ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

この頃都に流行るもの

2019-03-17 19:30:32 | 日記
 今世間で流行っている悪事といったら何が思い浮かぶでしょう。いろいろありますけれど、何といってもオレオレ詐欺ですね。私が若い頃には「お年寄りを大切に」という標語があったのですが、最近ではお年寄りはカモにされつつあります。認知機能の衰えたお年寄りを騙す、挙句は強盗に入るという非道なことが許されてよいものではありません。児童虐待もそうですけれど、抵抗もできないような弱い者を虐待する。そういう道徳観を持った社会が普通になったとしたら恐ろしいことです。
 
 建武年間に「二条河原落書」というのがあったのを覚えておいででしょうか。確か歴史の教科書に載っていたと思うのですが、日本落書史上稀に見る傑作です。
 「此頃都ニハヤル物、夜討、強盗、謀(にせ)綸旨(りんじ)、召人(めしうど)、早馬、虚騒動(そらさわぎ)、生頸(なまくび)、還俗(げんぞく)、自由出家、俄(にわか)大名、迷者(まよいもの)、安堵、恩賞、虚軍(そらいくさ)、本領ハナルル訴訟人……下克上スル成出者(なりでもの)……」と悪事ばかりでなく、世相や風俗まで88節にわたって綴られています。ちょうど後醍醐天皇の建武の新政が始まって間もない建武元年(1334年)8月のことでした。
 京都御所の築地塀(現代)


 この落書は建武政権の政庁に近い二条河原に掲げられたもので、京童を装って書かれていますが、当時の混迷する政治を批判、風刺している七五調の文体から推測すると、かなり教養のある人であろうと思われます。建武政権に不満を持つ僧侶か貴族なのでしょうか。なかなか面白い文章ですが、現実には物騒な世の中ということになります。物騒な世の中は、応仁の乱以後益々物騒になり、下剋上へと突入していきます。


 マイブログ「戦国期の京都」にも書きましたが、将軍や公家貴族たちが都を捨てて地方へ避難してしまった時も、京の町衆は「町の囲(ちょうのかこい)」なるものを設け、自衛しました。どんなに物騒でもそこに住み、必死に京の町を守ったのです。そしてようやく静けさを取り戻した江戸時代、少し寂れた観はありますけれど、やはり都は京都でした。江戸へは下るといい、京へは上るといったんですね。

 「下りもの」という言葉があります。京から下ってくる上質のものをこう呼び、特にお酒は下りものの代表でした。地方で造られたものは粗悪品という意味で「下らないもの」といわれました。政治の中心は江戸でしたが、文化の中心はやはり京都だったようです。


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古今伝授

2019-03-03 19:13:46 | 日記
 このところ暖かい日が続いたせいか、梅の花の開花が大分進んだような気がします。梅の花が咲くと、『万葉集』や『古今集』などで詠まれた和歌が思い浮かびますけれど、特に『古今集』は歌道の聖典とされ、歌道に携わる者にとってこの歌集の研究は欠かせないものとなった時代がありました。そんな時に「古今伝授」という秘事が生まれたんですね。その秘事というのは一体何なのでしょう。

 歌道の宗匠が講義をする際、この学問の精髄であるという箇所を講義から外しておいて、ある資格に達した者だけにひそかに伝授するというもの。それが秘事で、『古今集』の中では特に三木(さんぼく)・三鳥(さんちょう)の秘事が「古今伝授」とされたようです。
 ではその三木・三鳥というのは何かというと、三種の植物と三種の鳥の名なのですが、詳細はよくわかりません。なにせ秘事ですから。ただ鳥の名は「ももちどり」「呼子鳥(よぶこどり)」「いなおほせどり」だそうで、呼子鳥はカッコウのことのようです。

 この「古今伝授」を受けるというのは大変な名誉で、和歌を最高の文化と認めていた当時の日本人にとって、いわば信仰に近いものがありました。そこで細川幽斎(ゆうさい)のエピソードが登場するわけです。幽斎はいうまでもなく細川藤孝(ふじたか)のことで、戦国時代の武将であり、歌人であり、細川忠興のお父さんにあたる人です。明智光秀とともに足利義昭を将軍にしようと奔走した人でもあります。

 幽斎は二条流の歌道伝承者・三条西実枝(さねえだ)から古今伝授を受けていたのですが、慶長5年関ヶ原の戦いの直前、丹後田辺城で石田三成の軍勢に囲まれたことがありました(田辺城の戦い)。幽斎は死を覚悟するのですが、それによって和歌の秘奥が絶えることを惜しんだ後陽成(ごようぜい)天皇によって調停せられ、幽斎も勅命によって城を出ることになりました。講和が結ばれたのは関ヶ原の戦いの2日前だったということです。

 関戸本古今集

 歌道の伝授は王朝末期頃から始まっています。御子左家(みこひだりけ)の俊成(しゅんぜい)から定家(ていか)、為家(ためいえ)と継承され、為家の子の代には二条・京極・冷泉(れいぜい)の三家に分れました。以後はその三家の間で宗家(そうけ)争いが激しくなり、秘事の伝授が格式化されていくのです。二条家の場合、為氏(ためうじ)、…東常縁(とうのつねより)を経て連歌師の宗祇(そうぎ)へと継承されました。

 そして、公家の手から離れた「古今伝授」が宗祇から三条西実隆(さねたか)へと再び堂上へ移り、さらに天皇や大臣家という上流貴族たちまでもが「古今伝授」に参加してくるのです。幽斎のエピソードと合わせると、当時の社会において如何に「古今伝授」が重んぜられていたか、想像に難くありません。


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