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春樹論15(笑。

読んでも読んでも読む本が減らない,と思ったら
買い足したり,借りてきたりするほかに

積ん読だった本を発掘するからだよなあ。
昨日は,

買ったまま放置してあった
「コーチングの神様が教える『できる人』の法則」を読み終えた。

安い本ほど読み飛ばそうとしてさっさと読み,
高い本はじっくり読もうとしてなかなか読まないという貧乏性がいかん(笑。

では,今朝の春樹論。
結婚とは,長期間の調律であるというところ。




■ 婚姻、矯正器官としての
 『1973年のピンボール』では、翻訳事務所を経営し、仕事を軌道に乗せることに成功した僕と友人は、雑用や経理を担当してくれるビジネス・スクールを出たばかりの女子事務員を雇うことにした。この彼女が、『羊をめぐる冒険』に登場する。
 僕の恋人でもあった誰とでも寝ちゃう女の子の葬式に出かけていって朝帰りしたとき、僕の戻ってきた部屋の台所のテーブルにうつぶせになっていた女性、もうどこにも行きたくなくなったからその部屋にぐずぐずといた女性、僕の離婚した元妻としてこの女性の事務員が登場している。彼女は時間の〈悪意〉の犠牲者である。
 結婚は破綻しているが、それは当然である。結婚状態で発生する問題では、君の問題、僕の問題というように問題を〈分割〉することはできない。いつも、僕らの問題として生じてくるからである。結婚状態では、君と僕らの間、僕と僕らの間、その巨大な隙間から問題が吹き上げてくるのである。
 結婚とは、恋愛から始まり、性愛を載せ、家庭を建設するという共同作業を経て分離不能な形態になったカップルが、お互いの性格を調律しあう、長期間に渉る矯正器官である。そこには感情的な解決というものはない。暴発したがる感情をなだめながら、根気よく調律を続けていくこと、それが結婚に求められる資質であって、何十年も時間が必要な作業であり、短い青春期の中だけでは解決不能である。だから、村上春樹が青春小説を抜け出さない限り、彼の小説の中での結婚は破綻と揺震とを繰り返すのである。
 なしくずしの死として青春を蝕んでいく時間の〈悪意〉に対抗するのに、恋愛という選択肢はあまりに稚拙な予防策にすぎない。死は死として解決され、婚姻は婚姻として成就されなければならない。
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