ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

日の出山荘

2014-08-27 18:14:29 | 日記
 お盆休みに日の出山荘へ行ってきました。ここは昭和58年(1983年)、当時のレーガン大統領と中曽根首相による「日米首脳会談」が行われたところで、もともとは中曽根首相の別荘だったのですが、その後日の出町に寄贈され「日米首脳会談記念館」として公開されています。

    茶室天心亭

 「ロン・ヤス会談」は茶室天心亭の囲炉裏を囲んだ椅子席で行われました。首相は普段、ここで俳句や座禅、読書を楽しまれていたそうです。「天心亭」の名前の由来は明治の画家「岡倉天心」から頂いたものだとか。
 日の出山荘は木々に囲まれた広い敷地の中にあるので、都会のような喧騒は聞こえてきません。私がお邪魔した時は静寂の中に蝉の声だけが響いていました。
 くれてなお 命の限り 蝉しぐれ
という句はここで詠まれたのでしょうか。夜になっても蝉の声が聞こえていたんですね。ご自分の姿と重ねられたのかもしれません。私は中曽根さんの政治家としての顔はよく存じあげませんけれど、ここには文化人としての顔があると思いました。立派な書画も残されていますし、日本の文化を愛し、大切にされておられたようです。

 青雲堂  当時の写真

 青雲堂は江戸時代の古民家を移築したものですが、ここでレーガン大統領夫妻に茶を点ててもてなし、ちゃんちゃんこを羽織って食事を楽しまれたそうです。当時はユニークなおもてなしとして注目されたそうですが、私は子育て真っ最中だったので残念ながら記憶にはありません。

 書院内部   直筆の絵

 書院は平成元年に建てられた迎賓館で、すでに首相は退任しておられましたが、政治の舞台で苦労を共にした友人を招き、友好関係を深められたようです。現在はレーガン大統領夫妻の日の出町でのお写真や日の出町を訪れたゴルバチョフ元ロシア大統領夫妻のお写真、ご直筆の書画等が展示されています。また庭園には友人たちが植樹した記念樹や俳句碑、全斗煥(チョン・ドファン)大統領から寄贈された半鐘などもあります。

 天心亭や青雲堂は日本的なわび・さびを感じる空間ですが、書院は洋風の豪邸になっています。二階にある書斎で蝉の声を聞きながら、私も瞑想にふけってみたいと思いました。本当に静かで、心休まる空間が広がっています。
 近くには御岳山や秋川渓谷などもありますし、夏を過ごすにはもってこいの場所ですね。東京にある避暑地といった感じでしょうか。

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つわものどもが夢の跡

2014-08-13 19:25:59 | 日記
 ようやく蝉が鳴きはじめました。今年は遅かったですね。やはり夏はこれ、いい音色です。
 閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声
 言わずと知れた芭蕉さんの句ですけれど、「確かにそうですね」と頷きたくなるような言葉の妙。「暑き日を 海に入れたり 最上川」なども表現の妙に思わず感心してしまいますが、夏の句で一番心に響くのはやはり、
 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡(あと)
 でしょうか。背景に義経の最期があるからかもしれません。

 芭蕉は「平家物語」に造詣が深く、特に木曽義仲を愛した人でしたが、義経に対しても同情の念はあったようです。「夏草や…」の句は義経の最期の地、高館(たかだち)での吟であり、杜甫(とほ)の「国破れて山河在り…」で始まる「春望」を踏まえて無常観溢れる句になっています。

 安宅の関跡(日本各地にはたくさんの義経伝説がある)

 頼朝は、何の逆心もない弟をどうして殺さなければならなかったのでしょうか。よく言われるのは、義経が朝廷から勝手に官位をもらってしまったことですが、当時はまだ武家の世とはいえませんし、後白河院の意向を拒むことなどできなかった筈です。頼朝だって後白河院の命に従って平家追討軍を送ったわけですから、寛容な心があれば許してやることもできた筈。無論、北条氏の思惑もあったでしょうけれど、私はどうもこの頼朝が好きになれません。鎌倉は好きですけれど…。

 その昔、頼朝は清盛に助けられたにも拘わらず、平家を滅ぼしてしまった裏切り者です。己が裏切り者であるが故に、人を信じられなかったのだという説がありますが、それも一理はあるでしょう。嘘ばかりついている人が、他人の言葉を信じられないのと同じです。人間、平気で嘘をつくようではいけません。
 また人に騙されたりすると人を信じられなくなりますけれど、やはり人は信じたいもの、信じられるものであって欲しいですね。

 さてその頼朝さんですが、彼は自分の親族を多く殺しています。従兄弟にあたる木曽義仲の長男義高を人質にとり、名目上は自分の娘大姫の婿としますが、義仲追討の院宣が下されるとこれを討ち、義高も殺してしまいます。成人して自分に恨みを抱くことを恐れたんですね。義高を慕っていた大姫は精神を病み、早世してしまいます。そしてご存知の如く義経を追いつめて殺し、静御前が身ごもっていた子を男児であると見極めるや、生まれると同時に殺しています。コワッ!

 さらに野心のかけらもない弟範頼(のりより)まで疑い、彼が何度も起請文を差し出して忠誠を誓ったにも拘わらず、死に追いやってしまうのです。
 頼朝という人は本当に人が信じられなかったんですね。ある意味、可哀想な人です。

 それに引き換え、平家一門は一族で殺しあうこともありませんでしたし、人の情けを知る人も多くいました。それなりの教養を身につけた美しい公達も多かったのですが、みな海の底に沈んでしまったのは残念なことです。勝てば官軍ですけれど、賊軍になったからといって悪い人ばかりではありません。敵であっても立派な人間はいるものです。戦は多くの人材を失います。良いことなどひとつもありません。

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