安俊暉『武蔵野』(思潮社、2022年05月17日発行)
安俊暉『武蔵野』は短いことばがつらなっている。28ページに、こう書いてある。
古里の
葦の葉
急ぎ揺る
われ
君に会いてのち
揺るごと
君に会いて
のちより
古里の
葦の葉の
急ぎ揺る
最初の連と次の連とどこが違うのか。どちらかひとつでいいと思うが、安は一方を削除するのではなく、両方を残している。
55ページは、こうである。
君
生けし花
山ごぼうと
すみれ
小ビンの
中に
君
生けし
野菊
小ビンの中に
また
小さく
何にこだわっているのだろう。83ページから84ページにかけて。
無花果
伸びゆく
幾度かの
思い
重ねつつ
幾度かの
思い
重ねつつ
今
無花果の葉
散りゆく
「思い/重ねつつ」が繰り返される。あ、安は繰り返すことで「思い」を重ねているのだ。「重ねつつ」あるのだ。この「つつ」が安のことばの動きの基本なのかもしれない。思いを重ねるけれど、重ねておしまいではない。重ねつづけるのである。「つつ」は「しながら」という意味を持っているが、それはある動詞に別の動詞を重ねるということだろう。そうやって少しずつ動いていく。
これは詩というよりも、小説のことばの動き方だろうと思う。
安は瞬間を書いているのではなく、変化していく時間を書いている。しかも、それは激しく変化していくというよりも、どこが変化したのかわからないような、けれど、振り返れば「変わった」としか言いようのない動きである。たぶん、それは安には切実に、くっきりと見える。そして、私には、くっきりとは見えない。ああ、また繰り返しかと読んでしまう何かなのだが、私はここでは、その見えない何かを明確にしたいときは思わない。不明確なまま、そういう動きがあるということだけを見つめていたい。
他人のことは、わかるはずがないのである。そして、わかるはずがないにもかかわらず、わかってしまうものなのである。そして、その「わかった」は強引にことばにしてしまうと、たぶん、私の「結論」の押しつけになってしまう。安が書こうとしている、「書けないもの」とは違ってしまう。
書いているが、「書けないもの」がある。その「書けないもの」が、少しずつ重なって何かになるのを、ただ、見つめていればいいのだと思う。
カボチャ花
黄の
安らぎてある
午前
君と別れゆく
カボチャ
初花の
黄の
昼またず
しぼみゆく
「午前」を「昼またず」と言い直している。ここに、何か、切実なものがある。ここには「重なり」ではなく「ずれ」がある。「午前」と「昼またず」は「意味」としては同じかもしれない。つまり、たとえば「午前10時」という意味では同じかもしれない。しかし、それは「午前」なのか「昼またず」なのか。「またず」のなかに、時間の長さへの切望がある。
191ページから192ページ。
君来れば
時現れる
君と
語りをる
時重なりて
無限となる
「思い/重なりて」が「時重なりて」に変わる。「思い」は「時」のことである。「時」とともにあり、「時」ともに変化していく。そして、その「変化」のなかに「無限(永遠)」がある。
安がことばを動かすのは、その「無限」へ向かってのことなのである。
鳥の声
君と僕の
位置
その都度
新しき
時
積み重なりて
来る
時
終わることなく
四十雀
またくる
「くる」「時」を、受け止めるための詩なのだ。
「つつ」と「て」の使い方について、書いてみたい衝動に私はとらわれているが、長ったらしくなりそうなので、その使い方に安の「思想/肉体」を感じたとだけメモしておく。