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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(13)

2022-05-14 09:25:50 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(13)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 13篇目「峠の墳墓にて」。国木田独歩が出てくる。あ、石毛は独歩を読んでいたのか。私は独歩をまともに読んだことはないが、透明なひとだと思う。硬質の透明さが、古さと、古いものだけが持つ確かさをもっている。それは石毛のことばを媒介にして、こんなふうに噴出してくる。

潮垂れるからだを もてあまし
武蔵野の山林を かけのぼる
雲山千里の 峠の墳墓に
感傷的な思いを ふき懸けると
みどりの隙間に 古里の海がせまる

 いま、こんな描写をする詩人はいないだろう。まるで時代小説の文体ではないか。と書いて思うのだが、石毛のことばの奥には、何か「通俗小説」と書いてしまうと語弊があるのだが、気取りきっていない文学との交流がある。そして、その水脈は「細々」というのではなく、妙に「太い」のである。ときどき太すぎて水脈と気づかないときがある。たとえば、ラプラタ川が川なのか海なのかわからないようなものだ、と、私はふとデタラメな比喩を書くのだが(ラプラタ川を見たこともないのに)、それは紛れもない「水脈」なのだ。石毛は、いつも、そういうものに触れている。それから離れることができない。そのために「時代に乗り遅れる」ということがあるかもしれないなあ。しかし「時代」というのはあてにならない、うさん臭いものである。そんなものに「乗る」必要もないだろうし、石毛は、むしろ時代に乗ることを拒んでいるかもしれない。そこに硬質の透明が輝いている。
 独歩は、時代に乗ることを拒んだというよりも、遅れて存在している時代に対して怒りをもっていたと思う。いままでなかった時代を見てしまったために孤立していたように思う。ある時代の作家の多くがそうであったように。
 もしそうだとすると、硬質な透明感(硬質ゆえに近づきがたく、敬遠されてしまいがちな透明感)が共通する石毛は、独歩と同じように時代に乗り遅れているのではなく、時代より先に進んでしまっているために、不特定多数の読者には届きにくい存在なのかもしれない。
 どこがいい、ということを「説明/解説(?)」するのはむずかしいのだが、山本育夫の詩がそうであったように(そうであるように)、ちょっと宣伝の仕方を変えれば大ヒットするのになあと思う。いま、山本育夫の詩集が人気でしょ? 40年ほど前は人気があって、一時期どこに行ったのかという状態だったけれど、いまは誰もが山本育夫と言っている。石毛も、そういう感じ。
 脱線したが。
 独歩を描写した次の連が、私は大好きだ。

風に吹かれて
若葉にくすぶる 峠の墳墓にたつと
そこに 民権運動が眠っている
独歩は 口を手で隠して
なにごとか
海外にむかって 叫んでいる

 「口を手で隠して」。何と、意味深長なことばか。つまり、「誤読」の可能性をたくさん含んだことばであることか。
 「口を手で隠す」のは何のためか。「叫ぶ」ということばと結びつけると、ここに書かれていることの複雑さが、それこそ「硬質な透明さ」で噴出してくる。ひとは叫ぶとき、おうおうにして口のまわりを両手でおおう。手をメガホンのようにしてつかう。山の上で「ヤッホー」と叫ぶとき、多くの人は、知らず知らずのうちに、そういう行動をする。それは決して「口を手で隠す」ということではない。「声」が散らばらないようにするためである。「声」を少しでも遠くへ届けたいからである。
 さて。
 どんなにがんばってみても、人間の「声」は「海外」にまでは届かない。しかし、なぜ、独歩は海に向かって、海を越えて「海外」に向かって叫んだのか。それは、彼の周囲にいるひとには聞かせたくなかったのだろう。聞かせても理解されないと判断したからなのだろう。いまはまだ周囲には理解されないと判断したからなのだろう。
 ほんとうは「周囲」にこそ、「日本」にこそ、その「声」をつたえたい。だが、それができない。むしろ、日本では「秘密」にしないといけない声かもしれない。
 あるいは、周囲には理解されないということを明らかにするために、石毛は「口を手で隠して」と書いたのかもしれない。そこには石毛の認識が色濃く反映されているのである。こういうことばの動きを批評という。海外で流行している「新しい思想」に乗っかりことばを動かすことだけが批評ではない。石毛のことばは、批評性が強いのである。真の批評が動いている。
 そして、このことは石毛の「ことばの運動」の「自己解説/自注」になるかもしれない。石毛も「口を手で隠して」、ことばを発している。比喩を通して、ある人物を通して(他者を利用することで、自分の口の動きを隠すことで)、「声」を遠くまでとどけようとしている。「海外」にむかって叫んでいるかどうか知らないが、大事なのは、どこに向かってというよりも「口を手で隠して」という肉体の運動なのだ。ことばと肉体の関係なのだ。屈折した批評がいつも動いている。
 詩の終わりがとても美しい。独歩は自分の「声」だけをつたえようとしたのではない。単なる「自己主張/わがまま」ではない。その「声」は太い太い「水脈」を引き継いでいる。そのことに石毛は共感しながら、最終連を書いている。このとき石毛は、やはり「ことばの肉体」を支える太い「水脈/者たち」を生きている。

山林をのぼり
峠を 越えた者たち
峠で 息絶えた者たち
峠の 変哲もない墳墓で
ひと口 喉を濡らしていたら
黒い外套の独歩が
匕首を抜いて 墳墓の塵をはらい
虚栄の自由を 切り裂き
駆け下りていった。

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(12)

2022-05-13 12:23:30 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(12)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 12篇目「植民見聞録」。後注で、石毛は、こう書いている。

 ヤン・ソギル原作。崔洋一監督の映画『月はどっちに出ている』を観戦。そこから、屑のひかり、その生き方に、共振した。

 「観戦」か。書き間違えかなあ。たぶん意識的に書いていると思う。「屑のひかり」という表現も、意図的だろう。石毛は、映画を見ながら、何と戦ったのか。
 そこに描かれているのは「屑」だ。しかし、「屑」はただ汚いもの、捨てられたものではない。「屑」と呼ばれても、生きている。「屑」と呼ばれたことを自分の支えにして生きている。人間は、そうやって生きるということをはじめなければならないのかもしれない。そう感じて「共振」したのか。
 しかし、詩には、こういう表現がある。

階下の初老の男が 死にかけている
その隣の家では 夫婦喧嘩がはじまった
向かいの家では 赤子の喉に火がついた

 というような描写につづいて、こう書いている。

世間の悲嘆は さまざまだが 共感できぬものだ
おれは ただただ うるさいと思うだけだ

 世間の悲嘆はうるさい。共感できぬ。と書くとき、石毛は、何を考えていたのか。何を感じていたのか。「共感できぬ」に共感していたのだ。「うるさい」と言ってしまえるこころに共感していたのだ。
 これが「屑のひかり」である。
 死にかけた老人、夫婦喧嘩、泣きわめくだけの赤ん坊。自分にとっては何の関係もない。「屑」と呼びすてたい。しかし、その「屑」の、なんとうるさいことか。みんな自己主張している。それが、たとえば「ひかり」と呼ばれるものだ。まだ正式な名前(?)はつけられていない。「屑」でありながら「屑」であることを拒絶していく力のようなもの。
 これを何と呼ぶべきか。

植民に 悲憤を感じることもなく
すでに はじめから
在日への おれの思春期は 病んでいたのか!

 「悲憤」。ひとは誰でも「悲憤」を持つ。「悲憤」と「悲嘆」に似ている。「悲」という文字が共通する。嘆きを、怒り(憤怒)に、怒りを力に。だが、この怒りを力にするというときには、いくつものしなければならないことがある。怒りは孤立していては力にはならないのだ。団結が必要だ。
 だが、団結ほどうさん臭いものはない。「個人」をどこかで抑制しないと「団結」が機能しないときがある。
 だから、である。
 というのは、飛躍なのだが。
 「悲憤/悲嘆」の奥へとおりていかなければならない。なぜ「悲憤/悲嘆」が生まれるのか。それは、それぞれの「個人」がもっているものが何者かによって破壊されるからだ。個人の尊厳が奪われるからだ。
 個のその深層へおりて行き、そこから戻ってくる。そのとき、「悲嘆」はたぶん「悲憤」にかわるのだ。そうやってあらわれてくる「悲嘆/悲憤」と、どう向き合うべきか。
 石毛は「戦う」ということばをつかっている。「観戦」ということばのなかに「戦う」がある。
 これは、どういうことか。
 石毛自身への問いだろう。自分は、どんな悲嘆の奥底までおりていったことがあるか。そこから「悲憤」を噴き上げることができたか。「戦う」ということは、相手と正直に取り組むことである。自分とも正直に取り組むことである。
 こう書きながら、ここでも私は、石毛の隣にはいつも魯迅がいると感じてしまう。私は石毛ほど正直にはなられない。

---おい! 月はどっちだ。
---夢の島のほうだ。
おまえは そのまま月をめがけて 走れ!
おれは 車を止めて 怠ける。

 いいなあ、この最後の「怠ける」。
 ここにも何とも言えない「正直」がある。私がこれまで書いてきたことを「うさん臭いもの」にしてしまう「正直」がある。統合/団結、あるいは結論を拒絶する力、個に帰る力が動いている。

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(11)

2022-05-09 18:14:25 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(11)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 11篇目「朱も丹も」。つげ義治のことを書いているのか、本庄又一郎のことを書いているのか、「副題」と「後注」を読むと、わからなくなる。まあ、どっちでもいい。誰のことを書いているかわかったところで、私はその二人のことを知らないから、二人を手がかりに詩を読むことはない。石毛によれば、二人には「共通点」がある。鉱物、地質に関心がある。そういうふうに認識し、書いていく石毛のことばの動きの方に私の関心がある。

「鉱物には、決まって無援の哀しさがつきまとう側面がある」

 これは誰のことばか知らないが、括弧付きで引用されている。とても興味深い。一行に、詩がある。よくわからないが、そう言われればそうかもしれない、という説得力がある。「無援」は「孤立」ということかもしれない。そして、それは「無援」というよりも、「拒援」(援助を拒んでいる)という感じ。「孤立」している、あるいは「孤立」させられている、というよりも「孤」を積極的に選んでいる。それなのに「哀しみ」につきまとわれる。そういう変な矛盾。撞着。それに引かれたんだろうなあ。そういうものによりそう二人の生き方に、石毛は引きつけられたということだろうなあ。
 そして、この「無援(孤立)」を石毛は、こう書いている。「気負いの感情がこもりすぎた」と。

あのとき かれは
奥多摩駅前の路地裏にある
気負いの感情がこもりすぎた
喫茶「鄙屋」の奥で
銀髪の頭を掻きあげながら
読書に 余念がなかった
「地学五輪の本を読め! という者がいる」
ほつりと 言い放った
それきり口を閉ざし
貧乏ゆすりをはじめた

 「気負いの感情がこもりすぎた」は、次の行の「喫茶「鄙屋」の奥で」を修飾しているのかもしれないが、この「気負い」は、やはり「無援」というより「拒援」という感覚だろうなあ。「主体的」なのだ。だから、「感情」なのだ。もし喫茶店の片隅に「気負いの感情」がこもっているとしたら、それはそこにいるひとの感情である。積極的な感情だから、それは溢れ出て、まわりにひろがる。こもる。そして、ひとはときに「感情」になってしまうのであるが、いや、ひとはいつでも感情をもっているが、それが人を閉じ込めてしまうということかもしれない。
 これは、ある意味では「不健康」である。だから、そこから「引き摺り出して」やることも必要になる。

「引き摺り出して おやりよ」
かれの旅の衣には
いつも 辰砂がとりついていた
それは 煌々としたまばゆいアカではなく
鈍く 深みにはまりそうな
アカであった。

 辰砂。鏡の朱泥の原料だったかな? よくわからない。でもね、「石毛はここが書きたかったんだなあ」と私は「誤読する」。鏡の不思議さ。ガラスの裏に朱泥(水銀が含まれている)を塗ると、ガラスが鏡にかわる。ガラスを鏡に変える朱泥のアカ。アカいのに銀色になって世界を反射する力。世界を映し出す力。そういうが、二人に共通していると石毛は感じているのだろう。

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(10)

2022-05-08 10:10:36 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(10)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 10篇目「渚のダダ」。渥美湾で発生した赤潮のために馬鹿貝が大量に死んだ。その報告書(杉浦明平)を読んだことが、この詩のきっかけになっている。(と、前書きに書いてある。)赤潮を逃れようとして、棲んでいた海からジャンプする。だが、どこまで跳べるのか。どこまで跳べば赤潮を脱出できるのか。

いちばん遠くまで飛んだ 馬鹿貝は
未知との遭遇の絶滅 という今世紀末に
ドキュメント「場替えのなぎさもん集団自殺」という屑の叙事詩に描かれ
町会議場で その滑稽さを 嫌というほど示してくれた

 1960年6月15日深更に、伊良湖一万の友は堤防を越えました。
 1990年6月15日早朝に、伊勢湾渥美十万の友も岸辺で息絶えました。

ベロを出し 二枚の羽を広げたままの集団自殺
渚者は おのれの棲家をすて 外地を墳墓にした
「馬鹿なやつら!」と 明平さんは泣き笑いした

 馬鹿貝に「集団自殺」という意識はないだろう。しかし、人間から見れば「集団自殺」のようにも見える。(馬鹿貝ではないが、富山湾では、春先に浜辺で焚火をするとホタルイカがその明かりに誘われて、浜辺へ跳び上がってくる。これを富山の人間は「身投げ」と呼んでいる。人間は海に身を投げ自殺するが、ホタルイカは浜辺に身投げする。それも「集団自殺」かもしれない。)
 この詩でおもしろいのは、その「集団自殺」の描写の仕方である。一方で「屑」「滑稽」「馬鹿なやつら!」と書き、その「馬鹿者(馬鹿貝)」を他方で「友」と呼んでいる。「友」だからこそ「馬鹿」と呼ぶのである。心底、馬鹿貝のことを思っているから「馬鹿」というのである。「馬鹿な友」と。
 この矛盾した感情が「泣き笑いした」という動詞のなかに動いている。「泣く」と「笑う」は矛盾した行動である。こうした矛盾したことばの結びつきを「撞着語」という。「冷たい太陽」とか「燃える氷」とか。そこには、「泣いた」だけでは言いあらわもない何か、「笑った」だけでも言いあらわせない何かがある。
 あえて言えば。
 「共感」かもしれない。だれでも、そういう「馬鹿なこと」ことをするのだ。切羽詰まったとき、できることはかぎられている。自分にできることをする。その結果がどうなるか、わからない。生きたいという本能(欲望)が、何をすればいいかという「理性」を突き破って動く。
 それは死を招くときもある。「集団自殺」につながることもある。それは「間違い」かもしれない。しかし、「間違い」を選ばざるを得ない状況というものもあるのである。
 石毛が書いてること、杉浦明平が書いたこと、そのことばを「寓意」ととれば「寓意」である。その姿に「人間」の姿を重ねれば、たとえば魯迅が描く「狂人」の姿にも重なる。
 そして、ここからである。
 先に書いたこととつながるのだが、その「常軌を逸した行動」をどうとらえるか。「馬鹿」ととらえるか。「馬鹿」ととらえながらも、それを拒否するのではなく、「友」として近づいていくか。受け入れるか。受け入れながら、どうやってことばを組み立てなおすか。
 石毛が問いかけてくるのは、いつもそういう問題である。世の中には、いろいろな「滑稽な」動きがある。その「滑稽」のなかに、何を見るか。

かれらの跳ぶすがたを 見たことがあるかい
渚のざらついた 砂肌
塩垂れた皮膚から 実を剥ぐときの屈辱の鳴咽
ギシギシと泣きながら
及ぶ限りの距離を 跳ぶのだ
陸海空の前線に棲みつづける
かれら 渚者の矜持は
その潮の緒の満ち引きに いまも!

 「及ぶ限り」は力の及ぶ限りだろう。その「及ぶ限り」と「矜持」、さらにその対極にある「屈辱」ということば。これを結びつけるのが石毛の「思想」(肉体)なのである。「ギシギシと泣きながら」と書くとき、泣いているのは馬鹿貝だけではない。杉浦明平が泣いているし、石毛も泣いている。
 「1960年6月15日深更」「1990年6月15日早朝」というふたつの日付に注目すれば、石毛が馬鹿貝の行動を書いているだけではなく、その行動の背景、赤潮を生み出す(防げない)人間の生き方、社会のあり方への告発も読み取ることができる。
 この詩には、どこか最盛期のやくざ映画(屑映画)を見るような感じもあって、その「ざらついた」感じが、私は、好きだなあ。

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山田裕彦『囁きの小人』

2022-05-05 10:54:36 | 詩集

山田裕彦『囁きの小人』(思潮社、2022年04月30日発行)

 山田裕彦『囁きの小人』に「さよならタヴァーリシ」という詩がある。その書き出し。

寝つけない夜半
ほつほつと禿頭に降りかかる
忘れ去られた言葉

 山田は「忘れ去られた言葉」と書いている。このことばがこの詩集を象徴しているように思えた。「忘れ去られた」とはいうものの、「思い出せない」わけではない。つまり、いまはつかわなくなったことばを「忘れ去られた言葉」と山田は呼んでいるのである。
 書き出しの「寝つけない夜半」にも、その匂いがある。「夜半」ということば、はたして、今の若者がつかうか。たとえば、最果タヒは「夜半」ということばを書くだろうか、と思ったりする。
 山田の書いていることばの「意味」はわかる。しかし、そのことばを読んだ瞬間に、あ、これは「過去」だ、と思ってしまう。しかもそれは、「思い出せない」わけではない。たぶん、「思い出さない」過去なのだ。
 言いなおすと。
 山田の書いていることは理解できるが、私は「いま」、こういうことを「思い出さない」ということである。
 もちろん私が「思い出している」過去を山田が書く必要はない。山田は山田の「必然」にしたがって「忘れ去られた言葉」を「いま」に呼び出し、そこで生きているのだが、私はなんとなく遠いものを見るような気持ちになってしまう。
 「ほつほつ」という、わかったようでわからないことば(音)に対してさえ。

かるい灰のごとき挨拶
「タヴァーリシ」
名も知らぬ哀しいカナリアたち
遠くの方でつめたい稲妻が光っている

 音で言えば、この「タヴァーリシ」は、その最たるものかもしれない。この音を聞いたことがある若者はいないだろう。少なくとも、私は最果タヒはこのことばを聞いたことがないと思う。このことばを聞いたことがあるのは、たぶん、まだソ連がソ連だったことを知っている人間である。それは映画のなかで、突然、聞こえてきたりする。呼びかけ、「挨拶」のことばだったと思う。「意味」は知らない。仲間であることを確認するような響きがあったと思う。
 と言っても……。
 私はテキトウなことを書いているので「タヴァーリシ」がほんとうにソ連に関係しているか、ロシア語なのか、「挨拶」に関係しているかは知らないのだが、山田の書いている「挨拶」ということばに誘われて、ふと、映画のなかに響いていた音、何回か繰り返された音を思い出しているのである。
 すべての音が、あの時代(ソ連がソ連であった時代)に「世間」にあふれていた音につながる。「かるい灰のごとき」という比喩や、「名も知らぬ哀しいカナリア」「つめたい稲妻」の、ことばの組み合わせにも。1960年代、1960年代の、「現代詩の音」が聞こえてくる。「かるい」とか「哀しい」とか「つめたい」は、必要不可欠なものかというとそうでもなく、むしろ余剰(余分)なことばに近いが、だからこそその「余剰」が重要だった。「余剰」にこそ、「個人」が含まれるからである。「個」は「論理/意味」をはみ出していく何かである。何か「個人」であることをつけくわえたい。そういう欲望(本能)が、こうした修辞を動かしていた。それが1960年代、1960年代であり、それをさらに象徴するのが、最初に引用した「ほつほつ」というわけのわからない音である。誰もがつかうことばではなく、ある詩のなかで「発明」された音。「意味」は読んだ人が考えるしかない音。
 なぜ、こんなことが必要だったのかなあ。なぜ、こういう音/ことばが一時代を突き動かしたのだろうか。

それから不意に
「われわれ」といいかけて
「わたくし」と言い直す

 「われわれ」。このことばから、ひとつの時代を思い出す人がどれだけいるかわからないが、私は思い出す。あちこちで「われわれは」という声が響いていた。それは「タヴァーリシ」とは何か逆のものをあらわしていた。「タヴァーリシ」と呼びかけられた人、呼びかけた人は「一人」であるけれど「一人」ではない。その人の背後に、何か、集団のようなものが感じられた。「われわれは」という声は集団をあらわしているのだが、集団を結びつける強いものが感じられない。結びついていないものを結びつけるために「われわれわ」ということばがあったのか。しかし、そもそも「われわれ」という表現を成り立たせるための「個人(ひとり/私)」というものが、あのときほんとうに存在していたのか。個人の存在。「われわれ」という呼びかけがきっかけになり、個人という存在になろうとしていたのかもしれない。「われわれ」であるけれど、「個人」になりたい。その奇妙な運動として動いていたのが「かるい」「哀しい」「つめたい」という感情、感覚であり、既成のことばを超えたいという思いが「ほつほつ」にあったかもしれない。
 「われわれ」ではなく「わたしく」を主張するために。

若気の至りって淋しいね
言ってみただけさ
属性のない真っ白な人称
他意は無し
精一杯の
誤訳
 
 それが「若気の至り」というのなら、確かにそうなのかもしれないが。
 でも、どっちが? 「タヴァーリシ」ということばにあこがれ、「われわわれ」という存在にあこがれたこと? それとも「われわれ」と言ってしまったこと? 「われわれ」も「タヴァーリシ」も、「自己」を隠した生き方だったかもしれない。「わたくし」と言えない青春の愚かさと不安。その反動としての、強がり。
 ここには、それにつづく「敗北」を「抒情」にかえていく、あの時代の、いやあな雰囲気がある。「淋しい」ということばがそれを端的にあらわしている。「淋しい」によって、「われわれ」の殻(枠)を破り、「われわれ」ではない外部の「個人(の感情)」にもつながっていこうとする動き、あるいは「われわれ」の内部へ、「われわれ」をつくりだしている「個人」の内部(感情)へつながっていこうとする動き。
 「内部」には「個」があり、「個」とは感情であると、強引に整理すると、私がいま書いたことが、奇妙に交錯するのがわかると思う。
 この奇妙な交錯を、山田は「誤訳」と呼んでいると思う。
 「タヴァーリシ」をなんと訳すか。「われわれ」と訳すか、「わたくし」と訳すか。「われわれ」であり、「わたくし」をあらわすのに、どんなことばがあるか。そんな挨拶をされたいか、されたくないか。ふと、私は、アメリカ英語の「ブラザー」を思い出すのである。アフリカ系の友人が集まり、「ブラザー」と呼ぶ。アフリカ系ではない人間から「ブラザー」と呼びかけられて、「おまえなんか、ブラザーじゃない、豚野郎」という顔をする。「ブラザー」には暗黙の了解がある。緊密な関係があるという了解がある。それに近いことばは……。不意に「同士」ということばを思い出した。
 「タヴァーリシ」は「同士」だったかもしれない。出会ったときに「やあ、同士」。「同士諸君」という呼びかけがあった時代もあるだろう。1960年代、1960年代は「同士諸君」とは言わずに「われわれは」と叫んだ。
 そういうことを、とりとめもなく思った。

 山田の詩は、何も1960年代、1960年代をテーマにして書いているというわけではないのだが、どこか、あの時代のことばの動きをひきずっている。それを「若気の至りって淋しいね」とくくって差し出しているとは言わないが、何か、あの時代の「情緒」を「忘れ去られた言葉」として記録している感じがする。
 「遠雷」にこういう部分がある。

(いつもまちがうのはわたしの口だ
言葉を失った後にやってくるのもまた言葉

 そうなのだが、山田のことばは、「忘れ去られた言葉」を破壊して、新しいことばをつくり出すというよりは、「忘れ去られた言葉」の痕跡をたどりなおし、それを遺しておこうとするような感じがする。「ことばの記録/ことばの記憶」を遺しておく感じ。
 「まちがう」「誤訳」を「わたし」と結びつけ、ただ「遺しておく」のではなく、もう一度育てようとしているのかもしれないが。
 この行為が「淋しい」ではなく、ほかのことば(感情)になって動き出すかどうか。私には「淋しい」が優先しているように感じられる。
 私はいつものように「誤読」する。

 

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(9)

2022-05-04 11:58:40 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(9)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 9篇目「蝉の暮れ方」。花田清輝のことばが副題に引かれている。

蝉の暮れ方
うたうには この甲冑が邪魔だ
パックリと割れた背殻を 脱ぎ捨てて
新参者の蝉は 歌っている

 ことばのリズムがかっこいいね。「甲冑」「背殻」「新参者」という漢字がしゃきっとしているし、「パックリ」も響きがいい。そして、これは、このあとにつづくことばと、対照的である。

ああ いつの間にか
秋が 来てしまった
こまった
こまった

 先に引用した部分が、「パックリ」は少し違うが、「甲冑」「背殻」「新参者」は「文語的」である。それに対して後に引用した部分は「口語的」である。
 文語と口語がぶつかり、互いを刺戟する。そして、その衝突を、矛盾の方にひっぱっていきながら、いままで気づかなかったこと(知っていたかもしれないけれど、ことばにしてこなかったこと)を語る。新しい何か、新しい意味を追加されたことばを噴出させる。このときも「文語」というと変だけれど、かなりイメージがきっちりしたことばをつかう。
 こんな具合。

蝉には 歯がないことを すっかり忘れていた
樹液は渇き 固まってきた
それでも 飢えたまんま
蝉は うたっている
腹が減っても
蝉は樹の蜜を吸うことができない

 こういうことばの「操作」は、ある時代に、とても多かった。その先頭を走っていたのが花田清輝である。
 詩に谷川雁の文体があり、評論に花田清輝の文体がある。
 「聖」と「俗」の結合。その衝突、と言ってもいいかもしれない。
 私は、ほんとうに貧乏だったから、この「聖」と「俗」の結合というのは、「金持ち(本を読んでいる人)」と「貧乏(本も読まずに働いている人)」の結合のような感じがして、そうなれたらかっこいいかもしれないけれど、こういうかっこよさを振りかざすと自分が自分ではなくなるぞ、という気持ちがどうしても残った。つまり、谷川雁も花田清輝も、とてもかっこいいが、「そんなことは言われなくない」といういやあなものが残るのである。
 それは、どういうことだったのかなあ。
 石毛の詩を読んでいて、ちょっとわかった。石毛自身のことばではなく、花田清輝のことばを引用している部分がある。正確な引用というよりも、多少、整理されているかもしれない。

暗黒の夕暮れ 空腹になると
ノルウェイ人は 鉋屑を喰らい
ロシア人は 煉瓦を喰らう
なんと かれらは便利な胃袋をもっている

 この部分にあらわれた「ノルウェイ人は 鉋屑を喰らい/ロシア人は 煉瓦を喰らう」という「知識(本を読んでいる人の認識)」がいやなのではなく、その「認識」のあとにつけくわえられた「便利な胃袋」の「便利な」という「批評」がいやなのである。この突然噴出してきた「便利な」という新しい見方、皮肉な見方、花だ特有のことばがいやなのである。花田はほんとうに「便利」と思って言っているのか。鉄屑や煉瓦を食ってみたことがあって、そう言っているのか。違うだろうなあ。鉋屑や煉瓦はもちろん食べられない。そういう「知識」をもっていて、その「知識」をもとに「便利な」ということばを動かしている。 つまり、この「便利な」には共感というものがない。
 「批評」は「知識」なのだ。「批評」は「知識」をどうやって「見せびらかすか」ということなのだ。「共感」ではない。--これは、たぶん、いまも形を替えてつづいているなあ。
 ほんとうに腹が減ったとき。私は鉋屑も煉瓦も食ったことはないが、畑のキュウリをもいで齧る、トマトを盗んで食べる、さつまいもを掘り出して泥を払い落とせるだけ落として生のまま食らいつく、ということは何度もした。そのとき私の歯、胃袋は「便利なもの」ではなかった。単なる必然だった。
 「必然」を「便利」と言われることほど、いやなことはない。
 石毛は、どう思ったか。よくわからないが、私は詩の最後の部分に、引かれる。

地上の生活も 七日もすれば
蝉は カラカラになって
藪椿の花弁のように
首ごと樹から ポトリと 地に墜ちる
それも 腹を 恋しい空にむけて
蝉は 実りの秋というものを
うたわないのだ
不器用に ただ ひとつの覚え歌を
うたうだけだ。

 「不器用」ということばがある。たぶん「便利」の反対は「不便」ではなく、「不器用」である。「かれらは便利な胃袋をもっている」は「かれらは器用な胃袋をもっている」と言い換えることができる。
 ここから花田清輝を見直すと、花田清輝は「器用な」評論家だったのだと思う。かけ離れた存在を「器用に」連結し、そこで何かを語る。たぶん「語り方を語る」といったらいいのかもしれない。

 人間は、たいてい「不器用」なものである。そして私は、その「不器用」を信じたい気持ちでいる。「不器用」のなかには、そのひとがいる。「器用」になれない何かがある。それは大事なことが。「器用になれない」は「便利につかわれることを拒む」につながると思う。
 いまは「合理主義」の時代である。「合理主義」は「理性主義」かもしれないなあ。その「合理主義」が「不器用な存在」を排除する形で強化させていく。それをとめるのは「不器用」しかないのだ。
 このことは、「不器用な」は「愚かな」と言い換えることができる、と考えれば、「合理主義」の罠がわかるはずだ。「合理主義」(理性主義)は「愚かな存在」を排除して、より強固になる。しかし、その強固さは、嘘のものだ。「支配」のためにつくりだされた「主義」にすぎない。
 脱線したが。
 「不器用な」は「愚かな」である。石毛の書いている最後の二行「不器用に ただ ひとつの覚え歌を/うたうだけだ。」は「愚かに ただ ひとつの覚え歌を/うたうだけだ。」と言い換えることができる。
 もし花田清輝が「かれらは便利な胃袋をもっている」ではなく、「かれらは愚かな胃袋をもっている」と書いていたのだったとしたら、私は、花田清輝が好きになったかもしれない。水で洗ってさえないサツマイモに食らいついていたとき、私は愚かな,馬鹿な、気の狂った子どもだった。それが私の必然だった。
 石毛が尊敬しているらしい魯迅ならば、きっと「かれらは愚かな胃袋をもっている」と書いたと思う。魯迅には「愚かな人間」に身を寄せ、その「愚かさ」のなかにある「手応え」を頼りにことばを動かしいると私は感じている。魯迅と花田清輝を比べてもしようがないが、ふと、そう思った。

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(8)

2022-05-03 10:47:15 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(8)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 8篇目「ぼんくら」。「谷川雁」のことばが「副題」に引用されている。谷川雁は、ある時期、谷川俊太郎よりも有名だった(と、思う)。その谷川雁を石毛はどう受け止めていたのか。

からだの孔という孔に
「軍歌」が 潜りこみ
鼻の孔をゆるがす
大粒の「ジャズ」が こぼれ
眼の孔から塞ぎきれぬ
怒濤の「演歌」が ながれ
耳の孔から とぎれぬ悲鳴のような「童謡」が
風下の方へと 消えていく

 「軍歌」「ジャズ」「演歌」「童謡」が共存する。それもひとりの「からだ」のなかでである。「孔」から入り込んでくる音楽、リズム、旋律。谷川雁の詩には、何よりもリズム、旋律があった。それは、ことばの「調和」というよりも「衝突」がうみだす「響き」だった。「ことばの肉体」の「思春期」、あるいは「ことばの肉体の変声期」とでもいうのだろうか。都会のなかに侵入してくる土俗、土俗のなかに侵入してくる都会。その瞬間的、衝突。衝突の、火花。そのきらめき。

しかし なんてこった
風下に逃げおおせた とたんに
からだの 孔という孔から
葉露が光って こぼれ落ちているではないか。

 「こぼれ落ちる」。このことばが象徴的だが、その衝突は「敗北」を意味していた。土俗が敗北したのか、都会が敗北したのか。軍歌が敗北したのか、ジャズが敗北したのか、演歌が敗北したのか、童謡が敗北したのか。それはひとによって違うだろう。
 つまり、時代が変わったのだ。
 しかし、「敗北した」ということは共通している。しかも、なんといういやらしさだろう。その敗北は「葉露」のように「光る」。純粋さを協調しながら、抒情になることをめざしている。どのことばも「叙事(記録)」になることよりも、「抒情」になって、「からだ」のなかを満たそうとしていた。
 そういう時代だったなあ、と思う。
 あれは、もしかしたら「仕組まれた」衝突であり、「仕組まれた」激変だったかもしれないと、ときどき思う。
 私は無自覚だった。つまり、私はまだ「肉体のことば」も持っていなかったし、「ことばの肉体」についても知らなかった。私には「時間/過去」と呼べるものがまだなかった。無知には、どういうものでも美しく見える。「これが美しい」と言われれば、その「美しい」ということばに誘われて、それを美しいと信じてしまう。ことばに翻弄される。
 --というのは、私の反省であって、石毛のことを言っているのではない。もちろん谷川雁のことを言っているのでもない。

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最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(3)

2022-05-01 10:55:21 | 詩集

 

 

最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(3)(小学館、2022年04月18日発行)

 最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』の「紫陽花の詩」は、タイトルが最後に書かれている。とつぜん本文が始まり、最後がタイトル(だと思う)。

ぼくはきみの友達ではない、
インターネットを見るとき、街を見るとき、
いつも思っていることがあなたには伝わらない、
ぼくはきみの友達ではないが、きみは生きている、
そのことがよくわからない。

血を出すような怪我をしたときや、
優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた人間たちは、
誰もが生きていると口々に言うがそれは、
恋をしているだけなんだ。節操もなくぼく以外、
誰も彼もに恋をして、雨に濡れた葉っぱさえ美しく見えるんでしょう。
季節なんて、腐り落ちてしまえ。


紫陽花の詩

 同じようにタイトルが最後に書かれた作品があるかどうか、まだ、わからない。私は、読んだ順序にしたがい、思いついた順序にしたがい、書いているので、「全体」のことは考えない。
 この詩では、一連目の、

いつも思っていることがあなたには伝わらない、

 がとても印象に残る。思っていることは、いつだって相手に伝わらないだろうなあ。それが生きていることだと私は半分納得している。だから、あ、そうか、最果もそう思うことがあるのか、と親近感を覚えるのである。
 この行の後で「きみは生きている、」があり、その「生きている」が「いつも思っていることがあなたには伝わらない、」と交錯し、ひとつになる。切り離せないことばとして動く。でも、そこにほんとうに「脈絡/論理」があるか。「そのことがよくわからない。」「論理」がなくても、まあ、つながるのだと思う。「感じる」と言いなおせばいいのかもしれない。ここには、明確な論理にはできないけれど、出会いながら、瞬間的に照らしあうことばがある。
 二連目は一連目を言い直しているのかもしれない。「思っていることが伝わらない」とはどういうことか。それは「優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた」ということなんだろうなあ。優しくしたのに、優しさを誤解される。思っていることが伝わらない。そして、それだけではなく「そのままにされる」、つまり放置される。それは「こころが(優しさが)血を出す」、つまり「こころが(優しさが)怪我をする」ということなのだ。
 きっと、行を逆に読んでいけばいいのだ。
 「優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた」、それはこころが「血を出すような怪我をした」ということだ。そして「「優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた」というのは「いつも思っていることがあなたには伝わらない、」ということでもある。
 「生きる」ということは「誤解される」ということ。そして、この「誤解」は「恋」と呼ばれる。「誤解してそのままにされた」とき、恋しているのだと気づく。恋して、誰かのために何かをしたのに誤解され、そのままにされる。その、どうしていいかわからない瞬間の「こころの出血、怪我」。「生きている」と感じる。もし、誤解されず、思いが伝わってしまうならば、それは恋ではない。
 矛盾だね。
 「ぼく」だけではなく、「節操もなく」「誰も彼も」、「雨に濡れた葉っぱさえ美しく見える」のが、しかし、「恋」でもあるのだ。「ぼく」に対して恋しているからこそ、ほかのものすべてが「美しく見える」。それは恋しているというか、恋して恋されていると感じるときにそうなのかもしれないが。
 「季節なんて、腐り落ちてしまえ。」と叫びたい衝動。ここから、少しずつ落ち着き「ぼくはきみの友達ではない、」と自分自身に納得させる。その過程で、「恋」について思う。生きているということについて思う。

 ことばは、たぶん、どこから読み始めてもいい。最初から読もうが、最後から読もうが、そこに書かれていることに変わりはない。途中から読んでもいい。「結論」というものはないからだ。「ことば」は瞬間的に入り乱れたまま、同時に生まれてきて、同時にさまざまな方向へ散らばっていく。
 だから、「結論」ではなく、ことばが「生まれる瞬間の、その場」が大事なのだ。和泉式部は、「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」と書いたが、ことばが生まれる場が「魂」かもしれない。私は「魂」というものが存在するとは思っていないが、最果が「魂はある」というなら、それを信じたいという気持ちになる。
 「魂」はきっと透明なのだろう。そのため、私のような、テキトウな人間には、その「透明」が見えないのだろうと、ふと思うのである。最果の「透明」はたとえばダイヤモンドや何かのように光を反射して輝くというよりも、「透明」ゆえにそのなかに知らずに入り込んでしまうような世界だ。「透明な繭」に閉じ込められて、うまく他人と接触できない苦悩の原因のような、やわらかくて、静かな苦しみ。その乱れる「軌跡」としての「ことば」が動いている。

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(7)

2022-04-30 13:29:14 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(7)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 7篇目「空から、蛇が」には、注がついている。「1997年8月、永山則夫の死刑が執行された。著書の印税は「永山子ども基金」となり、南米ペルーで働く子どもらの活動資金や学費として、活用されている。」このことを、どうとらえればいいのだろうか。 石毛は、ペルー、リマに、空から降ってきた蛇と子どもを対話させている。
 なぜ、空から降ってきたのか。

蛇は 応えていった
--秋の暮れ、もの憂いのついでに、子どもを噛んでしまった。
さらに 子どもらは 口々に言い放った
--手足のない、くねり歩きを馬鹿にされたのかい?
(略)
--おまえの無知のなせるわざが、そうさせたのか?
--おまえの歯牙は、事のついでに、噛むものではない!
苦境に立った蛇が 訴える
--さっきまで、きみらの仲間にも説教され、弱っているんだ。
  もう、勘弁、許してくれないか。

 「苦境」ということば、それにつながる「説教されて」ということば。「説教」は、もちろん「ことば」でおこなうものだけれど、この「ことば」が、なんともつらい。
 「説教のことば」は「論理的」である。つまり「正しい」。それに「論理」で反論することはできない。「勘弁、許してくれ」は反論ではなく、謝罪である。しかし、この謝罪が、とてもむずかしい。謝罪は「論理」ではないから、それを受け入れるには「論理」の側がかわらないといけない。「批判の論理」を組み立てなおし、「別の次元の論理」をつくりあげないと、「謝罪」は生きることができない。
 つまり。
 「謝罪することば」を受け入れる能力があるかどうか、その瞬間、「批判の論理」は「謝罪」から「読まれている」のである。蛇を断罪する(批判によって、蛇を「読み切る」)ことは、多くの人がすることである。だが、忘れてはならないのは、「断罪する人」は「謝罪する人」から「読まれている」ということである。「読む/相手を認識する」というのは一方的な行為ではなく、必ず相互的な行為なのである。
 だから、むずかしい。
 詩は、こうつづいていく。

そこで 空から墜ちる前に
通りかかったカラスに 絡まれたことを白状した
--おれに、おれには、手足がない。
蛇は 苦悶の中でさえ弁解してみせた
--おまえには手足がない
  それはね、他とは少し違った、個性というものだよ。
  口は、災いのもとだな。
カラスは 言い含めるように返した。

 何だろう。私の肉体は、ぞくっと震える。
 「個性」ということばの、非情な冷たさ。「個性の尊重」の一方で「協調」という概念がある。「おれには、手足がない」と認めることは、蛇にはむずかしい。それを「個性」と呼ばれてしまうのは、もっといやだ。それは、はたして「個性の尊重」か。「排除」かもしれない。「排除」するという行為を「美化」していうときに「個性」ということばが利用されるかもしれない。「あなたの個性を生かすには、ここでは不十分だ」とか。
 さらに、カラスは残酷である。

--おまえは もっと、もっと、生きたいか。
  生きることを許されたら、何をするか?
カラスは 引導を渡すように 蛇に詰問した

 詰問されれば、誰だって、困ってしまう。そのときの「答え」は「正解」であるかどうか、わからない。「正解」だから、すべてを「許す」ということになるかどうか、わからない。
 ここでもほんとうに「読まれている」(正解を求められている)のは、問い詰める方なのだが、こういうことを書いていると、わけがわからなくなる。
 すでに、私が書いていることは、詩への感想ではないかもしれない。
 詩は、こうつづいていく。

--だが、おれは、おれはね、
  今は、噛んでしまった子どもらの労働組合をつくりたい。
蛇は とっさに思いついたことを 言い募ってきた
--そうか、しかし、おまえのその毒は、死をまね---。
そうつぶやくと 蛇を くわえ直して
カラスは 天高く 舞い上がった
--無知からでた涙を、憎むわけじゃねえ。
  その、使い方を、もの言う術をまちがうな!

蛇は 天空で投げ出された
空から 毒蛇が---。
ありえぬことではあるまい。

 ここには「結論」はない。「結論」など、人間にはないのかもしれない。
 かわりに、ドラマがある。ドラマとは、人と人がぶつかり動くことである。人は、ときに蛇(毒蛇)であり、カラスである。そして、子どもでもある。現実というドラマでは、なんでも起きる。「予定調和」はない。つまり「結論」はない。
 動いていく。動きながら、何かを選択し続けるという「過程」だけがある。 
 このドラマの「蛇」を永山が、「カラス」を裁判官が演じれば、この詩は「現実」に近づくかどうか。さらに。もしこのドラマに私が出演するなら、私はどの役を演じたいか。カラスか、蛇か、子どもたちか。そのことを考える。どの役を演じたとき、私のこころは、石毛の書いていることばを自分の肉体の声として発することができるか。腹の底から発することができるか。
 納得するのは精神ではない。頭脳でもない。「腑に堕ちる」。内臓が納得し、消化し、それが肉体の隅々にまで広がっていく。そう言えるのは、どのことばか。それを考えるとき、私は「問われている/読まれている」と感じ、立ちすくむ。石毛のことばは、いつも私をぞくっとさせる。立ちすくませる。

 

 

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最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(2)

2022-04-29 11:53:55 | 詩集

 

最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(2)(小学館、2022年04月18日発行)

 最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』の「冬の薔薇」。

冬は誰かが凍らせた薔薇が咲いている、

 この書き出しは、とても不思議だ。
 冬、薔薇の花が凍っている、凍った薔薇の花を冬に見る。どちらの場合も、私の視点は「凍った薔薇」に向かう。その「凍った薔薇」は、しかし、自然に凍ったのではない。急に気温が下がって凍ったのではない。「誰かが凍らせた」のだ。それは「第三者」かもしれないし、話者自身かもしれない。いずれにしろ、「凍った薔薇」よりも「誰か」(人間)がその背後にいるということが、わからないものを抱え込んだまま、迫ってくる。
 その不思議さを抱えながら私は読み続ける。

冬は誰かが凍らせた薔薇が咲いている、
日差しの中で溶けていく、
ぼくは日光は全部幽霊だと思っていると、話した、
昼下がりの電車の中で、
日光は満ちていて、生きている人が皆黙って座っていた、
恋はいくらでも簡単にできる気がする、
誰もこうやって返事をしてくれない世界なら、
恋はいくらでもできるだろう、
ぼくは誰とも話せないなら、簡単に傷つき、
死にたくなって死に、
そうしてこの電車のソファを明るく照らす光になるよ。

 凍った薔薇、日光、溶ける、までは論理的というが、そこに私の知っている論理が動いていることがわかる。つまり、何も考えないまま(あるいは、何も感じないまま、と言った方がいいかもしれない)、読むことができる。
 ところが「幽霊」があらわれてから、私は、わからなくなる。日光が幽霊、幽霊とはたぶん死んだひとを感じさせる何か。だから、反対の「生きている人」ということばも出で来るが、その人たちは「皆黙って座っている」。それは「生きている」ようで「死んでいる」。つまり、幽霊かもしれないが、その死に方は「日光=幽霊」よりは稀薄な死に方なのだろう。完全には死んでいない死に方なのだろう。
 ここから「恋」ということばが書かれるが、「黙っている」=「返事をしてくれない」と、その「恋」は関係があるのだ。「返事をしてくれない」=「話せない」、「傷つく」=「死ぬ」が交錯して、「ぼく」は「光になる」。その「光」が「日光」と同一のものかどうかはわからないが、たぶん同一だろう。
 しかし、こんなふうに、何がなんでも「論理」で理解しようとすると、きっと何もわからない。どんなことばにもかならず「論理」はある。あるいは捏造できる。それは、凍った花(あるい氷)が日光によって溶けるというようなわかりやすいもの(わかったと思っているもの)もあれば、よく見えないものもある。このして言えば「誰が」凍らせたのか。
 見えなくても、見えないながら存在している「論理」というものがある。ことばを動かす別の力がある。そして、これは「学校文法の論理」では明らかにすることができなない。だから、詩なのだ。

恋はいくらでも簡単にできる気がする、
誰もこうやって返事をしてくれない世界なら、
恋はいくらでもできるだろう、

 どうして「恋ができる」のか。その理由は書いていない。だが、それは「理由」はいらない。そう感じたのだから。
 最果は、この「感じた」を書くのである。「感じた」には、いわゆる「錯覚」もある。「幽霊」という存在そのものがそうだろう。それは「感じる」かどうかであって、それ以上のことを言っては、何もはじまらない。「信じる人」には存在する。「感じない人」には存在しない。そういうものが、ごく普通に交錯して動いているのが、私たちの生活だろう。

 二連目で、この詩に、具体的な「誰か」が出てくる。「あなた」が出てくる。

私はきみが好きではない、とあなたは言った、
傷ついているのに、その傷口から芽が出て花が咲くとおもい、
ぼくはじっとしていた。

 「学校文法」的に読むと、「ぼく(話者)」は「あなた」と会った。「あなた」は「私(=あなた)はきみ(=ぼく)が好きではない」と言った。「ぼく」は簡単に言えば、振られたのである。しかし、「ぼく」を振った「あなた」はそれで大丈夫なのかといえば、そうではなくて、「傷ついている」。「好きではない」ということで、何らかの「傷」が残る。ほんとうは好きなのに嫌いと言ったのか。嫌いといった方が、もっと愛してもらえる、あるいは自分の存在に気づいてもらえると思ったのか。わからないけれど、「ぼく」は「あなた」のことを、そんなふうに見つめている。こういうことは、思春期、あるいはもっとおとなになってからでもそうかもしれないが、誰もが一度は経験することだろう。どうしたら好きになってもらえるか。これはとても大事な問題だからである。
 で、そういう大事な問題に直面したとき、そこに最果の場合、論理ではなく、別なことばで言えば「心理学」ではなく、もっと違うものが動く。

傷口から芽が出て花が咲く

 こういう現象自体は、たとえば倒れた桜がまた花を咲かせるとき姿に重ね合わせて理解できるが、その瞬間的にあらわれてくる「感じ」が、そのまますっと動き、ことばになる。
 「論理」ではなく「感じ」。何も、誰も、支えてくれない、たったひとりの「感じ」。この「たったひとりの感じ」というのは、別のことばで言えば「純粋」とか「透明」になる。他のひとの「論理」が入ってこないということである。「他人」とは、たぶん、最果にとって「論理」である。
 そして、誤解かもしれないが、多くの若い人にとっては「他人」とは「論理」であり、それはうるさい不純物である。「論理」で自分を守り続ければいい。私はそうしない。「論理」を捨てて、「論理」に傷つき、傷つくことで自分の純粋さ、透明さを守って生きる、ということかもしれない。--しかし、それを私のように「論理的(?)」に言ってしまってはいけないのだろう。
 最果は、「論理」になる前でことばをとめる。「純粋」「透明」なままで、ことばをとめる。

そんなに好きじゃなかったんだよ、
恋が叶わなくて、自殺しようと思わないなら、
そんなには恋じゃなかったんだよ、という人たちへ。
ぼくの花畑をいつか、見にいらしてください。

 「ぼく」は「傷口から芽が出て花が咲く」ということを知っている。「ぼく」は、そうやって開いた花でいっぱいの「花畑」をもっている。
 「感じ」とは「論理」的には「矛盾」になってしまうことを、矛盾させずに、そこに存在させる生き方かもしれない。

 「恋は無駄死に」の終わりの方に、

それに、嘘だったでしょうって告げるために私は透明な風になり、

 という一行がある。「嘘だったでしょう」の「嘘」を「論理」と読み直せば、あるいはこの詩の中でつかわれている「物語」と読み直せば、最果の世界がどこまでも広がっていくことがわかる。

 

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(6)

2022-04-27 12:07:45 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(6)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 6篇目「獄中の木橋」。

だが 腑に落ちない×××点もある
あの時 十三歳の少年は
哀しみの荒野にいて
それも 身ひとつで
なによりも 手ぶらであった

 突然「×××」が出てくる。それは、

いまだ 腑に落ちない×××面もある

いまだ 腑に落ちない×××事がある

最期で 唯一の×××証しとなってしまった

殺人を悔いる×××更改ではなかったか。

 と繰り返される。この「×××」は何なのか。それは、私には理解できない。だからつまずいてしまう。
 しかし。
 ここから考えるのである。もし、伏せ字でなかったら、私はこの詩に書かれていることが理解できるか。そもそも、理解とは何なのか。
 この詩には、他の詩にあるような「副題」や「注釈」がない。だから、タイトルの「木橋」や、途中に出てくる「死刑執行」ということばから、この詩は永山事件、永山則夫について書いているのだと思うが、永山が事件を起こしたとき、彼は「十三歳の少年」ではなかった。しかし、石毛は「十三歳の少年」のころから書き起こしている。
 書きながら「腑に落ちない」と感じている。
 「木橋」は永山則夫の小説である。私は読んだことがない。その小説には、きっと「十三歳の少年」が登場するのだろう。永山が少年のときに体験したことも書かれているのだろう。それを読みながら「腑に落ちない」と石毛は感じている。「腑に落ちない」と書かずにはいられない。
 納得したいのだ。
 この「納得したい」という欲望は、なかなかやっかいである。
 たとえば、石毛は永山則夫の行動を「納得したい」と思っているが、私は特に「納得したい」とは思わない。そういう事件があったなあ、そういう人がいたなあ、というところでとまってしまう。なかには、殺人事件を起こしたひとのことなど「納得」する必要はない、という人もいるかもしれない。私には関係ない、ですべてが解決してしまうひとの方が多いだろう。なぜ、殺人事件を起こしたひとのことを理解しないといけないのか。
 「腑に落ちない」と言っている石毛の態度、そして、この詩こそ、「腑に落ちない」ということになる。
 きっと、ここからが問題なのだ。
 社会(世界)には、多くの人間がいる。そして、その多くの人は、それぞれに苦悩を抱えている。苦悩の多くは、たぶん「腑に落ちない」ということに起因している。言いなおせば、この世の中は「腑に落ちない」ことが絡み合って動いている。「腑に落ちない」を抱えたまま、人は生きている。その「腑に落ちない」ことを隠しきれずに、ひとの行動は、ときどき乱れる。これを、ひとはときどき「狂気」と呼ぶ。
 それは何が原因なのか。どうすれば、その「腑に落ちない」の絡み合った世の中を、きちんと消化できるのか。(「腑に落ちる」ということばはないが、それはあえていえば「完全消化」だろうか。「腑に落ちない」は消化できない、である。)「狂気」に陥らずに、どうやって生き延びて行けるか。

どこへ行っても
憐憫の瓦礫が 目をふさぐ
塹壕のどん底から
樹木の高みへと
逃げる術など 思いもよらなかった
狂気のせつなさ
雪が しぐれてくる
手ぶらの狂暴が
熱くささやいた

 「腑に落ちない」を抱えて生きることはできない。それは、なんらかの形で発散しなければいけない。

---マクシム、どうだ、
   青空を見ようじゃないか

 と「肉体」を解放する方法を教えてくれる「友」もいない。そういう「システム」も社会には存在しない。ただ、「肉体」が取り残される。非情な雪が降っている。しぐれている。自然は、あるいは、非情は、過酷である。でも、なぜか、その非情に、人間はさそわれてしまう。もし、灼熱の太陽ならば、「冷たくささやく」だろうか。
 何か、この、撞着語めいたことばが「腑に落ちる」のはなぜなのだろうか。
 「狂気のせつなさ/雪が しぐれてくる/手ぶらの狂暴が」

冷たくささやいた

 だったら、石毛の詩は「腑に落ちない」。「雪が、狂暴になれ」と「熱く」ささやいているからこそ、「腑に落ちる」。
 この数行がとても美しいのは、石毛がこの部分で永山に共感している、つまり、永山の行動を「腑に落ちる」と納得しているからだろう。
 「腑に落ちる」、強く納得するとは、「矛盾」を含んだ拮抗が、そのまま存在するときなんだろうなあ。激しく抵抗する矛盾にであったとき、それを消化できる肉体があるかどうかが、とても重要になる。肉体がないときは、それを補完する「システム(社会)」が必要になるのだが……ということを書いていたら、脱線してしまうなあ。だから、それは保留して……。
 奇妙な言い方だが、石毛は「木橋」を読みながら、そこに「事実」が書いてあることは理解できたが、ときどき、その「事実」には「絶対矛盾(撞着語)」のようなものがないと感じたのではないのか。ある部分は納得できる、しかしよく納得できないところもある。それは永山についてだけではない。

殺人を悔いる×××更改ではなかったか。

 この最終行の「更改」は「法」の更改を問題にしているのだと思う。「法」には「撞着」があってはいけない。「撞着語」による法律というものは存在しない。「撞着」を許す「法」では、「法」ではなくなる。
 と書くと、これから書くことと矛盾してしまうが、「腑に落ちない」ことを見つめながら、「腑に落ちない」ことをかかえこみながら、その「腑に落ちない」とつきあいつづけることが、たぶん、生きることなのだ。
 その「腑に落ちない」に出会ったとき、たとえば、魯迅は「腑に落ちない」を抱えている人間の側に立つ。「腑に落ちない」と狂暴になる人間の側に立ち、そこから「腑に落ちない」と訴えている人間の視線を動かし、社会を見ていく。見えているものと、見えていないものがある。それを、えぐりだす。答えはない。ただ、その行為、過程だけがある。
 石毛の繰り返す「腑に落ちない」は、そんなことを考えさせてくれる。

 

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(4)

2022-04-26 20:58:39 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(4)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 5篇目「駿河台の青い空」。
 菅原克己が、誰かの詩を引用している。それが誰の詩かわからないが、石毛は覚えている。

---マクシム、どうだ、
   青空を見ようじゃねえか

 菅原が引用しなかったら、そのことばは生き残らなかった。石毛がそれを引用しなかったら、そのことばは生き残らなかった。とはいえないが、いま私がそのことばを読んでいるのは、石毛が菅原の詩を覚えているからであり、菅原は誰かの詩を引用したからだ。
 ことばは、ことばを生きていく。
 誰かの詩には誰かの「肉体」が、菅原の詩には菅原の「肉体」が、石毛の詩には石毛の「肉体」が反映されているはずである。そして、その三人の「肉体」には共通するかもしれないが、完全に個別のものである。他人の「肉体」を生きることはできない。
 ところが、ことばは「個別性」を生きることができない。
 たとえば私が引用したその詩は、誰のことばが。何か、そこにその人を印づける特徴があるか。ない。ないからこそ、それを特定するには、そのことばの「周辺のことば」、そのことばと一緒に生きていたことばが必要である。
 いま、石毛が引用したことばは、いったいどんな「石毛のことば」と一緒に生きているか。

もしも だれかが
「だいぶ 老けたね!」と言うのなら
おれは 背中を指して言うだろう
煙草と珈琲と有期労働に 隠れながら
なおを 背負ってきたか!
その曲がり具合を 笑いながら---

---友よ、どうだ、
   青空を見ようじゃねえか

 全部の引用ではないので説明を加えておくと「隠れる」ということが、「肉体」として引き継がれている。「隠れて」生きるとは、たとえば「有期労働」を生きるということである。「身元」がしだいに露顕するということは少ない。「有期労働」は、たいていの場合、過酷だ。肉体的に厳しい。それが「背中」の「曲がり具合」に反映している。
 こうした状況を「背負う」という動詞で石毛は表現しているが、石毛はつまり、「マクシム」の二行のことばが発せられたとき、そこには「何かを隠し(何かを背負い)」生きてきた「肉体」があることを「石毛の肉体」で引き継ぎながら、それをつなぐものとして「ことばの肉体」を動かしていることになる。「背中」を中心に、「肉体」を動かしながら、「ことばの肉体」に陰影をつけくわえる。
 誰でも何かを背負っている。それは何かを「隠している」ということ。「隠し事なんかない」というひとのことは、いまは考えない。「隠している」ということを知っている人に向かって、石毛は言う。

友よ

 「マクシム」が「友よ」に変わっている。変えることで、石毛は「マクシム」には「友(認識を共有するもの)」という「意味」をつけくわえる。そして、それは同じ「肉体(背中)」の体験をしたことがあるもののことである。もちろん「肉体」を「精神」と呼んでもいい。むしろ「精神」と呼ぶひとの方が多いかもしれない。
 でも「有期労働」や「背負う」「曲がり具合」ということばから、私はそれを「肉体(背中)」に引き留めておきたい。隠れていることは「肉体」にとっては窮屈だ。だから、ときどき、「肉体」を解放する必要がある。

---友よ、どうだ、
   青空を見ようじゃねえか

 いま、「ことばの肉体」もまた、青空を見るのだ。菅原と、誰かの「ことばの肉体」も青空を見る。そのとき彼らの「肉体」も青空を見る。

 

 

 

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(4)

2022-04-25 21:40:57 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(4)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 4篇目「天然の水」。
 最果タヒの『さっきまで薔薇だったぼくに』を読んだ後に、また、石毛の詩に戻ってきた。ここに書かれていることばに追いつくには一呼吸も二呼吸も必要である。

一通の封書に 驚いた
「こんな土埃の砂漠に、みごとな虹がでるぞね!」
陽炎のゆれる白昼に そんな便りを受け取った
そのとき すでに彼は 爆風のなかに消えていたというのだ
そう! 予期せぬ砲撃なんですね

 美しいという感想が適切ではないことは知っている。しかし、思わず美しいと思ってしまう。それは9・11のビルが噴水のように崩れ落ちるのを見たときの印象に似ている。なぜ、美しいと思ってしまったのだろうか。あのときから、私は自分のことばを信じないことにしたのだが、やっぱり裏切りのように私の肉体のなかから美しいということばが出てきてしまう。
 砲撃で跡形もなく消えてしまう肉体。でも、その消えてしまった肉体の消え方、そこにあったのにという印象が「虹」に似ている、と錯覚し、「美しい」と思う。古い言い方だが、なんというか「生きざま」が虹になってその前に出現してくるかのように。しかも、その虹は実際の虹ではなく「こんな土埃の砂漠に、みごとな虹がでるぞね!」という手紙の中の虹なのだ。
 言いなおすと。
 土埃の砂漠のなかで、難民キャンプの過酷な現実と直面しながら、その現実のなかに生きている命の不思議な美しさに共鳴するこころをもった男がいた。彼は、砂漠の中の虹を見たとき「みごとな虹がでるぞね!」と、それを見えるはずのない友人に手紙に書かずにはいられなかった。
 私たちの「肉体」のなかには、どんな現実のなかにいても、その現実とは違う肉体を生きているものがある。虹を虹と呼ぶことば。そして、虹を美しいとか、みごととかいうことばと結びつけて世界をつくってしまう何か。私は、それをとりあえず「ことばの肉体」と呼んでいる。「ことばの肉体」として生きているものが、「肉体」を突き破るようにして動く。それは、おさえることができない。過酷な難民キャンプで「みごとな虹」と言っているひまがあるなら、もっとするべきことがあるかもしれない。肉体にとって必要なことがあるかもしれない。たとえば、「天然の水を 飲み」というようなことが。
 その一行は、こんなふうに出てくる。

「学校なんかに行くよりも 戦場に行きたい!」
親友が 涙を流しながら
死にもの狂いで 戦っている姿を見ると
「もう 学校にいるなんて いや!」
「ホントにおとなしい、どこにでもいる子どもでね。男親を失ったけど」
彼は よほど情にもろいのだ
天然の水を 飲み
玉葱を 丸ごと口にくわえて銃を撃つ

 この「天然の水を 飲み」というのは、とても鮮烈だ。「玉葱を 丸ごと口にくわえて」というのも、「肉体」に強く働きかけてくる。思わず、それをしてみたいと私の「肉体」は叫んでいる。「ことばの肉体」は「肉体」を突き動かし、「肉体のことば」になることがある。その直後の「銃を撃つ」で、はっと、我にかえるのだが。「美しい」ということばを言っている場合ではない、と。
 石毛の書いている「ことば」と、そういう揺らぎを誘い出す。結論があるわけではないというか、もし結論とか意味というものがあるとすれば、そうやって揺らいでいる「ことば」と「肉体」の関係が「現実」であるということだろう。

戦火の間隙をぬって 危険な仕事に
われを忘れて 働いている女の子を
髪はボサボサで 片腕をもがれた幼い弟を連れて
花と水を 売り歩いている女の子を
服は ところどころ破れて シミがめだつ
「なんかこう、胸がつかえてしまうね」
彼は最後に
「パレスチナの虹を 必ず見に来いよ!」
と 書いて遺したのだ

 読めばわかることだが、彼が書き残したのは虹だけではない。「片腕をもがれた幼い弟を連れて/花と水を 売り歩いている女の子」も書き遺したのだ。それは、やはり「虹」なのだ。その「地上の虹」を見ることができる肉体だけが、ほんとうに彼が見た「虹」を見ることができる。
 「肉体」と「ことば」とはそういう拮抗した戦いを生き抜いている。

明日の花をみるように 姉弟ふたりが
陽炎の中から 爆風の上空に架かった虹を
いたいけな眼で教えてくれた
そのとき彼は 虹の天橋をわたって
荒ぶる故郷の彼方へ そっと消えたというのだ。

 「美しい」と言ってはいけない。しかし、私の知っている「ことばの肉体」は「美しい」と言うしかないのだ。言った後で、それを毎日少しずつ修正していくしかないのである。きっと修正し終わることができないのだが。
 9・11の砕け落ちるビルを、噴水のように美しいと思ったことばを修正できることがないのと同じように。
 私は矛盾している、と言うしかない。
 最果の詩を読んで、そのことばを読んで、私は矛盾しているとは考えないが、石毛の詩、そのことばを読むと、しきりに私は矛盾していると感じてしまう。

 

 

 

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最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』

2022-04-23 10:51:49 | 詩集

 

最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(小学館、2022年04月18日発行)

 最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』。どこから書こうか。「惑星」から書き始めよう。だが、「惑星」から書く始めるのは、あまりにも私の「都合」という気がしないでもない。書きやすいと感じるから書くのであって、この詩がこの詩集でいちばんいい作品、あるいはこの詩集の特徴をあらわしているかどうかはわからない。私は、まだ全編を読んだわけではない。しかし、「惑星」を読んで、感想を書いておきたいと思ったのだ。感想というのは、日々かわるから、そのときに書かないと違ったものになる。

ぼくの体に住んでいるきみはぼくよりもあの子のことが大切で、
ぼくの体を借りてあの子に接近したいと考えている。
ぼくは突然自分が惑星になってしまったような、
きみたちが愛を育むための大地になってしまったような悲しみで、
涙が頬を裂いて、細い川が生まれていく、
その川べりで焚火をしている誰かが、ぼくのことを好きだと言ったら、
ぼくはそいつをこの水で押し流して黙らせるだろう。
ぼくの心をきみにあげて、50億年が経過している、
きみは知らない、ぼくの中に暮らしていること、ぼくの考えていること、
きみは知らない、きみの恋だけのためにぼくの肉体はあり、
この星はあり、
きみのためなら何もかもが孤独になっていくのだと。

 「ぼく」のなかの「きみ」を、「もうひとりのぼく」と言い換えてしまえば、いわゆる自己対象化ということになるかもしれない。しかし、この詩は、そういう感じがしない。なぜだろう。「ぼく」が一方的に「きみ」のことを語るのに対して、「きみ」は反論も何もしない。つまり、「ぼく」と「きみ」の対話がない。対話がないから「矛盾」がないかというと、そんな簡単にも言い切れない。

その川べりで焚火をしている誰かが、ぼくのことを好きだと言ったら、
ぼくはそいつをこの水で押し流して黙らせるだろう。

 もし第三者が「ぼく」に接近してきたら、そしてその接近が「ぼく」をかえてしまうかもしれないとわかったら、「ぼく」は第三者を殺す。「ぼく」は「きみ」と対立したくない。分裂したくない。あくまでも「あの子が好きなきみ」を守ろうとしている。「きみ」が、もうひとりの第三者である「あの子」を好きだと知って、それを守ろうとしている。
 このとき何が起きるか。
 「ぼく」と「きみ」の「対話」は「矛盾」をひきおこすと私は先に書いた。「矛盾」とは何かが凝縮して、凝り固まって、動かなくなることに似ている。
 でも、そういうことは起きずに、逆に「拡散」のようなことがおきる。「ぼく」は突然「惑星」になる。これは「宇宙」といいかえてもいいのかなあ。「宇宙」と思わず書いてしまうのは、「惑星」ということばだけではなく、その「拡散」が「50億年」という「時間」の拡散(拡大)を含んでいるからである。突然、「ぼくの体」が「ぼくの体」の大きさを超えたものになる。ふつうにいう「矛盾」が、いわば、「ぼくの体のなか」(あるいは、こころのなか)に起きるのと比べると、その違いがわかる。
 「矛盾」が不透明で、何か面倒くさいものなのに対して、この「拡散」は不透明ではない。むしろ、透明すぎる。「ぼく」と「きみ」の自己分裂、あるいは二重化が、とても透明になっていく。そのなかで、ことば(思想/こころ)が自由になっていく。
 何を書いてもいい。何を書いても、それが「真実」になる。
 その「真実」を生み出す透明感(透明の中にある、二重性、重なり、ゆらぎ)が、とても美しい。重くなく、軽くて、輝かしい。

きみたちが愛を育むための大地になってしまったような悲しみで、
涙が頬を裂いて、細い川が生まれていく、

 この「涙の川」の比喩は、歌謡曲なら重たく暗くつらいが、最果の場合は、重たくも暗くもない。つらくないかどうかは、わからない。いや、暗くない、重くないというのも、実は、単に私の感覚であって最果にとっては違うかもしれない。なんといっても、そこから「殺意」も育っていくのだから。
 でも、何か、透明なのである。
 そして、この透明を最果は「孤独」とも呼ぶのだが、この定義は、何か谷川俊太郎の「孤独」に似たものがある。最果は最果であり、谷川俊太郎ではないし、谷川俊太郎を超えていく存在なのだと思うが、そういう「先人」を越えていくときの感じが谷川俊太郎にも似ているなあとも思う。こういう呼び方は正しくないことは知っているが、ちょっと「新しい谷川俊太郎」と呼んでみたい気になるのである。「新しい谷川俊太郎」という仮説を立ててことばを動かしていけば、最果について、もっと簡単にというか、手抜きをして「批評」が書けそうな気がするのである。
 だから、そういうことは封印して……。

 さて。
 自己二重化、自己対象化ということに戻って、ちょっと考え直してみる。テキトウに、ずれて考えてみる、ということである。
 人間の「二重化」というと、「体とこころ」、さらには「こころ(精神)とことば」のように、いろいろなパターンを想定できる。
 最果は、まず「ぼくの体」と「きみの考え(好き、というのは感情かもしれないし、衝動、欲望かもしれないが、最果は、「ぼくの体を借りてあの子に接近したいと考えている。」)と「考え」ということばで「体」と「考え」を向き合わせている。
 これは、いわゆる「我思う、ゆえに我あり」を思い起こさせる。「体と精神(考え)」の二元論。そのなかで「考え(精神)」を重視する思想。重視するしないは関係なく、単に「二元論」ですませていいのだけれど。
 で、このとき、最果は、なぜか「肉体」ということばをつかっている。一行目と二行目では「ぼくの体」だったのに、「ぼくの肉体」にかわっている。「ぼくの体」と書いても、たぶん、多くの人は何とも思わないと思う。
 なぜ、最果は「肉体」と書いたのか。
 これは、この詩一篇からだけでは、たぶんわからない。最果は「体」と「肉体」をどうつかいわけているか。簡単に言うことはできない。
 わかるのは、ただひとつ。書いているうちに「体」が「肉体」になった。「体」ではうけとめられないものに最果が向き合ったと言うことだろう。この突然の「肉体」ということばは、この詩のなかで、かなり異質である。「透明」というよりも不透明である。(なぜ、「肉体」ということばをつかったかわからない、というのがその証拠である、というとちょっと強引になってしまうが……。)そして、不思議なことに、この「不透明な肉体」の存在によって、「好き/考え/心」が「孤独」に結晶していく感じがする。それは「孤独」を生み出す「核」なのだとわかる。

 ふーん、そうなのか、と思いながら、私はふたたび、この詩を読み返す。自分で書いたことを「ふーん、そうなのか」というのも変だが、もう一度読み返したくなるという意味である。

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(3)

2022-04-16 10:40:05 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(3)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 3篇目「ラドリオの恋」。石毛は1969年に吉岡実に出会ったらしい。

昼でも薄暗い 路地裏の喫茶店「ラドリオ」で
いつもの片隅を 陣取っている
一目でわかる ギョロ眼の紳士に
ひとつ肩で 息をのんでから 声をかけてみた
その店の近くに
「ちくま」や「ユリイカ」の版元があったことなど
知る由もなく

---ヨ・シ・オ・シ・カ? えっと、ヨシ・オカミ・ノル?
   えっ、知らないね、初耳だね!
   国を憂いた、何かの呪文かね。
   少し、いやらしくもあるね。

かれは そう答え 眼をほそめて
読みかけの本から 眼をそらし
笑いかけながら灰を落とし 煙草をくわえた

 そうか、石毛はすでに吉岡実を知っていたのか。知っていて、声をかけてみたのか。私は、まだ、「現代詩」を知らない時代である。
 この吉岡実を思い出すのに、石毛は「苦力」を重ねている。

あの薄暗い「ラドリオ」の煉瓦壁を 背に
鎮座していた恋の精は
それっきり 消え去った
頬を ぽっと明るく染めた
苦力の肉体に
せわしく 煙草の火をもみ消しながら
そのとき おれもまた
詩人の前から 消えたのだ
エロチックで 官能の塊のような詩を
にぎり潰しながら---。

 この最後の部分に、私は、とても驚いた。吉岡実を思い出すのに「苦力」を思い浮かべる人は少ないだろう。「静物」とか「僧侶」とか。あるいは『サフラン摘み』とか。
 どうして「苦力」なのか。
 注釈に、石毛は、こう書いている。

「苦力」吉岡実の詩作品。支那の男は--で始まる官能的な、魯迅に繋がる身体を見た。
 
 私にとって、吉岡実と魯迅はかけ離れた存在だが、石毛にとっては繋がっている。しかも「身体(石毛の詩のなかでは、肉体、ということばがつかわれている)」で繋がっている。それがとても印象的だ。
 「身体(肉体)」とは何なのだろうか。
 詩を読み返してみると、吉岡実の「身体(肉体)」は「ギョロ眼」として登場している。これに対して、石毛は「ひとつ肩で 息をのんで」という対応をしている。「身体(肉体)」の具体的な動き。「ことば」以前の、存在の動き。それから「声をかける」。他人の「身体(肉体)」に出会い、一呼吸おく。それから「ことば」で近づく。吉岡実は「知らない」と答えた後「眼をほそめて」「眼をそらし」ている。吉岡実はどこまでも「眼」のひとである。「眼」が「身体(肉体)」と言えるかもしれない。「身体(肉体)」に隠れてしまう。
 しかし、それでは魯迅とつながらない。
 「身体(肉体)」とは、しかし、石毛にとって、そういう目で見えるものではなく、別なものなのかもしれない。つまり、「ことば」が「身体(肉体)」なのかもしれない。

---ヨ・シ・オ・シ・カ? えっと、ヨシ・オカミ・ノル?
   えっ、知らないね、初耳だね!
   国を憂いた、何かの呪文かね。
   少し、いやらしくもあるね。

 この「ことば」、この「呼吸」が「身体(肉体)」であり、「身体(肉体)」としての「ことば/呼吸」が魯迅につながる。知っている(わかっている)のに「知らない」と言う。「ことば」から「憂い」や「呪文」に通じるものを聞き取る。そして、「いやらしい」とくくってしまう。
 この「いやらしい」は「どうしようもない」、あるいは「必然」と言いなおした方がいいかもしれない。「必然」は「必要」でもある。
 「苦力」の書き出しは、こうである。

支那の男は走る馬の下で眠る
瓜のかたちの小さな頭を
馬の陰茎にぴったり沿わせて
ときにはそれに吊りさがり
冬の刈られた槍ぶすまの高梁の地形を
排泄しながらのり越える

 なぜ、そんな馬の乗り方をするのか。私は想像するしかないのだが、その姿勢なら、馬に人が乗っているとは気づかない。野性の馬が走っているように見えるかもしれない。とくに、くらい夜は。男には、ひとに見られなくないという「必要」があり、その「必要」が馬の腹の下に自分をくくりつけるという「必然」を要求する。
 この「必然」「必要」は、ある意味では「不自然」であるから、「身体(肉体)」には苦痛である。苦痛には、不思議な「エロチシズム」がある。(「サフラン摘み」を読めばわかる!)「エロチシズム」は「苦悩」に通じる。
 魯迅は、とくにエロチシズムを書こうとしているわけではないと思うが、彼の描く人間の肉体は、自分で抱え込むしかない苦悩によって歪んでいる。その歪みは「必然」であり、「必然」であるかぎりは「必要」なのだ。そして、その「必然/必要」は、どこかで「国」そのものへの「憂い」にもつながっている。「国」は「国家」というよりも、「生きているときの社会のシステム」のようなもの、権力ではなく、非権力から見た「いやなもの」に対する気持ちのようなものが「憂い」ということになる。
 というようなことを、石毛が書いているわけではないが。
 私は、そんなことを思った。吉岡実か、「苦力」か、魯迅か……。「いやらしい」「エロチック」「官能」か。吉岡実への「評価(定義)」というよりも、この詩は、石毛拓郎の詩を定義する(?)ときの「ことば」を提供してくれているかもしれない。「いやらしい」「エロチック」「官能」「身体/肉体」。そして、それが全部、魯迅につながるということ。

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