ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

江戸っ子の美学

2020-06-21 18:59:33 | 日記

 前回深川芸者の心意気について触れましたが、これは江戸っ子の美学にも通じることなので、今回はそれについて考えてみましょう。
 江戸初期から数十年の間、江戸特有の個性というものはありませんでした。しかしやがて強烈な自意識、独特の気性が出てきます。江戸っ子といわれる人々です。この江戸っ子とは本来、「粋(いき)」と「通(つう)」と「はり」に生きた人々のことであり、ある意味で精神性の高い人々であったともいえるでしょう。

 粋とはもともと意気のことで、元気があって色っぽく、垢抜けていて新しもの好きのことをいいます。さりげなさが身上で、わざとらしく格好をつけるのは野暮天(やぼてん)といってさげすみました。粋と幾分似ているものに鯔背(いなせ)というのがあります。魚の鯔(ぼら)のように背を丸めて気負った姿をいい、気っ風がよくて威勢のよいことを指します。野暮天相手に斜にかまえるのが粋なら、「こわくはねぇぜ」と強がって見せるのが鯔背。「粋の深川、鯔背の神田」といわれるように、深川には色っぽさがあり、職人の多い神田は男っぽくて威勢が良かったんですね。

 町人たちは自らの生活を豊かに楽しもうとし、芝居や遊里、歌舞音曲や祭礼などの娯楽に精を出しました。趣味や遊びに通じることはお金も大変ですけれど、長い修練をやり通す精神力も必要です。そして遊びの極致をきわめることが通人としての資格であり、通といわれるものでした。通が遊びをきわめる行動原理なら、粋はそれを支える美意識であったともいえます。よく芝居や落語に登場する大店の若旦那。心意気もあり、遊び上手で、人情の機微に通じ、融通が利くという、生き方自体が生活美学になっている人々。これが通と呼ばれる人たちだったんですね。

 もう一つ、はりというのがありますが、これは文字通り張り合うことです。歌舞伎に「助六」というのがありますよね。助六は最初から最後まで徹底的に張り合っています。いうなれば、助六ははりの勝利者ですけれど、ただこのはりは我を張り通すのではなく、義と侠に裏打ちされた自意識のはりでもあります。黒羽二重(くろはぶたえ)に紅絹裏(もみうら)という粋な着付け、相手への小気味良い啖呵など、江戸っ子の美意識が集約されているのも見どころです。

 助六

 子供の頃、萬屋錦之介(よろずやきんのすけ)さん演じるところの「一心太助(いっしんたすけ)」という映画がありました。ただの魚屋なのですが、威勢がよくて義理人情に厚い江戸っ子の典型として描かれています。少し意地っ張りなところもありましたが、意地でも何でも美学を持っているというのはいいですね。その美学を死ぬまで貫いた人には憧れますけれど、あんまり長生きすると意地もはりもなくなって、みっともない生き様になるのではないかと心配になります。

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深川芸者

2020-06-07 19:09:45 | 日記

 若い頃、歓送迎会に芸者さんが来ると聞いて喜び勇んで行ったことがあります。日本髪を結い、着物の裾を引きずりながら踊るあの美しい姿を勝手に思い浮かべていたんですね。さんざん待たされて、やっと到着したのはかなり年配の芸者さんでした。日本髪でもなく、地味な着物を着た地味な作りのおばさんが、三味線だけ弾いてくれたのを覚えています。

 さて江戸の芸者さんの始まりは女歌舞伎であったといわれます。最初の頃はどうしても遊女の要素が強く、遊女が女歌舞伎を真似て踊りを取り入れたようですが、やがて遊芸の心得のある芸者と、その心得のない遊女とに分化していきます。つまり芸と売笑を兼ねる踊子と、売笑婦専門の女郎とに分かれるわけです。それでも過渡期には双方区別のつかないこともあったようで、女郎が芸者に「三味線箱へ枕を入れてあるけ」と罵ったり、芸者が女郎に「三味線は弾かせまい」といって揉めることも多々あったとか。分化したとはいえ、芸は売っても色は売らないという心意気のある芸者さんは少なかったんでしょうね。

 そもそも幕府公認の遊里は吉原だけでした。それ以外は私娼窟であり、岡場所と呼ばれたんですね。ただ内藤新宿、千住、板橋、品川の四つの宿場は官許の私娼なので、岡場所とは呼びませんでした。何といっても最大の岡場所は深川。天保八年(1838年)の頃には芸妓と娼妓合わせて七百人を超える女たちがいたといいます。芸妓の女性を女芸者、幇間(ほうかん)や太鼓持ちを男芸者と呼びましたが、次第に芸者といえば女芸者を指すようになりました。女芸者の中にも売春をする者がいて、枕芸者、転び芸者などと呼ばれましたが、これは取り締まりの対象となりました。

 江戸の女芸者の元祖は、芳町にいた菊弥という唄の女師匠だったといわれます。あまりの人気に男娼たちの悋気を買い、深川へ逃れて茶屋を営み、そこから深川芸者が生まれたのだそうですけれど、男勝りの深川芸者が生まれるのにはさまざまな事情もあったようです。

 深川八幡宮之図(豊国画)

 大岡越前守が吉原以外の所で売笑することを禁じ、私娼窟に対して厳罰をもってのぞむようになった時、女子を売らなければ生活できない貧困層の人間は何とかして法の網を潜り抜けようとしました。そうして生まれたのが男年季証文です。芸者として売られる時、男の奉公人として契約され、町家の丁稚奉公人のように何吉、何次、何助のように男名前で証文を作りました。服装も当時女性は羽織を着なかったのですが、羽織を着ることによって男装化したんですね。足袋を穿かず、男用の下駄を履くのもそのためです。自然、男のような口調にもなり、意気地と張りが売り物になりました。江戸の粋の象徴ともいわれます。男装化しなければならなかった深川芸者が、侠(おとこだて)であったのは当然のことといえましょう。

 深川は江戸の辰巳の方角にあったので、深川芸者は辰巳芸者とも呼ばれ、その身形から羽織芸者ともいわれました。深川芸者が着はじめた女羽織は、江戸の上流婦人や関西芸者にも普及し、天保以後には一般婦人も着るようになりました。深川芸者は今でいうファッションリーダーであったともいえますね。

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