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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョセフ・コジンスキー監督「オンリー・ザ・ブレイブ」(★★★★★)

2018-07-08 22:36:36 | 映画
ジョセフ・コジンスキー監督「オンリー・ザ・ブレイブ」(★★★★★)

監督 ジョセフ・コジンスキー 出演 ジョシュ・ブローリン、マイルズ・テラー、ジェニファー・コネリー

 ひとはなぜ危険な仕事をするのか。そのことが少しずつ明らかにされていく。
 ジェニファー・コネリーが世話をする傷ついた白い馬が、強い伏線になっている。傷ついているが、ほんとうは美しい馬。同じように、人間は皆傷ついている。その傷から回復するために、ひとは懸命に生きている。
 生きているうちに、見えてくるものが変わる。見えてくるものが変わると、ひとそのものも変わってしまう。これはたいへんむずかしい問題だ。新しいものが見えるようになった自分、その生き方を貫くか、新しく見えてきた世界を選びとるか。つまり、自分の生き方を変えるか。
 マイルズ・テラーが演じる薬物中毒の若者の変化が、登場人物全員の変化を象徴している。厳しい仕事の中で自分自身を更生させていく。そうするうちに、「家族の幸せ」が見えてくる。危険な仕事をしていては「家族」であることができない。自分を立ち直らせてくれた「仕事」を生きるべきなのか、それとも新しい「家族」という世界を選び取るべきなのか。
 ジョシュ・ブローリンはかたくなだ。自分を支えているものが「仕事」だと認識している。「家庭」を選びとり、それを優先させると「生き方」が変わってしまう。自分でなくなってしまう。
 だが、そういう「生き方」は周囲のひとを傷つけてしまう。
 ひとは、自分の可能性を切り開くために生きている。「生き方」を変えるために生きている。変えることができるのに、変えないのは、可能性の否定になる。人間であることの否定ともいえる。
 ね、むずかしいでしょ。
 ちょっと哲学的すぎるかもしれない。映画には向かない「内容」である。でも、これを映画にしてしまうんだなあ。すごい力業だなあ。
 危険がいっぱい、つまりはらはらどきどきのアクションに向いた題材なのだが、山火事をとても「冷静」に描いている。訓練と、延焼防止の作業を、ていねいに描いている。消すというよりも、延焼を防ぐのが仕事。とても「地味」なのだ。この「地味」を、ありふれた日常のように描いている。いや、「日常」として描いている。
 「実話」なので、クライマックスは知っているひとにはわかっていることかもしれないが、私は「事実」を知らなかったので、あまりに淡々とした展開、予想外のことが起きない(ハッピーエンドではない)ということに衝撃を受けた。悲劇なら悲劇で(あるいは悲劇だからこそ)、もっと「劇的」に表現できるはずだが、いつのも「日常」のように描いている。
 その悲劇のあとのもうひとつのクライマックスでも、マイルズ・テラーがたいへんむずかし役どころを演じている。自分の存在が他人にどんな影響を与えるか。彼は知らない。自分の「欲望」にしたがって行動するが、それは多くのひとの「希望」を一瞬のうちに叩き壊す。ことが起きてから、マイルズ・テラーは自分がしたことの「意味」を知る。ひとは、いつでも「意味」をあとから知るのだ。
 ほんとうの最後の最後、ジェニファー・コネリーが傷が治った馬に乗って荒野を行く。遠くの山に野生の馬が走っている。ひとは、自分の「野生」を生きるしかないのである。それを実ながらジェニファー・コネリーは、人間は自分の「野生」を生きるものだと納得したように感じた。
(2018年07月08日、ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン9)


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ロマン・ポランスキー監督「告白小説、その結末」(★★★)

2018-07-04 18:55:53 | 映画
ロマン・ポランスキー監督「告白小説、その結末」(★★★)

監督 ロマン・ポランスキー 出演 エマニュエル・セニエ、エバ・グリーン

 うーん、気持ち悪さは「ローズマリーの赤ちゃん」以来か。途中から「ミザリー」みたいな雰囲気になるが、気持ち悪い分だけ、この映画の方が上手か。

 「事実にもとづく小説」というのが最後に出てくるが、この「事実」というのがくせものだね。
 作家(エマニュエル・セニエ)に近づいてくる「エル」と名乗るファン(エバ・グリーン)はゴーとライターをやっている。この段階で、すでに「ニセモノ」がまぎれこむのだが、「ニセモノ」だけれどゴーストライターは「事実」。でっちあげの話かもしれないけれどね。そのエバ・グリーンには架空の友達キキという人間がいる。ということは、そのキキというのはエバ・グリーンがでっちあげた「ニセモノ」。でも、それは「事実」として存在する。
 で、問題は。
 「エル(彼女)」は実在する人間なのか。それともキキのように架空の存在なのか。エマニュエル・セニエの空想なのか。架空の人間なのか。空想・架空だとしても、エマニュエル・セニエにとっては「事実」として存在する。
 「事実」というのは、なかなかむずかしい。
 この映画の主人公の作家は、家庭の秘密(個人的事実)を書いて、小説家として成功した。そのときの「事実」とは、読者にとっては単なる「事実」だが、家族にとっては「存在してほしくない事実(事実であるけれど、それは公開したくない事実)」。言い換えると、家族にとっては、それは「客観的事実」であるよりも前に「主観的事実」なのだ。できることなら、「主観的事実」のままにしておきたい。「客観的事実」にしたくない。
 これが、問題をややこしくする。
 「主観的事実」というのは「客観的事実」よりも重い。個人にとって、重くのしかかってくる。
 さて、ここから、少し逆戻りするのだが。
 「エル(彼女)」がキキと同様に、客観的事実ではなく主観的事実だとすると、どうなるのか。殺鼠剤で毒殺を図るというのは架空の物語で、自殺を図ったというのが事実になってしまう。「エル(彼女)」がゴーストライターとして書き上げた小説が主観的事実ではなく、客観的事実になる。
 そして、その主観と客観を区別する(判断する)のは、作家(エマニュエル・セニエ)でしかない。

 この主観的事実、客観的事実というのは、ロマン・ポランスキーにとっての、永遠の課題なんだね。アメリカを追放された原因の「少女暴行」。これも、主観的事実と客観的事実のあいだで揺れ動いているということだろうなあ。

 それにしてもなあ。
 ポランスキーの「好み」って、どうも健康的じゃない。病気(?)といいたくなるような、いやあな感じを含んでいる。「ローズマリーの赤ちゃん」のミア・ファロー(その後、ウディ・アレンと結婚したけれど)も何か暗くて気持ち悪い感じがするけれど、今度のエバ・グリーンは、もっとすごい。私は、あ、一緒にいたくない、と思ってしまうんだけれど、ポランスキーには刺戟的なんだろうなあ。
 しかし、こんなふうに、こんな女は嫌い、近づきたくないと実感させる映画というのは、きっといい映画。この女に近づきたいと思わせる映画よりも、すっと変なパワーをもっている。
 そうわかっていても、私は★4個にはしない。


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石井岳龍監督「パンク侍、斬られて候」(★★★)

2018-07-01 20:38:21 | 映画
石井岳龍監督「パンク侍、斬られて候」(★★★)

監督 石井岳龍 出演 綾野剛、北川景子、東出昌、染谷将太、浅野忠信

 町田康原作、宮藤官九郎脚本。これだけで予想がつく映画。予想を裏切ることもないが、超えることはない。
 あまりにも文学的な、そしてあまりにも演劇的な。
 つまりね。「ことば」を聞いていないと、実際に何が起きているかわからない。言い換えると、「事件」はことばのなかで起きている。これを、どう肉体化するか、が問題。「芝居」にせずに「映画」にするには、どうすればいいか。
 先日見た「焼肉ドラゴン」と比較すると、「パンク侍」の方がはるかにすぐれている。いちばんの要素は、「パンク侍」はことばを聞かせているのだけれど、「意味」は聞かせていない。ことばなんて、そのときそのときの「本音」を語るだけ。そこに「ほんとう」があるとすれば「理想」とか「真実」という美しいものではなく、「欲望」。「生きたい」という欲望(生きなければならないという切実な欲望)が、瞬間瞬間にことばを変えてしまう。一貫性が内容に見えるが、そこには欲望の一貫性がある。
 で、この「欲望の一貫性」を別な形で見せるのが「肉体」。「肉体の欲望」なんて、とっても簡単にできている。「死にたくない」と「気持ちいい」を感じたい。それ以外は、みんな嘘。つまり「ことばの正義」というものだね。
 あ、少しずれた。
 この「欲望の一貫性」を別な形で見せるのが「肉体」であり、芝居は芝居小屋の中で実際に役者が動くので、そこに強みがある。どんなむちゃくちゃな飛躍があっても、舞台の上では「役者」の「肉体」は一貫して存在し続ける。「肉体」が消えてしまうことも、別な存在になってしまうこともない。
 映画は実際には「肉体」があるのではなく、映像しかない。映像は、そして「連続」していない。一貫していない。ひとりが映っているとき別のひとりが映っていないときがある。これをどうやって「実在する肉体(一貫性のある肉体)」に変えるか。
 方法としては、単純なんだけどね。アップ。でも、これって、矛盾してるんだよなあ。アップというのは「肉体の切り売り」。全体(一貫性)の否定。
 しかし、日常は見えない部分まで見せてしまうと、「あっ、こういう肉体知っている」と感じが生まれる。顔に人間は反応してしまい、「感情/意識」が動く。そうすると、「感情/意識」が「肉体」の変わりになる。「肉体」全部が見えていなのに、そして「感情/意識」だって一部に過ぎないのに、なんだか「感情」がわかった瞬間、そのひととつながった気持ちになる。「一貫性」が観客の側でつくられる。「共犯」だね。
 豊川悦司がウィンクするでしょ? すると「パチン」という効果音がはいる。ウィンクでそういう音が実際に出るわけではないけれど、聞こえた気がする。ウィンクの音を聞いてしまった綾野剛「肉体」の「意味」がわかる。観客の肉体の中に「意味」が生まれる。観客は「意味」の共犯者になる。こういうことを、うまくつかっている。あくどいんだけれど、そのアクの強いところがいいなあ。
 最後の最後、廃墟になったスラム街(?)がもう一度崩れる。唐十郎(赤テント)の芝居みたいでいいなあ。映画の最後を「芝居」でおわらせるところは、宮藤官九郎が芝居出身だからだろうなあ。
 それにしてもねえ……。町田康って、ほんとうにことばが大好きな人間なんだなあ。なんでもことばにしてしまわないと気がすまない作家なんだろうと思う。これを宮藤官九郎がていねいに拾い上げて脚本にしている。
 ストーリーとか、意味ではなく、このことばにかける情熱をしっかりと受け止めたい映画だな。
(2018年06月27日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン8)

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鄭義信監督「焼肉ドラゴン」(★★★)

2018-06-27 19:57:22 | 映画
鄭義信監督「焼肉ドラゴン」(★★★)

監督 鄭義信 出演 真木よう子、井上真央、キム・サンホ

 私は芝居は見ていないのだが。
 うーん、これは「芝居」そのものであって、映画になりきれていない。

 「芝居」というのは「劇場」(舞台)で役者の肉体がまじりあい、化学反応のようなものを起こす。そこに観客がのみこまれていく。この瞬間が、とても昂奮する。言っていることもやっていることもわからない(でたらめ)なのに、「その場(現場)」に居合わせているために、すべてを納得してしまう。そういうことが起きる。
 でも、映画は違う。映画はカメラが「役者集団」を「役者」ひとりひとりに切り離してしまう。「芝居」では存在しないアップによって、「ひとりの肉体」を拡大し、そこに観客を引き込んでゆくものである。「集団」のアンサンブルがあっても、それは「芝居」のときとは違うリズムで構成される。やっている役者には責任がない。たぶんカメラ、それから編集が問題なのだと思うが、どうも役者と役者の間で動いている「空気」がスクリーンに定着しない。
 唯一、根岸季衣と桜庭ななみが掴み合いのけんかをするシーンが「空気」というか、役者と役者の間に動いているものを再現していたが、これは根岸季衣が「ことば」をつかわずに「肉体」だけで演技していたからだなあ。
 言い換えると。
 他のシーンでは、役者が「ことば」をしゃべるたびに、「空気」がその役者に集中してしまって、他の役者から「分離」してしまう。そばに他の役者がいるはずなのに、「空気」がひとりに集中してしまって、他の役者の存在感が消えてしまう。
 真木よう子は一生懸命、他の役者の存在感を漂わせようとしているが、他の役者はカメラが自分をとらえているということを意識しすぎているというか、ここは自分が演技を見せる番だと気負いすぎているというか。どうも、「広がり」が欠ける。
 舞台だと必然的に見えてくるものが、映画になった瞬間に、見えなくなる。

 「芝居」がどんな具合に上演されたのか知らないが、飛び交う韓国語の「意味」はわからなくても、役者の「肉体」が「意味」ではなく感情を伝える。そこに生身の「肉体」が動いているということが、芝居ではとても強烈である。「肉体」は「共感」を必然的に引き出すものだ。
 映画では、「肉体」が「全身」であるということは少なく、カメラが切り取った「肉体」になってしまう。そこでは「共感」はうまくいけば非常に強くなるが、切り取り方がずれるとまったく重ならない。「ことば」は全身とともに生きているのに「切り取られた肉体」では広がりがない。どうしても「意味」が必要になる。「字幕」が必要なのは、そのためだ。
 これはこれで仕方がないことなのかもしれないが、どうもおもしろくない。「猥雑感」がでない。

 先日見た「女と男の観覧車」も「芝居」がかった映画である。特に、ラスト寸前のケイト・ウィンスレットをとらえた長回しのシーンは「芝居」そのものだが、あれはケイト・ウィンスレットの演技が、映画の中に「芝居」そのものを持ち込んだものだ。ケイト・ウィンスレットは「現実」ではなく「芝居」を生きている。それが「現実(映画)」を「舞台」に変えてしまう。そういう「必然」としての「芝居」が生きている。
 見る順序が逆だったら違った感想になったかもしれないが、感動は少なかった。
 現代のテーマを抱えていて、とても重要な作品だとは思う。安倍に見せてやりたい映画とも言える。でも、そういうことを語ると「意味」になってしまう。
 「芝居」では「意味」を超えて溢れ出ていただろうものが、「映画」では完全に消えて、「意味」が前面に出てしまったということだと思う。

(2018年06月27日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン2)

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ウェス・アンダーソン監督「犬ヶ島」(★★★★)

2018-06-05 11:30:51 | 映画
ウェス・アンダーソン監督「犬ヶ島」(★★★★)

監督 ウェス・アンダーソン 出演 犬のぬいぐるみ、モノクロアニメ

 おもしろそう(予告編)、おもしろい(本編)。
 でも、どういえばいいのかなあ。

 最初から、最後まで「違和感」がある。「異質」を感じる。まあ、ストップアニメーションなのだから、「リアル」とは違う。その「違和感」か。しかし、「リアル」ではないからこそ、「本質」がわかるというか、刺激的という感じもあってねえ。「本物」じゃないから、想像力が「本物」をつくりだしていく、という感じなんだけれど。
 近未来なのに、レトロな昭和の風景。テレビなんか、液晶じゃなくてブラウン管だからね。ゴミの島が、色彩的にとても落ち着いているとか。
 で、ストーリーの後半で、私は、あっと驚いた。
 主役(?)の犬は、当然のことだから犬なので「兄弟」がいる。たいてい、犬は複数の子どもを産む。その「兄弟」が途中で「任務」を交替する。それまでガード犬だった方がノラに、ノラだった方がガード犬に。これは「交替」というよりも、「引き継ぎ」と読み替えればいいんだ。
 「引き継ぎ」をキーワードにして映画を見直すと、いろいろなものが見えてくる。
 ウェス・アンダーソンは「映画」から何を引き継ぎ、何を私たちに手渡そうとしているのか。
 随所に黒沢明の映画を思い出させるシーンがある。遠くのゴミの山の上に立っている犬とかね。音楽とか。さらには、「恋愛」シーンのぎこちなさというか、つつしみ深さというのは黒沢映画を見ている感じがするなあ。北斎の浮世絵の簡潔なのに激しいリズムがあるところとか。こういう「文化」そのものを「引き継いでいる」。「ものの見方」を「引き継ぎ」、それを「映画」として新しく生み出している。これが、この映画なんだね。ストーリーとは関係ない相撲なんかも、肉体が表現する「定型」の美しさの象徴なんだろうなあ。
 でも、どんなときでも「引き継ぎ」というのは、むずかしい。時代が違う。言い換えると「時代が要求するもの」が違う。何らかの「変化」をつけくわえないと、「引き継ぎ」は「破壊」になってしまう。バランスが求められる。それを、どうやって形にするか。ウェス・アンダーソンは「色彩」のなかで「統一」してしまう。「色彩」として、「新しい動き」を生み出している。どの映画でもそうだが、ウェス・アンダーソンの「色彩」は不思議な「統一感」がある。「色彩」の「統一」のなかに、「引き継ぎ」をのみこんでしまうといえばいいかなあ。一種の「力業」だ。

 まあ、こんなことは、どうでもいいんだけれど。
 でも、私がいちばん感動したのは、この「引き継ぎ/交替」に関係するシーンだから、やっぱり「どうでもいいこと」ではなく「重要」なことなのだろう。
 私がうれしいなあ、このシーンいいなあ、と思ったのはガード犬がノラになって、神社の縁の下で家族で暮らすシーン。人間のことなんか気にしていない。妻がいて、子どもがいて、それだけで満足。ノラといっても、神社なので(?)神主が食べ物をもってくる。子どもには小さい器。親には大きい器。小犬は自分たちの「境遇」なんて理解しない。運ばれてきたフードを無心に食べている。それを親は自然なこととして見つめている。「こういう暮らしはいいよなあ」と二人(二匹?)で、ことばも交わさずに感じている。
 これって、一種の「理想」だね。
 ここで「引き継がれているもの」は、家族がいっしょに生きている、という事実。ほかのことは気にしない。家族以外のだれかを「守る」なんて、がんばってすることではない。

 ひるがえって。
 この映画に描かれる「暴君」。「法律」で人間と犬を縛ろうとしている。「法律(政治)」が気になる。
 これは変なことなのだ。
 「法律」なんて何も知らなくも、「社会」が生きている人間を守る、というのが「理想」が実現された世界だろう。「法律」を知らないと他人に支配されてしまう、「法律」を知っている人間だけが「利益」を受ける、というのはおかしい。
 これって、いまの日本だね。
 文書を改竄する。訴追されるかもしれないから、なぜ改竄したのか、答えない。でも、その改竄が結論に影響しないから改竄ではない。法に問われない。それを知っている人間だけが「訴追されるかもしれないから答えない」と言って逃げ抜き、改竄を利用した人間も、「改竄は他人がしたこと」ということで法に問われない。
 「法」を知らずに、「でも、こんなことしちゃいけないよなあ」と思って生きている人間は、どんどん「下層」に追いやられる。支配されて生きていくしかない。
 困ったときに助けてくれるのが「法律」や「憲法」であるべきなのだ。
 映画にもどっても。
 犬が病気だから、犬を「ゴミの島」に追放するというのは「法律」としておかしい。犬が病気なら犬の病気を助けてくれるのが「法律」であるべきなのだ。実際に、そのために動いている人間も描かれている。
 こういう「人間の基本」も引き継いでいかないといけない。

 ちょっと映画そのものからは外れる感想になってしまった。

(2018年06月01日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン4)

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沖田修一監督「モリのいる場所」(★★★)

2018-05-23 20:25:27 | 映画
沖田修一監督「モリのいる場所」(★★★)

監督 沖田修一 出演 山崎努、樹木希林、林与一

 画家なのに、絵を描くシーンがない。これはおもしろくない。せめて、現実の風景に重ねるようにして「絵」を紹介してほしかったなあ。熊谷守一のファンなら、絵を思い出せるはず、ということかもしれないけれど、不親切だなあ。
 山崎努がじーっと蟻を見つめる。虫を見つめる。草花を見つめる。そのときは、「絵」を描かない。蟻や虫や草花、猫を覚えているのか。形と色を、頭の中に叩き込んでいるのか。そうではないだろうなあ。蟻や草花になっているのだ。
 とてもおもしろいエピソードがある。熊谷守一の庭には「池」がある。川でとってきた魚を話すために池を作った。池の水は土に吸い込まれていく。それでは魚が死んでしまう。どうするか。毎日毎日、池を掘り続ける。井戸掘りのように「水脈」にであうまで掘り下げていく。やっと水の減らないことろにまでたどりつく。15年かかったそうだ。これはたんに池を掘ったということではない。熊谷は池になったのだ。
 これと同じように、熊谷は、そこに生きているいのちを守ることで、そのいのちそのもるになる。蟻やカマキリや猫の絵を書いているのではなく、絵の中で熊谷は蟻やカマキリや猫になっている。そうなるまでに何十年とかかっているということだ。
 これを象徴的に語るのが、蟻を見つめるシーン。地面に顔をつけて蟻を見ている。そしてカメラマンに向かって、「蟻は左側の前から二本目の足から動かして歩く」と説明する。これは「見える」ということではなく、蟻になって動くから、それがわかるのである。カメラマンは、わからない。カメラマンの助手も「速くてわからない」と言う。これは、「見ようとする」から見えないのだ。蟻になってしまえば、蟻として動くしかない。どこかへ行くにはどの足から動かすかは、とても重要だ。
 似たシーンに、草に対して「いつ生えてきたのか」、落ちている石に対して「どこからやってきたのか」と問いかけるシーンがある。「生まれる」「やってくる」。それは「動き」である。何もかもが動いている。動くことが生きるということだ。熊谷は「絵」のなかで「絵に描かれたもの」を生きている。生まれ変わっている。
 映画の冒頭、昭和天皇(?)が、熊谷の絵を子どもの絵と勘違いする。このことも、熊谷は「絵として生まれている」ということを証明する。天皇の素朴な感想は、意外と熊谷の絵の本質をつかんでいる。「絵として生まれてきた」ばかりなのである。その「絵」は「生まれたての赤ん坊」なのである。その絵は、見るひとの視線の中で、育っていく。そういう絵なのだ。
 そういう意味では、絵を描く前の時間は、「絵になる(絵として生まれ変わる)」時間を描いていることになり、それはそのまま「絵の制作過程」と読んでもいいものなのだが、これは、なかなかつらい。
 絵ではなく、「文字」を書くシーンがあるが、このときも筆に墨をつけるところまでは見せるが、実際の筆の動きは見せない。これはこれで「工夫」なのかもしれないが、はぐらかされた感じになる。
         (2018年05月23日、KBCシネマ1)


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アクタン・アリム・クバト監督「馬を放つ」(★★★★+★)

2018-05-17 08:57:39 | 映画
アクタン・アリム・クバト監督「馬を放つ」(★★★★+★)

監督 アクタン・アリム・クバト 出演 アクタン・アリム・クバト

 私は田舎に育った。空と山と田んぼがあるだけである。馬は、私の暮らしにはなかった。馬を飼っていて、馬車で荷物を運ぶ仕事をする人が近くにひとりいたが、私の日常ではなかった。だから、この映画に描かれいる「神話」が直接的に「肉体」に迫ってくるわけではないが、空と山と草原しかないという自然はぐいと迫ってくる。ふいに、こういうところで「生きたい」という欲望が動く。最初に「世界」だと認識したものを突きつけられた気持ちになる。「肉体」が無防備に、裸になる。
 どの「土地」にも「神話」がある。それは語られることもあれば、語られないこともある。私の田舎では語られなかった。だから、それは自分の「肉体」をさらけだして、「世界」とひとつになって「感じる」しかないものなのだが、私は木に「神話」を感じた。どの木もただ、そこに生えている。大きい木もあれば小さい木もある。これから育つ木である。「木はどこでも育つ(大きくなる)」というのが私の「肉体」が感じ取った「神話」である。木になりたいという「気持ち」が私の「肉体」のなかにある。そういうこともあって、最近はただ空があり、山があり、平地があるという風景に非常に強くひかれる。

 映画とは関係がないこと書いている気がするが、もう少し。
 そういうところで育ったので、私は「ことば」というものを幼いときは意識しなかった。小学校に入る前の日に、父親に「名前くらい書けないといけない」というので、名前だけ「ひらがな」をならった。それは、私にとっては、たいへんな衝撃だった。だから、いまでもこのことを覚えてい。それから学校で、「教科書(本)」をもらい、「ことば」というものがあることに驚いた。それまで私は「ことば」というものを知らなかった。「声」は聞いていたが「ことば」とは感じなかった。「声」が何かを伝えるのであって、「ことば」で世界ができているとは思っていなかった。(こういうことは、もちろん、「いま」振り返って思うことであって、小学校に入学したときは、そんなことは思わなかった。「文字(ことば)」が読めるようになると、知らないものが目の前にあらわれてきた。それまでは知らないものなんかなかった。)

 で、ここから、私の映画の感想ははじまるのだが。
 主人公には子どもがいる。妻がことばを話せないために、子どもの「ことば」がなかなか発達しない。父親の話をとても楽しそうに聞くが、子どもは話さない。もしかしたら、子どもも障碍をもっているのではないか。そういう不安もある。
 この「自分のことば(声)」をもたない子どもというのが、なぜか、私には小学校に入る前の自分の「肉体」に見えてくる。私は自分の名前を書く前に、どんなことばを話したかまったく覚えていない。腹が減ったとか、ごはんが食べたいと言った記憶もない。覚えているのは、藁であんだ「火鉢」のようなところに座ったままおしこめられて泣いていたこと。「火鉢」の部分は「おもり」になっているのか、どっちへ転んでも起き上がりこぼしのように起き上がってしまう。泣いて泣いて泣いていた。そのとき「世界」は、やっぱり空と山と田んぼだった。木が見えていた。けれども、それはひとつひとつを「区別」して見るものではなくて、全部が「ひとつ」になっていた。「自我」もないし、「他我」もない。「文字」を覚え、「ことば」を覚えてからも、それは「ことば」というよりも空、山、木、田んぼというものだったかもしれない。木の一本一本に「名前」があるわけではないが、私は、昔はどの木も全部区別ができたと思う。写真を見せられれば、これはどの家の柿の木とか、これはどこそこの山の杉とか、それがわかったと思う。
 この「ことば」をもっているのかどうかわからない子ども(話せるかどうかわからない子ども)に、父親は一生懸命、キルギスの「神話」を語る。「馬は人間の翼だ」という「神話」。人間を自由にするのが馬だ。父親自身は、馬を「放つ」(自由にする)ために、馬泥棒をする。そして、一晩中、馬を乗り回す。馬に乗りながら、手を広げ、空を飛んでいる気分を味わう。「馬は人間の翼だ」ということばを「肉体」で確かめる。こんなふうに人間を解放してくれる馬を食べるなんて、主人公には納得できない。馬とともに生きた時代、遊牧民として自由に暮らしたい。血が、そう騒いでいる。馬を乗り回すときだけ、その血は静かになる。
 「ことば」を話さない子どもにとって、「ことば」は「馬」である。子どもが「ことば」を話せれば、子どもは「自由」を手にすることができる。「自由」とは「世界」に出て行くことである。「世界」と交わることである。

 でも、これは、あとから考えたこと。映画を見ていたときは、そこまでは考えていなかった。

 最期の方、村を追放された主人公が、つかまえられた馬(野生の馬?)を解放する。トラックから馬が飛び下り、野を駆ける。主人公は、「馬泥棒」(ほんとうは盗んではいない、自分ものにするのではなく、馬を「放つ」だけであるのだが)として、追われる。川を逃げるとき、隠れるところがないので、撃たれてしまう。
 このシーンを子どもは目撃しているのではないが、それに重なるようにして「父ちゃん」とはじめて明確な声を出す。「ことば」を話す。
 この瞬間に、私は涙があふれた。突然、それはやってきた。まさか涙が出るようなシーンがあるとは思っていなかったのだが、主人公が自分のいのちを投げ出して子どもに「ことば(声)」を与えた、という「神話」がそのとき完成し、それに驚いたのだ。
 馬が、そのむかし、キルギスの人に「翼」を与えたように、馬が人間の翼になったように、「ことば(声)」は子どもの「翼」になる。子どもに「翼」を与えるために、父は身を投げ出して「神話」を完成させた。「ことば(神話)」は子どもに引き継がれていく。最後の馬に乗って平原を駆ける男は、父が最後に見る「夢」ではなく、子どもの将来の姿を暗示している。
         (2018年05月16日、KBCシネマ1)


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ルカ・グァダニーノ監督「君の名前で僕を呼んで」(★★★)

2018-05-10 01:07:27 | 映画
監督ルカ・グァダニーノ 出演 アーミー・ハマー、ティモシー・シャラメ

 北イタリアが舞台。青年と少年の恋愛を描いているのだが、北イタリアというのが、微妙だなあ。ギリシャ時代の彫刻が出てくる。そのギリシャ彫刻の魅力について「腹に贅肉がついていない」というようなことを語らせたりしているから、同性愛の遠因(?)をギリシャに求めているのだと思う。でも、舞台は、ギリシャから遠い北イタリア。
 ここに不思議な「距離感」がある。直接つながっていない、強い交渉があるわけではない、という感じがしない。でも、つながりがないわけではない。イタリアでも南部の方、シチリアあたりだとまた違った感じになるのだろうなあ。
 映画の見どころは、少年(ティモシー・シャラメ)の描き方。音楽や文学に造詣が深く、感性が非常に繊細。趣味で「編曲」をしたりしている。その少年がギリシャ彫刻そのままの青年(アーミー・ハマー)に惹かれていく。どう感情を伝えていいのかわからないのだけれど、「わからない」ことを武器に青年に迫っていく。
 「ぼくには秘密がある」「秘密はそのままにしておいた方がいい」「言わなくても、何が秘密かわかるだろう」という具合に。
 このときの「婉曲的」というか、不思議な「距離感」がおもしろい。少年は「編曲」でみがいた感覚を、「ことば」にも応用しているのかもしれない。「編曲(アレンジ)」のなかに「本質」をしのびこませる、あるいは隠す。
 青年は、こういうことが苦手だ。というか、「直接的」(編曲されていないもの)の方が好きである。少年がギターで演奏した曲が好き。でも、バッハをあれこれ「編曲」したものは好きではない、という具合に。
 「編曲」というのは、やっぱり「距離感」というものを含んでいるしれない。「音楽」だけでなく、「ことば」においても。
 そして、これは、やっぱり北イタリアとギリシャの距離感とどこか重なる。青年がアメリカ人、少年がイタリア人という「距離感」もある。青年と少年という「距離感」もある。
 「距離感」と同時にというか、「距離感」があるからこそなのか、その「距離」を少年は「衝動」で渡り切ろうとする。「ぼくには秘密がある」と言ってしまうのも「衝動」である。青年の方は「衝動」を抑えられるが、少年は抑えられない。「衝動」を生きているがゆえに、少年は青年に恋しながら、少女ともセックスをする。「距離」をそのままにしない、「距離」を乗り越えるという力がある。そこにバッハの原曲のような、ストレートな強さがある。
 ストレートな伸びやかさと、編曲の技巧。ふたつが交錯する。編曲の技巧を捨て去って、ストレートな欲望(よろこび)を発見していく過程を少年は具体化しているとも言えるかなあ。
 うーん。でも、どうも映画にのめりこめない。
 私が青年でも少年でもない、もう年をとった人間だからだろうか。
 私が映画を見た日は水曜日(レディースデイ)だったせいか、ほとんどが女性客だった。女性は、この映画の「だれ」に感情移入してみているのだろうか。想像するに、「少年」を「少女」としてみつめ、「少女」になって感情移入しているのではないのか。ふと出会ったひとに恋をして、身悶えする。その苦悩。純粋な苦悩へのあこがれを、いつまでも抱いていられるのが女性なのかもしれないとも思った。
 自分の中に「純粋」がまだある、と信じるのは、私なんかは、もう「めんどうくさい」と感じてしまうのだけれど。だから、ラストシーンで少年が暖炉の火をみつめる長い長いシーンは、「あ、こんなに集中して演技ができるなんて、ものすごいなあ。天才だなあ」と思ってしまう。ストーリーよりも、「演技力」の方に見とれてしまって、それがいちばんの印象になってしまう。
         (2018年05月09日、KBCシネマ2)


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ジョージ・クルーニー監督「サバービコン」(★★★★★)

2018-05-06 20:40:47 | 映画
ジョージ・クルーニー監督「サバービコン」(★★★★★)

監督ジョージ・クルーニー 出演 マット・デイモン、ジュリアン・ムーア、オスカー・アイザック

 この映画のポイントは。
 ジュリアン・ムーアが双子を演じること。演じるといっても、最初の部分だけで、あとは「ひとり」の役。
 で、「双子」っ何だろう。
 よほどのことがないかぎり、見分けがつかない。
 私の姪に「双子」がいる。一卵性なので、見分けがつかない。私は、その子守をしたくらい「長い」付き合いだが(おしめを変えてやったこともある)、ぜんぜん区別ができなくて、二人がいっしょのときにだけ呼ぶ。どちらかが返事をする。こうすると間違えずにすむからね。
 何が言いたいかって……。
 「ひと」はなかなか「ひと」を見分けることができない。「外観」で「本人」をつかみとることができない。この「哲学」がおもしろい形で映画になっている。
 「サバービコン」は郊外の振興住宅地。そこには「金持ち」だけが集まってくる。似たもの同士(双子同士)。そこへ「アフリカ系」の家族が引っ越してくる。「アフリカ系」と言っても、ひとりひとり違うのだけれど、「同じ白人の金持ち集団」から見ると、ひとくくりにして「アフリカ系」。「個人」が見えない。つまり、「ひと」として「見分ける」ということがおろそかになる。「白人の金持ち」はひとりひとり見分けられる。「双子同士」だから。「個人」として認められるが、「アフリカ系」は「個人」としては認められていない。「双子」ではないから、「個人(対等な人間)」として認めなくないのだ。
 その新興住宅には「アフリカ系」は「一家」しかいないのだが、その「一家」に「アフリカ系」の全部を押しつけてみている。そして、「アフリカ系」のすべてを、そこから引き出し、「出て行け」と騒ぎ始める。「個人」ではなく「双子」、いや「双子」をかってに想像のなかでふくらませて「集団」として見ているといえばいいのかな。
 ほんとうは「人間」として違いがないのに、皮膚の色で「違い」を単純化する。「アフリカ系」は犯罪とつながっている、とかってに決めつける。だから「出て行け」という。その「出て行け」運動の方が「犯罪」になるとは、すこしも考えていない。
 こういう動きがある一方。
 「白人」の方にも「違い」があるはずなのに、その「違い」を見ようとはしない。つまり、「白人」は全員善良である。「金持ちの新興住宅」には「悪人」はいない。いても、見つからない。これを利用(?)して、この映画のメインストーリーは展開する。
 でもね。
 ひとは「見かけ」ではわからない。ここからが、「テーマ」だね。
 ジュリアン・ムーアは髪の色で違いを出していたが、髪の色を変えてしまえば、もう、わからない。「双子」のどっちが好きなのか。マット・デイモンにも、わからない。妹(姉?)の方が魅力的? そう感じるのは、なぜ? たぶん、「悪人」の方が魅力的なのだ。「悪」の匂いというは、ひとを昂奮させる。「悪」にひとは惹きつけられていく。
 白人集団が「アフリカ系は出て行け」と暴走するのは、一種の「悪」への陶酔だ。平和を愛するというよりも、「悪」を行うことの方が、何か解放感があるからだろう。
 おもしろいのが(?)、マット・デイモンとジュリアン・ムーアのセックス。地下室で(たぶん、地下室をマット・デイモンの寝室にしたのはこのためなのだが)、マット・デイモンがジュリアン・ムーアの尻をぶっている。セックスというのは、当人同士の問題だから何をしてもいいのはいいのだけれど、ここでは「暴力」が快感になっている。「悪」の喜びだね。それを子どもに見られる。子どものほうが正常で、灯を消して見えなくする。「双子の姉」が殺されたのは、「悪」の要素が少なかったからだ。
 最初の方のシーン。殺されるジュリアン・ムーアは、子どもに対して、「引っ越してきた家には子どもがいる。いっしょに野球をしたら」と促す。彼女には「人種差別」の意識がない。いわゆる「善人」である。だから、殺されたのだ。
 「善」と「悪」は双子で、それは「区別」がつかない。
 この「哲学」から、この映画は見直すとおもしろい。もう一度見る、というのではなく、意識の中で反芻するという形で、見直す。
 いちばん象徴的なのが、クライマックスのサンドイッチとミルク。それはおなかがすいては眠れない子のための食事だったはずだ。子ども思いの母親がつくる料理だ。けれど、そのサンドイッチとミルクには睡眠薬(?)が大量に含まれている。食べた人間を殺すためにジュリアン・ムーアがつくったものだ。けれど、それを子どもは食べない。帰ってきたマット・デイモンが何も知らずにぱくぱく食べる。「善」だと思って食べる。しかし「悪(毒)」だった。
 これは保険調査員(ジョージ・クルーニーの「双子」と勘違いしそうな風貌で、オスカー・アイザックが演じているのが興味深い)に出された洗剤入りコーヒーも同じだけれどね。ジュリアン・ムーアは一貫して、「親切」を装って「悪」を働いている。「親切」か「悪」か、「外見」ではわからない。それは「双子」なのだ。
 マット・デイモンが、「悪人」であるとわかるにしたがって、どんどん太っていく。「ひとり」なのに「双子」のうちの「ひとり」のように膨らんでくるのがなんともいえずおもしろい。

 ラストシーンも、「意味深」である。
 残された少年が、アフリカ系の少年と野球(キャッチボール)をする。ふたりはどうみても「双子」ではない。似ていない。けれど、二人のあいだをポールが往き来する。交流がある。もし、ほんとうに「善」があるとすれば、そういう異質なもののあいだで成り立つ交流のことだろう。ここにコーエン兄弟の「夢」、アメリカの「夢」が描かれているともいえる。
 でもね、良く見ると、二人のあいだには「垣根」がある。「垣根」を挟まないと交流(善)が実現しないというのが、いまのアメリカの姿である、と告発しているようにも見える。

(2018年05月06日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティー、スクリーン9)


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ファティ・アキン監督「女は二度決断する」(★★★)

2018-05-05 09:35:32 | 映画
監督 ファティ・アキン 出演 ダイアン・クルーガー

 見ていて楽しい映画ではない。特に裁判のシーンが厳しい。裁判というのは、「事件」を「ことば」で点検しなおす作業である。
 爆弾テロによって、夫と子どもが犠牲になった。それだけでも残された妻(主人公)にとってはつらい。「ことば」はそれだけで十分である。しかし、裁判では、そうはいかない。子どもがどんな状態で死んだか。細部が描写される。肉眼は一瞬で全体をつかみとる。ことばは細部を積み重ねながら全体を完成させる。そこには「持続」というものがある。「時間」が、ある。「時間」が「一瞬」ではなく、何度も往復する。最初に聞いたことばが、次に聞くことばのなかでよみがえり、それが増殖する。
 何と言えばいいのだろう。イギリスはシェークスピアの国、ことばの国である。しかしまたドイツもことばの国である。ただし、そのことばは「劇(シェークスピア)」のように何人もの違いを描き出すためにあるのではなく、一人の「人格」を確固とするためにある。「ドイツ哲学」ということばがあるが、これだな。「人格」を構築するのである。「人格」が「哲学」そのものとして動く。
 ダイアン・クルーガーは、夫と子どもを奪われた犠牲者であると単純化されない。ドラッグ依存症であるかどうかはわからないが、ドラッグをつかっている。そのことも裁判で問われる。ダイアン・クルーガーの「ことば(目撃証言)」は信頼できるのか。これは「人格」が信頼できるか、「ことばの運動」が「哲学」として信頼に耐えうるかということである。
 「ことばの運動」は、どこまでも「整合性」が問われる。爆弾をつくったと思われる現場には、「犯人」と指摘された人間以外の指紋があった。その、だれかわからない人間が「犯人」である可能性もある。「ことば」はそれを否定できない。「論理」はそれを否定できない。だから、「犯人」と思われる人間は「無罪」になる。
 さて。
 この、「不条理」としか言いようのない「現実」を、主人公はどう乗り越えることができるのか。
 ダイアン・クルーガーは、裁判で証言した男の「ことば」が事実かどうか、それを確かめにギリシャまで行く。そして「ことば」が嘘であったとつきとめる。だが、それをもう一度「ことば」として証明しなければならない。控訴して、もう一度、「裁判」の場で、「ことば」を動かさなければならない。
 だが、「ことば」はいつでも「真実」に寄り添うわけではない。
 それに、ダイアン・クルーガーは「裁判のことば」を求めているのではない。「他人のことば」を求めているのではない。そういうものは、もう、聞きたくない。自分自身のことば、「自分の哲学」を完成させたいだけである。
 で、というか、しかし、というか。
 このとき最後の「決断」を促すのは、やっぱり「ことば」なのだ。
 ある日の海辺。親子で楽しく過ごしている。ダイアン・クルーガーは日焼けオイル(日焼け止めオイル?)を塗ったばかりである。(これは、ダイアン・クルーガーの「タトゥー」と遠い伏線になっている。「外面/内面」という問題を提起している。)でも、子どもが「こっちへきて」と海の中から呼んでいる。夫も、そこにいる。「こっちへきて」。それは「遠い声」であり、同時に「非常に近い声」でもある。ダイアン・クルーガーの「肉体」のなかから聞こえる「声/ことば」である。
 ダイアン・クルーガーは、その「ことば」に身を任せる。

 こういうことが、ドイツではじまり、ギリシャで終わる。雨のドイツ。太陽の光の降りそそぐギリシャ。
 ギリシャはまた「哲学」の国である。ことばの国である。
 ソクラテスは自分のことばにこだわったが、最後は他人の「ことば(判決)」に従った。「ことば」が「ことば」であることを守り通した。
 ダイアン・クルーガーは「他人のことば」ではなく、「自分のことば(肉親のことば)」を「生きる」。
 ソクラテスの生き方も、ダイアン・クルーガーの生き方も、ふつうのひとにはできない。「ことば」と自分のいのちを完全に向き合わせることはできない。
 いろいろ考えさせられる。
 ダイアン・クルーガーは「ことば」(小説)でしかできないようなことを、「肉体」で具現化している。まさに「体当たり」の演技である。それは壮絶だが、壮絶だからこそ、何とも気が重くなる。分厚い「ドイツ哲学(書)」をつきつけられている感じだ。ドイツではじまり、ギリシャへ帰り、そこで「結論」を出すという、ドイツ人の「哲学史」そのものを見ている感じだなあ。



 補足。
 「ことば」の問題、「だれのことばか」は冒頭から問われている。車にはねられそうになったダイアン・クルーガーは、車に罵声を浴びせる。同じように子どもも悪態をつく。ダイアン・クルーガーは、「それはだれのことば?(だれから習った?」と問いかけている。
 家宅捜索でドラッグが見つかったとき、ダイアン・クルーガーは「自分でつかった」と答える。母親は「なぜ、夫のものだと言わなかったのか」とあとで問い詰めている。
 「ことば」なしに人間は考えられない。「ことば」で何を考えるか。「ことば」を発するとき、そこに何が「生まれている」のか。
 「ことば」が「生んでいる」ものが「自分」であるかどうか、「自分」が「自分」であるためには、何が必要なのか。
 そこから見直すことが求められる映画かもしれない。
(2018年05月03日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティー、スクリーン5)


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チャン・フン監督「タクシー運転手」(★★★★+★)

2018-04-30 10:12:39 | 映画
チャン・フン監督「タクシー運転手」(★★★★+★)
                  (2018年04月29日、t-joy 博多スクリーン5)
監督 チャン・フン 出演 ソン・ガンホ、トーマス・クレッチマン

 これは韓国の「ペンタゴンズ・ペーパー」と言えるかもしれない。政府が「不都合な事実」を隠す。「事実」を「過少」に伝える。それをジャーナリズムがあばく。
 しかし、大きく違う点がある。
 「ペンタゴンズ・ペーパー」では「事実」を発見するのがジャーナリストであるのに対し、「タクシー運転手」ではタクシー運転手であることだ。「情報」の外にいた運転手が、現場にまきこまれてしまう。そこには「情報」というような、整理されたものはない。「事実」がただあるだけだ。軍隊が国民に向かって銃を撃っている。国民を守るための軍隊なのに、国民を殺している。負傷者を助けようとするひとまでも狙っている。動きが遅いから狙いやすいのである。反抗してこないから効率的なのである。
 さて、どう向き合うことができるか。
 運転手の「目的」は金だった。金があれば家賃が払える娘に靴を買ってやれる。平穏に暮らせる。しかし、「事実」を知ってしまうと、それだけではすまなくなる。
 この映画でいちばん興味深かったのは、運転手が光州にドイツ人ジャーナリストを置き去りにして、ひとりでソウルへ帰るシーンである。その途中、食堂に入る。食堂に集まってきている人たちが光州事件について話している。それは彼が見てきた「事実」とはまったく違う。多くのひとは「事実」を知らない。
 何ができるだろうか。
 食堂で、「事実は違う。私は光州で、こういう光景を見てきた」と語っても、だれにも伝わらないだろう。無残に死んで行く光州市民のために何ができるか。
 彼を動かしたのは何なのだろうか。光州市民を見殺しにはできないという「正義感」か。「ジャーナリズム」の必要性に、このとき気づいているとは言えないかもしれない。けれど、「情報」には「事実」と「ねじまげられた事実」があるということには気づいている。「この情報は間違っている」と気づいている。
 逃れてきた光州へ引き返す。そうすると事態はいっそう深刻になってる。きのう、音痴だと笑い飛ばした学生が病院で死んでいる。ほかにも数えきれない死者がいる。負傷者がいる。ジャーナリストも茫然としている。ここで、はっきりジャーナリズムの必要性に運転手が気づく。知らせなければ、だれも知らない。「事実」なのに「事実」にならない。
 ジャーナリストを励まし、映像を撮らせ、それからソウルへの脱出行がはじまる。運転手仲間がそれに協力する。「私服軍人」の追跡を命がけで妨害する。みんなが「伝えてほしい、知らせてほしい」という願いを託している。その思いに支えられて、脱出行は成功する。
 このあと運転手は、運転手集団というか、市民のなかに隠れてしまう。姿をあらわさない。自分の仕事は、そこまで、とはっきり意識している。光州市民を助けることができなかった、あるいは光州のタクシー運転手仲間に助けられたという思いが、彼を「隠す」のかもしれない。表に出てはいけないという気持ちにさせるのかもしれない。
 何をするべきなのかを知っている。
 これは、とても重要なことだ。
 途中に、運転手仲間とけんかするシーンがある。光州までの前料金を運転手は受け取っている。光州に着いてみると、とても危険だ。家ではひとり娘も待っている。早く帰りたい。どうすればいいのか。ジャーナリストが残りの料金も払う。「もう、帰れ」「それは受け取れない」。職業倫理だ。このやりとりに、運転手仲間が加わるから、ちょっとややこしいのだが、このシーンが非常にいい。
 何をするべきか知っているというのは、「思想」の問題である。
 よく中国人は経済で動き、韓国人は思想で動き、日本人は政治で動くというが、その「本質」がここに出ている。その行動は自分の「信念」にあっているか、「倫理」にあっているか、つまり「道」として動いているかどうか。「道」というのは、いつでもいくつにもわかれている。どこを通るか。それを「ことば」として言えるか。ことばとして「言える」のは「道を知っている」ということである。
 で、ここから、飛躍するというか、この映画のもうひとつの見せ場が、「道」を通して語りなおすことができる。
 光州からソウルへ脱出する。このとき高速道路はもちろん一般道路は検問で封鎖されている。ところが、「道」はどこにでもある。運転手仲間が地図を渡しながら言う。「この道は地元の人間でもあまり知らない。ここを通って行け」と。その土地には、その土地の「道」がある。「道」はどこにでもつくられている。
 だとしたら、その「道」をどう歩くか(行くか)というも、また、思想そのものになる。
 地元のひとしか知らない道にも「検問」はあった。なんとかして突破したものの、追跡される。そこでクライマックスのタクシー運転手集団が登場することになる。山の中から突然、というのは奇妙かもしれない(映画的すぎるかもしれない)が、だれでも「秘密の道」をもっている、「道」は切り開くことができる、と考えれば、そういうことはあってもいいのだ。
 自分がするべきことを知っているから、必然的に、そこに「道」はできるのだ。
 タクシー運転手という「仕事」がそのまま「思想」となって、動く。「道」を知らないとタクシー運転手は仕事にならない。知っている「道」を確実に進むことで、客に安心を与える。
 
 ここから「ジャーナリズム」の「道」とは何かを考えることも必要かもしれない。日本では、いま、ジャーナリズムがほとんど死んでいる。「隠されている情報」をどこまでも追及し、明るみに出すという姿勢が欠如している。
 森友学園、加計学園だけではない。
 いま沖縄で起きていることは、「光州事件」に類似している。死者こそ出ていない(出ていないと思う)が、機動隊員と市民が向き合い、市民が暴力的に排除されている。その「事実」はときどきネットで流れているが、新聞、テレビに大きく取り上げられることがない。矮小化されて報道されている。「光州事件」のさなか、「学生の死者は一人」という具合に報じられたのと同じである。
 「情報」が正確に報道されないと、どういうことが起きるか。「光州事件」はいつでも起きるということだ。安倍の「沈黙作戦(情報を与えず、議論させない作戦)」は、絶対に「光州事件」を日本でも引き起こす。すでに稲田は「自衛隊としてお願いします」と言ったが、あらゆるところに「自衛隊」が出動し、市民の行動を封じ込める。それは「報道」されず、隠されたままに行われる。安倍が独裁者のまま居座り、自衛隊が「合憲化」されたら、あらゆる市民運動が自衛隊をつかって封殺される。その結果、一切の議論がなくなり、安倍がしきりに口にする「静かな環境」が完成する。
 「光州事件」の再現シーンで、私は、そういう恐怖を感じた。
この恐怖から、タクシー運転手の「道」が救ってくれたのだが、さて、私にはどんな「道」が可能なのか、という問いをつきつけられた気持ちにもなった。

 まず、「不思議なクニの憲法2018」の上映会で、憲法について語り合うことからはじめる。福岡市での上映会は初めてです。ぜひ、ご参加ください。

日時 5 月20日(日曜日)午後1 時から(上映時間111 分)
場所 福岡市立中央市民センター視聴覚室(定員70人)
料金 1000円(当日券なし、要予約)
申し込み、問い合わせ 谷内(やち) 090・4776・1279
           yachisyuso@gmail.com

 ★1個追加は、いま、この映画を見逃してはならないという気持ちをこめて。安倍政権がつづくと、絶対に「光州事件」が日本で起きる。「天安門事件」かもしれない。「事実」を「情報」として共有する重要性について、考えなければならない。



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マーク・ウェブ監督「さよなら、僕のマンハッタン」(★★★★+★)

2018-04-16 09:56:14 | 映画
監督 マーク・ウェブ 出演 カラム・ターナー、ジェフ・ブリッジス、ケイト・ベッキンセール、ピアース・ブロスナン

 映画はナレーションからはじまる。ジェフ・ブリッジスの声である。やがてカラム・ターナーがあらわれる。そして、しゃべる。この瞬間、私は眩暈のようなものをおぼえる。「声」が似ている。私は音痴だ。耳が悪い。だから混乱するのかもしれないが、妙に似ている。いまのはジェフ・ブリッジスのナレーション? カラム・ターナーのこころの声?
 ニューヨークに住んでいるネイティブなら混乱しないかもしれないが、私の耳は混乱してしまう。
 で、この「混乱」が最後になって、「混乱」していてよかったのだ、と納得する。二人の声が似ているのには、それなりの理由があったのだ。
 という「オチ」は、まあ、どうでもよくて。
 映画はまるで「小説」。映画なのに「会話」や「アクション」よりも風景描写が多い。街の表情がストーリーを語っていく。「名所」が出てくるわけではない。セントラルパークは出てくるが、ランドマークとなるような建物は出てこない。「街角」が出てくるだけである。その「街角」が、人が生きていることを語る。
 マンハッタンは巨大な街なので、一人で住むと、まさに「ひとり」であることが強烈に身に迫ってくるだろうけれど、それはそのひとだけが感じることではない。みんなが感じていることなのだ。そのせつなさが、あらゆる街角にあふれている。
 あ、行きたいなあ。あの街角を歩いてみたいなあ、と思う。そこでは、何をことばにしても「詩」になる、と錯覚させてくれる。いや、きっと詩になるに違いない。巨大な街のなかで「ひとり」が触れることができるものは、小さな「個別」そのものだから。「個別」をことばにするしかないから。
 で、「ことば」と書いて。
 また最初にもどる。「ことば」と「声」。あるいは「語る」こと。
 この映画は、伏線として、初老の作家がマンハッタンでひとり住まいをしている少年(といっても、すでに青年である。現代は、「少年時代」が長いのだ)が、少年から大人になるまでを小説にするということになっているが、それを見終わると、初老の作家こそが「少年」そのものに見えてくる。作家は「おとな」になるために、「少年」を書くしかなかったのだとわかる。ジェフ・ブリッジスとカラム・ターナーが静かに交錯し、静かに入れ代わる。こういうことが自然に起きるのもニューヨークならではなのだと思う。
 ニューヨークには「未来」の美しさがある。すでに古い街だが、必ず新しいことが起きる街だと感じさせてくれる映画だ。「過去」を発見し、生きなおすこと、それも「未来」なのだ。それが繰り返されているのがニューヨーク。
 黒星1個の追加は、カラム・ターナー、ジェフ・ブリッジスの「声のキャスティング」に。
(2018年04月15日、KBCシネマ1)


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ジャウム・コレット=セラ監督「トレイン・ミッション」(★★★)

2018-04-11 19:21:13 | 映画
ジャウム・コレット=セラ監督「トレイン・ミッション」(★★★)

監督 ジャウム・コレット=セラ 出演 リーアム・ニーソン

 走る列車だけが舞台、というのはいろいろある。この映画の成功は、その列車を「通勤列車」にしたこと。いわゆる「ハイテク」とは無縁。「人間」が動かしている。それでも最後は「暴走」するんだけれどね。
 で、それに加えて、主演がリーアム・ニーソン。「アクションスター」かもしれないけれど、もうお年寄り。スピーディーなアクションはできない。狭い列車のなかに限られているから、まあ、許せる。
 さらに、リーアム・ニーソンが「大柄」なのがいい。トム・クルーズみたいに体が小さいと、いくら狭いとはいっても速く動かないとアクションが持たない。体が大きい場合、まわりが狭いと「視覚的」に速く見える。これが、なかなかいい。
 映画ならではの「小細工」(小道具)がきいているのもいいなあ。
 トイレに隠された25万ドル。通風向の「風」の変化から、そこが隠し場所だと気がつく。風が出ていることを知らせる「吹き流し」がほんとうにつかわれているかどうかわからないけれど、まあ、いい。
 チェックずみ乗車券を座席の背もたれにさしておく。乗車券にパンチされた穴を見ながら人探しをするというのも、うーん、アップが可能な映画ならでは、だね。
 基本的には、配電盤を壊して冷房を止め、乗客を一つの号車にあつめたり、床下に隠れたり(隠したり)、連結を手動で外したりと、どこかで見たことがあるぞ、というシーンばかりなのだけれど、それもなんとなく「人間臭い」感じがしていい。
 クライマックスの「犯人探し」。目撃者は実は目撃していなくて、「音」を聞いただけ。でもその「音(ことば)」が手がかりになって急展開するところは、映画というより「芝居」なんだけれど、ここはここで「芝居」の鉄則を踏まえている。
 「プリンは誰だ」という質問に、乗客が次々に「私だ」と名乗りを上げる。これもまあ、「定型」なんだけれど、ここから乗客がリーアム・ニーソンの「味方」になり、観客を「味方」にしてしまう。なんというか、単にリーアム・ニーソンの「活躍」を見ているだけではなく、「事件」そのものに映画をみている観客もまきこまれていく。(芝居だと、こういう効果はとってもきいてくる。)
 「新しい」映画ではないけれど、映画としてとても落ち着いている。久々に「落ち着いた」映画を見た、という感じになる。
 リーアム・ニーソンの、ゆったりした声もなかなかいいなあ、と思った。
(2018年04月11日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン11)


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スティーブン・スピルバーグ監督「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」(★★★★)

2018-04-02 09:46:52 | 映画
スティーブン・スピルバーグ監督「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」(★★★★)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 メリル・ストリープ、トム・ハンクス

 「平常心」では見ることのできない映画である。どうしても「森友学園」の文書改竄が重なる。マスコミの報道(報道の仕方)が気になる。
 「ペンタゴン・ペーパー」に比較すると「森友学園文書」そのものは「政府の犯罪(無益な戦争をした/戦争から撤退する判断が遅れた)」を証明するものではない。籠池に便宜を図ったというものである。ベトナム戦争では若者が無残に死んでいったが、森友学園では死者はいない。
 しかし、問題はそれだけではない。「文書」をどう扱うか、という重要な問題が残っている。「文書(事実)」と、政府の態度の問題がある。アメリカは「不都合な文章」もそのまま保管している。歴史を検証するときに必要だからである。日本では、これが改竄され、破棄されている。政府が「事実」を隠すだけではなく、「事実」を変更している。
 どういうときにも「秘密」にしなければならないことがあるだろう。しかし、「秘密」にするのと、それを「なかった」ことにするのは違う。
 「森友学園文書」は、なぜ改竄、破棄されなければならなかったのか、という問題は「だれにとって」不都合な文書であるかを考えればすぐにわかる。
 安倍は、佐川の国会答弁と文書の存在が齟齬をきたすから、それを解消するために改竄、破棄したという。しかし、その安倍が「昭恵が名誉校長を引き受けている数はあまたある」とか平然と言い、森友学園、加計学園関係の二校だけだと指摘されると「言い間違えた」と平気で言いなおすのだから、「国会答弁」など「言い間違えました」と言えばすむ。安倍に許されていることが財務省の職員が許されないわけがないだろう。

 最初から脱線してしまったが。

 映画は、非常にてきぱきと進む。あまりにてきぱきしすぎている感じがしないでもないが、これをときどきメリル・ストリープがぐいとおさえる。弱気から強気にかわるときの表情がとてもいい。トム・ハンクスは、どちらかというとストーリー展開を推し進める役をしっかりと担っている。自己主張しない。
 メリル・ストリープが弱気と強気のあいだで揺れるのは、経営者であるからだ。会社(投資家の利益を守ることと、従業員の生活を守ること)に責任がある。一方でジャーナリズムに対して責任もある。会社を守ろうとすれば、ジャーナリズム(言論の自由)を守れない。さらには、これに友人関係までからんでくる。
 そういうストーリー(テーマ)とは別に、この映画には、とてもおもしろいシーンがある。小道具がとても生きている。電話である。ペンタゴン・ペーパーを手に入れるために、「情報源」を探り出すのに、記者は「電話」を活用している。「盗聴(あるいは発信先を特定されること)」を避けて公衆電話をつかっている。時代をそのまま描いているといえばそれままでなのだが、番号(連絡先)をひとつずつしらみ潰しにしていくところが地道でとてもいい。公衆電話で電話するとき、小銭を道路に落としてしまい、あわてるところもいい。「落ち着け、落ち着け」と言いたくなるでしょ? 映画なのに。自分のことでもないのに。これが最初の「電話」のとてもいいシーン。
 それから最終決断のシーン。家のなかにある「内線電話」の受話器を何人もがつかむ。「盗聴」というのではなく、「内線」機能をつかって「討論」が始まる。これもいいなあ。「映画」では演じている役者の顔が見えるが、実際に電話をしているひとは、それぞれが離れているので顔が見えない。表情が見えない。「気持ち(感情/意思)」は「声」としてしか伝わらない。「ことばの論理」はこの場合、あまり重要ではない。「経営か言論の自由化」は、すでに語り尽くされている。だから、ここではスピルバーグは役者に「声の演技(声のアクション)」をさせている。(「リンカーン」を撮ったときと同じである。)この「声の演技」を、舞台ではなく、映画でやってしまうところがなんともすごい。スピルバーグもすごいが、それに答える役者陣もすばらしい。
 「声」というのは不思議なもので、「表情」以上に、「肉体」の内部まで入ってくる。(英語が聞きとれるわけではないが、感情はなんとなく伝わる。)「印刷するぞ」とトム・ハンクスが印刷工場に電話する。それを電話で受けて、工場で働いている人に叫ぶ。この瞬間「声」が「電話回線」を飛び出して、「世界」に広がっていく。
 いやあ、思わず涙が出ます。
 私の「職業」も関係しているのかもしれないけれど、このシーンは感動の涙なしには見られない。

 最後の最後で、また「電話」が出てくるのも象徴的だなあ。
 「ウォーター・ゲート事件」が始まるところで終わる。「電話」が主役の映画なのだ。

 で、また最後は映画から脱線するのだけれど。「よし、安倍が退陣するまで、安倍の改憲案を成立させないために、自分にできることはしよう」と思うのだった。できることは少ないけれど、そのできることをしないではいられない。
 とりあえずは松井久子監督「不思議なクニの憲法2018」の上映会をやりとげないことには。福岡の上映会は5月20日(日曜日)一日かぎり。午後1時から、福岡市立中央市民センター(中央区赤坂、裁判所の裏手)、入場料1000円です。定員70人。当日券はありません。事前に谷内(yachisyuso@gmail.com)までお申し込みください。
(ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン9、2018年03月25日)

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ヨルゴス・ランティモス監督「聖なる鹿殺し」(★★★★+★)

2018-03-25 22:20:45 | 映画
監督 ヨルゴス・ランティモス 出演 コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、バリー・コーガン

 映画が始まると、いきなり不気味なシーンがあらわれる。コリン・ファレルと同僚が病院の廊下を歩いているのだが、どこまでもどこまでも廊下がつづいている。それだけではなく「カメラの視点」が通常とは違う。一点透視の構図はキューブリックも好んでつかうが、ヨルゴス・ランティモスの「カメラの視点」はスクリーンの中央にない。通常の人間の「視点」よりも高い位置にある。3メートルくらいから見おろしているという感じ。その位置でカメラがコリン・ファレルスの動きにあわせて動く。見慣れた映像ではないので、「乗り物酔い」の感じがする。1分足らずのシーンだと思うが。
 このシーンに限らないが、「遠近感」がとてもかわっている。コリン・ファレルがバリー・コーガンと最初に会うファミリーレストランのような店内の映し方も、目の悪い私などは「くらり」としてしまう。
 息子と娘が「病気」になり、その「病気」の見当会議(?)のようなシーンも、ふつうはスクリーンに映らない天上、床が上下に広く映し出され、会議室が「遠近法」のなかに閉じこめられているようになっている。
 コリン・ファレルの家が外から映されるとき、単純に近づいていくのではなく、左右に行きつ戻りつしてアップになる。これなども「酔い」を引き起こす。
 これはいったい何なのか。
 「酔い」の感覚から、考え直してみる。「酔い」というのは「自分の頭の中にある世界(初めての風景でもこうだろうと予想している世界)」とは違ったものが「頭」のなかへ飛び込んできて起こる。三半規管が何かわからないけれど、そこがバランスを崩すと、「視覚」がゆれて、「予想していた世界」と「実際に見える世界」が微妙にずれる。その「ずれ」が「ゆれ」となって増幅し、「頭の中」が気持ち悪くなる。
 この「酔い」の感覚が「比喩」となって、この映画を動かしている。
 「自分の見る世界(コリン・ファレルの見る世界)」と「他人の見る世界(バリー・コーガン)」は違う。コリン・ファレルから見れば「手術ミス(自覚がある)」だが、バリー・コーガンから見れば「殺人」である。コリン・ファレルにはアルコールを飲んでのミスという意識があるから、バリー・コーガンの「殺人」という「世界」を完全に拒否できない。それは「罪滅ぼし」という意識になって、二人を結びつけるのだが、そこにはやはり「ずれ」が残り続ける。「許されたい」と「許せない」が交錯する。この「修正できないずれ(ゆれ)」が映画を支配する。
 この「ずれ(ゆれ)」をさらに気持ち悪くさせるシーンがある。バリー・コーガンがニコール・キッドマンの前でスパゲティを食べる。とてもだらしない食べ方である。食べながら、バリー・コーガンがこんなことを言う。「私の食べ方はとても特徴的で、父親に似ていると言われる。フォークでぐるぐるまいて口に運ぶ。そういわれて、私は父を引き継いでいる、と思った。けれど、それは特別かわった食べ方ではなく、みんなが同じようにフォークでぐるぐるまいて口に運ぶ。違っていない。」
 でも、そうかな? やっぱり違う。「ことば」にすれば同じでも、「見える」ものは違う。また「似ている」ということもある。「違い」と「同じ」が「ずれ」としてそこに隠されている。
 何が同じで、何が違うか。違うと感じるとしたら、それは何によってなのか。
 ここから映画のクライマックスが急展開する。家族の誰かを殺さなければ、全員が死んでしまう。さて、誰を殺すことになるのか。誰が殺されることになるのか。殺す主役は父(コリン・ファレル)と決まっているので、彼に対して「命乞い」がはじまる。「家族」は「みな同じ」はずなのに、自分はコリン・ファレルの気に入るようになるから、自分を許して(殺さないで)と言う。他人を蹴散らすというのではなく、自分を売り込む。この「エゴイズム」と「愛」の「ずれ(ゆれ)」が、なんとも言えず、「気持ちが悪い」。
 これは何かおかしいとわかるのだが、何がおかしいのか、どこを修正すれば「ゆれ」がなくなり、「酔い」の感じがなくなのか、明確に言えない。
 最後の決断を、コリン・ファレルが目隠しをしてぐるぐるまわり、「酔った」感覚のまま、誰かを射殺するという描き方も、「ゆれ(ずれ)」と「酔い(正常ではなくなる)」を強調している。

 で、ここでストーリーの「カギ」になっている「立てなくなる」「食べることができなくなる」という「病気」だが、これも振り返ってみれば「酔い」に通じる。船酔いをすると立っていられなくなる。ものも食べられない。食べても吐いてしまう。一口かじっただけのリンゴさえ、娘は吐いてしまう。
 コリン・ファレルの手術の失敗、この映画の「起点」も、「アルコールの酔い」である。

 「酔い」とは何なのか。これをテーマに「ギリシャ悲劇」風に仕立て、それを「映像」として結晶させたのが、この映画ということになる。とても「凝った」映画なのだ。この「凝り」をどう評価するかむずかしいが、気持ち悪いと感じるのは「酔い」そのものを「体感」した証拠、つまり映画が成功していることの証明になるので、★一個を追加した。
 こんな映画は、見たことがない。

 それにしても。
 バリー・コーガンはうまい。背中を丸めて、未成熟の16歳の肉体の不完全さを体現し、顔も半分だらしなくし、未成熟の不気味さを出している。めつき、口の動き、どこをとっても「演技」している。最初は「演技」しすぎているように感じるのだが、これがまた映画の狙いの「酔い」を引き起こすのだから、最初から「計画」されたものなのだろう。
    (KBCシネマ1、2018年03月25日)


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