ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

江戸の料理茶屋

2016-10-23 19:02:37 | 日記
 前回は江戸グルメの中のファストフード(屋台)を取り上げましたが、今回はもう少し高級なグルメ、料理茶屋について考えます。

 江戸初期には調理したものを単品で売る振り売りや、路上でところてんを食べさせることはありましたけれど、定食のような外食料理はありませんでした。明暦の大火のあと火除地(ひよけち)としての広場ができ、人々の流れも変わってきたところで、家とは違った場所で食事がしたいという人々の願望を察したかどうか、浅草に奈良茶飯(ならちゃめし)を出す店があらわれます。茶飯に豆腐汁、煮しめに煮豆といった定食を出したんですね。

 これが大当たり。またたく間に各地に広がっていきました。これらの店はやがて品数や料理に工夫を凝らした料理茶屋として発展し、さらには贅(ぜい)をこらした調度をしつらえたり、景観まで配慮した料亭として発展していくのです。美味しいものを賞味するだけでなく、人を接待する場所として、或いは会合の場として利用する人も増え、江戸留守居役の武士たちや富を得た商人たちによって一世を風靡することになります。

 明和年間、深川の洲崎に升屋(ますや)という料理屋ができ、その主人・祝阿弥(しゅくあみ)の豪華な住まいの様子や三十品目からなる料理の献立などが江戸時代の書物に記録されています。升屋は寛政三年に津波に襲われ消滅してしまいますが、八百善、平清(ひらせい)、嶋村といった料理茶屋が登場し、特に八百善は全国に名を馳せました。蜀山人(しょくさんじん)の狂歌に「詩は五山 役者は杜若(とじゃく) 傾(けい)はかの 芸者はおかつ 料理八百善」とあります。

 八百善   料理番付

 八百善の有名なエピソードとしてお茶漬けの話があります。ある客がお茶漬けを注文したところ、半日待たされて出てきたものは普通のお茶漬けに香の物、しかも食べ終わって値を聞くと一両二分といわれて驚きます。いくら珍しい香の物といってもあんまりじゃないかと憤慨しますが、亭主が答えて曰く。香の物より茶の代金の方が高いのです。しかも茶に合った水が近くにないので、玉川まで早飛脚を走らせて水を取り寄せました。その運賃が莫大なのです、と。

 よく潰れなかったと思いますけれど、八百善は次々にアイデアを出し、他の追随を許しませんでした。例えば今でいうところのギフトカードに相当する切手を発行し、贈答用として普及させたり、参勤交代の武士たちが郷里へ帰る際、土産話ができるようにと「おこし絵」なるもの(飛び出す絵本)を販売したり、『江戸流行料理通』という本まで出版しています。著者は八百善の主人ですが、著名な文人の序文や画家の挿絵を載せ、読み物としても楽しめるようにしたのです。

 八百善はペリー来航の際、接待に用いられたという言い伝えもあり、明治、大正、昭和、平成と生き残るのですが、残念ながら現在店舗営業はしていません。料理教室などを通じて伝統の味は伝えられているようです。
 先日高校の同期会があって行ってきましたけれど、江戸時代に同窓会なるものがあったとしたら、会場は料理茶屋だったかもしれませんね。

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江戸のファストフード

2016-10-09 18:58:16 | 日記
 最近は食べ歩きの番組が増えました。美味しいものを求めて町を歩くというのは、何だかんだいっても、それだけ平和で豊かな国であるという証拠なんでしょうね。戦国時代では考えられないことですから、有難いことです。

 江戸時代も結構平和な時代でしたからさまざまなグルメが登場しました。現代のファストフードにあたる屋台料理には、そば・すし・天ぷら…。すしや天ぷらは今ほど高級なものではなかったんですね。まさに庶民の味だったんです。屋台は寺社の門前、観光名所はもとより、お祭りや盛り場などにも出現し、焼きいか、煮豆、団子等々いろいろありましたけれど、何といっても馴染のあるのは蕎麦でしょう。

 高輪から品川の海岸沿いに出る屋台 そばをすする女たち

 蕎麦は古くからありましたけれど、今のような形ではなく、蕎麦掻(そばがき)と呼ばれる餅状のものでした。今のような麺状のものは戦国時代に登場しますが、その頃は「そば切り」と呼ばれていました。江戸初期にはそば粉だけで打っていましたが、切れやすいのでつなぎに小麦粉を使うようになり、全盛期を迎えます。つなぎの蕎麦に対してそば粉だけで打ったものは「生蕎麦(きそば)」と呼んで区別されるようになりました。

 すしの歴史は熟鮓(なれずし)に始まりますが、現在の握りずしに近い形を世に出したのは華屋(はなや)与兵衛といわれます。今でもそんなお店、ありますよね。文政年間のはじめ、本所元町に出していた与兵衛さんの屋台店で、ワサビをはさみ、海老やこはだを主とした握り鮓を始めたところ大ヒット。しかし天保の改革で諸事節約の時代になると、与兵衛の鮓は贅沢ということになり、手鎖の刑になったこともあったとか。因みに当時のすしは今の二倍くらいの大きさだったそうです。

 すしを子供に与える女   天ぷらを食べる遊郭の女

 天ぷらの歴史は18世紀中頃とされますが、江戸の天ぷら屋はほとんどが屋台がでした。常に火事の危険がありますし、油煙が上がるので、居つきの店より屋台の方が都合が良かったんですね。天ぷらは串に刺して揚げ、天つゆと大根おろしで食べていました。今とほぼ変わりません。もともと庶民の食べ物でしたが、あまりに美味しいので、身分の高そうな人がほっかむりをして屋台の天ぷらを食べている絵もあります。ハンバーガーの店に大臣が来るようなものでしょうか。

 戦時中では考えられないことですが、平和な時代になると、人は美味しいものを求めて歩き出すようです。

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