ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

八王子城陥落

2015-07-22 18:34:15 | 日記
 夏休みに入り、海山のシーズンになりましたね。以前はよく高尾山に行きましたけれど、最近は人が多過ぎて山へ行った気がしなくなりました。それはそれで楽しいのですけれど、ちょっとした山登り気分を味わって涼を得たい方は、谷をひとつ隔てた八王子城跡など如何でしょう。

 城跡といっても遺跡も少なく、ほとんど人気(ひとけ)のないただの山です。高さは460mほどで高尾山より少し低いくらいですが、観光地化されていないので、山そのものを楽しみたい方にはいいかもしれません。管理棟やガイダンス施設もあるので、トイレの心配もありませんし、駐車場は50台くらいまでOKです。

 入り口   登山道

 八王子城は戦国時代末期、北条氏照(ほうじょううじてる)によって築かれ、後北条氏の支城の中でも重要な城の一つになりました。急峻な山に築かれたこの城は、難攻不落の名城だったんです。山の麓にはふだん暮らしていた屋敷がありましたが、そこにも曳橋(ひきはし)があったり(戦の時は取り外すことができる)、虎口(こぐち)といって敵が侵入しにくい工夫もなされていました。曳橋のあたりは安土城に似ているともいわれています。

 本丸跡   眺望

 ところがかの有名な秀吉の北条攻めが始まり、本城の小田原城は秀吉の大軍に囲まれてしまいます。さらに秀吉は北条氏の支城を配下の大名たちに攻め落とすよう命じました。八王子城へは前田利家と上杉景勝の連合軍がやってきます。この時氏照と精鋭部隊は小田原城にいたため、他の家臣たちが守りにあたっていました。前田・上杉両軍は猛攻撃を開始し、壮絶な戦いの末、八王子城は陥落してしまいます。天正18年6月23日のことでした。

 これによって小田原城に籠っていた北条氏直(うじなお)、氏政(うじまさ)、氏照らは7月5日に降伏し、秀吉の天下統一が成りました。八王子城陥落からわずか12日、いかにその打撃が大きかったかがわかります。関東は秀吉の支配下となって、この地は家康に与えられることになるのです。

 6月23日というと旧暦では今頃の暑い時期になります。そんな時にあの重い甲冑を着て戦ったわけですから、敵に斬られる前に熱中症になってしまいそうな気がしますけれど、八王子城に籠った氏照の家臣たちは必死の抵抗を試み、かなり凄惨(せいさん)な戦闘が繰り広げられたようです。城方の戦死者だけで1300人に及び、屍が累々と山を覆ったと伝えられています。

 そのためさまざまな伝説も生まれました。毎年6月23日になると軍兵(ぐんぴょう)のどよめきや呻(うめ)き声が聞こえてくるとか、子持ちグモが多いのは子供を抱いた婦女の自決があったからだとか、渓流にはヒルはいない筈なのに城山川にヒルがいるのは血汐が化したものだとか…。とにかく多くの血が流れたことは確かです。そのために城山川は赤く染まり、血の色が収まってもその水で米を炊くと赤飯のようになったといわれています。

 どうでしょう。涼しくなること間違いなしです。夏の夜は肝試しにいいかもしれませんね。

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新幹線焼身自殺と国立競技場建設費

2015-07-08 19:34:05 | 日記
 よく降りますね。久しぶりに梅雨らしい梅雨といった感じです。お蔭で紫陽花がきれいに咲きましたけれど、悲しい事件もありました。
 6月30日でしたか、新幹線で焼身自殺をした人がいましたね。71歳になる老人で真面目な方だったとか。女性が一人巻き込まれて亡くなったそうですが、如何なる理由があったとしても、他人を巻き込んでいいということはありません。ありませんが、ただその老人を非難することで済む問題でもないような気がします。

  あじさい

 その老人・林崎容疑者は年金が少ないと周囲に漏らしていたそうです。家賃を払い、光熱費を払ったら生活していけないというので人(議員さんのようです)に相談もし、ハローワークへ行ったりもしていたようです。しかし、年齢的体力的なこともあって、仕事ができるような状態ではなかったとか。だけどそれは自分が悪いんだよ。そういうご意見もあるでしょう。しかし人生には誤算もあります。失敗もあります。そして何より運もあります。思ったようにいかないのが人生です。

 今老人ホームなどで介護職員による虐待が起きていることをご存知でしょうか。介護職員も人間ですから、十分な手当なしに重労働を課されれば弱者に対して優しくなれないのです。介護職員の問題も社会保障の問題として検討していただきたい課題ですが、トイレなどに遺骨を捨てるという事件があるのを知っていますか。トイレばかりではありませんが、遺骨の始末に困って捨ててしまうケース。

 これを救済しようと、最近はお寺などで送骨というシステムをとっているところがあります。びっくりしますけれど、料金(およそ3万円)を添えて遺骨を送ると、納骨・供養をしてくれるのだそうです。勿論合葬墓(がっそうぼ)になりますが、多くの人にお参りしてもらえる利点もあるのだとか。葬儀やお墓に対する価値観や考え方が変わってきているんですね。それでもどうにもならなくて捨ててしまう人がいる、というのは人間として悲しいことです。

 こういう方たちがたくさんいるにも拘わらず、何度注意喚起しても騙されるお年寄りがいます。それも数千万の単位で騙し取られるというのですから、もう…。
 そんなニュースばかりが流れると、お年寄りはお金を持っているから取ってやろうという考え方をする人も出てきます。騙すというのではなくても、ぼったくろうと。そしてお金がないとわかると、ぞんざいに扱われたりするのですから本当に迷惑です。

 林崎容疑者は少ない年金をさらに減らされたことに怒っていたようですが、お年寄りの年金を削るのであれば、年金に携わってきた方たちの年金をまず削っていただきたいものです。随分不祥事もありましたから、それが筋というものでしょう。誰も責任を取っておられませんし。

 また社会保障費を削ろうというご意見をお持ちの議員さんは、まずご自身の議員年金を返上した上で言っていただきたいですね。年金暮らしのお年寄りは、夫婦のどちらか一方が介護を必要とするようになった時、困窮してしまうケースが多いんです。

 国立競技場に2520億円ですか。コンパクト五輪にするという話はどこへいったのでしょう。足りなくなったらまた増税、社会保障費減額というパターンはご免です。その前に安楽死を認める法律を作っていただきたい。安らかに、苦しまずに死ねるシステムを。お金がなくなったら自分で自分の身を灰にするしかないというのは悲しすぎます。曽野綾子さんが『老いの才覚』の中で、備えあっても憂いはあるものだから、「一文無しになったら野垂れ死にを覚悟する」と書いておられますが、凡人の私には難しいことです。やはり自分が死んだことを確認する人(医師等)が傍にいて欲しいですし、苦しまずに逝かせて欲しいと思ってしまいます。

 お年寄りの中でも格差は拡大しています。
 オリンピック、大いに結構です。でもそのために弱者に皺寄せがいくようなことだけは避けて欲しいものです。
 誰もが喜べるオリンピック。それに期待しています。

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『薬子伝』、その後

2015-07-01 19:32:05 | 日記
 薬子の変は薬子が服毒自殺を遂げることによって終わりますが、その後、平城上皇はどのような余生を送ったのでしょう。最愛の人を失った上皇が、出家後、どのような思いで暮らしたかは想像に難くありません。唐の玄宗皇帝のようにただただ最愛の人を偲び、悲嘆にくれながら生きたとするのが通説です。

 また平城上皇の第一皇子であった阿保(あぼ)親王は変後大宰府へ左遷され、父上皇が崩御するまで入京を許されませんでした。入京してからは治部卿、宮内卿などを歴任していますが、承和(じょうわ)の変に巻き込まれ、謎の死を遂げています。享年は父上皇と同じ51歳でした。子供たちを政争に巻き込みたくないという思いが生前にあったのでしょう。行平と業平の臣籍降下を願い出、在原姓を賜っています。かの有名な貴公子在原業平の誕生です。

 業平のイメージ   清涼殿西廂

 業平は血統的に見れば皇位を継承してもおかしくない血脈を持って生まれてきたのですが(母は桓武天皇の皇女伊都内親王)、臣籍降下によってその道は閉ざされました。しかしその代償として、権力抗争に巻き込まれずに済んだということができますね。阿保親王は自分の子供たちを守ったのです。

 阿保親王が左遷された大宰府はのちに菅原道真が送られ、無念の死を遂げたことで有名になりました。そして道真を左遷した時平が雷に打たれて変死したことによって、祟りを恐れた朝廷が天神様として祀り、現在は学問の神様として親しまれています。そのように当時はまことしやかに怨霊が信じられた時代でもあり、大宰府は中央を追われた貴人が行くところでもありました。

 奈良に不退寺(ふたいじ)というのがあります。正式名称不退転法輪寺。別名業平寺ともいいます。寺伝によれば平城上皇がこの地に仮殿を営んだのがはじめで、当時は「萱(かや)の御所」と呼ばれていたそうです。その後阿保親王や業平もここに住み、業平が自作の聖観音像を安置して寺としたと伝えられています。その名前が不退転。

 それは皇位を退いてしまったおじいさんに対する思いだったのか、政争に巻き込まれて自殺したであろうお父さんへの思いだったのか、はたまた交遊の深かった惟喬親王(これたかのみこ・皇位につけなかった悲運の人とされる)に対する思いだったのかはわかりません。気弱で人のいい、争いごとを好まない血統の業平自身、決して強い人ではなかったと思うのですが、その業平だからこその不退転。感慨深いものがありますね。

 奈良・東大寺を望む

 平城上皇は漢詩をよくしましたが、わずかに和歌も残されています。古今集巻第二の中に「ならのみかどの御うた」として、
 ふるさとと なりにしならの みやこにも 色はかはらず 花はさきけり
というのがあります。過去の人になってしまった自分と旧都を重ね合わせたのでしょうか。

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