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春樹論19,最終回(笑。

さて、いよいよ最終回です。
「1Q84」は未完の作品で,続編でなくちゃ変ですよ,ってあたり。





■春樹と親鸞、阿闍世変容
 だが、この物語によって、村上春樹がこれまで粛々と繋いできた〈去勢〉の倫理と〈非善〉の倫理の二つともが踏みにじられている。〈去勢〉の倫理は妊娠によって未来への希望へと、〈非善〉の倫理は殺人によって善の非倫理へと書き換えられているのだ。『1Q84』とは村上春樹という二つの月がある世界である。それは、可能性としての村上春樹が既存する村上春樹の殻を壊して小説を書いたとしたらどうなるのかという世界を書いた実験の場なのだ。
 そして、ふとみると春樹のすぐ傍らには親鸞が座っている。阿闍世を真ん中に挟んで春樹と親鸞とが左右に集い、阿闍世の処遇について語り合っている。
 『観無量寿経』は、父を幽閉して死に至らしめて自らが王となり、さらに王を助けようとした母も殺害しようとして家臣に押しとどめられた、息子の阿闍世に苦しむ被害者としての母韋提希の物語である。自らも幽閉されてしまった韋提希に、釈迦が浄土の観想方法を教えるという啓蒙的な内容である。
 親鸞はこの瞑想技術の啓蒙書を黙殺し、自らの『教行信証』では阿闍世を親殺しの酷薄な子供から、罪への後悔のために悪臭のする腫れ物を罰として受け止める反省者とし、母韋提希を自己本位な被害者から息子の病を癒そうとする慈悲ある治療者と変容させている。相談を受けた釈迦は瞑想の光で病を取り除き、息子の悪行も父の自ら行った仙人殺害の因果が戻ってきただけだと断じて、阿闍世の罪そのものも拭いとる。親鸞は、あくまでも因果の果実が熟した場合、機縁によってその果実は落ちるのだという立場を離れることはしない。

■ 来るべき『1Q84』BOOK4、ポップなドストエフスキー
 では、村上春樹は青豆の罪に対してどのような態度を取ることが可能なのだろうか。二つの選択肢が、彼の前には横たわっている。
 まず、このままBOOK3で作品を終わらせることができる。そのときには、『1Q84』という作品は、小説家村上春樹がこれまでの自分が自らに課してきた二つの倫理、〈去勢〉の倫理と〈非善〉の倫理を振り落としたということになる。〈去勢〉の倫理を捨てることは、女性の妊娠によって次世代への希望を繋ぐ立場に立ったということだ。
 だが、この場合には、〈非善〉の倫理が蹂躙されている。妊娠という希望はあるが、それは倫理を踏み越えただけでなく、すでに殺人という悪を放置した形になっている。このままこの小説を終わらせてしまえば、先行する物語を回収するために笛を吹いた羊飼いの努力は、今回も空しく終わり、第二の『海辺のカフカ』のままこの大作を放置するということを意味する。まずこれが一つの選択肢である。
 次に二つ目の選択肢がある。二つの倫理を保ったまま、『1Q84』BOOK4が書かれるということである。
 〈去勢〉の倫理を保つとは、青豆は現在妊娠しているが、出産にはいたらないか、もしくは出産はしたけれども産まれた子供を自分たちの子供として養育していくことが不可能であるという展開を意味する。

「リーダーは死に際して、私の胎内にこの小さなものをセットしていった。それが私の推測だ。あるいは直感だ。とすれば、結局のところ、私はあの死んだ男の遺していった意思に操られ、彼の設定した目的地に向けて導かれていくということになるのか。」(『1Q84』BOOK3)

 青豆の直感を待つまでもなく、「この小さなもの」、ふかえりと天吾の性交によって、青豆へと転送されたこの嬰児が、阿闍世となり、「さきがけ」の中心人物へと育ち、リトル・ピープルとの架橋を行う人物に成長する。これが、倫理を踏襲した物語が選ぶべき道だ。そして、青豆がその母韋提希の立場になるのである。
 仏典では、仙人が死ねばその魂が子供となって産まれると聞いて待ち焦がれて、ついに待ちきれず仙人を殺してしまった韋提希は、仙人から「自分が生まれ変わる子供は必ず王を殺す」という呪いを受けることになる。流産しようとしてもかなわず、とうとう出産時に赤ん坊を壁の上から産み落としたが、指を一本折るだけの怪我で済んでしまう。
 この物語を下敷きに、〈非善〉の倫理を保つには、殺人という悪をなしてきた青豆が、子供の誕生を望まないにもかかわらず子供を産み落とし、巨大な悪と合体したわが息子を呑み込むという物語が展開されるだろう。青豆は我が子が仲間になるであろうリトル・ピープルを滅亡させることになる。
 さて二十一世紀のドストエフスキーを目指す村上春樹は、どのような物語をわれわれに授けようとするのか。それは、村上春樹本人にさえも分からない。なにしろ彼は物語の羊に住み憑かれてしまいながらも、倫理の小説を書こうとしている鼠なのである。いま日本語を読めるとは、その困難さ、その跳躍を噛みしめながら、村上春樹を同時代者として原語で読めることにほかならない。この特権と喜びを与えてくれる小説家が産み出す物語の濁流へと、われわれはまたしても魅き込まれてしまうのだ。

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春樹論18(笑。

ああ,もうすっかり春だ,
外をしばらく歩いてきたが,空気が柔らかい。

さて,今朝の春樹論は

「1Q84」は先行する二つの不発小説を救済しようとしているというあたり。



■回収の羊飼い、二つの蘇生
 村上春樹はいまや世界的なレベルの長編小説家である。細いペンで細密画を少しずつ描いていく描写力と狂うことのない正確な構成力とを長い時間注いでようやく出来上がる作品を、村上春樹は一作たりとも犬死することのないようにと心がける。たとえ成功とはよべない作品も次の糧となれば、それは野心作となり試行錯誤の大いなる蛮勇の結果として認められる。『羊をめぐる冒険』は、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の上に建てられた。回収は成功裏に終わったのだ。同様に『1Q84』も、群れからはぐれた『国境の南、太陽の西』と『海辺のカフカ』を呼び戻すために送り出された回収の羊飼いなのだ。
 『1Q84』は、予備校講師で小説家志望のモラトリアム満喫期にいる青年天吾と、スポーツインストラクターを職業とし、DV被害者の妻を守り復讐するために加害者の夫を殺害する任務を遂行する青豆との恋物語である。この小説は一本の笛を『国境の南、太陽の西』から借りてきて、吹き響かせる。すると、手を握ることでしか思慕を寄せる男子小学生に心情を伝えることのできない寡黙な立場の小学生女子は、島本さんから青豆に姿を変えて、『1Q84』に蘇る。もう一本の笛を『海辺のカフカ』から借りてきて吹く。すると、大量のネコ殺しを行うジョーニー・ウォーカーがネコ語を話せるナカタさんに自分を殺してくれと頼む依頼殺人の構図が、『1Q84』のリーダーが青豆に促す「わたしは待っているんだよ。その最後の仕上げを」の殺人の催促として蘇る。
『1Q84』が、これまでの村上春樹の小説と大きく違っているのは、主人公の恋人が積極的な殺人者である点だ。『風の歌を聴け』から『ねじまき鳥クロニクル』まで、主人公の対抗組織が殺人を犯すことはあっても、主人公側の人間の手が汚れていることはなかった。先行する〈悪意〉を打ち消す形で、いわば徒労の形で善意を消費してきたのが村上春樹の小説を背負ってきた人々だったのだ。ところがこの物語では、恋人は家庭内暴力に苦しむ妻たちを救うという名目で、能動的に他の家族の夫殺しを画策し実行する。
 村上春樹はここで再び、彼の〈分割〉技術を発揮して、オウム真理教を二つに分けて、登場人物たちに非善と非悪を振り分けて、善悪の境界線を消し去っていく。神秘能力を有するグルを信奉して農業コミューンから宗教法人へと謎の変化を遂げたグループ「さきがけ」には、グルの圧倒的な存在感と素人的な連帯を預ける。被害者を救済する善を奉じて殺人という悪を為すセーフハウスの人々へは、復讐者の穢れを渡す。このようにして物語全体が善悪のアマルガムと化すなかで、「さきがけ」のリーダーは青豆に殺され、青豆は殺人者という事実を隠蔽したまま、恋人天吾と結ばれ、天吾の子を宿す。
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春樹論17(笑。

女性について書いてきた第2部も,
親鸞が締めて終了となりました。

第3部は「1Q84」について書いてます。
時間と死,女性と去勢に続き,村上春樹の進路について考えます。





3 進路
■局地的意志、グルイズム
 村上春樹がオウム真理教に関心を持ち、接近するのは、論理的展開そのものである。他者への非干渉を旨として、孤独の中での密封された死の解決策に苦慮する小説家にとって、グルイズムの強制力を行使して過干渉を平然と行うオウム真理教は法外な〈悪意〉として映っているに違いない。同時代に生きるがゆえに、不可避の衝突の相の下に巡り合うべくして巡り合うが、オウム真理教に対する村上春樹の接近は、慎重極まる。
 村上春樹は、オウム真理教のサリン事件の聞き書きを開始する。もちろんただの聞き書きになるはずがない。サリン事件の翌年に一年をかけて、六十人くらいの被害者と会って話を聞き、テープ起こしを行い、証言を作り上げて本人の承諾を取るのである。そうするとどうなるか。村上春樹の小説の登場人物たちのような話し方をする被害者証言集ができあがる。外資系航空会社の広報勤務の、「和泉きよか」という登場人物ができあがるのである。もし、それに事件当日の犯行の様子と法廷傍聴とを付け加え、地下鉄の路線別に分けて記述したとしたら、どのような書物ができあがるだろうか。まるで、複数の多様な和声を積み重ねて、呻きのようなコロスを背景として、「和泉きよか」がジャンヌ・ダルクのように先頭に立つ、会話だけで成り立った『小説サリン事件』とでもいうような書物ができあがるのではないだろうか。グルイズムに対抗できるものは、個人の局地的な意志であることの旗手だけなのだと、沈黙したままで、村上春樹はそう語るだろう。
 悪意が匿名として、あるいは明らかにある者の名を冠された組織のものとして出現しようとするとき、その悪意の芽を啄むことのできる鳥たちは、個人の心の中から飛び立ってくるのである。このようにして、村上春樹はかりそめのインタビューアーとしての位置に立ちながら、被害者からは意志を学び、加害者メンバーからは盲信の死角の存在を学ぶのである。
 サリン事件の被害者の側から今度は加害者メンバーの側にいる元信者たちのインタビューを続行しながら、村上春樹がずっと高い塔のように見上げているのは、麻原彰晃の存在である。彼は、どういう高みから、信者たちを見ていたのか。あるいは、信者たちはどれほどの高みにいる存在として彼を見上げていたのか。
 麻原彰晃という一人の人物の周囲に、さまざまな宗教的コラージュを貼り合わせて作り上げた空間に宿るはずの生命と情熱、それはもともとは修行への情熱であった。信者たちにあったものは修行への情熱であり、欠けていたものは伝統への尊敬であった。なぜ、ヨーガの源流に戻らないのか。なぜ、インドへと戻らないのか。彼らのあまりの無邪気さが麻原彰晃への盲信へと翻訳されていく。
 〈悪意〉を養成するのは、自らを善として認識してしまう、内省なきものたちであると考えて、村上春樹は次の長編小説『1Q84』でオウム真理教のシステムを分散相続させる。
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春樹論16(笑。

さて,じゃあ,
うっとうしい春樹論で今日もしめますか。

今夜は,われわれの生活とは
聖域のない場所での修行である,というあたり。


■女犯、聖あるゆえに俗あり
 親鸞という人は、ごまかさない人である。ごまかさない人であるから、無神論はびこる現代のわれわれがいまなお宗派を超えた範例として参照可能なのである。いったい僧親鸞は、自分の性欲にどう向き合ったのか。
 親鸞はどうしたら女性への欲を断ち切れるかという悩みへのお告げを求めて六角堂に籠もる。それに対して、断ち切る必要はない、妻帯してもよいというお告げをいただく。
『行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽』
(行者よ、あなたが宿報ゆえに女犯したとしても、わたしがあなたの相手となりましょう、生きている間はあなたの汚れを祓い、生が終わったら極楽に連れていきましょう。)
 しかし、どうだろう。仮に、救世観音が女性となって、自分の妻になってくれるとしても、親鸞の妻は二人いる。
二度にわたる妻帯と多数の子供。それでもなお人に教えを説くことのできる親鸞の強さは、性格から得られるものではない、これは思想によって培われたものだ。
 『歎異抄』で親鸞は、千人殺せば往生間違いなしと言えば千人殺せるかと唯円に問いかけて、それができるもできないも業縁だと結論づけている。この論理でいけば、女犯も子育ても寿命もみな業縁だということになる。その業縁が編み上げるさまざまの炎の劇を、他力の水を浴びながらくぐり抜けること、それが親鸞にとっての生きることだということになる。
 考えてみれば、仏教というものもなかなか無理な宗教だ。宗祖である釈迦は妻帯して子供もいたのに、出家して難行苦行の果てに、中庸の道を悟り、仏陀となっている。にもかかわらず、仏教としては僧に妻帯を禁じている。性欲から始まったものが女性との性交渉に続き、それが家庭へと発展して生活の苦労に溺れていくというのは、確かに僧の一生としては惨めなものかもしれない。
 だが、われわれが生きているのは、まさしくそういう人生ではないだろうか。僧は女性を排除することで聖なる区域を築き上げ、修行場とする。ところが聖と俗とは同時発生する陰陽だ。片方だけを設置することはできない。修行が聖域なく行われるときのみ、われわれの生活と交差する点を持つゆえに、修行もまた限りなく透明に近くならなければならない。修行に見えない修行を、浄土という目的地なしで行うこと、それが村上春樹の登場人物たちが行っていることである。だから彼らは、来るべき浄土の代わりに今ここにある倫理を携えている。仏になれないという往生のなさゆえに、永遠に自分は自分であるという諦念を持っている。女犯の禁忌の代わりには〈去勢〉の倫理を持って、来るべき人間たちによる新たな悲劇の種を予め毟り取っている。村上春樹の登場人物たちには、いつまでもどこまでも自分自身であることのほかに許されていることはないのだ。
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続JK(笑。

風呂が沸くのを待っている間に,
「JK」,さらに続きができました。

そうだね,これ,同窓会ソングだねっっっっっ(笑。
もう同世代のために歌っちゃうよ。

オレ,応援するからね,オレの世代。
いつかライブでやるときには,みんなにセーラー服で来てもらうとしよう(笑。


「JK」

イケメンを目指したはずが、チャッ,チャッ,チャラ目といじられ、とても残念な人に終わる
冬のJKのなまあし 勇気もらうJKのなまあし 寒風に突き刺すミニスカツインタワー
日本の未来はJKJK 日本のロケンローJKJK 誇り高きラストサムライ JK JK JK

ぼくらみんな若かった 君らみんな綺麗だった
青春の煌めきの粒々が 思い出をなぞってデコるよ

人生を悔いなく生きよう
思春期をあと三つばかりお持ち帰りで

ナウなヤングをアンコール エージングもあらたなステージング ゴージャスでいいでやんす
目指せJKのなまあし 鳥肌立ててJKのなまあし 時空を超えて羽ばたけ元美少女
日本の未来はJKJK 日本のロケンローJKJK 誇り高きラストサムライ JK JK JK
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そうだ,ライブのお知らせ,しなくちゃ(笑。

ライブに出ます。
来月4月14日(土)大塚ウェルカムバックで18:00-18:45です。

バンド名Battie with カスタードポエム,ってやつです。
ワンドリンク付きで1500円です。

定価としては安い,
メンバーもギター・ベース・ドラム・キーボードに

サックス・トランペットまでいるので,対価としても安いかも。
バンド名はスイーツ系ギャルバンみたいなのに,

メンバーはおっさんとおじさんたちと,斎藤さっこちゃんです。
彼女は,都内のライブで活躍中のピアノ弾き語り系シンガーソングライター。

日本の女性もこういう歌詞を歌えるようになったのだと,
彼女の歌を聴くといつもふかーい感慨にひたってしまいます(笑。

そんなひとにオレのバックでキーボード弾いてもらっていいのだろうか,
「うしっ!」とか,「ねこりん」とかやるっていうのに(笑。

「ねこりん」なんて,
「りんりんりんりん 猫の輪廻 りんりんりんりん 銀の鈴」とかって歌詞なんだよ。

そいで,「愛のおむすび」では,
「あなた~っ」から始まるコントもあるんだよっ。

まあ,彼女も超ベリーショートな髪型で,
どちらかというと修行僧系で似たもの同士的なところもあるから,いいか(笑。

例によって,練習はまだ一度しかやってないが,
なんとかなる。

来てね。
ちなみに斎藤さっこちゃんのHPはここです。
   ↓
http://www.saitou-sacco.net/
次のアルバムが7枚目だって,
すごいね。
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なんか吹っ切れてきたかもしれません(笑。

毎日,毎日,死だの射精だの倫理だのと
うっとうしい春樹論が続いてますが,

おかげさまで,わたし,少し吹っ切れてきたかもしれません(笑。
いま,曲を書いてるんですが,

タイトル「JK」です。
こんな歌詞の予定です。

「イケメンを目指したはずが,ちゃっ,ちゃっ,チャラ男といじられ
 とても残念な人に終わる

 冬のJKのなまあし 勇気もらうJKのなまあし 寒風に突き刺すミニスカツインタワー
 日本の未来はJKJK 日本のロケンローJKJK 誇り高きラストサムライ JK・JK・JK」

うーん,なかなかいい感じです。
ま,これはずっと考えてきていた歌詞なので,

自分ではいまさら衝撃はありません。
問題は今日浮かんだ歌詞なのです。

おお,久しぶりに作業日記っぽい(笑。

「明日からは本気だすぜ バリバリのできるヤツだぜ
 プラチナランジェリー」

プラチナランジェリー,ってなに?
わかんねー,でもいいね,プラチナランジェリー(笑。

これ,がんばって,曲までもっていかなくっちゃあ,
プラチナランジェリーって言葉に申し訳ない,

せっかく来てくれたのに。
お茶でも飲んで待っててー。
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アメリカ,ここがすごい,かな(笑。

アメリカで感心するのは,
スピリチュアル関係の本がたくさんでること(笑。

で,本物が多い。
人生を真剣に考える真面目な人が多いのだろうと思う。

日本のスピリチュアルは層が薄い。
今のじじばばたちがお亡くなりになったら,

日本人の精神は高度経済成長のおっちゃんたちが支えることになるが,
精神とは物質を越えることだ。

それができるのか。
そのための不況だが,これを利用できるかどうかだな。

アメリカはベースボールもすごい。
日本の野球は,ベースボールとは少し違う価値観を持ちながら

同じルールに則って行っている球技。
ベースボールはバットにアクセントがあり,

野球はグラブにアクセントがある。
日本人の感受性にとって,バットはあまり野蛮に過ぎる。

今日の巨人vsアスレチックスの試合を見ながら,
実感を深めた。

つーか,ジャイアンツそんなに打てなくてどーする(笑。
なさけなかーーーー。
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春樹論15(笑。

読んでも読んでも読む本が減らない,と思ったら
買い足したり,借りてきたりするほかに

積ん読だった本を発掘するからだよなあ。
昨日は,

買ったまま放置してあった
「コーチングの神様が教える『できる人』の法則」を読み終えた。

安い本ほど読み飛ばそうとしてさっさと読み,
高い本はじっくり読もうとしてなかなか読まないという貧乏性がいかん(笑。

では,今朝の春樹論。
結婚とは,長期間の調律であるというところ。




■ 婚姻、矯正器官としての
 『1973年のピンボール』では、翻訳事務所を経営し、仕事を軌道に乗せることに成功した僕と友人は、雑用や経理を担当してくれるビジネス・スクールを出たばかりの女子事務員を雇うことにした。この彼女が、『羊をめぐる冒険』に登場する。
 僕の恋人でもあった誰とでも寝ちゃう女の子の葬式に出かけていって朝帰りしたとき、僕の戻ってきた部屋の台所のテーブルにうつぶせになっていた女性、もうどこにも行きたくなくなったからその部屋にぐずぐずといた女性、僕の離婚した元妻としてこの女性の事務員が登場している。彼女は時間の〈悪意〉の犠牲者である。
 結婚は破綻しているが、それは当然である。結婚状態で発生する問題では、君の問題、僕の問題というように問題を〈分割〉することはできない。いつも、僕らの問題として生じてくるからである。結婚状態では、君と僕らの間、僕と僕らの間、その巨大な隙間から問題が吹き上げてくるのである。
 結婚とは、恋愛から始まり、性愛を載せ、家庭を建設するという共同作業を経て分離不能な形態になったカップルが、お互いの性格を調律しあう、長期間に渉る矯正器官である。そこには感情的な解決というものはない。暴発したがる感情をなだめながら、根気よく調律を続けていくこと、それが結婚に求められる資質であって、何十年も時間が必要な作業であり、短い青春期の中だけでは解決不能である。だから、村上春樹が青春小説を抜け出さない限り、彼の小説の中での結婚は破綻と揺震とを繰り返すのである。
 なしくずしの死として青春を蝕んでいく時間の〈悪意〉に対抗するのに、恋愛という選択肢はあまりに稚拙な予防策にすぎない。死は死として解決され、婚姻は婚姻として成就されなければならない。
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春樹論14(笑。

ジェットストリームの赤ペンのインクが切れたと思ったら,
きちんと机の仲にはリフィルが用意してあった。

おお,気が利くぞ,オレ。
今夜の春樹論は,

村上春樹の小説での射精には精子が欠けているというあたりです。
では,どうぞ。



■限りなく透明に近い精液、射精の倫理
 だが、僕はただ命令を励行するだけではない。僕には僕なりの、性愛の倫理があるのだ。僕は初めて訪れた緑のアパートに行き、シャワーを浴びて、バスローブを着る。

「でもワタナベ君、私とやりたくないんでしょ? いろんなことがはっきりするまでは」
「やりたくないわけでないだろう」と僕は言った。「頭がおかしくなるくらいやりたいよ。でもやるわけにはいかないんだよ」(『ノルウェイの森』)

 僕は性欲を肯定するが、性交を否定する。性交を否定するが、射精を肯定する。射精を肯定するが、接触を否定する。すると、彼女のパンティの中に射精するという結論が導き出される。
 僕の射精した精液を、観察好きの緑は点検する。しかし、「いっぱい出した」という量にだけ言及しているのは奇妙なことである。
 精液というのは、夥しい精子を含みもっていて白濁して粘着的な性質をもつ液体だ。だが、この小説を読んでいると、射精の頻繁さに比して、とてもそのような存在感は感じられない。
 『ノルウェイの森』における射精は、実は一般的な射精ではないのである。唯一、その液体の行方が描かれている緑の下着で受け止められた精液は、精液に見えない。それは、液体化した誠意にしかみえない。精子はそこには含まれていない。それは、僕が精子を〈去勢〉しているからだ。
 性欲を肯定する僕は、だがだからといって、生殖を肯定しているわけではない。むしろ、生殖に繋がる性交を忌避している。性欲を肯定し、性交を肯定し、生殖を否定する僕が採ることのできる選択肢とは何か。〈去勢〉である。精液から精子を抜くことである。精液を、限りなく透明に近い液体へと変化させ、ただ自分の誠意の量を具現化すること、それが恋愛不能者としての僕が処方する、〈去勢〉の倫理である。
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