たとえ何十年連れ添った夫婦でも、血肉を分けた親子でも、理解してもらえない苦しみはあります。残念ながら人の苦しみは、その人と同じように感受することは不可能だからです。そうした苦しみを以前、私はパソコン(原稿用紙)にぶつけていました。苦しくてどうしようもない時、お酒を飲んで紛らわせる人もいるでしょう。或いは一人カラオケで歌いまくったり、スポーツをやって発散させたりと、人によってストレス解消法はさまざまだと思いますが、私はお酒も飲めませんし体力もないので、そのエネルギーを小説にぶつけてきました。最近はそのエネルギーさえなくなってしまったのか、はたまた苦しみを感受する機能が衰えてしまったのか、小説すら書けなくなってしまいましたが…。
小説はいうまでもなく読者を意識したフィクションです。ですから読者を楽しませようとする意図もありますが、その中に散りばめられた人間の哀しみは、私の苦しみの所産でもあります。矛盾や理不尽に満ち満ちている世の中で、どう生きたらいいのか、生きられるのか。そんな人間の苦しみや悲しみを表現できたらと思っています。
むろん私の苦しみなど取るに足りないものかもしれません。もっともっと苦しい思いをしている方もいるでしょう。苦しみや悲しみは人さまざまです。私はこの平和な時代の日本に生まれたことを幸運だと思っていますし、充分とは言えないまでも人並みに暮らしていけることに感謝しています。世界にはまだまだ戦争や貧困に苦しむ人々がいることを思えば、今の日本に暮らせることを本当に幸せだと思わざるを得ません。それを承知した上で、やはり格差はあると感じることも事実です。
格差は経済的なものだけではありません。生まれついての体力格差。
蒲柳の質(ほりゅうのたち・しつ)という言葉がありますよね。現代では死語になりつつありますが、大方虚弱体質という意味です。五体満足であっても体全体の機能が人より弱く、疲れやすくて病気になりやすい弱々しい体質のことですが、それを理解する人がいなくなりました。医師や看護師でも。
何しろ「元気はつらつ健康長寿」、「強くたくましいのが美徳」になってしまった現代では、弱者は切り捨てられる傾向にあるのです。体が弱いために楽しみを削り、我慢しなければならないことや諦めなければならないことが星の数ほどあっても、誰も理解などしてくれません。それどころか馬鹿にされる傾向にあります。そんな優しさのない社会になってしまいました。そして何かというと自己責任という言葉が使われます。賭け事に嵌ってしまうような場合には自己責任も妥当だと思いますが、社会や環境によって必然的に弱者になってしまう場合など適当とはいえません。恵まれて育った人が、すべて自分の力で偉くなったと勘違いしていう言葉です。相手の立場や事情を考慮せず、結果だけで勝ち負けを判断する単細胞な人の言葉です。
そんな身勝手な社会になってしまったからでしょうか。「死にたい」という人が増え、先日座間で連続殺人事件がありました。嘱託殺人を装った恐ろしい事件でしたが、日本の社会全体が病んでいるような気がします。あの事件では若い女性が多く亡くなりましたけれど、益々子供の産める人口が減ってしまったことになります。オリンピックのある2020年には女性の2人に1人が50歳以上になるという統計もあって、子供を産める人口は減少の一途を辿っています。労働人口の減少も深刻で、いずれ外国人労働者の受け入れを余儀なくされるようになり、そのうち日本は中国人国家になってしまうという説もあるほどです。若い人の自殺は何としても食い止め、立ち直れる社会にしなければ、日本は本当に滅びてしまうでしょう。
若い人の自殺を受け入れるのは問題がありますが、老人が死の淵にあって彼岸へ渡れずに苦しんでいる時は、それを介助してくれる人がいてもいいのではないかと思います。そう、武士が切腹する時、介錯人がいたように。それが真のヒューマニズムではないかと思うのです。
また認知症になった南田洋子さんをカメラの前に曝す行為。あれは人間の尊厳を著しく傷つけています。そうした人間の尊厳の観点からも、最期をどう迎えたいか、考えておく必要があります。「今日が人生の最後の日だと思って生きなさい」や「苦しみの中でも幸せは見つかる」の著者小澤竹俊(おざわたけとし)先生のように、患者に寄り添った医療を提供し、看取ってくれる医師ばかりならいいのですが、何しろ忙しい現場です。患者の思うようにはいきません。
拙著「栄光のかけら」(増訂版)はそうした問題にも触れています。老いは誰にでも平等にやってきます。今元気な人でも、いつか動けなくなる時がくるのです。その時どうして欲しいか。それを考える一冊になればと思っています。今生きあぐねている方、苦しみに喘いでいる方の一助となれば幸いです。
マイホームページ おすすめ情報(『栄光のかけら』出版しました!・『薬子伝』もよろしく!)
小説はいうまでもなく読者を意識したフィクションです。ですから読者を楽しませようとする意図もありますが、その中に散りばめられた人間の哀しみは、私の苦しみの所産でもあります。矛盾や理不尽に満ち満ちている世の中で、どう生きたらいいのか、生きられるのか。そんな人間の苦しみや悲しみを表現できたらと思っています。
むろん私の苦しみなど取るに足りないものかもしれません。もっともっと苦しい思いをしている方もいるでしょう。苦しみや悲しみは人さまざまです。私はこの平和な時代の日本に生まれたことを幸運だと思っていますし、充分とは言えないまでも人並みに暮らしていけることに感謝しています。世界にはまだまだ戦争や貧困に苦しむ人々がいることを思えば、今の日本に暮らせることを本当に幸せだと思わざるを得ません。それを承知した上で、やはり格差はあると感じることも事実です。
格差は経済的なものだけではありません。生まれついての体力格差。
蒲柳の質(ほりゅうのたち・しつ)という言葉がありますよね。現代では死語になりつつありますが、大方虚弱体質という意味です。五体満足であっても体全体の機能が人より弱く、疲れやすくて病気になりやすい弱々しい体質のことですが、それを理解する人がいなくなりました。医師や看護師でも。
何しろ「元気はつらつ健康長寿」、「強くたくましいのが美徳」になってしまった現代では、弱者は切り捨てられる傾向にあるのです。体が弱いために楽しみを削り、我慢しなければならないことや諦めなければならないことが星の数ほどあっても、誰も理解などしてくれません。それどころか馬鹿にされる傾向にあります。そんな優しさのない社会になってしまいました。そして何かというと自己責任という言葉が使われます。賭け事に嵌ってしまうような場合には自己責任も妥当だと思いますが、社会や環境によって必然的に弱者になってしまう場合など適当とはいえません。恵まれて育った人が、すべて自分の力で偉くなったと勘違いしていう言葉です。相手の立場や事情を考慮せず、結果だけで勝ち負けを判断する単細胞な人の言葉です。
そんな身勝手な社会になってしまったからでしょうか。「死にたい」という人が増え、先日座間で連続殺人事件がありました。嘱託殺人を装った恐ろしい事件でしたが、日本の社会全体が病んでいるような気がします。あの事件では若い女性が多く亡くなりましたけれど、益々子供の産める人口が減ってしまったことになります。オリンピックのある2020年には女性の2人に1人が50歳以上になるという統計もあって、子供を産める人口は減少の一途を辿っています。労働人口の減少も深刻で、いずれ外国人労働者の受け入れを余儀なくされるようになり、そのうち日本は中国人国家になってしまうという説もあるほどです。若い人の自殺は何としても食い止め、立ち直れる社会にしなければ、日本は本当に滅びてしまうでしょう。
若い人の自殺を受け入れるのは問題がありますが、老人が死の淵にあって彼岸へ渡れずに苦しんでいる時は、それを介助してくれる人がいてもいいのではないかと思います。そう、武士が切腹する時、介錯人がいたように。それが真のヒューマニズムではないかと思うのです。
また認知症になった南田洋子さんをカメラの前に曝す行為。あれは人間の尊厳を著しく傷つけています。そうした人間の尊厳の観点からも、最期をどう迎えたいか、考えておく必要があります。「今日が人生の最後の日だと思って生きなさい」や「苦しみの中でも幸せは見つかる」の著者小澤竹俊(おざわたけとし)先生のように、患者に寄り添った医療を提供し、看取ってくれる医師ばかりならいいのですが、何しろ忙しい現場です。患者の思うようにはいきません。
拙著「栄光のかけら」(増訂版)はそうした問題にも触れています。老いは誰にでも平等にやってきます。今元気な人でも、いつか動けなくなる時がくるのです。その時どうして欲しいか。それを考える一冊になればと思っています。今生きあぐねている方、苦しみに喘いでいる方の一助となれば幸いです。
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