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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(69)

2020-01-13 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくの唇はそれつきり閉じられた)

 その結果、「やさしい言葉は出てこない」。そのあと詩は転調する。

微風に
小枝のさきに残つている円い実が動く

 「微風」と「小枝」は響きあう。さらに「小枝のさき」と「残る」も響きあう。そういう「響き(音楽)」を経由したあと、「円い実が動く」とことばが結ばれる。
 「微風に」「動く」。ここにも響きあいがある。その動きは、当然「小さい」。(小枝が、そういう方向へことばを動かしていく。)
 こういう運動をさらにスムーズにしているのが「円い」である。
 これは「現実」の風景というよりも、こころがつくりだした情景というものだろう。
 他者に向けてではなく、自分自身の風景のためにことばが動いている。こういうことを「閉ざす」というのかもしれない。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(68)

2020-01-12 09:09:32 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはそこを歩いていこう)

ひとすじに思いをたどるだけで
どこに行きつくかも知らずに

 しかし、こう書くとき、嵯峨は「どこ」に行き着くかを知っている。「どこ」は場所を指し示すことばだが、目的地だけを指し示すわけではない。
 「ひとすじ」には「一つ」と「筋」の二つのことばがある。「筋」は細い。その「細さ」は「場」につながる。「狭い」。そしてそれは「一つ」しかない。すでに嵯峨は「行き着いている」のだ。
 「歩く」「たどる」「行く(行き着く)」と動詞はかわるが、その動詞が動いている「場所」は「筋」という限定されたところであり、しかも「一つ」である。「歩く/たどる/行く」がそのまま「着く」なのだ。
 そこ「へ」歩いていこうではなく、そこ「を」歩いていこうと書かれていることが、そのことを端的に語っている。「歩く」という動詞が「目的地」なのだ。








*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(67)

2020-01-11 09:37:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
海辺の町

* (小さな港に出た)

海の隅に
緑が休んでいる

 「港」と「海」。嵯峨は区別しているのだろうか。海の一部が港、港は海へとつづいていく。広がっていく。
 「緑」は「港」を指しているのかもしれない。
 海の動きに比べると、港の水の動きは静かだ。止まっている。そのために緑が深く見えるのかもしれない。
 嵯峨自身が「緑」になって、ここで休んでいる。








*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(66)

2020-01-10 09:10:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2020年01月10日(金曜日)

* (約束は)

 短いことばで始まる詩の前半を省略し、最後の二行に結びつけてみる。

いま暁の冷たい雨にぬれて
花々は小さく顫えながら育つている

「冷たい雨」「顫える」は敗北や喪失を連想させる。それは求めているものではない。求めていたもの、約束したものは、それとは逆のものであったはずだ。しかし「約束」は裏切られるためにある。運命だ。そして、思い出すためにある。
 この悲しみは、しかし、青春の特権である。
「育つ」ということばが、それを象徴している。敗北しても敗北しても、あるいは喪失しても喪失しても、決して失われないものがある。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(65)

2020-01-09 09:03:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (菖蒲の花が咲いている)

重い時間を支えながら
色テープのような虹が消えるまえに

 詩の一部だけを取り出して読むことは「文脈」を無視することである。つまり嵯峨の「思想」とは関係がない。
 と、いえるかどうか、私はかなり疑っている。
 逆に嵯峨の「無意識」があらわれているといえないだろうか。
 なぜ「重い」時間なのか。なぜ「色テープのような」虹なのか。
 菖蒲と花菖蒲は別のものだが、たぶん、ここに書かれているのは花菖蒲だろうと思う。その強い色。強さが「重い」を呼び覚ます。さらに「人工的な(着色された)色テープ」を呼び寄せる。菖蒲の花の鮮やかな色が存在しないなら、虹は「色テープ」とは違うものを比喩にしたに違いないと思う。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(64)

2020-01-08 09:59:23 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

* (それが人の世というものです)

 どういうものが人の世か、具体的なことが(しかしかなり抽象的に)書かれたあと、最後の二行。

大きな夜がしずかに傾斜する窓ぎわで眠ります
ある大きな手からわたしにだけつづいているいつもの深い眠りに

 「ある大きな手」とは「わたし」を超える存在である。それと「わたし」がつながっている。「わたしだけに」と嵯峨は書いている。ここに詩人の「特権」がある。それは認めるしかないのだが、私はこの「特権」が嫌いである。
 「特権」があるから「人の世」を、人とは違った生き方で生きていける、という考え方には異を訴えておきたい。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(63)

2020-01-07 08:42:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (余白の多い手紙をあなたは読みふける)


 このとき、あなたは余白を読むのか、書かれている文字を読むのか。

あなたは空がもっと明るくなればいいと思つているようだ
どこまでもつづいている真っ白い空が

 「真っ白い空」というのは新しい表現である。ここに「余白」の「白」という文字が復活してきている。あなたは空を「余白」と感じているということだろう。
 逆に読んでみる。
 「余白」を「空」と感じている。その「白」が明るくなる。つまり輝きを増す。「白」は光の色なのだ。あなたは「文字以外の何か」を読んでいる。その手紙がたとえ別れの手紙であったとしても、あなたは「文字以外の何か」を読むので幸福を感じる。
 「読みふける」の「ふける」という動詞が、そう告げている。




*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(62)

2020-01-06 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (山陽の夢まどかなれ--)

わたしは東京行特急に乗つている女に電報を打つてきたばかりだ

 「山陽」は山陽線ということか。このとき「わたし」はどこにいるのか。東京にいるときも、「東京行特急」というかどうか、私は、首を傾げてしまう。
 そして、ここに「九州弁」を感じるのは私だけだろうか。
 嵯峨は宮崎県の出身。詩は共通語で書かれ特に「九州弁」というものは見当たらないのだが、この「東京行」にそれを感じた。
 私の感じでは九州のことばは「起点」が必ずしも「自分」にない。主観的ではない。奇妙に客観的なときがある。たとえば10時50分を、英語のように「11時前10分」というような言い方をする人がいる。共通語なら「11時10分前」だろう。そしてこのときは共通語は「11時」が強調されるのだが、こういう「強調(主観)」を好まない風潮があるように思う。
 さて、問題の一行。

私は特急で東京へ向かつてきている(来る)女に電報を打つてきたばかりだ

 私が東京にいるなら、そういう表現にしないと、落ち着かない。「東京行特急」では、私は山陽線よりももっと西、つまり九州(宮崎)かどこかにいることになる。

 この詩のつづきは、

野原にむかつてわたしは七面鳥を放ちたい
それはラジオの声がはげしい風圧に弓なりにしなつて
窓からとびこんできたためではなく
夕日が寒暖計工場の上を通つているためでもない

 と奇妙なことばの動きをするのだが、それが「東京行特急」にも反映されているとは考えにくい。

 これは私だけの感覚かもしれないけれど、すこし気になった。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(61)

2020-01-05 08:49:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あなたの想うことが湖から吹いてきます)

 この書き出しは「魅惑」に満ちている。「誤読」を誘う。
 「あなたの想うこと」は「あなたが想うこと」、つまり「あなたの想い」か。
 私は、どうしても嵯峨の「あなたへの想い」と読んでしまう。「あなたへの想い」は嵯峨のなかにあるのではない。嵯峨の外にある。それが嵯峨に向かってやってくる。
 人を好きになる瞬間というのは、こういう感じだと思う。「好き」という感情は自分のものなのに、それが外からやってきて自分をのっとってしまう。

ちょうどぼくが叫びたくなると
ふしぎにその声はきこえはじめるのです
その声をじっときいていると
それはだんだんぼくの声に似てきます

 「だんだん」「似てくる」。「好き」という感情、「愛している」という感情も、だんだん好きや愛しているに似てくる。そして、好きや愛しているになる。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(60)

2020-01-04 09:24:22 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (走りながら見たどこかの薔薇の花だろう)

 薔薇の花から過去を思い出している。「薔薇」を思い出しているのか。あるいは、そのときの自分を思い出しているのか。しかし、「走りながら」を思い出しているか、「見た」を思い出しているのか、区別することは難しい。
 思い出すということは誰もがするが、何を思い出しているのか、それを特定することは難しい。
 なぜか。

やすらかな小径が その横を通つていたのだろう

 想像が含まれるからである。そして、ほんとうに思い出したいのは、その「想像」ということもある。欲望、本能は、事実を勝手に動かしてしまう。真実を求めるのだ。









*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(59)

2020-01-03 20:08:57 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (指で輪をつくると)

梅雨晴れの青空がその円のなかを通りぬけていつた

 これは不思議なイメージだ。指でつくる輪は青空よりも小さい。その小さな円のなかを巨大な青空が通り抜ける。空ではなく「青」が通り抜けたのかも。

その夜は果樹園のような星空だった

 円を通り抜けた青が、その無数のその小さな「穴」が星になって光っている。そんなふうに読んでみる。



*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(58)

2020-01-02 16:39:13 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
掌上噴水

* (川が花のように開いて)

 冒頭の一行は美しい。けれど、それにつづくことばは、どう読んでいいかわからない。脈絡なく、しかし前の行の一部だけを尻取りのようにしてひきついでイメージを展開しているのだろうか。

白い牝鶏のまるいお尻だけがきゆつと縮んでいる
鳥が飛んでいる
折れた釘のように

 「開く」は「きゆつと縮む」、「牝鶏」は「鳥」とつながる。新しい「鳥」は「折れる」と結びつくとき折り鶴になるかもしれない。しかし、「釘」は「鉄」にかわり、こうつづく。

鉄の直線路が遠くまで走つている













*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(57)

2019-12-25 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (大きな幹によじのぼりたい)

その幹から黄金虫が一匹
サハラ砂漠の太陽へむかつて飛びたつた

 「黄金虫」は嵯峨である。「よじのぼりたい」という欲望が、嵯峨を黄金虫に変える。そして、黄金虫は嵯峨の欲望にしたがって「サハラ砂漠」へ飛び立つ。ここに書かれているのは、欲望の現実である。小さな風景を描いているわけではない。
 欲望から詩を読み直せば、

駱駝は砂漠のなかを大きな数字を踏んで歩いていく
「無限」ということを考えよう

 という詩も、「歩いていきたい」「考えたい」という嵯峨の欲望だったのだ。

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(56)

2019-12-24 09:13:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくが道に迷つたのか)

あるいは炎えあがる砂漠の道が行衛に迷つたのか

 「行衛」は何と読むのか。「ゆくえ」と読んでいいのかどうかわからない。
 こういうとき、手がかりは「動詞」である。
 ぼくが「迷う」、砂漠の道が「迷う」。
 道に迷うことは誰もが体験する。しかし、このとき「迷う」が成り立つのは道が動かないからである。「選択」を間違うことを迷うという。
 逆に道が「迷う」としたら、どういうときか。人間が動かないときである。人間が動かないときは、どんな道も道ではなくなる。人間は(ぽくは)、そのとき、どうしているのか。

一頭の獅子が逞しく立つている

 獅子になって、そこにいる。ぼくが「迷つたのか」は反語である。迷ってはいない。ぼくは、ここに「逞しく」立っている。迷っているのは道の方である。獅子は比喩ではなく「逞しく」の修飾語なのだ。











*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(55)

2019-12-23 07:58:25 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (この重量のある金庫は)

いまも大きな鉄の扉が閉されている
神と悪魔と閉じ込めている扉の前に立つて

 この二行のあとに、どうことばをつづけるか。
 私は神も悪魔も実感として体験したことがない。だからどうしても「頭」で考えてしまう。嵯峨は、どうか。

人間は何を考えているだろう

 「考える」に、やはり、「頭」を感じる。もし神、悪魔がいるとしたら(あるいはその存在を実感しているのだとしたら)、考えても始まらないだろうと私は思う。
 「考える」というのは人間の仕事だが、ここから詩が始まるとは私は感じない。











*

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