ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

神になろうとした信長

2020-03-01 19:07:58 | 日記

 「本能寺の変は何故起きたか」ということについては諸説あります。その中で、信長は朝廷の上に立とうとしていた、つまり神のような存在になろうとしていたという説があります。それを光秀は許せなかったとするものですが、実際のところはどうだったのでしょう。

 下克上の世にあって、将軍でさえ危ういという時代、信長は将軍の家臣になろうとしたでしょうか。足利義昭を擁して上洛に成功した時、将軍義昭は信長に斯波(しば)氏の家督を相続するようすすめました。斯波氏の家督を継ぐということは幕府の管領(かんれい)になるということですから、無上の光栄であるわけですけれど、信長はその申し出を拒絶しました。名目としては「陪臣(ばいしん)の家柄の身には荷が重い」ということでしたが、本心は「管領などになって縛られたくない」ということだったのでしょう。臣下として仕える気はないわけですから、幕府の管領という権威は信長にとって不用のものであり、却って自由を妨げるものだったのです。

 

 同様に本能寺の変の1ヵ月ほど前、朝廷では信長を太政大臣か関白か将軍のいずれかに推挙するため、勅使を派遣すると決めました。この時信長は甲斐の武田氏を滅ぼして凱旋したばかり。このまま信長が天下統一の事業を成し遂げたなら、天皇の権威、朝廷の存在価値がなくなるのではないか。そう考えたかどうかわかりませんけれど、とにかく天皇の権威のもとに繋ぎとめるために三職推任を決めたようです。「…いか様の官にも任ぜられ、油断なく馳走申され候はんこと肝要候」という誠仁(さねひと)親王の書状を添えた勅使が安土城下に着いたのは5月4日のこと。信長はすぐに勅使に会おうとはせず、面謁した時も返答を保留しています。これほどの官職をちらつかせても動じない信長を、光秀はどう思ったでしょうか。

 以上のことから考えられることは、信長は幕府に仕えることも朝廷に仕えることもしたくなかった、ということです。それを証明するような文書が『回想の織田信長』(松田毅一・川崎桃太編訳)の中にあります。宣教師ルイス・フロイスが『日本史』の中でいっている言葉なのですが、「彼(信長)は時には説教を聴くこともあり、その内容は彼の心に迫るものがあって、内心、その真実性を疑わなかったが、彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物(信長のこと)は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なり造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないと言うに至った」とあります。

 そして信長は「予が誕生日を聖日とし、当寺(摠見寺)へ参詣することを命ずる」との命を出していたことからも明らかなように、自ら生きながら神として祀られることを望んだのです。神として朝廷の上に立つ。その傲慢さを光秀は許せなかったのではないでしょうか。また宣教師たちからすれば、「自分が神である」という信長は、神を冒涜しているとしか思えなかったに違いありません。フロイスは「デウスにのみ捧げられるべき祭祀と礼拝を横領するほどの途方もなく狂気じみた言行と暴挙に及んだので、我らの主なるデウスは、彼があの群衆と衆人の参拝を見て味わっていた歓喜が十九日以上継続することを許し給うことがなかった」と結んでいます。これによると本能寺の変は、信長が自分を神であると言い出してから十九日後に起こったということになります。果たして今年の大河「麒麟がくる」ではどう描かれるのでしょうか。

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