である。ブレンダン・グリーソンを困らせるために、ブレンダン・グリーソンの友人である音楽大の学生に嘘をついて島から追い出す。そのために、バリー・コーガンからも見捨てられるのだが。バリー・コーガンの自殺は、ケリー・コンドンに捨てられたことよりも、コリン・ファレルが信じられなくなった(希望にはなり得なかった)ということが原因かもしれない。
 こう書いてくると、これは映画よりも芝居(舞台)の方がわかりやすくなる作品かなあとも思った。マーティン・マクドナーは、「スリー・ビルボード」が映画というよりも、舞台(芝居)みたいで、少し物足りなかった。「芝居指向」の強い監督なのかもしれない。脚本を書くのも、「芝居指向」のあらわれだろう。今度も舞台っぽいのではあるけれど、舞台(土地)そのものが劇的で、そこにしか存在しない空間の美しさに満ちていて、効果的だった。海と荒野しかないから、人間がむき出しになる。人間の、希望と絶望がむき出しになる。
 私は最近ほとんど映画を見ていないのだが、これは傑作。希望しかない絶望は多くの人が描くが、絶望しかない希望を強靱に描き出す監督は少ない。マーティン・マクドナーは、そのひとりだ。

 

 

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