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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョージ・ロイ・ヒル監督「明日に向って撃て!」(★★★★)

2010-07-06 11:37:30 | 午前十時の映画祭

監督 ジョージ・ロイ・ヒル 出演 ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、キャサリン・ロス

 好きなシーンがいくつもあるが、いちばん好きなのはやっぱり自転車に乗るシーン。ポール・ニューマンがキャサリン・ロスをハンドルに座らせて自転車をこぐ。バート・バカラックの曲が流れる。西部劇からはるか遠く離れて、「いま」が突然あふれてくる。それを真っ正面からとらえるのではなく、木立や小屋(?)の板壁越しに撮る。隙間から、二人の楽しい様子が見え隠れする。それが光のようにまぶしく、美しい。
 映画は違うけれど、やはりキャサリン・ロスが出演した「卒業」でも、キリサリン・ロスとダスティン・ホフマンが大学を歩くとき、回廊の柱越しに二人が撮られている。柱の影が二人を邪魔する。その邪魔なものかげの向こう側に、二人がとぎれとぎれにあらわれる。
 この夾雑物を自然に取り入れながら、画面に奥行きと自然な感じを広げるという手法は、アメリカン・ニューシネマによって完全に「市民権」を得るようになったものだけれど、そのなかでも、「明日に向かって撃て!」の自転車のシーンがいい。
 ストーリーと無関係--というと言い過ぎだけれど、ストーリーを突き破って、ただ、そこに映像の輝きがある。音楽の美しさがある。まねしたくなるよねえ。「西部劇」であることを忘れて、「いま」としてまねしたくなる。だれかを自転車に乗せて、光あふれる自然のなかを走ってみたくなる。恋をしてみたくなる。いや、恋、というより、青春かなあ。
 白い綿の塊みたいなものがふわふわ飛んでくるなかを、二人が歩くシーンもいいなあ。このシーンなんかも、自然の美しさと、その自然のなかで触れ合うこころ、青春の一瞬の思い出を撮りたくて撮っているだけのシーンだねえ。「あのとき、綿のようなふわふわした花が飛んできて、きみは話をしながら、その花を手でつかまえていた」と思い出す。なんの話をしたかは忘れても、そのふわふわと飛ぶ白い花をつかまえるきみの手、その目の動きを覚えている……なんて、青春としかいいようがない。
 ボリビアでポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが追いかけられるとき、というか、二人をボリビアの警察(?)が追いかけるときの、しゃれた音楽もいいなあ。西部劇とは無縁の音楽だね。ここにも、「現実」というより「夢」が輝いている。
 そういういくつもの「青春の輝き」があるから、キャサリン・ロスが「ホームに帰る」というときのさびしい目、そしてクライマックスの銃撃戦が胸に迫ってくる。あ、「青春」がおわってしまう……。
 そして。
 また、思う。この映画のなかでポール・ニューマンは何度も「俺たちはもう若くない」という。この「若くない」という自覚も、ひとつの「青春」なんだなあ。アメリカン・ニューシネマが、「もう若くない」という「青春」を映画に持ち込んだのだ。--でも、それは何もかもが「青春」の時代だったなあ。「もう若くない」も「青春」の感慨だった。いま、青春のおわりを自覚する青春はあるんだろうか、とふと思った。この映画がつくられた時代、世界は「青春」だった、と--いま、思う。

                          (午前十時の映画祭、22本目)


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ジョージ・ロイ・ヒル監督「スティング」(★★★★)

2010-07-01 21:41:34 | 午前十時の映画祭
ジョージ・ロイ・ヒル監督「スティング」(★★★★)

監督 ジョージ・ロイ・ヒル 出演 ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、ロバート・ショウ、チャールズ・ダーニング、レイ・ウォルストン

 なつかしいなあ。ポール・ニューマンもロバート・ショウも生きている。ロバート・レッドフォードも若いし、青い。
 映画のつくりもなつかしいねえ。タイトルがきちんとあって、章仕立て。撮影はもちろんセット。ロバート・レッドフォードが町を歩く。ほら、ロバート・レッドフォードの影が濃くなったり薄くなったり、右に映ったり、左に映ったり。現実の太陽の光じゃ、そんなことはないよね。セットの証明のせい。わざと、それを見せている。いいねえ。なつかしいねえ。これは映画ですからね、嘘ですからね、と何度も何度も断わりながらストーリーが進んでいく。
 にくい、にくい、にくい。
 ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードがどんなふうにロバート・ショウを騙すか--その手口をずーっと事前に説明しながら、最後の最後は、ロバート・ショウではなく観客を騙す。ロバート・ショウももちろん騙されるのだけれど、観客の方がもっと騙される。
 ロバート・レッドフォードが口のなかに血弾(?)を入れるシーンをちゃんと見せているじゃないか--と、たぶん、監督と脚本家は言うだろうけれど、違うよねえ。その説明--あとだしジャンケンじゃないか。
 というようなことはさておいて。
 私がこの映画でいちばん好きなのは、ラストシーン。見事ロバート・ショウを騙す、チャールズ・ダーニングをも騙すというシーンではなく、何もかもがおわって、「舞台」を片づけるシーン。ここが好きだなあ。
 映画ですよ、映画ですよ。
 楽しかったでしょ?
 つくっている私たちもとっても楽しかった。
 でも、映画は映画。嘘は嘘。終わってしまったら、セットを片づけてみんなそれぞれの家へ帰っていくんですよ。
 いいなあ、このさっぱり感。
 こういう映画は、やっぱり絵に描いたような色男--現実には存在しない色男じゃないと、さっぱり感がでないよねえ。そういう意味では、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードは、いい組み合わせだねえ。ともに、「重さ」がない。日常を感じさせない。



 気になったことがひとつ。福岡天神東宝で見たのだが、映像のピントが甘い。シャープな輪郭がない。もともとそうだった? それともフィルムの劣化? あるいは映写技術の問題? もともと天神東宝の映写技術には問題があるのだけれど。特に「午前十時の映画祭」の作品を上映している5階の映画館の音はひどい。途中で必ず「ぶーん」という雑音が入る。どうにかしてよ。
                         (午前十時の映画祭、21本目)



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フランソワ・トリュフォー監督「映画に愛をこめて アメリカの夜」(★★★★★)

2010-06-21 22:21:03 | 午前十時の映画祭

監督 フランソワ・トリュフォー 出演 ジャクリーン・ビセット、ジャン・ピエール・オーモン、ヴァレンティナ・コルテーゼ、ジャン・シャンピオン

 いちばん好きなシーンはどれ、と聞かれたら、私は猫のシーンと答える。(私は、猫は大嫌いなのだけれど。)
 ジャクリーン・ビセットと義父との情事の翌朝。朝食の食べ残し(?)が残るトレーををジャクリーン・ビセットが部屋の外に出す。(そのとき、裸足の足が映るのだけれど--あ、トリュフォーの「足フェチ」が如実に出ていていいなあ、なんてうっとりしながらみつめていました。)猫が、皿の上のミルクをなめる。--そのシーン。
 最初に用意していた猫がうまく動いてくれない。で、何度もNG。急遽借りてきた猫で撮影をやりなおす。そして、うまくいく--と書いてしまうと単純なのだけれど、私が好きなのは、そのなかの一瞬、ピントがぼけるシーン。
 「あ、ピントがぼけた」
 という声も入っている。
 あ、映画だねえ。フランス映画だねえ。
 
 フランス映画といってもいろいろあるだろうけれど、私が思い浮かべるのはルノワール。ルノワールの映画を見ていて感じるのは、映画を計算ずくで撮っていないという感じがすること。余裕がある。俳優が勝手に演じているというと言い過ぎだろうけれど、役者が「役」を監督の意図とは無関係に(?)演じているような部分がある。ストーリーを逸脱しているようなものを感じる。「役」ではなく、役者そのものを見ている気分になるときがある。そして、その瞬間に、なんともいえず幸福な気分になる。「役」ではなく、スターを見た、スターに会ったという感じ……。
 それと「猫」となんの関係がある、といわれると困るけれど。
 まあ、ミルクをなめる猫を見ているのではなく、猫そのものを見ている、猫を見た、という感じがするのと、それにもまして、映画は、計画どおりのシーンを撮るのではなく、何かしらのハプニングを取り込んでいく、予想外のものを取り込んで行きながら豊かになる、という感じがとてもいいのだ。
 アメリカ映画(ハリウッド映画)には、こういう感じはないね。
 フランス映画には、役者が勝手なことをやって、変になっちゃった、このシーンうまく撮れなかったなあ、なんて悔しい思いが滲んでいるようなシーンがあって、それが人間臭くていい。猫のシーンもピントがあったままだったら、「ホンモノ」みたいでおもしろくない。あ、ピントが甘くなっちゃった。でも、そういうピンボケがあるから映画なんだなあと感じられる--といえばいいのか。
 
 で、その猫からちょっと映画っぽいことをちょっとつけくわえると……。

 この映画、「映画を撮っている」ことを映画にしている。役者はすべて、役者でありながら、役者を演じている。(トリュフォーは監督自身を演じている。)そして、そのなかに、ルノワールがそうしたかどうかはわからないけれど、「役者」そのものを取り込んでしまうシーンがある。
 ジャクリーン・ビセットは義父と恋愛してしまう女を演じているのだが、その彼女自身が「現実」で(といっても、これも映画だけれど)不倫(?)をする。落ち込んでいる役者を励ますために一夜のセックスをしてしまう。そして「現実」の夫にそれが発覚し、トラブルが起きる。そのとき、ジャクリーン・ビセットは「現実」の声をトリュフォー監督に訴える。その「現実」の「声」そのものを、監督は「映画」につかってしまう。台詞を書き換えてしまう。
 「映画」に「現実」を取り込み、女優そのものの「声」を「役」にしてしまう。
 いいなあ、この楽しさ。このおもしろさ。この無責任(?)さ。
 映画というのは、結局、ストーリーなんてどうでもいい。観客は「役者」そのものを見に来る。「役」をはみだして、スクリーンにあらわれてくる俳優そのものの「現実」を見に来る。「俳優そのものの現実」とは、つまり、「人間そのもの」でもあるね。「人間」がスクリーンにくっきりと定着したとき、その映画はおもしろくなる。「役」というのは俳優をスクリーンに引っ張りだすための「手段」にすぎない。
 
 タイトルは「アメリカの夜」だけれど、内容は、「フランスの昼(現実)」という感じだねえ。大好きです。この映画。
                          (午前十時の映画祭、19本目)


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ジュゼッペ・トルナトーレ監督「ニュー・シネマ・パラダイス」(★★★★)

2010-06-16 10:20:01 | 午前十時の映画祭

監督 ジュゼッペ・トルナトーレ 出演 フィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン、サルヴァトーレ・カシオ、マリオ・レオナルディ、アニェーゼ・ナーノ

 
 ラストシーンのキスのラッシュが私は大好きだ。このシーンを見るためなら何度でもこの映画を見たい。
 キスシーンは、映画技師が牧師の検閲によってカットされたものを繋ぎ合わせたものだが、ここに映画への愛がこめられている。キスシーン、あるいは「アイ・ラブ・ユー」とつげるシーン(記憶のなかでは、「アイ・ラブ・ユー」という台詞が残っているのだが、今回見た映画では台詞はなかった。唇の動きでそれとわかるシーンがあるけれど……)は映画のクライマックスである。それを「わいせつ」という観念でカットしてしまう検閲の暴力--それに対しての抗議。まあ、映画の主人公はそういう面倒くさいことはいわずに、ただカットされたシーン、日の目を見ないのは残念という思いから1本につなぎあわせたのだろけれど。
 このシーンを見ながら、主人公は、映画技師の愛、人間そのものへの愛を知る。それは幼い自分に向けられた愛でもある。人が人を好きになる。そのとき人間はこんなに美しい。その美しい人間を映画技師はだれよりもたくさん知っている。いいなあ。性別も、年齢も超越して、ただ愛だけが輝く、その瞬間。
 いいなあ。
 この美しいシーンに匹敵するのは、主人公が青年時代に盗み撮り(?)する初恋の相手、エレーナの映像だ。8ミリフィルムのなかで振り向くエレーナ。その、モノクロなのに、モノクロを超越して、金髪、青い目という色も超越して、ただまぶしく輝く肌、視線。それが美しいのは、エレーナが美しいからではなく、青年が真剣に、純粋にエレーナを愛していたからだね。
 キスシーンのラッシュを見ながら、トトが思い出すのは、きっと、そのときの愛なのだ。そんな瞬間がトトにもあったのだ。
 あとは、付け足し。単なるストーリー。映画でなくても語れるものだ。
 強いて、もうひとつ好きなシーンをあげれば、フィリップ・ノワレが若いトトに最後に語りかけるシーンかなあ。「おまえとは、もう話したくない。私はおまえの噂話を聞きたい。」あ、これは、すごい。噂話は、相手が「有名」にならないと聞こえてこない。ひとの伝聞のなかで生きるくらいの人間になれ、と若いトトを励ましている。フィリップ・ノワレはもちろんトトに会いたい、会いたいけれど、それ以上にトトに、「いま」を越えて生きてもらいたいと願っている。トトの幸福を願っている。
 涙が出ますねえ。ひとの幸福を祈る。それより美しい愛があるとは思えない。愛しているからこそ、さらに幸福を祈る。そして、その祈りを、フィリップ・ノワレは生きる。
 最後に形見として「愛する瞬間、人間は輝く」と「キスシーン」を残す。美しいですねえ。 
                         (午前十時の映画祭、19本目)


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バリー・レヴィンソン監督「レインマン」(★★★)

2010-06-07 19:33:28 | 午前十時の映画祭

監督 バリー・レヴィンソン 出演 ダスティン・ホフマン、トム・クルーズ、ヴァレリア・ゴリノ

 「午前十時の映画祭」18本目。
 私はこの映画をうまく消化しきれない。長い間別れていた兄弟が、父の死をきっかけに出会い、一週間の旅をする。その過程で、ある程度打ち解け、家族の絆をたしかめる--というストーリーである。
 とてもよくわかる。
 でも、そんなに簡単? そんな簡単に人間関係というものはかわるものだろうか。それが、よくわからない。ストーリーはわかるが、ストーリーのなかで展開されていることが、どうにもよくわからないのである。
 「自閉症」というものを私がよく知らないということも原因のひとつかもしれない。
 この映画ではデスティン・ホフマンが自閉症の兄を演じている。彼は、決まりきった日常を繰り返さないとパニックになる。新しい騒音も苦手である。一方、数字にはとても強い。記憶力もずば抜けている。この「弱点」と「天才」の対比の描き方が、私には、どうにも疑問が残るのである。
 同じ日常を繰り返さないと不安になる。日常と違ったことは全部だめ。それは、私からみれば(トム・クルーズからみても、だと思う)「どうして?」というようなことである。初対面のひとはこわい。体に触られるとパニックになる。デスティン・ホフマンの読んでいる本を手に取ってはだめ。ベッドは窓の側でないとだめ。ホットケーキにはメイプルシロップと爪楊枝がいる。下着はKマートのものでないとだめ。--こういう部分は、ダティン・ホフマンの「弱点」のように描かれている。「弱点」というより「問題点」といった方がいいのかもしれない。
 一方、電話帳の名前と番号を一回読んだだけで記憶してしまったり、床にこぼれた爪楊枝の数を即座に数えたり、三桁の掛け算を楽々とこなしたりする。そういうことは、ふつうのひとにはできない。だから、そういう部分は「天才」として描かれている。映画のなかで「天才(的)」と表現されている。(少なくとも字幕では、そういう印象が残る。)
 でも、そうなんだろうか。日常と少しでも違うとパニックを起こすことが「問題点」(弱点)であり、数字に強いのが「天才(的)」なのか。もしかすると、逆かもしれない。決まりきった日常を決まりきった状態で繰り返す、そんなふうに自己制御するというのは「天才(的)」なことであり、三桁の掛け算が暗算でできることや、一度読んだ本は覚えてしまうということの方が「問題点」かもしれない。
 三桁の掛け算の暗算や、一度読んだ本は覚えてしまうということの方が、もしかすると人間関係を「邪魔」しているかもしれない。そんな能力があるために、それをどう他人との関係のなかでいかしていいかわからなくなる。そういうことはないだろうか。
 ひとには誰でもわからないことがある。同じように、苦手なことがある。わからなかったり、苦手だったりするから、それをなんとかしようとして、他人同士が接近し、助け合うのだと思うけれど、そういうとき、数字に関する「天才(的)」能力は、「問題点」ではない?
 何かが、ちょっと違っている--と、私は感じてしまうのだ。

 「弱点」(問題点)の方は、ていねいに描かれている。
 たとえばダスティン・ホフマンはお風呂の熱湯(お湯)を先にバスタブに入れてしまうことに対してパニックを起こす。それは、彼が幼いとき、家でたぶん手伝いをしようとしてお湯を入れたことがあったのだ。そして、それを見た両親が、「あ、チャーリー(弟)がやけどをしてしまう。この子(ダスティン・ホフマン)は弟を傷つけてしまうかもしれない」と判断したということがある。そういう過去がある。それを覚えていて、ダスティン・ホフマンはパニックを起こす。--それは、パニックではあるけれど、その背景に他人(弟)に対する愛情、弟を傷つけてはいけないという判断が働いている。
 その判断は過剰かもしれない。だから「問題点」なのだろうけれど、そんなふうに判断し、自分の行動を制御するというのは、けっして「問題点」ではない。
 このことは、トム・クルーズ自身が気づく。そして、そこから兄に対して愛情というものが育ってくる。
 こんなふうにして、「問題点」と言われているものが、実は「問題点」ではない、ときちんと描くのだったら、「天才(的)」な部分の「問題点」も描かないといけないのではないのか。そうしないと、何か誤解を産んでしまいそうな気がする。

 たぶん、そういうことが描かれていないことが影響していると思う。二人の旅が飛行機も高速道路もだめという旅になってしまうのも、なんというのだろう、「必然」というよりも、まるで映画を完成させる手段のように見えてしまう。飛行機や高速道路で移動してしまっては、兄弟がふれあう時間が短すぎる。そんな短い時間では、兄弟愛が生まれ、家族の絆について考えるなんていうことを表現できない。だから、最低1週間の旅にする必要があり、その1週間の「口実」に、ダスティ・ホフマンの演じている自閉症の「飛行機がだめ」「高速道路もだめ」「日常と違ったことはだめ」が利用されているような、いやあな感じが残るのである。

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ガブリエル・アクセル監督「バベットの晩餐会」(2)(★★★★★)

2010-06-05 18:24:32 | 午前十時の映画祭
監督 ガブリエル・アクセル 出演 ステファーヌ・オードラン、ジャン・フィリップ・ラフォン、グドマール・ヴィーヴェソン、ヤール・キューレ、ハンネ・ステンスゴー


 5月25日の感想の補足。「午前十時の映画祭」の「みんなの声」に疑問を書いたのだが、どうも反応が違う方向に動いてしまう。

 5月25日に書いた疑問は、以下の通り。

 記憶していたシーンが2か所、欠落している。その2か所はもしかすると、私がでっち上げたものかもしれない。
 一つはバベットが野原でハーブ(と思う)を探し、摘み取るシーン。それを入れると近所の老人に配っているお粥(?)が格段においしくなるのだ。もう一つは、バベットが留守の間、姉妹がお粥を作る。これがまずい。口に含んだ老人がまずいと顔をしかめる。それを見て姉妹が「どうして?」と顔を見合わせる。その顔を見合わせるシーンがない。

 私が「お粥」といい加減に書いた部分に反応が返ってきて、肝心のハーブを摘むシーン、姉妹が顔を見合わせるシーンについての反応がない。やっぱり、私の勘違い?
 私がこのシーンにこだわるのは、理由がある。
 この映画は、一種のグルメ映画で、豪華なフランス料理に視線が集中してしまいがちなのだが、バベットがこの村に紹介したのは(持ち込んだのは)豪華料理だけではない。
 いつもみんなが食べている「お粥(ビールパン?)」も工夫次第でおいしくなる。野原に生えているハーブを加えるだけで味が変わる。そういうことを描いている重要なシーンである。ビールパンにどのハーブなら合うのか。ハーブを摘みながら、匂いを嗅ぎ、それを加えた時の味を想像する――そういうことをバベットはしていると思う。
 そしてその工夫が思いがけない効果を生む。ビールパンがおいしくなるだけではない。おいしくなることで何かを省略できる。それは例えばビールの量かもしれない。その結果、つかうお金が節約できる。野原のハーブはただ。ビールはいくらかお金が必要。
 そういうことが積み重なって、姉妹が金銭を勘定するシーンにつながる。
 貧乏な姉妹。バベットに給料は払えない。給料を払わなくても、食べる人数が増えれば食費がかさむはずである。ところが、逆に、
 「バベットが来てから、経済的に余裕が出てきた」
 姉妹が驚くシーンがあるが、その背景には、そういう「事実」があるのだと思う。そして、その「事実」の裏付けとなるのがハーブを摘むシーン、野原でハーブを探すシーンだと思う。

 料理には材料に金をかけるものがある。晩餐会の豪華なフランス料理のように。一方で、工夫で味をよくするものもある。(この工夫はもちろん豪華料理にも生かされている。)「バベットの晩餐会」は、このことを描いていると私は思う。
 そこが単なるグルメ映画ではない。
 そう感じて、私はこの映画を「傑作」と評価するのだけれど・・・。

 グルメだけを描くなら、映画の前半に、若い姉妹のせつない恋愛がえんえんと描かれるのも奇妙ということになるが、この映画をグルメ映画ではなく、人間の生き方の映画としてみると違ってくる。
 質素であっても、工夫して、信念をもって生きる。その生き方が、やがて人生そのものの味を完全に味わうための下地になる。ただ豪快に遊び、放蕩すれば人生が楽しいわけではない。質素、堅実に、自分の信念に従って生きたものが、最良の料理・神の祝福を受ける、神の祝福を存分に味わうことができる。
 そういうことを語る映画だと思う。

 そう思うからこそ、私が見たはずのシーンは幻なのかなあ、それとも今回の上映にあたってカットされたのかなあ、と気になるのである。



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ロバート・ベントン監督「クレイマー、クレイマー」(★★★★)

2010-05-31 14:09:19 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・ベントン 出演 ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ、ジャスティン・ヘンリー、ジェーン・アレクサンダー

 「午前十時の映画祭」17本目。
 ダスティン・ホフマンとメリル・ストリープはほんとうにうまい。台詞を言っている時は、誰でもある程度観客をひきつけられる。人の話を聞くとき、人は、話し手をみるからね。
 2人は、黙っていても観客を引き付ける。そして、黙っているのに、その顔をとおして「ことば」が聞こえてくる。冒頭の、少し唇を開いたメリル・ストリープのシーンから、その印象があるが、法廷での2人の、それぞれ「証言」を聞いているときの顔がいい。
 ことばにすると対立ばかりが浮き立つが、無言で相手の言うことを聞くとき、あるいは誰かの話に困惑する相手を見つめるとき、その表情の奥に「理解」のこころが動く。あ、まるでほんとうに8年間夫婦だったみたいじゃないか。
 この「理解」が最終的に、すべての問題を解決するのだけれど、ことばにならないものを受け止め、受け止めたよ、とことばではなく、やはり肉体そのものとして相手にお返しするとき、涙というものが流れるんだね。
 ダスティン・ホフマンのアカデミー賞はいいとして、メリル・ストリープはどうして受賞しなかったんだろう。役どころで損をしてしまったのかな?
 また、ジャスティン・ヘンリーもすばらしくうまい。アイスクリームをめぐってダスティン・ホフマンと喧嘩をするところなど、芝居とは思えない。まるで本物の家族を見ているような感じがする。
 「ママが出て行ったのは、ぼくが悪い子だから?」と問いかけるのも、泣かせるねえ。
 最初と最後に、フレンチトーストが出てくるのも、いい感じだね。最初は、でたらめ(この、フレンチトーストをうまく作れないダスティン・ホフマンが、またすばらしい。上手は練習すればできるけれど、下手は練習すると上手になってしまうので難しい)だったけれど、1年半の間に父と子の間にチームワーク(?)が完成し、スムーズにフレンチトースト作りが進む。とても気持ちのいいシーンだ。

 この映画――といっても、映画そのものではないのだけれど。
 残念なことがひとつ。
 「午前十時の映画祭」は、福岡・天神東宝では、これまで5階の広い劇場で上映されてきた。ところが、今回は狭い劇場である。
先週の「バベットの晩餐会」は、昔、ミニシアターでみたもの。それを大きなスクリーンで見直すことができたのは大感激だった。けれど、以前は大きなスクリーンで見た「クレイマー、クレイマー」を今回は小さなスクリーンで見ることになってしまった。あ、ビデオ(DVD)じゃないか、これでは・・・。
来週は「レインマン」だが、まさか、ダスティン・ホフマン、トム・クルーズのサイズに合わせて、またミニスクリーン? スクリーンを小さくすると、登場人物はさらに小さく見えるんだけど、天神東宝さん、知ってる? 小さなスクリーンなら、小さい人が大きくなるということはないんですよ。





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ガブリエル・アクセル監督「バベットの晩餐会」(★★★★★)

2010-05-25 11:39:23 | 午前十時の映画祭

監督 ガブリエル・アクセル 出演 ステファーヌ・オードラン、ジャン・フィリップ・ラフォン、グドマール・ヴィーヴェソン、ヤール・キューレ、ハンネ・ステンスゴー

 「午前十時の映画祭」16本目。
 記憶していたシーンが2 か所、欠落している。その2 か所はもしかすると、私がでっち上げたものかもしれない。
 一つはバベットが野原でハーブ(と思う)を探し、摘み取るシーン。それを入れると近所の老人に配っているお粥(?)が格段においしくなるのだ。バベットのつくってくれたお粥を食べたとき、老人の顔が、ほわっと明るくなる。
 もう一つは、バベットが留守の間、姉妹がお粥を作る。バベットがくる前の、昔ながらの方法で。これがまずい。バベットのお粥を食べることだけを楽しみに生きていたのに……。口に含んだ老人がまずいと顔をしかめる。それを見て姉妹が「どうして?」と顔を見合わせる。「いつもは、ちゃんと食べたのに」。
 そのふたつのシーンがない。
 たぶん(きっと)、私がかってに捏造したシーンなのだが、こんなふうに映像を捏造できるというのが、傑作映画の条件だ。スクリーンの映像の背後に、存在しないシーンを見てしまう。そういうシーンが多ければ多いほど、その映画は充実している。
 この映画は、実際、後半に入ると、そういう感じになってくる。スクリーンでは、村人が「食べ物の話はしない」という約束を守ってもくもくと食べている。けれど、そのもくもくの背後で「なんておいしんだ」と言っている。ワインの合間に水を飲み、「や、やっぱりワインの方がおいしい」とワインを飲み直す。そのとき、そこには描かれていない、その人々の「日常」の食卓がぱっと見える。テーブルクロスはない。皿もかぎられ、ワインなんてもちろんない。それでも、それを「おいしい」と思い、食べていた日々が見える。
 それは、もしかすると、村人の日常ではなく、私自身の日常かもしれない。いつも、どんなふうに食事をしているか--そのことが、村人の姿をとおして、頭のなかで映像として甦るのだ。
 それから、ひとこと二言の「だまして、ごめんよ」「俺もだましたことがあるんだ」というような会話の向こう側に、実際にそういうシーンが見えるのだ。ときにはひとにうそをついて出し抜いたり(出し抜いたつもりになったり)、そうやって生きることが「上手に生きる」ことだと勘違いしたり……。そういう日常、村人の日常であり、また私の日常であるものが、スクリーンに映し出されないにもかかわらず、私の「肉体」のなかで甦る。
 そういうことの繰り返しのあとに。
 牧師のメインの説教「願ったことはすべて実現する、願わなかったこともすべて起きる。起きないことはないもない」が将軍のことばで繰り返され、思い起こされるとき、出演者の顔をとおして、肉体をとおして、あらゆることが思い起こされる。あらゆることが「具体化」される。スクリーンに映し出されなくても、見ている観客の意識のなかに映し出されるのだ。
 こんなふうに、現実に見えているもの以上のものが、見えるを超えて「実感」できる――これを幸福というんだろうなあ。それが「おいしい」ものを食べる、「おいしさ」を共有するというよろこびの中で溶け合う。
 遠いもの、天の星さえも近くに見える。その遠いものには、亡くなった牧師がいる。そして、「神」がいる。
 晩餐会を終えて外へ出た村人。いがみ合いを忘れ、みんなで手をつなぎ、井戸を囲み、歌を歌う。踊る。「ハレルヤ」。

 人が天国へ持って行けるもの、それは人に与えたものだけ。いいことばだね。




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ジェームズ・アイヴォリー監督「眺めのいい部屋」(★★★★)

2010-05-17 19:08:17 | 午前十時の映画祭

監督 ジェームズ・アイヴォリー 出演 ヘレナ・ボナム=カーター、デンホルム・エリオット、ジュリアン・サンズ、ダニエル・デイ・ルイス

 イギリス映画は色彩が美しい。特に緑と黒が美しい。
 この黒の美しさと、ヘレナ・ボナム=カーターの黒い目が調和して、気持ちがいい。ヘレナ・ボナム=カーターが弾くピアノも当然黒い。彼女の容貌にぴったりあっている。一方、恋人が黒い髪、黒い目のダニエル・デイ・ルイスと青い目、金髪のジュリアン・サンズと対照的なのも、この映画ではとても効果的だ。黒と黒も強靭な輝きだが(たとえばティム・バートンが好むヘレナ・ボナム=カーターとジョニー・ディップの組み合わせ)、ヘレナ・ボナム=カーターの黒は、瞬間的にぱっと輝く、その輝きが青い目、金髪の明るさに照らされるとき、さらに美しくなる。輝きが、透明に変わる。ヘレナ・ボナム=カーターが、ダニエル・デイ・ルイスではなく、最終的にジュリアン・サンズを選ぶのは必然だね。そうしないと、映像の美しさが半減してしまう。
 この映画は、色彩計画がとても綿密に立てられているのだ。
 小説では、色彩はどんなふうに描かれているのか。原作を読みたくなる映画である。



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デイヴィッド・リーン監督「アラビアのロレンス」(★★★★★)

2010-05-11 16:19:53 | 午前十時の映画祭


監督 デイヴィッド・リーン 出演 砂漠、ピーター・オトゥール、アレック・ギネス、アンソニー・クイン、ジャック・ホーキンス、オマー・シャリフ

 「午前十時の映画祭」14本目。
 2009年03月28日、KBCシネマで「アラビアのロレンス(完全版)」というのを見ている。そのときと印象がまったく変わってしまっている。(私の記憶のなかでは、昨年の秋に見た、ことになっているのだが、調べてみたら違っていた。2009年03月28日の「日記」に感想をアップしてあった。)
 印象の違いのいちばん大きな差は、スクリーンの大きさである。今回は天神東宝の5階の劇場で見た。見た目の印象では面積が2倍以上違う。だから迫力が違うのである。
 そして、これは不思議でしようがないのだが、スクリーンの大きさが違うと、なぜか、映像ではなく、音にまで神経が行き届いてしまう。気がつかなかった音を聞いてしまう。それが今回感じたいちばんの違いかもしれない。



 デイヴィッド・リーンは映像が美しい。ときには、その美しさが形におさまりすぎて窮屈な感じがするときもある。たとえば、この映画では冒頭のシーン。ピーター・オトゥールがオートバイに乗るまでのシーンを俯瞰画面でとらえている。スクリーンの左上方に頭が下向きになる形でオートバイが止まっている。右側には地面が写っている。その空白を利用してクレジットが出る。そのバランスが、とても美しい。決まりすぎているので、見ていて目が遊んでしまう。既視感がある。(実際に、この映画を見るのは私にとっては3度目になる。)
 たぶん、この既視感のせいなのだが、目に余裕が出てくる。映像をあまり真剣に追わなくなっていることに気がついた。そして、代わりに音に気がつくようになった。
 この映画は、音にもとても神経を配っている。またまた冒頭のオートバイのシーンだが、ピーター・オトゥールがどんどんスピードを上げていく。そうすると、風が耳を切る音が聞こえてくる。あ、と声を上げそうになる。私は、きょうまで、その音に気がつかなかった。バイクのエンジン音は聞こえていたが、風のぴゅんぴゅん(ほんとうは違う)という音は、きょうはじめて聞こえてきた。この映画は「音」の映画でもあるのだ。
 それは砂漠のシーンではもっと明確になる。ラクダが砂漠を踏みながら歩くときの音。砂が風に流されるときの音。そういう音がていねいに拾い上げられている。
 砂漠は何もない。障害物が何もない。砂だけがある。その何もない空間のなかで、アラブのひとたちの強靱な視力が生まれ、それはこの映画でも何度か描かれている。はるか遠く、ふつうの人(ピーター・オトゥール)には見ることのできない遠くの人間まで、彼らは見る。その小さな小さな点が人間の形になって近づいてくるのを巨大なスクリーンが再現する。そういうこともあって、この映画は、視力の映画のような印象があったのだが、そこには小さな音も正確に再現されていた。
 思えば、砂漠は沈黙の空間でもある。
 そこには「生活」というものがないので、「音」がない。ただ広い空間がある。そういうところで育った人間の耳は、やはり視力と同じように強靱に違いない。小さな音を敏感に聞き取るだろう。音の違いを聞き取るだろう。人間が歩くときの砂の音、ラクダがあるくときの砂の音。静かな風が砂を動かすときの音。砂嵐の前の砂の動く音。そういうものを、砂漠の住民は聞きわけるに違いない。その違いを信じて、デイヴィッド・リーンは映画に定着させている。
 砂漠の音がふつうの街の音とは違うという点は、こだま(やまびこ)のシーンでくっきりと描かれている。ピーター・オトゥールが歌を歌いながら砂漠をゆく。そうすると、切り立った岩山が彼の声をこだまにして返してくる。その「音」は輻輳する。何度も何度もこだまにある。音がそんなふうに私たちの日常が聞き取るものとは違っているということは、そういう音の違いを聞き取る耳を、やはり砂漠の人々は持っているということを証明するだろう。
 それは声の出し方にも影響する。どういう声が、その何もない空間、砂漠では遠くまでとどくか。砂漠の兵士たちが出征するとき、見送る人々は、ぴゅるるるというような笛のような声を出す。その声の「異質」な感じ。これもまた、砂漠が産んだものなのだ。

 砂漠の何もない空間、澄みきった空気のなかで磨き上げられた映像と音に触れていると、まるで自分が生まれ変わるような気持ちになってくる。
 これは、衝撃的だった。今までは、砂漠の映像の美しさに目を奪われて、耳がおろそかになっていた。目だけがスクリーンを追っていたのだ。映画は映像と音でできているが、その映像に神経を奪われすぎていて、音に気がつかなかった。しかし、そこにはちゃんと砂漠の音があったのだ。
 この私が体験した砂漠--視覚が鍛えられ、同時に聴覚も鍛えられ、いままでとは違った「肉体」で社会を見る、そこに生きているひとを見るということは、きっとアラビアのロレンス自身にも起きたことに違いない。
 彼は、本来の彼なら(つまり、砂漠に入り込まなければ)経験しなかったことを経験する。ひとを処刑する。少年が死んでいくのを見る。そういうことをとおして、彼自身が砂漠の人間になる。その砂漠の人間に生まれ変わるとき、その背後には、砂漠の空間、どこまでもどこまでも見渡せる空間、沈黙の空間も作用している。彼をとめるものは何もないのだ。視力がどこまでもどこまでも遠くまで行ってしまう、耳もまたどこまでもどこまでも遠くへ行ってしまう。そんな感覚のなかで、彼の「肉体」に潜んでいた何かが「たが」が外されたようにひろがっていく。
 「私はひとを二人殺しました。しかも楽しみました。」
 ロレンスは、そんなことを語るが、このことばさえ、そういうことを行ってしまうことさえ、障害物のない砂漠が引き起こした何かでもあるかもしれない。
 ぞくり、としてしまう。
 人間は、自然によってもつくられるのだ。戦争という体験だけではなく、砂漠という空間によっても人間はつくられるのだ。異質の空間にであったとき、人間は生まれ変わるのだ。



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ウィリアム・ワイラー監督「ベン・ハー」(★★★)

2010-05-03 17:35:32 | 午前十時の映画祭

監督 ウィリアム・ワイラー 出演 チャールトン・ヘストン、ジャック・ホーキンス、スティーブン・ボイド

 「午前十時の映画祭」13本目。
 この映画の一番面白いのは「序曲」。スクリーンには何も映っていない(あ、「序曲」という文字、「あと○分で上映」が出る)。これを観客が一緒に見つめながら、待っている。このときの「待っている」感じがいいなあ。
 客が少ないと、げんなりするけれど、満員だったらぜったいわくわくする。(5月1日の「オーケストラ!」の感想を読んでみてください。満員効果について、書きました。)5月3日の天神東宝、午前10時からの回を見たけれど、微妙な客席の埋まりよう。興奮をもたらす人数には遠い。で、「あ、そうだった、序曲があったんだ」と昔を思い出し、まるでオペラだななんて、余分(?)なことを考えてしまったけれど、余分なことを考えながらも、これから始まるんだという気持ちをだんだん高めていくのはなかなか楽しい。
 映画は、うーん、昔はCGがなくて人海戦術だったから大変だな、ということを思うくらいかなあ。
 戦車(競馬?)のシーンが意外に短いのと、そのクライマックスのあとが長いのにびっくりした。頭のなかでは、戦車シーンでおわっていたなあ、この映画。はるか昔、チャールトン・ヘストンの戦車が倒れた戦車の上に乗り上げ、ヘストンが落ちそうになる。それを持ちこたえて、乗りなおすシーンで拍手が起きた。よかったなあ、あの興奮というか、観客の一体感。いまは、これくらいのシーンはありきたりで、拍手はもちろん、感嘆の声も起きない。
 時代はかわったね。
 むかしのまま、中断(間奏曲3分)つきで上映されたのだけれど、あ、これが失敗だねえ。いまは一気に見せないと、興奮が起きない。「序曲」で感じたわくわくは、休憩中断で消えてしまっていた。観客全体が、だらけた感じになっていた。
 むずかしいね。
 戦車のシーンは、あ、こんな映像よく撮ったなあと感心する。むかしのスタントマンは大変だ、と思うけれど。
 なんといえばいいんだろう、あのころの演技は今見ると退屈。ストーリーを語ることに一生懸命で、おもしろくない。チャールトン・ヘストンが若くて、あ、意外とかわいいじゃないか、なんて変な感想だけ思いつく。ようするに、のめりこめない。
 


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スティーヴン・スピルバーグ監督「激突」(★★★★)

2010-04-27 19:42:25 | 午前十時の映画祭
監督 スティーヴン・スピルバーグ 出演 タンクローリー、デニス・ウィーバー

 ラストの、タンクローリーが崖を落ちていくシーンがとても好きだ。特に、その映像ではなく、その「音」が。タンクローリーの警笛(?)の音が、野獣の悲鳴のように聞こえる。それを聞いた瞬間、「悪役」であるはずのタンクローリーに同情してしまう。あわれを感じてしまう。大げさに言うと、涙が出てしまう。
 あ、この感覚、「2001年宇宙の旅」で、ハルがメモリーを外されながら「デイジー」を歌うのを聞いたときに感じる悲しさ、あわれみ、涙に似ている。
 私って、人間よりも機械が好きなのかな・・・。
 そして思うのだ。もしかして、私は主人公に恐怖にはらはらどきどきしていたんじゃなくて、タンクローリーの暴力にわくわくしていたんだなあ。恐怖の体験はいやだけれど、どこかで、何かを体験したことがある。けれど、暴力のわくわくは体験したことがないからなあ。
 映画って、自分では体験できないことを、映像と音楽で体験するのが醍醐味。主人公の恐怖は恐怖でいいけれど(?)、やっぱり、主人公を無慈悲に追いつめていく暴力――あ、すごいなあ。いいなあ。
 変? 危険?
 まあ、いいさ。危険な人間になってみたい。私は。
 映画感を出たとき、70年代のやくざ映画をみた観客が肩で風を切って歩いたように、私はもしかしたら、タンクローリーになっていたりしてさ。ママチャリで、いつもは歩道を恐る恐る走っているんだけど、車道のど真ん中を平気で走りながら、「どけどけ」ってわめいたりしてさ。「じゃますると、はねとばすぞ」なんて言ってみたいなあ。
 でも、野獣には悲しい死が待っているだけ。なんとわびしい現代!
 あ、私って、やっぱり危険?
 で、タンクローリーの「悲鳴」に激しく共感した私は、この映画に「けち」をつけたい部分がある。バクグラウンドの音が嫌い。不安をあおる音を狙っているのだろうけれど、耳障りなだけであるはらはらもわくわくもしない。あ、うるさいなあ、と思うだけである。音がない方がもっとおもしろいだろう。
 恐怖のはらはらにしろ、暴力のわくわくにしろ、それは「日常」と対比されると輝きを増すのだ。たとえば冒頭近くの「国勢調査」の「世帯主」に関する男の質問、回答者のやりとりのラジオの音。あるいはガソリンスタンドの毒蛇。タンクローリーに飼育ケージを壊され嘆く女性。――ストーリーと無関係なことがらが、特異なストーリーを浮き立たせる。強調する。だから、「音」もそういうものでなくてはならないのだ。
 いい例が思い浮かばないが、バックグラウンドがマーラーの交響曲のように甘ったるい音だったら、どうだろう。車が走る音、タイヤの音、エンジンの音もなく、流麗な音楽が響いていてら、あの、たたいても壊れないようなタンクローリーのフロントの顔は、もっと不気味になったのではないのか。もっと得体の知れないエネルギーをもった野獣になったのではないのか。


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シドニー・ルメット監督「12人の怒れる男」(★★★★+★)

2010-04-19 23:40:45 | 午前十時の映画祭
監督 シドニー・ルメット 出演 ヘンリー・フォンダ、リー・J・コッブ、エド・ベグリー、E・G・マーシャル、ジャック・ウォーデン

 「午前十時の映画祭」11本目。
 頭のなかで、私は何度かこの映画を繰り返したのだろうか。私の頭のなかにあって、この映画には実際には存在しないシーンが(映像)が三つもあった。
 (1)殺人事件の現場近くを走る電車。そして、その電車の向こう、窓越しに一瞬浮かび上がる殺人事件の瞬間。
 (2)老人がやっとドアにたどりつき、ドアを開けた瞬間、階段をおりてゆく殺人者の影。
 (3)殺人事件を目撃した老婆が実は近眼だった。法廷で、「これが識別できるか」と質問されて、答えにつまる。
 この三つのなかには、他の「法廷劇」のシーンが紛れ込んでいるのかもしれない。
 「12人の怒れる男」は、陪審員が一室にとじこもり評議する「室内劇」だから、そういうシーンはありえないといえばありえないのだが、フラッシュバックの形で三つのシーンがあると思い込んでいた。
 これは、この映画の脚本がとてもすばらしい、ということの証明になると思う。
 「12人の怒れる男」は台詞劇である。舞台は評議する狭い一室にかぎられている。そこではことばだけで、事件が再現される。事件が検証される。
 事件を検証していくことばが「正確」であるとき、観客である私たちは(私は)、そのことばが描写している「映像」をことばの向こうに見てしまう。そういう「映像」をくっきりと浮かび上がらせることばで、この脚本は書かれているのだ。そして、役者たちは、自分の存在よりも前に、その「ことば」をくっきりとスクリーンに定着させているのだ。「ことば」のために演技をしているのだ。そういう演技をひきだす脚本になっているのだ。
 私が見たと思い込んだ三つのシーン。それは、その映像が含まれる映画を見たときに、無意識に「12人の怒れる男」を思い出していたということかもしれない。だから、そのそんなふうに、無意識に古い映画を思い起こさせるほど、ことばの骨格のがっしりした、強靱な映画なのだ。この「12人の怒れる男」は。(よくよく、三つのシーンを思い返すと、電車はなぜかカラーである。「12人の怒れる男」はモノクロだから、そこにカラーの電車が入り込むはずがないのだが、私は、そういうシーンがあると思い込んでいた。)

 そして、思うのだが、裁判というのは、たしかに「ことば」でおこなうものなのだ。どんな物的証拠(この映画では特殊な形のナイフ)さえも、それが「ことば」として「事件」のなかに正確に定着しないかぎり「証拠」にはならない。
 判決が常に膨大な「ことば」で事件を描写し、その背景を説明するのは、「ことば」こそが人間の考えと事実を結びつけるものだという思想によるものだろう。
 これは逆の方向からみると、「ことば」はいつでも「偏見・先入観」に支配されていて、「偏見・先入観」が「事件」をでっちあげてしまうということかもしれない。この映画では「スラム街」に対する「偏見・先入観」が描かれている。「移民」に対する「偏見・先入観」も出てくる。また、「家族」に対する個人的な事情が「先入観」になってしまうこともある、と指摘されている。
 だから、この映画は、「事件」を裁く、というよりも、12人の男たちが、自分自身のもっている「偏見・先入観」を少しずつ捨て去って、「ことば」を美しい形を発見する映画かもしれない。「ことば」は「事実」と結びついたとき「真実」にかわるのだ。「真実」はいつでも「ことば」のなかに存在するのだ。「ことば」のなかに存在できなければ、それは「真実」ではないのだ。

 そのことに気がついた瞬間、ラストシーンがとても美しくなる。
 少年に「無罪」の評決を下したあと、12人の男は街へと帰っていく。誰が誰であるか、互いに知らない--というのが陪審員の姿なのかもしれないが、この映画では、ヘンリー・フォンダと老人が名前を語り合う。告げあう。「名前」とは「個人」につけられた「ことば」である。名前を告げあう、というのは、そこにいる「個人」を「真実」の体現者として認め合うということなのだ。尊敬し合うということなのだ。
 二人は、評議のなかで「ことば」をやりとりして、そして、互いの「ことば」が「真実」になるという瞬間を体験した。そのよろこびを共有する形で、互いに名乗りあうのだが、これはいいなあ。ほんとうに美しい。
 この美しさはプラトンの対話篇そのものだ。



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リチャード・フライシャー監督「ミクロの決死圏」(★★★)

2010-04-11 09:17:00 | 午前十時の映画祭


監督 リチャード・フライシャー 出演 スティーブン・ボイド、ラクウェル・ウェルチ、エドモンド・オブライエン、ドナルド・プレゼンス

 「午前十時の映画祭」10本目。
 私はこの映画はスクリーンで見るのは初めてだ。そして、あ、モノクロじゃない、とびっくりした。学生時代、下宿の友人の部屋で少しだけ見た記憶があるが、そのときの記憶ではモノクロだった。なんのことはない。もっていたテレビがモノクロなので、モノクロ以外にありえなかったのだ。
 で、というのも変だけれど、その「モノクロ」につながるシーンに、ちょっとどきどきした。とてもとても、なつかしいなあ、これいいなあ、と感じたシーンがあったのだ。
 軍人たちがミクロになった医師たちをモニターしている。そのモニター画面。そこだけ、モノクロ。この映画ができた当時(1966年)は、科学室のモニターはまだモノクロだったのだ。うーん。うーん。うーん。そういう時代に、人間の体をまるごとミニチュアにして、体内に送り込むと発想するその想像力。
 いつでも、想像力は現実を超える。現実を超えるから、想像力か……。
 でも、まあ、いいかげんだよね。停止した心臓を通り抜けるのに、原子力潜水艦で1分。じゃあさあ、複雑な脳の内部から涙腺を探して、人間が泳いで、涙にたどりつくためにかかる時間は? おかしいよね。でも、こういう非科学的なところがSFの一番楽しい部分かもしれないねえ。
 このおもしろさ、わかるためには、たぶんモノクロテレビを知っているかどうかは、重要だろうなあ。なんて、思うのは、小さいとき(小学生のとき)、「あ、いま、テレビがカラーになった」なんて嘘を言った記憶があるからだろうか。「えっ、ほんとう?」姉がびっくりしてとんできたけれど、そういう嘘が通じたというのは科学の仕組みをだれも知らないからだねえ。66年よりも前に、カラーテレビのうわさはあった。もちろん、見たことはないのだが。
 高校生のとき、友人の家でカラーテレビをはじめてみた。そして、大人になったらカラーテレビを買えるだろうか、と思った。(私は当時はテレビが大好きだった。)そんな具合で、大学の下宿にもカラーテレビはあったが、友人の部屋にはなかった。モノクロテレビさえ、もっているひとは少なかった。そのテレビで、「ミクロの決死圏」をちらりと見た。
 あ、どんどん、映画そのものの感想から遠くなってしまう。
 でも、いいんだ。この映画は、私にとっては、そういうものなのだ。テレビの延長なのだ。映画である前に、テレビなのだ。初めて見たのがテレビだから、テレビを拡大して見ているという印象から逃げられないのだ。
 テレビ(ビデオ)で見た感動を大きなスクリーンで、というのが「午前十時の映画祭」のひとつのうたい文句のようでもあるようだけれど、そんなことは、ありえないなあ、と私は思う。テレビで見たものは、テレビの記憶がよみがえってくる。
 だからこそ。
 あのモニターのモノクロに大感激してしまった。科学も、まだまだモノクロの時代だった。コンピューターなんて、もちろんなくて、人体解剖図なんてものも、モノクロのプリントアウトしたもの。わあああっ。すっごくおもしろい。丸めた解剖図を棚(筒)にきちんと順番に並べて、必要に応じてそれを取り出すなんて、なんてアナログな世界。モノクロの案内図(?)にしたがって巡る体内は、カラー。赤い動脈の赤血球。青い静脈の赤血球。いいなあ、このギャップ。
 体内と外部の連絡だってモールス信号。なんだ、これは、だよね。
 傑作は、原子炉は縮小できないから、小さいんだ、といいながらも、その小さな原子炉自体、広辞苑くらいはあるからねえ。そんなもの、脳の中に入る? それ以前に、注射器の中に入る?
 嘘。うそ。嘘。うそ。でたらめ。
 でもね、そんなふうにして、嘘をつきたい、何かひとの考えていないことを考えてしまいたい、という気持ちそのものは、ほんもの。
 このほんものは、モノクロのモニターによって、とてもリアルになる。この映画の2年後の「2001年宇宙の旅」には、もうカラーのテレビ電話(宇宙と自宅を結ぶ)が想像され、映画になっているんだから、「ミクロの決死圏」のうそとほんものの落差は大きい。
 そこが、この映画の楽しいところだね。


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スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」(★★★★★)

2010-04-03 22:55:41 | 午前十時の映画祭

監督 スタンリー・キューブリック 出演 ケア・ダレー、ゲイリー・ロックウッド、ダグラス・レイン(HAL)

 「午前十時の映画祭」9 本目。
 これは、史上最大のはったり映画かもしれない。そして、映画は映像と音楽だということを完璧に証明する傑作である。
 きのう(4 月1 日)に感想を書いた「NINE」はミュージカルであるにもかかわらず、音楽が映画を壊してしまっていた。それとは逆に、この映画は音楽の力を最大限に生かしている。
 オープニングや宇宙船が宇宙を旅するシーンはほとんどが「モンタージュ」である。動画ではなく「写真」である。動かない。動きも、物が動くというよりも、カメラが近づいていくというような感じ。アクションではない。動いていても、狭い宇宙船内の空間を動くだけで、いまはやりの激しい動きの映画の対極にある。
 この「不動」の「写真」が「音楽」によって動いてしまう。音楽、音の連続した動きが時間をつくりだし、動いていない写真に命をあたえる。
 もし、この映画から音楽を取ってしまったら、この映画は30分も必要ないかもしれない。30分の映画が音楽の力で160 分になり、そしてそれが不自然ではない。こんな「はったり」ができるのが映画の力なのだ。
 「特撮」といっても、ほとんどが止まっている模型をカメラが接近していくことで動いているように見せかけるという、とてもシンプルなやりかたである。50センチの模型も大きなスクリーンに映せば50メートルを超す宇宙船になる。この「はったり」をクラシックの力で「本物」にかえる。偽物の模型を、本物のクラシックが巨大な実物に変えてしまう。完璧としか、言いようがない。
 後半のクライマックスだって、いいかげんだよなあ。宇宙の裂け目(亀裂?)を超スピードで移動する。そのとき見える光景。光の流れ。それって、本当? 分からないけれど、音楽が「本物」に変えてしまう。音楽の連続性が、いま、スクリーンにあるものが現実と連続したもの、本物、というのである。一瞬、そういうのではなく、鳴り響きつづける「時間」で、何度も何度も繰り返し、そう言い続け、「うそ」かもしれないものを「本物」に変えてしまう。観客に、受け入れさせてしまう。
 完璧な「はったり」、「はったり」の極地だね。



 30年ぶりくらいのHALとの再会で気づいたことが1 点。
 HALが記憶ユニットを外されながら「デイジー」の歌を歌う。私はこのシーンが一番好きだが、あれは、HALが自分の記憶を維持するために必死になって歌を歌っているのではなかった。勘違いだった。でも・・・。私は勘違いのままにしておきたい。HALには対抗手段がない。メモリーを外されるにまかせるしかない。このままでは死んでしまう。だから、最初に覚えた歌を必死に歌うことで、自分の記憶、機能を維持する。ね、涙が出るでしょ? 泣けるでしょ? はい、私は人間よりも機械の味方。そして、このシーンを思い出すたび、泣いていました。テープレコーダーの回転が遅くなるように、歌の点のが落ちて、音程がだんだん低くなる。それでも必死で歌う。けなげでしょ? かわいいでしょ? 抱きしめたくなりません?
 だから、私は、きょう見たシーンは見なかったことにします。HALが自分で、自分のために歌っている――そう思い続けることにします。
 それに、あ、このシーン、なんという短さ。私は、このシーンが30分以上あると思っていたけれど、実際は3 分もないかも。でも、やっぱり、30分のままにしておこう。このシーンが一番はらはらどきどきするんだもの。
 どっちが勝つか分かっているけれど、どっちが勝つ?とやっぱり思うからね。この不安、どきどきは30分は感じたいようなあ。



 それにしてもねえ。変な映画。映像なし(暗いスクリーン)に音楽で始まり、クレジットが終わってしまっても、まだまだ「美しく青きドナウ」が流れ続ける。映画は、映像ではなく、音楽? そんなことを思ってしまうくらい、音楽にどっぷり寄りかかった映画なんだねえ。「はったり」の3乗くらいの映画で、「はったり」もここまでやってしまうと、「はったり」を超越してしまうということかな。
 芸術って、はったりなんだなあ。
 大好きだなあ。


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