前回は江戸グルメの中のファストフード(屋台)を取り上げましたが、今回はもう少し高級なグルメ、料理茶屋について考えます。
江戸初期には調理したものを単品で売る振り売りや、路上でところてんを食べさせることはありましたけれど、定食のような外食料理はありませんでした。明暦の大火のあと火除地(ひよけち)としての広場ができ、人々の流れも変わってきたところで、家とは違った場所で食事がしたいという人々の願望を察したかどうか、浅草に奈良茶飯(ならちゃめし)を出す店があらわれます。茶飯に豆腐汁、煮しめに煮豆といった定食を出したんですね。
これが大当たり。またたく間に各地に広がっていきました。これらの店はやがて品数や料理に工夫を凝らした料理茶屋として発展し、さらには贅(ぜい)をこらした調度をしつらえたり、景観まで配慮した料亭として発展していくのです。美味しいものを賞味するだけでなく、人を接待する場所として、或いは会合の場として利用する人も増え、江戸留守居役の武士たちや富を得た商人たちによって一世を風靡することになります。
明和年間、深川の洲崎に升屋(ますや)という料理屋ができ、その主人・祝阿弥(しゅくあみ)の豪華な住まいの様子や三十品目からなる料理の献立などが江戸時代の書物に記録されています。升屋は寛政三年に津波に襲われ消滅してしまいますが、八百善、平清(ひらせい)、嶋村といった料理茶屋が登場し、特に八百善は全国に名を馳せました。蜀山人(しょくさんじん)の狂歌に「詩は五山 役者は杜若(とじゃく) 傾(けい)はかの 芸者はおかつ 料理八百善」とあります。
八百善 料理番付
八百善の有名なエピソードとしてお茶漬けの話があります。ある客がお茶漬けを注文したところ、半日待たされて出てきたものは普通のお茶漬けに香の物、しかも食べ終わって値を聞くと一両二分といわれて驚きます。いくら珍しい香の物といってもあんまりじゃないかと憤慨しますが、亭主が答えて曰く。香の物より茶の代金の方が高いのです。しかも茶に合った水が近くにないので、玉川まで早飛脚を走らせて水を取り寄せました。その運賃が莫大なのです、と。
よく潰れなかったと思いますけれど、八百善は次々にアイデアを出し、他の追随を許しませんでした。例えば今でいうところのギフトカードに相当する切手を発行し、贈答用として普及させたり、参勤交代の武士たちが郷里へ帰る際、土産話ができるようにと「おこし絵」なるもの(飛び出す絵本)を販売したり、『江戸流行料理通』という本まで出版しています。著者は八百善の主人ですが、著名な文人の序文や画家の挿絵を載せ、読み物としても楽しめるようにしたのです。
八百善はペリー来航の際、接待に用いられたという言い伝えもあり、明治、大正、昭和、平成と生き残るのですが、残念ながら現在店舗営業はしていません。料理教室などを通じて伝統の味は伝えられているようです。
先日高校の同期会があって行ってきましたけれど、江戸時代に同窓会なるものがあったとしたら、会場は料理茶屋だったかもしれませんね。
マイホームページ おすすめ情報(『薬子伝』)
江戸初期には調理したものを単品で売る振り売りや、路上でところてんを食べさせることはありましたけれど、定食のような外食料理はありませんでした。明暦の大火のあと火除地(ひよけち)としての広場ができ、人々の流れも変わってきたところで、家とは違った場所で食事がしたいという人々の願望を察したかどうか、浅草に奈良茶飯(ならちゃめし)を出す店があらわれます。茶飯に豆腐汁、煮しめに煮豆といった定食を出したんですね。
これが大当たり。またたく間に各地に広がっていきました。これらの店はやがて品数や料理に工夫を凝らした料理茶屋として発展し、さらには贅(ぜい)をこらした調度をしつらえたり、景観まで配慮した料亭として発展していくのです。美味しいものを賞味するだけでなく、人を接待する場所として、或いは会合の場として利用する人も増え、江戸留守居役の武士たちや富を得た商人たちによって一世を風靡することになります。
明和年間、深川の洲崎に升屋(ますや)という料理屋ができ、その主人・祝阿弥(しゅくあみ)の豪華な住まいの様子や三十品目からなる料理の献立などが江戸時代の書物に記録されています。升屋は寛政三年に津波に襲われ消滅してしまいますが、八百善、平清(ひらせい)、嶋村といった料理茶屋が登場し、特に八百善は全国に名を馳せました。蜀山人(しょくさんじん)の狂歌に「詩は五山 役者は杜若(とじゃく) 傾(けい)はかの 芸者はおかつ 料理八百善」とあります。
八百善 料理番付
八百善の有名なエピソードとしてお茶漬けの話があります。ある客がお茶漬けを注文したところ、半日待たされて出てきたものは普通のお茶漬けに香の物、しかも食べ終わって値を聞くと一両二分といわれて驚きます。いくら珍しい香の物といってもあんまりじゃないかと憤慨しますが、亭主が答えて曰く。香の物より茶の代金の方が高いのです。しかも茶に合った水が近くにないので、玉川まで早飛脚を走らせて水を取り寄せました。その運賃が莫大なのです、と。
よく潰れなかったと思いますけれど、八百善は次々にアイデアを出し、他の追随を許しませんでした。例えば今でいうところのギフトカードに相当する切手を発行し、贈答用として普及させたり、参勤交代の武士たちが郷里へ帰る際、土産話ができるようにと「おこし絵」なるもの(飛び出す絵本)を販売したり、『江戸流行料理通』という本まで出版しています。著者は八百善の主人ですが、著名な文人の序文や画家の挿絵を載せ、読み物としても楽しめるようにしたのです。
八百善はペリー来航の際、接待に用いられたという言い伝えもあり、明治、大正、昭和、平成と生き残るのですが、残念ながら現在店舗営業はしていません。料理教室などを通じて伝統の味は伝えられているようです。
先日高校の同期会があって行ってきましたけれど、江戸時代に同窓会なるものがあったとしたら、会場は料理茶屋だったかもしれませんね。
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