ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

王朝人の初夏

2018-05-13 19:50:29 | 日記
 今年は1、2月が平年より寒く、3、4月は比較的暖かい陽気でしたが、5月に入って気温のアップダウンが激しいですね。夏になるかと思わせておいて、早春のような陽気に戻るので体がついてゆけません。雨もよく降りますし、風も強いので、「風薫る…」などという雰囲気でもありません。もう少し穏やかな「五月晴れ」が欲しいですね。


 五月は暦の上では夏ですけれど、まだ春の名残りもあっていろいろな花が咲きますし、本来はいい季節です。
 五月(さつき)待つ 花橘(はなたちばな)の 香(か)をかげば 昔の人の 袖の香ぞする(読人しらず)

 昔の人は衣の袖に香(こう)を焚きしめていたんですね。ここでいう昔の人とは昔の恋人というくらいの意味でしょうか。その人が橘の香りのする香を焚きしめていたので、橘の花の匂いを嗅ぐとその人を思い出すわけです。私は橘の匂いを知りませんけれど、そよ吹く風に乗って薫ってくるいい匂いなのでしょう。女性は匂いに敏感ですから。こんな歌もあります。

 五月雨の 空なつかしく 匂ふかな 花橘に 風や吹くらむ(相模)


 先日用事があって群馬の方へ出掛けましたが、その途中見事に咲いた藤の花を見つけました。五月は藤の花の季節でもあります。勿論花の咲く時期は地方によって差がありますし、その年によっても違いますけれど、王朝貴族たちは藤の花が咲くと宴を催したんですね。『源氏物語』にも藤の花宴の様子が描かれています。藤の花が愛されたのは、色が紫で当時の貴族たちの好みにあったということもあるでしょうが、藤原氏の栄えた時代でもあったからなのでしょう。

 

 また古今集には、「わが宿の 池の藤波 咲きにけり 山ほととぎす いつか来鳴かむ(読人知らず)」というのがあって、藤の花が咲くと同時にホトトギスが鳴くのを待っている様子がうかがえます。和歌や俳句にも多く詠みこまれていて、この季節を代表する鳥といってもよいでしょう。
 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる(藤原実定)
 ほととぎす 鳴くや五月の 短夜(みじかよ)も ひとりしぬれば 明かしかねつも(読人知らず)
 いつの間に さつき来ぬらむ あしひきの 山ほととぎす 今ぞ鳴くなる(読人知らず)



 ホトトギス(鳥類図鑑より)



 というように枚挙に暇(いとま)がありませんけれど、当時の人はホトトギスが渡り鳥であることを知らないんですね。ですから四月までは山にいて、五月になると里に下りてくると思っていたようです。山にいる間は「山ほととぎす」といい、五月以前に鳴く時は忍んで鳴くものだとして、「忍び音」と言っています。面白いですね。そういえば唱歌に「夏は来ぬ」というのがありました。
 卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて 
 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ


 随分昔の唱歌ですが、学校で習われた方も多いことでしょう。この歌には他にも「五月雨」、「早乙女」、「橘」、「蛍」、「水鶏(くいな)」、「早苗」等々の言葉が詠みこまれているので、王朝人が詠んだ初夏の風物詩の集大成かと思ってしまったくらいです。今更ながら「なるほど…」ですね。

 因みにホトトギスは何といって鳴いているかご存じですか。「本尊かけたか」、「特許許可局」、「てっぺんかけたか」などいろいろな説がありますけれど、一度ゆっくり耳を傾けてみるのもよいかもしれません。


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義経の最期

2018-04-30 18:54:24 | 日記
 前回、『奥の細道』にある芭蕉の句から、義経の最期の地・高館(たかだち)へ思いを馳せましたが、今回は『平家物語』や『義経記(ぎけいき)』、『吾妻鏡(あづまかがみ)』、『玉葉(ぎょくよう・九条兼実の日記)』などから義経の最期を考えたいと思います。

 高館にある義経像


 まず義経が平泉へ行くまでの経緯ですけれど、これは梶原景時(かじわらかげとき)の讒言によって義経が頼朝の嫌疑をうけることとなり、ついには刺客が放たれるというところから始まります。武勲が称賛されるどころか、兄頼朝から迫害される立場になったことについて都の人々は理解しがたく、「勧賞(けんじょう)おこなはるべき処に、いかなる子細あってか、かかる聞えあるらんと、かみ一人(いちじん)をはじめ奉り、しも万民に至るまで不審をなす」と『平家物語』は語ります。『吾妻鏡』にもこのことは「伊予守義経を誅す可(べ)きの事」として「土佐房昌俊(とさのぼうしょうしゅん)を遣(つか)はさる」とあります。

 土佐房は捕らえられて梟首となりますが、頼朝から討手がかかることを察した義経は都を落ちていきます。その時後白河院から頼朝追討の院宣をもらうんですね。『玉葉』にも「伝へ聞く、頼朝追討の宣旨を下さると云々」とあります。
 ところが平家を打ち滅ぼしてからの義経には全くといってよいほど運がありません。大物(だいもつ)の浦から船出をすると大風が吹いて住吉の浦にうちあげられ、五百余騎いた軍勢も散り散りになってしまいます。これは平家の怨霊の祟りといわれました。次に吉野へ入るのですが、ここでは吉野法師に攻められ、奈良へ逃れれば奈良法師に攻められて都へ戻り、ついに平泉を目指すことになるのです。
 大物の浦については『玉葉』にも記事があり、「伝え聞く、義経、行家等、去る五日夜乗船し、大物辺に宿す、…夜半より大風吹き来たり、九郎等乗る所の船、併(しか)しながら損亡、一艘として全きもの無し。船の過半海に入る」とあります。

 絵巻の一部・大物の浦

 義経にとってさらに悪かったのは、頼朝の代官として北条時政が上洛し、義経追討の宣旨を申請したことです。それに対して後白河院はすぐに宣旨を下すんですね。義経に頼朝追討の宣旨を下してから十日もしないうちに、今度は義経追討の院宣を下したわけです。『玉葉』の作者九条兼実(かねざね)は「世間の転変、朝務の軽忽(けいこつ・きょうこつ)、之を以て察す可(べ)し」と批判しています。


 これが文治元年十一月のこと、それから一年以上かかって義経は平泉へ入っています。秀衡(ひでひら)に迎えられ、歓迎されて過ごした平穏な日々は短く、『吾妻鏡』では文治三年十月に秀衡が死去しています。
 そこで頼朝は思案するんですね。秀衡がいなくなったところで一族郎党が欠けることはあるまい。これらが義経の指揮のもとで戦をするならば、「日本国中の勢を以て、百年二百年戦ひ候とも、…容易(たやす)く打靡(なび)け給はん事叶(かな)ふまじく」(『義経記』)と考え、それより秀衡の子泰衡(やすひら)に義経を討たせた方がいいと考えるわけです。そして後白河院に、義経追討の院宣を泰衡に対して出させるんですね。ずるいです。


 『義経記』によると、院宣が下ったことを知り、泰衡が攻めてくることがわかっても、義経は応戦しようとはしませんでした。「さればとて、矢をも一つ放つべきにても候はず」とあって、自害する支度をします。恩を受けた秀衡の子に弓を引くのを憚ったともいえますが、院宣が下り、頼朝と敵対しては、逃げ隠れする場所などないと諦めたといった方がいいでしょうか。

 衣川の合戦が始まると武蔵坊たちは奮戦しますが、みな討死し、義経は北の方や子供たちとともに自害して果てます。『義経記』では久我大臣の姫となっているのですが、実際は河越重頼の娘で郷御前(さとごぜん)と呼ばれた方が北の方として最期をともにしたようです。


 さて、頼朝は義経の最期を聞いて何といったと思いますか。『義経記』にはこうあります。「頼朝が兄弟と知りながら、院宣なればとて、左右(そう)なく討ちぬること奇怪なれ」といって泰衡の使者を殺し、泰衡追討の軍を奥州へ向けるんです。義経を討つように自分で仕向けておきながら、討つと今度はそれをけしからんというわけです。怖いですね。今でもどこかにありそうな話ですけれど…。

 判官贔屓(ほうがんびいき)になる理由、お分かりいただけたでしょうか。

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つわものどもが夢の跡

2018-04-15 19:23:47 | 日記
 いい季節になりましたね。毎年そう思うのですが、旅に出たい季節です。桜の咲く頃に京都へも行ってみたいのですが、その思いはなかなか叶いそうにありません。
 我が家近辺の桜はもう終わってしまい、今はハナミズキでしょうか。青々とした若葉が生い茂るようになり、日を浴びた青葉を見るとどうしても脳裏に浮かぶのが芭蕉の句、「あらたうと 青葉若葉の 日の光」。何度かブログにも書きましたけれど、この季節にぴったりの句です。

 これは言わずと知れた「奥の細道」にある句ですけれど、芭蕉が旅に出る時はとにかく松嶋の月を見たいと思っていたのでしょう。序文に「松嶋の月先(まず)心にかかりて…」とあります。そして松嶋ではその絶景に絶句してしまい、句が詠めなかったんですね。散文の方ではその情景を描写していて(省略)、「造化(ぞうか)の天工(てんこう)、いずれの人か筆をふるひ、詞(ことば)を尽さむ」と言っています。造物主の偉大な仕事を人間ごときが筆舌に尽くすことなどできないと大絶賛しているわけです。

 松嶋


 そして芭蕉は平泉へと足を向けます。ここで詠んだのが、「夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡」。私の大好きな句です。藤原三代の栄耀栄華を極めた東北の京ともいうべき雅な空間と、そこにあったであろう義経の館が跡形もなく消え去り、今はただ夏草が生い茂るばかりだという無常観、過ぎ去った時間と虚しさが伝わってきます。

 「奥の細道」には「三代の栄耀一睡の中(うち)にして…秀衡(ひでひら)が跡は田野に成て、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。先、高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川(ころもがわ)は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)。…偖(さて)も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる…」とあって、芭蕉はここにしばし佇み、涙しています。

 中尊寺金色堂


 数十年前に私も平泉の中尊寺へ行ったことがあるのですが、その時は高館(義経終焉の地)へは行けませんでした。はるか遠くに衣川(ころもがわ)を望み、その時代へ思いを馳せました。

 衣川を望む


 義経というのは、どこか悲しい存在なんですね。平家を滅ぼした功名に比して、その生涯があまりに哀れで、つい同情したくなってしまうんです。いわゆる判官贔屓(ほうがんびいき)ですけれど。義経自身、頼朝に対して反抗する気持ちはなかったと思いますし、親の仇を討とうとする気持ちや、兄頼朝の役に立ちたいと思う気持ちは純粋なものだったと思うのです。ただ政治を知らない戦(いくさ)馬鹿のようなところがあって、さまざまな人の讒言を許し、また後白河院のような大天狗に操られたところがあるのは否めません。さんざん義経を利用しておきながら、最後に義経追討の院宣を下した後白河院は本当に許せないと思いますけれど…。


 何はともあれ、松嶋も中尊寺もいいところでした。こんな季節にはまたぶらりと行ってみたいものです。


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「君たちはどう生きるか」

2018-04-01 14:30:08 | 日記
 本屋さんを通りかかった時、芥川賞受賞作と並んで山積みされていた本がありました。その山のように平積みされた本が芥川賞受賞作より早くなくなっていき、ついに一冊残りになった時、そんなに売れるの?と思いながら手にとりました。まえがきのまえがきのようなものの中で池上彰さんが子供の頃に読んだ本であること、子供たち向けの哲学書であり、道徳の書であること、1937年に発行された本なので古い時代の言葉が出てくるが本の骨格部分の輝きは色褪せていない等々書かれています。

 というわけで、タイトルと池上さんの言葉、それに帯に書かれた文字に惹かれてつい買ってしまいました。マンガ版も同時発売されていて、こちらはすでに170万部突破だそうです。子供向けではありますけれど、大人の鑑賞にも耐える本なので面白く読ませていただきましたし、勉強にもなりました。特に叔父さんがいいですね。コペル君という主人公の中学生に対して、いろいろアドバイスしてくれる叔父さんの言葉やノート。普段気がつかないことに気づかされます。

 

 少し叔父さんの言葉を拾ってみましょう。
 「自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中のことも、ついに知ることができないでしまう。大きな真理は、そういう人の目には、決してうつらないのだ」
 ちょっと耳の痛い言葉です。さらに世の中とはどういうものか、その中で人間が生きているということはどういう意味があるのかということに関しては、
 「英語や、幾何や、代数なら、僕でも君に教えることができる。しかし、人間が集まってこの世の中を作り、その中で一人一人が、それぞれ自分の一生をしょって生きてゆくということに、どれだけの意味があるのか、どれだけの値打ちがあるのか、ということになると、僕はもう君に教えることができない。それは、君がだんだん大人になってゆくにしたがって、いや、大人になってからもまだまだ勉強して、自分で見つけてゆかなくてはならないことなのだ」
 というのです。う~ん確かに、この歳になってもまだ見つかっていない気がします。子育て同様、人生には正解はないのかもしれませんね。

 また学問をする意味に対しては、一人の人間として経験することには限りがあるけれど、言葉や文字を使ってお互いの経験を伝えあうことができるといい、
 「そこで、いろいろな人の、いろいろな場合の経験を比べあわすようになり、それを各方面からまとめあげてゆくようになった。こうして、できるだけ広い経験を、それぞれの方面から、矛盾のないようにまとめあげていったものが、学問というものなんだ。…そしてそういう経験を前の時代から受けついで、その上で、また新しい経験を積んできたから、人類は、野獣同様の状態から今日の状態まで進歩してくることができたのだ。一人一人の人間が、みんないちいち、猿同然のところから出直したんでは、人類はいつまでたっても猿同然で、決して今日の文明には達しなかったろう」
 学問する意味が伝わってきますね。

 また貧しいということに関しては、貧しいから軽蔑に値するのではなく、それは卑屈になるからであって、自分の誇りをもって生きていることが肝心なのだといいます。
 「人間の本当の値打ちは、いうまでもなく、その人の着物や住居や食物にあるわけじゃあない。どんなに立派な着物を着、豪勢な邸(やしき)に住んでみたところで、馬鹿な奴は馬鹿な奴、下等な人間は下等な人間で、人間としての値打ちがそのためにあがりはしないし、高潔な心をもち、立派な見識を持っている人なら、たとえ貧乏していたってやっぱり尊敬すべき偉い人だ」
 確かにそう思いますが、お金持は崇めたくなりますし、お金がないとどうしても卑屈になりますよね。

 さて、長くなるのでこの本のお話はこれくらいにしましょう。最後に拙著「栄光のかけら」の話を少しだけ。こちらは大人向けですが、哲学書ではありません。ただの小説ですけれど、安楽死の問題、少子高齢化社会の問題など、将来考えるべき問題を提起しています。これからをどう生きるか考えながら読んでいただき、読んでくださった方々にはこう問いかけたい。
 「君たちはどう生きるか」「私たちはどう生きましょうか」と。

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「信長公記」に見る本能寺

2018-03-11 19:33:19 | 日記
 今回は本能寺シリーズの最後になります。「信長公記」といえばご存じの方も多いと思いますが、永禄11年から天正10年までの15年間を記した信長の伝記で、作者太田牛一(おおたぎゅういち)は信長や秀吉に仕えた戦国武将でした。綿密に書かれた「信長公記」は軍記としても信憑性が高く、これなくして信長は語れないというほど史料性の高いものになっています。

 角川版「信長公記」

 それでは「信長公記」(角川文庫版)から本能寺の場面を抜き書きしてみましょう。角川版は原本ではなく、読解の便をはかり、読み下し文にしてあります。それをさらに私流に読み下し、そのまま読めるようにしてみました(例:「去程に」→「去るほどに」)。

 まず天正10年6月の記事から「去るほどに不慮の題目出来して、六月朔日夜に入り、丹波国亀山にて惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)光秀逆心を企て…」で始まる本書は、老の山で京へ出る道を選び、いよいよ本能寺へ。「既に信長公御座所本能寺取巻き、勢衆四方より乱れ入るなり。…ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打入れ候(そうろう)。是は謀叛か、如何なる者の企てぞと御諚(おおせ)の処に、森乱申す様に、明智が者と見え申候と言上候へば、是非に及ばずと上意候」。

 ここには信長と森乱丸の会話が見られ、謀叛人は誰かという問いに対し、乱丸は「明智が者と見え申しそうろう」と答えています。そして信長の有名な「是非に及ばず」という言葉が続くわけですが、この後討死した御厩衆、森三兄弟を始めとする御小姓衆の名があり、町の宿にいた湯浅甚介と小倉松寿はこの異変を聞いて駆けつけ討死、御台所口では高橋虎松が比類なき働きをしたと語られています。

 さて信長はといえば、「信長初めには御弓を取合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃(つる)切れ、其後御鑓(やり)にて御戦ひなされ、御肘に鑓疵(やりきず)を被(こうむ)られ引退き、是迄(これまで)御そばに女共付きそひて居り申候を、女はくるしからず、急ぎ罷出(まかりい)でよと仰せられ、追出させられ、既に御殿に火を懸け焼来(やけきた)り候」となっています。

 信長は初め弓を引き、鑓をとって戦ったのですが、肘に鑓疵を負い、もはやこれまでと思ったのでしょう。傍にいた女たちを逃がすんですね。鬼のような男と思われた信長にも優しい面はあったようです。そしてその頃には既に御殿に火が回っていました。

 このあと、「御姿を御見せ有間敷(あるまじき)と思食(おぼしめ)され候か、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸(納戸)の口を引立て無情(なさけなく)御腹めされ」と続き、信忠の話へと移っていきます。信忠の宿は妙覚寺だったのですが、構えのいい二条御所へ立て籠もることになり、親王や若宮を逃がしたところへ明智勢が押しかけ、「御敵、近衛殿御殿へあがり、御構を見下し、弓・鉄砲を以て打入れ…」となって近衛前久が疑われる原因となるわけです(「本能寺事変の黒幕と目された男」)。

 本能寺の真相は太田牛一が記した本書が基本です。ただ一人の目だけでは見えないものもある筈なので、いろいろな説が出て来るのも必然といえるかもしれません。

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