ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

大磯とバカヤローのオブジェ

2019-06-09 19:12:05 | 日記

 前回に続き大磯です。湘南発祥の地・大磯は、鴫立沢の標石の裏に記された如く眺望の素晴らしいところで、宿場町でもありました。鴫立庵の近くに上方見附跡があります。見附というのは宿場を守るために置かれた防御施設で、京都側の出入り口にあるのを上方見附、江戸側にあるのを江戸見附といいます。街道を挟んだ両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1.6mくらいだったようです。本来見附は城下の見張り番所のことをいい、主に城門の外側にあって通行人を監視したところでした。江戸城には三十六見附があったといわれます。今でも四谷見附・赤坂見附という地名になって残っていますよね。

 さてその大磯宿ですが、広重の東海道五十三次にも描かれており、特に「隷書東海道」の海がいいですね。右手に茶店が描かれていますが、このあたりの茶店では盆山石(ぼんさんせき)を売っていたと「名所記」にあります。盆山石というのは盆栽に入れて楽しむための小石で、五色の色をしていました。このあたりの磯でとれたようです。

隷書東海道・大磯

 鴫立庵近くの砂浜は「こよろぎの浜」と呼ばれて、古くは万葉集にも「相模路(さがみじ)の 舎呂伎(よろぎ)の浜の まさごなす…」と歌われ、昔から風光明媚なところとして知られていました。晴れた日には沖の方に大島が見えるのですが、その美しさは今、鴫立庵から見ることはできません。大磯城山公園の中にある旧吉田茂邸の金の間まで行くと眺めることができます。ここに立つと「ああ湘南 清絶地」の意味が理解できそうな気がしますね。この邸は吉田茂が養父から引き継ぎ、晩年を過ごしたところですが、2009年に焼失し、その後再建されました。現在は大磯町郷土資料館別館となっています。

吉田茂邸 金の間からの眺望

 吉田茂は麻生財務大臣のおじいさんにあたる人ですけれど、戦後の内閣総理大臣を務めた方であり、何といっても「バカヤロー解散」で有名な方です。衆議院予算委員会で質疑応答中、吉田茂が「バカヤロー」と呟いた声がマイクに拾われ、問題になりました。追い込まれた吉田茂は衆議院を解散したというわけで、「バカヤロー解散」と呼ばれます。で、この邸宅には「バカヤローのオブジェ」があるのですが、まるで投げ出されたサイコロのように、部屋の片隅にポツンと座っています。旧島崎藤村邸にも同じような「涼しい風だね」のオブジェがありましたけれど、このあたりで流行っているのでしょうか。

バカヤローのオブジェ

 またこの近くには伊藤博文や大隈重信、陸奥宗光など、明治の偉人たちの別邸が多くありました。彼等は競ってこの大磯に別業を営んだようです。万葉、古今に詠われ、西行が秀歌を詠み、明治の偉人たちに愛された大磯、いいところでした。

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ああ湘南 清絶地(湘南発祥の地)

2019-05-26 19:10:14 | 日記

 先日大磯へ行ってきました。好天に恵まれ、風も穏やかで、海は青く澄み、絶好の景勝地日和でした。何故大磯かというと、以前から西行の「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮」という歌を詠んだのがこのあたりだと聞いていたからです。西行が訪れた地で、歌の情趣を味わってみたかったのです。

 「心なき」というのは「物の情緒を理解しない」、「心なき身」というのは「俗世間の感情を捨てた身」となるのでしょうね。西行は出家していましたから、そうした俗世間の感情を捨てた僧の身にも、秋の夕暮に鴫が飛び立っていくこの沢の情趣がしみじみと感じられるよ。感動した!といったところでしょうか。西行が感動したこのあたりの風景は大分変わってしまったと思いますし、秋のもの寂しい風情とは趣を異にすると思いますが(しかも夕暮ではなく、真っ昼間ではありましたけれど)、それでもなかなか趣のある風光明媚なところでした。ただ海沿いを西湘バイパスが走っているので、大磯ロングビーチは見えません。大磯城山公園の旧吉田茂邸まで行くと、金の間から絶景を望むことができます。

 国道1号線沿いに鴫立庵(しぎたつあん)がひっそりと建っています。門前を流れる谷川はやがて沢となり、その水は砂地に吸い込まれて消えるのだそうですが、この鴫立庵に「鴫立沢」の標石があります。江戸時代初期、小田原の崇雪(そうせつ)という人がここに草庵を結び、西行の歌にちなんで標石を建てたのだそうです。果たしてここで西行の歌が詠まれたかどうかは定かではありませんが、このあたり、大磯の鴫立沢なる地で「心なき…」の歌が詠じられたことは確かなようです。

鴫立庵

 そしてこの「鴫立沢」の標石の裏に「著盡湘南 清絶地」という文字が刻まれています。「ブラタモリ」によると「ああしょうなん、せいぜつち」と読み、これが「湘南」という言葉の始まりになるとか。湘南というのはもともと中国の景勝地だそうですが、このあたりがその景色に似ていたのでしょう。ですから「ここは湘南、湘南って素晴らしい」というくらいの意味になるのだそうで、故にここが「湘南発祥の地」といわれ、鴫立庵の近くの1号線沿いに「湘南発祥の地」の石碑も建っています。

 鴫立庵の庭内には佐々木信綱博士の筆になる「心なき…」の歌碑もありますし、西行法師の座像が安置された円位堂、観音堂、芭蕉の句碑などもありますけれど、何よりここは京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場のひとつなのだそうです。門前を入るとすぐに庵室があり、その隣に俳諧道場があります。江戸元禄の頃から庵主が在庵し、今に至っています。

 鴫立庵から歩いて5分くらいのところに旧島崎藤村邸があります。友人に誘われて大磯の左義長見物に訪れた藤村は、すっかりこの地を気に入り、住むようになりました。小さな冠木門があり、割竹垣に囲まれた三間ほどの平屋建ての民家ですが、藤村はここの書斎を最も気に入っていたようです。「涼しい風だね」の言葉を最後に、この世を去りました。

旧島崎藤村邸

 西行が感動し、藤村が愛したこの地で、私も生涯を終えたい、なんて思わせるようなところでしたよ。

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日本最初の元号

2019-05-12 19:23:49 | 日記

 元号が変わり、何につけても「令和初」という言葉が使われてフィーバーしてますね。普段は元号について考えることがないので、この機会に改めて考えてみるのもいいかもしれません。

 

 日本で最初に使われた元号といえば、ご存じのように「大化(たいか)」、「大化の改新」のそれです。その最初に使われた元号の裏には何があったのでしょう。当時は蘇我蝦夷(そがのえみし)とその子入鹿(いるか)が皇極(こうぎょく)天皇を助けて政治を行っていました。助けてくれるのはいいのですが、人間は次第に権力を握りたくなるんですね。蘇我氏の独裁的傾向が強くなっていき、同時に皇室の権威が危うくなっていきます。

 入鹿は自分が天皇にとって代われるとは思っていなかったようですが、蘇我氏の血をひく操縦しやすい古人(ふるひと)皇子を皇位につけて事実上の権力を握ろうとしていました。しかしその入鹿の独裁的傾向に反発する分子もいたのです。唐から帰国した留学生や僧侶は、唐で学んだ政治の知識をもって中央集権国家を目指していました。その気運の中心人物となったのが、舒明天皇の皇子であった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と神祇祭祀の職を世襲した中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。特に鎌足は、飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で行われた打毬(うちまり)の遊びに紛れて積極的に中大兄に近づいたようです。

 そうして反入鹿の勢力は隠密裏に暗殺計画を進めていきました。ちょうど高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)三国の使者の入朝が迫っていたのを利用して、三国の貢をすすめる儀式を朝廷で行うこととし、上表文を読み上げるのを合図に入鹿を斬るというものでした。645年6月12日、天皇が大極殿(だいごくでん)に御し、少し遅れて入鹿が入場してきます。と同時に中大兄は宮中の諸門をすべて閉ざさせました。邪魔が入らないようにするためです。刺客は陰に隠れて合図を待ちました。石川麻呂が進み出て上表文を読み上げます。しかし何事も起こりません。石川麻呂の声が震えます。入鹿が怪しんで、「何故そんなに震えるのか」と尋ねます。石川麻呂は「天皇の御前なので…」と答えます。あわや失敗かと思われた時、中大兄が先頭に立って刺客たちと斬り込み、入鹿は天皇の前に倒れました。

 以上が概ね『日本書紀』の語るところですけれど、その後入鹿の父蝦夷も自殺し、クーデターは成功します。645年に起きたこのクーデターは「乙巳(いつし)の変」と呼ばれ、それ以降に始まる政治改革のことを「大化の改新」というのだそうですね(私の時代にはクーデターを含めて「大化の改新」と習いましたが)。政変後、中大兄はすぐに皇位には就きません。軽皇子(かるのみこ)を皇位につけ、孝徳天皇として即位させます。そして自分は皇太子となりました。皇太子でいた方が自由に腕が振るえると思ったのでしょうか。それとも、蘇我氏打倒が皇位を望むためのものと思われたくなかったのでしょうか。6月19日、上皇、天皇、皇太子は、大槻(おおつき)の木のもとに群臣を集め、「帝道唯一」を神々に誓いました。そしてこの時、日本初の元号「大化」を定めたのです。

 そんな時代を思う時、平和裏に皇位が受け継がれ、お祭り気分で令和を迎えられたことに幸運を感じます。

 さて、その後のエピソードをもう少し。乙巳の変から23年後の668年、中大兄はようやく即位して天智天皇となります。それを見て安心したのでしょうか。翌年、中臣鎌足は56歳の生涯を閉じます。その少し前に天皇から最高の冠位である大織冠(だいしょくかん)と大臣の位を授けられ、「藤原」姓を与えられました。藤原時代の基がここに誕生したわけです。

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即位の礼

2019-04-28 19:04:22 | 日記

 いい陽気になりました。雨さえ降らなければ絶好のお出掛け日和です。ゴールデンウイークにも入りましたし、すでに日本にはいらっしゃらない方も多いのでは。しかしもうすぐ行われる我が国の一大イベントを見逃してしまうのは、ちょっと残念な気がします。そう、今上天皇の御退位と新天皇の御即位です。元号も「令和」に変わりますし、私の場合、この次の天皇の御即位を見ることはないと思うので、これが最後となるでしょう。前回(平成になる時)は前皇の崩御による御即位でしたが、今回は受禅(じゅぜん)の即位、前皇の側からいえば譲位ということになりますね。

 石村貞吉氏の『有職故実(ゆうそくこじつ)』によれば、「皇位の象徴たる、三種の神器を継承する式」のことを践祚(せんそ)といい、即位は「践祚の後、時日を隔てて、正しく南面の位について、新たに皇位継承の旨を、広く百官庶民に宣布(せんぷ)する儀」ということになります。5月1日に行われる「剣璽等承継の儀」はこの践祚にあたるものでしょう。10月22日に行われる「即位礼正殿の儀」が故実のいうところの即位式にあたるものかと思われます。崩御による即位式は喪が明けてからになるので、1年以上先になりますが、今回は譲位によるものなので、この令和元年秋に行われるわけです。

 高御座

 「剣璽等承継の儀」はその昔、践祚式の中で「剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀」として先帝の御所から新帝の御所へ移されていましたが、現在は「剣璽等承継の儀」でお受け取りになり、そのままご自分の御所へ持ち帰られるようです。伝統の儀式も時代に合わせて少しずつ姿を変えていくんですね。

 姿を変えるといえば、即位の礼が行われる場所も変わりつつあります。つまり天皇が高御座(たかみくら)に立たれる場所ですけれど、もともとは大極殿(だいごくでん)において行われていたものが、焼失したために太政官庁で行われるようになり、後柏原天皇以後は紫宸殿(ししんでん)で行われるようになりました。現在の京都御所にある紫宸殿では、明治・大正・昭和の天皇の即位式が行われましたけれど、平成からは今の皇居、正殿松の間で行われたということです。

 京都御所の紫宸殿

 京都に都があった頃は、式に先立って伊勢の鈴鹿の関、近江の逢坂の関、美濃の不破の関を固め、非常時に備えたといいます。この頃は東国から蝦夷が乱入するのを恐れたんですね。今は、というと、やはり警戒は必要かもしれません。昨日でしたか、秋篠宮悠仁(ひさひと)さまの通われる中学校で、お教室の机の上に包丁が2本置かれていたというニュースがありました。何を考えているのかわからない人もいるので、用心はしなければならないでしょう。

 何事もなく滞りなく行われ、新しい時代がくることを祈りつつ、昔ながらの装束で新天皇が高御座に立たれる秋のその日を、楽しみに待ちたいと思います。

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令月にして風和ぐ

2019-04-14 18:35:27 | 日記

 前回の「起請文」は3月31日にアップしようとしたのですが、「通信エラー」となり、アップできませんでした。世はまさに新元号の発表に沸き、「令和」の文字がテレビ画面に躍っている最中、私は何とかアップしようと悪戦苦闘していました。少し遅れましたが、息子の助力でアップでき、ほっとしています。しかし今回からはアップロードの方法を変えなければならないので、少々不安です。技術的にいつまで続けられるかわかりませんが、出来る限り頑張っていきたいと思いますので、応援よろしくお願いします。

 さてその「令和」ですけれど、さんざん報道されましたように『万葉集』からとったものです。「梅花の歌三十二首 併(あは)せて序」とあるその序文からとったんですね。新潮日本古典集成の『万葉集』によれば、序文は次のようになっています。  「天平二年の正月の十三日に、帥老(そちのおきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(けいぜん)の粉(ふん)を披(ひら)く、蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす。しかのみにあらず、……」

 まだまだ序文は続きますが、これくらいにしておきましょう。帥老(そちのおきな)というのは太宰の帥であった大伴旅人(おおとものたびと)のことで、この酒好きな人の家に集まって梅花の宴をやったわけです。梅の花見といってもよいでしょう。折しもいい月が出てるんですね。この当時、夜は現代のように明るくありませんから、月がなければ真っ暗です。月はライトアップと同じなんですね。そして気も澄み渡り、風もそよぐ程度。梅は鏡前の白粉(おしろい)のように咲き、蘭は匂い袋の香のように香っている。さらにさまざまな情趣が揃ったこの時にこそ歌を詠もうではないか。「よろしく園梅を賦(ふ)して、いささかに短詠(たんえい)を成すべし」というわけです。

 

 そこで三十二人が一人ずつ歌を詠んでいくのですが、ここに集まったのはどんな人たちかというと、まず太宰府の官人ですね。それから太宰府管内にあった日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬の朝集使(ちょうしゅうし)たち、そして旅人の知人だったようです。朝集使はちょうどこの時、太宰府に来ていたんですね。冒頭は太宰府の次官であった大弐(だいに)紀卿(きのまへつきみ)の歌で始まります。「正月(むつき)立ち 春の来(きた)らば かくしこそ 梅を招(を)きつつ 楽しき終へめ」

 そして八首目にこの宴の主である大伴旅人の歌があります。「我が園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも 」。梅の花を雪に見立てたわけですけれど、この時期に散るのはまだ早いようです。創作もあったんでしょうね。それにしても、まだまだ寒い時期のお花見。ダウンコートもない時代ですから、風流もなかなか大変です。

 旅人は酒好きで、お酒の歌も何首か残していますけれど、この頃はすっかり老い、奈良の都を恋しがっていたようです。三十二首の歌のあとに「員外、故郷を思ふ歌」として次のような歌があります。「雲に飛ぶ 薬食(は)むよは 都見ば いやしき我が身 またをちぬべし(薬なんか飲むより、奈良の都をひと目見たら、卑しい老いの身もまた若返るだろう)」。

 「令和」、年をとっても希望のもてる時代になるといいですね。

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