LOVEで、ROCKで、SPIRITUALな詩人バッティの、今日の心の現像。
(Twitter→jakoushee)
バッティの☆作業日誌☆in 青森
春樹論13(笑。
ひさびさにひとのライブみた,
そーかー,みんな諸動機をもって歌ってるんだなあと納得(笑。
ドリンク券をなくしたと思っていたら,
バッグの片隅から出てきて,無事,ビール飲めてよかった。
さて,今夜の春樹論は
性欲は恋愛を学ばなかったということを,太宰治の言葉で表現したところです。
では,どうぞどうぞ。
■ ラブ・インポテンツ、命令と服従
勃起的存在として『ノルウェイの森』を歩き回っている僕ワタナベにはいったいいつ、恋愛という感情が発動したのだろうか。僕は直子が存命中にすでに緑に惹かれていくのだが、そもそもこの恋愛は緑の方から接近してきて、ずっと僕に恋愛を感染させようとしてきたのである。話しかけてきた緑のことを僕は、最初だれだかわからずにいた。髪を切って短くした緑を、「まるで春を迎えて世界にとびだしたばかりの小動物のように瑞々しい生命感を体中からほとばしらせていた」と感じる僕ワタナベは緑の髪型をほめ、緑は僕の話し方を「きれいに壁土を塗っているみたいで」好きだという。
二人とも、褒め言葉の中立性を超えて、「その髪型が好きだ」と言ったり、緑も「あなたのしゃべり方すごくいい」と言う。来るべき「きみが好きだ」のリハーサルが行われているのだ。
僕ワタナベが初めて緑の家を訪れて火事が起きた日に、二人はキスをするが、それもまだリハーサルだ。そこではまだ僕の恋愛は発動していない。
恋愛が発動し始めるのは、緑が深さを迫ってくるからである。死が迫ってきている自分の父親の病院へ僕をつれていく。閉店が決まってい本屋である自宅を僕に披露する。父親のパジャマを貸す。どれもみな、深みへと誘い続ける出来事ばかりである。だが、それにしてもまだ僕は動かない。ついに、緑はつきあっている男性と別れたことを告げる。「あなたのことが好きだからに決まっているでしょうが。他にどんな理由があるっていうのよ?」とまで緑は語るが、僕ワタナベの恋愛は発動しない。なにかが足りないのだ、それは二人を濡らす雨である。
引っ越しの際に僕は緑に連絡を取り忘れていて、緑を怒らせる。連絡が途絶えてしまったこの二ヶ月間の空白が僕に恋愛の侵入の警護を緩めさせる。デパートの地下食堂で食事をしたあと、僕と緑は屋上に行く。そこには、雨が降っている。恩寵の雨が。傘をさしてもぐっしょりと濡れてしまったあとで、二人はやっと感情についての話題を持ち出す。
「何か話してよ」と迫る緑。「話があるんでしょ、あなた?」雨の誕生日の日に、直子が僕の告白を待っていたように、いま緑は雨の降るデパートの屋上でまったく同じものを待っている。だが、会話はかみ合わない。僕は「君がいなくなってしまうと、とても辛くて淋しい」と語るにとどめて、決して言質を与えようとはしない。緑はどなりながらもっと告白のボルテージを上げる。
緑は自分の感情を正直に吐露しているだけのように思えるが、実は僕を放す気がないことをはっきりと告げている。何も期待しないと言いながら、抱いてくれることをお願いするのが、緑である。(「大丈夫よ、あなたに他に好きな人がいること知っているから別に何も期待しないわよ。でも抱いてくれるくらいはいいでしょ?」)
何してもかまわないと言いながら、傷つけることだけはやめてというのが、緑である。(「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私これまでの人生で十分に傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないの。幸せになりたいのよ」)
緑は僕に選択肢を渡しているようで、実は何ひとつ自由を与えていない。彼女が伝えていることは、私を選んで私を幸せにするような選択をしなさいという命令だけである。それに対して僕は「心から好きだよ。もう二度と放したくないと思う」と服従の意思を語っている。これを恋愛ともし呼びたいならば、僕の恋愛を作動させたのは、感情ではなかった。それは命令だったのだ。ラブ・インポテンツの僕ワタナベと恋の命令者緑との恋愛活動、それが『ノルウェイの森』で語られている恋愛なのである。
そーかー,みんな諸動機をもって歌ってるんだなあと納得(笑。
ドリンク券をなくしたと思っていたら,
バッグの片隅から出てきて,無事,ビール飲めてよかった。
さて,今夜の春樹論は
性欲は恋愛を学ばなかったということを,太宰治の言葉で表現したところです。
では,どうぞどうぞ。
■ ラブ・インポテンツ、命令と服従
勃起的存在として『ノルウェイの森』を歩き回っている僕ワタナベにはいったいいつ、恋愛という感情が発動したのだろうか。僕は直子が存命中にすでに緑に惹かれていくのだが、そもそもこの恋愛は緑の方から接近してきて、ずっと僕に恋愛を感染させようとしてきたのである。話しかけてきた緑のことを僕は、最初だれだかわからずにいた。髪を切って短くした緑を、「まるで春を迎えて世界にとびだしたばかりの小動物のように瑞々しい生命感を体中からほとばしらせていた」と感じる僕ワタナベは緑の髪型をほめ、緑は僕の話し方を「きれいに壁土を塗っているみたいで」好きだという。
二人とも、褒め言葉の中立性を超えて、「その髪型が好きだ」と言ったり、緑も「あなたのしゃべり方すごくいい」と言う。来るべき「きみが好きだ」のリハーサルが行われているのだ。
僕ワタナベが初めて緑の家を訪れて火事が起きた日に、二人はキスをするが、それもまだリハーサルだ。そこではまだ僕の恋愛は発動していない。
恋愛が発動し始めるのは、緑が深さを迫ってくるからである。死が迫ってきている自分の父親の病院へ僕をつれていく。閉店が決まってい本屋である自宅を僕に披露する。父親のパジャマを貸す。どれもみな、深みへと誘い続ける出来事ばかりである。だが、それにしてもまだ僕は動かない。ついに、緑はつきあっている男性と別れたことを告げる。「あなたのことが好きだからに決まっているでしょうが。他にどんな理由があるっていうのよ?」とまで緑は語るが、僕ワタナベの恋愛は発動しない。なにかが足りないのだ、それは二人を濡らす雨である。
引っ越しの際に僕は緑に連絡を取り忘れていて、緑を怒らせる。連絡が途絶えてしまったこの二ヶ月間の空白が僕に恋愛の侵入の警護を緩めさせる。デパートの地下食堂で食事をしたあと、僕と緑は屋上に行く。そこには、雨が降っている。恩寵の雨が。傘をさしてもぐっしょりと濡れてしまったあとで、二人はやっと感情についての話題を持ち出す。
「何か話してよ」と迫る緑。「話があるんでしょ、あなた?」雨の誕生日の日に、直子が僕の告白を待っていたように、いま緑は雨の降るデパートの屋上でまったく同じものを待っている。だが、会話はかみ合わない。僕は「君がいなくなってしまうと、とても辛くて淋しい」と語るにとどめて、決して言質を与えようとはしない。緑はどなりながらもっと告白のボルテージを上げる。
緑は自分の感情を正直に吐露しているだけのように思えるが、実は僕を放す気がないことをはっきりと告げている。何も期待しないと言いながら、抱いてくれることをお願いするのが、緑である。(「大丈夫よ、あなたに他に好きな人がいること知っているから別に何も期待しないわよ。でも抱いてくれるくらいはいいでしょ?」)
何してもかまわないと言いながら、傷つけることだけはやめてというのが、緑である。(「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私これまでの人生で十分に傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないの。幸せになりたいのよ」)
緑は僕に選択肢を渡しているようで、実は何ひとつ自由を与えていない。彼女が伝えていることは、私を選んで私を幸せにするような選択をしなさいという命令だけである。それに対して僕は「心から好きだよ。もう二度と放したくないと思う」と服従の意思を語っている。これを恋愛ともし呼びたいならば、僕の恋愛を作動させたのは、感情ではなかった。それは命令だったのだ。ラブ・インポテンツの僕ワタナベと恋の命令者緑との恋愛活動、それが『ノルウェイの森』で語られている恋愛なのである。
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しまった,せっかくの休日がプロレス動画で(笑。
せっかくの休日だから,
たまっている本を読んでいくかっっっ,のはずが
「そういえば,レインメーカーってデカいのか?」という疑問を
もってしまったばかりに,棚橋vsオカダの試合をみてしまい,
youtubeの右側の欄の秋山による全日三冠流出をみてしまった。
うう,このあと,ケアと大森の試合も見たくなるじゃないか,
そうだ,動画流しながら,読書すればいい(笑。
そこまでして読むなら読まなくてもよさそうなものだが,
とにかく目を通すって,大事だからな。
よーし,秋山,いくぜっっっっっっっっっ。
たまっている本を読んでいくかっっっ,のはずが
「そういえば,レインメーカーってデカいのか?」という疑問を
もってしまったばかりに,棚橋vsオカダの試合をみてしまい,
youtubeの右側の欄の秋山による全日三冠流出をみてしまった。
うう,このあと,ケアと大森の試合も見たくなるじゃないか,
そうだ,動画流しながら,読書すればいい(笑。
そこまでして読むなら読まなくてもよさそうなものだが,
とにかく目を通すって,大事だからな。
よーし,秋山,いくぜっっっっっっっっっ。
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春樹論12(笑。
今日は,池袋に斎藤さっこちゃんのライブみにいく予定なのに,
雨,だよねえ。
春樹論もちょうど雨のところにさしかかってます。
章名も,週刊誌の広告みたいな感じ(笑。
■ 雨と射精、乾燥した性器
『ノルウェイの森』においては、セックスは性愛としてのセックスと思慕としてのセックスとに〈分割〉され、思慕の表現行為としてのセックスは雨抜きでは成就不能なものとして位置づけられている。
二人が散歩デートをするようになって、一年も経たないころ、直子の二十歳の誕生日がやってくる。僕は直子のアパートに誕生日祝いのケーキを持って行く。直子は、ずっと話を止めず、時間が遅くなるというので僕が帰ろうとすると泣き止まず、僕はずっと直子が泣きやむのをまっていたが、彼女は泣き止まなかった。その夜、僕ワタナベは直子と寝る。
直子は僕からの、「君が好きだ」というただ一言を待ちながら話を続けていたのである。もし、その言葉が来るならば、直子は「死んだ友人キヅキの恋人」から「僕の恋人」へと名義変更され、死の世界から生きていく世界への橋を渡る事ができた。しかし、僕はそうしなかった。そうしなかっただけではなく、キヅキとの性的関係も尋ねて橋を焼き払ってしまう。
直子は、自分が生きていく世界として期待したこの街にはいられないことを改めて知らされ、幼馴染キヅキのそばの冥府へと帰省することを決心する。
直子は生きている間、その透明な肉体を僕に預けようとするが、頻繁な性的交渉は可能ではない。それはただ一度、雨に守護されたなかで可能になったものである。
『ノルウェイの森』はたくさんの射精シーンを持っているが、僕と直子との性交は実は一度しかなく、僕と緑との性交にいたっては一度たりとも行われてはいない。それなのに、たくさんの射精が行われるのは、僕が女性たちの指や口や、自分自身の指で何度も射精しているからである。
僕と直子との性交を可能にしたのは、ただ一度だけ直子が濡れたからである。彼女の性器は、常に乾燥している。幼なじみのキズキとの性交の試みのときにも、僕が直子の療養所にいったときにも、彼女の性器は常に乾燥していて、男性性器を受け入れることができなかった。では、直子の性器を濡らしてくれたものは何か、雨である。村上春樹の小説にとって、雨が何であるかは、『1973年のピンボール』に戻れば明らかになる。
■雨の句読点、天空の喪章
水は、この惑星の覆いであるときには海と呼ばれて重宝され、不可視の水蒸気となり可視の雲となったときには不吉な天候として忌まわしく思われ、そして細分化され再び地上に戻ってくるときには、雨と呼び慣わされて、乾いたものであるわれわれを濡らすものとして嫌われている。
『雨はただ大地と大空とを結ぶ連結符だけを形づくっているのではなく』(フランシス・ポンジュ)、確かに、もっと重要な役割を果たしているのだ。特に、村上春樹の小説世界の中では。雨は破線として、死者たちの新世界となってしまった天と、生きているわれわれが快楽と苦悩の狭間を往還する地上とを結んでいる。
『1973年のピンボール』では、配電盤の葬式のために貯水池に行く日曜日、細かい雨が降っている。雨の降る中、僕と双子とが車に乗っている。いつもは饒舌な双子も黙っており、三人の間には静寂が支配している。そしてまるで、葬式への参列者のように犬が歩き回っている中を、クラクションを鳴らしながら僕らは進んでいく。
喪に服す者たちへと降り注ぐ永遠に続くような冷たい雨。雨とは、彼らの周囲に広がっていこうとする感情を、ひとつずつ区切り終わらせて地上へと振り落としていく液体の句読点である。それは墜落する喪章であり、失われた時間への通底符であり、感傷を許す恩赦でもある。であるがゆえに雨は、カップルを抱き寄せて世界から隔離し、遮断された二人分の身体がやっと入るくらいのごく親密な場所を保護することのできる性交の守護神なのだ。
雨,だよねえ。
春樹論もちょうど雨のところにさしかかってます。
章名も,週刊誌の広告みたいな感じ(笑。
■ 雨と射精、乾燥した性器
『ノルウェイの森』においては、セックスは性愛としてのセックスと思慕としてのセックスとに〈分割〉され、思慕の表現行為としてのセックスは雨抜きでは成就不能なものとして位置づけられている。
二人が散歩デートをするようになって、一年も経たないころ、直子の二十歳の誕生日がやってくる。僕は直子のアパートに誕生日祝いのケーキを持って行く。直子は、ずっと話を止めず、時間が遅くなるというので僕が帰ろうとすると泣き止まず、僕はずっと直子が泣きやむのをまっていたが、彼女は泣き止まなかった。その夜、僕ワタナベは直子と寝る。
直子は僕からの、「君が好きだ」というただ一言を待ちながら話を続けていたのである。もし、その言葉が来るならば、直子は「死んだ友人キヅキの恋人」から「僕の恋人」へと名義変更され、死の世界から生きていく世界への橋を渡る事ができた。しかし、僕はそうしなかった。そうしなかっただけではなく、キヅキとの性的関係も尋ねて橋を焼き払ってしまう。
直子は、自分が生きていく世界として期待したこの街にはいられないことを改めて知らされ、幼馴染キヅキのそばの冥府へと帰省することを決心する。
直子は生きている間、その透明な肉体を僕に預けようとするが、頻繁な性的交渉は可能ではない。それはただ一度、雨に守護されたなかで可能になったものである。
『ノルウェイの森』はたくさんの射精シーンを持っているが、僕と直子との性交は実は一度しかなく、僕と緑との性交にいたっては一度たりとも行われてはいない。それなのに、たくさんの射精が行われるのは、僕が女性たちの指や口や、自分自身の指で何度も射精しているからである。
僕と直子との性交を可能にしたのは、ただ一度だけ直子が濡れたからである。彼女の性器は、常に乾燥している。幼なじみのキズキとの性交の試みのときにも、僕が直子の療養所にいったときにも、彼女の性器は常に乾燥していて、男性性器を受け入れることができなかった。では、直子の性器を濡らしてくれたものは何か、雨である。村上春樹の小説にとって、雨が何であるかは、『1973年のピンボール』に戻れば明らかになる。
■雨の句読点、天空の喪章
水は、この惑星の覆いであるときには海と呼ばれて重宝され、不可視の水蒸気となり可視の雲となったときには不吉な天候として忌まわしく思われ、そして細分化され再び地上に戻ってくるときには、雨と呼び慣わされて、乾いたものであるわれわれを濡らすものとして嫌われている。
『雨はただ大地と大空とを結ぶ連結符だけを形づくっているのではなく』(フランシス・ポンジュ)、確かに、もっと重要な役割を果たしているのだ。特に、村上春樹の小説世界の中では。雨は破線として、死者たちの新世界となってしまった天と、生きているわれわれが快楽と苦悩の狭間を往還する地上とを結んでいる。
『1973年のピンボール』では、配電盤の葬式のために貯水池に行く日曜日、細かい雨が降っている。雨の降る中、僕と双子とが車に乗っている。いつもは饒舌な双子も黙っており、三人の間には静寂が支配している。そしてまるで、葬式への参列者のように犬が歩き回っている中を、クラクションを鳴らしながら僕らは進んでいく。
喪に服す者たちへと降り注ぐ永遠に続くような冷たい雨。雨とは、彼らの周囲に広がっていこうとする感情を、ひとつずつ区切り終わらせて地上へと振り落としていく液体の句読点である。それは墜落する喪章であり、失われた時間への通底符であり、感傷を許す恩赦でもある。であるがゆえに雨は、カップルを抱き寄せて世界から隔離し、遮断された二人分の身体がやっと入るくらいのごく親密な場所を保護することのできる性交の守護神なのだ。
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春樹論11(笑。
飲んでたら,遅くなった(笑。
うち飲みだけど,うちのうち飲みは長いんだよっっっっ。
さて,今夜の春樹論は恋愛と性欲の分別だよ。
混在させて平気な奴は,脳天気でいいけどなぁっっっっ(笑。
■ 性欲の分別、臨界の傍ら
『ノルウェイの森』では、僕ワタナベと死んだ友人の恋人であった直子とは、二人の距離を具体的に歩くことで実測していく。東京の街を歩き回り、コーヒーを飲んで休み、また歩いて食事をして別れるということを繰り返しているこの段階で、僕の中にやっと〈好感〉の感情が生じてくる。〈白紙〉の僕は、ただ時間と行為とを経て、書き込まれるのを待っている。自分の方から書き込みに行くことはない。
「しかし僕と直子の関係も何ひとつ進歩がないというわけではなかった。少しずつ少しずつ直子は僕に馴れ、僕は直子に馴れていった。夏休みが終って新しい学期が始まると直子はごく自然に、まるで当然のことのように、僕のとなりを歩くようになった。」(『ノルウェイの森』)
〈白紙〉の僕が、とうとう彼女のそばにさえ近づきもしなかったので、直子の方から妥協して寄ってきたのだが、それを僕は〈好感〉から〈馴れ〉への進歩として、「一人の友だちとして認めてくれたしるし」として解釈している。
その直子に好きな女の子はいないのかと尋ねられたとき、〈白紙〉でありながら性欲だけが活性化している僕は、別れた女の子と寝るのは好きだったと回想し、心の中に殻があるからだと思う。だが実は〈白紙〉の僕ワタナベには想定されている殻さえもなく、誰をも愛することができない。緑との関係でさえ、恋愛ではない。そして勃起的存在のまま『ノルウェイの森』の中で女性を物色し、性欲のはけ口として女性を資源化して有効活用している。
しかし、なぜ、村上春樹という小説家はこのように性欲をきちんと分別する必要があるのだろうか。彼は、恋愛と性欲が混同して用いられることに我慢ができないのだ。彼は、僕と鼠とを分離したように、要素の混在する事象を純粋化することによって、それぞれの臨界へとその存在を引き上げていく。その締めあげの作業の過程が苦行に似ているため、小説は頻繁に悲劇化し、宗教の傍へと隣接していくのである。
うち飲みだけど,うちのうち飲みは長いんだよっっっっ。
さて,今夜の春樹論は恋愛と性欲の分別だよ。
混在させて平気な奴は,脳天気でいいけどなぁっっっっ(笑。
■ 性欲の分別、臨界の傍ら
『ノルウェイの森』では、僕ワタナベと死んだ友人の恋人であった直子とは、二人の距離を具体的に歩くことで実測していく。東京の街を歩き回り、コーヒーを飲んで休み、また歩いて食事をして別れるということを繰り返しているこの段階で、僕の中にやっと〈好感〉の感情が生じてくる。〈白紙〉の僕は、ただ時間と行為とを経て、書き込まれるのを待っている。自分の方から書き込みに行くことはない。
「しかし僕と直子の関係も何ひとつ進歩がないというわけではなかった。少しずつ少しずつ直子は僕に馴れ、僕は直子に馴れていった。夏休みが終って新しい学期が始まると直子はごく自然に、まるで当然のことのように、僕のとなりを歩くようになった。」(『ノルウェイの森』)
〈白紙〉の僕が、とうとう彼女のそばにさえ近づきもしなかったので、直子の方から妥協して寄ってきたのだが、それを僕は〈好感〉から〈馴れ〉への進歩として、「一人の友だちとして認めてくれたしるし」として解釈している。
その直子に好きな女の子はいないのかと尋ねられたとき、〈白紙〉でありながら性欲だけが活性化している僕は、別れた女の子と寝るのは好きだったと回想し、心の中に殻があるからだと思う。だが実は〈白紙〉の僕ワタナベには想定されている殻さえもなく、誰をも愛することができない。緑との関係でさえ、恋愛ではない。そして勃起的存在のまま『ノルウェイの森』の中で女性を物色し、性欲のはけ口として女性を資源化して有効活用している。
しかし、なぜ、村上春樹という小説家はこのように性欲をきちんと分別する必要があるのだろうか。彼は、恋愛と性欲が混同して用いられることに我慢ができないのだ。彼は、僕と鼠とを分離したように、要素の混在する事象を純粋化することによって、それぞれの臨界へとその存在を引き上げていく。その締めあげの作業の過程が苦行に似ているため、小説は頻繁に悲劇化し、宗教の傍へと隣接していくのである。
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春樹論10(笑。
最近,本に押されて読書量増えてきた感じ。
こういう感じ,好きだね。
ときどき思いだしたように禁煙方法エントリー書いているけど,
今回のきっかけは,仲間由紀恵を妻としている温水への嫉妬だと思う(笑。
ち,ちくそっっっっっ,
なんでおまえが,そんな立場にっっっっ(怒,ってことです。
こころ,せまっ。
今朝の春樹論は,
『ノルウェイの森』は,
性欲は恋愛から感情教育を受けうるか,という問いであるという部分です。
では,どーぞ。
■〈白紙〉、勃起的存在
『ノルウェイの森』の主人公である僕ワタナベは、友人キズキの音楽的な死の軽やかさに対して、『死は生の対極ではなく、一部として存在する』と痛感する。
だが、死は細かく砕かれて時間の中に潜み、事物の中にすら浸透しているという認識は、わざわざ親友の死を代償として必要とするほど明晰なものだろうか。むしろ十七歳という年齢では、もっと老成した死の観念を持つべきではないだろうか。たとえば『生は死の対極としてではなく、その一部として島嶼のように存在している』というように。死と生とが截然と切り分けられていて、友人の死によってその分断線が曖昧になって困惑してしまう僕ワタナベとは、死についての思慮が浅く、友人の死に干渉することもできず、死についても体験的な学習しかできず、したがって友人がいったん死者となるや死を深刻に考えることしかできない人物で、ただの〈白紙〉である。出来事の記述を待ち受けるだけの〈白紙〉である。しかもただ死について〈白紙〉なのではなく、恋愛についても〈白紙〉なのである。
友人キズキの死から卒業するまでの間に僕ワタナベは、ある女の子と仲良くなって寝るが半年ももたず別れる。その理由が『彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこなかった』からだという。しかし、この『仲良くなる・寝る・訴えかける』の順序は間違っている。感情の論理は『訴えかける・仲良くなる・寝る』の順序を指し示す。
この順序の違いは、ただ僕ワタナベの〈白紙〉に還元するだけではまだ不足している。僕ワタナベの旺盛な性的行動が余剰として残っているからである。僕ワタナベは性器的にだけは〈白紙〉ではなく、自主的に行動する。つまり、僕は勃起的な存在として『ノルウェイの森』の中を獣のように歩き回っているということになるのである。この響きの鈍い勃起的存在は、恋愛という感情教育を受けうるのか、それがこの小説が揺らし続けている旋律符なのだ。
こういう感じ,好きだね。
ときどき思いだしたように禁煙方法エントリー書いているけど,
今回のきっかけは,仲間由紀恵を妻としている温水への嫉妬だと思う(笑。
ち,ちくそっっっっっ,
なんでおまえが,そんな立場にっっっっ(怒,ってことです。
こころ,せまっ。
今朝の春樹論は,
『ノルウェイの森』は,
性欲は恋愛から感情教育を受けうるか,という問いであるという部分です。
では,どーぞ。
■〈白紙〉、勃起的存在
『ノルウェイの森』の主人公である僕ワタナベは、友人キズキの音楽的な死の軽やかさに対して、『死は生の対極ではなく、一部として存在する』と痛感する。
だが、死は細かく砕かれて時間の中に潜み、事物の中にすら浸透しているという認識は、わざわざ親友の死を代償として必要とするほど明晰なものだろうか。むしろ十七歳という年齢では、もっと老成した死の観念を持つべきではないだろうか。たとえば『生は死の対極としてではなく、その一部として島嶼のように存在している』というように。死と生とが截然と切り分けられていて、友人の死によってその分断線が曖昧になって困惑してしまう僕ワタナベとは、死についての思慮が浅く、友人の死に干渉することもできず、死についても体験的な学習しかできず、したがって友人がいったん死者となるや死を深刻に考えることしかできない人物で、ただの〈白紙〉である。出来事の記述を待ち受けるだけの〈白紙〉である。しかもただ死について〈白紙〉なのではなく、恋愛についても〈白紙〉なのである。
友人キズキの死から卒業するまでの間に僕ワタナベは、ある女の子と仲良くなって寝るが半年ももたず別れる。その理由が『彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこなかった』からだという。しかし、この『仲良くなる・寝る・訴えかける』の順序は間違っている。感情の論理は『訴えかける・仲良くなる・寝る』の順序を指し示す。
この順序の違いは、ただ僕ワタナベの〈白紙〉に還元するだけではまだ不足している。僕ワタナベの旺盛な性的行動が余剰として残っているからである。僕ワタナベは性器的にだけは〈白紙〉ではなく、自主的に行動する。つまり、僕は勃起的な存在として『ノルウェイの森』の中を獣のように歩き回っているということになるのである。この響きの鈍い勃起的存在は、恋愛という感情教育を受けうるのか、それがこの小説が揺らし続けている旋律符なのだ。
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要約すると,まあ,外資だな,外資(笑。
アメリカの国益に沿ったことをさせようとしているので,
結果としてどうなるかといえば,
粗雑な外資が活動しやすくなって,
儲かっていくってことですかね(笑。
保険とか銀行とかっていうお金関係のとこの外資。
クルマもいちおう書いてあるけど,
これは技術力の差が障壁となってくれるだろう。
だいいち,アメリカのクルマなんてだれもほしがらん(笑。
それにしても,よく理解できないのは
そこまでして金儲けしたいと願う気持ちなんだよねえ。
結果としてどうなるかといえば,
粗雑な外資が活動しやすくなって,
儲かっていくってことですかね(笑。
保険とか銀行とかっていうお金関係のとこの外資。
クルマもいちおう書いてあるけど,
これは技術力の差が障壁となってくれるだろう。
だいいち,アメリカのクルマなんてだれもほしがらん(笑。
それにしても,よく理解できないのは
そこまでして金儲けしたいと願う気持ちなんだよねえ。
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これかな,グーグルのことは(笑。
さっきの大使館の資料を読んでいたら,
グーグルのポリシー変更と関係のありそうな部分と遭遇。
「オンライン広告における個人情報の利用に関わるガイドラインの策定に際し、透明性を確保し、国内外の産業界の意見を聞く。」だって,さ。
このことかなー。
さすが,きちんと根回ししてあったんだねえ(笑。
グーグルのポリシー変更と関係のありそうな部分と遭遇。
「オンライン広告における個人情報の利用に関わるガイドラインの策定に際し、透明性を確保し、国内外の産業界の意見を聞く。」だって,さ。
このことかなー。
さすが,きちんと根回ししてあったんだねえ(笑。
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愛でたばこはやめられない(笑?
CMを見るたび,失笑してしまうので,
一度きちんと語っておこう。
たばこをやめるのは,そんなに難しいことではないよ。
意思が必要なんだけど,それは強い意志ではないのだ。
たいていのひとは,
意思が強くないからたばこをやめられないと思っている。
それは,考えが間違っている。
たばこをやめるために必要なのは,寛容な意思です。
習慣として定着した喫煙が,禁煙しようとする意思とぶつかる。
そのとき,意思で禁煙を貫こうとすると,強力なリバウンドが来ます。
禁止するからです。
やめたければ,禁止してはいけないのです。
許容するのです。
吸いたい気持ちが起こることを許容するのです。
吸いたくなったら,
いずれやめようと思っているけれど,きみが吸いたければ吸っていいよと
自分を許容してあげるのです。
そうすると,何度も許容しているうちに,
喫煙の習慣が折れてきて,
そうだね,きみのいう通りだ,これは出口のない嗜みだということを納得します。
禁止するのではなく,許容して
説得するのではなく,納得するのを待つのです。
そうすれば,禁煙できます。
なんの道具もいりません,もちろんなんの薬もいりません。
強い意志もいりません。
自分を許し,導こうとする寛容な意思,それだけあればできます。
禁煙もまた,自分との対話以外のものではないからです。
一度きちんと語っておこう。
たばこをやめるのは,そんなに難しいことではないよ。
意思が必要なんだけど,それは強い意志ではないのだ。
たいていのひとは,
意思が強くないからたばこをやめられないと思っている。
それは,考えが間違っている。
たばこをやめるために必要なのは,寛容な意思です。
習慣として定着した喫煙が,禁煙しようとする意思とぶつかる。
そのとき,意思で禁煙を貫こうとすると,強力なリバウンドが来ます。
禁止するからです。
やめたければ,禁止してはいけないのです。
許容するのです。
吸いたい気持ちが起こることを許容するのです。
吸いたくなったら,
いずれやめようと思っているけれど,きみが吸いたければ吸っていいよと
自分を許容してあげるのです。
そうすると,何度も許容しているうちに,
喫煙の習慣が折れてきて,
そうだね,きみのいう通りだ,これは出口のない嗜みだということを納得します。
禁止するのではなく,許容して
説得するのではなく,納得するのを待つのです。
そうすれば,禁煙できます。
なんの道具もいりません,もちろんなんの薬もいりません。
強い意志もいりません。
自分を許し,導こうとする寛容な意思,それだけあればできます。
禁煙もまた,自分との対話以外のものではないからです。
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春樹論9(笑。
まあ,アメリカに怒っていてもしょうがないからねー,
ダメダメなのは,自分なんだから。
今夜の春樹論は,
「ノルウェイの森」では,
冒頭に緑への傾倒が予告されているというところ。
では,では。
■草原のグラデーション、漂白される相貌
『ノルウェイの森』には『風の歌を聴け』と同じように、冒頭に小説の概観図が添付されている。
『風の歌を聴け』は、「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」という陳腐な警句で幕を開けた。僕を嘘をつく存在として定位させることがその目的である。正直に語ることはひどくむずかしいと語る僕は、だからといって正直に語るわけではない。ここで賢しらな作家が提示するのはただひとつ、最初に嘘をつけばあとは嘘が導く帰結にすぎないという原則である。『風の歌を聴け』の中で、僕が死んでしまったガールフレンドに、愛しているか、結婚したいか、子供は何人欲しいかと尋ねられ、それぞれに望まれる返答をした後に、嘘つきと言われるが、僕はひとつしか嘘をついていないと思う。愛しているかと尋ねられて、もちろんと嘘をつくこと。最も大きな前提だけに嘘をつくこと、それが『風の歌を聴け』が読者に要求している読解の作法である。
『ノルウェイの森』では、僕の記憶に最初に浮かび上がってくるのは、直子の表情やしぐさではなく、僕と直子の交際断片でもなく、それらを漂白しおえた草原の風景である。
でも今でも僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにもくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。(『ノルウェイの森』)
視覚も聴覚も、微かなもの、遥かなものをひとつも見落とすことなく感受していくというのに、直子は歩きながら井戸の話をする聴覚的対象としてしか登場を許されない不自由な存在として定義され、「私のことを覚えていてほしい」と度重なる懇願を行ったにもかかわらず、漂白され薄れいく図像として、草原に置きざりにされていくのだ。
かつて「マリリン マリン ブルー」(大岡信)とマリリン・モンロー図像が海へ溶かされたように、直子もまた草原へと溶かされてしまおうとしている。直子は漂白され、肢体をほどかれ、天然素へと溶解する。揺れる髪の持ち主であった直子は消えていき、「直子 草原 緑」という図像変換を経て、ただ緑だけが僕の恋人として残る物語の概観を風景として予め描いている。
ダメダメなのは,自分なんだから。
今夜の春樹論は,
「ノルウェイの森」では,
冒頭に緑への傾倒が予告されているというところ。
では,では。
■草原のグラデーション、漂白される相貌
『ノルウェイの森』には『風の歌を聴け』と同じように、冒頭に小説の概観図が添付されている。
『風の歌を聴け』は、「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」という陳腐な警句で幕を開けた。僕を嘘をつく存在として定位させることがその目的である。正直に語ることはひどくむずかしいと語る僕は、だからといって正直に語るわけではない。ここで賢しらな作家が提示するのはただひとつ、最初に嘘をつけばあとは嘘が導く帰結にすぎないという原則である。『風の歌を聴け』の中で、僕が死んでしまったガールフレンドに、愛しているか、結婚したいか、子供は何人欲しいかと尋ねられ、それぞれに望まれる返答をした後に、嘘つきと言われるが、僕はひとつしか嘘をついていないと思う。愛しているかと尋ねられて、もちろんと嘘をつくこと。最も大きな前提だけに嘘をつくこと、それが『風の歌を聴け』が読者に要求している読解の作法である。
『ノルウェイの森』では、僕の記憶に最初に浮かび上がってくるのは、直子の表情やしぐさではなく、僕と直子の交際断片でもなく、それらを漂白しおえた草原の風景である。
でも今でも僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにもくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。(『ノルウェイの森』)
視覚も聴覚も、微かなもの、遥かなものをひとつも見落とすことなく感受していくというのに、直子は歩きながら井戸の話をする聴覚的対象としてしか登場を許されない不自由な存在として定義され、「私のことを覚えていてほしい」と度重なる懇願を行ったにもかかわらず、漂白され薄れいく図像として、草原に置きざりにされていくのだ。
かつて「マリリン マリン ブルー」(大岡信)とマリリン・モンロー図像が海へ溶かされたように、直子もまた草原へと溶かされてしまおうとしている。直子は漂白され、肢体をほどかれ、天然素へと溶解する。揺れる髪の持ち主であった直子は消えていき、「直子 草原 緑」という図像変換を経て、ただ緑だけが僕の恋人として残る物語の概観を風景として予め描いている。
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日本の未来はここにある,のか(笑。
「拒否できない日本」へとやってきました。
この本では,日本政府は
アメリカ政府から出された要望書に沿って政策を展開していく,という。
へぇぇぇぇぇ,
わかりやすすぎ。
で,その「年次改革要望書」はアメリカ大使館のHPには
翻訳付きで載っているらしい。
まじでーっっっ(笑。
で,いってみましたが,見あたりません。
ウィキペディアでみると,「年次改革要望書」はいまでは,
「日米経済調和対話」と呼ばれているらしいです。
おお,それならあります,あります。
2011年2月の分です。
↓こんなの
「日本との協力関係の強化は、
この対話において米国が特に重視する領域である。
情報通信技術、知的財産権、農業関連措置やワクチンといった領域における
両国の協力はすでに良好な成果をもたらしている。
この対話の下、米国は共通の目標の達成に向け、
当該領域ならびにおそらくはその他の領域においても、引き続き日本とのさらなる調和と連携を促進する。」とのことです。
まあ,読んでみてください。
周波数のオークションとか書いてあります。
この間,やるって発表がありましたよね(笑。
これこれ,これ読めば,日本の未来が分かるっっっっっっ!
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