きのう私は「川」の最終連について書いた。「ある大学教師……」からはじまる6行を最終連と書いた。しかし、それは間違いである。その6行のあと、3行あいて、ぽつんと、
空気遠近法
という1行がある。これはなんだろう。これを再び「時間」と結びつけるのは、強引すぎるだろうか。
「空気遠近法」という詩もある。その全行。
やっと人間に出会ったと思ったら
彩画的な色彩主義
あのヴェネツィア派の画法は
消滅していて
空気遠近法だけが生きのこった
この海面下の地下道では
人間はいつでも透明な
少年のままである
その少年を透視しなければ
バロックの世界へ入っては行けない
これに先行する詩に「光りの縁取(ふちど)り」や「影の会話」という作品がある。そのなかにはアドリア海、ヴェネツィア、レースガラスなどということばがある。
「空気遠近法」は、そういうことばと関係がある。
「透明」という遠近法。ヴェネツィアの芸術に触れて、田村は、そういうものを感じた。「空気」には「透明」な遠近法がある、と。
そこで気になるのは「人間はいつでも透明な/少年のままである」という2行だ。「少年のまま」がとくに気になる。「少年のまま」というのは、そこでは「時間」がとまっているということだ。「時間」が止まった時に、そこに「空気」の「遠近法」が存在する。「もの」の配置による遠近法ではなく、ものとものとの間にある「空気」そのものの遠近法が成立する。ものとものとの間には、実は、時間がある。遠いところには「少年のまま」の時間がある。「少年」が意識されるのは、「手前」つまり近くが「少年」ではなく、「大人」(あるいは老人)だからだろう。
もうひとつ、気になる作品がある。「秋には色が見えてくる」。
木の葉が落ちる
人も人の心から落ちる
落ちてはじめて葉は春をむかえる支度をする
人の心は人から落ちてはじめて透明になる
心が透明になれば
色彩がくっきりと見えてくる
「人も人の心から落ちる」「人の心は人から落ちて」。この2行では、「落ちる」もの(主語と仮に呼んでおく)が違う。主語が2行では入れ代わっている。これはどういうことだろうか。
ふたつのもの、「人」と「心」は仮にふたつの存在として書かれているだけで、ほんとうはひとつかもしれない。それは「少年のまま」の人間のように、「いま」と対比した時にはじめて「遠近法」として浮かび上がってくるもののような存在かもしれない。ほんとうはひとつ。けれどそこに「時間」をおいてみると、ふたつにわかれる。少なくとも「遠近法」が成立するような形で、わかれて存在する。
それは逆に言えば「時間の遠近法」をその間に挿入しないかぎりは、深く結びついて「ひとつ」であるということでもある。その深い結びつき--深すぎて見えない結びつき、それが「透明」ということなのだろう。
透明なものに、本来「遠近法」はない。「遠近法」とは「視力」の世界である。視力は「透明」なのものを見ない。見えないから「透明」である。けれども「透明」ということばがあるように、それは「目」ではない何かを通してなら「見る」(認識する)ことができる。
目で見えない、けれどもなんらかの方法で認識できるもの。それには、いろいろある。「音」もそのひとつだ。そして「時間」もそのひとつだ。
「秋には色が見えてくる」--しかし、秋以外にも色はある。色は見えるのではないだろうか。秋の色は何が違うか。そこに「時間」が入ってくる余地がある。
--余地がある、としか、私には書けないけれど、そういう形でしか書けない(言い表すことのできない)ことばの動きが、「ワインレッドの夏至」のなかを駆け回っている。そういうものを感じる。
小鳥が笑った―田村隆一vs池田満寿夫 (1981年)田村 隆一かまくら春秋社このアイテムの詳細を見る |