ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

江戸のヘアサロン

2020-03-29 19:21:12 | 日記

 オリンピック、延期になりましたね。ほっとしました。強引に開催されても新型コロナが海外から持ち込まれるリスクが高いので、どうなることかと心配でしたから。とはいっても、経済的ダメージやアスリートの方々の調整問題等、いろいろ大変です。コロナウイルスが一刻も早く収束してくれることを願うばかりですけれど、どこへ行っても人影はまばらになりましたね。美容院なども待ち時間がないので嬉しいのですが、マスクを外すとなると不安があります。マスクをしたままでカットしていただけると有難いですね。

 さてその美容院、或いは床屋さんですが、江戸時代はどうだったのでしょう。当時は散髪するというより、髪を結(ゆ)ってもらうのが床屋さん、「浮世床(うきよどこ)」と呼ばれるお店でした。式亭三馬の滑稽本にもそんなのがありましたね。でもこの「浮世床」という名称は滑稽本のタイトルばかりでなく、普通名詞として使われていたんです。男性の髪を結うお店を「髪結床(かみゆいどこ)」といい、特に繁盛しているものを「浮世床」といったのだそうです。また裏木戸のすぐ横や橋のたもとなどに構えたものを「出床(でどこ)」といい、裏店(うらだな)の自宅営業の店を「内床(うちどこ)」といいました。顧客の自宅へ出張する無店舗営業のものを「廻(まわ)り髪結(かみゆい)」といい、髪結料は二十八文程度だったとか。

 髪結床復元模型内部

 浮世床には人が集まります。お喋りにだけ来る男性もいて、一日中世間話を楽しんだり、囲碁や将棋をしたり、現代のサロンのようなものでした。自然様々な情報が集まるので、親方が十手持ちの場合もあります。御用聞きは収入が少ないので、二足の草鞋(わらじ)を履いていることが多かったんですね。二足の草鞋といっても、一人前になるまでには十年くらいかかります。「月代(さかやき)三年、顔剃り五年、仕上げが二年」といわれました。月代というのは額から頭上にかけて剃ってある部分のことですが、そもそもは武士が兜を被る時に頭が蒸れないようにと考えられたものでした。しかし江戸は武士の町。いつしか庶民も月代を剃るのが常識になりました。

 白髪染め、育毛剤などもあったようですが、今のように髪の毛の量をあまり気にはしなかったようです。月代をいつも剃っているので、頭頂部が薄くなってもさほど気にはならないんですね。ただ剃ったばかりの月代は青いのですが、髪が抜け落ちた場合は青くありません。で、見栄っ張りの男性は「青苔(せいたい)」という青い眉墨を月代に薄く塗っていたそうです。

 女性の場合はというと、もともと自分で結うのが普通でした。しかし江戸中期以降になると、遊女の錦絵や芝居の女形の髪型を真似てヘアスタイルが複雑になってきました。そうなると自分では結えません。そこで専門職としての「女髪結(おんなかみゆい)」が登場するわけです。しかし女髪結は出床形式では営業せず、出張サービスとしての「廻り髪結」だけでした。文化・文政期に華々しさのピークを迎えると、幕府から「華美に過ぎる」と制限がかけられ、女髪結は贅沢として度々禁止されました。それでも幕末には千四百人もの女髪結がいたといいますから、やはり「女は強し」でしょうか。お洒落に妥協はなかったようです。

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春の風物詩

2020-03-15 19:32:35 | 日記

 今年は多少寒い日もありましたが、我が家近辺では10度以上の日が多く、例年に比べ暖かい冬で助かりました。ただ新型コロナの影響で落ち着かない春です。外へ出るのも怖いのですが、買い物はしなければなりませんし、トイレットペーパーやティッシュなどの物不足が深刻で、一時はお米の棚が空になっていたことがありました。このところ品薄は解消されたようですけれど、マスクやアルコール類は手に入りませんねぇ。さらにプロ野球のオープン戦、大相撲春場所が無観客で行われ、他のスポーツやイベントも中止になったり延期になったり、オリンピックも無事に開催できるかどうか。一刻も早く収束して欲しいものです。先の見えない不安で春を謳歌するどころではありませんけれど、せめて和歌や俳句の世界で春を満喫することにいたしましょう。

 まず春の訪れは春霞から、と考えるのが昔の貴族。「ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山(かぐやま) かすみたなびく(後鳥羽院)」。香具山にたなびく霞を見て春の訪れを感じ、じっとかみしめているような歌ですけれど、同じように「ひさかたの 天の香具山 この夕(ゆふべ) 霞たなびく 春立つらしも(柿本人麻呂)」というのがあります。霞がたなびいているのを見て春が来たのだと思うのが王朝人だったようですが、暦の上では春なのにまだ霞が立っていないと嘆く歌もあります。「春がすみ たてるやいづこ みよしのの 吉野の山に 雪は降りつつ(読人知らず)」。春霞はどこに立っているの、吉野の山には雪が降っているというのに、というわけですけれど、最近では春が来ても霞など注目されませんよね。

 今ではあまり注目されなくなった春の風物詩に若菜摘みというのがあります。春の野に出て若菜を摘むんですね。『万葉集』の冒頭にある雄略天皇の歌に「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ…」とあって、籠と小さな棒を持って野に出た若菜摘みの様子が歌われています。『枕草子』にも「七日は、雪間の若菜青やかに摘み出でつつ…」とあります。若菜は概ね今の七草と考えてよいでしょう。普段は見向きもしないものですが、その日ばかりは若菜を摘んで贈答し、それに添える歌を詠むために大騒ぎをするんですね。光孝天皇の皇太子時代に詠まれた歌にこんなのがあります。「君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手(ころもで)に 雪は降りつつ」。誰かに若菜を賜ったのでしょう。あなたのために苦労して摘んできましたよ。私の袖はすっかり雪で濡れてしまいました、というわけですが、ちょっと恩着せがましい気もします。

 春といえばやはり花。特に梅と桜のお花見風景は春を代表するものですけれど、「花」といえば「桜」となったのは『古今集』以後のこと。それまでは「花」といえば「梅」だったようです。「令和」になった時話題になりました『万葉集』にある序文ですが、これも太宰府管内にあった国の朝集使(ちょうしゅうし)たちが集まり、大伴旅人(おおとものたびと)を中心にして行われた梅花の宴の時のものなんですね(マイブログ「令月にして風和ぐ」)。梅の花は王朝人に愛され、特に紅梅が好まれたようです。『枕草子』にも「濃くも薄くも紅梅」とあります。

 その紅梅にまつわる一つのエピソードをご紹介しましょう。ある人の家に立派な紅梅の木があったのですが、天子の御命令でそれを宮廷に植え替えることになりました。その時、家の女主人が「勅なれば いとも畏(かしこ)し うぐいすの 宿はと問はば いかが答へむ」という歌を天子に奉りました。天子の御命令とあれば恐れ多いことなので従いますが、鶯が自分のねぐらはどこへいったと尋ねたら、何と答えたらよいでしょう、というわけです。するとその歌に感動された天子が、紅梅を移すことを中止になさったんですね。粋ないいお話です。鶯が巣をつくっていたことが幸いしたともいえましょう。

 春の風物詩、まだまだありますし、今回俳句が紹介できませんでしたけれど、長くなるのでこれくらいにいたしましょう。

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神になろうとした信長

2020-03-01 19:07:58 | 日記

 「本能寺の変は何故起きたか」ということについては諸説あります。その中で、信長は朝廷の上に立とうとしていた、つまり神のような存在になろうとしていたという説があります。それを光秀は許せなかったとするものですが、実際のところはどうだったのでしょう。

 下克上の世にあって、将軍でさえ危ういという時代、信長は将軍の家臣になろうとしたでしょうか。足利義昭を擁して上洛に成功した時、将軍義昭は信長に斯波(しば)氏の家督を相続するようすすめました。斯波氏の家督を継ぐということは幕府の管領(かんれい)になるということですから、無上の光栄であるわけですけれど、信長はその申し出を拒絶しました。名目としては「陪臣(ばいしん)の家柄の身には荷が重い」ということでしたが、本心は「管領などになって縛られたくない」ということだったのでしょう。臣下として仕える気はないわけですから、幕府の管領という権威は信長にとって不用のものであり、却って自由を妨げるものだったのです。

 

 同様に本能寺の変の1ヵ月ほど前、朝廷では信長を太政大臣か関白か将軍のいずれかに推挙するため、勅使を派遣すると決めました。この時信長は甲斐の武田氏を滅ぼして凱旋したばかり。このまま信長が天下統一の事業を成し遂げたなら、天皇の権威、朝廷の存在価値がなくなるのではないか。そう考えたかどうかわかりませんけれど、とにかく天皇の権威のもとに繋ぎとめるために三職推任を決めたようです。「…いか様の官にも任ぜられ、油断なく馳走申され候はんこと肝要候」という誠仁(さねひと)親王の書状を添えた勅使が安土城下に着いたのは5月4日のこと。信長はすぐに勅使に会おうとはせず、面謁した時も返答を保留しています。これほどの官職をちらつかせても動じない信長を、光秀はどう思ったでしょうか。

 以上のことから考えられることは、信長は幕府に仕えることも朝廷に仕えることもしたくなかった、ということです。それを証明するような文書が『回想の織田信長』(松田毅一・川崎桃太編訳)の中にあります。宣教師ルイス・フロイスが『日本史』の中でいっている言葉なのですが、「彼(信長)は時には説教を聴くこともあり、その内容は彼の心に迫るものがあって、内心、その真実性を疑わなかったが、彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物(信長のこと)は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なり造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないと言うに至った」とあります。

 そして信長は「予が誕生日を聖日とし、当寺(摠見寺)へ参詣することを命ずる」との命を出していたことからも明らかなように、自ら生きながら神として祀られることを望んだのです。神として朝廷の上に立つ。その傲慢さを光秀は許せなかったのではないでしょうか。また宣教師たちからすれば、「自分が神である」という信長は、神を冒涜しているとしか思えなかったに違いありません。フロイスは「デウスにのみ捧げられるべき祭祀と礼拝を横領するほどの途方もなく狂気じみた言行と暴挙に及んだので、我らの主なるデウスは、彼があの群衆と衆人の参拝を見て味わっていた歓喜が十九日以上継続することを許し給うことがなかった」と結んでいます。これによると本能寺の変は、信長が自分を神であると言い出してから十九日後に起こったということになります。果たして今年の大河「麒麟がくる」ではどう描かれるのでしょうか。

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