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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(88)

2020-08-10 10:20:11 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

遺稿ノート Ⅱ

* (僕が波打ち際を遠く歩いてきてつかれたならば)

砂浜に坐つて
ぼくはなにを思うだろうか

 行動を思い描くだけではなく、何を思うかを思い描く。思いが二重化する。あるいは、「言語化」する。
 嵯峨は「行動」を求めているのではなく、「ことば」を求めている。
 行動したあと、その行動を確認するためにことばが動くのではなく、ことばを動かすために行動する。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(87)

2020-08-06 14:44:12 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (時間の荒野というものだろうか)

ぼくに関りのあるものは何一つない存在のぜんたいの動きだ

 そこには「ぜんたい」がある。だから、「ぼく」には「関りのあるものは何一つない」というのだ。もし「ぜんたい」ではなく何かが動いているのなら、「ぼく」はそれについて「関り」をもつことができる。

 そんなことは書いていない、かもしれない。

 しかし、「ぜんたい」ということばが「完璧」な何か、完成されたものを感じさせるので、考えてしまうのだ。「完璧な存在」は、いつも「ぼく」を拒んでいる、と。




*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(85)

2020-07-29 09:32:38 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (宇宙のはてに小さな橋がかかつている)

ぼくはときどきそこを通るものを考える
まだ名づけられていないもの

 「考える」ということばは「思う」よりも意識的である。精神的である。心情的ではない、と言えばいいのか。
 「名づけられていない」には「名づける」という意思(精神的意欲)が感じられる。
 「名もないもの」なら「事実」。
 「名ものないもの」に「名づける」のが詩である。
 「名づける」とは「名もないもの」に、自分の「意思」という「橋」をかけ、渡っていくことである。


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(84)

2020-07-21 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくを疑うのか)

小児の掌ほどに世界が小さくなつて
ぼくの胸におさまるのだ

 これは願望だろうか。それとも絶望だろうか。
 「小児の掌」をどう読むか。純粋さと読むか、脆弱さと読むか。「小さくなる」は否定的なイメージをもつが、純粋さ(結晶)にもつながる。
 おそらく嵯峨は「願望」(希望)のようなものを書こうとしているのだと思う。多くの嵯峨の詩にあるのも、そういう「青春の夢/抒情」だからである。
 だからこそ、私は「絶望」と読んでみいたい気持ちに襲われる。「ぼくも絶望することがあるのだ/絶望を疑うのか」と叫んでいると読みたい気持ちになる。
 理由はない。



*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(83)

2020-07-20 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (海が近くなつて)

川はばが広がつている
そうなつても
空はつつみこめない

 「意味」がつかみにくい。
 「空は」何を包み込めないといっているか。あるいは、川はどんなに川幅を広げても、空を包み込めない、なのか。「空は」と書くのは、空を強調したいからか。
 こんなことを考えてしまうのは、「そうなつても」という一行があるからだろう。「そうなったら」ふつうは、できる。しかし「そうなっても」できない。ここには「論理」がある。しかし、その論理がみえない。だから、「わからない」と思ってしまう。
 死の最終行は、唐突である。

何かの大きな意志が拒むのだ

 「意思」が特定されないまま、「意思」として登場する。この唐突が「詩」である。



*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(82)

2020-07-19 09:27:22 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (私は小声で話した)

ガラスの小さな水差のフチが欠けているのを見ていた

 「話した」という動詞を引き継いで、「見ていた」という動詞が動く。
 「ガラスの小さな水差のフチが欠けている」でおわると、そこに「非情」が動く。人間の「情」を超えて、ものが存在する。ものにはそれぞれの「時間(物語)」があり、それは人間とは無関係に生きているということが「現実」として噴出してくる。
 この「非情」の噴出を「非情」のまま書き留めると「漢詩」になる。
 「見ていた」と「私」を主語とする動詞が引き継ぐと、世界は「情(抒情)」に収斂していく。
 嵯峨は、基本的に「抒情」の詩人だが、それは、こういう動詞の動かし方にあらわれている。



*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(81)

2020-07-18 18:41:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくにはそのぜんたいを埋めることはできなかつた)

ところどころでも桜草を植えてみた

 「そのぜんたい」の「その」は何を指しているか。この詩からはわからない。わかるのは、嵯峨が「その」と意識していることだけだ。
 「ぜんたい」に対しては「ところどころ」が向き合っている。
 「ところどころ」というのは離れた場所をあらわしているだろう。
 この「分断(非連続)」が「できなかった」ということばを強調しているように感じられる。



*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(80)

2020-07-17 08:57:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (それが)

どこだと言うことはできない
散りかかつた花をかろうじて支えている小さな水差のように

 「どこ」と「水差」は同一ではない。「水差」は「どこ(場所)」ではない。だからこのことばの運動は「論理的」ではない。
 しかし「散りかかつた花をかろうじて支えている小さな水差」という存在は美しい。
 「散りかかつた花を支える」は「散らないように支える」という理解すべきなのだろうが、私は「散りかかる」「散っていくこと」を支えると読みたい。散らないように生きているのではなく、生きて、これから散っていく(死んでいく)という最後の運動を支えていると読みたくなる。
 私の読み方は「矛盾」している。散っていく(死んでいく)という運動を「支える」というのは「いのち/生きていく」に反している。
 しかし、詩は、いつでも矛盾したものの中にある。ありえないものが、ことばの運動として「存在する」瞬間に生まれる。それは一瞬だけ見えて、消えていく。



*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(79)

2020-07-16 08:25:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (何も考えていなかつた)

松林のはづれの道を歩いていたことは記憶している

 松林の「真ん中」ではなく「はづれ」。中心から外れるということが「考えない」につながる。言い直すと「考える」とは中心を目指すことである。あるいは、ことばを「中心」にあつめること、ことばが散らばらないようにすることである。
 たしかに中心にあつまり、整然とした形をとることばは美しい。「考え(思想)」と呼ぶにふさわしいかもしれない。
 けれど、詩は、どうだろうか。
 爆発して、中心をなくして、どこまでも拡大(拡散)しつづけることばも、また、詩である。



*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(78)

2020-07-15 09:04:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (どこに頂上があり どこに麓があるか)

叫びばかりが
遠く近く山腹を廻りながら谺している

 このとき嵯峨は「山腹」にいるのか。
 具体的な「場所」を想定することがむずかしい。山腹さえも嵯峨は見ていない。どこが山腹なのか、わからない。頂上や麓と同じように「抽象」である。
 「谺」だけを認識している。しかも、その谺は「廻る」のである。
 これは「叫び」がだれにも届かない、だれのところにもたどりつかず、嵯峨のまわりを廻っているということだろう。
 これもまた抽象的な感傷である。



*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(77)

2020-07-13 08:59:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (その人はどこへゆく)

冬の日が野をあまねく照らしているところを
その人の影が動き
ぼくの心のなかを水のように去つていく

 「その人」が繰り返され、「その人」を受け継いで「冬の野」が「ぼくの心」と言い直される。「現実」が「心象」になり、そのなかで「その人」が「水」という比喩になる。
 この「比喩」よりも、現実と心象、現実と比喩が交錯するということが、詩を成立させている。交錯をとおして、比喩は事実になる。




*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(76)

2020-07-09 10:22:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (水よ)

空へとどこうとして
急に無一文になつて地獄へ落下する水よ

 「無一文」と「地獄」が唐突に出てくる。
 「水」が比喩なのか、「無一文/地獄」が比喩なのか。
 「地上」と言わず「地獄」と言うところに、これを書いたときの嵯峨の壮絶さがあらわれている。
 「急に」ということばこそ書きたかったのかもしれない。「急に」だけは比喩ではなく、実感そのものだ。

 たぶん「思想(肉体)」は特別なことば(意図して書かれた比喩)に表れるのではなく、だれもがつかうことばに無意識にあらわれるものなのだ。





*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(75)

2020-07-07 09:04:24 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (愛するということはそういうことだろう)

夕顔の白い花を
大地から小鉢に植えかえることだろう

 これは逆の言い方も成り立つ。

夕顔の白い花を
小鉢から大地に植えかえることだろう

 「愛」とは、そういう「逆」が成り立つほど、「領域」が広い。
 それは「愛する/愛される」(能動/受動)においても言える。そのとき次第なのだ。でも、そのとき次第といいながら、この「逆」をつらぬく変わらぬものがある。
 植え「かえる」という「動詞(運動)」である。「場所」が問題なのではなく、「かえる」という行動が「愛する」ということなのだ。「植えかえない」という選択(行動)もあるが、「しない」よりも「する」方が「愛」が大きいと思う。




*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(74)

2020-07-06 09:09:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (故郷の川のながれが)

忘れていた言葉の布を織りあげている

 川の流れは縦の糸、記憶は流れを横切る(止める)横の糸か。交錯して、ことばになる。それも、忘れていたことばに。
 「故郷」と「忘れていた」は同じ意味。
 いま、故郷に帰って来て、川を見る。川の流れという縦糸が、嵯峨に記憶という横糸を交差させろとささやきかけている。




*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(73)

2020-06-30 16:54:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは帰つてきた)

稲妻が宇宙を一方的に横なぐりするような荒野を

 「一方的」を「横なぐり」が言い直している。この暴力が「稲妻」と「宇宙」と「荒野」を強く結びつける。強靱に結びつけるためには「一方的」と「横なぐり」というふたつのことばが必要だったのだ。
 この世界をさらに、

なぜかたつたひとりで

 と言い直す。
 このとき、「ぼく」は「稲妻」か「宇宙」か「荒野」か。区別することはできない。
 区別せずに、一気につかみ取ってしまうのが、詩だ。「ひとり」のなかに「みっつ」の世界が凝縮する。





*

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