goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(72)

2009-05-02 02:08:34 | 田村隆一
 「ある」と「なる」。「ハミングバード」には「ある」も「なる」もつかわれていないが、この詩でも「ある」「なる」ということと存在の関係が書かれている。

小鳥の内部には 細長いクチバシの
小鳥が歌を歌っている

人間の内部には
人間がいない

 「内部」は「雪は汚れていた」の「彼女の中にある雪/ぼくの中にある雪」の「中にある」と同じである。小鳥の中には、細長いクチバシの小鳥がある(いる)。そしてその小鳥は歌を歌っている状態にある。小鳥の中にある(中にいる)小鳥が歌を歌うことで、外部もまた歌を歌う小鳥に「なる」のである。
 この「ある」と「なる」の関係は、田村にとっての、存在の理想形のようなものである。
 その小鳥と対比すると人間は奇妙である。「人間の内部には/人間がいない」。「人間」の内部には、人間のきまった形、「定型」というものがない。小鳥なら歌を歌うという定型があり、それが細長いクチバシという存在を通ることで「定型」になる。人間は、何に「なる」か、決まっていない。「動詞」が決まっていない。
 これは、逆に見れば、動詞の決め方次第で何にでも「なる」ことができるということを意味する。だからこそ、田村は、存在のありようがきまっているように生きている読者に対して、その「定型」を破壊し、いのちそのものに還元し、そこからの生成を(再生を)うながすように、ことばを書きつづける。

小鳥の内部には 細長いクチバシの
小鳥が歌を歌っている

人間の内部には
人間がいない

靱帯解剖図のように
赤と緑の細い川が流れ

欲望と恐怖が駈けめぐり
白昼の影だけが人間の形をしていて

花がひらく 空中に停止したまま
小鳥からぬけだしたハミングバードが

花の密をめがけて急降下
世界一ちいさな声 ちいさな羽根を

ふるわせて
人間の皮膚をかぶった人間はただ眺めているだけ

 最後の2行は、奇妙に歪んでいる。そして、その歪みの中に、田村の、夢、願いのようなものがある。
 「歪んでいる」と書いたのは、「ふるわせて」の主語は「ハミングバード」であることを指す。ほんらい、その直前の連にあってしかるべきものである。
 この詩は2行ずつ7連の構成になっていて、それは、小鳥、人間、人間、人間、ハミングバード、ハミングバードと描写してきている。最後だけ、ハミングバードと人間の両方が同居している。その同居は、しかも、ごく簡単に解消できるものである。つまり、

花の密をめがけて急降下
世界一ちいさな声 ちいさな羽根をふるわせて

人間の皮膚をかぶった人間は
ただ眺めているだけ

 という形にすれば、それぞれの連がハミングバード、人間の描写として完結する。けれど、田村は、そうしていない。「ふるわせて」をわざわざ、1行あきをつくったうえで人間の描写に結びつけている。
 「ふるわせて」という動詞に、夢を託しているのだ。
 もし人間が、ハミングバードを見て、こころをふるわせるなら、「人間の皮膚をかぶって」ハミングバードを眺めているだけの存在は、何かに変わる(変身)できるはずなのである。人間のなかにいる「人間」が何かに「なる」はずなのである。
 人間の中にある(いる)人間が、ハミングバードを単に歌っている鳥とみているかぎりは何もおきない。ハミングバードが歌っているのは、実は、ハミングバートの中にいる小鳥が歌っているからだ--ということに気づけば、その事実に、こころをふるわせることができれば、そのとき人間は変わりうる。

 人間の目には、ハミングバードのなかにいるハミングバートは見えない。けれど、「肉眼」では、どうだろうか。「肉眼」なら見える。
 何が人間の「肉眼」をじゃましているのか。人間の「肉眼」が「肉眼」であることをじゃましているのか。そのじゃまを、どうやったら取り除けるのか。その障害を、どうやったら破壊できるのか。
 田村のことばは、常に、そういうものを探している。


詩と批評D (1973年)
田村 隆一
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(71)

2009-05-01 00:57:05 | 田村隆一
 「雪は汚れていた」のなかに「ぼく自身が行方不明だった」ということばがある。探偵小説の編集をしていたころのことを描いたものである。

そうだ ぼく自身が行方不明だった
ブロンドの美人には活字の世界でしかお目にかかれない
タフでハンサムな探偵は
神田多町(たちょう)にはいなかった みんな栄養失調のような顔をして
葉巻をくゆらしているアメリカの大金持ちと裸体を毛皮でつつんだ
美女の活字の世界のなかで労働していたのだから
低賃金の労働と性的な夜間飛行の
香水の匂いとは水と油である

 この「行方不明」は、きのう読んだ詩とは別の意味での「不定型」である。田村が訳出している探偵小説のどのような「動詞」とも無関係である。探偵小説のなかの「動き」と重なり合う動きが田村自身のなかにない。探偵小説のなかのことばは田村の「動詞」になることはない。ことばと田村が重なり合わないということである。
 田村は、ことばを通して「変身」する。そのことを間接的に語っている。

朝鮮戦争がやっと終って
特需の反動で日本はと不況に見まわれる
「彼女はティッシュ・ペーパーで涙をぬぐった」
原書にもそうあるが
だれもティッシュ・ペーパーを見たことがない
辞書ひいたって
薄葉紙
としか出ていない

 どのような「動詞」となることもできないまま、探偵小説を訳している。そこでは、「世界」は「ひとごと」である。
 そういう状態のままでは、人間は存在することができない。ことばと分離したままでは、人間は、少なくとも田村は、生きていけない。
 田村は、ことばと、美しい和解を試みている。その部分が、私はとても好きだ。

The night was young and so was he,
The night was sweet but he was sour.

「幻の女」の二日酔いの青年みたいに
ぼくは焼け残った銀座裏の裏通りをフラフラ歩いていたっけ
「雪」
という小さなバーがあったので
ぼくは扉をおして中に入った
美しいマダムがただ一人
ポツンと坐っているだけ 客はいない
彼女の中にある雪
ぼくの中にある雪
その雪の色を想像しながらウイスキーを飲みつづけて
ぼくの黒いコートのポケットには
ジョルジュ・シムノンの殺人小説
「雪は汚れていた」
が入っている

 「彼女の中にある雪/ぼくの中にある雪」。この2行の「なかにある」という状態が「不定型」としての人間のありようなのだ。つまり、「ぼくの中にある雪」の「雪の色を想像する」とは、実は、その「雪の色」に「なる」ことだ。そして、この「なる」が「変身」(変形)である。
 「夜は若く、彼もまた若かった/夜は甘かったが、彼は酸っぱかった」という生き方、生存のあり方が田村の「動詞」となるように、「雪」、いま、ここにない雪になって、バーで酒を飲む。
 青春の一こまの描写--ただ、それは単なる描写ではない。「変身」の具体的な報告である。

 そして。

 と、私が、これからつづけて、書くこと。「そして」という接続詞でつないで書くことは、とんでもない空想、誤解かもしれないのだが。
 田村が引用している英語の2行のなかの「was 」(be動詞)と「ぼくの中にある雪」の「ある」、そして「なる」の交差(重なり具合)が、私には、とても興味深く感じられる。
 be動詞は主語の状態をあらわす。夜は若かった、そして彼も若かった/夜は甘かった、けれど彼は酸っぱかった。それは若いという状態に「ある」(あった)、甘いという状態にあった(ある)、酸っぱいという状態にあった(ある)ということだろう。この2行目のbe動詞は「なる」とは訳せないだろうか。
 ハムレットの「to be, or not to be 」と同じように、それは「ある」と同時に「なる」とも訳せるのではないだろうか。「どうあるべきなのか、どうあるべきではないのか」であると同時に「どうなるべきか(生きるべきか)、どうならないべきか」。「大人になったら何になる?」というときの「なる」はbe動詞である。「ケセラセラ」には「When I was just a little girl /I asked my mother what will be」という用法がある。
 英語では「ある」と「なる」が重なり合う。
 同じようにも、日本語でも「ある」と「なる」が重なり合うときがある。「彼女の中にある雪/ぼくの中にある雪」の「ある」は、「その雪の色を想像」するとき、「なる」と重なる。
 --ここには、「翻訳」を生きた美しい「成果」のようなものがある。美しい「影響」がある。私には、そんなふうに見える。


泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(70)

2009-04-30 01:36:03 | 田村隆一
 「必需品」という作品がある。「屋根 壁 窓 ベッド/パン 水 トイレット」ではじまる。生きていくのに必要なものをリストアップしている。「裸体の若い女性には興味があるが/裸体の思想はワイセツだ」というおもしろい2行があるが、その2行につづく部分も興味深い。

人が通りすぎる
人が街角で消える

そんな瞬間 ぼくは死んだ人間に出会う
ぼくは不定型の人間になる

 視界から人影が消えた瞬間、死んだ人を思い出す。そのあと。「ぼくは不定形の人間になる」。この「不定型」ということば。これは「不定・型」ではなく、「不・定型」だろう。定まらない型(形)ではなく、「定型」になっていない型(形)。
 ふいに、英語を思い出すのである。私は。不定型を「定型動詞」を思い浮かべるのである。英語の動詞は、主語、時制によってはじめて「型」が定まる。主語、時制に関係していない(?)状態、原型(形)に対して、「定型」がある。ここで田村が「不定型」といっているのは、原形のことである。動詞の原形。
 田村は人間を動詞としてとらえている。
 動詞の原形である、田村は、動詞となって、ある特別な主語に従い、そしてそのときの時制をしたがい、形を変える。変形する。
 「変身」についてすでに書いてきたが、この「変身」とは、実は「動詞」のありようなのである。「動詞」は主語、時制によって形を変えてもなにも不思議はない。当然のことである。「変身」は、田村にとっては、特別なことではなく、ごくふつうのことなのである。

 「必需品」にからめて。
 詩人にとって何が「必需品」であるか。外国語である。日本語と外国語では、ことばの動きが違う。違う動きをしながら、それでも「人間」を描写する。同じ人間を描く。そのことばの運動に触れることで、無意識に動かしている「日本語」の動きに敏感になる。「日本語」の動きを鍛える。
 そして、「日本語」を「外国語」としてつかうとき、そこに詩が姿をあらわす。

 「外国語」というのは「他国語」でもある。「外」は「他」、「他人」の「他」。
 「他人」と出会って、ことばが動きはじめる。いままでのことばを捨てて、「他人」と向き合うために、ことばを変形させる。そのとき、ことばは変形させられるのではなく、「変身」するのだ。





新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)
田村 隆一
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(69)

2009-04-29 00:00:48 | 田村隆一
 田村はときどき同じ主題を繰り返す。「人が星になるまで」。この作品には「変身」、人が変わる、という主題がある。タイトルそのものが、人が星に変身するまで(変化するまで)と、そこに「変身」を補うことができる。というより、人が星になるということばのなかに「変身」というものが含まれているのだが、その変身という主題が、田村にはあまりにも密着しすぎていて、「意識」としてあらわれなかったというべきなのかもしれない。ひとは自分自身にとってわかりきっていることはいつでも省略してしまうものである。

 では、「3」の部分。

人間の手が彫刻家の
人間の耳が音楽家の
人間の唇が沈黙しか語らない瞬間

目に見えなかったものが見えてきて
音さえ目に見えてきて

自然は球体だということに
やっと気づくのさ

 1行目、「人間の手が彫刻家の」、このあとに何が省略されているのだろう。2行目の「音楽家の」あとには何が省略されているのだろう。「沈黙しか語らない瞬間」がともに省略されている。そして3行目には「人間の」が省略されている。3行目は「人間の唇が人間の沈黙しか語らない瞬間」というのが、省略を補った形になるだろう。
 「唇が沈黙を語る」というのは矛盾である。田村はいつでも詩を矛盾からはじめる。
 したがって、「人間の手が彫刻家の沈黙しか語らない瞬間」というときの「沈黙」は「彫刻家のつくらない彫刻」(つくれなかった彫刻)をあらわす。音楽の場合、「作曲されなかった(演奏されなかった)音楽」ということになるだろう。彫刻家が彫刻を語らない、否定する。音楽家が音楽を否定する。唇がことばを否定する。あるいは、彫刻家が彫刻を拒絶する。音楽家が音楽を拒絶する。唇がことばを拒絶する。
 そのときに、

目に見えなかったものが見えてきて
音さえ目に見えてきて

 ということが起きる。それは「肉眼」がとらえる世界である。「肉眼」だから、本来目には見えない「音」、ふつうは耳で聞く音を「肉眼」で聞くことになる。音楽の中に、色がある。形がある。そのときの感覚--それを田村は、ここでは描いている。
 こういう世界を把握するためには「変身」が不可欠なのである。
 「4」の部分。

自然を解体するには
知力と体力と そして
人はたえず変身しつづけねばならない

 「目」から「肉眼」へ、「耳」から「肉耳」へ。そういう「変身」が完了したとき、自然は解体する。彫刻は解体する。音楽は解体する。彫刻は「形」ではなく、音楽を鳴り響かせる。音楽は「音」ではなく、色彩を、形を、描き出す。それぞれの領域を超越する。あらゆるものが、「自然」がそのとき解体する。知力と体力によって、「変身」したものだけが、その解体と、そこからはじまる生成の愉悦を味わうことができる。

 「銛」も、「変身」を主題としている。

この五十年間
言葉だけを獲物のように追跡していたと思いこんでいたら
言葉に追跡されているのは
ぼく
自身だということがやっと分ってきた
(略)
ぼくには「ぼく」そのものが時とともに
変容するから
ぼくが言葉になり
言葉がぼくになってくれたら

追う者と追われる者
という主題が
ぼくの肉体を貫いてくれるかもしれない
相模湾の漁師が大魚を突きさす
あの銛のごとく

 「変身」は「変容」ということばで表現されている。
 そして、その変身(変容)の瞬間、追う者と追われる者という主題が「ぼくの肉体を貫く」。それは、その主題のなかで「追う者・追われる者」が一体となり、「銛」のように激しいベクトルとなって動くということだ。そのベクトルは「いのち」を否定し、「いのち」を突き破って、どこかへ動く。肉体が肉体のままでは存在していることができない世界へ。そういう世界を生きるために「変身」が必要不可欠なのだ。このとき、その肉体は「超・肉体」になるといえばいいだろうか。「肉眼」「肉耳」ということばにならった言えば、「肉・肉体」である。
 そこから、詩ははじまる。

 「変身」はタイトルに「変身」ということばそのものを持っている。そのなかでも、「言葉」と「肉体」が語られる。

原罪とは言葉そのもの
人は言葉から生まれたのだから
この拘束力のなかで息をしているだけ

ある朝 目ざめると
ぼくは
女性
になっていた

おかげでやっと言葉の拘束帯から解放される

 「ぼく」が「女性」になる。その「変身」。そのとき、田村は「言葉の拘束帯」から解放される。ここには補足が必要だ。「男性の言葉の拘束帯」から田村は解放される。女性になっただけでは、実は、不十分である。そこから、もういちど、「女性」を解体しなければならない。そのとき、ことばはほんとうに自由になる。
 女性になって、それでことばから自由になれるなら、田村は、その段階で詩を中断してもいいはずである。しかし、田村は中断しない。その後も書きつづける。それは、男性→女性という「変身」だけでは不十分であるという「証拠」でもある。
 男性→女性のあと、何に変身するか。「銛」に「変身」しなければならないのだ。男性→女性→銛。銛とは、運動のエネルギーそのものであり、ベクトルだ。そのベクトルのなかで、つまり、運動そのもののなかで、たとえば目は「肉眼」として、耳は「肉耳」として、そてし肉体は「肉・肉体」として世界と向き合い、世界を手にする。
 それが、詩である。田村の詩である。



20世紀詩人の日曜日
田村 隆一
マガジンハウス

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(68)

2009-04-28 00:00:32 | 田村隆一

 「砂上にて」の書き出し。

まず白紙をひろげる
そして言葉があらわれるのを待つ

言葉があるから詩が生まれるのではない
言葉を探す旅が詩だとしたら

 詩とは、ことばを探すことなのだ。そして、ことばは、「他人」と出会わないかぎりみつからない。「自分」のままでは、知っていることばだけで納得してしまうからである。「他人」に出会い、「他人」のなかの「時間」に触れ、自分の「時間」との「間」を発見する。そのとき、ことばは動きはじめる。ことばは、ことばを探しはじめる。詩人がことばを探すのではなく、ことばがことばを探しはじめる。
 そして、このことばがことばを探すというのは、ことばが「現実」を、つまり「もの」を探すのと同じことである。
 きのう読んだ「亀が淵ブルース」には、六十男の語る村のエピソード、六十男のことばがそのまま引用されていた。そのことばを、田村は、鎌倉の裏山の草原で確かめている。草原を見ながら、いま、そこにはない六十男の、四十年前の「現実」をみている。(きのうの引用には含まれていないので、「全詩集」の959 -961 ページを参照してください。)ことばのとおりに、「いま」「ここ」に、目で見えるものを裏切って、「肉眼」が何かを見るなら、そのことばは詩なのである。
 ことばを探すというのは、ことばが「もの」を探しあてる、「肉眼」で、「肉耳」でしかとらえられない「もの」を探すことである。

 「美しい断崖」は、「他人」の「肉眼」が探し当てた「もの」を、実際に探すことからはじまっている。

どこにいても星空を見ることはできる
これは美しい断崖だ。

フランスの哲学者アランの「プロポ」に出てくる言葉だが
その星空を眺めたさに
逗子マリーナのレストランに行ったら

 田村はアランのことばに詩を感じた。「星空」を「断崖」と呼ぶことばの運動に、詩を感じた。感じたけれど、まだ、その実体には触れていない。その「星空」を「肉眼」は予感する。けれど、まだ、それを見ていない。ことばが誘っているが、まだ「もの」には出会っていない。だから、それを探しに小さな「旅」をはじめるのだ。
 この小さな「旅」に、田村の特徴がとてもよくでていると思う。田村は「星空の断崖」を探している。あるいは「断崖の星空」かもしれないけれど……。それは、どこにあるか、わからない。とりあえず「外」へ出る。
 そして、そのあと。
 田村は「断崖の星空」を探すことに固執しない。ことばに誘われて外出したのだが、そのことばにとらわれない。つまり、ことばを中心に据えて、「もの」を探すということはしない。本来の目的(?)は目的として、それにこだわって現実をゆがめてしまうようなことはしない。つまり、目的にあわせて、それにつづくことばを選びとるわけではない。
 目的(到達点)が「星空の断崖」であっても、「旅」にでたなら、そのときは、その「過程」そのものと充分に向き合う。どこをとおれば「星空の断崖」に近づけるかということは考えない。「旅」にでる前の自分を振り捨てることだけを心がける。
 ことばを探す、とは、それまでもっていたことばを捨てるということと同じなのである。ことばを捨てきって、そのあとどんなことばが「空白」にあらわれるか。それを実践するのがことばを探すということなのだ。拾うのではなく、自分のなかのことばを捨てる。そのあと、ことばは、やってくる。

フランスの哲学者アランの「プロポ」に出てくる言葉だが
その星空を眺めたさに
逗子マリーナのレストランに行ったら
ケイ・石田の
ボサノバのコンサートをやっていて
彼女のヴォーカルには
ブラジルの土と太陽と水の匂いがする
女性の肉体
という楽器から
血のリズムが音のリズムに転化する
南半球の
暗い部分と明るい部分
影と光が声の転調によって
リズムに乗って
そのリズムを軸にして
セミ・ヌードのブラジル娘たちが踊りまくり
踊りながら無重力の空間を遊泳すると

ぼくは北半球の下にいながら
南半球の軽快で悲しい恋の歌
明るくて暗い海の微風を全身で聞く

 この部分は、この部分として、完全に詩になっているが、書き出しの部分にある「目的」からすると逸脱している。「星空の断崖」はどこ?
 ここに、田村の「正直さ」、特徴がある。
 「目的」に現実をあわせない。現実にただ向き合う。そして、「目的」がどこへ消えようとと気にしないで(気にしているのかもしれないけれど、私には、気にしていないようにしか見えない)、そこにある「もの」に触れる。「他人」に触れる。そして、最終的に、知らずに、「目的地」にたどりつく。
 それは、「目的」から見つめなおせば、「目的」に辿り着く前に、すべてを捨てる、捨てることで身軽になって、身軽になった時、その身軽さの中に、ふいに「目的地」がやってくるということになる。田村が「目的地」へ向かうのではなく、「目的地」がむこうから田村の方へ向かってやってくるのである。
 空白、白紙に、ことばがやってくるように。

 捨てる、ことばを捨てるといっても、何を捨てていいか、ということなど、わかりはしない。ただ、そこにあるものと向き合い、ものにことばをぶつける。ケイ・石田の歌声は「星空の断崖」ではない。だから、「星空の断崖」ではないもの見るために、いま見ているものを捨てるのだ。捨てることが「肉眼」になることだから。
 「肉眼」は作り上げるものではなく、ただ「目」で見えるものを捨てる、「目」がみるときのことばを捨てる。破壊する。

全身で聞く

 引用した最後の行にあるが、「全身」を捨てる。そうしないと、「肉眼」にはたどりつけない。

 そうやって、自分自身を捨てることばが、詩であるのは、どうしてなのか。「星空の断崖」が詩である。その「星空の断崖」にむかっての「旅」の過程で捨てることば、それが詩であるのはなぜなのか。
 ケイ・石田のボサノバを描写した田村のことばが美しく響くのはなぜなのか。捨てることば、不要のことばなら、それは詩とは対極にある「つまらないことば」なのではない。しかし、田村のことばは「つまらないことば」ではない。美しい。なぜなのか。
 詩とは、そういものである、としかいいようがない。
 詩とは矛盾である。特に、田村の詩は矛盾である。破壊し、ことばがつくりだすものから自由になるのが、田村の詩である。すでにあることばを捨てる、叩き壊す--その過程こそが詩なのである。もし、田村が「星空の断崖」にむかう過程で捨てることばが「つまらない」としたら、それは田村が充分に自分のことばを捨てていないからだ、ということになる。そのこことばが美しければ美しいほど、そのことばが読者に印象的であればあるほど、田村は、自分のことばを捨てて、まだ見ぬ「他人」へと生まれ変わろうとしているということになる。

 詩の最後。

家に帰ったら猫がいなくて
彼専用の小さなソファーだけあって
三人でウイスキーを飲んでいるうちに
ぼくの脳髄のなかには
星空がひろがりはじめ 猫の
ソファーには背もたれがついていないのを
すっかり忘れてしまって ぼくは

哄笑したとたんにソファーから投げ出されて
「これは美しい断崖だ」

 ちょっと「おとし話」のような感じになる。「星空の断崖」は脳髄のなかの「星空」と、田村が転げ落ちた小さな「断崖」に収斂するのだが、その過程の、

すっかり忘れてしまって

 この1行が、「星空の断崖」に完全に一体になっている。完全に一体になってしまったため、そこにたどりついたと思ったら、そこからとびだしてしまったのだ。「星空の断崖」はとてつもなく広い、そして同時に広がりがない「場」である。すべてを捨てて、放心する一瞬、世界と田村の肉体が一致する。その瞬間にだけ、突然あらわれる「場」である。
 すっかり忘れて--この放心こそ、すべてを捨てるという一瞬である。

 そして、この「放心」という視点から、もう一度この詩を読み返すと、気がつくことがある。
 ケイ・石田のボサノバの描写が美しいのはなぜか。それは田村が「星空の断崖」を探すという「目的」を忘れて、つまり、放心して、言い換えれば「目的意識」をなくして、「肉体」そのものになって、ケイ・石田と向き合っているからである。なんらかの「意識」で「他人」に向き合うとき、ことばはすべての自由を失い、失速する。けれども、「目的」が消えるとき、ことばは、ことば自身のために自在に動き回る。そして、詩をプレゼントしてくれるのである。



ぼくの草競馬 (集英社文庫)
田村 隆一
集英社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(67)

2009-04-27 01:28:19 | 田村隆一

 『ハミングバード』(1992年)。「亀が淵ブルース」の3連目、4連目が、私はとても好きである。

私がね、子どものころは蛇の棲家でしてね
ええ、二階堂の草っぱらのことですよ
マムシはむろん
シマヘビ ヤマカガシ 脱皮する前の
青大将ときたらノタリノタリしているだけで
その連中が草むらからいっせいに
動きだすんです
春 冬眠からさめたばかりだから
そりゃあ 鮮かなもんでした
二万坪の草原が波立つんですよ
どこへ?
ほら 細い川が流れているでしょ
亀が淵というんですけどね
亀はたくさんいましたけど スッポン ウナギまで遊んでいて
蛇の大群は
カエルを狙って走り出すんです
カエルのコーラス
カエルのタンゴ これがルンバになると
危い

 引用したのは3連目。田村自身のことばではなく、「この土地で生れ育った六十男/海軍のゼロ戦乗りの生き残りが/ぼくに語ってくれた」(5連目)をそのまま再現したものである。
 田村は、その男の語ったことばに手を加えていない。(と、私は感じる。)なぜ、他人のことばをそのまま引用して、田村の詩にしたのか。田村は、そのことばが「肉眼」から発せられていると感じたからだろう。そのことばが、そして田村の「肉眼」を活性化させる。男の語ったことばを聴きながら、田村の目は「肉眼」になって、草むらが動くのを見る。実感する。
 「他人」のことばの、その「他人」性が、田村の「肉眼」を目覚めさせる。それはユトリロの「白」が田村の「肉眼」を目覚めさせるのと同じである。田村の五感を超越しているもの--その超越性が「他人」である。
 これは、逆に言えば、もしことばが五感を超越した状態に達すれば、それは自分が発したことばでも「他人」のことばになる、自分を超越したものになる、つまり詩になるということでもある。

 詩とは「他人」のことばなのである。

 「他人」のことば、新しいことばであるからこそ、そこに詩がある。たとえば、

そりゃあ 鮮やかなもんでしたよ

 この一行の「鮮やか」ということば。
 教科書で教える「詩」(学校教育の詩)では、たぶん「鮮やか」な状態を「鮮やか」ということばをつかわずに書き表すのが詩であると定義されるだろう。(文学のことばだと定義されるだろう。)
 だが、この六十男の発した「鮮やか」は、ふつうの目が感じる「鮮やかさ」とは違っている。
 「肉眼」がつかむ「鮮やかさ」だ。同じ「鮮やか」という表記であっても、そこに書かれている実体が違うのである。その「鮮やか」とは蛇が群れをなして動いていくとき、その動きにあわせて草が動く、その動きをあらわしている。そういうものを「鮮やか」と呼んだひとはいない。(私は、そういうことばを読んだことがないし、たぶん田村も読んだことがないのだと思う。だから、そのまま書いている。)
 そこでは、草の動きさえ、「他人」なのである。蛇がいっせいに動くという世界そのものが「他人」なのである。
 「肉眼」が「他人」なら、その「他人」の耳も「肉耳」になる。カエルの声が(合唱が)、平和なものから、蛇の襲撃を知って、トーンを変える。「タンゴ」が「ルンバ」にかわる。この変化をとらえる「肉耳」。
 「肉体」そのものが、ここではかわっていく。そして、それにあわせて「世界」が「鮮やか」になっていく。

 「他人」のことばにあわせて、自分自身が「他人」になっていくのを受け入れている田村がここにいる。そういう田村のありかたを、私は「正直」だと感じる。




殺人は面白い―僕のミステリ・マップ (徳間文庫)
田村 隆一
徳間書店

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(66)

2009-04-26 01:41:51 | 田村隆一

 きのう書いた感想は「意味」にしばられすぎていたかもしれない。私は実は『ぼくの航海日誌』は好きではない。ただし、一か所だけ、とけも好きなところがある。1行だけ、とても好きな行がある。
 「六月 すべてが美しすぎる」。そのなかほど。

アバよ カバよ アリゲーター

 ここには「意味」はない。
 というと、いいすぎになるかもしれないが、「意味」ではないものがある。「アバよ」はたしかに、その前の「ぼくは人間の皮とおさらばだ」と通い合っている。「おさらばだ」から、別れのことば「アバよ」が導き出されている。
 「カバよ」は「アバよ」と音だけが通い合っている。そして「アリゲーター」は「カバ」とアフリカの動物という「意味」でつながる。「意味」でつながることで、逆に無意味になる。--その瞬間の音楽。これが好きなのだ。

 ことばは「意味」になったり、「無意味」になったりして動いていく。その動きが、とても好きなのである。
 あるいは、言い直した方がいいのかもしれない。
 ことばが「意味」になろうとするとき、それを拒絶し、無意味に還元してしまう--その瞬間に、つかみどころのないエネルギーを感じ、そこに音楽の自由を感じ、そこ響きにひかれる、と。

 1連目から振り返る。

春がきた 終末の春がひらく
破滅するために花が咲きみだれ 草木は
若葉から緑に 暗緑色の炎にかわる
桜の花はとっくに散ってしまったのに
桜の花の記憶がまったくない
これは不思議な夢を見ているようなものだ

 昭和20年の6月。戦争の末期に感じている何か。不安。「破滅するために花が咲きみだれ」ということばのなかの「破滅するために」。特に「ために」ということばが、とても痛烈に響いてくる。どうしようもない暗さ。それが「花」といっしょにあること、「春」のいのちといっしょにあることの不思議さ。それは確かに「夢」なのかもしれない。
 この1連目を受けて、2連目は、「意味」のなかへ、ぐいと入っていく。

過去も未来もない
「今」という点の連続

 時間が「時・間」にならない。「間」が欠落する。それは昭和20年の「意味」であったかもしれない。いや、あったにちがいないと思う。
 だが、こういう「意味」のなかに意識が進んで行くと、「人生」が「意味」そのものになっていくようで、とても重苦しい。
 「意味」はさらにつづいていく。

過去も未来もない
「今」という点の連続
その点と点をつなぐ糸はからまり ぼくの指では
ほぐせない
糸がもつれ からまっているうちは
ぼくは人間の皮をかぶっていられるのかもしれない

 「時間」と「人間」。「今」、ここに存在すること。存在させられること。そこから「意味」は幾つでも出てくるだろうと思う。任意に「意味」が捏造できるだろうと思う。だからこそ、それを田村は一気に破壊する。

アバよ カバよ アリゲーター

 この音楽は、私には「アバよ カバよ ありがたや」にも聞こえる。「ありがたや」は「ありがたや」で「意味」になるかもしれないけれど、「アバよ」「カバよ」という音の連続に影響された、「アリゲーター」「ありがたや」という無意味な音の重なりによって「意味」が笑われると思う。

 「笑い」というのは、「意味」の拒絶、拒否であると思う。

 こういう「笑い」をくぐり抜けて、田村は、2連目で書いた「過去も未来もない/「今」という点の連続」という昭和20年の「意味」から遠ざかる。そして、昭和20年の「肉体」になる。その部分が、また、非常に美しい。

この年の春から初夏にかけて
ぼくは不思議な夢ばかり見ていた
桜の記憶もなければ
梅雨の記憶もない
雨にぬれる
という人間的感覚を失ってしまったのか

 この「雨にぬれる/という人間的感覚を失ってしまったのか」で、私は、ふるえる。あ、人間は「肉体」であると同時に「自然」なのだ、ふいに気がつく。「自然」と常に「交感」しているだ。
 この感動が、最後の3連で、もう一度強烈によみがえってくる。

夜は
「線の行者」村上華岳の芸術論を読んで

すべてが美しすぎる という
破滅の意味を体験する

夢がない
こんな夢を見たのは生まれてはじめてだ

 




20世紀詩人の日曜日
田村 隆一
マガジンハウス

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(65)

2009-04-25 00:28:06 | 田村隆一

 『ぼくの航海日誌』(1991年)は、田村の誕生から1991年までの半生を描いている。自伝である。自伝を書くことで田村は何をしようとしたのだろう。最後におさめられている「二月 白」。その最後の部分。

ぼくにとって現在は
白という色彩 現在を指で触れたかったら
ユトリロの色彩を見るがいい

白という色を産みだすために
ただそれだけのために
ぼくは詩を書く

一行の余白
その白
その断崖を飛びこえられるか



 田村の「白」とユトリロへのこだわりは『新世界より』の「白の動き」にすでに書かれている。田村の自伝が、最終的に描き出しているのは、その「白」への強い希求である。「白」とはいったいどんな色なのだろう。
 それは、たぶん「灰色」と関係している。田村には『灰色ノート』という詩集がある。「白」はその「灰色」と連動している。「白」は「灰色」からうまれてくるのか。あるいは、「灰色」は白からうまれてくるのか。

 「白」と「灰色」のあいだで、動きだそうとする田村がいる。『ぼくの航海日誌』は、その動きだすための準備のように見える。

古い年は過ぎ
新しい年がくる その新しい年も
またたくまに
古くなるだろう ぼくらは
過去をつくりながら地上を旅するのだが
どこの国へいっても出会うのは過去ばかり
未来は
ぼくらの背後から追跡してくる

 「未来」を「白」を手にいれるには、「過去」を「灰色」を「肉眼」で見つめなおさなくてはならない。「過去」と呼ばれるものと「いま」との「間」のなかにある動き、それを見極めようとしたのだと思う。





青い廃墟にて―田村隆一対話集 (1973年)
田村 隆一
毎日新聞社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(64)

2009-04-24 00:42:02 | 田村隆一

 「新世界より」には不思議な1行がある。

第二次世界大戦後は 王様は
数少なくなってしまって そのかわり
クレヨンも二十四色から数百色
コンピューターによれば赤だけで三千色
これでは絵も描けないし 舌も出せない

 この「舌」は何?
 「舌」ということばが田村の詩のなかで、どんなふうにつかわれているか分類・分析すればわかるだろうか。
 「想像の舌」では、

きみの舌をできるだけ長くのばせ
その舌が

どんな地平線に
どんな水平線に
触れられるものか試してみるんだ

 と書かれていた。
 「舌」はことばかもしれない。「舌」をつかって、ことばを発する。「舌」はことばの「肉体」かもしれない。
 「想像の舌」は「苦み」「痛み」に触れた。味覚と触覚。その融合。そして、それは「ことば」のなかで姿をあらわした。
 どんなことがらも「ことば」のなかで起きるのである。

 「沈める都市」の「2」の部分。

人の耳は海の色の変調が見えない
人の目は岩礁に砕かれる白い波頭が聞えない

 こう書く時、その反語として、田村には「肉耳」には海の色の変調が見える。「肉眼」には岩礁に砕かれる波頭が聞こえるという意識がある。
 そうであるなら、次の部分は、どんな反語を隠しているのだろうか。

まして
雪の上の足跡
草原の微風
野の花ヒースの荒野
猫の目スノー・ドロップ
森の小鳥の海鳥の裂かれた舌
人の耳も目も
また舌も
観察することも批評することも
できっこない まして創造することは

 もし、人間が「肉眼」「肉耳」を、そして「肉舌」を獲得できたら、ひとは雪の上の足跡を聞くことができる、草原の微風を見ることができる、ヒースの荒野、猫の目、小鳥の舌を観察することはもちろん批評もできる。さらには、創造することができる。
 「肉眼」「肉耳」「肉舌」は創造するのである。ことばは、創造に従事するのである。
 創造とは何か。
 「沈める都市」の前半。

その海は生物の母胎
生物を殺戮する悪の女神

生物は海で創造され
生物は海で破滅し

創造から再創造へ
破滅によって再生する

 「肉舌」は、あるいは「肉ことば」といってしまおう。「肉ことば」はすべてを破滅させ、同時に、破滅させることで再生させる。破滅が、創造である。破壊が創造である。


 そして。

 「新世界より」にもどろう。「肉ことば」は数が多ければいいのではない。クレヨンの数、赤だけでも三千色もあるコンピューターの色のように、ひとつのことに属する「ことば」が3000あればいいのではない。「王」のように、わがままな、独裁的であれば、それは数少なくていいのだ。
 だれにも奉仕しない独裁者。君臨するひと。王。
 そのことば、「肉ことば」だけが、世界を創造する。破壊しながら、あたらしく創造する。

 そんな夢が、祈りが「舌」ということばの源をささえている。




田村隆一―断絶へのまなざし (1982年)
笠井 嗣夫
沖積舎

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(63)

2009-04-23 00:00:26 | 田村隆一
 『新世界より』(1990年)を読む。
 田村は何度も同じことを書いている。同じことを書くのは田村だけにかぎらないから、田村もまた同じことを何度も書いている、というべきか。その繰り返しかいていることのひとつに「肉眼」ということばがある。
 「人が人になるのには」の「目」の部分。

目が肉眼になるまでは
五十年かかる
青年の時はイデオロギーや観念でしか
ものを見ていない
海の微風 木枯しの音
世界の影の部分が見えてくるまでには

 最後に「五十年かかる」という1行が省略されている。
 「肉眼」はここでは間接的に定義されている。青年の時は「肉眼」ではなく「イデオロギーや観念で」ものを、世界を見ていた。イデオロギーや観念を捨て去るのに人間は50年かかる、と田村は考えている。この50年というのは正確に「50年」というよりは、ばくぜんとした「おとな」になるまでの「間」のことである。
 なぜ、人間は、イデオロギーや観念でものを見るか。楽だからである。イデオロギーや観念は体系(思考の遠近法)を持っている。それを「もの」にあてはめると、きちんと遠近法ができあがるから、何かを見たような気持ちになる。これを捨てるのは、確かに、むずかしいことだと思う。
 だが、どうやればイデオロギーや観念を捨てることができるのか。
 「想像の舌」は、そのひとつのヒントである。

きみの舌をできるだけ長くのばせ
その舌が
どんな地平線
どんな水平線に
触れられるものか試してみるんだ

その苦さ
その痛み

想像の舌を長くのばせ
できるだけ

苦さと痛みの感触が
きみの味覚を刺戟したら

詩は
星の光り
あさぎ色の草原の風
黙りこくったまましずかに呼吸している
一本の木

 「想像の舌」で地平線、水平線に触れる。そのとき「詩」がやってくる。「詩」は「肉眼」で見るものである。「肉眼」でつかむものである。
 この詩でおもしろいのは、「肉眼」を「視力」ではなく、「味覚」と「触覚」で代弁していることである。「苦さ」は「味覚」、「痛み」は「触覚」。ふたつの感覚が融合している。感覚がひとつのものであることを超越した瞬間、その感覚器官は「肉眼」になる。「詩」をつかみとることができる「器官」になる。
 「肉眼」とは顔のなかほどにあるふたつの器官のことではなく、詩をつかみとる機能、運動のことである。「肉眼」を「もの」の名前ではなく、「運動」にあたえられた呼び名なのである。
 「感覚の融合」とは、別なことばでいえば、「感覚」の働きを定義している「固定観念」の否定である。破壊である。「舌は味をみるもの」という固定観念でとらえていては、その想像力をどれだけのばしてみても「地平線」「水平線」にとどかない。「味覚」だけであく、「触覚」もある、そのふたつがまじりあったものととらえるとき、舌は「味覚」を超越する、「味覚器官」という固定観念を破壊する。その破壊の果てに、新しい世界、詩がやってくる。

 「白の動き」という作品にも「肉眼」ということばが出てくる。ユトリロの絵から刺戟受けて書いた作品だ。

彼のオブジェは、教会であろうと、婦人のお尻であろうと、下地は「動いている白」である。
ぼくは、欧米の小さな美術館で、ユトリロに出会うと、わが灰色の青春がよみがえってくるのだ。ある特定の思想や、感情があったら、画家の手は動くまい。画家によって、ぼくらは肉眼をあたえられると思うべきだ。
画家もまた、手によって自分自身の肉眼を造形し、「白」の連動を体験するにちがいない。

 「イデオロギーや観念」は「特定の思想や、(特定の)感情」ということばで繰り返されている。「特定」のもの、「定められた」ものの拒絶がここでは、繰り返し書かれている。
 田村は、「肉眼」を「造形」するものととらえている。それは最初からある肉体の一部の器官ではなく、人間が「造形」する、つくりあげていくものなのである。だから「50年」かかる。最初から肉体に備わっているものなら、「50年」は不要である。
 田村は、そして、ユトリロの場合「手」で「肉眼」をつくると考えている。みている。「想像力の舌」ではなく、ユトリロは「手」を動かすことで「肉眼」を手にいれる。
 このとき、つまり、私たちがユトリロの絵をみて、そこに詩を感じるとき、私たちはユトリロの「肉眼」を体験していることになる。
 ひとは、他人の肉体を体験できる。--これは奇妙なことのようだが、実は日常的にありふれている。だれが見知らぬ人が道端でうずくまっている。そのとき、私たちは自分の腹が痛むわけでもないのに、彼は腹が痛いのだと想像の中で体験している。人間の肉体には、そういう「想像」を誘い込む力がある。ユトリロの「肉眼」がはっきり何かを見たのなら、その「肉眼」とまた絵を見る人の「肉眼」になる。「特定の思想、感情」にとらわれていない、まだ定まっていない(固定していない)何かにふれる。何かを見る。

 「白」の連動を体験する

 このことばのなかにある「連動」、そして「連動」のなかにある「動く」ということば。それは「固定観念」の「固定」を否定することばである。動くのだ。「白」がさまざまなものとつながり動く。連動する。それは「白」いがいのものをも揺さぶり、破壊し、動かすということである。
 「肉眼」が見る、とは「動き」を見るということである。この「動き」とは、これまで田村の思想を語るのにつかってきたことばで言い直せば、「生成」である。あるいは「誕生」である。





あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(62)

2009-04-22 01:10:13 | 田村隆一

 「生きる歓び」は田村が飼っていた猫と尾長(鳥)を追悼する詩である。

生のよろこび
生のかなしみ

死のかなしみ
死のよろこび

ぼくらはその世界で漂流している
神あらば
大爆笑になるだろう

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる
猫のチーコ 尾長のタケ
十八年も生きつづけて いま
桜の木の下で眠っている

人生痛苦多しといえども
夕べには茜雲あり
暁の星に光りあり
チーコ タケ
チーコは仔猫になって永福寺(ようふくじ)あとの草原をかけめぐれ
タケ 小さな山の上を小さな羽根で飛びまわれ

 死んでしまった猫と尾長が記憶の中でよみがえる。死者が記憶の中でよみがえる。それは誰もが体験することである。その誰もが体験することを、

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる

 と田村は書いている。
 ここに書いてあることは、誰もが知っていることなので、その知っていることを「比喩」として書いてあるだけ--と単純に思ってしまう。単純に、そう思ってしまうけれど、やはり、これは田村にしか書けない行である。田村しか書かなかった行である。
 死が生を生む。死を通って生はよみがえる--このことばは矛盾である。ふつうは生には死がやってくる。生を通り抜けて死にいたる。田村のことばは、その「時間」の流れとは一致しない。矛盾する。
 その矛盾を解体するために「卵」という比喩がつかわれている。「比喩」とは矛盾を解体するためにとおらなければならない「場」なのである。

 「時」には、甲という時と別の乙という時があって、それが出会った時に甲と乙との「間」として「時間」が動きはじめる。「差」(隔たり)があって、それが「間」であり、その「間」にこそ「自由」がある。
 このことを「比喩」にあてはめてみよう。
 「比喩」が「比喩」であるためには、その「比喩」は描こうとしている対象そのものではない。
 「死は卵だ」という「比喩」が成り立つためには、「死」と「卵」のあいだに「間」が、隔たりがなければならない。実際「死」と「卵」は同じものではない。「死」は「もの」ではない。手でさわることもできない。「死」と「卵」を勘違いするひとはだれもいない。そこには決定的な「間」がある。
 そして、それに決定的な「間」があるにもかかわらず、それではその決定的な「間」とは何なのか、私たちは、うまく語れない。少なくとも私にはそれを語ることができない。隔たりすぎていて、「間」というものを意識すらできない。「死」と「卵」は無限大に遠い。これでは、意識は動いていかない。
 別の例で説明する。
 たとえば「少女は薔薇」という比喩。「少女」と「薔薇」は同一ではない。ふたつの存在のあいだには「間」がある。しかし、それが比喩である時、その「間」を「美」という観念が駆け抜け、ふたつを結びつける。「間」は「間」でありながら、しっかりと結びつく。
 そのときの「美」というベクトルが意識される時、比喩は比喩になる。比喩を構成する要件にはふたつあることになる。ふたつの存在のあいだの「間」、そしてその間を結ぶ「ベクトル」。
 「死」と「卵」には巨大な「間」は存在するが、それを結びつけるベクトルはない。だから、これは、ふつうの「比喩」ではない。

 「死は卵だ」が「比喩」になるためには、「ベクトル」が必要だ。このベクトルを田村は「破って」という動詞でつくりだしている。「破って」という動詞が「死」と「卵」の「間」を駆け抜けることによって、それははじめて「比喩」になる。
 この運動をつくりだす時につかう「動詞」--そこに、田村の「思想」が凝縮している。
 何度も書いてきたが、田村の矛盾は、矛盾→止揚→発展という形で昇華はしない。存在を、その存在の存在形式を破壊し、対立構造そのものを解体するというのが、田村の矛盾の形式であった。そのときの運動のありようが「破って」ということばとして、ここに凝縮している。
 「破る」「破壊する」「解体する」--そのとき「間」も解体する。そして、その瞬間に「自由」があふれだす。「生きる歓び」が。

 別の角度からもう一度。
 「生」と「死」。その「間」。「間」をつくりだしている何か。「生」と「死」はまったく別のものであるけれど、そのふたつのものに「間」というものが存在しうるのか。「死」と「卵」の「間」は無限大だったが、「死」と「生」は? まったく違うものなのに、そのふたつのものに「間」はない。しっかり隣り合っている。分離不能である。「生」がおわったところから「死」なのである。「間」は存在しない。
 「間」が存在しないのに、「比喩」をつかう。「間」を呼び込むことばを田村はつかう。そして、「破る」という動詞を持ち込むことで、「間」の存在を明確にし、同時に「間」を破壊することで「自由」の在り方を指し示す。
 このときの「比喩」と「動詞」は、また、不思議なものに触れている。
 「その卵を 破って」と田村は書いているが、これは正確には(?)、「卵の殻を破って」ということになるだろう。「間」はほんとうは存在する。「卵の殻」のように破ってしまえば、その存在形式がかわってしまうほど存在そのものに密着したかたちで、ふたつのものをわける「間」がある。「間」は「無限大」ではなく、逆に「無限小(?)」だったのである。「無限大」と「無限小」が結びついている--そういう「存在形式」がある。「矛盾」がひとつのもののなかで固く結びついていることがある。それを田村は「破る」。「やぶる」ことで、その矛盾を「自由」に転換しようとする。

 そして、このとき、田村は「卵の殻」の「殻」ということばを省略している。省略すると同時に、1字分の「空白」、アキを書いている。
 これは、とても重要なことだと私は思う。
 「卵」には「殻」がある--ということは周知の事実である。「卵を破る」といえば「卵の殻を破る」というのに等しいことはだれでもわかる。だれでもわかるから「殻」を書かなかった。それは、ひとつの理由である。しかし、「殻」を書かなかったのは、それだけではないと私は思う。「殻」と書いて、そこに「小さな間」を出現させてしまうと、田村の書こうとしていることは違ってきてしまう。田村は、そういうことを無意識のうちに知っていたのだと思う。
 卵の2行は、

死は卵だ
その殻を 破って

 とも書くことができたはずだ。「卵」「殻」とことばをかえた方が「卵」を2回つかわずにすみ、ことばの変化が出たかもしれない。(そのかわり、なんとも「間延び」した、だらしないことばの動きになる。)
 しかし、「殻」と書いてしまえば、そこに「境界」ができる。「境目」ができる。「生」と「死」は確かに違った存在であるが、そこには「境目」はない。「殻」と書くと、その「殻」のなかに境目ができて、田村の生死観と違ってきてしまうのである。
 その、間違った方向へ動くベクトルを制御するために「殻」は省略されている。しかも、「破る」という動詞は絶対に書かなくてはならない。
 この複雑な問題を通り抜けるために1字空白が導入されているのである。空白によって、意識を緊張させているのである。
 多くの詩人が1字空白をつかう。改行をつかう。ほとんど無意識につかっいると思う。田村も無意識でつかう時が多いかもしれない。しかし、この「その卵を 破って」というときの1字あきには、精神の運動を正確に描こうとする意識がはっきり働いている。その意識が、つぎの「生はよみがえる」という行の前に、1行あきを呼び込んでいる。

 ことばには書いていいものと書いてはいけないものがある。

 1字あきという「間」、1行あきという「間」。この詩では、その「空白」に田村の思想が凝縮されている。
 --私は、ほんとうは、そこから書きはじめるべきだったかもしれない。
 「生きる歓び」は猫と尾長のことを思い出している小さな作品である。飼っていたペットのことを思い出すというのは誰もが体験する小さなことがら(?)である。けれど、

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる

 この3行(1行あきを含めれば4行)には田村の思想が凝縮している。ペットのことを思い出すという「内容」に目を向けると、読み落としてしまう大事なものが凝縮している。



新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)
田村 隆一
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(61)

2009-04-21 01:03:42 | 田村隆一

 「間」をとは何か。「光りと痛み」のなかでも、田村のことばは「間」を追いかけている。「時間」を「時・間」ととらえて、「間」を見つめている。

月の光りだと
地球にとどくまで一・三秒しかかかならない
すると月光によって
詩に駆りたてられる人間は一・三秒の誤差があるわけだ
太陽の光りは八分十六秒六もかかる
詩人よりも農夫のほうが光りの誤差に耐えなければならないな
誤差の力学から考えると 詩よりも草木のほうが詩的だということになる

 「誤差」とは「間」の大きさのことでもある。そして、田村は、この「間」が大きい方が「詩的」だという。「誤差」こそが「詩的」だということになる。
 「誤差」「間」を求める。そこに田村の思想がある。
 何度か弁証法について書いた。矛盾→止揚→発展。この運動にあっては「誤差」は許されない。別なことばで言うと、この運動にあっては「間」、あるいは「飛躍」というものはあってはならない。それは「連続」したつながりでなければならない。しっかりしたつながりで、発展という方向へ運動を組織していくのが弁証法の哲学である。「矛盾」というものには必ず「間」がある。対立するものの間には、互いを拒絶する何かがあって、それが「間」をつくりだす。その「間」を少しずつ取り除き、ぴったり重ね合わせてしまうことが止揚であり、その止揚の結果、「間」を、つまり矛盾をつくりだしていたものは、発展的に別の存在になる。別の存在ではあるけれど、そこには緊密な運動が確立されている。矛盾→止揚→発展という運動の「確立」が弁証法である。
 田村の運動はまったく逆である。矛盾が矛盾として認識されるのは、それが対立するだけではなく、なんらかのつながりを要求するから矛盾になるのである。つながりを(連続を)もとめないかぎり、それは別個に存在するだけで矛盾にはならない。水と火は、離れて存在するかぎり、互いを否定はしない。矛盾した存在ではない。
 世界というのは、ある意味では、離れているものが連続する形にととえようとする運動でもある。人間は、あらゆるものをひとつの連続体系のなかに組織的にとらえようとする。どんな連続形式として世界を描写できるか--を科学は求めている。それを追究するのが「発展」でもある。
 田村のことばは逆である。連続を求めるものを叩ききることにある。水と火は矛盾した存在である。それはそのままの形で結びつけようとするから矛盾なのである。結びつける運動を解体してしまえば矛盾しなくなる。水と火を遠く隔てて結びつかないものにまで解体してしまう。水を、たとえばH2Oにしてしまう。さらには、HとO、水素と酸素にしてしまう。それは、火を消しはしない。逆に燃えあがらせる。あらゆる存在は、解体しつづければ、どこかで矛盾しなくなる。
 それは、どの段階まで?
 原子? 分子? 陽子? 中性子? 素粒子?
 それは、もしかすると、矛盾を消す解体であるだけではなく、副作用として原子爆弾のような破壊、あるいはブラックホール、ビッグバンという制御できない運動を引き起こすかもしれない。
 それがどういうものであれ、田村が求めているのは、そういうものである。
 素粒子ついでにいえば(?)、素粒子は見えない。それを見るためには、論理によって、原子の、あるいは分子の構造に「間」を導入しなければならない。分子の世界を宇宙的規模に拡大しないと、つまり巨大な「間」を導入しないと、それは見えて来ない。
 田村が詩でやろうとしていることは、大げさに言えば、そういうことである。
 世界の結びつきを解体する。存在そのものを解体する。存在をエネルギーの基本的な形にまで解体し、それが自由に動き回れるようにする。それが、詩だ。詩のことばの夢だ。「間」を、巨大な「間」をつくりだすことが、世界を自由にうごかす出発点なのである。
 「間」のなかで見えるもの--それは、現実そのものとは違って見える。素粒子の運動は、たとえば私たちの現実とは重ならない。その重なりを目で、耳で、手でつかみ取ることはできない。つまり現実と素粒子の運動の間には、巨大な「誤差」がある。そして、「誤差」が大きいほど、それは「真実」というか「真理」というか、存在の「自由」に触れているのである。

 そういうものを、どうやってことばは見えるようにすることができるか。「肉眼」で見えるようにできるか。
 その答えは、わからない。
 わかるのは、何がそういうものを妨害しているか、ということである。
 田村は「魂」をやり玉に挙げている。

それにしても ゴッホは耳を切るべきではなかった えぐるなら両の眼だ
じゃ詩人は?
魂という腐敗性物質さ
 不定形のくせに形式があり
 光りよりも
 もっと遅れてきては
 痛みをかきたてるからね

 「魂」。「形式」をもった腐敗した存在。「形式」というのは、連続性のなかにある。田村は、連続するもの、連続して形を描き出そうとするものを「腐敗している」と考える。腐敗していないもの、健康なものは、連続を解体し、自由に動くものだけである。常に、連続するものを解体しつづける力だけが「自由」の名に値するのだろう。
 解体する。関係を解体する。「間」をつくりだす。ことばすら解体し、ことばとことばの「間」を拡大する。「意味」を拒絶する。「意味」を破壊し、否定する。

 「現代詩」は難解だという。あたりまえである。現代詩は「発展」をめざしていない。ことばの「解体」を通して、別なことばで言えば、ことばを批評することで、ことばに自由を持ち込もうとしているからである。それは「日常」の連続性ではとらえることができない。逆に言えば、難解でなければ詩ではない、ということになる。


腐敗性物質 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(60)

2009-04-20 02:02:11 | 田村隆一

 『生きる歓び』(1988年)に「between 」という詩がある。そこでは「時間」と「間」に関することばが出てくる。

時の歩みは人間の足にくらべたら
気が遠くなるくらいのろいということも分ってきた
十万年前か百万年前に(わたしにとっては紙一重だ)
はじめて直立した人間の
脳髄の衝撃を追体験しようとすると
一瞬 わたしは目まいに襲われる

 「十万年前」と「百万年前」との「間」には「九十万年」の広がりがある。しかし、それは田村にとっては「紙一重」である。つまり「間」が存在しないに等しい。なぜか。「九十万年」という「時」の「間」は「頭」では理解できるが、「肉体」では理解できないからだ。そして「頭」の理解というのは錯覚でもある。「頭」は「数字」の違いによって、見えないものを見えるようにさせているだけであって、だれも(どんな人間も)、「九十万年」がどれだけの長さ、広がりなのか「体験」したことはない。
 「体験したことがない」ことを人間は理解できる。あるいは「体験していない」からこそ、間違えずに理解できる--ということかもしれない。たとえば「九十万年」という時間の広がりをだれも体験していない。だからこそ、私たちは「 100万年-10万年=90万年」と「正確」にその「間」を表現することも、把握することもできる。実際に、たとえば91万年生きたとしたら、その長さを、たとえば「91万年」と「90万9999年」の違いを私たちの「肉体」は具体的に語ることができるだろうか。きっと、できない。体験していないからこそ、私たちは正確に表現できる、理解できるということもあるのだ。

 これは、逆のこともいえる。逆のことを考えると、おもしろいことが起きる。私たちは1歳くらいのとき、はじめて「直立」して歩く。これは誰もが体験することである。その体験を正確に記憶している人間は、たぶん、いない。けれども、子供が立ち上がって歩く姿を見ると、その最初の「直立」を見ると、自分もそうしてきたことが「わかる」。「理解する」というより「わかる」。
 その「わかる」ことをもとにして、「はじめて直立した人間」のことも、「わかる」。あるいは、わかったような気持ちになる。その瞬間、不思議なことが起きる。
 「十万年前」「百万年前」の「差」が消えて、ただ「直立する」という肉体の行動だけと人間が結びつく。
 目の前の子供が(赤ちゃんが)直立して歩く--その姿を見た瞬間、自分もそうであったと「わかる」ように、なにかが「わかる」。10万年、 100万年の「時」を超えて、なにかが「わかる」。他人の経験というものは、けっして「わからない」ものであるはずなのに、「わかる」。
 別な例を挙げた方がいいかもしれない。たとえば、道端で腹を抱えてうずくまる人を見たとき、私たちは、その人が「腹が痛いのだ(あるいは体のどこかが痛いのだ)」ということが「わかる」。他人の「肉体」の痛みは自分の「肉体」の痛みではないのに、それが「わかる」。
 「肉体」というのは「間」を消してしまうものなのだ。「間」を飛び越して、なにかを結びつけてしまうものなのだ。
 そういうことを、田村は、道端の人間に対してではなく、あるいは赤ちゃんに対してではなく、「はじめて直立した人間」に感じる。「わかる」。なにかを共有する。そして、そのとき「肉体」を隔てているのは、「空間」としての「距離」だけではなく、そこに「時間」の「間」が入ってくる。
 「肉体」は「時間」の「間」も、超越する。あるいは浸食する。超越と浸食は、たぶん、正反対のことなのだろうけれど、その正反対のもの、矛盾したものが、同じものになる--というのが田村のことば、思想の特徴である。


 この、肉体と時間の「間」の関係について書いている詩が、病院を舞台にしているのは、すこし暗示的である。象徴的である。肉体の変化が、「時間」というものへと田村の視線をひっぱっていっているのかもしれない。



あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(59)

2009-04-19 01:18:27 | 田村隆一

 詩は、いつでも「矛盾」の形でしか書けない。そして矛盾のなかにこそ、詩がある。
 「大火災」の「矛盾」は「時制」が逆転することろに現われている。

明日 ぼくは枯れ葉のベッドで産れる
今日 ぼくは地下鉄のなかで恋をする
昨日 ぼくは罪の意識もなくあっけなく死ぬ

もう一度、田村は繰り返す。

<明日>は過去形
<昨日>は未来形
<今日>はいつまでたっても現在形

 このことを、田村は、さらに言い換える。

いつまでたっても現在形
というのは
じつに不愉快である
<昨日>の新聞はすこしも面白くないが
三十年前の新聞なら読物になる
世界はいつも危機の情報にあふれていて
危機がなくなれば世界は消滅するだろう
何人かの皇帝と独裁者が亡命し
共和国ができたかと思うとたちまち内戦になり
飢えと肥満が競合しあって
かろうじて地球の生態系をたもっている
五千年まえとまったくおなじ生活様式を生きている遊牧民もあれば
一円の為替差損で自殺する優雅な人間もいる
つまり
この世に<明日>はないということだ
過去形でしか<明日>は表現できない
人間の言語構造そのものが倒立しているのだから
<あの世>から<この世>を見なければならない

 これは簡単に図式化(?)していえば、<明日>起きるだろうことは、すでに<昨日>つまり、過去に起きていることばかりである、ということになる。厳密にいえば過去と同じことが起きるわけではないが、同じ運動が繰り返されているということである。過去に起きなかったことなど、未来に起きるはずがないのである。私たちの「時間」は、それほどたくさんの「過去」をもっている。起きなかったことなど、もうすでにない。それは語られなかったことなど、もうない、ということに等しい。
 <明日>へ進むことは<昨日>をもう一度生きることなのである。
 「温故知新」ということばがあるが、ここに書かれていること自体、「温故知新」ということばが語っているように、すでに書かれてしまっている。そっくりではないが、類似のことが書かれている。「未来」へ進むためには「過去」をていねいに掘り進まなければならない--というのは、すでに語られていることである。
 それでも、そうするしかない。

 こんなことは、どう書いてみても、はじまらない。田村のことばの特徴をみつめることにはならない。

 田村は、他のひとたちと、どこが違うのか。同じこと(類似したこと)を書きながら、どこが違うのか。

<今日>はいつまでたっても現在形

 この行のなかにある「いつまでたっても」が田村のことばを動かしている。「過去」は掘り進めば「未来」になる。「未来」はそこに突入してしまえば、たちまち「過去」になる。過去も未来も、そんなふうにして変化する。しかし、<現在>だけは、かわらない。いつまでたっても「現在」という時制を生きている。
 だが、ほんとうか。
 「未来」という時間など、ほんとうはない。「現在」が「過去」になりつづける。その運動の結果、まぼろしのように、私たちは「未来」を思い描くだけであって、だれも「未来」を体験したものはいない。「現在」しか体験できず、体験した「いま」が「過去」にななりつづけるだけである。
 <明日><今日><昨日>というもの、未来・現在・過去という時制は、私たちの意識がつくりだした「方便」のようなもの、「肉体」がかかえこむ錯乱である。

いつまでたっても現在形
というのは
じつに不愉快である

 と田村は書いているが、この「不愉快」が田村の「思想」である。「いつまでも・不愉快」。それをなんとかしたい。だから、「過去」へではなく、「いま」を耕すのである。わかったように、「温故知新」とはいわない。(方便として、私は、田村は、そういうことを書いていると説明してしまったが……)。
 「温故知新」のような、語り尽くされた「哲学」は放り出して、田村は「いま」をただ耕す。次のように。

そこで
ぼくは 散歩に出る
秋の午後二時というとひとはいない

 そして、酒屋を見つけ、ビールを飲む。ビールを飲みながら、あちこちで飲んだアルコールのことを思い出す。語り尽くされた哲学を捨てるために、ただビールを飲み、過去の記憶を次々に捨てるようにして、ことばをまき散らす。どこまで捨てても、ことばは、しかし次々にあふれてくる。捨てきれない。
 その矛盾。その不愉快。

 もし、詩が、そして思想があるとすれば、その「肉体」の「不愉快」である。田村は「不愉快」の詩人である。
 --と書いてみたが、その「不愉快」の実体をきちんと浮かび上がらせるのは、とても難しい……。

田村隆一ミステリーの料理事典―探偵小説を楽しむガイドブック (Sun lexica (12))
田村 隆一
三省堂

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(58)

2009-04-18 01:18:39 | 田村隆一

 『毒杯』(1986年)の最後のページは「まだ目が見えるうちに」という作品である。その後半。

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくは書いたことがあったっけ
その過ぎて行く人を何人も見た
ぼくも
やがては過ぎて行くだろう

眼が見える
いったい
その眼は何を見た

「時」を見ただけだ

 この詩は二つの点でおもしろい。ひとつは

「時」を見ただけだ

 と直接、「時」に言及していることだ。「時」はもちろんふつうは目には見えない。どんな視力のいいひとでも「時」を見たひとはいないはずである。それは「物体」ではないからだ。では、何か。存在の「形式」である。ものが存在する時の、在り方である。それは、いわば「観念」に属する。
 しかし、それを田村は「見た」という。
 何で見るのか。「眼」。ただし「肉眼」である。「肉眼」とは「肉体」であるけれど、その「肉体」というのは、「存在の在り方」なのである。「存在の在り方」としての「眼」が、つまり、そこに「思想」がかかわっているとき、「眼」は「肉眼」になる。
 そして、ややこしいことだが、その「思想」というのは、たとえばマルクス哲学であるとか、フランス現代思想であるとか、いわば「借り物」のであってはいけない。そういうもの、「頭」で学んだものを、切り捨てたときに残るもの、自分の「いのち」にからみついた、まだことばにならないもののことである。ことばにならない何か--それをくぐり抜けたとき、そのことばは「肉体」になり、そのとき、その「肉体」は「思想」になり、その結果として「肉眼」が、いままでは見えなかったものを見るのだ。ことばの力によって、それを存在させるのだ。「見る」とは「見える」ではなく、「見える状態」にさせることである。ことばをつかって、ふつうは見えないものをみえる状態にする。それが「肉眼」で「見る」ということである。
 
 もうひとつの興味深い点。

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくは書いたことがあったっけ

 この「あったっけ」。それがおもしろい。
 「肉眼」で「見たもの」--それが「思想」である。それは確かにそうなのだが、ある種の特別な人間は「肉眼」が形成される前に、何かを見てしまう。啓示。インスピレーション。見てしまう、というより、見えてしまう。
 「時が過ぎるのではない/人が過ぎるのだ」が、それにあたる。
 「思想」になる前に、ことばが、特別な人間--詩人にやってくるのだ。
 詩人は、その「見えた」ものを、自分の力で見るために「肉眼」を鍛える。いま「見えたもの」がほんとうに存在するのか。それとも、錯覚なのか。それを見極めるために、詩人はことばを動かす。
 田村だけにかぎったことではない。多くの詩人は、あるいはことばに携わる多くのひとは、何度でも同じことを書く。同じことばを書く。それは、それがほんとうに自分の「肉眼」が見たものなのか、そうではなく錯覚なのか確かめると同時に、もう一度、「肉眼」を意識してもそれが「見える」かどうか確かめるためでもある。

 ことばを反復する--そのとき、ふたつのことばの間に「間(ま)」が生まれる。その「間」は「時間」につながる。
 そして、そのことばの反復というとき、詩人は、自分のことばだけを反復するのではない。
 田村は、これまで書いてきた詩のなかで、多くの人のことばを引用している。西脇順三郎のような有名な詩人のことばだけではなく、街で出会った(外国で出会った)市井のひとのことばも引用している。たとえばアメリカ大陸を横断する列車の車掌のことばを。
 ことばを反復するとき、そこに「間」が生まれる。その「間」は「いま」と「過去」、あるいは「田村」と「他人」の「差異」でもある。その「差異」のなかに「時間」にかかわることがひそんでいる。「思想」の違い--そして「思想」の共通性がひそんでいる。それを見る、それをことばとして存在させるのが「肉眼」である。

 「まだ眼が見えるうちに」というタイトルは、田村の、まだ「肉眼」がとらえたものを書きつづけるという「詩人宣言」なのである。



ぼくの人生案内
田村 隆一
小学館

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする