ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

即位の礼

2019-04-28 19:04:22 | 日記

 いい陽気になりました。雨さえ降らなければ絶好のお出掛け日和です。ゴールデンウイークにも入りましたし、すでに日本にはいらっしゃらない方も多いのでは。しかしもうすぐ行われる我が国の一大イベントを見逃してしまうのは、ちょっと残念な気がします。そう、今上天皇の御退位と新天皇の御即位です。元号も「令和」に変わりますし、私の場合、この次の天皇の御即位を見ることはないと思うので、これが最後となるでしょう。前回(平成になる時)は前皇の崩御による御即位でしたが、今回は受禅(じゅぜん)の即位、前皇の側からいえば譲位ということになりますね。

 石村貞吉氏の『有職故実(ゆうそくこじつ)』によれば、「皇位の象徴たる、三種の神器を継承する式」のことを践祚(せんそ)といい、即位は「践祚の後、時日を隔てて、正しく南面の位について、新たに皇位継承の旨を、広く百官庶民に宣布(せんぷ)する儀」ということになります。5月1日に行われる「剣璽等承継の儀」はこの践祚にあたるものでしょう。10月22日に行われる「即位礼正殿の儀」が故実のいうところの即位式にあたるものかと思われます。崩御による即位式は喪が明けてからになるので、1年以上先になりますが、今回は譲位によるものなので、この令和元年秋に行われるわけです。

 高御座

 「剣璽等承継の儀」はその昔、践祚式の中で「剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀」として先帝の御所から新帝の御所へ移されていましたが、現在は「剣璽等承継の儀」でお受け取りになり、そのままご自分の御所へ持ち帰られるようです。伝統の儀式も時代に合わせて少しずつ姿を変えていくんですね。

 姿を変えるといえば、即位の礼が行われる場所も変わりつつあります。つまり天皇が高御座(たかみくら)に立たれる場所ですけれど、もともとは大極殿(だいごくでん)において行われていたものが、焼失したために太政官庁で行われるようになり、後柏原天皇以後は紫宸殿(ししんでん)で行われるようになりました。現在の京都御所にある紫宸殿では、明治・大正・昭和の天皇の即位式が行われましたけれど、平成からは今の皇居、正殿松の間で行われたということです。

 京都御所の紫宸殿

 京都に都があった頃は、式に先立って伊勢の鈴鹿の関、近江の逢坂の関、美濃の不破の関を固め、非常時に備えたといいます。この頃は東国から蝦夷が乱入するのを恐れたんですね。今は、というと、やはり警戒は必要かもしれません。昨日でしたか、秋篠宮悠仁(ひさひと)さまの通われる中学校で、お教室の机の上に包丁が2本置かれていたというニュースがありました。何を考えているのかわからない人もいるので、用心はしなければならないでしょう。

 何事もなく滞りなく行われ、新しい時代がくることを祈りつつ、昔ながらの装束で新天皇が高御座に立たれる秋のその日を、楽しみに待ちたいと思います。

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令月にして風和ぐ

2019-04-14 18:35:27 | 日記

 前回の「起請文」は3月31日にアップしようとしたのですが、「通信エラー」となり、アップできませんでした。世はまさに新元号の発表に沸き、「令和」の文字がテレビ画面に躍っている最中、私は何とかアップしようと悪戦苦闘していました。少し遅れましたが、息子の助力でアップでき、ほっとしています。しかし今回からはアップロードの方法を変えなければならないので、少々不安です。技術的にいつまで続けられるかわかりませんが、出来る限り頑張っていきたいと思いますので、応援よろしくお願いします。

 さてその「令和」ですけれど、さんざん報道されましたように『万葉集』からとったものです。「梅花の歌三十二首 併(あは)せて序」とあるその序文からとったんですね。新潮日本古典集成の『万葉集』によれば、序文は次のようになっています。  「天平二年の正月の十三日に、帥老(そちのおきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(けいぜん)の粉(ふん)を披(ひら)く、蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす。しかのみにあらず、……」

 まだまだ序文は続きますが、これくらいにしておきましょう。帥老(そちのおきな)というのは太宰の帥であった大伴旅人(おおとものたびと)のことで、この酒好きな人の家に集まって梅花の宴をやったわけです。梅の花見といってもよいでしょう。折しもいい月が出てるんですね。この当時、夜は現代のように明るくありませんから、月がなければ真っ暗です。月はライトアップと同じなんですね。そして気も澄み渡り、風もそよぐ程度。梅は鏡前の白粉(おしろい)のように咲き、蘭は匂い袋の香のように香っている。さらにさまざまな情趣が揃ったこの時にこそ歌を詠もうではないか。「よろしく園梅を賦(ふ)して、いささかに短詠(たんえい)を成すべし」というわけです。

 

 そこで三十二人が一人ずつ歌を詠んでいくのですが、ここに集まったのはどんな人たちかというと、まず太宰府の官人ですね。それから太宰府管内にあった日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬の朝集使(ちょうしゅうし)たち、そして旅人の知人だったようです。朝集使はちょうどこの時、太宰府に来ていたんですね。冒頭は太宰府の次官であった大弐(だいに)紀卿(きのまへつきみ)の歌で始まります。「正月(むつき)立ち 春の来(きた)らば かくしこそ 梅を招(を)きつつ 楽しき終へめ」

 そして八首目にこの宴の主である大伴旅人の歌があります。「我が園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも 」。梅の花を雪に見立てたわけですけれど、この時期に散るのはまだ早いようです。創作もあったんでしょうね。それにしても、まだまだ寒い時期のお花見。ダウンコートもない時代ですから、風流もなかなか大変です。

 旅人は酒好きで、お酒の歌も何首か残していますけれど、この頃はすっかり老い、奈良の都を恋しがっていたようです。三十二首の歌のあとに「員外、故郷を思ふ歌」として次のような歌があります。「雲に飛ぶ 薬食(は)むよは 都見ば いやしき我が身 またをちぬべし(薬なんか飲むより、奈良の都をひと目見たら、卑しい老いの身もまた若返るだろう)」。

 「令和」、年をとっても希望のもてる時代になるといいですね。

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起請文

2019-04-05 13:54:18 | 日記

 もう20数年前になりますでしょうか。熊野へ行ったことがあります。熊野古道が世界遺産になっていない頃だったと思うのですが、熊野詣でが盛んだった頃の話(『平家物語』等)に惹かれて行ってみたくなったのを覚えています。熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)すべてを廻るつもりだったのですが、速玉(はやたま)大社へは行かず、熊野灘で子供を泳がせて帰ってきました。今思い出すと、ちょっと残念な気がします。

 先日、家の中のものを整理していて、那智大社で買った牛王宝印(ごおうほういん)を見つけました。牛王宝印というのは神聖な紙とされ、この裏に文言を書き、誓約を書いた本文(前書)に貼り継いで起請文とします。この紙は諸方の神社仏閣から発行されていますが、紀州熊野権現のものは烏牛王(からすごおう)といわれて全国的に流行しました。牛王宝印に書いた部分は、前書(まえがき)に対して神文(しんもん)と呼ばれます。

 なんて言ってもわかりにくいですよね。まず前書には相手に対して何を誓うかという、例えば「あなたに忠誠を誓います」とか、「謀叛は起こしません」とか、「その証に人質を送ります」とかいった具体的な内容を書きます。そしてそれに背いた場合に罰を蒙るわけですけれど、それが神様であったり仏様であったりするんですね。その神仏の名前を具体的に書いたものが神文というわけです。

 信長も書いているんですよ。「條々」として箇条書きにした前書の最後「…聊(いささか)も相違有るべからず、若(も)し此旨(このむね)偽(いつわ)るにおいては」のあとに神文の部分が続きます。「梵天、帝釈、四大天王、惣日本国中大小神祇、八幡大菩薩、春日大明神、天満大自在天神、愛宕、白山権現…御罰蒙るべく候也、仍(よ)って起請件(くだん)の如し」とあって信長の花押(かおう)と血判があります。これは本願寺の顕如光佐(けんにょこうさ)に宛てたものですが、本願寺には手を焼いていたのでしょうね。

 起請文の沿革は神代史にまで遡ることができますが、最初は請願の意味が強く、祈願的起請であったといわれます。それが時代とともに変化し、信義的起請となりました。過渡期はおよそ平安朝末期、世が乱れ、人の心が信頼できなくなったためでしょうか。
  『平家物語』にも、義経が起請文を書いたというエピソードが出てきます。
 「…これによって諸神諸社の牛王宝印のうらをもって、野心を挿(さしはさ)まざるむね、日本国中の大小の神祇冥道(みょうどう)を請じ驚かし奉って、数通の起請文を書き進ずといへども、猶以(なほもっ)て御宥免(ゆうめん)なし…」

 これは義経が腰越で書いた書状ですが、起請文を書いても何をしても鎌倉へは入れてもらえませんでした。頼朝は猜疑心の強い人ですから、起請文など信用しなかったのでしょうね。悲しいことです。

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