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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(57)

2009-04-17 00:58:48 | 田村隆一

 きのう私は「川」の最終連について書いた。「ある大学教師……」からはじまる6行を最終連と書いた。しかし、それは間違いである。その6行のあと、3行あいて、ぽつんと、

空気遠近法

 という1行がある。これはなんだろう。これを再び「時間」と結びつけるのは、強引すぎるだろうか。

 「空気遠近法」という詩もある。その全行。

やっと人間に出会ったと思ったら
彩画的な色彩主義
あのヴェネツィア派の画法は
消滅していて

空気遠近法だけが生きのこった
この海面下の地下道では
人間はいつでも透明な
少年のままである

その少年を透視しなければ
バロックの世界へ入っては行けない

 これに先行する詩に「光りの縁取(ふちど)り」や「影の会話」という作品がある。そのなかにはアドリア海、ヴェネツィア、レースガラスなどということばがある。
 「空気遠近法」は、そういうことばと関係がある。
 「透明」という遠近法。ヴェネツィアの芸術に触れて、田村は、そういうものを感じた。「空気」には「透明」な遠近法がある、と。
 そこで気になるのは「人間はいつでも透明な/少年のままである」という2行だ。「少年のまま」がとくに気になる。「少年のまま」というのは、そこでは「時間」がとまっているということだ。「時間」が止まった時に、そこに「空気」の「遠近法」が存在する。「もの」の配置による遠近法ではなく、ものとものとの間にある「空気」そのものの遠近法が成立する。ものとものとの間には、実は、時間がある。遠いところには「少年のまま」の時間がある。「少年」が意識されるのは、「手前」つまり近くが「少年」ではなく、「大人」(あるいは老人)だからだろう。

 もうひとつ、気になる作品がある。「秋には色が見えてくる」。

木の葉が落ちる
人も人の心から落ちる
落ちてはじめて葉は春をむかえる支度をする
人の心は人から落ちてはじめて透明になる

心が透明になれば
色彩がくっきりと見えてくる

 「人も人の心から落ちる」「人の心は人から落ちて」。この2行では、「落ちる」もの(主語と仮に呼んでおく)が違う。主語が2行では入れ代わっている。これはどういうことだろうか。
 ふたつのもの、「人」と「心」は仮にふたつの存在として書かれているだけで、ほんとうはひとつかもしれない。それは「少年のまま」の人間のように、「いま」と対比した時にはじめて「遠近法」として浮かび上がってくるもののような存在かもしれない。ほんとうはひとつ。けれどそこに「時間」をおいてみると、ふたつにわかれる。少なくとも「遠近法」が成立するような形で、わかれて存在する。
 それは逆に言えば「時間の遠近法」をその間に挿入しないかぎりは、深く結びついて「ひとつ」であるということでもある。その深い結びつき--深すぎて見えない結びつき、それが「透明」ということなのだろう。

 透明なものに、本来「遠近法」はない。「遠近法」とは「視力」の世界である。視力は「透明」なのものを見ない。見えないから「透明」である。けれども「透明」ということばがあるように、それは「目」ではない何かを通してなら「見る」(認識する)ことができる。
 目で見えない、けれどもなんらかの方法で認識できるもの。それには、いろいろある。「音」もそのひとつだ。そして「時間」もそのひとつだ。

 「秋には色が見えてくる」--しかし、秋以外にも色はある。色は見えるのではないだろうか。秋の色は何が違うか。そこに「時間」が入ってくる余地がある。
 --余地がある、としか、私には書けないけれど、そういう形でしか書けない(言い表すことのできない)ことばの動きが、「ワインレッドの夏至」のなかを駆け回っている。そういうものを感じる。



小鳥が笑った―田村隆一vs池田満寿夫 (1981年)
田村 隆一
かまくら春秋社

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『田村隆一全詩集』を読む(56)

2009-04-16 00:47:43 | 田村隆一

 「川」という作品には西脇順三郎のような、誰もが知っているひとは出てこない。そのかわりに複数の人が出てくる。
 「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」「養老院裏の老絵描き」「マムシ沢の作曲家」「詩人」「大学教師」。田村と親しい読者なら、それぞれの人物は誰それのことである、とわかるかもしれない。私は、それが誰を指しているのかわからないので、そのことばのままに受け止めておく。
 その複数の人間が登場する作品の 3連目。

どんな人の心の中にも川は流れている
その川上には
きっと養豚場があって
何匹かの豚が脱走するかもしれない
脱走に成功した豚もいるかもしれない
失敗して屠場送りになった美しい豚もいるかもしれない
人は
心の中を流れている川に
どんな名前をつけるのだろう
夜半に目ざめてその川音を耳にしたとき
さかさ川
極楽寺川
二階堂川

自分の耳にささやきかけるのか

 この「川」が私には「時間」のように思える。ひとは、それぞれの「時間」を生きている。「心の中を流れる川」は、私には「時間」のように思える。
 それは田村と出会って、それぞれに「川音」をたてる。つまり、田村と出会うことで、「いま」「ここ」ではない「源」(川上)で起きたことを「いま」「ここ」に呼び出し、田村に語る。語るのは、いつでも「過去」のことである。体験したこと、つまりそれぞれのひとの「肉体」(肉眼・肉耳)が体験したことである。エピソードということばが体験の代わりにつかわれているが、それはそれぞれの「肉体」が「肉声」で田村に語ってくれたことである。
 このことばは、西脇の「カマキューラ」とは違うけれど、やはり独特の「音楽」である。つまり、それぞれの人間の「肉体」によって、変化したもの、その「肉体」が消化することによって、いくぶんか脚色されているかもしれない。
 そういう乱れ(差異--と、いえば現代フランス思想的になるかも……)を、田村は「名前」と呼んでいる。 

心の中を流れている川に
どんな名前をつけるのだろう

 「鎌倉」ではなく「カマキューラ」と名付けたように(呼んだように--呼ぶことは、他人から見れば、それに対する新しい「名付け」でもある)、不思議な音そのものの変化ではないけれど、それはやはり「音楽」なのだ。
 「名付け」を動かしているのは、一方に「意味」があるかもしれないが、もう一方には「音」そのものの美しさ、「音楽」がある。嫌いな音でひとはものに「名前」をつけたりはしいない。
 「川」の流れに「音」がある、「音楽」があるように、「名付け」の「音」にも「音楽」がある。そしてそれは「川」の流れのように、やはり「時間」をもっている。
 「自分の耳にささやきかける」という一行があるが、「音」は「肉耳」に働きかけるのである。「音」のなかで、ひとは、「いま」とは違う何かに触れる。そこにきっと「時間」がある。

 私の書いていることは飛躍が多すぎるかもしれない。論理的ではないかもしれない。飛躍したついでに、もう一度、飛躍してみよう。論理を吹っ飛ばして、ただ感じていることを書いてみよう。

 最終連。

ある大学教師がその最終講義でしずかに語ったそうだ
「私の夢は
煙草屋のおやじになって
ウツラウツラしていることだったのに
自動販売機ができてしまっては
もうどうしようもありません」

 私には、ここにも「時間」が書かれているように感じる。店頭でたばこを直接手渡しで売るという時代から自動販売機で売るという「時代」の流れ。そういう「一般的な時間(?)」とは別の、もうひとつの「時間」の「夢」がここには描かれている。

ウツラウツラしていること

 意識がぼんやりしている。ほとんど無意識。放心。そのとき「時間」は、何時何分という「時間」と消えてしまって、ただ「とき」そのものになっている。どこへでもつながる。どこへもつながらない。そういう宙ぶらりんの、ゆらぎ。
 --たぶん、というのは、またまた、大きな論理の飛躍になってしまうのだが、その「無・時間」の大きなウツラウツラとしたゆらぎは、この詩に登場する無名のひとたちとの接触の瞬間に似ている。
 「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」らとふれあう時、田村は、詩人や文化人と会う時の「時間」(文化的教養、その蓄積がつくりだす広がり)の構造、枠というものを、そのまま持ち込むことはできない。そういうものを捨て去って、無防備になって、彼らのことばを聞く。そして、そのことばの流れてきた「時間」を思いやる。彼らには、田村が触れ合っている文化人とは違う「時間」の流れがあって、その流れと田村は無防備で出会う。
 そうすると、そこに「音楽」がはじまる。
 「音」はそのとき「意味」にもなる。
 ジャズのセッションを私は思い浮かべるのである。「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」らはひとりひとり違った楽器をもっている。それは「鎌倉」とピアノが音を出すとすれば、それぞれの楽器はたとえば「キャマクーラ」という音を出すのに似ている。同じ主題を語っても「音」そのものが違い、そこから「音」を重ね合わせる楽しみが広がり、自然な運動になる。主旋律が変奏され、変奏されることで、いままで気がつかなかった旋律の奥にあるものが突然輝きだし、疾走する。そういう疾走を「意味」と呼ぶなら、「音」は出会うことで「意味」へと燃焼し、消えていく
 その運動の間、「時間」が、「無・時間」がそこに存在する。

 「川」を読みながら私が考えたことは、そういうことである。




誤解―田村隆一詩集 (1978年)
田村 隆一
集英社

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『田村隆一全詩集』を読む(55)

2009-04-15 01:01:19 | 田村隆一

 『ワインレッドの夏至』(1985年)には西脇順三郎が登場する。
 西脇はとても音楽的な詩人だったと私は思う。「夏至から冬至まで」という作品で、田村は西脇の不思議な「音楽」(音)について書いている。

カマキューラの山々なども白く」
とJ・Nは
鎌倉をカマキューラと発音したが
その秘密がやっと分かった

 その秘密とは。
 西脇の連れ合い、マジョリイと関係がある。田村は西脇がマジョリイと海岸を歩いているのを見た--というF先生の話を聞く。カマキューラと最初に発音したのはマジョリイである。西脇はその「音」をおもしろいと思い、それを詩にしたのである。
 日本とイギリスの出会い。異質なものが出会うと、そこにはなにかしら不思議な変化がおきる。鎌倉はカマキューラになる、というふうな。
 このとき、この変化のなかに起きていることはなんだろうか。
 異国の出会い、というだけではなさそうである。空間の出会いだけではなさそうである。

 「時間」の「未消化」ということを、私はきのう書いた。私は、かなり飛躍した見方になることを承知で書いているのだが、田村は、この西脇のなかの「音楽」に触れて、「空間」ではなく、「時間」に触れているのだと思う。

 「ワインレッドの夏至」という作品は、「Ambarvalia」に出会った時のことを書いている。
 そのなかに、次の行がある。

それから
ワインレッドの色は
ヨーロッパにひろがりはじめ
一九四一年は北半球のほぼ全域を染めあげる
大戦が三千万の死者と廃墟と死語を遺して夏の嵐のように過ぎ去っていったが
僕のワインレッドの不思議な詩集も
灰になった

その灰の中から
ぼくの戦後の青春がはじまったが
ワインレッドの詩人は
ホメロス以来の文学文明にあらわれた憂鬱の諸形式を脳髄に刻みつけて
憂鬱の熟成にむかう
新潟小千谷(おぢや)から江戸への文明のシルクロードは
ロンドンのキューガーデンへ
そしてイタリアの庭へと
長安からギリシャへと言語空間のシルクロードまでひろがり
その詩には
絵画的な光りがきらめき
油彩と水彩と水墨から
ふるえる野が誕生する

 「絵画的」ということばがある。そして、さまざまな土地を駆け抜けることばのために、この西脇論は、「空間的」に見える。一見、「空間的」である。けれど、田村は、どこかで「時間」を感じているのではないだろうか。西脇のことばの運動が「時間」と交差していると感じているのではないだろうか。
 ここには地名と同時に、「時代」が描かれている。「戦後」「ホメロス」の時代、「江戸」「シルクロード」の時代……。
 「空間」が出会うと同時に「時代」も、つまり「時間」も出会っている。そして、「場」の出会いが「絵画的」だとするなら、「時間」の出会いこそ、「音楽的」というものではないかと思う。
 西脇は外国語に触れた時、「音楽」を感じていたのだと思う。音そのものの中にある不思議な何か。音はつながってことばになる。そのつながりのなかに「時間」が潜んでいる。絵画はあくまで「平面」(空間)としてつながっていく。しかし、「音」はやはり「空間」に広がりはするけれど、その広がりは「平面」ではなく、「時間」として広がり、消えていく。絵画と違って「音」は消えていく。それは、「時間」は消えていくということでもある。
 「時間」が消えるから、かけ離れたものは、何の障害もなく、「いま」「ここ」で出会う。「鎌倉」ということばが「キャマクーラ」と出会うように。

 そんなことは、どこにも書いてない。--たぶん、多くのひとは、そういうだろうと思う。私の書いていることは、完全な「妄想」の類。度を越した「誤読」だと。

 もしかすると、私が西脇の詩について感じていることを、私は田村を利用して(?)語っているだけなのかもしれない。そうだとしても、田村のことばにも、田村が西脇から「時間」と「音楽」を感じ、そこに何かを見出していたという行が、はっきりと存在する。「ワインレッドの夏至」の最終連。

古代的歓喜から
近代的憂鬱へ
二十世紀の
世紀末の

へと旅した詩人の声は

を活性化し多声化しながら
諸生物の夏の
喊声を
よびおこす

 「古代」「近代」「二十世紀」と「声」(音)、そして「多声化」。音楽がぶつかりあいながら、音楽を破壊し、音楽を生成する。
 「鎌倉」が「カマキューラ」だって? そんな「音楽」があるか? ある、と私は思う。そして、そこで鳴り響くのは単に「声」だけではなく、人間が生きてきた「時間」なのだと、思う。「音楽」は「時間」の「肉体」である、と私は思う。
 空間的存在を把握するためには「肉眼」が必要だったように、田村は西脇の「音楽」を通して「肉耳」にであっている。そこに「時間」がある。





ワインレッドの夏至―田村隆一詩集
田村 隆一
集英社

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『田村隆一全詩集』を読む(54)

2009-04-14 00:38:51 | 田村隆一

 「待合室にて」には未消化のことばがある。人間の<物>性について考えつづける田村が、語ろうとして語りきれていない奇妙なことばがある。<物>の対極にあることば。「時間」。
 最後の方の部分。

「うがいをしてください」
ぼくは治療酔うの寝椅子からとびおりると
「時間」のなかに帰って行く
「つぎの月曜日の午後三時においでください」

 ここに書かれる「時間」は単なる「日時」である。だが、田村の書きたいのは「日時」ではない。「日時」ではないのに、「日時」から書きはじめるしかなったのは、田村の「時間」思想が<物>思想ほど鍛練されていないということだと思う。
 田村は、診察室から待合室に戻り、「大型の画報」にふたたび見入る。そして、

飛行機事故もホテルの大火災もテロも暴動も
飢えも貧困も
多色刷りの絵にすぎない
ここには「時間」が欠けている
「時間」が欠けているなら
「時間」から脱出することも追跡されることもないわけだ
白い空間と
縞模様のラテン音楽

 ここに書かれている「時間」は「日時」ではないか田村は「日時」ではない「時間」について語ろうとしているが、「日時」からはじめたために、奇妙にずれてしまっている。「時間」が未消化のまま、放り出されている。

飛行機事故もホテルの大火災もテロも暴動も
飢えも貧困も
多色刷りの絵にすぎない
ここには「時間」が欠けている

 もし、この「多色刷りの絵」が「時間」をもっていたら何になるか。それはきっと<物>である。<物>から「時間」が欠け落ちると、それは「絵」になってしまう。
 「時間」は<物>のなかにあって、<物>はまた「時間」のなかにある。<物>は「時間」を超越して全体的な<物>、つまり詩になる。そのときの「時間」というのは「日時」ではない。<物>の運動の領域のことである。運動にはかならず「時間」が必要である。運動することによって「時間」は広がる(数えられるものになる)が、同時に「時間」は運動のなかで凝縮もする。運動が加速すると「時間」はどんどん短縮する。<物>は時間のなかではげしく運動し、時間そのものを無限からゼロに還元し、それはゼロになった瞬間に無限になる。
 そういう矛盾→解体→生成が「時間」の本質だが、田村は、この詩ではまだきちんとことばにできていない。ただ「時間」というものを抜きにして、人間存在の思想は語れないと気づき、それに手をかけている--という感じである。

 最終連に

ぼくは「時間」を所有するために
あるいは「時間」に所有されるために

 という2行がある。
 この「あるいは」は、所有することとと、所有されることの間に区別がないことを証明している。無時間と無限が<物>の運動によって、ひとつになる。
 だが、田村は、まだそれをどう書いていいのかわからない。だから、「笑い話」のようにして詩をとじている。

ぼくは「時間」を所有するために
あるいは「時間」に所有されるために
ゆっくりとソファから立ち上がり
何気なくふり返ると
待合室の隅でうずくまっていた
暗緑色の<物>が
車輪のごとくはげしく回転しながら
治療室のなかに飛びこんでいった

 <物>とは絶対的な人間、詩人、詩であったはずだが、ここでは単なる凡人として描かれている。凡人の比喩になっている。<物>がそういう状態になっているのは、実は「時間」がまだ「思想」になっていないためである。思想になっていない「時間」に影響されて、<物>も思想以前に引き戻され、カリカチュアされているである。
 
 すべては、未消化の思想が引き起こしたことばの乱れである。




砂上の会話―田村隆一対談 (1978年)
田村 隆一
実業之日本社

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『田村隆一全詩集』を読む(53)

2009-04-13 01:54:32 | 田村隆一

 「物」は、さらに多くの詩に登場する。「冬休み」。

おれは「物」だから
夏休みはいらない
人類には夏はつらいことだろう
七月八月の二カ月くらいは
人類はたっぷり夏休みをとるべきだ
「物」と遊べ
「物」から学べ
「物」の意味
その光りとリズムが分ったら
人間存在の悲惨と滑稽が身にしみるだろう

 これは、田村は「物」となって、「物」と「交感」しているという宣言である。「交感」とは「物」の「その光りとリズムが分」かることである。「交感=分かる」である。そして、その「分かる」は「意味」が「分かる」ではない。「光りとリズム」。その色と音が「分かる」である。色と音をつかまえるのは「意味」(観念)ではなく、「肉体」である。「眼」(肉眼)であり、「耳」(肉耳、と呼んでおこう)である。「肉眼」「肉耳」が「物」と「交感」する。そのとき田村は「人類」ではなく、「物」になる。

 「所有権」にも、「物」としての田村が出てくる。

おれは<物>だから
六十歳の<物>だから
とっくに減価償却はすんでいる

 そして<物>であることを再定義して、次のように書く。

おれは<物>だから
詩そのものだ
おれの言葉は所有権者どもの言葉では
ない

 <物>が「詩」である。<物>とは「肉体」(肉眼・肉耳)であり、それは「物」と「交感」し、「物」を「分かる」存在のことである。詩とは「物」との「交感」のことであり、その「交感」を記録したことばが詩であるから、そのことばは「所有権者どもの言葉では/ない」。こういうときの、「ない」の1行は、強調である。
 ことばであるかぎり、それは次のような誤解を招くかもしれない。

所有権者どもには
おれの言葉が
悲鳴に聞こえたり
鼻唄に聞こえたりしたかもしれないが

 だが、それは錯覚である。詩は、所有権者の理解を超えた存在であるか。詩の絶対性、超越性を田村は、次のように書いている。

おれの舌は
あらゆる国境を 砂漠を
七つの海を 五つの大陸を飛び越えて
地の果て
海の彼方まで
どこまでものびていって

おれは
<物>の言葉だけで
喋りつづけているのさ

 これは、詩の、絶対的超越性の宣言である。
 おもしろいのは、この絶対的超越性を田村は「奴隷」という、いわば否定的な人間のありようと結びつけていることである。否定されるものと結びつけて、崇高なものを語っている点である。
 この逆説、矛盾のありかたこそ、田村が矛盾→止揚→発展という形の運動をめざしていないことを明らかにしている。田村のことばがめざしているのは矛盾→解体→生成である。



奴隷の歓び―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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『田村隆一全詩集』を読む(52)

2009-04-12 00:00:39 | 田村隆一

            (51、の補足として。あるいは51の最後の部分の改訂)

 <物>は「人間」である。というより、田村は「人間」を「物」としてとらえたい願望を持っている。「人間」を「物」としてとらえたい--というとき、それは「観念」に変質する前の状態としてとらえたいということである。
 人間は「肉体」と「観念」でできている。そこから観念をはぎりと、「人間」だけにしたい、という欲望を生きているということもできる。「肉体」に出会いたい。「肉眼」になりたい、という欲望を生きている、と言い換えることもできる。

 きのう読んだ「物」の最後の方の部分。

<物>に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
<物>の音と光りと色彩が沸きたっている

 この<物>は「人間」と置き換えることができる。

「人間」に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
「人間」の音と光りと色彩が沸きたっている

 そして、このとき「音と光りと色彩」は「観念」である。「抽象的な情報市場」の「情報」と呼ばれている「観念」、そのさまざまな形態。そこには「肉眼」と「肉体」がないのである。「肉体」「肉眼」の不在がある。
 けれど、その「肉体」「肉眼」の不在を通してしか、田村は「人間」そのものに会えない。出会えない。
 「肉体」「肉眼」の「不在」--その「不在」を破壊し、解体してしまうことが「肉眼」になることなのだ。そのために「詩」を書いている。
 いつでもそうなのだが、田村のことばは、「矛盾」のなかで輝いている。「不可能」のなかで爆発している。

 「物」の最終連。

昨夜は<物>のために詩を読んで聞かせてやったのに
きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり

 「詩」を「人間」のために読んでやる。「観念」に汚染された「きみ」のために詩を読んで聞かせる。すると、

きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり

 これは、実は逆説に満ちた「肯定」である。「きみ」の姿を肯定している。ここに田村の「夢」がある。田村は田村のことばを「ギリシャ奴隷」のように受け止めてもらいたいと夢見ている。「ギリシャ奴隷」と定義されているのは、「祝福」「罰」と無縁の、「鞭の痛みを感じられる」「皮膚」をもった「いのち」のことである。
 「きみ」は、「観念」とは無縁のまま、田村のことばと「交感」しているである。「あかるい目」で「交感」している。「肉体」「肉眼」で「交感」している。

 これが実際にあったことか、なかったことかわからないが、いずれにしろ、それが田村の至福の一瞬である。

 人間を「物」の状態に還元したい--人間を「物」として書きたいという欲望は、『奴隷の歓び』にあふれている。「帽子の下に顔がある」の書き出し。

<物>Aが
細くて暗い急階段をのぼって
<物>Rの寝室に入ってきたのは
昨日の夕方だった

 このときの<物>は書かれていなくても、その内容というか、書かれていることがらにかわりはない。「意味」にかわりはない。

Aが
細くて暗い急階段をのぼって
Rの寝室に入ってきたのは
昨日の夕方だった

 と書き直しても、「意味」にかわりはない。
 だからこそ、「わざと」書き加えられている<物>という表現に「詩」がある。田村の思想がある。
 なんとしてでも「人間」を「肉体」「肉眼」の状態に解体したいという欲望が、この<物>に潜んでいる。

おれたちは
あくまで天動説の世界を生きている
太陽は東から昇り西に沈む
肉眼で見えるものだけがおれたちの
論理の根拠だ

 「人間」は「観念」の操作で「真理」をつかみ取る。たとえば「地動説」。たしかに、それは「真理」である。だが、人間にとって必要なのは「真理」だけではないだろう。「真理」を超えた「誤謬」が人間には必要な時もあるだろう。
 「真理を超えた誤謬」というのは「矛盾」である。そんなものは存在しないのだけれど、そういう矛盾でしかいいあらわせないなにかが人間を突き動かす。そしてその「真理を超えた誤謬」をつかみ取るのが「肉眼」「肉体」なのだ。
 「真理を超えた誤謬」にたえとば、「恋」がある。「恋歌」のなかの、「男奴隷の歌」の最後の部分。

それでも
恋がしてみたい
それでも愛をささやきたい
言葉なんか無用のもの
目と目で
生命が誕生するだけ

 「目と目で」は「肉眼」と「肉眼」の出会いである。そこから「生命」が誕生する。「肉体」が交わる時、「肉体」を超越した「交感」がある。それは「生命の誕生」という「真理」に結びつくのだが、その前に、「肉体を超越した交感」という「誤謬」がある。その「誤謬」なしに、いのちは誕生しない。

 詩に悲しみがあるとすれば、それは、ことばでことばを否定しないことにはことばにたどりつけない、ことばの「肉体」、ことばの「肉眼」にたどりつけない、という「矛盾」を生きるしかないということだ。
 「言葉なんか無用」と、詩人はことばでいうしかないのである。


毒杯―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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『田村隆一全詩集』を読む(51)

2009-04-11 00:02:39 | 田村隆一
 『奴隷の歓び』(1984年)に「物」という作品がある。「奴隷」を「物」と定義している。「奴隷」とは何か。「物」とは何か。田村の「定義」は何を言おうとしているのか。

神は
奴隷を人の子として創造しなかったから
祝福も罪もあたえはしない
都市(ポリス)は
奴隷に市民権をあたえるなど夢にも考えつかないから
物量として扱う

 「祝福も罰もあたえはしない」。「祝福」「罪」と無関係なもの、断絶した存在が「奴隷」であり、「物」ということになる。
 この「祝福」と「罪」は別なことばでも書かれている。

紀元一世紀から奴隷社会の崩壊がはじまる
奴隷から濃度へ
物から人へ
物だけが所有していた純粋な歓びも涙も
政治的社会的存在の複合観念に変質する
物が歓びの声を出すのではない
観念が音を出し
水のようなものを目から流すのだ

 「祝福」「罪」と無関係なもの、「純粋な歓び」「涙」。この「純粋な」ということばは、それが「神」からあたえられたものより上位である、絶対的であるということをあらわす。その「純粋」な歓びと涙が「人」になったとたんに消えてしまう。
 「人」と「物」を区別するのは「観念」である。「物」は「観念」をもたないのに対し、「人」は「観念」をもつ。そして「観念」をもったときから「純粋」ではなくなる。「観念」が歓び、「観念」が涙を流す、つまり悲しむ。
 田村は、「観念」に汚染されない(?)状態を「理想」としている。
 「奴隷」「物」は、「観念」に汚染されていない純粋な何かの象徴である。「観念」に汚染されない状態とは「肉体」(肉眼)のことである。
 弁証法は矛盾→止揚→発展という運動の軌跡を描くが、田村は、矛盾→解体→未分化という運動を描こうとしている。未分化の状態に人間を立ち返らせるために、ことばを動かしている。未分化の状態のひとつが「肉眼」であった。
 「奴隷」「物」の礼賛は「肉体・肉眼」の礼賛と同じ意味になる。

 「物」であること、「肉眼」であることとは、どういうことか。それは、いったいどんな関係をつくりあげることができるというのか。田村は何を夢見ているか。

ヘレニズム時代のギリシャ奴隷のテラコッタ像の写真を見た
(略)
この立像の側面からは
<物>の両眼は見えないが
遠くを見つめている感じだけは分る
いったい何を見つめているのか
何が見えたのか
無名の<物><物>との交感は
可能なのか

 「交感」。しかも「物と物との交感」。
 田村は、観念によって人間と人間が、その間に何かを作り上げるということをめざしていない。「交感」すればいいのである。「交感」が夢なのである。「交感」こそが「祝福」と「罪」の入り交じったものなのだ。歓びの瞬間、歓びの時間なのだ。(ここから、セックスの意味も出てくるが、ここでは省略する。)
 現代人は観念によって「人」と「人」が交流するのに必要なものを生み出し、その新しい物によって人間関係を強固にする。しかし、田村は、あるいは詩はといった方がいいのか、詩は、交流ではない。交感なのだ。田村は、交感へ向けてことばを動かす。そのためにあらゆる既存の「交流」を破壊しようとする。
 田村が常に矛盾を利用し、その矛盾そのもの、矛盾をつくりあけている存在と、その存在形式を解体しようとするのは、交流ではなく、交感を理想としているからだ。交感は、未分化の領域でおきる。交感とは、互いの越境、侵入のことである。それが可能なのは、未分化の領域においてである。

 だが、これは現代においては非常に難しい仕事だ。すでに「物」が大量にあふさ、「物」を媒介にして「交流」のしっかり築き上げられているからである。「物」は「奴隷時代」とは変質してしまっている。

<物>に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
<物>の音と光りと色彩が沸きたっている

昨夜は<物>のために詩を読んで聞かせてやったのに
きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり

 この「物」の変質があるからこそ、田村は「奴隷」を引き合いに出してきたのである。「奴隷」という現代では否定されているものを通ることで、矛盾→解体→未分化という運動を描こうとしているのである。「奴隷礼賛」はあくまで、現代の「変質した物」を解体するための起爆剤である。

奴隷の歓び―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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『田村隆一全詩集』を読む(50)

2009-04-10 01:08:54 | 田村隆一


 「悲しきサムのための酒場」。この詩のなかで、「場」は大きく変わる。1連目の書き出し。

もう十年以上になる
ホノルルのシナ人の町を歩いていたら
酔っぱらった水兵たちが
三階建ての淫売屋から出てきた
ウイスキーをラッパ飲みしながら
女たちにキスをしてさ

 そこから

生殖そのものは商品にならないが
生殖器だけは商品になる

 というようなことを考え、歩いているうちに「悲しきサムのための酒場」というバーを見つける。だが、そのバーはしまっている。
 そういうことを書いたあと、連がかわって、酒場は日本の「未来」という店になる。「場」が変わっていく。そこでは田村は階段を二度転げ落ちた友人のことを書いている。そして、そのあと「風雅」にいて書き、定家の『明月記』を見よ、と書いて、もう一度「場」が変化する。

昨夜 夕刊の文化欄のコラムを読んだら
ポール・ヴァレリイ晩年の未発表の書簡が約千点 モンテカルロで競売された
スイスのベルン大学バルツェル教授が確認したというヴァレリイ書簡の四分の三は
ジャンヌ・ロヴィトン夫人宛のもので
フランス国立図書館とヴァレリイの生れ故郷
地中海にのぞむセートの市立図書館が落札したという

 この変化が、突然、ヴァレリイが出てくる変化が、私はとても好きである。
 それまでの各連には「酒」あるいは「酒場」という共通項がある。「場」は変化しているが、そこには「共通」するものがある。ウィスキー。酔うしかない人間の肉体と精神の拮抗がある。肉体と精神は、もしかすると田村のなかでは、矛盾→止揚→発展という運動ではなく、解体・和解という運動の補助線のようなものなのかもしれない。
 世界があり、現実があり、そこに肉体がある。そして、そのとき動く精神が、肉体とうまく和解しない。肉体と精神をわけているものが(対立、矛盾させているものが)なんなのかわからないが、その対立を解体するものとしてウィスキーがある。ウィスキーによって、田村は肉体も精神も蕩尽させる。その瞬間に、場が融通無碍に動き、ベクトルだけが残る。
 その蕩尽の果て、ウイスキーが消え、突然、ヴァレリイが登場する。
 このとき、蕩尽したのは、「肉体」であろうか。「精神」であろうか。
 ヴァレリイに引きつけられると「精神」という「答え」(?)に落ち着きたくなる。田村は、ヴァレリイを描写して、あるいはヴァレリイの書いた『テスト氏との一夜』を批評して、

自意識の純結晶
知性の極北

 という行も書いている。
 人間のことばの運動のあとには純粋な精神が残るのだ。精神こそがベクトルのエネルギーである、という結論をひきだしたくなる。
 でも、ほんとうなのだろうか。
 落札された書簡はラブレターだったと紹介したあと、詩は、もう一度突然、変化する。突然、マラルメのことばが引用される。

ヴァレリイの悪魔の師マラルメは歌った--
「肉体は悲しい」

 この、唐突の飛躍と、中断。(詩は、ここで終わる)。
 「肉体は精神に捨てられる」から「悲しい」と、マラルメは言ったのか。--いや、マラルメがどういったかではなく、田村が、そのことばをどうつかみ取っているのか、それが問題なのだ。
 「肉体は悲しい」。それは精神に捨てられるからか。あるいは、精神を捨てても捨てても、精神は生き残りつづける。だから、いつまで経っても肉体と精神の矛盾、対立、解体・破壊しながら「いのち」へ逆流する運動は終わらない。だから、「悲しい」と言ったのか。
 後者である。
 精神は蕩尽しつくせない。「肉体」は純粋に「肉体」そのものにはなれない。その悲しみ。いつも精神に汚染されるしかない「肉体」の悲しみ。田村の詩をつらぬくものは、その悲しみである。「肉眼」になりたいと渇望するが、「肉眼」にはなりきれない。かならず、そこに「精神」が入り込む。
 その「精神」を捨てるために、田村はことばを書いている。詩を書いている。私には、そんなふうに思える。



あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

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『田村隆一全詩集』を読む(49)

2009-04-09 01:17:09 | 田村隆一

 「千の眼」。これは、逆説である。ヘイリー・ミラーのことばを田村は引用している。そのなかに「千の眼」ということばがでてくる。

子宮の天国と友情の天国との相違は、子宮のなかではひとは盲目だということである。
友だちはきみに、インダラ女神のように、
千の眼を与えてくれる
友だちを通して、無数の人生を経験する。
違った次元を見る。

 「千」は「無数の人生」の「無数」と同じである。「無数の人生」の「無数」はまた「違った次元」と同じ意味である。
 だが、その「千」「無数」はまた「ひとつ」でもある。「千」「無数」は出会いながら、そのひとつひとつを消していくのである。
 田村が、あるいはヘイリー・ミラーが「友だち」にあう。そのとき、田村は田村でなくなる。ヘイリー・ミラーはヘイリー・ミラーではなくなる。田村が消される。ヘイリー・ミラーが消える。いいかえると、「友だち」を通して、生まれ変わる。「友だち」に出会うたびに、田村は、ヘイリー・ミラーは生まれ変わりつづける。生まれ変わるから「別の人生」を、「違った次元」を見ることができる。見ているのは同じ「肉眼」である。
 「友だち」(他人)は、「目」を否定し、破壊し、「肉眼」をめざめさせる。「目」は盲目である。その「盲目」の「目」が叩き壊され、「肉眼」として生まれ変わりつづけるとき、その「ベクトル」としての運動は、ジグザグか一直線か、あるいは複雑な曲線化もしれないけれど、「ひとつ」である。「ひとつ」であるから「ジグザグ」「一直線」「曲線」と名付けることができる。

 それは、つながっている。

 矛盾しているようにだが、田村は、ヘイリー・ミラーは、次々に否定され、破壊され、生まれ変わることで、「千」と「無数」、「違った次元」とつながるのである。それはしかし、矛盾→止揚→発展という軌跡としての「ひとつ」ではない。拡大していく軌跡ではない。むしろ、縮小していく軌跡である。ゼロになっていく軌跡である。
 ゼロになったとき、「ひとつ」になる。
 --私には、矛盾した言語でしか語れないが、そういうものがあるのだ。
 この「ゼロ」を田村は、芭蕉と西脇順三郎を例に、「乞食」ということばで語ってもいる。

松尾芭蕉も西脇順三郎も
詩人になるためには乞食にならなければならないと本気で考え
日夜研鑽したヒーローだった
乞食になるために彼等がどれほど苦労したかわからなかったというエピソードを読むと
乞食が詩人になれるわけがないことがよく分かる

 「乞食」が詩人なのではなく、「乞食」ではなかったものが「乞食」になると詩人なのである。自己否定し、破壊し、「ゼロ」になる。その限りなく「ゼロ」に近い「場」をもとに生まれ変わるとき、それは「千」の「眼」の「肉眼」になって、世界をとらえ直す。その「肉眼」を通ったことばが詩である。
 この「ゼロ」を「無」と言い換えると、東洋哲学に近づきすぎるだろうか。

 だが、どんな哲学も、似た形態をとるのだろう。それをあらわすことばが、それぞれに違うけれど、どこかで共通するのだろう。



泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

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『田村隆一全詩集』を読む(48)

2009-04-08 00:00:10 | 田村隆一
 「「つるべ落し」注釈」という作品がある。

「七里が浜より夕陽を見る」という
短詩を鎌倉のタウン誌に書いたことがある


 という2行ではじまる。長い詩である。そして、肝心の(?)「つるべ落し」は出てこない。
 2行のあと、ことばは夏にもどる。


夏には
諸生物の性の歓声で渚は満たされているばかり
おれは
足音をしのばせて古い民家の路地裏ばかりを歩いたものさ


 途中省略して、2連目の書き出し。

人間の精神はおれが生まれた一九二〇年代で崩壊しはじめている
小動物や海鳥や魚たちに歴史がないのは神のイロニイかもしれない
進化だけあって歴史がない
ということは
ダンテの「地獄篇」だけしか読まない青年にとって
すばらしい倦怠かもしれない。


 これが、「注釈」? 「つるべ落とし」となんの関係がある。ことばは方々動き回って、居酒屋で「ぼく」は老医師と出会う。


ふるえる手で安ウイスキーを飲んでいたっけ
あれでは静脈注射だって打てないだろう

 という感慨にまでたどりついて、そのあと、とつぜん「つるべ落し」が出てくる。そして、最後は、

つるべ落し
鎌倉には十二世紀以来の
十井があるけれど
どの井戸にも もう
つるべなんかはありはしない

ぼくは深い井戸をこわごわと覗くように
人間の魂の在りかに
触れてみたい
そこに
どんな夕陽が 赤光が
どんな炎が 沈黙が

つるべ落し 

 どこが「注釈」? 井戸が10ある、ということが?

 「注釈」の「意味」が違うのである。広辞苑では「注釈」を「注を入れて本文の意義を解きあかすこと」と解説しているが、田村にとって「注釈」とはそういうものではない。本文の意義を解きあかすというよりも、本文に近づかないまま、本文を解体することが注釈なのである。「意義」を解きあかすことではなく、「意義」を拒絶し、逸脱していくことが注釈なのである。
 「つるべ落し」から、いったいどれだけ遠くまでことばを動かすことができる。
 完全に離れししまったとき、それは実は「つるべ落し」の背後から、その内部を突き破っているということがあるかもしれない。田村は、そういう運動を狙っている。

悪はエロチックで肉感的だった
善はダイナミックで非実在だった

という箴言や、

ぼくらの世紀末には
精神も肉体も病むことを知らない
病めの花が「悪の華」という珍奇な題に訳されたのも
そのせいだ

 という感想が書かれる。
 「つるべ落し」とどれだけ「無関係」なことを、無関係なまま、ことばの運動として存在させることができるか。そのときの破壊の力、それが「注釈」である。「注釈」とは破壊する力のことなのである。
 あらゆることばとって、それが何を注釈するかはどうでもいいことである。何かを注釈すれば、ことばに意味が出てくるのではない。ことばは何かに従事してはいけない。従事することを拒絶し、それ自体で動いていかなければならない。
 じっさい、田村のこの作品のことばがおもしろいのは、それが「つるべ落し」を注釈しているからではなく、それとは無関係であるからだ。どこへ動いているのか、そのベクトルの方向さえわからない。けれども、そのエネルギーの炸裂の力自体は、どの行も非常に強い。この混沌とした矛盾--それが、田村の詩なのである。

あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

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『田村隆一全詩集』を読む(47)

2009-04-07 00:00:05 | 田村隆一
 
 『陽気な世紀末』(1983年)を読む。
 田村のことばは何かを目指さない。何度か書いてきたが、田村のことばは弁証法のような矛盾→止揚→発展という運動の軌跡を描かない。矛盾そのものを破壊する。矛盾というのは、それぞれにあるベクトルを持っているからこそ矛盾する。矛盾を破壊するとは、言い換えれば、存在をきまった方向のベクトルから解放することである。
 「個室113」には「個室113は鎌倉御成町の佐藤病院の部屋」という注釈がある。入院した時の田村の自画像が書かれている。

花は植物の生殖器である
蜂蜜が飛んでくるのはそのせいだ
ときには
黒い揚羽蝶がゆっくりと生殖器のまわりを旋回する
おれは植物ではない
かろうじて地の上に立っている小動物にすぎない
おれの願望は
蜜蜂になること
黒い揚羽蝶になることだ 

おれは
花の蜜のかわりに
トマト・ジュースを飲み
日が暮れるとギネスを飲む

 この書き出し。1連目と2連目。その連を区切る1行空きに、私は、田村の詩を感じる。その断絶に詩を感じる。
 1連目では、花の生殖のことが書かれている。蜜蜂や黒い揚羽蝶は花の生殖を媒介している。自然の摂理を「生殖器」ということばをつかって書くというのは、そんなに風変わりなことではない。1連目は、いわば「流通言語」ともいうべきものだ。この、いっしゅの安定した世界を田村は2連目で破壊する。
 「蜂蜜」は「花」と「生殖器」をひきずっている。「蜂蜜」から「トマト・ジュース」への動きも、なんとなく自然に感じる。蜜蜂や揚羽蝶が蜂蜜を飲むのに対して、田村はトマト・ジュースを飲む。朝の、病室の、ごくありふれた患者の生活である。
 そこへ、突然「日暮れになるとギネスを飲む」ということどはがやってくる。「ギネス」とはもちろんビールである。病院に入院している患者がビールを飲んではいけないということもないのかもしれないが、田村が病人ではないと仮定しても、このトマト・ジュースからギネスへのことばの動きはかなりかわっている。
 何かがいっきに逸脱する。

 書き直そう。
 1連目。
 花→生殖器、蜜蜂(黒揚羽蝶)→蜂蜜、生殖。この関係は、いわば、花と昆虫は互いに矛盾するもの(一方は蜂蜜をあたえ、他方は蜂蜜をもらう、という逆向きをベクトルで表現できる運動)である。その矛盾が出会い、止揚して、そこに「生殖」というものが誕生する。いわば弁証法の運動である。
 2連目は、その花とトマト・ジュースを下敷きにして、さらに自然の「生殖」に関する世界を描写するかというと、そうではなく、「生殖」に関することから一気に離れてしまう。花と昆虫の弁証法を書いてことなど忘れてしまったかのように、違うことを書きはじめる。
 こういう脱線というか、逸脱は、「科学」とは無縁である。そういう逸脱をした瞬間に、ことばの運動は「科学」から逸脱する。また、「散文」の運動からも逸脱する。つまり、詩になってしまう。
 ことばが描きはじめた弁証法を破壊するために、田村のことばを動きはじめる。
 詩は、つづく。

小動物のなかでも
おれくらい不器用なものはあるまい
ビールの栓はぬけるがワインのコルクは苦手だ
果物はバナナとミカン
これだったら不器用な手でも間に合う

 もう、「生殖」のことは、どこにも出てこない。しかし、田村が「生殖」のことを忘れてしまっているかというと、そうではない。
 2連目の最後の3行。

南半球へ逃げ込んだって
カトリックとイスラムの国が多いから
ヌードの写真にはお目にかかれないだろう

 生殖器は、生殖という機能(?)、弁証法的発展から解放されて、「ヌード」という性にかわっている。
 「生殖器」を「性」に解体してしまう、「いのち」の無軌道な放蕩、蕩尽へまで解体してしまう。その解体の過程にこそ、詩がある。そして、それは2連目の直前の「空白」という断絶、「ギネス」という田村特有の逸脱からはじまっているのである。
 だから、この逸脱は、意識的な逸脱であって、無意識な脱線ではない。

 2連目を、全部引用しよう。

おれは
花の蜜のかわりに
トマト・ジュースを飲み
日が暮れるとギネスを飲む
小動物のなかでも
おれくらい不器用なものはあるまい
ビールの栓はぬけるがワインのコルクは苦手だ
果物はバナナとミカン
これだったら不器用な手でも間に合う
小鳥だって不器用なのがいるのだから
おれだけを非難するのにはあたらない
おれの部屋に棲んでいる尾長のタケは悪夢にでもうなされたのか
小枝からころげ落ちて
あわてて這いあがったのを
この目でみた
この目は
世界の崩壊も見てきたはずだ
マルクスとケインズと
フロイトとキルケゴールと
この観念連合でどうにか崩壊のカルテを描いてきたが
この近代的な対処療法も
行きつくところは戦争と革命と反革命にすぎない
北半球も二十世紀末でロボットの焼畠農業に逆行するかもしれない
南半球へ逃げ込んだって
カトリックとイスラムの国が多いから
ヌードの写真にはお目にかかれないだろう

 ここで展開されるのは、いわゆる論理ではない。1行目を2行目が踏まえ、3行目に進む。3行目は、1行目と2行目を止揚→発展させたものではない。むしろ、そういう止揚→発展という運動の形を破壊して行くだけである。
 その破壊の過程に、どんなものを出してくるか。なんの力で止揚→発展という弁償を破壊するか。飼っている尾長鶏(?)、マルクス、フロイト、戦争、革命、ロボット、焼畠農業--まるで一貫性がない。田村という「肉体」のなからか、そういうことばがでてきたということ以外は、何の一貫性もない。そして、そこに「田村の肉体」という「個性」だけがある。
 「個性」によって、弁証法を破壊する--それが田村の詩である。

 「生殖器」から「性」の解放。この運動は、「個室」(3連目)や「浅草」「美しく汚れた町」(4連目)をとおって、次のようにおわる。

花は植物の生殖器だ
おれは小動物の観念形態だ
それで
蜜蜂も黒い揚羽蝶もやってきてくれないのだ
ブランデイと白い薬を飲んで冬の夜明けまで
固い木の寝台で獣のように眠ろう
性的な夢がおれの痩せた肉体に襲いかかってこないともかぎらない

木の寝台から突き出されているのは
二本の足 

 「生殖」から解放された「性」が「いのち」の蕩尽であるように、弁証法的発展(?)から解放されたことばも「いのち」の蕩尽であり、蕩尽しながら、なお、つきることなく存在するものが詩なのである。



砂上の会話―田村隆一対談 (1978年)
田村 隆一
実業之日本社

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『田村隆一全詩集』を読む(46)

2009-04-06 00:38:53 | 田村隆一
 『5分前』の詩集の後半の作品は、私は、どの作品も好きだ。ことばが何かを書くということに従事していない。従属していない。書きたいことが最初からきまっていて、その結論に向かってことばが動いていくというのとはまったく違った動きがある。動きながら、動きそのものを探している。
 --というのは、あまりにも印象的な、印象だけを頼りにした感想だろうか。そうかもしれない。私もまた、何か、このことが書きたいと書きはじめることはない。何を書いていいかわからない。そのわからないものを探しながら書く。私の態度がそういう態度だから、田村のことばがそう見えるだけなのかもしれない。

 「画廊にて」の1連目。


悪夢を見た
その夢にうなされて
木のベッドからぼくは暗い空間に投げ出される

口笛を吹きながら
悪夢を追体験する愉しみに
濃いコーヒーをつくって飲んだ
悪夢は刻一刻と形をかえて
色彩だけが
あとに残った

 「悪夢」から書きはじめて、色彩にたどりつく。そのあと、田村のことばは「藤色」「緑」「赤」というような色をへて「色彩の渦動」のドラクロワの絵について語りはじめる。「シャッロゼーの遠望」というタイトルの絵。その絵のなかで、田村は、田村特有の「矛盾」を発見している。

「遠望」はまさに無言歌そのものの
劇的な存在 人間も 動物も その影はまったく見えない
ながらかな丘陵 その前景には五、六本のありふれた灌木と草原がひろがるばかり
空には
鉛色の雲が鈍重に動いている
たぶん
ドラクロワはその瞬間
アルジェのハーレムに閉じ込められている女たちを
英雄的に描いていたのだ

 手は「遠望」を描く。それを裏切って、「肉眼」は「アルジェの女」を描いている。この関係は、田村のことばの運動そのものである。田村のことばがそんなふうに動くから、ドラクロワの絵もそんなふうに動くのだ。ことばの動きにあわせて、ドラクロワの絵は、ドラクロワの絵であることを超越して、「遠望」から「女」への強烈なベクトルになる。
 そしてベクトルとは、実は、運動というよりも、閉じ込められた運動--閉じ込められた女のような存在、とじこめられた人間の内部のことでもある。運動は存在するのではなく、運動の意思が存在するのだ。
 それは「肉眼」にしか見えない「意思」である。「肉眼」にしか見えないエネルギーである。

 ドラクロワの絵を見ながら、田村はムンクを思い出している。そこには「肉眼」が見た「エネルギー」が次のように語られる。

「芸術は自然と対立するものである。
 芸術作品はただ人間の内側からだけ生まれる。
 芸術は、人間の神経--心臓--頭脳--眼を通して形づくられた形象の姿」
と語ったのは北欧の画家ムンクだが
彼のテーマは「自画像」であって
病気 孤独 嫉妬 不安 病気による死 欲望 恐怖
白夜 氷の国の海と森とが
「自画像」を構成する--
病的な生があるわけではない
生そのものが病気なのだ

 この「病気」とは、田村が用いる「逆説」である。あるいは「矛盾」である。何かしらの不都合なものを人間は人間の内部に発見する。その「何か」が自画像のすべてである。それは人間の肉体のあらゆるものが結ばれる一点にある。それはブラックホールのようにすべてをのみこみ、すべてを「いま」「ここ」ではないどこか、つまり「いま」「ここ」そのもののなかへ吐き出す。吸収し、同時に吐き出す。その矛盾したベクトル、動きの意思、可能性--どう呼んでみても正確にはいえない何かになる。
 矛盾のなかに、すべてがある。
 たむらは、「生そのものが病気なのだ」と書いたあと、一転して、美しい行を書いている。

秋がはじまって
あらゆるものが透明になるとき
ぼくは
画廊のなかにいる
ぼくは
画廊のなかにいない

 ドラクロワを、あるいはムンクを見る。そのとき田村は現象としては「画廊」のなかにいる。しかし、そのとき、田村の動き回ることばは「画廊」を飛び出して、別のところにいる。「シャンロゼーの遠望」を見ながらも、実は見ていない。ほんとうは「アルジェの女たち」を見ている。いや、その絵も見ないで、「肉眼」は実はムンクの「ことば」を追っている。
 そして、そこにいないからこそ、そこにしかいない。
 「レインコート」の不在証明の証明、アリバイの証明の、不思議な答え(?)が、ここにある。



陽気な世紀末―田村隆一詩集 (1983年)
田村 隆一
河出書房新社

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『田村隆一全詩集』を読む(45)

2009-04-05 01:54:19 | 田村隆一
 「レインコート」という詩。レインコートは「肉体」ではないが、その詩に私は「肉体」を感じる。 

真夏だというのに
レインコートは壁にぶらさがったまま凍りついている。
枯葉色の皺だらけの

なにもしないくせに
袖口だけは擦り切れていて
糸が二、三本垂れさがっていて

ポケットには
ウイスキーの小瓶を入れた形がまだ残っていて
どこを探したって小銭も出てこない

タバコの吸い殻が曲った釘みたいに
ポケットの底にへばりついているだけ

 レインコートの描写が、そのコートを着ていた人間の「くせ」を残しているからだろうか。そして、その人間の「くせ」、たとえば、ポケットにウイスキーの小瓶を入れている、タバコの吸殻を入れているという「くせ」を残しているから、それが人間に見えるのか。あるいは、そのコートを着ていた人間を覚えているから、かれの「くせ」がコートにのこっているように見えるのか。
 いったん、コートをそんなふうに描写したあと、ことばは少し動く。

それに
レインコートの持ち主だって分からない
ただ壁にぶらさがっていて
顔もなければ足もない

肉体はとっくに消滅して
心だけが枯葉色になって
真夏の部屋のなかでふるえている

 この微妙な変化の前にそっと挿入された「それに」とはいったい何だろうか。「それに/レインコートの持ち主だって分からない」と田村は書いているが、「それに」が指し示すはずの、先行する「わからない」ものが、そこにはない。
 書かれていない。
 書かれていないものを受けて、「それに/レインコートの持ち主だって分からない」と田村は書く。
 「それに」が指し示すもの、それは「分からない」ではないのだ。
 「レインコート」はすでに「レインコート」ではなくなっている、と田村は書いているのである。そこにあるのは「外形」は「レインコート」であるけれど、「肉眼」で見れば「レインコート」ではない。「レインコート」は「消滅」してしまっている。消滅してしまっているけれど、「目」にはそれが見える。
 その不思議さを、田村は書いている。
 「レインコート」は「レインコート」であることをやめてしまっている。それを着る人間も、どこかへ消滅してしまっていて、「持ち主」などというものは存在しない。そこには、不在を証明する残像だけがある。

 世界には、目に見えるものと、「肉眼」に見えるものとがある。
 田村のことばは、つねに、そのふたつの間を行き来する。そして、その間は、いつもはっきりと論理的に区別されているわけではない。両方の「間」(ま)で、ベクトルとなって動くだけである。
 そのベクトルがどこへ行くかは重要ではなく、それを実感できるかどうかが、重要だ。どこへ行くということがきまっていて(わかっていて)、ことばは動くのではないのだから。

ぼくはベッドに横たわったまま
ぶらさがっているレインコートの運命を考えてみることだってある
たぶん

痩せた男
安タバコを吸いつづけてきた細い指
肋骨の数をかぞえたほうが早い薄い胸のなかに
どんな思想がやどっていたというのか

 田村(ぼく)が想像しているのは「レインコートの運命」なのか、それとも「レインコートを着ていた男の運命」なのか。区別がつかない。いや、区別をつけないのだ。「区別がない」というのは「未分化」と同義である。
 「肉体」は、そういう「区別のない領域」にいつも存在する。「肉」はいつでも「未分化」の領域に根をおろしているのだ。
 「肉眼」はからだの奥、たとえば、手や指や舌や鼻が「未分化」の領域を通るとき「肉眼」そのものになるように、男は「レインコート」をきて、「世界」の「未分化」の領域で「肉体」となる。
 それは、単純にことばにできない。「流通している言語」ではとらえられない世界である。つまり、詩の世界である。
 
 途中の引用は省略する。
 この詩の最後の部分。「ぼく」は「レインコート」を「きみ」と呼び、告げている。

傘も持たず帽子もかぶらない
きみの犯罪の成功を祈るよ
どんなことがあってもぼくはきみの
アリバイを証明しないからね

変な言葉だ
不在証明の証明
さよなら レインコート

 アリバイ、不在証明は、そこにいなかったことを証明するということだが、その証明はいつでも「そこにいなかった」という形ではなく、「別のところにいた」という形でしか証明できない。「別のところにいた、したがって、ここにはいなかった」。それは「不在証明」というよりも、単なる「論理」の証明である。そういう「論理」があるということの証明にすぎないかもしれない。
 田村は、本能的に、そういう証明を拒絶している。「別のところにいた、したがって、ここにはいなかった」という「頭脳」の証明を拒絶している。そうではなく「肉体」の証明を探している。
 それは「ぼくはここにいる、したがって、ここにはいない」という矛盾した証明のことである。「ここ」で「ここ」を超越する。「ぼく」は「ぼく」であることを拒絶し、「ぼく」ではないものになる。だからこそ「ぼく」は存在する。
 そういう存在のあり方を、「レインコート」と「ぼく」との関係で書こうとしている。




毒杯―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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『田村隆一全詩集』を読む(44)

2009-04-04 00:20:11 | 田村隆一
 「暁の死線」の「泉」は何によって見るのだろうか。「肉眼」を超える「肉眼」でるあ。「肉眼」は、田村の詩にたくさん出てくる。「目」そのものがたくさん出てくる。
 「眠れ」には、田村が繰り返し書いていることばがある。

 病院からの帰り道 武蔵野の雑木林のなか
を歩いた 大きな木に出会うとおれは立ちど
まってしまう癖がある おれの目には見えな
い地下の根のひろがりがそのときにかぎって
見えてくるのだ 肉眼とはいったいなにか

 見えるものを見るのが「目」、見えないものを見るのが「肉眼」である。そのとき「肉」とは、深く意識とかかわっている。木の根についていえば、木の根が土のなかにあることを田村は知っている。それがどれだけのひろがりをもっているかは知らないが、その根はたしかに地下にある。その知識として知っているものを「肉眼」はすくいだすのである。田村の「肉体」のなかから。「肉体」のなかからすくいだし、それを見るのが「肉眼」ということになる。
 「死線」の「線」から「泉」をすくいあげ、それを見てしまうのは、「頭脳」ではなく「肉眼」である。肉眼であるからこそ、それは「夜明け」か「日暮れ」を求める。具体的な時間を求める。そして、その時間も、実は田村の「肉体」のなかにある。

 「指と手」には、次のことばがある。

困ったな つまりぼくが云いたいのは ほ
  んとうにものを見るのには工夫がいる
  眼だけひらいていたって見えるはずが
  ないんだ

きみにとっちゃ針の穴かもしれないけど
  ぼくにとっちゃ覗きからくりみたいな
  ものだ しかも故障だらけでさ もの
  が見たかったら 手を動かすんだ 指
  をふるわせるんだ

すると 五本の指には五つの眼が 一本の
  手には針の穴よりももっと小さい穴が
  ついていると云うんですね

や きみにしては巧いことを云ったよ 五
  本の指には五つの眼 それも眼だけじ
  ゃない 鼻も耳も舌もついているんだ
  よ 波に消えさる砂の上の文字も解読
  できるし 猫が夢見る夢だってぼくの
  手は見られるんだ 風の匂い 水の味

 「手を動かす」「指を動かす」--それが見ることにつながる。すべては「肉体」をとおって、はじめて「肉体」のなかで見えてくる。
 「肉体」が「混沌」の「場」である。混沌のなかから、「肉体」が現実をすくいとる。「肉体」のなかの存在と、世界のなかの存在が呼応し合うとき、目が「肉眼」にかわるのだ。
 そして、そのとき、「肉体」と「精神」はまた融合したものになる。

 波に消えさる砂の上の文字も解読できるし

 この1行。「解読」ということば。
 「解読」は単に「文字」を見ているのではない。「これは水であり、氷ではない」というふうに「見て」その形を読んでいるのではない。「文字」には「文字」をこえるものがある。それを把握することが「解読」でである。
 この「解読」を「肉体」にあてはめると……。

 目が見る、目が見た表面的(?)な存在を、鼻、耳、舌、手、指のなかをくぐらせ、鼻、耳、舌、手、指にもわかるようにすることを「解読」というのだ。全身で「解読」する。そのとき、目は、いまそこにある存在を自分の「肉体」の内部に見ることになる。
 「肉体」の内部にあるものは、世界の「内部」にあるものと呼応する。
 たとえば木。大きな木。それは地中に根をひろげている。その根は、人間でいえば、肉眼とつながっている鼻、耳、舌、手、指なのである。大地のなかに木が根をひろげていると「解読」するのは、目だけの力ではない。

 

 

砂上の会話―田村隆一対談 (1978年)
田村 隆一
実業之日本社

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『田村隆一全詩集』を読む(43)

2009-04-03 00:31:19 | 田村隆一

 『5分前』(1982年)の巻頭の「暁の死線」。書き出しの2連がとても好きだ。

どんな夜明けの五分前
どんな日暮れの五分前

午睡からさめて
時計をみたら いつまでも五分前にはならないのだ

 なぜ「五分前」? それがわからない。だから、この詩が好きである。あるひとつの何か、その手前、そういう感覚。
 たどりつく前のある一点(ある時間)。そこにたどりつけば、その先が、たどりつくべきものが見えるのか。見えるかもしれない。けれども、そのある一点(ある時間)にもたどりつかない。
 ここは、どこ? いつ? それがわからないときでも、その先の先に、たとえば「夜明け」あるいは「日暮れ」というものがあるとわかる感じ。
 この、おしひろげられた「間」の不思議さ。ここには、ことばにならない何かがある。
 この詩は「顔のない女」→「幻の女」→「暁の死線」と、連想が動いていく。そして、田村は、ウィアム・アイリッシュのDead lone の訳に悩んだ、と告白している。そのあと、

それでは そのままgoといういことになって
Dead lone は「死線」になった
死線の線には
泉があるから

夜明けなのか
日暮れなのか

ひっそりと
告げてくれると ぼくは
思う

 おしひろげられた「間」--そこに、「泉」が浮かび上がる。「死線の線には/泉があるから」というのは、漢字「線」を「糸」と「泉」にわけて、そういっているだけなのだが、その「糸」と「泉」にわけるときの、そのとき生じる「間」が、「五分前にならないのだ」の感覚に、不思議と重なって感じられる。
 そこから浮かんでくる「泉」、その「間」に見えてくる「泉」。それをなんと読んでいいのかわからない。私が、いま書いているのは、感想にもなっていいない、たんなることばなのかもしれない。私は、私の感じていることをうまくいえない。
 だが、なんといえばいいのだろう。
 私には「泉」がみえる。私の見ている「泉」は遠くにあって、うっすらとその水面が光っている。その輝きはたしかに、「いま」が「夜明け」なのか「日暮れ」なのか、告げてくれるような感じがする。--というか、そういう「泉」を、ふっと見てしまうとき、それはたしかに「死」とつながっているような気がするのだ。
 不思議な予兆。予感。

 いままで、私が書いてきたことばでは語れない何かが、この詩にはあって、それを私は美しいと感じる。


泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

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