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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(165)(未刊12)

2014-09-03 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(165)(未刊12)   

 「愛の物語を聞けば」は、カヴァフィスが何よりもことばの世界を重視していたことがわかる。

きみよ、大いなる愛の物語を聞けば、すべからく審美家として感動せよ。
これだけは忘れるな、きみが気ままでずっと幸せだったのは、
きみの想像力がずいぶん創り出してくれたおかげなのだ。

 「愛の物語を聞けば」の「聞く」という動詞。「聞く」のは「他人の愛の物語」である。自分で体験するのではなく、間接的に体験する。ことばをとおして。
 このとき、カヴァフィスが「読む」ではなく「聞く」ということばをつかっているのは、詩人が「音(声)」こそがことばだと感じていた証拠になるだろう。「音(声)」は聞いた先から消えていく。それを消えないようにするには、自分の「肉体」で反復するしかない。耳と口をつかって、ことばを動かす。「声」に出す。実際に他人に聞こえるように言わなくても、自分に聞こえるように「肉体」のなかで「声」を出す。
 「肉体」のなかでひびく「声」。これは「想像力」と呼ばれるものかもしれない。自分の「肉体」のなかで、ことばが「声」になってひびく。他人には聞こえないが、自分には聞こえる「声」。それが「想像力」の出発点である。
 カヴァフィスは、その「無音の声=想像力の声」をいちばんすばらしいものだと言う。次のように。

何よりもまずこれだ。あとはきみも人生の中で
けっこう楽しんだ経験に過ぎぬよ。

 「愛の物語」を構成することば、その「想像力の声=無音の声」を自分の「肉体」で「無音」のまま反復し、そこにあるリズムとメロディー、ハーモニーに感動するとき、「きみ」自身の「経験」が花が開くように開く。
 そして、カヴァフィスは、ちょっと残酷(?)なことも言う。

それほど大したものではなくて手頃な現実、
きみの味わった愛とさほど変わらぬ愛だよ。

 「物語」のなかの「愛」と、「きみ」が知っている「愛」とさほどかわらない。これは「大いなる愛の物語」にとっては残酷極まりないことばだが……。
 逆に言えば、「きみ」の「愛」も、ことば次第で「大いなる愛の物語」なるということでもある。ことばが「手頃な現実」をたった一つの全体的な「現実」、つまり詩に変える。そして、それを詩に変えるためには「審美眼」が必要である。審美家になって、ことばの細部をしっかりみつめる。強いことばで「愛」を語るとき、それは「大いなる」ものとして誕生する。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(164)(未刊11)

2014-09-02 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(164)(未刊11)   2014年09月02日(火曜日)

 「人知れずこそ」は「不明瞭」な詩である。

現実の言動全部を集めても
かつての私の姿はうかがい知れぬ。
私の行動も生きかたもこれをゆがめる邪魔物があった。
ものを言おうとしかけたら邪魔物がよく口をふさいだ。
私のもっとも目だたぬ行動、
私のいっとうベールをかぶせた書き物、
--他に私をわかる手がかりはなかろう。

 「かつての私の姿」とはどんなものなのか、ここには書かれていない。何か言おうとしたら、何かが口をふさいだ。「邪魔物」とは「良識」かもしれない。「良識」に反することを「目だたぬ」ようにしてやってきた。しかし、「私」はことばを言わなかったが、ことばを書いた。「書き物」のなかに、「私」がベールをかけてきた(隠してきた)「私」がいる。
 男色とからめて読むと、男色とは知られないように行動してきた。しかし男色のことは詩のなかに書いてある。それが「私をわかる手がかり」になるだろう、ということか。
 しかし、ほんとうにベールがかけられているだろうか、カヴァフィスの詩には。そういうふうには思えない。むしろ、あからさま、むきだし、という感じがする。
 「口をふさぐ」と「書き物」の対比の方が私にはおもしろく感じられる。カヴァフィスは「声」に出して男色のことは言わない。「現実」のなかで、仲間ではない人間に対しては「声」をつかって男色のことは言わない。また、その世界でも「声」をつかってだれかを誘ったのではないかもしれない。「書き物」で、つまり「声」をつかわないことばで、自分の思いを伝えたのかもしれない。たとえば詩を書いて。
 そう思うと、カヴァフィスの「声(口調)」への執着、あるいは嗜好のようなもののきっかけが見えるような気がする。「声」に出したかった。でも出さなかった。そのかわり、「声」を聞きつづけた。「他人の声」のなかに「自分の声」を聞き、それを代弁させた。他人を(歴史を)書くふりをしながら、カヴァフィスは自分を語りつづけたと告白しているのかもしれない。

いや、私の真の姿など知る価値はない。
そんな関心努力にはおよばぬ。
後世、完全に近い社会に
私のそっくりさんが必ずあらわれて
自由奔放に行動する。

 その行動のなかで、カヴァフィスのことばはほんとうに解放される。カヴァフィスは自分のことばが、「他人」のなかで解放されて詩になることを知っていた。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(163)(未刊10)

2014-09-01 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(163)(未刊10)   

 「アントニウスの最後」はシェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』を下敷きにしている。シェークスピアは他人の「声」を聞く耳をもっていた。「他人の声」をそのまま芝居にしている。言い換えると、シェークスピアは「自分の声」というものを書いていない。「自分の耳」を書いていると言える。世間で話されることばを聞き、その「声」の奥に人間の「本質」を発見し、それをそのまま「他人の声」として書いている。芝居にはシェークスピアは登場せず、舞台の上には「他人」だけがいる。
 カヴァフィスがシェークスピアにひかれたのは「他人の声」を書くということに引きつけられたからではないか。
 社会にはさまざまな「声」があふれている。それを「声」のまま書きたかったのだろうと思う。史実から題材をとったり、今回のように古典から題材をとっているも、「意味」ではなく「声」を書きたいからなのだろう。「意味」はすでに「歴史」のなかで固定化されている。その「意味」にどれだけなまなましい主観で色付けができる。「意味」を「声(口語)」のなかへどれだけ引き込めるか。

女どもは泣き叫んでいた、
アントニウスの哀れな今を。
例の女はオリエントふうの身振り。
はしため奴隷は えびすなまりのギリシャ語。
聞くアントニウスに
自尊心がむらむら。

 カヴァフィスはアントニウスにも「耳」をもたせているのがおもしろい。「えびすなまり」を聞く耳。「意味」ではなく、「意味」につけくわえられている「響き」に耳という肉体が反応し、むらむらする。
 その結果でてくる「声」は、

「おい皆 嘆くな、おれのために。
見当外れもはなはだしい。
歌ってほしいのはおれの誉め歌。
偉大な支配者、
金持ち、英雄だったと讃えてくれ。
破滅はしても いやしく破滅はせぬ。
ローマ人がローマ人に負けたからには」

 最後の一行はシェークスピアからの引用だが、その前に繰り広げられる「口調(口語)」の響きが剛直だ。「偉大な支配者、/金持ち、英雄」ということばは庶民にはなかなか並列していうことのできないことばである。どれかひとつになってしまう。その全部を平然と言える「声」が「アントニウスの声」なのだ--とカヴァフィスは言う。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(162)(未刊9)

2014-08-31 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(162)(未刊9)   

 「ポセイドニア人」は、前書きにアテーナイオス『ディプノソピスタイ』を引用している。その散文を詩に書き直したものである。

ポセイドニア人はギリシャ語をなくした。
何百年も外人に混じって暮らしたからだ。
エトルリア人、ローマ人その他その他だ。

 ギリシャから離れて暮らし、その暮らしのなかで外国語を覚える。外国語で暮らすようになる。そのことを「ギリシャ語をなくした」ということばからはじめるのは、カヴァフィスが詩人だからだろう。ギリシャ語を話して、はじめてギリシャ人である。

祖先から受けついだものはただ一つ。
さるギリシャの祭り。その美しい儀式。
竪琴ひびかせ、笛吹かせ、競技を行い、花づなを飾る。
祭りの終わり頃に祖先の習慣を教えあい
ギリシャ式の名を名乗る、
わかるやわからずやの名を--。

 ことばが変わると名前も変わる。名前が変わるようになると、もうその人間はギリシャではなくなる。この改名のことは『ディプノソピスタイ』の引用にはないので、名前にカヴァフィスが強い思い入れをもっていることが窺い知れる。母国語と母国を感じさせる名前。--名前は、常に口に出して呼ばれるものであることを思うと、カヴァフィスにとってはことばとは「声」だったということがよくわかる。口に出してつかうことば。「声」となって届けられることば。音の響き。
 カヴァフィスの詩には口語が多いが(中井久夫は口語を巧みにつかって、ひとの「声」の特徴を引き出しているが)、その「声」への嗜好は、こういうところにも窺い知ることができる。
 さらに、

竪琴ひびかせ、笛吹かせ、

 このことばの動きの「音楽」。
 「竪琴をひびかせ、笛を吹かせ、」が正確な「文章語」なのだろうけれど、中井は「を」を省略することで、祭りの高揚したリズム、音楽をとらえている。カヴァフィスの「口語」好みを、こんなふうに日本語にするのはとても刺戟的だ。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(161)(未刊8)

2014-08-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(161)(未刊8)   

 「劇場にて」は、劇場で見た「きみ」のことを書いている。

舞台に飽きて
目をあげ 桟敷を見た。
桟敷にきみがいた。
ふしぎなきみの美。頽廃の若さに溢れたきみ。
私の心はただちに還っていった、
きみのうわさを聞いたあの日の午後に。

 ことばのリズムが非常にいい。短いことばからはじまり、三行目で「きみ」を見つけると、四行目でことばがあふれてくる。句点で区切られたふたつの文が一行を構成する。それまでの短いリズムを守っていられない。ことばが噴出してくるのだ。
 五行目の「私の心はただちに還っていった、」の「ただちに」も不思議だ。意味は「すぐに」「即座に」ということだが、「すぐに」よりも音が多く、「即座に」よりも音が明るい。還ることを楽しんでいる響きがある。
 五行目と六行目は倒置法だが、これも効果的だ。「きみのうわさを聞いたあの日の午後に、私の心はただちに還っていった」では「ただちに」という感じがしない。「動詞」の動きが見えない。喜びは「動詞」になって先に肉体を動かし、そのあとで「理由」がやってくる。そのリズムを素早くつかみとる中井久夫の訳によって詩がいきいきと動く。
 「あの日の午後」は何でもないことばだが、「ただちに」の「あ」の音と響きあって、これも明るく見える。いつものカヴァフィスのみんなと共有している「あの」ではなく、カヴァフィスだけのこころの「あの」の明るさが楽しい。

見も心もともにふるえつつ
魅せられて眼はきみに釘づけ。
きみのものうい美、ものういきみの若さに、
きみの趣味のよいよそおいにも--。

 「頽廃の若さ」が「ものうい」ということばに言いなおされている。「美」と「若さ」とにわざわざわけて繰り返されている。こうした繰り返しは散文ではうるさいだけだが、この詩では、そのままカヴァフィスの眼の動きになっている。まず「頽廃の若さにあふれたきみ」を見つめ、つぎに「きみのものうい美」を見つめ、さらに「ものういきみの若さ」を見ている。眼は、三度「きみ」を見ているのだ。釘づけ、というのは眼がそこから動かないということだが、眼は動きたかったのだ。けれども、動いても動いても、そこに引きつけられていく。三度も。さらに眼は、記憶のなかへも動いていく。

私は頭の中にきみを描きつづけた。
あの午後に皆がしていたうわさどおりだった。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(160)(未刊7)

2014-08-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(160)(未刊7)   

 「階段の途中で」は、男色の嗜好のある青年と階段ですれ違ったときのことを書いている。

あの名をはばかる階段を降りて来たら、
きみがドアを開けてはいってきた。
私は一秒ほどきみをまじまじと見た、
きみの見なれぬ顔を。きみも私の顔を見たね。
ぱっと身を隠したから、私の姿は二度と見えなかったはずだ。
きみは顔を隠してそばを急いで通って、
あの名を憚る家にすっと入った。

 書き出しの「あの」はカヴァフィスが頻繁につかう「あの」である。「あの」と書けば、それが何かわかる。「あの名をはばかる階段(名を憚る家)」--それがわかる人に向けて書かれている。「あの」がわかるひとは、ここに書かれている「きみ」もわかるかもしれない。カヴァフィスは「見なれぬ顔」と書いているが、ほかのひとは見なれているかもしれない。
 顔をまじまじと見つめ、そのあと姿を隠す。青年も顔を隠す。まじまじと見つめ合ったにもかかわらずに。カヴァフィスの方は隠しながら、すれ違った青年が「あの」家に入っていくのを見つめる。このちぐはぐなふたりの動きがおもしろい。
 カヴァフィスは欲望を果たしてきた。青年はこれから欲望を発散しに行く。ふたりは互いの顔を見たのではなく、欲望の「前後」を見たのだ。

二人の身体は互いに感じ合って求めあっていた。
二人の肌と血はうなずきあっていた。

 二連目の最後の二行が強烈である。特に「二人の肌と血はうなずきあっていた。」が非常に強い。「肌」も「血」もうなずくものではないからだ。うなずくものではないものが「うなずきあった」。これはもちろん、目がうなずきあったの言い換えである。互いの欲望を目で見て、目で肌と血の欲望を感じ取り、その感じ取ったことを目で伝えあった。
 目が省略されている。
 一連目で「まじまじ」と見つめあった目。それから目から「姿を隠し」、目から「顔を隠し」、それでも「きみがあの家に入る」のをみつめた目。
 この詩には「目」ということばが書かれていないが、「目」が主役の詩である。

だがわれわれは互いに隠れたんだ、うろたえて--。

 こころもうろたえたが、「目」もうろたえたのである。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(159)(未刊6)

2014-08-28 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(159)(未刊6)   

 「一九〇三年十二月」は「一九〇三年九月」の続編である。カヴァフィスは自分自身の体験をそのまま詩にしていることがわかる。

もしもきみへの愛を語れぬとしても、
よしんばきみの黒髪を、くちびるを、眼をうたえぬとしても、
こころに秘めたきみの面影、
脳裡に消えない声のひびき、
九月の日々は私の夢に現れて、
私のことばの、私の書くものの 形となり肉となっているよ、
何を論じても、どんな考えを語ろうとも。

 「あのひと」は「きみ」にかわっている。何らかの接触があったのだろう。
 しかし、ここでもカヴァフィスは「対象」を描いていない。書くと「きみ」がだれてあるか、カヴァフィスの知人に知られてしまう。それを避けているのかもしれない。カヴァフィスの嗜好が知られる、ということを恐れているのかもしれない。
 しかし、その「面影」と「声のひびき」はカヴァフィスの詩に反映されている、と言う。ことばの「肉」になっていると言う。
 この「声のひびき」という一語がカヴァフィスの詩のポイントかもしれない。「きみ」の言った「ことばの意味(内容)」というよりも「声のひびき」がカヴァフィスのことばに反映する。
 ひとは、ある誰かにひかれるとき、さまざまなひかれ方をする。人格や思想にひかれることもあれば、容貌にひかれることもある。あるいはセックスの官能にひかれるときもある。
 カヴァフィスは「きみ」の容姿にもひきつつけられているが、「声のひびき」にも魅了されている。それは「能裡に消えない」。
 「面影」の方は「こころに秘めた」という表現をつかっている。カヴァフィス自身が「ひめた」のである。能動的に動いている。けれど、「声のひびき」はカヴァフィスが能動的に動いて自分のなかに閉じ込めているのではない。それは耳から入ってきて、脳裡に居すわっている。そして、それはカヴァフィスの肉体のなかを動き回っている。そして、カヴァフィスの口調になっているのかもしれない。

 この詩は、しかし、とても弱い。カヴァフィスの「声」にしては「主観」という感じがあまり強くない。それはたぶん「脳裡」ということばと関係している。「きみ」の「声のひびき」は「脳裡」から消えないけれど、影響は「脳裡」にとどまっている。その「声のひびき」が手足や先まで支配し、「脳」が手足(肉体)に裏切られるところまで行ってしまうのが恋愛の極致だろう。
 「声のひびき」が「脳裡」にとどまっているから、この詩には「意味」はあるけれど、愉悦がない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(158)(未刊5)

2014-08-27 09:49:38 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(158)(未刊5)   2014年08月27日(水曜日)

 「一九〇三年九月」は男色に踏み出す前の苦悩と歓喜を描いている。

せめて幻で自分をまやかしていたい。
私の人生はほんとうは虚ろだもの。

 「虚ろ」なのは男色の欲望がありながら、その世界に踏み出せないからである。だから、せめて「幻(の恋)」で自分をまやかすのだが、相手は「幻」ではない。さらに欲望も「幻」ではない。

あまたたび、あれほども、あのひとの近くに、
あの官能の眼差しの、あのくちびるの、
あの、夢に現れて愛した身体の、
あまたたび、あれほどのそばにありつつ。

 「あの」が繰り返される。カヴァフィスには「あの」と言えばそれだけでわかる「あの」。読者にはもちろん「あの」が具体的にはわからない。これはカヴァフィスのいつもの調子である。口調である。初期から、カヴァフィスは具体的な描写(個性的な描写)を回避して「あの」「その」で対象を描いている。
 いや、対象を描いているのではない。
 カヴァフィスは、自分自身の「あり方(ありよう)」を描いている。もう何度も何度も思い浮かべた。何度も何度も欲望に突き動かされた。欲望は具体的なことばなど必要としない。欲望に必要なのは肉体を動かすことである。「あれ(あのこと)」がしたい。具体的に描写する必要などない。「あの」で、自分にはすっかりわかってしまう。余分なことばをつかうと、それだけ対象が遠くなる。いちばん短いことば「あの」で「あのひと」を呼び寄せる。
 自分自身の恋。欲情。誰かにわかってもらう必要などない。だから「あの」で充分なのだ。充分すぎる。
 その「あの」と関係しているのだが、この詩には「あ」の音が多い。ギリシャ語ではどうなのかわからないが、中井久夫は「あ」を繰り返す形で訳している。「あ」またたび、「あ」れほど、「あ」のひと、さらには「あ」らわれ、「あ」いした、「あ」りつつ。その繰り返しは、まるでため息のようである。そしてまた、自分のため息に自分で酔っているような感じでもある。
 だから、苦悩なのに、同時に歓喜の声も聞こえる。苦悩こそが歓喜を与えてくれるとわかっていて、カヴァフィスは苦悩を選んでいる。
 これは矛盾だが、矛盾しているからこそ、詩なのである。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(157)(未刊4)

2014-08-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(157)(未刊4)   

 「精神の成長のためには」は男色の詩なのかもしれない。「官能の喜悦こそ大いなる教育。」という一行があるが、しかし、この詩は官能的ではない。「官能の喜悦」というのは、いかにもカヴァフィスらしい、修飾語にとぼしい、非個性的な表現だが、それ以外はカヴァフィスらしくはない。

精神を成長させんと欲する者は
すべからく服従・尊敬を卒業すべし。
二、三の法には逆らわずともよし。
他の大部分には違反せよ。
法にも習慣にも。
既成の役立たずの基準を超越せよ。

 「意味」が強すぎて、おもしろみがない。
 「服従・尊敬を卒業すべし」が、法や習慣への服従、尊敬というもの、まるで道徳の教科書のよう。いや、道徳の教科書は「法や習慣」に服従するな、尊敬するなとはいわないだろうが、その「服従、尊敬」の対象に、法や習慣をもってくるところが道徳的である。
 どんなに「逸脱」をすすめてみても、出発点に「法、習慣」というものがある。前提が道徳的なのである。道徳を前提として、それに反することをすれば反道徳(自由)といえるかどうかは、かなり難しい問題だ。
 だいたい、こういうことを言われなくても、法を逸脱し、好き勝手なことをするのが青春というものである。わざわざ書かなければならなかったのはカヴァフィスが男色以外は「既成の基準」のなかで生きていたからかもしれない。しかし、唯一逸脱する男色への嗜好、それは肉欲のためではなく精神の成長のためなのだというのは、どうみても詭弁でしかない。

破壊的行動を恐れるなかれ。
家の半ばを壊すともよし。
悠々と叡知に入る道なれば。

 「家の半ばを壊す」はなんだろうか。「建物」ではないだろう。「家」のなかにおける関係、両親との関係のことだろうか。こういうことばが出てくるのはカヴァフィスが両親との関係を気にしていたからだろう。後ろめたさを感じていたのかもしれない。
 「悠々と叡知に入る道」とカヴァフィスは書くが、ほんとうに「叡知」があるならば、こういうことは書かないだろう。
 まだカヴァフィス自身のことばを見出していない、未熟な感じのする詩である。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(156)(未刊3)

2014-08-25 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(156)(未刊3)   

 「見張りが光を見たなら」について、中井久夫は「この詩はアイスキュロスの『アガメムノン』の冒頭より採っている。」と注釈している。「アガメムノンが王妃とその情人に殺され、長い復讐劇が開幕する。」と。
 その出だし。

夏となく冬となく
アトレウスの屋敷の屋根に
見張りが見張っていた。
今つかんだ、よい知らせ。燃えあがった遠くの火。
うれしい。単調な仕事がさあ終わる。

 この書き出しのリズムは強くて、余分なものがない。カヴァフィスの魅力にあふれている。
 ところが、そのあとがあまりおもしろくない。ことばがゆるむ。リズムにスピードがない。

待ちに待った信号が出た。それはうれしいけれど
さて出てみると 思っていたほどうれしくない。

 この、期待していたものが期待していたとおりにあらわれたために、逆に期待が裏切られたような気分になる感覚というのは、多くのひとが感じることかもしれない。けれど、これをこんなふうに「散文的」に説明されるとおもしろくない。「主観」を聞いた、そのひとの「声」を聞いたという驚きがない。

だが 余分にかせいだのは事実。希望も期待ももういらない。
さあ これからアトレウス家にいろいろ起こるぞ。
見張りが光を見た今はな。誰でも予想のつくことさ。

 「余分にかせいだ」は「よい知らせ」が出るまでの時間が長くて、つまり、見張りをする時間が長くてたくさん稼げた(予想以上に稼げた)ということを告げているのだが、「だが」という接続詞が「声」を説明してしまって、間延びする。「事実」という念押しのことばが、また、もったりとしている。
 さらに「誰でも予想のつくことさ。」という事件の暗示が、どうしようもなく余分である。詩がはじまる前に「散文」の下書きが見える感じだ。「いろいろ起こるぞ」というわくわくした興奮(主観)が埋没してしまう。
 『全詩集』に納められている詩が、演劇の一シーンそのものの緊張感があるのに、「未完詩篇」の方は緊張感がない。「散文」の下書きのようなリズムである。カヴァフィスは、こんな「習作」のようなことばも書いていたのか、と驚かされる。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(155)(未刊2)

2014-08-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(155)(未刊2)   2014年08月24日(日曜日)

 「クローディアス王」は「ハムレット」を下敷きにしている。

甥が王を殺した理由
どうも合点がゆかぬ。
王に殺人容疑をかけたが、
疑惑の根拠といえば
何と! 古城の戦闘城楼を散策して
幽霊と会って話をしただけ。
幽霊の話が王にたいする確実な告発と
王子は思ったとさ。

 カヴァフィスがシェークスピアを好んでいることは、その詩が演劇的(芝居的)なことからもうかがえる。どの詩も芝居の一シーンのようだ。ストーリーを分断して(ストーリーはみんなが知っている)、その場面だけを取り出す。そうしておいて、そこに登場人物の「主観」を繰り広げる。ストーリーが背後に隠され、説明されないので、その「声」の強さ、響きだけが印象に残る。「声」が印象に残るように、カヴァフィスは書く。
 いま引用した部分には、しかし、その「声」はあまり強く感じられない。かろうじて「思ったとさ」の「さ」という中井久夫の訳にそれを感じるくらいである。

幻覚の発作にちがいない。
眼の錯覚だあ。
(王子は極度の神経過敏。
ウィッテンベルク大学の学友は皆、
あいつはキチガイじみたと言うよ)

 「眼の錯覚だあ」の「だあ」という口語の調子を借りて、中井久夫が苦労して「声」を拾いあげようとしている。そういう「口調」をもった誰か、そういう人間を動かそうとしている。しかし、成功しているとは思えない。
 たぶん、詩が長すぎるのだ。
 カヴァフィスは演劇的な詩を書くが、演劇そのものは書かない。ここがシェークスピアと違う。複数の「声」を聞く耳を、カヴァフィスもシェークスピアも持っているが、カヴァフィスは、その「声」を一対一のなかで繰り広げる。シェークスピアのように多数の人物を登場させ、「声」を書き分けるというとはない。
 ひとりの「声」を聞きたいのかもしれない。そのときそのときの「声」にあわせて違う世界へ入り込みたいのかもしれない。ある意味では、カヴァフィスの方が欲張りかもしれない。ひとりひとりと「情」をかわしたいという欲望があるのかもしれない。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(154)(未刊1)

2014-08-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(154)(未完1)   2014年08月23日(土曜日)

 「ユリアノスと神秘」は若いユリアノスが地下で「物の怪」に会う。思わず十字を切ると物の怪は消える。そして周りのギリシャ人に「奇蹟を見たか」という。「私が聖なる十字を切るのを見たら/魔はたちどころに消えたな」と。これに対してギリシャ人は笑った。そんなことを言うな。

わが栄光のギリシャの大御神々が
殿下のおん前に立ち現れたもうたのですぞ!
よしんば神々が立ち去りたもうたとしても
十字をこわがられてではありませぬ。
殿下があのいやしい野暮ったい印を
お切りになるのをごらんになられてのこと!
高貴な神の本性。当然嫌悪なされて
殿下をさげすみ 捨てなされたわけで」

 ここにはソフィストの「詭弁」がある。そこで起きた現象については、どうとでも言える。「十字架を恐れて消えた」のかわりに「十字架を信じるやつを見捨てて立ち去った」と言い換えることは簡単だ。「理由(意味)」というのはいつでも自分の都合のいいように捏造できるのである。さらに、「理由」に「神はユリアノスを蔑んだ」ということばを追加することもできる。「理由」は、こういう侮蔑によって説得力を持つようになる。
 ここまでなら詩の「声」はまっすぐでわかりやすいのだが、そのあとが難しい。

こう言われ このアホウは
ギリシャ人の涜聖のことばに説得されて
せっかくの祝福さるべき聖なる畏怖から立ちなおった。

 「このアホウ」はだれが言ったことばなのか。ユリアノスを笑ったギリシャ人(ソフィストや哲学者)なのか。それとも詩人カヴァフィスなのか。
 「ギリシャ人の涜聖のことば」があいまいである。儀式(?)をせずに、簡単に「神々」ということばを出し、またそのことば(理由)」が捏造だというのか。そういうことががギリシャの神々を冒涜しているというのか。
 「せっかくの祝福さるべき聖なる畏怖」と「立ち直る」の関係も難しい。神を実感するときの畏怖、それを簡単に忘れてしまったというのか。
 たぶん、宗教体験というのは「畏怖」を除いてはありえない。畏怖は常に感じなければならないのである。「涜聖のことばに説得され」るというのは、矛盾である。「聖なる畏怖から立ちなお」るというのも矛盾である。
 ふたつの矛盾が、矛盾のまま放り出されて、ここに存在している。そして、そこに「アホウ」というような「口語」がそのまま動き輝いているのがおもしろい。これがカヴァフィスなのだ。矛盾と、その矛盾といっしょにある「声」のなまなましさが。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(153)

2014-08-22 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(153)        

 「一九〇八年の日々」は、その年に出合った二十五歳の青年のことを描いている。仕事がなくてカフェでカードをして稼いでいる。しかし勝負事は稼ぐよりも「借り」が増えていくものである。金に困って、どうするか。借りを帳消しにするにはどうするか。方法はかぎられている。
 そういう惨めな生活の合間の、ほんの短い時間。

一週間かそこらだった。も少し長かったか。
あの子があのぞっとせぬ夜になんとかおさらばして、
プールで朝早く泳いで身体のほてりを冷やせたのは--。

 その、ほんの短い時間に、「きみ」はあの子を見た。

きみの眼の底に残るあの子は
あの貧相な上衣を脱ぎ捨て、
つぎの当たった下着をかなぐり捨てて、
すっくと素裸で立った姿だ。
一点の非の打ちどころのない美しさ。まさに奇蹟。
櫛の入らない髪を後ろに流し、
朝ごと浜とプールで裸になった報いの軽い陽灼けの腕と脚。

 この最後の描写に私は驚く。「一点の非の打ちどころのない美しさ」という表現は、繰り返し読んできたカヴァフィスの男色の相手を描写することばそのままに具体性に欠けている。ただし、貧相な上衣(色の抜けた肉桂色のスーツ)、つぎの当たった下着とは対極にあることはわかる。そして、そのあと、突然「櫛の入らない髪を後ろに流し」という具体的な描写が出てくる。
 あ、初めてだ。カヴァフィスは、ここではじめて自分の愛した男を具体的に描写している。忘れられないのだ。
 そのあとの「朝ごと浜とプールで裸になった報いの軽い陽灼けの腕と脚。」もカヴァフィスにしては非常に具体的な描写である。日焼けした腕と脚。それも、朝素裸で泳ぐということを繰り返したためにできた日焼け。ふつうの、日盛りの浜やペールでつくる日焼けとは違うのだ。
 「きみ」が、つまりカヴァフィスが「あの子」の普通の日々の姿を知ったのは、詩に書かれている順序とは逆に、そのあとなのだろう。美しい姿を見たあとなのだろう。
 「たしなみのよいきみ」は、「あの子」の日常を知らなかった。
 しかし、知ってしまってからも、あるいは知ってしまったからなのか、よけいに「あの子」を忘れられない。詩集の最後を、その思い出で閉じているのも、そこに強い思い入れがあるからだろう。
 誰にでも忘れることができない恋がある。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(152) 

2014-08-21 10:36:16 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(152)        

 「紀元前二〇〇年」は何を書いているのだろうか。

「フィリッポス王の子アレクサンドロスおよびギリシャ人、ただしスパルタ人を除く……」

ようくわかる。
スパルタ人はこの文句を全く気にしなかった。
この「スパルタ人を除く」を。
むろんだ。スパルタ人は高等小使じゃない。
命令されてあちこち連れまわされる人間じゃない。
さらにだ、スパルタ王の率いない全ギリシャ遠征軍なんて
お笑いだ。
むろんだ、だから「スパルタ人を除く」なのさ。

 ギリシャを勝利に導く「スパルタ人」こそ「ギリシャ人」。わざわざ「スパルタ人」という必要はない。だから「スパルタ人を除く」を気にしない。
 ギリシャ人はギリシャ人で、これを逆手にとって「ギリシャが勝ったのだ」という。「スパルタ人が」とは言わない。戦そこで「スパルタ人を除く」というおふれが出る。「スパルタ人」はギリシャ人だ。
 スパルタ人は、その「論理(屁理屈)」を気にしない。人が自分のことを「スパルタ人」と呼ぼうが「ギリシャ人」と呼ぼうが関係がない。「スパルタ人」こそが戦争を勝利に導いている、戦争を勝利に導くのが「スパルタ人」であるという自負かあるのだろう。
 だが、それをいいことに、次々と戦争に勝ちながら「スパルタ人を除く」を繰り返す。そして世界が「ギリシャ語」に制覇されていく歓喜に酔う。世界をギリシャ語が支配していく喜びに酔う。

我等の一頭地を抜いた覇権、
正義のもとに統合された柔軟な政策、
我等の共通ギリシャ語、
こういうものをバクトリア、インドまで運んだ我等。

こうなったらスパルタ人など、誰が問題にするか!

 その果てに、突然、「スパルタ人を除く」が消えてしまう。「スパルタ人」がいなくなってしまう。すべてがギリシャ語を話すがゆえに「ギリシャ人」になってしまう。しかし、そうなるとこんど戦争があったときはどうなるのだろう。誰がギリシャを勝利に導くのか。ここに、敗戦の「予兆」のようなものが書かれている。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(151)

2014-08-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(151)        2014年08月20日(水曜日)

 「古代ギリシャ系シリア人魔術師の処方によって」は奇妙な詩である。薬草を蒸留したエキスを飲むと過去が呼び戻せるのだという。ドラッグの類のことだろう。
 では、どんな「過去」を呼び出すのか。

そう、返ってくるのだ、二十三歳の日が。
当時二十二歳だった友も、
その美も、その愛も。

 若い時代の愛の記憶。そのエロスの美の記憶。おもしろいのは単に過去とは言わないところだ。私(カヴァフィス?)が二十三歳、そのとき相手は二十二歳だった。「その美」「その愛」よりも、この明確な「年齢」こそ、カヴァフィするの呼び出したいものだったのだろう。美も愛も抽象的なことばだが年齢は具体的である。
 自分の年齢を言ったあと、「当時二十二歳だった友も、」と書いているのは、いまカヴァフィスが二十三歳ではないのと同様に、友も二十二歳ではないからだが、わざわざそう書いているのは、その友といっしょにドラッグをやろうとしているということかもしれない。「きみも二十二歳の日に返れるんだよ」と、いうわけである

何とすてきなエキスの発見。
古代ギリシャ系シリア人魔術師の処方だ。
返ってくるのだ、過去への回帰の一部として
私たちがふたりきりで過ごしたあの小部屋までが--」

 こでも書かれていることは相変わらず抽象的に見えるが、少し違う。ふたりで過ごした部屋を「あの部屋」と呼んでいる。「あの」には意味がある。「あの」がわかる相手がいる。カヴァフィスは「あの」友にドラッグをやろうと誘っている。「あの」部屋と言えるのは、ふたりは「その」部屋だけをつかったのだろう。あちこちの部屋を、その日そのときでつかったのではなく、愛を交わすなら「あの」部屋と決めていたのだろう。
 ふたりの思い出はいろいろいあるだろう。ふたりの過去はいろいろあるだろう。しかし、カヴァフィスは「あの部屋」こそ「過去」だと感じている。「過去への回帰の一部として」というもってまわった複雑な表現が、カヴァフィスのこだわりを明確にしている。「あの」思い出、というわけだ。
 そして、この詩が、

さる通人の話です。

 という一行ではじまるのも、とてもおもしろいと思う。自分のことだからこそなのか、それともドラッグを書いているからなのか、自分のことではないように装っている。よほどの思い入れがあるのだろう。二十三歳の日々に。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
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