ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

平安時代の歌謡曲

2018-07-22 19:32:49 | 日記
 暑いですね。全国的に猛暑ですが、特に被災地は大変だと思います。この猛暑が少しでも和らいで、被災地の方々が一日も早く日常を取り戻せることを願ってやみません。
 こんな時、元気を与えられるものは何なのでしょう。阪神大震災の時、SMAPが来て「頑張りましょう」を歌ってくれたことがとても励みになったという話を聞いたことがあります。歌も元気を与えられるものの一つかもしれません。


 考えてみれば、歌は万葉の昔から人々に力を与えてきました。古くは歌垣といって、男女が互いに求愛の歌を掛け合う習俗がありましたけれど、万葉集には他にも防人(さきもり)の歌や東歌(あずまうた)が収められています。庶民も和歌を嗜み、歌は人々に共有されていたんですね。そして古代においての和歌は、眼で読むというより口で朗詠されるものだったのです。


 それがいつしか眼で読むもの、即ち文字で書かれるものになっていき、さらには貴族など特権階級のもののようになって、さまざまな技巧が生み出されていきます。やれ掛詞(かけことば)だの、縁語(えんご)だの、序詞(じょし)だのと、面倒くさそうな技巧のオンパレードになっていくんですね。本歌取りという手法も生まれてきますし、どんどん庶民には縁のないものになっていくと、庶民は庶民で自分たちの歌を作り始めます。それが歌うものとしての今様です。


 この庶民の歌謡に、宮廷文化の最高峰たる後白河院が興味を持ちます。そして「梁塵秘抄」というものを編むわけですね。後白河院は義経追討の院宣を出した方ですから、個人的には好きになれませんけれど、今様に対する熱意を見る時、少し違った見方ができるんです。ちょっと面白い人だなと。何せ諸国流浪の芸人の類、遊女やくぐつめ、白拍子の類でも、今様がうまいと聞くと御所へ呼ぶ。そして自分も一緒に歌うんです。例えば、
 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ
 仏は常に在(いま)せども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
 仏も昔は凡夫なり われらも終には仏なり いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
 
 まだまだありますけれど、
 熊野へ参るには 紀路と伊勢路とどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず

 などは後白河院が何度も歌ったのではないかと思われます。何故なら、陸の孤島ともいわれた熊野はとにかく難路。そこへ彼は生涯に33度も参詣したといわれるからです。

 熊野本宮大社


 そして後白河院はひとりの師匠を見つけます。乙前(おとまえ)という老女なのですが、名人中の名人と見極めると、きちんと師匠の座に据えて学んでいくんですね。流れの遊女であったかもしれない老女との師弟関係は実に面白いです。御所の近くに家を与え、84歳で亡くなる時にもちゃんと見舞っているんですよ。法華経と一緒に今様も歌って聞かせています。そして死んだと聞くと悲嘆にくれるというエピソードは、純粋な一途さが感じられて、義経追討の院宣とは結びつきません。歌は人を変えるのかもしれませんね。


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平安朝のもて女

2018-07-08 19:38:31 | 日記
 梅雨が明けたと思ったら西日本各地に大雨被害。亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

 関東の雨はたいしたことありませんでしたけれど、それでもかなりの強風が吹き荒れました。野分(のわき)の季節かと思うような一週間でしたが、まだまだこれからが夏本番。気を引き締めて頑張りましょう。


 そんな夏の暑さを考える時いつも思うのですが、平安時代の、特に貴族女性たちはどのように過ごしていたのでしょうか。夏物とはいえあの仰々しい形(なり)ですし、髪も長く伸ばしていたわけですから、さぞかし熱中症続出だったのでは…。庶民なら肌着一枚にもなれましょうが、貴族女性のそんな図は見たことがありません。身だしなみを整えるのが一種の仕事みたいなものでしたから。何といっても男性にもてないと、生活に困ってしまうことが多かったんです。平安文学には男が通って来なくなった姫君たちの悲劇的末路がたくさん描かれています。

 「源氏物語図屏風」より


 それでは、もて女は生活に困らなかったのでしょうか。「世界三大美女」に数えられる小野小町。彼女は深草少将(ふかくさのしょうしょう)の「百夜(ももよ)通い」(少将が九十九夜通いつめて求愛し、精根尽きて亡くなってしまう話)で有名ですけれど、残されている歌はどれも哀感に満ちています。
 思ひつつ 寝(ぬ)ればや 人の見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを
 いとせめて 恋しきときは むばたまの 夜の衣を 返してぞ着る
 衣を裏返して着て寝ると、夢で逢えると思われていたんですね。男の訪れを待ちわびるせつない女心が伝わってきます。また、かの有名な、
 花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに

 などはその美貌の衰えを嘆く女心が胸を打ちます。一夫多妻の時代、男には風流な遊びであっても、女にとって恋は命でした。

 卒都婆小町(そとばこまち)という謡曲があります。能の演目のひとつですが、そこには卒都婆に腰掛ける乞食の老婆が登場します。それは小野小町のなれの果てなんですね。。彼女の末路もまた哀れなものだったようです。


 小町に比べると格段幸せと思えるもて女がいます。それはあの菅原道真を左遷した時の左大臣藤原時平の娘褒子(ほうし)。京極御息所(きょうごくのみやすどころ)と呼ばれた彼女は最初醍醐(だいご)天皇に入内(じゅだい)する予定だったんです。それを醍醐天皇の父である宇多上皇がひと目惚れして自分のものにしてしまうんですね。ひどい父親だとは思いますけれど、玄宗皇帝も同じようなことをしています(息子から楊貴妃を取りあげました)から、権力者にはありがちなことなのかもしれません。
 で、その彼女に元良親王(もとよししんのう)が通ってくるという不倫騒ぎ。発覚した時に元良親王が開き直りともとれる歌を詠んでいます。
 侘びぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ

 どうせバレちゃったんだから身を滅ぼしてでもあなたに逢おうと思うというこの和歌は、百人一首に入っているんですよ。面白いですね。結局元良親王は謹慎させられてしまいますが、褒子の方は宇多院の晩年、その寵愛を独り占めにしたようです。


 もう一人、もて女として藤原薬子を挙げておきましょう。何しろ彼女は娘の入内に付き添って宮中へ入り、娘の相手である平城天皇(当時は太子)に見初められてしまうのですから。しかし彼女の人生は、それほど楽なものではなかったようです。

 「もて女」イコール「幸せ」とは限りませんけれど、今のように女が自立できる時代ではありませんでしたから、恋に命をかけたんですね。


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