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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(150)

2014-08-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(150)        2014年08月19日(火曜日)

 「世話をやいてくださっていたら」には下卑た「声」が満ちている。

しかし私は若くて健康。
ギリシャ語はペラペラ。
アリストテレスとプラトンを読みに読んだ。
詩人、雄弁家、いや何でも濫読さ。
軍事も少しわかる。
傭兵将校に友だちがいる。
行政の世界にも足がかり。

 ここには、いろいろな自慢が書かれているが、自己というものがない。「傭兵将校」「政治の世界」に、友だち(顔見知り)がいる。接近の方法がある。それは「私」自身で道を切り開いていくというよりも、誰かのひきあいで、その世界へ入っていくということだろう。「下卑た」感じがしてしまうのは、「他者頼み」の印象が強いからだろう。

まずザビナスに接近だ。
あのアウホが私を高く買わぬなら、
あいつの敵のグリュポスだ。
あの鈍物がおれに地位をくれぬなら、
その足でヒュルカノスさ。

 この詩の登場人物は、彼自身の「理想」をもっているわけではない。何かがしたいわけではない。--いや、したいことはある。「地位」を手に入れたい。「地位」が手に入るなら、何をしてもいい。
 「あのアホウ」「あの鈍物」という評価をしながら、「地位」だけを欲しがっている。こういう「欲望」が「下卑ている」。
 だが、それがどんなに下卑ていようとも、そういう「声」はたしかにある。そういう「声」もカヴァフィスにはしっかり聞こえた。そして、聞こえただけではなく、何かしらの魅力も感じていたのだと思う。その場限りの欲望がむき出しになった「声」。その「声」を発するものの「肉体」。それが見えたのだろう。

誰を選ぶか、気にしない。
おれの良心は痛まぬよ。
三人ともシリアの害虫。同等さ。

 「良心は痛まぬ」、なぜなら「三人とも害虫」だから。--そのあとの「同等」がなまなましい。三人が「同等」なら、そのときの「私」もまた「同等」である。この「同」は「同性愛」の「同」と同じである。「同じ」ものが互いを呼びあい、必要としている。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(149)

2014-08-18 09:36:16 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(149)        

 「彼は品定めをした」は小物を商う店を通ったとき、ふと店員の顔を見て、その姿にひかれて入っていく。売り物のハンカチの「品定め」をするふりをしながら、店員の「品定め」をしている。「品定め」というより、愛の交渉と言うべきか。

「このハンカチの品質はどうかね。
いくらする?」。声がのどに詰まる。
灼けつく欲望が言葉をかすれさせる。
返って来た答えの感じも似ていた。
気もすずろなるうわずった声。
口にこそ出さね、同意の色。

 男色の詩はいろいろあるが、この詩は少し変わっている。「声」がきちんと描写されている。いつものように容姿は省略されているが、「声」は書き込まれている。「のどに詰まる」と「かすれる」は似ている。「うわずった」は逆に声(のど)の抑制がうまくいかない感じだが、この微妙な変化はカヴァフィスの「嗜好」をあらわしている。詩人は「声」を生きている。ことばが声になり、相手にとどく。それが返ってくる。
 カヴァフィスの詩は登場人物の「主観」をいきいきと描いているが、それは「ことばの論理」として再現しているだけではなく、「声」そのものとして再現しているということだ。だから、「口語」が頻繁に出てくる。その「口語」の調子を、中井久夫は肉体の動きそのものとして具体化している。

商品問答を続ける二人。
その目的はただ一つ。ハンカチ越しにつと手が触れはせぬか。
ひょっとして顔が、唇が近づきはしないか。
腕や脚が一瞬ぶつからないか。

 これは、実際は、ハンカチ越しに手を触れさせ、顔を近づけ、腕や脚をぶつけ、ひょっとすると唇も触れあったのかもしれない。なぜなら、

その素早さ。人目を避ける巧みさ。
奥に座った店主には
まったく気づかれずじまいだった。

 と書いているからだ。「声」は欲望を伝えあい、ことば(意味/内容)は、そこで動いている欲望を隠し、ごまかす手段になっている。店主にはハンカチの品定めをしていると信じさせて、耳に情報を与えることで目をゆだんさせて、その隙に愛を確認している。
 「声」と「ことば」を巧みにつかいわけて動いているカヴァフィスの独特の姿が、この詩に見える。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(148)

2014-08-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(148)        

 「玄関の広間の鏡」は「同じ空間で」の続編として読むことができるかもしれない。ここではカヴァフィスは「玄関の広間の鏡」になって男色の世界を書いている。「同じ空間で」はカヴァフィス自身が「街」になったが、「街」ではあまりにも「世界」が広すぎる。「感覚」が絞りきれない。「鏡」では、その「感覚」が「視覚」に限定されて、男色の世界が繰り広げられる。
 豪奢な屋敷の玄関の広間に、買い入れて八十年はたつ鏡がある。ある日、洋裁師の女子が包みをもってやってきた。領収書が来るまでの間、少年は鏡に向かって、少し身繕いをした。そして、去っていった。

だが古い鏡は悦ばしく嬉しい。
長い生涯にずいぶんさまざまなものを眺めたけれど、
今日までの幾千幾万の事物や顔貌はメじゃない。
一瞬ではあるが一分のすきもない美しさを今抱擁した誇り--。

 鏡の中に少年をすっかり取り込んだ。全身をくまなく映し出すことで、彼を自分のものにした。それは眼によるセックスである。
 そういうことはカヴァフィスには実際にあったのかもしれない。セックスはしていないが、眼でしっかりと理想の美しさをつかみ取って、そのことに興奮したということが。あるいは日々、「幾千幾万の事物や顔貌」を超える真実の美を探していたのかもしれない。「メじゃない」という「口語」は、視覚の眼をつよく意識した中井久夫の訳語だと思う。原文は「眼」とは違うことばかもしれない。

 この詩には、いま書いた「意味」を超えて、とてもおもしろい「訳」がある。

ネクタイをちょっと直した。五分たって領収書が来た。

 この「領収書が来た」ということばのスピード。現実には領収書が自分でやってくるわけではないから、「領収書が運ばれてきた」あるいは「領収書をもって召使があらわれた」であろう。けれど少年にとって問題は領収書だけなのだから「領収証が来た」で充分なのである。
 この部分は森鴎外の「寒山」に似ている。そのなかに、たしか「水が来た」という短い文章があった。奥から水が運ばれてくるのだが、それを「水が来た」と言い切る。余分なものが削ぎ落とされ、ことばが早くなる。
 そういう速さのあとに「長い生涯に……」ではじまるゆっくりしたことばが動く。そうすると、緩急の変化のために書かれていることがいっそう印象的になる。「一瞬」と書かれている最終連の喜びが充実したもの、長くゆったりしたもののように感じられる。
 中井久夫は雅語、俗語、漢語などを自在に駆使しているが、多くの作家の文体をも下敷きにしてことばを動かしているかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(147)

2014-08-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(147)        

 「同じ空間で」も男色の詩である。ただし、ここには相手の男は出て来ない。「空間(家々、カフェなど)」が出てくるだけである。短い詩だ。全行を引用する。

家々、カフェ、そのあたりの家並み。
歳月の間にけっきょく歩き尽くし、眺めおおせた。

喜びにつけ悲しみにつけ、私は刻んだ、きみたち家々のために、
数々の事件で多くの細部を。

私のためでもある。私にとってきみたちすべてが感覚に変わった。

 これは多くのカヴァフィスの男色を描いた詩と同じように、感想を書くのが非常に難しい。「小説」なら「数々の事件」「多くの細部」を丁寧に書くだろう。詩も、そういうものを書くのが普通である。自分が体験した「独特のもの」、自分だけの視点をことばにする。そうすることで、体験が「自分の感覚」になる。そして、その「感覚」をこそ、読者は読むのである。自分ではつかみきれなかった「感覚」を詩人のことばをとうして、「あ、あれはこういうことだったのか」と遅れて発見する--それが詩にかぎらず、あらゆる文学との出会いである。
 ところがカヴァフィスは、彼自身の「独自の感覚」を少しも書かない。「感覚に変わった」と書くだけなので、そこにあるであろう「街」とカヴァフィス自身のなかの「感覚」がどういう関係にあるのか、読者にはさっぱりわからない。
 ただカヴァフィスが、その「街」で体験したことを自分の経験にしたという「こと」を抽象的に知るだけである。その「街」で長い年月をすごした。その街を歩き回った。家は安い宿かもしれない。そこでカヴァフィスは自分の体験を豊かにしただけではなく、他人の引き起こす事件も見たのだろう。間接的な体験だ。そういうものも含めて、街のどの部分を見てもカヴァフィスは、その「とき」を思い出すことができる。
 ある意味で、カヴァフィスは男色の相手と恋をし、セックスしただけではなく、その街(安宿やカフェ)そのものともセックスをしたと言えるのかもしれない。「家々」のことを「きみたち」と人間のように呼んでいるのは、カヴァフィスにとって「街」そのものが「人間」であるということの証拠かもしれない。
 恋人は現れ、また去っていく。けれど「街」は去っては行かない。そこへ行けば「時」を超えて、あの瞬間があふれてくる。よみがえってくる。そして、また新しく「時」を刻みはじめる。そうやって「感覚」は豊かになっていく。
 こういう詩を読むと、カヴァフィスはごくごく親しい人にだけ向け詩を書いていたのかもしれないという気がする。知らない人に読ませるのではなく、会ったことがある人、顔見知り、互いの感覚を知っている相手にだけ向けて詩を書いていたのだと感じる。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(146)

2014-08-15 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(146)        

 「聞け、おまえはスパルタの王ぞ」は「スパルタにて」のつづき。カヴァフィスは史実を何度も詩にしている。王クレオメネスが母親を人質として差し出す。その直前のことを書いている。

つとわが子の王をやさしく抱き寄せ、くちづけした。
ここで王妃の勁きこころは立ち直った。
威厳を取り戻した堂々たる王妃は
王クレオメネスにのたもうたそうな、「聞け。おまえはスパルタの王ぞ。
今出ればもはや、誰にもみせるな、泣きっ面はもとより
スパルタにふさわしからぬふるまいはこれ皆すべて。
このことのみはなお我が権力のうちにあり。
いく手にあるはすべて神の御手の中なり。」

 王妃がほんとうにそう言ったのか、あるいはカヴァフィスの創作か。
 いずれにしろカヴァフィスが書きたかったのは、王妃の「声」の強さである。「声」を支配する「主観」の明確さと言い換えてもいい。「主観」、つまり自分のものであるからこそ、それを自分で制御できる。主観は「我が権力のうちにあり」ということ。
 母は、それを息子に伝える。おまえも「主観(感情)」を自分でコントロールして、スパルタ人にふさわしくない振る舞いはみせるな、と。運命がどうなろうと、それは神任せ。しかし、自分の感情は自分で支配する。自己の王(権力の支配者)は自分である。
 中井久夫は、この強いことばを「口語」と「文語」をまじえながら表現している。
 「口語」では、ことばの強さは「王ぞ」の「ぞ」という濁音、「泣きっ面」の「っ」という促音、それぞれ息が声になる瞬間に力がこもる「音」とともにある。一方、「文語」では「うちにあり」「中なり」という抑制のきいた静かな「音」とともにある。この対比が、非常に音楽的でおもしろい。
 全部が「口語」、あるいは「文語」では、この音楽は生まれない。こういう「声」の瞬間的変化を音楽として響かせることばづかい、中井の訳は、魔術的な魅力にあふれている。話者の精神の動きの速さを再現していて、驚くばかりだ。
 この複雑な変化があるからこそ、「今出ればもはや、誰にもみせるな、泣きっ面はもとより/スパルタにふさわしからぬふるまいはこれ皆すべて。」という倒置法の文が生きてくる。この倒置法は何かを強調させるための倒置法ではなく、意識をことばが追い越して出てしまったための倒置法である。「誰にもみせるな」といういちばん大事な「主張(主観)」が先に肉体から飛び出してしまう。そのあとで、何をみせてはいけないかという「主題」が出てくる。「口語」(瞬間的なしゃべりことば)を「文語」(主題を意識することば)が追いかけて、それをのっとるという感じか。
 しかし、おもしろいのは、こういうことばに触れたとき明確に感じるのは「意味」ではなく、ことばの呼吸、ことばを発している人間の「肉体」のリアリティーである。「声」化されたことばは、話者の「肉体」そのものなのだ。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(145) 

2014-08-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(145)        

 「美しい白い花」は男色の三角関係を描いている。

彼は、ふたりがよくいっしょにすわったカフェに行った。
ここだ。三月前だ。あの子は宣言した。
「ぼくらのあいだはもうおしまい。ふたりで
いちばん安い宿から宿へとさまようばかり。もういけない。
ウソを吐いても始まらぬ。あなたの相手はもうできぬ。
言ってしまえば、世話をしてくれるひとが別にできたの」
だれかさんはその子に約束していた。スーツを二着。絹ハンカチを何枚か。

 恋人を結びつけるのは、愛情か。肉欲か。あるいは金銭か。--そのことを詮索しても、あまりおもしろくはない。それは、たぶん、詩にとってはどうでもいいことである。
 詩にとって重要なのは、そういう「事実(こと)」が「ことばになる」ということである。三角関係と金銭。金のある男が恋人を奪う--というのは「愛」(感情)を基本に考えると美しいことではないが、それが美しかろうがなかろうが、人間はそういう具合に動いてしまうということがある。
 それをことばにするか、しない。
 男色の詩は、カヴァフィス以外にも書いているだろう。カヴァフィスが独特なのは男色を描くのに「美辞麗句」を使わないことだ。男色家のだれもが持っている「現実」をそのまま書いている。隠したい「現実」をさらけだしている。
 「事実」が書かれている。「事実」は書かれてしまうと「真実」になる。「真実」になってしまうと、それが人間のどんなに醜い部分を描いていたとしても、それは「詩」になる。だれも書かなかった、誰かに書いてほしいと思っていた「詩=絶対的なことば」になる。
 この詩には、ストーリーがある。「あの子」は三角関係の成れの果てなのかどうかわからないが、殺されて死んでしまう。「あの子はもうスーツを欲しがらない。絹のハンカチも全然。」という具合になってしまうのだが、そういう劇的なストーリーよりも、その前に書かれる「超リアルな現実」のことばの方がはるかにおもしろい。

彼は自力でその子を奪い返した、
口には出せぬ手段で巻き上げた二十リラで。
(略)
だれかさんはウソ吐き。まったくイカサヌ男だ。
仕立てのスーツはけっきょく一着。
それもねだって、さんざん拝み倒してだ。

 何も「美化」しようとはしていない。ただ「現実」を「現実」のまま書こうとしている。「現実」からしか「真実」が生まれないことをカヴァフィスは知っている。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(144 )

2014-08-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(144 )        

 「アレクサンドロス・ヤナイオスとアレクサンドラ」は次のようにはじまる。

成功に陶酔し、しんそこ満足して
王アレクサンドロス・ヤナイオスと
その妻・王妃アレクサンドラは
イェルサレムの通りを闊歩する。

 この詩にかぎったことではないがカヴァフィスのことばそのものには「詩的」という印象が少ない。いや、まったく詩的な印象を欠いている。一行目の「成功に陶酔し」という書き出しは説明的な散文の響きである。「しんそこ満足して」も単なる説明に過ぎない。どこに詩人の工夫(詩人にしか書けないことばの奥深さ、ひと目をひく美しさ)があるのかわからない。二行目、三行目は「固有名詞」なので、手の加えようがない。四行目も味気ない。「闊歩する」を何か他のことばで言い換えないと詩とは言えない。
 さらに、この詩は、

楽隊を先頭にして
あらゆる贅を尽くしてきらびやかに--。

 とつづくのだが「贅」の具体的な描写がない。「きらびやか」の具体的な描写もない。つまり、個性的なことばというのもが完全に欠けている。簡便な歴史の教科書にさえ、贅のひとつやふたつの具体例が書いてあるだろうに、カヴァフィスはそれを書かない。
 なぜだろう。
 カヴァフィスは、「贅を尽くしてきらびやかに」と書けば、それで通じると思っている。つまり、この詩を読むひとは「贅を尽くす」ことがどんなことか、「きらびやか」とはどんな様子かを知っていると確信している。「成功に陶酔し」も、どういうことかわかっている。「しんそこ満足して」というのも、わかりきっている。
 そういうことを前提としている。
 だから余分な修飾語や、個性的な表現をしない。
 これは、詩人の側からではなく、読者の側から、つまり「時代」(状況)の側からいえばどういうことになるだろうか。
 「時代」は「成長期」ではない。言い換えると、次々に新しいものが生まれ、「いま」を活性化させるという状況にはない。生まれるべくものはすべて生まれてしまった。新しいものは何もなく、周知のものが「熟していく」。熟すを通り越して下り坂に向かおうとしている。
 花にたとえるなら散る寸前。太陽にたとえるなら沈む寸前。まだ、そこにある。そして、それは「盛り」とは別の、不思議な疲労感、けだるさをまとっている。成熟へ駆け上った「時代」を生きてきたひとは、それを説明しなくても予感のように感じる。そういう読者を想定して書かれている詩だ。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(143)

2014-08-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(143)        

 「ミリス、アレクサンドリアびと、紀元三四〇年」は、恋人か、友人か、遊び仲間のミリスが死んで、その葬式に出掛けたときのことを書いている。キリスト教の家にははいらないと決心していたのだが、そんなことをいっていられない。出掛けてみると、親類の人が「私」のことを呆れ、不機嫌な目で見つめる。ミリスの死の原因が、その遊び仲間に原因があるからなのだろう。あるいは「私」が異教徒だからか。
 そういうことを簡潔なことばで書き進めたあと、さらに簡潔に、「大広間に死体を安置。/この隅からちらりと見える。/高価な絨毯、/金銀の器。」と周辺の様子が描かれたあと、ことばの調子が変わる。ミリスはキリスト者であってギリシャの神を信じているわけではないという思い出が語られる。生きている間は、それでも同じ生き方が二人を結びつけていた。しかし、葬儀がはじまると……。

突然、不思議な感じが襲ってきた。
ぼんやりそんな気がしたのだ、
ミリスが離れてゆくと。
あいつはキリスト者。あいつの民と合体して
私とは無縁な人になって行く。赤の他人に、そういう感じだ。
いや待て。あるいは
もともと情熱にだまされただけか。
元来無縁の人だったか。
連中のおぞましい家からとびでた。
逃げろ。私のミリスの思い出まで
キリスト教につかまって くつがえされるかも。

 ギリシャには複雑な歴史、激動の歴史があるのだと、あらためて気づかされる。宗教の対立、それは国家の対立でもあり、戦争の要因にもなっただろう。
 愛は、あるいは肉欲はといえばいいのかもしれないが、そういう精神的な対立とは無縁のところで生きている。だから宗教に関係なく、ひとは「恋人」になるが、死んでしまえば「恋」よりも宗教の方が人間を支配してしまう。「恋」は本人の意思だけで動くが、宗教はときに個人を否定して団結する。
 この詩では「ミリスの思い出まで/キリスト教につかまって くつがえされるかも」という形で、その「個人」と宗教のことが書かれているのだが、その「ミリスの思い出」ということばに、「私の」という強い限定があるところが、この詩の重要なところだ。
 ミリスに対しては誰もがそれぞれ思い出を持っている。親類はもちろんミリスをキリスト者としておぼえている。ところが「私」は違うのだ。世間一般のキリスト者とは違う生き方をしているミリスのことをおぼえている。その「私だけの」ミリスの思い出を、キリスト教の葬儀から「私」は救いだす。
 古代を題材にとりながら、カヴァフィスは、ここでも「現代」のことを書いているのだろう。複雑な国際環境のなかにあるギリシャに生きる理不尽を書いているのだろう。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(142) 

2014-08-11 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(142)        

 「一九〇九年、一〇年、一一年の日々」はカヴァフィスがその三年間交流のあった青年のことを書いているのだろう。水夫の息子で、鍛冶屋で働いている。シャツは擦り切れ、手も油で汚れているのだが、

ひそかに思う、果たして
古代のアレクサンドリアにさえ、
あんなに完璧に磨かれた自慢の子がいたか。

 いつものように、どんな具合に「完璧」なのかは書かれていないのだが、カヴァフィスには理想の美だったのだろう。
 この詩では、容貌のかわりに、二連目で、その青年の嗜好が書かれている。その部分が、魅力的だ。

店じまいのあと、夕闇迫るころ、
特にものほしとこころが動いた宵は--、
少し値の張るタイ、
日曜のためにとっておきのタイ、
あるいは飾り窓に見つけた
青いシャツの美しさに釘付けになったならば、
自分の身体を売った、銀貨一枚か二枚で。

 おしゃれが好きだったのだ。ネクタイとシャツにこだわりをもっていた。鍛冶屋の仕事ではシャツも何も油と錆にまみれる。その体を洗って気に入ったシャツとネクタイで自分を飾る。そういうことが好きだった。それはもちろん誰かを引きつけるためにしたのだろうけれど、肉体の快楽よりも、着飾るよろこびが大きかったのだろう。
 その一種の肉体の愉悦そのものではない、美への嗜好があったからこそカヴァフィスは「完璧に磨かれた」という修飾語で、その青年を語っているのだろう。
 でも、

あの子は全くの名無し。彫刻も画も残さず、
貧しい鍛冶屋の店に埋もれ、
使われ過ぎてくたびれて、安く身体を売って
まもなく擦り切れてしまったけれど。

 他人の肉の欲望のために、美が擦り切れてしまった。
 けれど、カヴァフィスはおぼえている。カヴァフィスは彼を彫刻にはしなかった。絵にもしなかった。ことばに、詩にして、いま、ここに書き残している。彫刻や絵のように、視覚には訴えて来ないが、記憶にしっかりと訴えかけてくる。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(141)

2014-08-10 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(141)        2014年08月10日(日曜日)

 「シノペ進軍の道すがら」はミトリダテスが僻地を通ったとき、名のある占い師の家があるのを知って、将校をひとり占いにやらせた。「朕は今よりのちさらにいかほどの財を集めうるや、いかほどの権力を所有しうるや」。その答えをまちつつミトリダテスは進軍をつづける。そういうことが「文語」の文体で一、二連目に書かれる。そして三連目に占いの内容が語られるのだが、これは「口語」。

占い師は秘密の部屋にこもり、
半時間たって姿をあらわし、
当惑顔で将校に語る。
「はっきりとは結果がでなかった。
今日は日柄がよくなかった。
おぼろな影がいくつか。だがついにはっきりしなかった。
しかし、王は今をよしとされよと私は思う。

 口語で、しかも内容が行ったり来たりする。逡巡がある。占い師が「よい未来」を語らないのは、もうすでに不吉な証拠だが、不吉もはっきりとは言わない。だが、口語はことばそのものよりも、口調によって「意味」を伝える。
 「はっきりとは結果がでなかった。」「ついにはっきりしなかった。」と繰り返したあとで、文語をまじえながら「王は今をよしとされよ」と告げる。その「文語」を引き継いで、ことば(内容)が、また繰り返される。「じゃ」という口語の語尾をいったんはさんで、「文語」で緊迫感を伝える。

この上を望めば何にまれ危険じゃ。
将校殿。きっと王にいわれよ、
『神に誓って今をよしとされよ』とのわがことばを。
運命は急変が習い。

 この対比がおもしろい。「運命」というとき、占い師が「未来」ではなく、過去を見ているのも、おもしろい。占い師のことばはつづくのだ。

ミトリダテス王にいわれよ。王の祖先の故事は希有ぞ。
かかる人に逢うをあてにめされるな。その友、かの気高い友が
槍で地面に字を書いて『逃げろ、ミトリダテス』とご先祖を救うたというが」

 同じことは起きない。だれもミトリダテスを救わない。しかし、もう一方の、暗殺しようとする歴史は繰り返す。過去は繰り返す。ただし、だれも王にこっそり語るひとはいない。「過去」は繰り返すが、また「過去」は裏切るのだ。主観は複数あるのだ。
 文語と口語のぶつかりあいが、過去と未来、複数の声の交錯のようにも見える。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(140)

2014-08-09 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(140)        

 「レアルコスの子、キモン、二十二歳、キュレネのギリシャ文学学徒」はカヴァフィスがよく書く「墓碑銘」を装った詩である。おもしろいのは、だれかが「キュレネ」のことを讃えて書いているのではなく、「墓碑銘」を書いたのがキュレネ本人であるという体裁をとっていることである。

「幸いのうちにわが終わりは来たりぬ。われとヘルモテレスとは何ものに
よりてもわかたれざる友なりき。

 そして、そこに両親や兄弟という「血」のつながりではなく「友」が出てくるのも、とてもかわっていると思う。ヘルモテレスの方は生き残っている。いっしょに死んでしまった友ならば墓碑銘に記してもいいかもしれない。しかし、生き残っていて、これから先、どんな人生を送るかわからない友の名前が書かれるのは異様なことのように思える。
 墓碑銘というよりは、死ぬ直前にヘルモテレスにあてて書いたラブレターのような感じがする。私は死んでゆくが、いつまでも君のことを忘れない、とでも言っているように感じられる。

       二人は二人ながらに若かりき。ともに二十と三のよわいな
りき。運命の神は裏切りの神にして、横合いよりの愛欲がヘルモテレスを
われより奪いしこともおそらくはありたらんを、よきかな、われらはつい
にわかたれざる愛のうちにありて、わが美しきいのちの終りを迎えたりき。」

 ヘルモテレスは、これから先、別のだれかと出会い、そこで愛欲に生きるかもしれない。けれど、それはかまわない、とキモンは思っている。少なくとも、死んでいくいまは「わかたれざる愛」を生きている。キモンは愛欲のためにヘルモテレスを裏切ったことはない。そのことがキモンの誇りである。
 あるいは。
 私は、まったく逆のことも感じた。これはキモンが死の間際に書いたラブレターではなく、ヘルモテレスがキモンにあてたラブレターかもしれない。感謝のラブレターかもしれない。私(ヘルモテレス)は何度か愛欲のためにキモンを忘れたことがある。けれどもキモンは一度としてそういうことはなくひたすら私(ヘルモテレス)を愛してくれた。愛に生きた美しいいのち、そのいのちのままキモンは生涯を終える。そのことを忘れないために、ヘルモテレスは墓碑銘にあえて自分の名前を書き込む。二回も書き込んでいる。
 これは、愛の誓いなのだ。ときに愛欲の誘いに負けてしまうことがあるかもしれない。けれども「わかたれざる愛」を永遠に生きる、キモンが愛してくれたことを生涯忘れることはないと、キモンに誓っているのかもしれない。
 --というのは、詩の前半だけを取り上げて読んだ「誤読」なのだが、(実は「われ」はキモンではないことが後半に書かれているのだが)、そこに書かれる感情は、いま私が書いた感想を反芻するように揺れる。カヴァフィスの精神は複雑だ。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(139)

2014-08-08 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(139)        

 「西リビアから来た王子」。ここにはふたつの「口調」が響きあう。一連目は王子を評価して「ありゃ深遠な思想家よ、/そういう人はあまり喋らぬ。」というのだが、そこに何とも言えない「評価する人間」の優越感のようなものがある。「ありゃ」という砕けた口調、「よ」という軽い語尾。
 その口調をそのまま引き継いで、二連目は、まったく反対の評価をするのだが、「口調」が一連目とそっくりなので、あ、一連目の発言者は、そのまま二連目の批判に同調するだろうなあと感じさせる。一連目の発言者の思いをまったく正反対のところへひっぱっていくのだが「音楽(口調)」が同じなので、「和音」のように響きあう。

深遠な? 思想家?
笑わせるなよ、つまらぬ奴よ。
ギリシャの名を付け、ギリシャ服着て、
ギリシャの行儀を習っただけさ。
びっくりさせたら、ギリシャ語じゃあるが、
まったく夷の叫び声。

 ここで「声」が出てくるところが、とてもおもしろい。人間はことばを話す。ことばの「意味」は頭で選択して選ぶ。いや、意味にあわせてことばを選択して、声にする。そういうことを人間はできるが、びっくりすると「頭」の抑制を離れた「地の声(地声)」が出てしまう。
 「意味」ではなく「声」に、その人間の「本質」があらわれる。(一連目の話者と二連目の話者も、声、つまり人間の本性、相手を見下し批判する生き方が通い合う。)
 そういう場に出会ったら、アレクサンドリア人は、王子をからかうだろう。

無口なのはそのせいさ。
文法・発音よく吟味して二、三語しか話さない。
身体の中にお喋りがいっぱい溜まって
気が狂いそう。

 「声」に出すことが大切なのだ。「ことば」には辞書に書かれた「意味」以上のものがある。「声」があらわす「真意」がある。それは「お喋り」のような軽い感じのときにもある。お喋りの「軽み」は「軽み」という「真実」を輝かせる。「声」にしか語れないものがある。
 そういうものを発散させないと、たしかに気が狂うかもしれない。
 カヴァフィスのように、ことばに「主観」を感じ、「声(口調)」に思想をつかみ取る詩人なら、特にそうだろう。中井久夫は、このカヴァフィスの「声(口調)」にこめる思いを的確に訳出していると思う。原文を私は知らないのだが(また読めもしないのだが)、生き生きとした「口語」の訳から、そう感じるのである。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(138)

2014-08-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(138)        

 「さるギリシャ大植民地にて、紀元前二〇〇年」と書かれているが、私は場所と年代がよくわからない。けれど、そこに書かれていることば(中井久夫の訳の口調)から、その「場所/時代」が盛りを過ぎた感じを受けとる。カヴァフィスにはこういう感じのする口調の詩が多い。中井久夫の訳の口調というべきなのかもしれないけれど、盛りへ上り詰めるというよりも、盛りにあったものが崩れていくときの、けだるい輝きのようなものが感じられる詩が多い。

この植民地はどうもまずい。
それを思わぬ者はいない。
何が何でも前進するぞ。
改革屋を呼ぶ潮時だろうな。
そう思う者も一人二人じゃない。

 「潮時」ということばがあるが、そこには何かの動きがある。「潮時」というのは「変化」を意味する。だから「改革屋」ということばも出てくる。「改革屋」が「社会」を変えていく。その必要をみんなが感じている。しかし、改革されるのはいやだとも感じている。改革屋は「犠牲を払え」が大好きで、みんなに犠牲を強要する。(これは、詩のなかほどに書かれている。
 だから、こんなふうに言う。

まだ、そんなことをする時じゃない。
早まるな。慌てちゃ危ない。
時期誤ると後悔する。

 ここには、何か男色の相手とのピークを過ぎた関係のようなものも匂っている。もう惰性でつづいているだけの関係。切ってしまって、新しい別の相手との恋を見つけるべきか。いや、「まだ、そんなことをする時じゃない。/早まるな。慌てちゃ危ない。/時期誤ると後悔する。」そういう気持ちが動くときに、カヴァフィスは詩を感じているのかもしれない。

たしかに困る この植民地。バカげたことが山ほどある。
だが人間のすることだ。間違いなしってことあない。
結局、な、とにかく前進しているだろ。

 このままじゃいけない、そう思いながら、それでも日々はつづいている。愛欲のなかで生きている。その愛欲は間違いかもしれないが、人間は誰だって間違いをする。そんなふうに自分に言い聞かせている。「な、」と自分に言い聞かせる口調が、なんとも切ない感じがする。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(137)

2014-08-06 09:50:17 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(137)        

 「同年の友(素人画家)の描いた二十三歳の肖像」は誰の肖像だろう。カヴァフィスの肖像か。あるいはカヴァフィスの恋人の肖像か。カヴァフィスの恋人の肖像と読むと、とてもおもしろい。

グレイのジャケツのボタンを外し、
チョッキもネクタイもなしで、
バラ色のシャツを着せ、
胸をはだけさせて、
美しい頸と胸がかいまみられるようにし、

 こういうスタイルが「男色」の、誰かを誘うときの合図だったのだろう。

ひたいの右側を髪で隠した。
美しい髪。
(この子が最近はじめた髪型だね)

 描かれている青年は、仲間うちではすでに馴染みなのだ。だから細部の変化も、みんなに共有されている。きっと胸のはだけさせ方も共有された合図なのだろう。
 その肖像の最後、唇を描くときの苦悩と悦びを、カヴァフィスは次のように書く。

ああ、あの子の口、くちびる、
特殊な性の快楽の渇きを今すぐにでも医してくれそうなくちびるよ。

 ここに書かれているくちびるの描写はかわっている。具体的な「形」が示されていない。「特殊な性の快楽の……」では、「特殊な性の快楽」を知らないひとにはどんなくちびるか想像できない。
 このことは裏返して言えば、カヴァフィスは、「男色」の詩を一般のひとに向けては書いていないということだろう。「男色家」全体にも向けては書いていないのかもしれない。「あの子」とわかる仲間うち、髪型の変化に気がつくかぎられた仲間うちに向けて書いている。

 「わかる」と書いて、ふと思い出すのだが、「スパルタにて」のクレオメネスの母は「ラギデス家のような成り上がりには/スパルタ魂はわかるまい」と書いていた。わからない相手は相手にしない--それがカヴァフィスの「思想(肉体)」かもしれない。
 クレオメネスの母のことばを、「男色家ではないひとには/私(カヴァフィス)の魂はわかるまい」と書き直せば、詩人のことばが「修飾語」をもたない理由も納得がいく。「修飾語(美の説明)」を共有しているかぎられた人間に向けてのみ、カヴァフィスは詩を書いた。「主観」をそのままさらけだした。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(136)

2014-08-05 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(136)        2014年08月05日(火曜日)

 「スパルタにて」はスパルタの王(クレオホメネス)がマケドニアとの戦争時、エジプト王(プトレマイオス)に援助を求めたときのことを題材にしている。エジプト王は母と息子たちを人質として要求した。母親にどう言うべきか……。「屈辱だ、恥辱だ。/話そうとする度にためらった。/口火をきろうとするといつも抑制がかかった。」
 だが、

気丈な母はわかっていた。
(すでに噂は聞いていたし)
言ってごらんとはげました。
打ち笑った。むろん行くわよ。
年を取ってもスパルタの役に立てる。
幸せだよ。

 短いことば、簡潔な文体が、母親のこころの強さを語っているが、彼女の「気丈」は単にこころのあり方ではない。その奥には「論理的な精神」がある。「論理」によって、こころを支えている。
 三連目。

屈辱だって? 全然--。
ラギデス家のような成り上がりに
スパルタ魂はわかるまい。
だからあいつの命令は屈辱にはならない。
私のような生まれながらの貴婦人、
スパルタ王の母后には--。

 「わかる」という「動詞」がこの詩のキーポイントだ。
 自分のことを「わからない」人間には何をされても、それは侮辱にはならない。侮辱の前提には「わかる」ということが必要なのだ。
 「おまえにはわからなかった」にも同じような表現があった。ユリアノスに市民が誓願したとき、ユリアノスは「読んだ。わかった。却下した。」と応えた。それに対して市民が「読みはしたろうがわかっちゃおらぬ。」と反応している。
 だいたい、相手のことが「わかる」とき、ひとはその相手に対して屈辱的なこと、侮辱的なことはしない。相手に対して非礼なことをする段階で、すでそのひとは「知的に劣っている」。
 この強い自信を、母は息子のクレオメネスに植えつけようとしている。
 クレオメネス王の長々とした「苦悩」と母親の簡潔な強い口調(声)との対比によって、そのことがいっそう鮮明になっている。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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